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長崎地方裁判所 昭和51年(わ)305号 判決 1979年5月08日

本籍 長崎県下県郡豊玉町大字曽六三七番地

住居 同県同郡厳原町中村六〇六―八

教諭(休職中)

阿比留初見

昭和九年六月二四日生

本籍 同県同郡豊玉町大字廻二三一番地

住居 同県西彼杵郡長与町吉無田郷一四八九―一二三

教諭(休職中)

阿比留義見

昭和一一年一二月一五日生

本籍 同県下県郡厳原町大字中村五五七番地

住居 同県同郡美津島町大字知甲一〇四一番地の八

教諭(休職中)

松園勇

昭和一五年二月一二日生

本籍 福岡県嘉穂郡穂波町大字枝国六四九番地

住居 長崎県南高来郡国見町多比良丙二九一番地の一

教諭(休職中)

乗村圭一

昭和九年四月二〇日生

本籍及び住居 同県下県郡美津島町大字知甲五〇二番地

教諭(休職中)

鐘ヶ江康人

昭和一五年九月二二日生

右五名に対する監禁、強要未遂被告事件につき、当裁判所は、検察官堂ノ本真、同高橋信行各出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人五名はいずれも無罪。

理由

第一本件公訴事実

本件公訴事実は被告人五名は、昭和五一年三月一三日、長崎県下県郡美津島町中央公民館で開催された同町PTA連絡協議会において、同町立今里中学校校長沢田虎夫(当四九年)が主任制をめぐる問題に関し、かねて美津島町校長会が同町教育委員会に対して提出した主任制導入について慎重に対処して欲しい旨の要望書の趣旨に反し、かつ、前記組合美津島町支部をひぼうする発言をしたとして、同校長に対し、集団で抗議して右発言を認めさせ、同校長が謝罪文を書くまでは抗議を続けようと企て、一〇数名の同組合員と共謀のうえ、被告人ら一〇数名において、同年三月一九日午後四時四五分ころ、同町大字今里一六八番地の一所在の前記今里中学校校長室に押しかけ、同校長が面談を拒否するのを無視して前記協議会における同校長の発言内容の確認を迫り、翌三月二〇日午前八時一〇分ごろまでの間、同校長を取り囲み、あるいは数回にわたり退室しようとする同校長に対し「帰っちゃいかん」などと言ってそのつどその進路に立ち塞って阻止し、あるいは退出できないように隣室で監視し、同校長に対しこもごも「日が暮れれば我々があきらめて帰るぐらいの幼稚な考えをもっているのか」「明日あさって休みだから来とっとですよ」「一夜明けたらとんでもないことが起こるですよ」「帰らんつもりで来とるとですよ、はよう言わんですか」「生半可な決心で来とっとじゃないですよ」「みずから教員の排斥運動をする校長が対馬の教育界にいることを新聞でたたきますよ」「あなたの教育生命がなくなるまでやりますよ」「組合をひぼうして申し訳ないちゅう謝罪文を書きませんか」などと申し向け、疲労困ぱいして机上にうつ伏せになった同校長の机を激しくたたくなどして、同校長をして同室からの脱出を著しく困難ならしめて、前記発言を認めさせたうえ謝罪文を作成することを要求し、同校長がこれに応じないとみるや、前記協議会に出席したが前記組合美津島町支部をひぼうする趣旨の八項目にわたる発言をした事実はない、もし発言した事実があれば責任をとる旨の右謝罪文に代わる確認書を提示して「署名押印して早く帰った方がいいじゃないか」などと申し向けて、これに署名、押印することを執拗に要求し続けたが、同校長においてはこれに応ぜず、もって同校長を不法に監禁するとともに、同校長に対し、その身体、自由、名誉に害を加えるべき気勢を示して脅迫し、同校長をして義務なきことを行わせようとしたが、その目的を遂げなかったものであるというにある。

第二当裁判所の判断

一  昭和五一年三月一三日付美津島町PTA会長会議(以下「単P会長会議」という)に至るまでの経緯

《証拠省略》によれば、単P会長会議開催に至るまでの経緯及び主任制をめぐる状況について、次のとおり認められる。

(一)  主任の制度化と日本教職員組合の対応

昭和五〇年一二月二六日、当時各学校において各種の校務を分担していた主任等のうち、特に全国的に共通した基本的なものである教務主任、学校主任、生徒指導主事等の設置と職務内容を明確に規定した「学校教育法施行規則の一部を改正する省令」が公布され、昭和五一年三月一日から施行されることになった(いわゆる「主任の制度化」)が、右省令改正の趣旨について、文部省は、調和のとれた学校運営が行われるためにふさわしい校務分掌の仕組みを整えるものであるとの見解を発表していた。

一方、日本教職員組合(以下単に「日教組」という。)は、本来教育とは自主的、民主的になされていくべきものであり、そのためには全職員が参加して自由に討議をして学校の管理運営がなされることが好ましいのに、主任の制度化は縦の管理体制を強化し、自由で明るい学校教育を阻害し、ひいては教育の荒廃へつながるとして、主任の制度化に反対の態度を取り、前記省令改正前においては、ストライキを実施して省令改正を阻止する運動を行い、省令改正に至ってからは、各都道府県の教職員組合を中心として、都道府県及び市町村の学校管理規則の改正を阻止し、あるいは右規則が改正された場合には、手当支給条例の制定を阻止する、主任を任命させない、主任手当を受け取らないなどの運動を押し進めていた。

長崎県教職員組合も、日教組の方針に従い、省令改正後においては、教職員自ら主任の制度化反対の意思統一をはかるために学習活動の推進、決意署名の集約の運動を押し進めると共に、学校長及び教育長などと交渉を持ち、主任制につき反対の意思表示を求め、あるいは主任制実施につき慎重に対処するようにとの上部機関への上申をしてもらうなどの行動を起こし、また生徒の父兄などに対しても主任制反対運動に理解を求め、主任制反対の署名や教育委員会に対しての上申をしてもらう運動を続け、右のような運動に理解を示さない学校長に対しては、本務外の業務を拒否する行動を起こし対抗するとの方針も打ち出していた。

(二)  対馬における主任制反対の状況

長崎県教職員組合には、下部組織として九つの総支部が設置されているが、その一つに対馬と壱岐を合わせた玄海総支部があり、さらにその下部組織として対馬には対馬支部が置かれ、対馬の六町にはそれぞれ町単位の支部があって、本件の現場となった今里中学校がある美津島町にも、美津島町支部(以下「町教組」という。)が置かれていた。

町教組においても、長崎県教職員組合の運動方針に基づき、同町の各小、中学校校長及び教育長などに対し、主任の制度化反対の上申を求めて交渉を持つなどの運動を続けていたが、二、三の校長を除いては上申行動をすることにつき非協力的であったため、町教組は、抗議の意思表明として、昭和五一年一月下旬ないし二月上旬ころから本務外の業務を拒否するという業務拒否闘争に入った。

対馬全島の状況も、美津島町における状況と大同小異であり、主任制問題に関し業務拒否闘争が続けられ、教育現場が混乱していた状況にあったため、このような事態を憂慮した対馬校長会は、同年二月七日、自主的に対馬教育長会会長小田勇三に対し、主任の制度化は当然としても、主任手当のあり方、実施の時期、主任設定など施行上の諸問題につき、充分な検討のうえ慎重に対処されるよう希望する旨の要望書を提出し、対馬の各町における教育長に対しても、右趣旨を伝えてほしい旨要望した。

一方、町教組は、同月一〇日、小、中学校長で組織された美津島町校長会と話し合いを持ち、主任の制度化について反対の意思を表明してくれるように要望し、同校長会は、対馬校長会が出した前記要望書と同一の内容であれば、美津島町教育委員会へ要望書を出してもよいとの提案をしたが、町教組としては、右要望書には主任の制度化は当然としてもという文言があり、主任制を是認したものであったために、右提案を受け入れず、結局、その日の話し合いは物別れに終わった。しかしその後、同町鴨居瀬小中学校校長石倉進、鳴小学校校長大石治男及び知中学校校長永留久恵らから、年度末人事をひかえて、組合の業務拒否が続き学内が混乱していると、重大な支障があるので、かかる事態を早く解決するためにも美津島町校長会で相談をし、組合とも話し合いをしたらどうかとの提案がなされ、同月一八日同校長会の要請により、再び町教組との話し合いがもたれた結果、右両者間において、美津島町校長会は、美津島町教育委員会に対し、(1)人確法に基づく予算措置により主任手当が支給されることについては疑問が多い、(2)主任の業務を円滑にすすめるには、職員の理解と協力が必要であり、任命制については、慎重に検討してほしい、(3)現場で主任制について十分な説明もなく、理解も得られない実態を考慮すると、実施時期についても疑問が多い、よって主任制導入については、現場の実態を考慮し、慎重に対処してほしい旨の要望書を出すこと、一方、町教組は、各学校における業務拒否を解き、以後各学校に置かれている組合分会は、校長に対し、主任制についての上申要求はしないことで合意に達し、それぞれ実行に移すことになったが、右話し合いには、本件の被害者とさた今里中学校校長沢田虎夫は、当日分会の組合員との話し合いがあるということで出席していなかったので、町教組は、美津島町校長会が教育委員会に出す右要望書には、各校長がその意思を明確にするために署名するように要求したが、校長会側から、右要望書は、欠席した沢田校長を除く全学校長の意思で決定したものであり、沢田校長は、決定事項については校長会に一任しているし、取り決めた内容については責任を持って同人に連絡するので、各校長個人が署名する必要はなく、美津島町校長会名義の要望書を出すことで足りるとの説明を受け、町教組もこれを了承し、翌一九日、業務拒否闘争を解除した。右要望書は、前記石倉校長を通じて美津島町教育委員会教育長小田勇三に提出されたが、小田教育長は、右要望書の提出に関し、美津島町校長会副会長である前記大石治男校長から事情を聴取し、同月二五日、同町校長会を招集し、かねてからの教育委員会の指導を無視し、組合の要求に基づいて要望書を提出したこと、校長会が組合との間で、業務拒否の解除、分会の校長に対する上申要求の停止などを一方的に取り決めたことなどを非難する教育長所見を表明し、これに対して校長会側からは校長としてあるまじき行動をとったとして自ら反省し、陳謝の意を表わしたが、右事情は、町教組に告げられなかったので、町教組は、業務拒否闘争を解除した後は平常業務を行っていた。

(三)  単P会長会議に至るまでの経緯

その後、町教組は、生徒の父兄に対して主任制反対への理解を求めるため、同年二月下旬ころ、美津島町PTA連絡協議会会長山川良一に会い、主任制反対について種々の要望をしたが、同人から書面で提出するようにとの要求を受け、同年三月三日付で町教組組合長乗村圭一名義で山川会長宛て、(1)主任制の功罪につき美津島町PTA連絡協議会(以下単に「連P」という。)と町教組とが話し合う機会を設けてほしい、(2)連Pで主任制反対決議及び反対署名をしてほしい旨の要望書を提出した。

山川会長は、主任制問題については当時教育界で種々議論がある重要な事柄であり、右要望書の取扱いにつき会長一人で決めるのは妥当でないと考え、連P事務局長である内海小学校校長早田英夫とも相談のうえ、同月六日、山川会長、早田事務局長及び連P副会長である沢田虎夫、浦浜小学校PTA会長小田定による連P執行委員会を開催し、右要望書の取扱いにつき協議した結果、右については執行部だけでは結論を出すべきではなく、単P会長会議を開き、当時主任制に関連して業務拒否闘争などが起こり、学校が非常に混乱していたので、教育正常化についても単P会長の意見を求め、それを踏まえて要望書に対する連Pの態度を決定しようということになり、同月一三日に右単P会長会議を開催することを決め、右会議には、美津島町校長会会長であった竹敷小学校校長白井傳、連P事務局長の早田校長及び連P副会長の沢田校長に校長の立場からの指導助言者として出席を求めること、教育正常化に関する資料として琴海町教育問題OBの会たよりと地方公務員法の規定を用意することとし、単P会長に対する会議の招集通知は、教育正常化という極めて重要な問題が議題となり、組合を刺激する内容となる可能性もあるので、会議開催が外部に知れることを防ぐために親展文書で発送された。

そして、同月一三日、午前一〇時ころから、美津島町中央公民館二階会議室において、連P会長山川良一、白井校長、早田校長、沢田校長及び七人の単P会長が出席して単P会長会議が開催された。

ところで、同日、厳原町立久田中学校内山分校の教諭で町教組の組合員であった小松勝助は、美津島町教育委員会から依頼を受けていた大般若経の調査のため、右中央公民館に赴き、右会議室の隣室において調査作業にあたっていたところ、会議室で会議が始まり、主任制を制度化するのがよいとか、業務拒否などの話し合いがもたれているのを聞き知り、当時組合員として主任制について関心を持っていたことや会議の内容が美津島町の学校の状況についての極めて重要な事柄であったため、午前一〇時三〇分ころから、大般若経の調査をやめて、同日午後二時ころ会議が終了するまで、会議に出席した者の発言のうち重大な発言と思われるもののメモを取った。

二  単P会長会議の状況について

(一)  小松メモの信憑性

押収してある「昭和五一年三月一三日美津島町公民館」と題するメモ書(昭和五二年押第一三号の符号8、以下「小松メモ」という。)は、前記のとおり、三月一三日、小松教諭が、単P会長会議の開催されていた会議室の隣室で、出席者の発言内容をメモ書きし、同月一四日及び一五日に清書したもので、右会議における発言者の判別について、小松教諭は出席していた校長のうち白井校長及び早田校長とは面識があったために、声でその発言を識別することができ、沢田校長の発言については、同月一六日町教組と対馬支部との合同会議を開いて小松メモを検討し、同月一三日に美津島町の校長のうち所用で学校に居なかった校長は白井、早田両校長以外に沢田校長だけであることが調査で判明し、かつ、その発言の具体的内容を種々検討して同人の発言を特定したものであるが、証人小松の証言によると、会議のあった中央公民館は幹線道路に面しない静寂な場所に位置しており、同人が居た部屋と会議室はモルタル塗りの壁で仕切られているが、右部屋の隣にはベニヤ板の戸で通じている倉庫があり、右倉庫と会議室は襖で仕切られているにすぎず、会議室における発言を十分聞き取ることができたこと(検察官は証人小松に対する質問において、実験をしてみた結果、証人小松が居た部屋では会議室の話し声は余り聞こえず、同人が右部屋の隣室である倉庫に移動して襖越しに会議室での発言を聞いたのではないかとの疑問を呈しているが、右実験の結果は何ら証拠としては裁判所に明らかにされておらず、また検察官が疑問にするように小松教諭が倉庫で襖越しに聞いたとすればかえって小松メモの信憑性を高めるものである。)、小松教諭は長崎史学会などの会員でもあり、民話や民謡などの収集にあたり、話し言葉を筆記することには多少慣れていることが認められ、さらに《証拠省略》によれば、早田校長及び沢田校長は、主に小松メモに基づき単P会長会議の内容についての情報を取得した町教組から、後日、会議における発言内容の確認を求められて、町教組は相当具体的に発言内容を知っているという印象を持ったこと、三月二〇日に町教組と早田校長は交渉を持ち、早田校長は「覚書き」と題する書面に署名押印しているが、右書面において、同人は、小松メモで同人の発言とされた部分につき、自ら単P会長会議で発言した内容であることを認め、当公判廷においても、右の二、三の点は否定するに至ったものの、大部分は自らの発言であることを認めていること、白井校長も当公判廷において、小松メモで同人の発言とされた主任の役割についての発言は、単P会長会議で自ら発言した内容であることを認めていること、右小松メモで沢田校長の発言とされた部分も、同人が単P会長会議で発言するため、あらかじめ沢田メモに要点を走り書きした内容と一致しており、また同人が校長をしていた今里中学校の職員会議の様子など、他人が知ることができない具体的な内容となっており、美津島町立今里小学校吹崎分校の教諭であった川上肇が、同分校のPTA会長から聞いた単P会長会議での沢田校長の発言とも一致していること(沢田証言によれば、小松メモで同人の発言とされた部分につき、同人は、自らの発言であると認めたり、他の出席者の発言であるとしたり、全くそのような発言があったことは記憶がないと供述するなどしているが、同人は当初記憶がないと供述していながら、弁護人から同人の捜査官に対する供述内容を指摘されると、右供述を変え自らの発言であることを認めるなどの供述態度が見られ、必ずしも同人の証言を信用することはできない。)などが認められ、以上の事実に鑑みると、小松メモは単P会長会議の発言内容を聴取し得た範囲内では正確に記載したものであると認めることができ、十分信用に値するものである。

(二)  単P会長会議の状況

《証拠省略》によれば、単P会長会議の状況は次のとおりである。

単P会長会議は、まず山川連P会長の主任制について町教組から要望書が来ているので、教育正常化について話し合うと共に単P会長から右要望書の取扱いにつき意見を聞きたいし、出席した校長からは指導助言を得たいとのあいさつで始まり、引き続き、沢田校長から会議を秘密会にしたらどうかとの提案があったが、これについて意見を述べる者はいなかった。その後単P会長から各学校の実情や主任制についての意見が求められ、単P会長から、各学校現場における組合のストライキ、業務拒否闘争の実情や組合員が主任制に関してPTA会長宅を訪れたり、父兄の家を回って反対署名を求めていること、主任制反対の立札を立てていることなどの状況が報告され、このような組合の行動は校長いじめであり、これに対する処分が手ぬるいとの意見が出され、この状況を父兄や一般の人に啓蒙したり、全国管理職組合の主任制賛成のビラを配ったらどうかとの提案があり、また四月に開かれるPTA総会では組合に主任制の話をさせないとか、PTAの役員からは組合の先生を除外したらどうかなどという議論もあり、さらには卒業式に君が代を歌わないような教師は教職をやめよ、ストをした教師の担任を拒否せよなどの厳しい意見も出された。山川会長自身、主任の制度化には日教組の切り崩しの意図があるというような発言もした。

単P会長からの発言が終わって、指導助言者として出席していた白井、早田、沢田校長は、山川会長から意見を求められ、白井校長は、主任の制度化というのは各学校に現にある主任を明確化するものであり、全国の校長会、教頭会、教育長会からの強い要望で文部省は主任の制度化をした、主任は子供達への教育指導を中心となって進める役目を果たすのであり、そのためにも主任となった人に手当を支給するのである、組合の主任制反対の行動は、反対のための反対の動きであると述べた。

次に、早田校長は、主任の制度化について白井校長とほぼ同趣旨の発言をすると共に、主任の責任を明確にさせる意味から主任を制度化した方がよいし、仕事の報酬として手当を支給するのは当然であるし、主任制を実施すれば教育が良くなる、組合員が父兄の家に主任制反対の署名を求めて来たとき安易に署名するのは困る、組合がストライキをするときには連Pの方から組合に対しストライキをしてくれるなと言ってほしい、学校にはストライキをしない先生もいる、正義のためにストライキに参加しない人が増えることを希望する、単P会長はつとめて校長の意見を聞いてほしい旨述べた。

最後に、沢田校長が発言に立ち、まず公立学校には秩序が必要であり、それには、(1)法令、条例、規則を正しく守る必要がある、(2)文部省、教育委員会など上部機関からの指示、指導は大事にしなくてはいけない、(3)教育活動に自主性が必要であるといっても、地域の実情及び生徒の実体を踏まえた自主性でなければならないという自らの学校運営についての基本的な考え方を述べ、最近の学内の状態は、右のようなことを無視し、頭から学校の自治とか自主性ということで学校が動く傾向にあり、今里中学校においても、組合の先生は、職員会議で卒業式に君が代を歌うことや町長の祝辞の代読に反対し、これについての結論が出ないまま終了の時間が来たので一五分間の延長を願ったが、時間が来ているということで帰ってしまい、職員会議を続けることができなかった、そこで卒業式が迫っていたので私一人でもやるという作戦をたてた、また組合員に螢光灯の取り替えを頼むと本務ではないとして断わられたことがあったことなどの学内の実情を話し、組合員について、公私混同をしており、権利だけ振り回わして何でも反対では、公務員としての資格はないと述べた。さらに、主任制については、主任の制度化は、現在学校にあった主任の職を明確にするもので、進歩した制度であるので、組合に対し頭から悪いと言わないで協力してもらえないかと言うが、組合員は組合の納得と了解がないかぎり協力はしないとして、主任制反対のために業務拒否をしている、業務拒否で美津島町では約二週間学校が麻痺した、組合員は日頃からも授業と学級指導の他はほとんどやらず、その分が校長、教頭、非組合員の先生の負担となっている、業務拒否は、校長に対し主任制反対の上申をしてくれということでしているが、公立学校の校長としてはこのような上申はすべきではなく、これによってある程度学校が混乱しても仕方がない、組合が主任制に反対しているのは、主任制が実施されると、主任は上部機関から任命されることになり、今まで多数決で主任を決めていたのがなくなり、組合の意見が通らなくなるためである、日教組は学校運営を組合が管理する革命的ねらいを持っているのであるなどと述べ、単P会長には組合の真意がどこにあるのかしっかりと認識してもらいたいと激励して話し終えた。

このようにして午前中の会議は終わったが、右会議には、先の執行委員会での打ち合わせに従い、教育正常化に関する資料として、地方公務員法の規定の抜粋と琴海町教育問題OBの会たより八号、九号が配られた。右地方公務員法の規定の抜粋は沢田校長が準備したものであるが、執行委員会では地方公務員法の規定を用意することだけ決まっていたにすぎず、沢田校長自らの判断で公務員の服務について定める同法三〇条から三七条までを抜粋した。また琴海町教育問題OBの会たより八号、九号は早田校長が山川会長と相談して準備したものであるが、それらは、主任の制度化を是とし、教育正常化に関し、日教組を諸悪の根源と見なし、日教組攻撃に終始した投書、議会に対する請願及び各地におけるストライキ対策などの内容を掲載したものであり、ストライキに参加した組合員を学校から放逐せよ、組合費の給料からの天引きは違法である、ストライキに対しては子供を自宅待機させることによって対抗する、日教組の槇枝委員長を犬小屋の犬や消しつぼの炭にたとえた替歌などの内容を含むものであった。

その後昼食をはさみ、午後からは二名の単P会長が所用で退席したが、引き続き座談的な雰囲気で話し合いが進められ、単P会長から、主任制についてはよくわからず自信がないので、違法ストはやるなという一本で反対していけばよい、組合のストライキにはもっと強い処分で望むべきだ、父兄もストライキをした場合には子供を学校には行かせないという強い態度をとるべきだ、組合側が違法なことをしているのでこちらも違法なことを時にはやってよい、ストライキに参加した者の名簿や参加回数を調査し、父兄などに配布すればよいし、ストライキをした者は転任してもらいたいという要望書をどんどん出せばよいなどといった厳しい意見が出された。単P会長からの右のような発言に対し、指導助言者として出席していた三校長は、いずれもこれをたしなめるどころか、単P会長の発言に同調して、ストライキをやった組合員に対し賃金カットをするなどの処分をしてもききめがない、一番きくのは父兄や生徒から言われることだ、組合はあなたがたの声をこわがっている、ストライキ参加者及び組合員を転任させてもらいたいあるいは赴任させないための要望書を教育委員会や教育事務所にどしどし提出すればよいなどの意見を述べ、また組合員を連中呼ばわりしたり、組合員は都合のよい時に年休を取り組合活動をしている、女の先生は、夏、冬の休みの他に生理休暇などもありほとんど学校は出ないでもよい、しかし給料はあたり前にもらっている、組合員はストライキばかりでなく日頃から処分に値することはいくらでもある、しかし処分するときは証明する者がいなければならず、面倒なので、そこまではしていないなどと率先して組合及び組合員の批判に終始し、校長が本当に話せるのはPTA会長だけです、今後もPTA活動及び学校運営について理解と協力をお願いするなどの意見を述べた。このようにして会議は午後二時ころまで続けられたが、この間右三校長は指導助言者として、主任の制度化について組合がいかなる考えで反対しているか正しく説明することもなく、また対馬校長会あるいは美津島町校長会が先に主任制に関し教育長会長あるいは美津島町教育委員会に対し提出していた要望書につき、単P会長に説明することもなかった。そして最後に山川連P会長が、今までの各単P会長からの意見を集約した形で、町教組からの要望には添いがたいとの意見を述べ、単P会長会議を終了した。

三  沢田校長との交渉に至るまでの経緯

《証拠省略》によれば、沢田校長との三月一九日交渉に至るまでの経緯、組合の単P会長会議に対する対応として次の事実が認められる。

小松教諭は、会議室での会議の内容が当時の主任制反対の運動をめぐる諸状況及び組合にとって極めて重要な内容であったため、会議が開かれた三月一三日の夕方、対馬支部書記長の糸瀬正彦を訪れ、知り得た会議の状況を口答で報告し、その後同月一四日と一五日に会議の内容をメモ書きしたものを清書して小松メモを作成し、同月一五日に糸瀬書記長に手渡した。一方同月一三日小松教諭から単P会長会議の状況について報告を受けた糸瀬書記長は、町教組書記長であった被告人鐘ヶ江に電話で会議の状況を報告し、同被告人は同月一四日町教組の三役会を招集し、町教組組合長であった被告人乗村、副組合長佐伯正発、書記次長川上肇、町村担当役員大浦惇治の出席を得て、単P会長会議が開かれ組合を誹謗するような重大な発言があった旨報告し、右川上が今里小学校吹崎分校PTA会長から入手した前記琴海町教育問題OBの会だより及び地方公務員法の規定の抜粋の資料などを検討した結果今後対馬支部とも連絡を取り慎重に事態に対処していくとの話し合いがもたれた。同月一五日被告人鐘ヶ江の出席を得て、対馬支部の執行委員会が開かれ、右問題について対馬支部執行部と町教組三役の合同会議を開いて対処の仕方などを検討しようということが決定され、同月一六日厳原町の教育会館において、右合同会議が開かれた。対馬支部からは同支部支部長であった被告人阿比留初見及び糸瀬書記長が人事異動の交渉で長崎へ行っていたため欠席したほかは、同副支部長であった被告人阿比留義見、同常任執行委員であった被告人松園ら執行委員全員が、町支部からは前記記載の三役五名が、そしてオブザーバーとして小松メモを作成した小松教諭が出席し、そこでまず、各学校からの情報に基づき、単P会長会議に出席した校長は白井、早田、沢田の三校長であることを確定し、小松メモ(但し右会議で用意されたのは小松教諭が清書したメモを対馬支部常任執行委員琴岡篤が写したものであった)の内容を検討し、それぞれの学校で起こった出来事などを参考にして、各校長の発言を特定した。次に小松メモによれば、単P会長会議では組合の名誉を著しく傷つけられ、また右会議で話し合われた内容が実行に移されると大変な事態になるため、組合の名誉を回復する方策や右内容が実行に移されないための対策を協議した。当時主任制をめぐる情勢も、三月一日に改正省令が施行され、県や市町村の学校管理規則の改正がなされんとしていた時期であり、これに伴い組合側の主任制反対の運動も盛り上がりを示し、極めて重要な時期であった。その結果、右合同会議において、再度単P会長会議を開き直してもらい、右会議で前記三名の校長に前回の会議における発言を訂正し、教育正常化の資料として配布された地方公務員法の規定の抜粋及び琴海町教育問題OBの会たよりを回収してもらうと共に、新たに単P会長に対し適切な指導助言をしてもらうこと、三校長に美津島町校長会及び町教組に対し謝罪をしてもらうこと、単P会長会議における三校長の発言内容などを教育委員会及び教育事務所に報告して、三校長に対する適切な措置方を要求することなどの方針が決定され、そのためには何よりもまず三校長と交渉を持ち、会議における発言内容について確認を求めることが決められ、三月一九日に、対馬支部の執行委員、町教組三役及び次年度の役員予定者とで分担して三校長と交渉を持つことが話し合われたが、同日は小学校の卒業式が予定されているのではないかとの意見があり、結局同日には小学校の校長であった白井、早田両校長は除外して、沢田校長とだけ交渉をもつことになった。そして単P会長会議の内容については、問題が重大であり、また右内容を直接校長に会って確認したわけでもないので、一応執行部段階で留めるという慎重な態度をとり、今里中学校の分会に対しては、同月一七日に、単P会長会議における沢田校長の発言に関して、同月一九日同校長と交渉に行く旨連絡しただけであった。同月一九日右合同会議の決定に基づき、今里小学校吹崎分校に被告人五名を含む対馬支部執行委員、町教組三役らなど計一六名が集まり、午後四時三〇分ころ、沢田校長と単P会長会議における同人の発言を確認する交渉を持つために、今里中学校に向かったが、沢田校長に対しては事前に右のような交渉を持つことは何ら連絡していなかった。

四  三月一九日の沢田校長との交渉状況について

《証拠省略》によれば、三月一九日の沢田校長と組合との交渉状況について、次のとおり認められる。

(一)  沢田校長との交渉開始の状況

被告人五名を含む一六名の組合員は、三月一九日午後四時四五分ころ今里中学校に到着し、職員室に入室した。沢田校長は職員室に隣接した校長室で、今里中学校教諭中村不可止、同西山福和に対し人事異動についての予見指導を行っていたが、前記のとおり職員室に被告人らが入室し騒がしくなったために、予見指導を終え、中村、西山両教諭が職員室へ退出した。その後沢田校長は、職員室との間に設けられている引き戸の近くに寄って職員室の様子を見ていると、被告人らのうち一〇名程が校長室に入室してきたので、沢田校長は自席の方へ戻り立ったままの姿勢で、被告人らに対し「何の用事で来たのか」、「私は何も連絡は事前に受けていないし、自分は話し合う意思はない、用事があるから都合が悪い、帰ってほしい」などと言った。沢田校長は当夜午後八時から、根〆哲夫が美津島町教育委員になったお祝に同人宅を今里中学校PTA会長根〆俊雄らと訪問する予定にしていた。これに対し被告人乗村が沢田校長に対し、「大事な話があって今日は来た」、「是非校長に聞いてもらいたいことがある、確認してもらいたいことがある、そのために全島から代表を集めて来た、確認できればそう長くかからない」などと言い、沢田校長と同被告人らとの間に右のような問答が五分程続いたが、沢田校長は、単P会長会議ののち開かれた美津島町校長会の席上、校長から単P会長会議が組合に盗聴されていたとの話を聞き、またPTA会長からも同趣旨のことを聞いて、組合が右会議での発言について抗議あるいは事実確認のために来ることを予想し、その際には右会議の目的及び性格などを一応説明する程度の対応はせざるを得ないだろうと考えていたため、一、二時間程度であれば組合と話し合いをしてもよいとの気持ちで、自分の椅子にすわった。その間被告人らも校長室にあった折りたたみ椅子を取り出して、それぞれ着席し、職員室に居た組合員らも校長室に入室し着席して、沢田校長と被告人五名を含む一〇数名の組合員らとの話し合いが始まった。午後五時すぎころから、中村教諭、僅か遅れて西山教諭それぞれが右交渉内容を録音するためにカセットテープレコーダーを校長室へ持ち込み、セットした。

なお、被告人らは、沢田校長との交渉が始まる状況について、被告人乗村、同鐘ヶ江が中村教諭を通じて沢田校長に来意を告げ、被告人両名及びその後佐伯正発他一名が校長室に入室し、話し合いを持ってくれるように頼み、沢田校長から、一、二時間程度ならば交渉に応じるとの回答を受け、他の組合員も校長室に入り交渉が始まったと主張し、これに添う証拠もあるが、これらは《証拠省略》によれば、沢田校長が組合との話し合いの途中に、「私は交渉を受けてもおらないし、先生方にここに入って来ていいと認めた事実もない」などと発言していること、これに対して組合側からは、同校長が当初一、二時間なら交渉に応じると言ったではないか、という趣旨の抗議もないし、かえって、「話し合えば話し合いに応じたことになる」という発言をしていることに照らし、信用することができず、沢田校長との交渉が始まった状況については前記のとおり認められる。

(二)  第一回目の沢田校長の退出行動までの交渉の状況

沢田校長と組合との交渉は、午後五時ころから始まったが、組合側は、町教組組合長の被告人乗村、同書記長の被告人鐘ヶ江が中心となり、当初単P会長会議の目的、出席者、時間、指導助言者として出席した校長の意図などを確かめるということで進められ、この段階では、沢田校長は内容的なことは秘密会であったから言えないと発言しながらも、普通に応対し穏やかな話し合いが進められた。その後、話題は、単P会長会議での沢田校長の発言は、二月一八日に美津島町校長会が町教組との合意事項として同町教育委員会に提出した主任制に関する要望書と矛盾するのではないかということに移り、まず組合側は、沢田校長が右要望書の内容を認めるのかどうかという点の確認を迫った。沢田校長は、校長会が要望書を出した事実は認めたものの、同校長自身要望書の内容を認めるか否かについてはあいまいな応答しかしなかったが、右の話題に移ってからも当初は一応普通の応対をしていた。しかし組合側があくまで同校長が右要望書の内容を認めるか否かの点にしぼって確認を求めてくるや、沢田校長は午後五時五〇分ころから組合側の質問に対し顔をそむけたりして全く応答せず、一時間余りの間沈黙の状態を続けた。右のような沢田校長の態度に対し、被告人阿比留義見が「時間がくればね、日が暮れれば、我々がもうあきらめて帰るぐらいに思うてありゃせんですか、そんな幼稚な考えを」と言ったり、被告人乗村が「まあ堪え忍んで、俺が黙っときさえすりゃ時は流れていくっちゃちゅうような調子で座ってあっとやったらですね、夜が明けたら、大変なことが起こりますよ」、被告人松園が「今日来た意味がわかりますか、明日と明後日も休みやから来とっとですよ、生半可な決心で来ちょるとじゃないとですよ」などと発言し、沢田校長の対応を迫る態度に出た。

しかし、同校長は右問題について依然として沈黙を続けたので、組合側は要望書の内容を認めるか否かについては一応保留することにして、単P会長会議で沢田校長が職員会議の内容を洩らしたことについて話し合うことにした。そのとき沢田校長は、机の上の書類などを片付け始め、椅子から立ち上がって帰りかけようとしたため、組合側は、同校長のこのような態度に抗議し、被告人阿比留初見が沢田校長が単P会長会議で組合のことを種々発言していることについての同校長の意見を求めた。沢田校長は、自席で立ったままの姿勢で、これに応対をし始め、連P会長の要請で単P会長会議に出席したことなどを述べたあとで、同校長は無理に帰っても組合側を刺激するのではないかと考え「今日ちょっと予定してるんですよ、あと一〇分だけ」と言ってしばらく帰るのを見合わせ、その後は組合からの質問に積極的に応答する態度を示し、話題は、沢田校長が職員会議の内容を単P会長会議で発言したことについて移っていった。沢田校長は、職員会議の内容を他の場所で述べてもよいかどうかという一般的な問題については、自らの意見を述べるなどしていたが、組合が単P会長会議における職員会議の時間延長のことや遠足についての同校長の具体的発言内容を指摘するにつれ、「そういうことを言った覚えはない、記憶はない」などと否定を続け、あるいは「私の判断によってね、そらいろいろ言うこともありましょうね」とか「それは誰から聞かれましたか」という発言に終始し、組合には不誠実と思われる態度を続けた。

(三)  第一回目の退出行動

沢田校長は、職員会議の内容を発言したということについて、右のような応答をしたのち、午後七時五五分ころ「先生方とこれ以上話し合って答える意思はありません、代表の方と話し合うという約束は、私はしていませんよ、先生方は学校を出て下さい」と述べ、自席を立って校長机の右側から、校長机と書棚の間を通り、「ちょっと通して下さい」と言いながら校長机の右端付近の椅子にすわっていた被告人鐘ヶ江の脇を通り、職員室へ通じる出入口の方へ行こうとした。

なお、沢田校長がすわっていた椅子から校長机の右側を回わり職員室へ通じる出入口まで行くには、校長机と壁際に置かれていた小金庫、書棚の間を通って行くことになるが、右校長机と金庫との間は約三八センチメートル、校長机と書棚との間は約五〇センチメートルの間隔があり、同校長は日常この間を通って職員室への出入りをしていた。当日のこの接衝のころは、校長室から職員室へ通じる約一・六八メートルの巾を持つ二枚引き戸の出入口は取りはずされ、沢田校長からみて校長机の右端のほぼ延長線上に被告人鐘ヶ江が折りたたみ椅子を出してすわっており、また右出入口のほぼ真中にあたるところに組合員が一人着席していた。被告人鐘ヶ江と書棚との間隔は約、四〇から五〇センチメートルほどであった。他の組合員はすべて右通路の妨害とはならない位置に着席しており、右通路に関する位置関係は、沢田校長が五回にわたって退出しようとしたとき、翌二〇日の早朝に退出したとき、組合側が組合員の動員をかけて校長室に入室した組合員の数が多くなったときでもいずれもほとんど変わりがなかった。

沢田校長の前記のような退出行動に対し、被告人鐘ヶ江は中腰になるような格好で、左肩を少し出すような姿勢をとって同校長の退出を防ぎ、沢田校長の体が同被告人の体に少し触れると、同被告人は「ほら何しよっとですか、なあして人をせぐかね、せいだらいかんですよ」と言い、他の組合員も同校長の退出行動に対し「何でですか、私達は抗議に来てるんですよ、卑怯じゃないかね、あなたは、はっきりしてから帰らんですか、事実の確認をしましょうや」などと声高に抗議をしたり、被告人鐘ヶ江が「川上先生、全組合員集めてくれませんか」と頼み、組合員の動員をかけたりしたが、組合員が自席から立ち上がって抗議をしたりすることはなかった。沢田校長は右のような抗議あるいは被告人鐘ヶ江の行動を受けて、すぐに自席の方へ戻り、今度は校長机の左側の方を回る素振りを示したが、そちらへは行こうとはせずに、自席のところに立ちつくしていた。

(四)  第二回の退出行動までの交渉状況

その後、自席で立ったままの沢田校長に対し、組合側は、女性教諭の生理休暇、組合員の処分、業務拒否闘争に関する単P会長会議での具体的発言を指摘し、あるいは地方公務員法の規定の抜粋が資料として配布された事実を指摘し、同校長がそのような発言をしたかどうか、資料を準備したかどうかの確認を迫ったが、同校長はほとんど応答はしなかった。

(五)  第二回目の退出行動

沢田校長は、午後八時一〇分ころ「帰ります、交渉しているんじゃない、通して下さい、人の学校にね、出て下さい、こんな夜遅いのに、出さないの、あなた方は、え」などと言いながら再び校長机の右側を回わり被告人鐘ヶ江のすわっていた脇を通って帰ろうとしたが、組合側は、このような同校長の態度に「何しよっとですか、そういういいかげんな態度があるもんですか、帰っちゃいかんよ、あんた」などと言って抗議すると共に、沢田校長が被告人鐘ヶ江の脇を通るとき、同被告人の身体を押すような形になるため「押したらいかん、押したら暴行になりますよ、当たったら暴行や」などと言い、さらに「こんな重大な問題を、こんなことが時間が関係あるもんですか」、「教育長呼びましょうか、教育長呼んではっきりさせましょうや」と提案し、同校長の退出を思いとどまらせる発言をした。被告人鐘ヶ江は、このとき中腰になるとか左肩を寄せるとかの姿勢はとらなかったし、組合員も立ち上がって抗議したのは被告人乗村だけであった。沢田校長はこのような抗議に会い、被告人鐘ヶ江のそばまで行っただけで、再び自席へ戻った。

(六)  第三回目の退出行動に至るまでの交渉状況

組合側は、沢田校長が退出しようとした際、前記のとおり教育長を呼んで問題の解決をはかることを提案し、その後も何度か同様の提案をしたが、これは沢田校長の受け入れるところとはならなかった。同校長が自席に戻ったのち、再び職員会議の内容を単P会長会議で言ってよいかどうかの点についての同校長の意見を求め、さらに卒業式を自分一人でやろうという作戦をたてたとの発言、組合員の赴任を拒否する要望書を教育委員会に提出するようにとの指導をしたこと及び琴海町教育問題OBの会たよりを配布してストライキに対しては登校拒否をもってしても対抗するなどの話し合いを持ったことなどについて確認を求めた。沢田校長は、当初は「内容は言うべきではない、答える意思ありません」などと言って応答していたが、その後再びしばらく沈黙を続けた。このような同校長に対し組合側は、なおも執拗に発言の確認を迫り、被告人阿比留義見が「校長先生、自ら教員の排斥運動、新聞で叩きますよ、そういう校長が対馬の校長会にいるんだということを」などと発言したり、大浦惇治が「あなたが教員生命がなくなるまでやりますからね」と発言した。その後沢田校長は、自ら発言の内容について答える意思がないが、「証拠があったら出してごらんなさい」とか「そういう事実があれば訴えなさいよ」という対応を示し始めた。その頃、沢田校長が同夜根〆哲夫宅を訪問するために待ち合わせをしていた今里中学校PTA会長根〆俊雄から同校に電話があり、これを西山教諭が受けて、沢田校長に待っていますからという伝言を頼まれた。西山教諭は沢田校長に対し右の旨を伝えたが、組合側は同校長に対し、電話をかけ直して緊急事態があるので根〆会長との待ち合わせは断わるように要求した。

(七)  第三回目の退出行動

沢田校長は、西山教諭から根〆会長が待っているとの伝言を聞き、午後八時四〇分ころ、「とにかくもう帰して下さい、帰って下さい、その筋の何に訴えますよ、不退去罪で、学校を出て下さい、私は帰ります、一寸のいて下さい、のけて下さい」と言って、組合側に校長室からの退去を要求するとともに前二回と同様に校長机の右側を回わり、被告人鐘ヶ江の脇を通り退出しようとした。組合側は、これに対し、「いやそういう問題じゃないでしょうが、我々の質問にも答えずに一方的に帰れとは何ですか」などと立ち上がって抗議をし、さらに沢田校長が退出する際には被告人鐘ヶ江の身体を押すような形になるため、「当たっちゃいかんよ人に、何ば押しよっとですか、人を、この人を押したら落ちますよ、こっちに」などと言って同校長を牽制した。沢田校長はなおも組合側に対し、「どうしても出ませんね、出て下さい」と言って組合の退去を要求したが、組合側は「帰るべき問題じゃないでしょうが、今は出ません、答えれば出ます、会議の全貌を明らかにせにゃと、そんなことは一言も言いよらんですよ、あなたが、どういう意図で指導助言をしたか、聞きよっとです、帰さんじゃなくて帰れんでしょう、本当に教育のことを考えとる校長ならば、帰れますか、部下職員のことを考えるとやったら帰れますか」などと言って、同校長の退去の要求には応じなかった。この際も沢田校長は、被告人鐘ヶ江のそばまで行き、同校長の退出を防ぐために左肩を寄せてきた同被告人に左手で触れた程度で、それ以上の退出行動には出ずに、自席の方へ引き返した。

(八)  第四回目の退出行動までの交渉状況

自席に戻った沢田校長に対し、被告人乗村は「謝罪文書きませんか、組合誹謗して申しわけないちゅう、謝罪文書きませんか、それが一番早いですよ、そうすりゃもうすぐ終わっとですよ。」と述べ、次いで組合側は、全国教頭研究協議会の主任制賛成のビラを対馬の教育を考える会などという名称で配布すること、組合員は処分の対象となることを絶えず行っていること、組合員を転任させる要望書を教育委員会に提出することなどの発言について沢田校長を追求していたが、同校長は話せば、会議の秘密を洩らすことになるとして、ほとんど答えなかった。ところで午後九時一五分ころ再び根〆会長から今里中学校に電話があり、組合員が右電話を沢田校長に切り替えた。

(九)  第四回目の退出行動

沢田校長は、午後九時一五分ころ、根〆会長からの電話を受けて「今学校にお客さんがちょっと来とるもんですからね、ええと九時半には参ります」と答えて電話を終った直後に、「ちょっと先生、通して下さい、ちょっと」などと言いながら、校長机の右側を回わり被告人鐘ヶ江の脇を通って退出しようとした。組合側は、沢田校長に対し「校長、冗談じゃないですよ、九時半までにかたずけますか、電話をしなおして下さいよ」と要求するとともに、退出行動に対して「また押しますか、ちょっと押したらいかんですよ、なんか解決せんとでけませんよ」と述べて抗議をしたが、沢田校長が、被告人鐘ヶ江の身体に少し触れた程度で、すぐに自席へ戻ったので、このときの組合側の抗議は右以上に出なかった。

(一〇)  第五回目の退出行動に至るまでの交渉状況

沢田校長は、問題の解決を求める組合側に対し、「話し合いで解決できんですね、私は返事をする意思はない、事実があれば、どこにでも訴えていいですよ、それが一番やね、立派な解決の方法じゃないですか」と言って、解決を拒否する態度に出たので、組合側は「対馬でね、あなたはどこん学校に行くかわからんけどね、行った学校でね、校長として学校経営ができると思ったら大きなまちがい、あなたの着任を拒否しますよ、この責任をはっきりせんかぎりはね、あなたは対馬で適用しないよ」などと発言して、同校長の態度に抗議をした。沢田校長は、第四回目の退出後自席に戻ってからも、鞄を持って立っていたが、午後九時三〇分ころ「さて約束の時間が来たから失礼しましょう」と言って、退出する素振りを示した。組合側は、被告人乗村が「それは自分のかってに約束したことでしょうが、帰ったっていいとですよ、認めるものをちゃんと認めて」と言っただけで、そのほかの者は、沢田校長が被告人鐘ヶ江のそばまで行くなどの退出行動をとらなかったため、何ら抗議の発言はしなかった。沢田校長は、右被告人乗村の発言に対し「何を認めるのか」と問いかけたのに対し、組合側が、今まで組合が単P会長会議の発言として指摘したところのものは事実か虚偽かとの点であると述べたところ、沢田校長は、右指摘されたものは事実ではない、単P会長会議に、同校長が出席したことは発言の内容を含めて間違ってない旨述べ、さらに「事実でなかった場合にあなたは責任を取ると言うの」と被告人乗村に迫ったので、同被告人は、組合の指摘が事実でなかったら責任を取ると表明し、沢田校長も、同校長の右発言を受けた組合の追求に対し、組合の指摘が事実であれば責任を取ると述べた。そこで沢田校長と組合との間で、同校長が単P会長会議に出席したということは内容も含めて間違っていないということと、組合の指摘が事実でなければ町教組組合長の被告人乗村が、事実であれば沢田校長が責任を取ることの確認書を作成することになり、被告人鐘ヶ江が校長机を利用して、右確認書の作成に入った。

被告人鐘ヶ江は、確認書の第一項として三月一三日の単P会長会の会議に出席したということは内容も含めてまちがっていないと記載し、次に第二項に、次のような発言をした事実はないとして、組合が今までに単P会長会議で沢田校長が発言したと指摘していた点などを書き始めたところ、これを見た沢田校長は、「第一項だけあればわかるじゃないですか、すべて含まれているでしょう」と述べて、第二項を書くことに反対をした。組合側はどういう内容を否定するものかは書いておく必要があると反論していたところ、再び根〆会長から沢田校長に対し電話があった。なお午後九時すぎころから、組合側が動員をかけた組合員が、今里中学校に三三、五五集まってきて、このころには、校長室に入室した組合員の数は二〇名余りとなっていた。

(一一)  第五回目の退出行動

沢田校長は、組合側に促されて根〆会長からの電話に出たが、同人に対し「すぐ行きますから、ちょっと待って下さい」と言って電話を切ったあと、組合側と再び第一項だけ確認するという二、三のやり取りをしてから、午後九時四五分ころ前同様校長机の右側を回わり、被告人鐘ヶ江の脇を通って退出しようとする行動に出た。組合側は、沢田校長が被告人乗村に対し責任を取るのかと追求し、前記のとおり確認書を作成することになったのに退出しようとしたことに対し、「どこに行くとですか、印鑑を押していないじゃないですか、今、あんなに大みえを切ったことに対して」などと言って抗議をし、また「倒れるですよ、怪我するですよ、押したら」と言って沢田校長の行動を牽制し、被告人鐘ヶ江は椅子に腰掛けたまま左肩を出すようにして同校長の退出を妨げる姿勢を取った。沢田校長は、このときも被告人鐘ヶ江のところまで行った程度で、それ以上強い行動には出ずに自席に引き返した。

(一二)  被告人らが校長室から退出するまでの状況

その後、沢田校長は、第一項ですべてが含まれているので確認するのは第一項だけでよいと述べ、これに反対する組合側との間でやり取りがあったのち、被告人鐘ヶ江が確認書を作成し終わる午後一〇時五〇分ころまでの間、再び単P会長会議の沢田校長の発言について指摘する組合側と、これに対し記憶がないとか言った覚えがないとする沢田校長との間で話し合いがなされていたが、その話し合いはほぼ穏やかな調子で進められ、沢田校長も普通に応対していた。この間午後一〇時ころに二度程沢田校長が退出しようという素振りを示し、組合側はこれに対し抗議をしたことがあったが、このときは沢田校長は被告人鐘ヶ江のそばまで行って退出しようという行動にまでは至らなかった。

午後一〇時五〇分ころ、被告人鐘ヶ江が確認書の作成を終わり、被告人阿比留義見が確認書を読み上げた。右確認書には、第一項には前記のとおり単P会長会議に出席したことは内容も含めてまちがっていないということ、第二項には組合側が単P会長会議で沢田校長の発言であるとした具体的発言内容を記載し、沢田校長はそのような発言をした事実はないということ、第三項には右組合が指摘した発言が事実であれば沢田校長が責任を取るということ、第四項には事実でないならば組合長が責任を取るということが書かれていた。組合側は、沢田校長に対し、右確認書に署名捺印して貰い、交渉を終りたい旨求めたが、同校長は、確認書を読み上げてから一度一項だけは確認してもよいと述べただけで、そのほかは天井を向いたり、机にうつ伏せになったりして全く応答の態度を示さなくなった。組合側は、右のような態度を示し始めた沢田校長に対し、「何項と何項は言うてある、何項は言うてないというふうにでもいい訳です、何かこの内容に言いたいことがあったら、言ってみませんか」と述べて右確認書の表現にはこだわらない態度を示し、また交渉人員を減らすことや責任問題を記載した第三、四項を確認書から削除する旨、同校長が署名捺印を受け入れ易い様に提案をしたが、依然として応答の態度を示さず眼を閉じて沈黙を続ける沢田校長に対し、「狸寝入りしよっとん」などと言ったり、校長机や沢田校長がすわっている椅子のひじの部分を叩き、手の甲を人指し指と中指で叩くなどして同校長の応答を促し、また抗議の意思を表明した。このような提案、組合側の抗議に対しても、沢田校長は一向に応答しないので、組合側は、午後一一時五五分ころ、前記の提案に基づき責任問題が記載してある第三、四項を削除し、また翌二〇日午前零時二〇分ころ交渉人員を六名位に減らす措置をとった。しかしなお、沢田校長の態度は変わらず、交渉は全く進展しなくなったため、組合側は午前零時五〇分ころ、沢田校長に対し確認書に署名捺印するか、後日交渉を持って改めて話し合いをするかという提案をし、沢田校長にしばらく考慮の時間を与えるために残っていた全員が校長室から職員室へ引き揚げた。その際、組合側は校長室で組合員がすわっていた椅子を全て片付け、校長室に石油ストーブを入れ、取りはずしていた校長室と職員室との間の二枚の引き戸を元に戻し、引き戸を完全に閉めて退出した。

(一三)  沢田校長が退出するまでの状況

校長室を引き揚げた組合員は、乗ってきた車の中で仮眠したり、職員室で床に寝たり、碁を打ったり、これを観戦したり、三、四人で雑談をするなどそれぞれの行動をしていた。被告人阿比留義見は、事態収拾をはかりたいとの気持ちから午前一時一〇分ころ及び一時三〇分ころの二回校長室に入り、沢田校長に対し事態収拾を呼びかけたが、同校長は机に伏したままで応答はしなかった。その後午前四時ころから再び校長室で交渉が始まるまでの間、組合員が、職員室から校長室の沢田校長の様子を監視するということは全くなかった。午前四時ころから被告人五名を含む一〇名程の組合員が再び校長室に入り、沢田校長に対し、午前八時ころまでの間組合側が最終提案した問題に対する回答を求めたが、沢田校長は、机にうつ伏せになったまま、何ら応答しない状態が続いた。

(一四)  沢田校長の退出

三月二〇日午前八時ころ、沢田校長が朝になっても帰宅していないことを聞いた根〆会長から電話があり、組合員が受けて沢田校長とかわった。沢田校長は根〆会長の「どうして帰れないのか」という質問に対し、「どうしても帰れない」と答え、根〆会長からの申出により電話を内山教諭とかわった。その後沢田校長は、突然椅子から立ち上がり、鞄を左手に持って、校長机の右側を回わり、被告人鐘ヶ江の脇を通り、校長室と職員室の間にある引き戸を通り、職員室を抜けて、廊下に通じる出入口を開けて廊下に出て校外に退出した。被告人鐘ヶ江の位置は前日とほぼ同様であり、その際もすわったままで左肩を出すような姿勢で同校長の退出を防ごうとしたが、沢田校長は右退出の際はかなり強引に出て、同被告人の脇をすり抜けて退出した。その後被告人松園が校長室から沢田校長のあとを追い、職員室から廊下に出る出入口の扉を押さえて開けさせまいとしたが、沢田校長はそれを振り切って退出した。その他の組合員は何ら直接的な妨害行為には出ておらず、沢田校長が廊下に出てからは、同校長を引き止める組合員もいなかった。

五  その後の状況

《証拠省略》によれば、その後組合側が早田校長と交渉を持ったことなどの状況について次のとおり認められる。

(一)  早田校長との交渉

三月二〇日、対馬支部と町教組は、内海小学校において、単P会長会議のもう一人の出席者であった早田校長と交渉を持ち、早田校長が単P会長会議で発言した内容を記載し、また琴海町教育問題OBの会だよりを配布したことは軽卒であり回収する旨などの記載がある「覚書き」と題する書面に同校長の署名捺印を求めた。同校長は、単P会長会議における発言などの部分につき若干の訂正を求め、組合側もこれを了承したのち、右書面に署名捺印して組合側に提出し、その後右書面通り、琴海町教育問題OBの会たよりを単P会長から回収した。右交渉は約三時間程で終わり、終始穏やかな交渉であり、同校長が自らの意思に反して署名捺印したものでもなかった。

(二)  小田教育長との交渉

対馬支部と町教組は、三月二一日対馬教育長会長小田勇三と交渉を持ち、小松メモと覚書きを同会長に示して、沢田校長と組合との話し合いの仲介をしてほしいこと、単P会長会議における沢田校長の発言を調査し、教育委員会としてどう対処するかの意見を聞かしてほしいことなどを要望した。小田教育長は、沢田校長と組合との話し合いの仲介をすることは断わったが、単P会長会議における沢田校長の発言については教育委員会独自の立場で調査し、組合が指摘する発言との間に食い違いがあれば組合に報告することを約束した。組合側は、同月二五日組合と小田教育長との間で人事問題に関する交渉が行われていた際、事実調査の状況を聞いたが、沢田校長が不在ということで未だ調査ができていないという回答を受けただけで、その後人事異動などで忙しくなったため、組合側は右事実調査についての報告は受けなかった。

(三)  被告人五名の逮捕・勾留

被告人五名は、三月一九日から二〇日にかけて沢田校長と前記のような交渉を持った件で同年四月一二日監禁、強要未遂罪により逮捕、引き続いて勾留され、六月三〇日に起訴されるに至った。

六  若干の問題点の考察

以上の事実を前提にして、犯罪の成否を判断する前に、問題となる諸点について考察を加える。

(一)  美津島町校長会が同町教育委員会宛提出した主任制に関する要望書の拘束力

美津島町校長会は、三月一八日、町教組との話し合いに基づき、主任制に関し前述のごとき三項目からなる要望書を美津島町教育委員会に提出した。

右要望書の拘束力について、同校長会の構成員であった白井校長、大石校長、沢田校長は、校長会は法的根拠に基づき結成された団体ではなく、任意に集まった団体にすぎないこと、二月一八日の美津島町校長会は同会会長が正式に招集したものではなく、一構成員であった石倉校長などが呼びかけて集まったものにすぎないこと、公務員である校長は法令に従った行動をする義務があり、省令の改正により主任の制度化がなされた以上これに反するような要望書は提出できないこと、組合側が業務拒否闘争を続け、校長会に要望書の提出を求めるという異常な事態の中で右要望書が出されたものであること、右要望書を提出したのちに美津島町教育長から要望書提出につき叱責を受け校長全員がまちがったことをしたとして同教育長に謝罪したことなどの諸点をあげ、右要望書には拘束力はないものである旨公判廷においてあるいは検察官に対し供述している。

しかしながら、省令改正により主任の制度化がなされたとしても、校長会が教育委員会に対し主任制に関し慎重に対処してほしいなどという要望書を提出できることはいうまでもないことであり、また右要望書は校長会と町教組との話し合いの結果、両者の合意に基づき提出されたものであり、当日の校長会は会長が正式に招集したものでないことやその後教育長から叱責を受け謝罪したことなどは町教組の預り知らぬところであり、町教組に対する関係で右要望書の拘束力を何ら左右する事柄ではない。かえって校長会の構成員である各校長は、右要望書を提出することにより、町教組から業務拒否闘争を終結すること、分会の組合員は以後校長に対し主任制についての上申をしないという約束を得、町教組がこれを実行することにより合意による義務履行を得ているのであり、少くとも校長会の構成員たる校長としては、町教組に対し信義則上右要望書に反した行動をとらないという義務は負っていると言わなければならない。すなわち、そのことは校長が右要望書に反した発言あるいは行動をした場合には、町教組としては校長に対し右要望書に反することの抗議をしあるいは釈明を求めて然るべきであり、校長としても自らの行動に対し組合に対し釈明すべき信義則上の義務を負うといわなければならない。

ところで沢田校長については、要望書を提出した校長会に出席していなかったため、なお別個の考察が必要である。沢田校長は公判廷において、右要望書に拘束力がないとする点について、石倉校長などから校長会を開くという連絡を受け、今里小学校の木下校長に自分は校長会に行くことができないが、組合と話し合いをして要望書とか確認書を出すことには反対であるという意思を伝えてほしいと頼んだこと、しかし校長会では自分の意思が全く反映されなかったことも供述している。ところが、前記に認定したとおり町教組と校長会との間に合意が成立し、町教組が校長会に対し、要望書には沢田校長が校長会に欠席しており、個人の意思を明確にするためにも各校長が署名するように要求した際、校長会側からは沢田校長は決定事項については校長会に一任しているとの説明がなされたこと、録音テープ速記録(四巻の一、九三頁以降)によれば、三月一九日組合側から沢田校長が右校長会が出した要望書の内容を認めるのかという質問を受けたとき、「自分は校長会に対し要望書を出すことは反対であるという意思を告げており(右要望書の内容を認めることはできない」などという発言は全くなされていないこと、却って、要望書の内容を知った時点では、校長「会員の一員として、認めざる得んと思います」と答えていること(同巻九六頁)など鑑みると、沢田校長の前記供述は措信し難く、校長会に決定を一任した沢田校長も、出席していた校長と同様、組合に対し右要望書につき信義則上の義務は負うと言わなければならない。

(二)  単P会長会議の性格

三月一三日に開催された単P会長会議は、そもそも町教組が同月三日に山川連P会長の指示に従い同会長に主任制に関する要望書を提出したことを契機にして開催されることになったものであり、右要望書の取扱いについて真剣に討議されるべき場であった。しかしながら、同月六日にその協議のため開かれた連P執行委員会において、主任制に関連した組合の業務拒否闘争により学内が非常に混乱している状況に鑑み、単P会長会議を開いて教育正常化についての話し合いを持つこと、右の資料として地方公務員法の規定の抜粋、琴海町教育問題OBの会たよりなどを配布することが決定され、むしろ、単P会長会議の議題は、学校内の混乱を引き起こしている組合への批判及びこれに対処する方法を協議するという性格を帯びるものとなった。それゆえ、右会議の開催が組合に知れるところとなることを防ぐために、かつてとられたことがない各単P会長宛て親展文書で招集通知がなされるという方法がとられたのであった。

そして、三月一三日に開催された単P会長会議は、右連P執行委員会で決定された方針のとおり、教育正常化が主題となって話し合いが進められ、各単P会長からは組合が行うストライキ、業務拒否闘争などに対する批判の発言が相次ぎ、このような組合の闘争に対し、児童の登校を拒否する、組合員の赴任を拒否したり転任を要求する要望書を教育委員会に提出する、ストライキ等については処分を強化することなどの対策が話し合われた。右会議に指導助言者として出席した白井、早田、沢田校長も事実を曲げた組合及び組合員批判に終始し、内容上極めて反組合的な琴海町OBの会たよりなど配布し、児童の登校拒否、組合員の赴任拒否などの単P会長からの発言をたしなめるどころか、これに同調しあるいは率先して対応策を協議するなどの態度をとり、また主任制に関しては前記要望書とは全く異なり、主任制賛成の発言をして、組合の主任制反対の運動に同調しないように注意をする程であった。そして三校長は主任制についての組合が反対している理由を正しく説明することもなく、対馬校長会あるいは美津島町校長会が主任制に関し出した要望書につき説明することもなかった。

なお、三月六日の連P執行委員会では、単P会長会議を秘密会で開くことが話し合われ、招集通知が単P会長宛て親展文書で送付されたが、単P会長会議の席上では、沢田校長が会議を秘密会にしたらどうかとの提案をしたものの、これについて意見を述べる者もなく、司会者であった山川会長も改めて秘密会にする旨述べたこともなく、沢田校長が三月一九日の交渉において組合側に対し、「秘密会というはっきりした銘は打たなかった」と説明しているように(録音テープ速記録)、右提案につき明確な結論を出さないままで、会議は進められていった。

(三)  単P会長会議における三校長の発言内容が反組合的であったこと

単P会長会議における白井、早田、沢田校長の発言は、大要三種類に分けることができる。第一は組合のストライキなどに対する対抗措置を述べた発言であり、ストライキ参加者及び組合員を転任させる、あるいは赴任させないための要望書を教育委員会や教育事務所に提出すればよいなどの発言がこれに該当し、第二は、組合及び組合員を批判する発言であり、その中には事実を曲げてことさら組合員を批判した発言も含まれており、女性教諭の生理休暇、組合員の年休の取り方に関する発言、組合員は日頃から授業と学級指導の他はほとんどやらない、処分に値することはいくらでもあるなどという発言、組合員を連中呼ばわりする発言がこれにあたる。第三は、主任制に関する発言で、主任制を実施すれば教育が良くなる、主任制は進歩した制度であるなどの発言がこれにあたる。

組合及び組合員にとって、第一の発言は、組合組織に向けられた直接的な攻撃であるとともに、組合員の教師としての立場を危くしかねない重大な問題であり、第二の発言は、単P会長に誤った組合及び組合員像を植え付け、組合及び組合員の名誉を著しく傷つけた発言であった。さらに第三の発言は、町教組にとっては、二月一八日に美津島町校長会と合意した要望書の内容に反する発言であった。

右のような重大な発言が、一般父兄に対し影響力の強い立場にある単P会長の集まりにおいて、これまた影響力の強い三名の現職校長からなされたということ、主任制に関して主任の制度化を内容とする改正省令が施行され、次に県及び市町村の学校管理規則の改正がなされんとしており、組合はこれに反対する運動を進め、児童の父兄などに対しても理解を求めている重要な時期になされたことは、組合にとって極めて憂慮すべき事態であり、組合が、自らの組織防衛、組合員の地位の保全、名誉回復のため、かかる事態に対処する何らかの方策を早急にとることは当然のことであったと言わなければならない。

対馬支部と町教組は、右方策として、単P会長会議を開き直してもらい、三校長の発言を訂正すること、資料を回収してもらうこと、三校長に美津島町校長会及び町教組に対し謝罪をしてもらうこと、教育委員会あるいは教育事務所に右発言を報告し、適切な措置をとってもらうことを決め、これらの行動に移る前に、まず何よりも三校長と交渉を持ち、会議における校長の発言内容を確認することにしたものであった。さらに対馬支部と町教組は、単P会長会議の内容は重大であり、また組合側は小松メモによって右内容を知るだけであり、直接校長に会って事実を確認したわけではないので、右問題については一応執行部段階で留め、各分会には右内容を連絡しないという慎重な態度をとったのであった。このような組合の対処の仕方は、妥当なものというべきである。

(四)  単P会長会議での発言内容の確認に関する交渉が地方公務員法五五条に定める交渉事項にあたることについて

地方公務員法五五条は、「地方公共団体の当局は、登録を受けた職員団体から、職員の給与、勤務時間その他の勤務条件に関し、及びこれに附帯して、社交的又は厚生的活動を含む適法な活動に係る事項に関し、適法な交渉の申入があった場合においては、その申入れに応ずべき地位に立つものとする」と定めているが、学校長は、交渉事項によっては、地方公共団体の当局として組合との交渉の当事者となり得るものである。ところで単P会長会議における沢田校長らの発言は、前記に考察したように第一に組合組織及び組合員の地位の根幹に係る事柄であり、第二に組合及び組合員の名誉を著しく傷つける内容を持つものであった。組合が右の事項に関して沢田校長に対し発言内容の確認を求め、あるいは右発言を訂正し組合の名誉回復などの措置をとるように要求することは、地方公務員法五五条に定められた交渉事項に当たり、沢田校長は適法な交渉の申入れがあった場合右交渉に応じる義務があったと言わなければならない。さらに単P会長会議における沢田校長らの発言の第三のものは、主任制に関する発言であり、これは美津島町校長会が提出した要望書と異なる発言であり、前記に考察したようにこの点についても、沢田校長は組合に対し信義則上自らの発言を釈明すべき義務があったものである。

七  監禁の訴因について

そこでまず、被告人五名に対する監禁罪の成否について判断するに、監禁罪が成立するためには、人が一定の区域から出ることを不可能または著しく困難にするという客観的な監禁状態が存すること及び監禁の故意が存することが必要であり、この両面において、交渉の経過を追って考察を加えることとする。

(一)  被告人らが今里中学校に来所した目的

検察官は、被告人らは、当初から沢田校長を監禁状態に置き、集団で抗議をして、同校長に単P会長会議での発言を認めさせ、謝罪文若しくはこれに代わる確認書を作成させる目的で今里中学校に来所したものであり、組合として同校長と団体交渉を行うために来所したのではないと主張する。

しかしながら、前記認定の事実によれば、被告人らは、三月一六日に開かれた対馬支部及び町教組の合同会議の方針に基づき、まず沢田校長から単P会長会議での発言を確認するという目的で来たこと、当日は同校長から謝罪文まで求めるという目的はなかったこと(録音テープ速記録によれば、交渉の途中で、被告人乗村が沢田校長に対し謝罪文を書くように求めている場面も認められるが、右発言は前記合同会議の方針に反する発言であり、右発言を受けて組合側が沢田校長から謝罪文を求める交渉に移ったということもなく、右のような発言があったことで当日の組合の目的が沢田校長から謝罪文を求めることにあったとすることはできない)、被告人らはいずれも対馬支部執行委員、町教組三役という立場から組合の組織を守りあるいは組合及び組合員の名誉を回復させるための組合活動として沢田校長と交渉を持つために来所したこと、右の交渉は地方公務員法五五条に定める交渉事項に当たりあるいは沢田校長が信義則上釈明すべき義務を有する事柄であり、さらに沢田校長との交渉は当初極めて穏やかに進められたこと、組合側は絶えず右交渉の場で短時間で交渉を終えることができると思ってきた旨発言していること、翌三月二〇日にもたれた早田校長との同様の交渉も穏やかに進められ三時間程で終わっている事実などからして、検察官主張のように、被告人らが沢田校長を監禁状態に置いて抗議する目的で来所したとは到底認められず、また被告人らが右の点につき共謀したとする証拠もない。

(二)  沢田校長との交渉が始まる状況

検察官は、沢田校長は被告人らとの交渉を応諾したことはなく、被告人らが一方的に校長室に入室し、校長机を取り囲んですわったときから沢田校長に対する監禁が始まったと主張する。

対馬支部及び町教組は、三月一六日における合同会議で同月一九日に沢田校長と交渉を持つことを決めながら、何ら沢田校長の事前の了解を求めることなく、同日午後四時四五分ころ被告人ら一六名で今里中学校を訪れ、突然沢田校長に対し組合との交渉に応じるように要求したことは、いささか穏当を欠くものであったし、地方公務員法が定める予備交渉の手続に従ったものではなかった。しかしながら判示のとおり沢田校長は、組合との間の五分程のやり取りの末自席に腰をおろし、結局組合との交渉に応じたのであって、沢田校長の承諾により法に従わなかった予備交渉瑕疵は治ゆされ、組合と沢田校長との間に適法な交渉が始まったと言わなければならない。

検察官は、沢田校長が自席にすわり組合との交渉に応じたのは、真意に出たものではなく、組合側がどうしても校長室から退出せず、その場の雰囲気からとても帰してくれないだろうと思わざるを得ない状況にあったためであると主張しているが、沢田校長は、公判廷において、組合が単P会長会議の発言について抗議あるいは事実確認のために来ることは予想しており、その際には右会議の目的及び性格などを一応説明する程度の対応はせざるを得ないだろうと考えていたため、一、二時間程度であれば、組合と話し合いをしてもよいとの気持ちで自席にすわった旨供述しているのであり、また沢田校長がわずか五分程度の組合とのやり取りの末組合と話し合う態度を示したことは、右話し合いの承諾が真意に出たことの証左でもあり、検察官の主張は失当である。

そして、その後一時間程は、沢田校長と組合との間に極めて穏やかな話し合いが続けられていたのであり、被告人らが校長室に入室した直後から沢田校長に対する監禁が始まったとすることは到底できない。このように、当初沢田校長が組合との話し合いに応じて、両者の間に適法な交渉が始められたことは、監禁罪の成否について重要な意味を有すると言わなければならない。

(三)  沢田校長の退出行動

検察官は、沢田校長は、終始校長室からの退出の意図を明確にし、退出を繰返し試みたが、その都度組合の妨害に会い、退出することができなかったのであり、被告人らの監禁の意思及び監禁行為は明白であると主張する。

沢田校長は、午後七時五五分ころから午後九時四五分ころまでの間五回にわたって校長室から退出しようとした。沢田校長がとった行動は五回ともほぼ同様であって、自席から校長机の右側を回わり被告人鐘ケ江がすわっていた脇を通り職員室へ行こうとしたものであるが、いずれも被告人鐘ケ江のところまで行き、同被告人の体に触れる程度で、それ以上の行動には出ずに、自席に引き返すという行動であった。これに対し組合側は、右五回のうち最も強い行動をとったときでも、被告人鐘ケ江が中腰になるような格好で、左肩を少し出すような姿勢をとって同校長の退出を防ぎ、他の組合員は自席で立ち上がったりあるいはすわったままで、沢田校長の退出行動に抗議するとともに、沢田校長が被告人鐘ケ江の脇を通って退出するとき同被告人の体を押すような形になるため、押したらいかん、倒れるですよなどと言ったり、校長の教育者としての立場上、問題解決の義務あることを主張して同校長の行動を牽制したにすぎず、被告人鐘ケ江が椅子から立ち上がって通路を塞ぐということもなかったし、また組合員が自席を離れ、職員室への通り道に立ち塞がり沢田校長が被告人鐘ケ江の脇を抜けて来ることに備えるという行動もなく、また五回の退出行動のうち、被告人鐘ケ江が右のような姿勢をとらなかったこともあるし、組合側の抗議が極めて短時間で終わったこともあった。

そもそも、前記のとおり同校長と組合側との間で適法な交渉が始まり、単P会長会議において組合組織及び組合員の地位の根幹に係わる重大な発言などをし、また町教組との合意に基づく要望書に反する発言をした沢田校長としては、組合側の交渉に誠実に応じ、自らの発言及び行動を組合に釈明すべき立場にあったのであるから、組合との話し合いを解決させることもなく、またその後の交渉の約束をするわけでもなく、一方的に退出しようとした行動は不当なものであった。沢田校長はいずれの退出行動の際にも被告人鐘ケ江のそばまで行っただけであり、同被告人と壁際に置かれていた書棚との間は約四、五〇センチメートルの間隔があり、同被告人のとった最も強い妨害行為も中腰の格好で左肩を出す程度であったから、これを押しのけて職員室へ行き校外へ退出することは十分可能であった(現に沢田校長は三月二〇日早朝被告人鐘ケ江がほぼ同位置にすわっていたのに、同被告人の脇を通り職員室へ行き校外に退出している)のに、このような行動をとらず、組合側の問題を解決しないで帰ることへの抗議を受けて、自席に引き返している事情に鑑みると、沢田校長が、真に組合の抗議を無視し、問題の解決をしないままであくまでも退出する意思があったのか疑問なしとしない。

一方組合側が、沢田校長を監禁してまで交渉を進めようとの意思があるならば、当然行うであろうところの妨害行為には出ずに、前記のとおりの行動にとどまっていることからして、被告人らの行動は、沢田校長が組合との適法な交渉をしていたのに何ら問題を解決することなく、一方的に退出しようとしたことに抗議して翻意を促す意思から出たものであると認める余地が十分にあるのであり、被告人らに沢田校長を監禁する意思があったと認めることはできないし、また右行動が沢田校長の校長室からの退出を不能あるいは著しく困難にした行為であると断ずることもできない。

(四)  監禁の手段としての脅迫行為について

検察官は、被告人らが沢田校長に対し、前記公訴事実記載の言辞を申し向けて脅迫し、あるいは沢田校長の机などを激しく叩き、同校長の手首を叩くなどして同校長の校長室からの脱出を著しく困難ならしめたと主張する。

被告人らが、沢田校長との交渉の途中で、検察官主張の言辞を同校長に申し向け、校長机を叩いたり、同校長の手甲を指で数回叩いたことがあったことは検察官主張のとおりであり、また組合員の中に交渉の場にふさわしくない不真面目な態度が見受けられたり、沢田校長に対し礼を失する暴言が発せられたりして組合活動として常軌を逸している面があったこと、交渉が相当喧噪状態になったことがあったことなどは否定し難いと言わざるを得ない。しかし、交渉の過程で右のような状態があったことと監禁罪の成否とは別個の問題であり、検察官が主張する事柄が、沢田校長を監禁するための手段としてなされた言動か否かを検討する必要がある。

前記のとおり、沢田校長は、組合側の交渉に誠実に応じるべき立場にありながら、交渉の当初一時間程組合側の質問に対し普通に応対していた(しかしこの段階においても自らの言動を組合側に釈明するという誠実な態度をとっていたわけではない)だけで、その後は、組合側の質問をはぐらかす態度を取ったり、一時間余り沈黙を続けたり、一方的に退出行動を繰り返し、あるいは机にうつ伏せになったり、天井を見上げて組合側の質問に何ら反応を示さないという全く不誠実な交渉態度に終始した。

沢田校長は、公判廷において、このような態度をとったことについて、単P会長会議は秘密会であったので組合側に発言内容を言うわけにはいかないことと、組合側が事前の了解を求めないで突然交渉を求めてきたことをあげて、組合側と真面目に交渉すべき何ものもなかった旨供述している。

しかしながら、単P会長会議が秘密会であったことは、前記のとおり左程明確に定められたわけではなく、仮に右会議が秘密会であったとしても、沢田校長が右会議で発言した内容の重大性に鑑みるとき、組合側の交渉の求めに対しこれを理由に拒否し、あるいは自らの言動につき全く釈明しないなどという態度は許されるべきものではなく、また組合側が事前の了解を求めないで突然交渉を求めてきたことについては、前記のとおり沢田校長が一旦交渉に応じることを承諾しているので、真面目に対応しなかった理由とすることはできない。

右のような沢田校長の態度に対し、組合側が抗議をしあるいは次第に同校長の態度に憤激して交渉が喧噪状態になり、行きすぎた発言がなされるということはある程度いたしかたのないことであり、右のような言動があったからとして、これを監禁の手段としての脅迫行為と見ることはできない。公訴事実記載の各発言を検討すると、「日が暮れれば我々があきらめて帰るぐらいの幼稚な考えをもっているのか」「明日あさって休みだから来とっとですよ」「一夜明けたらとんでもないことが起こるですよ」「帰らんつもりで来とるとですよ、はよう言わんですか」「生半可な決心で来とっとじゃないですよ」などという発言は、沢田校長が一時間余りの沈黙を続けている中で、組合側から言われたものであり、いずれも沢田校長の沈黙の態度に抗議し、同人に真面目な応対を促す発言であると認められる。次に「みずから教員の排斥運動をする校長が対馬の教育界にいることを新聞でたたきますよ」「あなたの教員生命がなくなるまでやりますよ」という発言は、組合側が沢田校長に対し、単P会長会議で同校長が組合員の赴任拒否の要望書を出すように指導したかどうかの確認を求めていたときの発言であり、沢田校長が右のような指導をしたこと及び右確認を求められながら沈黙を続けていた態度に抗議をする意味でなされたと認められる。また、「組合をひぼうして申し訳ないちゅう謝罪文を書きませんか」という発言は、沢田校長が第三回目の退出行動を起こし、自席に引き返した直後に被告人乗村が発言したものであり、同校長の退出行動を行う態度に抗議をする意味もあって発言したものであり、これ自体何ら脅迫行為にあたるものではない。さらに組合員が沢田校長の机を叩いたり、同校長の手甲を指で叩いたりした行為は、確認書が作成され読み上げられたあと、沢田校長が机にうつ伏せになるなどして全く応答を示さなくなり、組合側が交渉人数を減らすことや確認書から責任問題の項目を削除することなどの提案をしても全く反応を示さない同校長の態度に抗議し、同人の応答を求めるためになされたと認められる。以上のとおり、右のような言動が沢田校長を監禁する手段としての脅迫行為としてなされたと認めることはできないし、被告人らが沢田校長を監禁する意図をもって右言動をなしたとも認められない。

(五)  夜間の空白時間の存在について

検察官は、被告人らが深夜になって一時校長室から引き揚げた際も、校長室の様子は職員室からガラス越しに確認できるのであり、沢田校長が校長室から直接外に出ることができる扉を利用して、外に出ても職員用靴箱まで行って靴を履くまでの間に容易に被告人らに発見され校長室に連れ戻されることは必定であるから、なお右時間も監禁が続いていると主張する。

沢田校長は、三月二〇日午前一時三〇分ころ被告人阿比留義見が校長室を退出してから、午前四時ころ被告人乗村が校長室に入室するまでの約二時間半の間、校長室に一人でいた。被告人らが校長室を退出する際、取りはずしていた校長室と職員室との間の引き戸は元に戻され、完全に閉めて退出した。右引き戸は一・七七メートルの高さがあり、ほぼ半分から上の部分に三段のガラスがはめられており、そのうち下二段が曇りガラスで、上一段がすりガラスとなっており、職員室からは立った状態でなければ校長室の状況を見ることはできない。校長室には室内から旋錠されている直接外に出ることができる扉が設置されていた。被告人らは校長室を退出したあとは、それぞれ職員室で碁を打ったり、雑談をしたり、あるいは仮眠をとるなどしており、校長室の状況を監視するということはなかった。右状況によれば沢田校長は容易に校長室に設置されていた扉から校外に退出することができたのであり、沢田校長を校長室から退出することを著しく困難にする状態が存していたということはできないし、被告人らに沢田校長を校長室に監禁しようという意思を認めることもできない。なお検察官は職員用靴箱まで行って靴を履くまでの間に容易に被告人らに発見され校長室に連れ戻されると主張するが、沢田校長が被告人らから監禁されているという認識であったならば、職員用靴箱まで外履きを取りに行くなどということは考えられないことであり、検察官の主張は失当である。

(六)  交渉時間が相当長時間に及んだことについて、

本件交渉は、一時中断があったものの、三月一九日午後五時ころから翌三月二〇日午前八時ころまでの間約一五時間余に及んでいることが認められ、相当の長時間を要している。

しかしながら、被告人らは当初短時間で交渉を終えるつもりできていたのであり、右旨を再三沢田校長に対しても表明していた。本件交渉が右のように長時間になったのは、沢田校長の交渉に応じない全く不誠実な態度に起因するものであり、長時間を要していることをもって沢田校長に対する監禁状態があったと推断することはできない。

(七)  その他の事情

1 本件交渉の途中で、根〆会長から沢田校長に対し四度電話があったが、被告人らはそのうち三度沢田校長に電話を取り継ぎ(一度は根〆会長からの伝言を伝えた)、同校長が外部との接触を保つことを自由にした。沢田校長も右電話で、根〆会長に対し組合に監禁されているなどと訴えることもなかった。

2 沢田校長は、三月二〇日午前八時ころ自席から被告人鐘ケ江の脇を通り、職員室を抜けて校外に退出できた。その際の被告人鐘ケ江の位置、左肩を出して退出を防ごうとした行為は前日と同様であったが、沢田校長は同被告人の脇を通り抜けることができた。被告人松園が沢田校長のあとを追い、職員室から廊下に出る扉を押さえたという行為があったが、それも沢田校長に振り払われる程度のもので、沢田校長が問題を解決しないで退出することの抗議であって、監禁行為にあたるとすることもできない。その他の組合員は、直接的に退出を防ぐ行為は取っておらず、また沢田校長が廊下に出てからは、これを追いかけて連れ戻そうとしたこともないことは、被告人らにおいて同校長を監禁しようとの意思まではなかったことを示している。

(八)  結論

以上検討した諸事情に鑑みるとき、交渉のいずれの時点においても、被告人らが客観的に沢田校長の校長室からの退出を不可能または著しく困難にして監禁したものということはできず、また主観的な面においても被告人らに監禁の故意があったと認めることができないので、いずれの点からも本件監禁の点について犯罪の証明がないことに帰する。

八  強要未遂の訴因について

次に強要未遂罪の成否について検討する。

(一)  監禁行為の不存在

検察官は、沢田校長に対する強要未遂罪の手段として同校長に対する監禁行為の存在を主張するが、前記に検討したとおり、同校長に対し監禁行為があったと認めることはできないので、これを強要の手段とすることはできない。

(二)  強要の手段としての脅迫行為

検察官は、強要の手段として公訴事実記載の脅迫行為があったと主張する。

しかしながら、前記に検討したとおり公訴事実記載の言動は、沢田校長の交渉における不誠実な態度に対して向けられた抗議であり同校長の真面目な対応を促す発言であって、これを強要の手段としての脅迫行為と認めることもできない。

(三)  強要の意思の不存在

被告人らは、当初沢田校長に対し、単P会長会議における発言内容を確認する目的で来たのであったが、沢田校長が組合側の指摘する発言を認めようとせず、またそれが事実ではないと発言するに及んで、単P会長会議において組合側が指摘する発言はしなかった旨の確認を求めることにした。被告人鐘ケ江が作成した確認書には、沢田校長の発言を受けて、責任問題の項目が記載されていたが、沢田校長の対応により組合側は右確認書からその条項を削除するなどもした。そして、最終的には、沢田校長が組合側に全く応答しなくなったために、新たな期日をもうけて交渉してはどうかとの提案もするに至った。このような状況に鑑みると、被告人らに、沢田校長を強要してまで確認書に署名押印を求める意思があったと断ずることはできない。

(四)  結論

以上のとおり、強要未遂の訴因についても、被告人らにおいて、強要の手段たる暴行、脅迫があったこと、強要の故意があったこといずれも認めることができないので、犯罪の証明がないことに帰する。

よって、被告人五名に対し刑事訴訟法三三六条によりいずれも無罪の言い渡しをする。

(裁判長裁判官 萩尾孝至 裁判官 山田利夫 裁判官 前田順司)

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