長崎地方裁判所 昭和56年(行ウ)4号 判決 1990年12月20日
原告
山田芳廣
右訴訟代理人弁護士
森川金寿
同
佐伯静治
同
戸田謙
同
芦田浩志
同
高橋清一
同
藤本正
同
重松蕃
同
柳沼八郎
同
尾山宏
同
新井章
同
雪入益見
同
北野昭式
同
深田和之
同
谷川宮太郎
同
立木豊地
同
森永正
被告
長崎県教育委員会
右代表者委員長
中村春光
右訴訟代理人弁護士
木村憲正
同
俵正市
同
草野功一
右指定代理人
篠崎久躬
同
小橋行雄
同
浦信好
同
畑野秀男
同
西村和馬
同
辻亮二
同
小林哲男
同
森山弘
同
黒川隆昭
同
峰松終止
同
村上勲
同
杉澤伸慈
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
(請求の趣旨)
一 被告が原告に対してなした昭和五六年七月二〇日付分限免職処分は、これを取り消す。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
(請求の趣旨に対する答弁)
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者双方の主張
(請求原因)
一 原告は、長崎市立川平小学校(以下「川平小」という。)に教諭として勤務していた地方公務員であり、被告は原告の任命権者である。
二 被告は、昭和五六年七月二〇日、原告に地方公務員法(以下「地公法」という。)二八条一項一号及び三号に該当する事由があるとして、原告を分限免職処分に付した(以下「これを本件処分」という。)。
三 しかし、右処分事由とされている事実は、教員としての資質にとってささいな程度のことであるか事実の歪曲ないしは誤解に基づくものであり、処分に値するとされている事実は存在しないかあるいは原告の教員としての不適格性や勤務成績不良を基礎付ける事実ではない。
四 仮に、原告に不適格性又は勤務成績不良を疑わしめる若干の事実があったとしても、本件処分は裁量権を逸脱又は濫用したものである。
よって、本件処分は違法であるから、その取消しを求める。
(請求原因に対する被告の認否)
一 請求原因一、二の事実は認める。
二 同三、四の主張は争う。
(被告の抗弁)
一 原告は、昭和二九年一一月一日岐宿町公立学校教員として岐宿町立岐宿小学校助教諭に採用され、以来、昭和五六年七月二〇日本件処分により長崎市公立学校教員を免職されるまでの間、二六年余にわたり、長崎県の公立学校教員の職にあった。
二 原告には、以下に具体的に述べるとおり地公法二八条一項一号(勤務実績が良くない場合)及び同三号(その職に必要な適格性を欠く場合)に該当する事由が存在したので、被告はやむなく原告を同法に基づき分限免職処分に処したものであって、本件処分は適法である。
三 まず、原告は、昭和五〇年度以降本件処分に至るまで、再三再四にわたって故意に職務上の義務を拒否し、職務上の上司であった歴代校長の職務命令及び職務に関する指導に反抗して従わず、また、指導主事の職務として行った原告に対する指導に反抗するなど、原告の独善的かつ反抗的態度は年とともに一層顕著となった。右事情を、その性質、態様、背景、状況等の諸般の事情に照らして評価すると、原告には、簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性格等に起因して教育公務員としての職務の円滑な遂行に支障があることが明らかであって、原告は教育公務員としての適格性を欠くものといわざるを得ない。
右に該当する主な事実関係は、次のとおりである。
1 職務義務を故意に怠り、職務命令を拒否し、指導要録の記入を行わなかった事実
(一) 原告は、原告が担任した学級児童の小学校児童指導要録(以下「指導要録」という。)のうち第二学年次の「各教科の学習の記録、Ⅱ観点別学習状況」欄の、原告の担当教科である国語、社会、算数、理科及び図画工作(以下「五教科」という。)の評価、記入を行なわず放置した。
その事実の経過は以下のとおりである。
(1) 原告は、昭和五五年四月一日から昭和五六年三月三一日まで、川平小第二学年の学級担任として、同学級の国語、社会、算数、理科、図画工作、体育の各教科を担当し、学習指導等に当たって来た。
(2) 昭和五五年度になって、新小学校学習指導要領が全面的に施行され、小学校児童指導要録の形式も変わることとなり、新指導要録に関して研修会等が行われ、各学校においても、校内研修会等を通じて新指導要録の解説、記入上の注意などの徹底が図られた。また、被告も、新指導要録に関する指導のため「指導要録の様式・解説」を県下職員に頒布した。同解説には「観点別学習状況評価のための参考資料」を掲載し、教員が学習指導要領にあげられている各教科、学年、単元等の目標を具体的な下位目標に分析し、児童の学習状況が観点別に把握できる達成基準作成の参考資料の一つとした。
(3) 訴外川平小松本校長は、昭和五六年三月二三日午前一〇時三五分ころ、同校職員室において、同校全職員に対し、「昭和五五年度学年末成績一覧表の未提出者は、かねて指導のとおり作成し、本日一六時三〇分までに校長へ提出すること」との職務命令を発し、また、同月二四日午前八時四〇分ころ、同所において、同校全職員に対し、「指導要録及び諸帳簿は定められた期日までに提出しなさい。」との職務命令を発したところ、同校の他の学級担任は、提出期限であった同月二五日までに、同校長の決裁を経た学年末成績一覧表を指導要録に転記して提出したが、原告は二五日までに成績一覧表も提出しなかった。そこで、同校長は、同日午前一一時ころ校長室において、原告に対し、「指導要録及び諸帳簿を本日中に提出すること。提出がないときは自宅研修は承認できない。」との職務命令を発した。
(4) 原告は、指導要録用の学年末成績一覧表の作成を拒否し、指導要録を提出しないまま、昭和五六年三月二五日、松本校長に対し、翌二六日の自宅研修を認めるよう要求してきたため、同校長は、これを認めず、指導要録の提出を命じたが、原告はこれに従わず、同月二六日、二七日の両日年次休暇をとった。
同月二八日、原告が出勤したので、同校長は原告に前記同月二五日の職務命令と同旨の指導を行ったが、原告はこれに従わず、同月二八日(土)から四月一日(木)にかけて二日と五時間の年次休暇をとった。
(5) 同校長は、原告担任学級の指導要録を決裁できないまま、昭和五六年度人事異動により転任し、平間校長がその後任となった。同校長は、四月二日、同校教務主任永安信彦が紛失を避けるため原告から預かっていた指導要録を見て未完成であることを知り、原告に対し、指導要録が完成されていないから早く完成させるよう命じたところ、原告は「前校長との関係で記入を中止している。その理由は、前校長が『観点別学習状況』記入に関し指示したことは評価への介入である。もう一つは前校長が自宅研修を拒否したことである。」「四月六日までには記入する。」旨を述べた。
四月六日、同校長は、原告の指導要録を点検したところ、「Ⅱ観点別学習状況」の評価に関し、村田教諭担当の「音楽」と、原告担当の「体育」については記入があったが、原告担当の五教科について記入されていなかったので、原告に対し、「Ⅱ観点別学習状況」の五科目の評価を行い記入するよう命じたが、原告は、「観点別学習状況の評価は納得いかないので評価していない。」旨述べてこれを拒否した。
その後、原告は、「前校長が『+』『-』について指示したことは評価への介入である。」「前校長が自宅研修を拒否したのは私に対する対抗手段だ。」との二点を理由に、四月九日から五月一一日まで同校長の再三にわたる命令にもかかわらず「Ⅱ観点別学習状況」の五教科を評価し、指導要録へ記入することを拒否し続けた。この間、長崎市教育委員会(以下「市教委」という。)は、五月八日、同校長を通じて原告に対し、指導要録記入に関し市教委に出頭するよう命じたが、原告は出頭を拒否した。
五月一二日、同校長が「資料の提出を求めたとき、資料未完成のままで児童指導要録を作成していたのではないかというようにとれるような誤解を与えたということは遺憾であった。」との前校長の真意を原告に対して伝えたところ、原告は六月初旬までには「Ⅱ観点別学習状況」の五教科を評価して、指導要録を完成させると答えた。同日から五月二六日までの間、同校長は指導要録記入に関し、早く提出させよとの市教委の指示を伝え、指導要領の記入を指導したが、原告は六月初旬提出を主張し続けた。
(6) 五月二七日、市教委は、新任校長である同校長指導のため森岡指導主事を同校に派遣し、併せて、指導主事の法令上の職務(地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下「地教行法」という。)一九条三項)として、原告の指導を行わせたところ、原告はこれに関し、同校長に対して、「市教委が校長の頭越しに勝手に指導するなどの挙に出ることは、指導要録を記入するという今までのことを壊すことになる。」「指導主事が一方的に指導し、自分の意見も聞かずに出て行った。越権行為は許されない。」などの趣旨の抗議を行い、指導要録の記入を拒否した。
(7) その後、六月二日まで二回にわたり同校長は原告に対し、指導要録記入に関し職務命令を発したが、原告は「書く意思はない。」「約束は白紙だ。」「約束は市教委によって一方的に壊された。提出しない。」などの旨を述べ、指導要録の「Ⅱ観点別学習状況」の五教科の評価及び記入を拒否し続けた。
(二) 指導要録は、学校教育法施行規則一五条に定められた学校に備付けを義務付けられている諸表簿の中でただ一つ二〇年以上の保存が定められている最も重要な表簿であり、被告及び市町村教育委員会は半永久の保存を指導しているものである。
指導要録の作成は、同規則一二条の三第一項に校長がしなければならないとされているが、校長は各学級担任に学級担任の職務として指導要録を作成させ、点検のうえ決裁している。指導要録は、学級担任職員が一人ひとりの児童について、日頃の学習状況、毎日の生活行動等をつぶさに観察し、かつ観察のうえに立って適切な指導を行い、その観察、指導によって児童が成長・発達した記録を記入していく累加記録簿であり、これを見ることによって、各児童の在学中の学習状況、成長・発達の過程、行動様式が明確となるものである。そこで、新たに担任を命じられた担任は、指導要録の記録を調べることにより、個々の児童の学習上、生活指導上の手がかりを得、的確な指導を行い得るものであり、指導要録の記入が拒否されれば、個々の児童の成長・発達過程の累加記録が中断され、事後の指導上に支障を来すものである。また、指導要録は、対外的証明の原本としての性格をも持つものであるが、記録不備の指導要録は、証明内容の信憑性を疑われるものとなりかねない。
昭和五五年度の新指導要録が、観点別学習状況の評価を新たに採り入れた目的は、個々の児童が教科の具体的下位目標に到達しているか否かを評価し、具体的下位目標に到達していない場合、何らかの形で補充指導を行うなど、評価と指導を直結し、指導の反省と補充と改善とを導き出そうとすることにあった。したがって、観点別学習状況の評価は、単に児童の教科の観点に対する到達度を示すものにとどまらず、累加記録として、事後の指導上不可欠のものであり、これがおろそかになされているときは、個々の児童の指導への手がかりを求める術がないことになるものである。
2 五島在勤時代に職務を放棄し、職務義務を怠った事実
(一) 職務放棄の事実
(1) 原告は、昭和四六年度から昭和五一年度まで富江町立盈進小学校(以下「盈進小」という。)に勤務していたものであるが、昭和五〇年度に訴外同校山口校長の職務命令に執拗に抗議し、職務を放棄した。
その事実の経過は以下のとおりである。
イ 同校長は、昭和五〇年度は原告を専科教員とし、学級担任を命じなかった。
ロ 昭和五〇年五月一九日から同月二三日までの五日間、盈進小では、午後の授業を打ち切り、同校学級担任による児童宅の家庭訪問が行われた。
右家庭訪問の第一日目であった同月一九日一二時過ぎ、原告は訴外同校事務職員山口庄三郎の机上に自宅研修承認願を置き帰宅しようとしたので、同事務職員は同承認願を急ぎ同校長のもとに持って行った。同校長は、同承認願を見て、直ちに原告を校長室に呼び「自宅研修は認めない。校内で研修しなさい。帰宅するなら年休にしなさい。」との趣旨の指導をしたところ、原告は、「校長に年休を出せという権利があるか。」「自宅研修承認願を出す。」「午後からは児童は下校しているし、授業に支障がなく、学級担任ではないから家庭訪問もないので自宅研修をしたい。」「承認が認められない根拠を、明日、この承認願に書いてもらいたい。」などの旨を同校長に申し向け、同校長の制止にもかかわらず、同日一三時三〇分ころ職務を放棄して帰宅した。
ハ 翌二〇日、同校職員朝会後、同校長は原告を校長室に呼び、前記承認願の余白に赤マジックペンで「不承認、地公法三五条」と朱書し、同校長の私印を押して返すとともに、「昨日の帰宅した取扱いはどうするのか」と尋ねたが、原告は「自宅研修承認願を撤回するつもりはない。」などの旨を固執し、同校長の自宅研修は承認しない旨の意向を無視する態度を示したので、同校長はやむなく、自宅研修承認願をめぐる原告の言動を富江町教育委員会あてに事実の報告として具申すると申し渡して話を打ち切った。
同日一一時三〇分ころから一二時五分ころまで盈進小分会役員ら三名は、原告の自宅研修承認に関して同校長に原告の右自宅研修を認めよとの話合いを求め、同月二〇日以降も原告及び盈進小分会役員らは右自宅研修を認めよと要求し、同月二四日一一時五〇分から、同月二七日一三時五〇分から、いずれも勤務時間中に、また六月五日は放課後に、同校長に対し、執拗に抗議を繰り返した。
同校長は、以上の経過について昭和五〇年六月五日付盈小親第四号により富江町教育長あてに「教職員の自宅研修承認願についての事実報告」を具申した。
ニ 原告及び盈進小分会役員らは、その後も六月一二日一四時四〇分から一六時三〇分まで、七月八日一四時四〇分から、同月一四日一六時一〇分から、いずれも勤務時間中に、同校長に対し、交渉と称して原告の自宅研修を認めよと抗議を繰り返してきた。
ホ 原告の五月一九日一三時三〇分から一六時四〇分までの勤務時間に関しては、自宅研修不承認、年次休暇未提出のまま処理され、五月分職員勤務状況報告書が六月上旬富江教育長あてに提出された結果、原告の右勤務時間の職務放棄は出勤簿上、出勤として扱われるという不都合が生じた。
その後、原告は、同校長が前記「教職員の自宅研修承認願についての事実報告」を富江教育長あてに提出したことを知って、七月中旬に至って五月一九日分の年次休暇届を提出したが、既に六月分職員勤務状況報告書の提出も終わっていたため、同校長は、出勤簿の訂正も行わず、また五月分職員勤務状況報告の訂正報告も行わなかった。
(2) 自宅研修は、教育公務員特例法二〇条に根拠を有するものであるが、教育公務員の権利というべきものではなく、教育公務員はその職責を遂行するために絶えず研究と修養に務めなければならないというその職務の特殊性から認められた地公法三五条(職務専念義務)の例外規定にすぎず、自宅研修を承認するか否かは、校長の裁量判断に属せしめられているところである。
原告が盈進小の他の教員が児童の家庭訪問を行っている間、担任児童がないとの理由のみで自宅研修を要求し、承認されていないにもかかわらず帰宅したことは、職務義務に反し、職務を放棄したものと言わざるを得ず、更に自宅研修を承認されなかったことに対して、同校長に執拗に抗議したことは、原告の独善的かつ反抗的性格の表れである。
(二) 出勤簿に押印を拒否した事実
(1) 原告は、盈進小勤務当時既に教育公務員として在職二一年を経、出勤したときは自ら出勤簿に押印しなければならないことが職務義務であることを熟知していた。さらに、昭和五〇年四月一〇日職員朝会において盈進小山口校長から出勤簿に捺印せよと注意され、同月二八日の職員朝会において訴外同校岩田教頭から全教職員に対し、また、昭和五一年度の訴外同校藤田校長から原告に対し、同旨の職務命令及び指導がなされた。それにもかかわらず、原告は、昭和五〇年六月一四日から昭和五二年三月末までの間、一年一〇か月にわたって一切出勤簿に押印しなかった。
(2) 原告は、公立小学校教員であるから、地教行法三七条に定められた県費負担教職員であって、同法四三条一項により、その服務に関し市町村委員会の監督に服するものとされ、同条二項に基づき、その職務を遂行するに当たって、市町村委員会の定める教育委員会規則及び規程等に従い、かつ、市町村委員会その他上司の職務上の命令に忠実に従う義務を有するものであるところ、富江町教育委員会は、同法四三条の規定に基づき、富江町公立学校教職員の服務につき、「昭和三五年五月教職員の職務規程」を定め、その「(二)教職員の服務規定・附用務員勤務内規三職員の勤務」の第二項に「職員は出勤後直ちに出勤簿に捺印し、始業前に次のことをしなければならない」と定めており、原告には服務義務として出勤簿押印の義務がある。
(3) 原告が出勤簿押印に関する校長の指導及び職務命令などがあった当日あるいは翌日においても押印しなかった事実からすれば、原告は故意に職務義務に違反し、職務命令に従わなかったものと認められ、これは、原告の公務への非協力、法令及び校長の職務命令に対する反抗的態度の表れといわねばならない。
(三) 週案提出を拒否した事実
(1) 原告は、昭和五〇年度、山口盈進小校長の職務命令により、訴外同校教務主任が、毎週、職員朝会において、週案提出に係る職務命令及び指導を伝達したにもかかわらず、週案提出を拒否し続け、また、昭和五一年度の藤田校長に対しても週案を提出しなかった。
(2) 地教行法二三条には教育委員会は教育課程の管理権限を有することが定められており、また同法三三条一項前段には、教育委員会は教育課程等教育の管理運営の基本的事項について必要な教育委員会規則を定めるものとする旨定めているが、富江町教育委員会は、同条の規定に基づき、富江町立小・中学校管理規則を定め、教育課程につき四条一項に、学校の教育課程は、学校教育法施行規則二五条及び五四条の二の規定によるもののほか県教育委員会及び町委員会の定める基準により校長が編成する旨定め、各学校の教育課程の編成は学習指導要領の規定及び県教委、地教委の定めた基準により、地域の実状に応じ校長が編成し、教育委員会に届け出るものとした。また、学校教育法二八条三項には「校長は、公務をつかさどり、所属職員を監督する。」旨定められているが、右「公務」には、人的、物的、教育の三つの内容が含まれているものとされるところから、校長は人的管理、物的管理、教育管理の権限を有するものと解され、右「所属職員を監督する」ことの内容は、当然、校務に関して所属職員を監督するというものであるから、教員が行う教育活動についても、校長は、校長が編成した教育課程に基づいて教育が行われる状況を常に把握し、時宜に応じて教員に対し適切な助言指導を行わなければならないものである。
他方、直接児童の教育に携わる教員は、無計画に教育を行うことは許されず、教育課程に基づき年間学習指導計画をたてることになるが、年間学習指導計画は、年間の授業進度のおおよその目安であるから、これを基に、より具体的に毎月の授業進度計画(月案)をたて、さらに、月案を基にして一週間分の毎時間ごとの授業の題材等を内容とする授業計画をたて、これに基づく教育実践の結果を記録し、次週の授業計画への資料とするとともに、授業の進め方に対する反省資料とすることが必要である。この毎週の授業計画と実践結果を記録していく表簿が週案である。
教員にあっては、校長の編成した教育課程に基づき、年間指導計画、月案をたて、これに基づき週案を作成して校長へ提出する職務があり、原告は、右の職務義務を怠ったものである。
3 長崎市在勤時に職務義務を怠り職務命令に従わなかった事実
(一) 学校訪問公開授業指導案提出拒否の事実(その一)
(1)イ 原告は、昭和五二年度及び昭和五三年度、長崎市立土井首小学校(以下「土井首小」という。)に勤務していた。
ロ 市教委は、その業務として、計画的に指導主事による学校訪問を行っており、昭和五三年度、教科指導を主とする訪問と、事務指導を主とする訪問に分けて実施されることになったが、土井首小は教科指導を主とする訪問校となっていた。
市教委は、あらかじめ訪問校に「昭和五三年度学校訪問実施要項」を送付し、その中で、教科指導訪問につき、指導の主な内容を「(1)学校教育目標具現化のため組織運営に関すること。(2)教育課程の組織・運営に関すること。(3)現職教育の組織・運営に関すること。(4)施設・設備の教育的管理・活用に関すること。(5)教育課程の実践に関すること。」と明示したうえ、「二校時、三校時、四校時、五校時を公開授業とし、」「各教師は公開授業のうち、いずれか一つの授業の指導案を用意すること。」とし、学校は、指導係長の指示に基づき、公開する授業の指導案を含む学校訪問要項を作成し、訪問日のおよそ一週間前までに指導係長あて提出すべき旨定めていた。
ハ 同校高雄校長は、右「昭和五三年度学校訪問実施要項」に基づき、同校教員に、当初予定された学校訪問に関し同年一〇月二一日、同月二三日、同月二五日に、延期された二回目の学校訪問に関し昭和五四年一月二〇日、同月二五日、同月二七日及び同月三〇日に、それぞれ指導案提出に係る職務命令を発し、また、長崎市教育長も、昭和五四年一月三〇日の学校訪問当日、同校において指導案提出を命じたが、原告を含む同校職員一七名はこれを拒否し、懲戒戒告処分に処せられた。
(2) 教育基本法六条二項には「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職務の遂行に務めなければならない。」と定められ、教特法一九条一項には「教育公務員は、この職務を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」と定められ、教員には、使命を自覚し、研修に努め、職責を遂行することが義務付けられている。他方、教特法一九条二項は、教育公務員の任命権者は、教育公務員の研修につき、研修に関する計画を樹立し、その実施に努めるべき旨を定め、また、地教行法二三条八号は、校長・教員その他の教育関係職員の研修に関することを教育委員会の権限事項とし、また、同法四五条一項は、県費負担教職員の研修は、市町村委員会も行うことができる旨定め、教育委員会に研修の施設や機会を積極的に設定する責任及び義務を課しているが、さらに教育委員会は、指導主事(地教行法一九条三項)を置き、地教行法一七条に定める教育長の職務を補助執行させ、直接教員の研修、指導に従事させている。指導主事による学校訪問は、教育委員会が研修の機会を設定し、指導主事が直接教員を指導するという、教員にとっては有効な研修方法である。
教員の職務の中で最も重要なのは、授業を行うことであり、教員の研修の中で最も重要なのは、授業内容を深めるため、教材及び指導方を研究することであるが、教材研究及び指導方研究に関して効果的な研修方法は、研究授業又は公開授業を行い、指導助言者又は参加者から指導・助言を仰ぎ、切さ琢磨することであり、就中、地教行法一九条三項に基づく専門職である指導主事から、研究授業または公開授業を通して教材研究及び指導方に関する指導助言を仰ぐことが、さらに有効な研究方法である。
研究授業又は公開授業において、指導者又は参観者は、参観にあたり、授業者から授業に関する計画、すなわち指導案を配布されなければ、授業者が授業に際し教材研究を如何に行い、指導方法について如何なる工夫をしたかを知る術がなく、授業のねらいも曖昧となり、指導者又は参観者は的確な指導・助言を行うことができず、研究授業又は公開授業の意図するところは果たされないことになる。ところが、原告らからは、教師が本来主体的に決め自らの為に書くものであると主張するその指導案をも含めて遂に指導案というべきものの提出がなかったため、予定された学校訪問は中止を余儀なくされた。結局、原告らは、学校訪問を阻止する目的で指導案の提出を拒否し、他の教員の研修の機会をも奪ったものであるといわざるを得ない。
(3) 度重なる職務命令にもかかわらず、学校訪問が中止された場合に教育現場に与える悪影響をも顧みることなく、学校訪問を阻止する目的で指導案を提出せず、自らも研修の機会を拒否したことは、原告の反抗的性格と他人の迷惑を考えない自己中心的性格と教師としての矯正しがたい不適格性を示すものである。
(二) 学校訪問公開授業指導案提出拒否の事実(その二)
(1)イ 原告は、昭和五四年度川平小に勤務していた。
ロ 市教委は昭和五四年度も昭和五三年度と同様な目的で、長崎市内の学校訪問を計画し、川平小についても同年一一月二七日に学校訪問を行った。
ハ 川平小では、同年八月二一日以降数回にわたって職員会で学校訪問実施について話し合いがなされ、一〇月一九日に職員会で指導案の様式などについても検討された上でその提出期限を同年一一月九日と決定した。原告は種々の理由をあげて指導案の提出に反対し、右期限までに一人だけ指導案を提出しなかったので、穂坂校長は、一一月一二日教頭立ち会いの上原告に対し指導案の提出を求めたが、原告はこれに応じようとしなかった。穂坂校長は、同月一四日午後から校長室で教頭立ち会いの上さらに提出を促したが、原告は、「学校訪問指導要項の中に公開授業、授業視察となっているが、これが市教委の態度を示している。」「土井首小では市教委は強圧的な態度があった。」「学校訪問が指導案を提出することを要件とするとは思わない。」などと主張して、これに応じようとしなかったので、同校長は、同日午後三時四五分に同月一六日午前九時までに右指導案を提出するよう職務命令を発した。
しかし、原告はこれも拒否し右期日までに指導案を提出しなかったので、穂坂校長は、同日午前一〇時三九分に明一七日八時四五分までに指導案並びに分科会の問題を提出するよう重ねて命じた。しかし、原告は、「市教委が学校訪問をするから指導案を提出するように言われるいわれはない。」「学校訪問の指導案のことで処分を受けている者が、川平小に来たからといって数か月のうちに気が変わって提出することはない。」などと述べてこれを拒否した。
右のとおり原告は一貫して穂坂校長の指導案提出に係る職務命令及び指導を拒否していたものであるが、一一月一七日午前八時二〇分には電話で病休を申し出、以後二九日まで病休により出勤せず、指導案は結局提出されなかった。
(2) 原告が、昭和五三年度の土井首小への市教委の学校訪問にあたり指導案の提出を拒否した事実により処分を受けたことに全く反省することなく、昭和五四年度川平小においても校長の職務命令及び指導を拒否し、職務義務に反して校長指定の期日までに指導案を提出しなかったことは、原告の独善的、反抗的態度を示すものである。
(三) 学習指導記録簿提出拒否の事実
原告は、昭和五二年度からの土井首小在勤時、及び昭和五四年度からの川平小在勤時において、高雄校長、穂坂校長、松本校長及び平間校長の再三にわたる厳しい指導にもかかわらず、学習指導記録簿(長崎市立小・中学校においては、前記週案のことを学習指導記録簿という。)の提出を拒否し続けた。
四 つぎに、以上のように職務を放棄して帰宅したり、出勤簿に押印しなかったりの行為や、職務命令や指導を受けながらこれを履行しない行為が教育公務員として勤務実績が良くない場合に該当することはもとよりであるが、さらに、原告は、被告がその基準を定めて行ってきた勤務成績の評定結果のうえからも、勤務実績不良と評価されている。
すなわち、被告が本件処分を行うに至った事由として具体的事実を主張する昭和四九年から昭和五五年までの間の、盈進小、土井首小及び川平小の三校における、山口、藤田、高雄、穂坂及び松本の各校長が原告の勤務を評定し、富江町教育長山下、長崎市教育長田中及び黒岩の各教育長が調整した七回の定期勤務評定の結果は次のとおりである。原告の五島在勤時の勤務評定によれば、原告の勤務成績は、昭和四九年(評定期間自昭和四八年一〇月一日至昭和四九年九月三〇日。以下各年の期間区分は前年の一〇月一日から当該九月三〇日である。)の五島教育事務所管内被評定県費負担教職員(以下「五島の教職員」という。)七〇一名中、最下位五パーセント内のグループに属し、昭和五〇年は五島の教職員七〇六名中、最下位三パーセント内のグループに属し、昭和五一年は五島の教職員六三九名(三井楽町は教育長が新任のため、定期勤務評定を実施しなかった。)中、最下位五パーセント内のグループに属するCであった。
原告の長崎市在勤時の勤務評定によれば、原告の総評は、昭和五二年は長崎教育事務所管内被評定県費負担教職員(以下「長崎の教職員」という。)二七一九名中、最下位二パーセント内のグループに属し、昭和五三年は長崎の教職員二七〇二名中、最下位三パーセント内のグループに属し、昭和五四年は長崎の教職員二六七九名中、最下位三パーセント内のグループに属し、昭和五五年は長崎の教職員二六五八名中、最下位三パーセント内のグループに属するCであった。
これら原告の勤務成績又は勤務評定は、最も良い年でさえ最下位五パーセント内、悪い年には最下位二パーセント内であり、七年の間に評定者である校長が五名、調整者である教育長が三名、勤務校が三校であったにもかかわらず、一貫して下位の評定が行われていたことは、原告が勤務評定から見ても「勤務実績が良くない場合」に該ることを明らかにしている。
(抗弁に対する原告の認否及び反論)
一 抗弁一の事実は認める。
二 同二の主張は争う。
分限制度は、一方で公務員制度の円滑な運営を確保するとともに、他方で、公務員の身分を保障することを基本的な目的としている。したがって、分限処分においては、公務員制度の円滑な運営の確保のみを重視するあまり、公務員の身分保障を軽視してはならないのであり、分限処分の司法審査にあたっても、公務員の身分保障という見地からの合理性が厳しく検討されなければならない。
特に、教員には、憲法二六条「教育を受ける権利」、二三条「学問の事(ママ)由」に由来し、これに基づく教育基本法一〇条、学校教育法二八条六項により実定法上保障された教育権、即ち、教育活動を中心とする教育の内的事項については公権力の指揮、命令を受けず教員自らの専門的自律性に基づき自主的に決定する権能が認められるのであるから、右身分保障の要請は強く妥当し、処分事由として、教員の教育権を侵害するような事実を援用することはできない。したがって、教員の教育内容や教育方法の当否を理由として適格性あるいは勤務成績を判断することは原則としてできないのであり、教員の教育内容や教育方法が教育条理ないし教育専門的見地に極端に反することが客観的に明白である場合に限って、初めて、適格性の欠如又は勤務成績不良を基礎付ける事由となりうるにすぎない。
しかるに、右の原則に反し、本件処分事由には、本来的に処分事由たりえないものが散在しているのであって、それらの事由は、以下に述べるとおり、本件処分事由から排除されなければならない。
そして、その余の処分事由は、教員としての資質にとって、些細なことであるか、事実の歪曲ないし誤認に基づくもので、処分に値する事実は存在しない。
三 抗弁三の冒頭の事実は否認し、その主張は争う。
1 職務義務を故意に怠り、職務命令を拒否し、指導要録の記入を行わなかったとの主張に対して
(一) 抗弁三の1(一)冒頭の事実は否認する。
原告は、後記のとおり、指導要録の観点別学習状況欄について、評価を行った上で十分に記入し、提出したのであり、この点に関する被告の主張は、重大な事実誤認に基づくものであって、その前提を欠くか、仮に、原告の評価方法の不当をも主張しているものとすれば教育の内的事実への不当な介入であり、少なくとも、適格性の欠如又は勤務成績の不良を基礎づける事由とはなしえないものである。
(1) 抗弁三の1(一)(1)の事実は認める。
(2) 同(2)の事実中、昭和五五年度に新小学校学習指導要領が施行され、小学校児童指導要録の形式が変わったこと、「指導要録の様式・解説」に「観点別学習状況評価のための参考資料」の掲載のあることは認める。同解説を県下職員に頒布したことは否認する。同解説は、昭和五五年一一月二〇日までに購入希望者を募り、有償配付されたものである。その余の事実は不知。
昭和五五年度の児童指導要録の様式は、昭和五五年二月二九日付文初第一三二号「小学校児童指導要録及び中学校生徒指導要録の改訂について(通知)」に基づくものであるが、右児童指導要録の特徴は、観点別学習状況欄に到達度評価(絶対評価)方が取り入れられたことである。この到達度評価方は、相対評価方の弊害を補う多くの優れた側面を持っているが、いまだ十分な実践例の積み重ねが少ないこと等もあって、学習目標の達成と不達成とを画する科学的基準が必ずしも十分に確立されていない。したがって、観点別学習状況欄の評価にあたっては、試行錯誤を繰り返しながら、より適切な基準が期待されていたわけであり、昭和五五年度は、その第一歩だったのであって、被告も試行錯誤を予定していた。
そして、川平小においても、一応新指導要録の研修が行われたものの、その際配付された資料によれば、「基礎的目標」、「発展的目標」、「必須の基礎となるような目標」、「そうでない目標」の相互関係及び具体的なあてはめの基準が明らかでないこと、学校全体の正答率を達成・不達成の基準とすることは到達度評価方の特質を没却するものであること、必ずしも合理性のない仮定の上で数量的操作を重ねるため具体的妥当性を欠く危険のあること等の根本的問題点が含まれていたが、原告が右問題点について質問しても、明確な返事がなされなかった。
また、川平小は一学年一学級でもあり、教師集団内部での評価基準の研究は必ずしも十分に行われない側面があった。そこで、原告としては、新様式採用の第一年度でもあり、自分なりに基準を研究し、それに基づく基準を試行的に採用するほかはなかった。
(3) 同(3)の事実中、松本校長が職務命令を発した事実は否認する。原告は、昭和五六年三月二三日の中休みの午前一〇時三五分ころ、二年生の教室で仕事をしており、職員室にはおらず、同月二四日午前八時四〇分ころは、修了式の式場となる六年生の教室で式場作りの加勢をし、その後、担任の二年生の教室へ立ち寄り、児童に日程の説明をし、清掃作業の分担を予告した後職員室へ入ったのであり、又同月二五日午前一一時ころ松本校長から校長室に呼ばれたこともないのであって、松本校長から被告主張のような各職務命令を受けたことはない、その余の事実は不知。
(4) 同(4)の事実中、原告が指導要録を提出しないまま松本校長に三月二六日の自宅研修承認願を出したこと(ただし、三月二四日以前に出したものである。)、同校長が自宅研修を認めなかったこと、三月二六日、二七日年次休暇をとり、二八日出勤し、同日から四月一日にかけて二日五時間の年次休暇をとったこと(ただし、いずれも同校長の承認を得ている。)は認める。その余の事実は否認する。三月二八日、原告の春休み中の研修テーマが、学校側によって意図的に書き替えられていたので、教頭に職員室で問いただしたことはあるが、校長から指導要録について指導を受けたことはなく、したがって、これを拒否したこともない。
(5) 同(5)の事実中、平間校長が、松本校長の後任となったこと、五月一二日松本前校長の「遺憾の意」と称するメモを聞きとれないような低い声で読んだことはあるが、その余の事実は否認する。
原告は、前記(2)で述べたとおり、新指導要録の観点別学習状況欄の到達度評価は試行錯誤の段階にあり、その評価方法については、評価基準が明らかでないことなど根本的な問題点が含まれていたため、自分なりに評価基準を研究して具体的基準の設定に努めた。その結果、原告は「観点別細目表」を作成し、到達度については、諸説がある状況の中での第一段階としては、どの説によっても異論が出にくい基準を採用することが望ましいと考え、どの説によっても「達成」とされる正答率九〇パーセント以上を「十分達成」とし、どの説によっても「不達成」とされる正答率六〇パーセント未満を「達成不十分」とし、両者の中間を「おおむね達成」とすることにし、右到達基準を適用して前記「観点別細目表」の各細目につき評価を行ったうえ、各観点の総合評価にあたっては、当該観点の細目全部が「十分達成」の場合に「十分達成」とし、当該観点の細目全部が「おおむね達成」以上の場合に「おおむね達成」とし、当該観点の細目の一つでも「達成不十分」がある場合には「達成不十分」とすることとした。
原告としては、このような総合評価の方法はあるいは若干厳しすぎるかもしれないが、教育が本来学習目標への到達を不断に目指す営みであり、指導要録は児童の目に触れる通知表と異なり、厳しい評価をしたとしても児童の学習意欲を不当に損なう恐れがないことと、教師としては個々の児童の学習目標への到達を目指しつつ努力する必要があること等を考えて、試行的に右のような方法を採用したわけである。
原告は、以上のような課程を経て、観点別学習状況欄の評価を行ったところ、「体育」については、「運動の技能」という観点につき「十分達成」の児童及び「達成不十分」の児童が各一名、「運動・保健に対する関心・態度」という観点につき「十分達成」の児童が一名いたが、その余は全て「おおむね達成」と評価されることとなった。そこで、指導要録の「Ⅱ観点別学習状況」の記入については、「目標を十分に達成したものには+印を、達成が不十分なものには-印を記入すること。なお、おおむね達成したものには空欄のまま提出すること」との文部省見解に従って、右の「十分達成」については「+」を「達成不十分」については「-」を右各児童の指導要録の観点別学習状況欄の該当箇所に記入したが、右記入したほかは、「おおむね達成」の評価の表示の意味で「空欄」とし、観点別学習状況欄の評価、記入を終え、指導要録を完成した。原告の採用した右評価・記入の方法は、前記のように十分な根拠があるのであるから、教育条理に極端に反することが客観的に明白であるなどとはいえないことはいうまでもない。
原告は、四月二日、以上のように観点別学習状況を十分評価の上記入して指導要録を完成した上、これを永安教務主任を通じて平間校長に提出したところ、四月九日、同月一四日、同月二三日、五月七日及び同月一一日、校長室や三年生の教室で、同校長から、提出した指導要録に関し、「もっと『+』『-』をつけて欲しい。」と言われたので、同校長に「どのような根拠から、もっと『+』『-』をつけるようにいうのか。」と尋ねたが、これに対する回答はなく、同校長は、ただ「『+』『-』をもっとつけて欲しい」と言うだけであった。この間、五月八日、平間校長が「市教委から『市教委に来て欲しい』という電話があったことをお伝えします。」といったので、原告は用件などを尋ねたが、その際、同校長は、右出頭につき「職務命令は出ていない。」と答えた。
五月一二日、原告は、指導要録について、「六月初旬までに完成させる。」と言ったことはないが、平間校長が何回も「もっと『+』『-』をつけるように。」というので、「再検討してみよう。」と答えた。
(6) 同(6)の事実は否認する。
五月二七日、市教委の指導主事が川平小に来て、中休みに(ママ)時間に原告に対して何か言ったが、原告にはそれが聞きとれなかったので聞き返そうとしたが、指導主事の返答はなかった。原告が平間校長に対し、被告主張の抗議をしたことはないし、また、既に記入、完成している指導要録の記入を拒否したこともない。
(7) 同(7)の事実は否認する。
六月二日、平間校長から「もっと『+』『-』を書いて欲しい。」と言われたが、もともと原告は観点別学習状況についてはすべて評価の上記入しているので、その旨答えたのであり、被告主張の事実はない。
(二) 抗弁三の1(二)のうち、規則の存在及び指導要録の保存期間が二〇年(二〇年以上ではない。)となっていることは認めるが、その主張は争う。
(三) 指導要録の問題で原告と松本校長の間で対立が生じた背景として、松本校長が赴任して以来、校務分掌の内容が事前に漏れた問題や、校長が採用しようとした通知表案に原告が意見を述べたところ校長は不快感を露にしていたことや、前記のような到達度評価に関する川平小案に原告が疑問を呈した際にも誤りを正そうとせず傲慢な態度を取ったことなどから、原告が同校長に対し、憤りをもった不信感を抱かされていたことを考慮すべきである。また、同校長は、昭和五六年三月二四日に突然原告の教室に来て、一年理科の到達評価を詰問し「もっと『+』『-』をつけよ」と一喝した。原告は校長の剣幕に呑まれ一瞬我を忘れかけたが、余りにひどい態度にかっとなって「『+』『-』をもっとつけろというならその根拠を示して下さい。」と言い返し、問答が続いた。校長は結局「指導要録の一覧表を出しなさい。出さなければ要録の受理もしないし、受付もしない。とにかく出しなさい。」というようなことで憤然として出ていった。この事件以来、原告は指導要録を松本校長に提出する意欲を全く失ってしまった。
結局、原告が年度内に指導要録を提出しなかったのは、前記の誤った評価方法である川平小案によって評価せよということにあった。しかも、松本校長は原告に対する反感を露にして高圧的態度をとり、不提出に対し自宅研修不承認にまで言及して恫喝した。教職が専門性を高く問われている職種であればあるほど、校長の不当な要求に屈することは良心に照らしてできないことであった。加えるに、原告は松本校長が転出することを知っていたので、後任の校長に提出しようと考えたのも止むを得ないところである。
したがって、原告と松本校長の指導要録にかかる一覧表と指導要録提出強制の問題は、原告のみが責めを問われるべきではなく、却って校長職にあった松本校長の言動とそれにより原告に対する反感を増幅させたことに主因があるというべきである。
また、平間校長との関係については、原告にも責めらるべきで点があることを否定できないが、それにしても、管理的な立場にある校長らの指導性の欠如には著しいものがある。ただ記入してくれ、『+』『-』を増やしてくれと依頼する前になぜ原告の評価ではいけないのか、同僚の記入状態はどうか、他校の教師はどうなる(ママ)のか等を誠意を込めて説得すれば、原告が評価を変えたかどうかは別としても、原告との対話もはるかに実り多い結果を得たのではないか。
そうであれば、到達度評価の第一年目の事件であるだけに、原告の責任を問う以上に、校長としての所属職員に対する指導性が問われてしかるべきである。校長の指導責任が『+』『-』をもっとつけて欲しいと言った回数によって免責され、その内容が問われていない本件は、均衡を失した処分というべきである。
2 五島在勤時代に職務を放棄し、職務義務を怠ったとの主張に対して
(一) 職務放棄の事実の主張に対して
(1) 抗弁三の2(一)(1)の事実中、原告が昭和四六年度から昭和五一年度まで盈進小に勤務していたことは認めるが、その余の事実は否認する。この点に関する被告の主張も重大な事実誤認に基づくものであり、後記のとおり、原告が校長の承認を得られないまま校外研修をしたことは、少なくとも適格性の欠如、勤務成績不良を基礎づけるものではない。
イ 同項イの事実は認める。
ロ 同ロの事実中、昭和五〇年五月一九日から同月二三日までの五日間、盈進小では午後の授業を打ち切り、学級担任による家庭訪問が行われたこと、同月一九日一二時過ぎ、原告が自宅研修承認願を山口庄三郎の机上に置き帰宅しようとしたところ、同事務職員がこれを同校長のもとに急ぎ持って行き、これを見た同校長が原告を校長室に呼んだことは認めるがその余の事実は否認する。
原告が昭和五〇年五月一九日自宅研修承認願を提出したのは、校外研修をするについて、校外研修願の用紙がなかったからである。同日原告は社会科の専科教員として、郷土の史跡である富江町石の井穴(立穴)と勘次が城の跡へ出かけ、実地に研修した。山口校長は、「授業に支障のない」にもかかわらず、右研修を承認しなかったのである。
また、原告は、同日研修に行く途中、日本地図を忘れてくる山下部落の児童の家庭訪問も行なった。
ハ 同ハの事実中、同月二〇日同校職員朝会後、同校長が原告を校長室に呼び、前記承認願の余白に赤マジックペンで「不承認、地公法三五条」と朱書し、同校長の私印を押して返すとともに「昨日帰宅した取扱いはどうするか。」と尋ねたこと、原告は「自宅承認願を撤回するつもりはない。」などいったこと、同校長の自宅研修は承認しない旨の意向を無視する態度を示したこと、同日盈進小分会役員が右自宅承認の件で、同校長と交渉を持ったことは認めるが、その余の事実は否認する。右交渉は、同校長の事前の了解をとったうえ、紳士的に行ったものである。
ニ 同ニの事実は否認する。
ホ 同ホの事実中、原告が後日五月一九日分の年次休暇願を提出したことは認める。その余の事実は否認する。
なお、右研修承認願に関する件は、後日右のとおり年次休暇を提出することにより、解決を見ていたものである。
(2) 同項(2)の主張のうち、被告指摘の法律の存することは認めるが、その余の主張は争う。
原告は、教特法二〇条二項の趣旨及び義務教育諸学校の教育職員の給与等に関する特別措置に関する条例に伴い県教組と県教委との間に取り交されていた確認書や右条例に関する県教委側の説明により、授業に支障のない場合当然校外研修は認められるべきだと考えていたものであり、そのことは十分根拠のあることである。またこの頃、県教組としても、自宅研修(校外研修を含む)の実行を重点目標とする自主研修権の確立を求めるための闘いを運動方針の一つにしていた。山口校長が右条例や確認事項について十分理解していたなら、本件問題は起きなかったとも考えられ、山口校長の理解のなさが問題とされなければならない。
また、この問題は前述のように双方の間で年休処理とすることで既に解決していたことでもあり、少なくとも原告の適格性の欠如、勤務成績の不良を基礎付ける事実となるものではないし、また、考慮すべき事実に当たらない。
(二) 出勤簿に押印を拒否したとの主張に対して
(1) 抗弁三の2(二)(1)の事実中、出勤簿に押印しなければならないこと、藤田校長から出勤簿に押印するよう言われたこと、一年一〇か月間押印しなかったことは認め、その余は否認する。原告は、当時、長崎県教職員組合富江支部長であったが、職場の民主化を求める中で、山口校長が、山口事務官の赴任旅費請求について赴任の事実がないのに書類に押印していた事実があったり、また、山口校長が、勤務の事実がないのに出勤簿に押印していた事実を発見して、出勤簿の管理があまりに杜撰なことから、組合分会としてその是正を教育長及び五島教育事務所に要求したが、解決の意図すら見せず、不誠実な態度に終始したことなどのため、これらについて反省を求めるため何人かの者と押印を保留していたものである。また、被告は、原告が一年一〇月にわたり押印しなかったと主張するが、夏季、冬季、春季の休み中は自宅研修期間中であり、他の教職員も押印していない。
(2) 同(2)の押印義務の存在は認めるが、当時、同校の教職員の押印の実態は、出勤日毎に自分で押印することが厳格に履践されていた訳ではなく、後日、給料日や学期末等にまとめて押印する者も多く、また、押印漏れについては事務職員が代わって押印していた場合もあり、出勤簿の押印は単に形式を整えさえすればよい状態であった。
(3) 同(3)の主張は争う。出勤簿の押印留保の問題は、以上のとおり学校の帳簿管理の杜撰さがことの発端になったものであって、これが正されさえすれば何事も起こらなかったのである。校長が自己の非を棚に上げて出勤簿に押印せよの一点張りであった態度を不問にして原告だけが処分されるというのは、事実の公平な見方ではない。
また、原告は前記一年一〇か月の期間は出勤簿に押印しなかったが、その後は押印していることからして、押印しなかったことが、簡単に矯正することのできない持続性を有する質素、能力、性格等に起因するとはいえない。
(三) 週案提出を拒否したとの主張に対して
(1) 抗弁三の2(三)(1)の事実中、原告が週案を提出しなかったとは認めるが、週案提出の職務命令を受けたことは否認する。校長が職務命令を出すようなことはなく、教務主任が朝会などで提出のお願いをする程度であった。当時は週案提出の有無がことさら問題とされるような状況にはなかったのである。
原告は、もちろん、週案を作成し、大浜小学校時代には校長に提出していたが、盈進小に転勤してから提出しなかったのは、提出したところで校長は授業を受け持っていないので児童の実態が分かっておらず有益な指導助言を受けられないと思ったことや、経験的にも形式的に見られて返されてきていたに過ぎないこと、兼子仁先生の教育法に影響されたことなどによる。また、教育権は教師にあるので、学習内容への校長の干渉を許さないためにも週案を提出しなかったのであり、これに関し、校長に職務命令を発する権限があるかどうかを校長と議論した結果、提出は強制しないということで、話合いがついていた。
ちなみに、当時盈進小では、校長の週案提出の要求に対して提出していた職員は二名で、残り一〇名は提出していなかった。
(2) 同(2)の主張は争う。
週案自体は、本来、各教員が自主的に作成しているものであり、その提出を強要することは、教育の内的事項に関する不当な介入を招来する危険が大きい。当時、県教組の運動方針として週案について明確な態度は示されていなかったが、教育内容の干渉等については組織的に対処する取組をしていたので、原告が他の多くの教員とともに週案を提出しなかったことは、この方針にも沿うものであった。したがって、原告が、校長の週案提出の強要に問題があると考え、週案提出の指導等に従わなかったことには相当の理由があるというべきであるから、そのことは、原告の教師生命を奪う分限免職処分の事由である適格性の欠如、勤務成績の不良を基礎づける事由たりえないと言うべきである。
(3) ちなみに、週案及び月案提出の有無がことさら問題とされだしたのは、被告が昭和五二年一〇月に各地教委あてに「公立小中学校における週案・月案の提出について」という通知を出したことに端を発する。これ以降、各地教委からの通達により校長は週案・月案の提出を強要するようになり、県教組としても、教師の教育権の侵害の危機を感じ、これに対抗して組織的に週案・月案の提出強要排除の運動を進めたのである。
被告が右の通知を発したのは、長崎県議会で自民党県議が週案の提出についてことさら被告に質問し、被告がこの自民党の教育への介入、圧力に屈したためであって、この通知こそが、教育基本法一〇条の禁止している不当な支配に屈服したものとして問題とされなければならないのである。
3 長崎市在勤時に職務義務を怠り職務命令に従わなかったとの主張に対して
(一) 学校訪問公開授業指導案提出拒否の事実(その一)の主張に対して
(1)イ 抗弁三の3(一)(1)イ・ロの事実は認める。
ロ 同ハの事実中、昭和五四年一月三〇日高雄校長より指導案提出について職務命令が出されたことは認める。しかし、同校長から昭和五三年一〇月二一日、同月二三日、同月二五日、昭和五四年一月二〇日、同月二五日、同月二七日に、長崎市教育長から同月三〇日に、それぞれ指導案提出についてなされた発言は、いずれも「お願い」であり職務命令ではなかった。当時、土井首小では、言葉や文書で明確に命令と分かるもののみが職務命令と理解されていたのである。
原告を含む同校教員一七名が戒告処分を受けたことは認める。なお、右戒告処分については、その取消しを求めて、他の一六名全員と共に長崎県人事委員会において審理中である。
(2) 同(2)の事実のうち、各法文の存在及び土井首小の学校訪問が中止されたことは認めるが、その余の主張は争う。
学校訪問の中止や指導案の提出の問題については、以下のような経緯や問題点が考慮されるべきである。
イ 原告の土井首小勤務当時、長崎市内のみならず、長崎県下の学校で管理教育体制が強化されていく中で、県教組及び長崎総支部は教育の権力的支配を排除し教育の自由を守るため、市教委の一方的、査察的に実施する学校訪問には反対し、廃止する運動を行っていた。
本件の学校訪問はそのような状況の中で実施されたのであるが、土井首小では、市教委より配布された学校訪問実施要項について、職員会議が持たれ、右要項に沿って具体的に話し合いがなされた。土井首小分会としては、初めから学校訪問自体に反対していたのではなく、一方的、査察的に強行される訪問に反対する態度であった。そこで右要項に沿って、事項毎に話し合い、要項の「学校訪問の趣旨」については全職員がその方向を確認した。しかし、具体的実行計画が右要項の趣旨と大きく矛盾していることが分かり、大きな問題となった。
ロ まず「教科指導訪問について」の項が問題となった。現場の教師達は、非組合員をも含めて、この学校訪問の際、市教委と全体会の場で土井首小学校の当面している学校運営や教育条件等に関する諸問題や悩みを話しあうことを要望していた。
ところが校長の方は、全体会を開くことについて五つの条件を出し、「教科指導訪問について」は「教育課程の実践に関すること」、つまり一時間一時間の授業に関するものに限ると狭く解釈して対応したため、対立が生じた。
ハ 指導案については、公開授業については指導案を用意することとなっていたが、指導案が出されなくても、授業は参観するということであり、授業参観は実施されるということであった。
ところが、土井首小では一〇月二五日第一回予定日までは指導案をどのようなものにするかなどについての職員間の話し合いは、なされないまま当日を迎えた。しかしながら市教委は指導案が出されなかったことを理由に一方的に学校訪問を延期し、中止したものである。
ニ このように指導案の問題は、これを提出させて、それを通して教師の教育の自由をチェックしようという意図でなされたということができる。しかも市教委の求めた指導案なるものは教師の自主的独自の作成によるものではなく、市教委研究所の作成した統一的なものであって、結局、同研究所作成の年間指導計画書の抜粋ないし引き写しにすぎない。それならば、教師が時間をかけて作るメリットはなく、指導計画書そのもので足りる。そのような指導案では、教師は、むしろ、細かいところまで拘束されてしまい、創意、工夫がしにくい結果となる。
また、市教委が求める指導案の提出日の実際の授業との進度が符合せず、提出した指導案の内容より実際の授業が進みすぎたり、あるいは遅れたりして授業を一致させる苦労も生じるのである。
ホ 以上のように指導案提出の問題は、市教委が自ら作成した学校訪問実施要項の「趣旨」に自ら矛盾する具体的計画を実行しようとしたことや、学校訪問の際に市教委の求める指導案の実態にこそ問題点があったのである。つまり土井首小では指導案提出だけが問題であったわけではなく、学校訪問の実施要項に沿っていない具体的計画及び実行が問題とされていたのであり、その中で指導案については教育の自由への介入の危険があるため「提出強要の排除」を組合は取り組んでいたのである。原告も土井首小分会の他の教師一六名と共に行動した結果にすぎず、ひとり原告だけが指導案を出さなかったのでもない。
(3) さらに、以上のように、指導案提出を命じることは教育の内的事項への不当な介入を招来する危険が大きく、被告主張の事由は前記2(三)(2)で述べたのとほぼ同様の理由で、本件分限免職処分を基礎づけるものとはならない。
(二) 学校訪問公開授業指導案提出拒否の事実(その二)の主張に対して
(1)イ 抗弁三の3(二)(1)の事実は認める。
ロ 同ロの事実も認める。
ハ 同ハの事実中、指導案提出にかかる要請があったこと、原告が、指導案の提出を拒否したとの点を除いておおむね被告主張のような発言をしたことは認めるが、その余の事実は争う。職務命令はない。穂坂校長は、同年一一月一六日、通常の口調で「指導案と社会科の問題があったら提出してください。」といい、職務命令によって強制するという態度ではなかったので、原告は素直にこれに応じようとしたのであるが、同日夜に突然発熱し、化膿性扁桃腺炎により翌一七日から同月二九日まで病欠せざるを得なかったため、指導案の提出ができなかったのであって、その提出を拒否したのではない。
(2) 抗弁三の3(二)(2)の事実のうち、原告が指導案を提出しなかったことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。原告は右病気のために指導案提出ができなかったのである。
また、右事実は前記2(三)(2)で述べたのとほぼ同様の理由で、本件分限免職を基礎づける事由とはならない。
(三) 学習指導記録簿提出拒否の主張に対して
抗弁三の3(三)の事実のうち、原告が学習指導記録簿を提出しなかったことは認めるが、その余の事実は争う。
ちなみに、前述の昭和五二年一〇月六日の通知に端を発する学習指導記録簿(週案)提出の強要は、一段と教師の教育の内的事項への不当な介入を増大させるところとなっていた。そのような状況を、原告は、学校運営が政治的影響によって根本的に変えられ、教員の系列化、上命下服の関係による教育の運営が進み、教育がだんだん創造性を失ってきていることとして捉え、本来自主的に作成されるべき学習指導記録簿が、この上命下服の関係を使って、形式的に指導要綱どおり教科書どおりの授業を行なうための点検の手段と化していると考えたのである。そこで、原告は、他の多くの教員と共に組合の取り組みに応じて学習指導記録簿(週案)の提出をしなかったのである。多くの職員が提出の強要を拒否しており、長崎県教職員組合は全体として、また、原告が所属していた土井首小分会においても同様の観点から、「週案提出強要排除のたたかい」に取り組んでいたのである。学習指導記録簿(週案)提出の指導は、それが指導である限り、必ずしも従わなくてもよいものであり、少なくとも、それに従わないことをもって、分限免職事由たる適格性の欠如、勤務成績の不良に該当するということはできない。また、学習指導記録簿(週案)提出の職務命令については、教育の内的事項に対する不当な介入を招く恐れが大きいことなどから、果たしてそれが完全に有効であるか否かは問題であるが、少なくとも、その有効性には多大の疑問が存する。
したがって、この問題も、前記2(三)(2)、(3)で述べたのとほぼ同様の理由で、本件分限処分を基礎づける事由とはならない。
四 抗弁四の事実及び主張は争う。
被告の実施した勤務評定は、その項目及び基準が明らかでなく、また、対象となった全職員についての勤務評定の結果が明らかにされていないので、信用性に乏しい。
また、被告は、原告の「勤務評定の結果」が最下位二ないし五パーセント以内であったことを処分理由としているが、最下位二ないし五パーセント以内の教員がすべて分限免職処分を受けているわけではないのであるから、この点に関する被告の主張自体、本件分限免職を基礎づけるのに不十分である。
なお、被告が、原告の教育内容、教育方法等の具体的教育活動の不当を理由に勤務成績不良を主張しているとすれば、原告がこれまで主張してきたとおり失当である。
被告は、処分時に至るまで、原告に対して、勤勉手当の支給を続けていた(ただし、ストライキに対する処分に基づく不支給を除く)。また、原告には遅刻、早退、無断欠勤はなく、当然のことながら勤務成績不良を理由とする昇給の延伸もなされていない。これらのことは、分限免職処分の理由である勤務成績の不良という事実がなかったことを物語るものである。
五 被告主張の処分事由以外の原告の適格性、勤務成績に関する事実について
原告は、二六年間にわたり教職に従事してきたが、その間、一口で表現すれば「すべての子供がみんなで助け合い、みんなで伸びよう」との考えの下に、わからない子供にはわかるようになるまで一緒になって考えてきた。川平小では毎月一五日には父母に授業参観をしてもらい、父母との対話の中で、子供の持つ無限の可能性を見出そうと努力してきた。その教育実践の結果は、多くの児童、父兄、同僚から評価されている。また、原告自身、絶えず自己研鑽に努め、例えば、昭和三七年度五島教育研究会に対して理科実践記録を投稿し、昭和四五年福江市教育委員会委託の国語研究発表会ではレポーターとして研究発表をなし、その他各種研究・研修会にも参加して来ている。
以上のような実践と経験の蓄積を有する原告に対し、教育公務員としての適格性を欠くとか、勤務成績が不良であるなどと決していえるものではない。
(原告の再抗弁)
仮に、原告に適格性の欠如又は勤務成績の不良を疑わしめる若干の事実があったとしても、本件処分は、以下のとおり重きに失し、裁量権を逸脱又は濫用したものである。
1 分限免職処分は、公務員の身分を完全に奪う重大な処分であるから、極めて慎重な判断の下になされるべきであるにもかかわらず、本件処分は前述のように、いくつかの点で、事実を誤認し、不存在であるかあるいは著しく誇張、歪曲された事実に基づくものである。
2 本件処分は、職員に対する処分について、当然考慮を尽くすべき事項である教育の内的事項についての教員の判断の尊重あるいは教師の教育権の独立という見地についての考慮を欠いたものである。まして、原告の行った評価方法は前述のとおり十分根拠があり教育条理に反するものではないのである。
3 原告の川平小在勤当時の指導要録をめぐる校長との対応関係については、当時、長崎市の各小学校においては、校長の教育評価への介入に対して、教職員組合の団結の下に各教諭が対応していたのであるが、川平小においては、教職員組合の組合員たる教諭が原告のほかには女性教諭が一名いただけであり、原告としては、校長の教育評価への介入に対して、いわば孤立無援の状態で対応せざるを得なかった。また、原告は、かって長崎県教職員組合の五島総支部富江支部長を経験し、本件処分当時も川平小分会長であり、長崎総支部の執行委員をしていた熱心な組合員であった。ところで、被告が処分事由として問題としているのは、すべて原告の上司との関係で生じたものであり、子供に対しての教育活動についてのものではない。教育の本務が子供に対する教育活動(授業)であるとすれば、単に上司に対する態度だけで、また原告と相対立する校長の主観的ともいえる一方的に認識した事実をもって適格性を欠くとして処分することは、まさに原告に対する差別的発想に基づくもので、組合の諸活動に熱心な原告に対する懲罰的側面が否定できない。
4 また、前述のように、本件については各校長の側にも原告に対する管理職としての対応に多くの問題があり、それによって生じた感情的対立が処分事由とされながら、校長の原告に対する不適切な対処が全く不問にふされている。これは、分限処分判断に際し、考慮すべき事項が考慮されておらず、不当である。
さらに、校長の職務命令の乱発は、教育者としての配慮を欠くものであり、力づくで原告の教育上の職務行為の自由を奪おうとしたもので、この不当性も処分に当たり考慮された形跡がない。
5 仮に、原告に教育行政の面における若干の任務違背があったとしても、免職をもたらさない懲戒処分によって対処することが十分に可能であり、具体的処分の選択という点においても、裁量権の逸脱又は濫用がある。
(再抗弁に対する被告の認否及び反論)
公務員に分限処分事由が存在する場合に、これを分限処分に付するに値するかどうか、分限処分のうちいずれを選ぶべきかを決定することは、任命権者の自由裁量に属するのであって、ただ、分限処分が全くの基礎を欠くかまたは処分権の発動及びその内容が著しく妥当を欠くような場合に初めてかかる処分は任命権者に委ねられた裁量権の限界を超したものとして、または裁量権の濫用として違法となるにすぎない。
本件処分について、かかる裁量権の濫用がないことは明らかである。
第三証拠(略)
理由
第一はじめに
一 原告は、昭和二九年一一月一日岐宿町公立学校教員として岐宿町立岐宿小学校助教諭として採用され、以来二六年余にわたり、長崎県の公立学校教員の職にあった者であるが、昭和五六年七月二〇日、任命権者である被告から、分限免職処分に付された(争いがない。)。
二 右分限免職処分は、原告が地公法二八条一項一号(勤務実績が良くない場合)及び同三号(その職に必要な適格性を欠く場合)に該当するとしてなされたものであるが、成立に争いがない(証拠略)によると、その徴表となる具体的事由として処分事由説明書に掲げられているものは別紙の各事由である。
右事由は、1原告が職務義務を怠り職務命令に違反して指導要録の観点別学習状況欄の記入を行わなかったことと、2原告が過去においても職務上の義務を怠り、上司の職務上の命令や指導に従わなかったことに大別され、それらを総合して原告はその職に必要な適格性を欠き勤務実績が良くないと判断されたものである。そのうち最も重大で、かつそれ自体教育公務員としての適格性の欠如に直結すると考えられるのは、1の指導要録の観点別学習状況欄の評価不記入の事実であるが、これについて、原告は、原告自身の評価基準に基づいて評価を行い既に十分記入を完了していたものであると主張し、被告の処分事由は重大な事実の誤認ないし原告の評価自体への不当な介入であると主張する。また、2のその他の各処分事由についても、あるいはその事実自体の存在を積極的な根拠を挙げて争い、あるいはその前提となる事実の存在を争い、その上で、それらが原告の教員としての不適格性や勤務実成績不良を基礎づける事実に当たらないと主張する。
三 そこで、右各事由の総合評価を行う前提として、まず、各事実の存否及びその評価の前提となる事情について、証拠に基づいて順次検討することとする。
第二 職務義務を怠り職務命令を拒否し指導要録の観点別学習状況欄の評価記入を行なわなかったとの事実(以下「評価不記入」と略称する。)に関して
一 まず、評価不記入の前提ないし背景となった事実についてみる。
(証拠略)の結果を総合すると以下のとおりの事実が認められる。
1 原告は、昭和五五年四月一日から昭和五六年三月三一日まで、川平小第二学年の学級担任として、同学級の国語、社会、算数、理科、図画工作、体育の各教科を担当し、学習指導等に当たってきた(争いがない)。
2 指導要録は、学校教育法施行規則一二条の三により校長が作成を義務付けられ同規則一五条により学校に備えなければならないとされる表簿の一つであり、児童の学籍並びに指導の過程及び結果の要約を記録し、指導及び外部に対する証明等に役立たせるための原簿である。そして、右諸表簿のうちただ一つ二〇年の保存が定められ、被告及び市町村教育委員会は、半永久の保存を指導している学校備付表簿のうち最も重要な表簿である。
3 指導要録は、昭和二四年に従来の学籍簿の名称を改めて作成されることになったもので、その後数回の改訂を経てきたが、昭和五五年度にその内容について全面的な改訂が行われた。
右改訂の内容は、従来の指導要録について指摘されていた問題点などを考慮しながら、指導要録を児童の指導に一層役立たせるという観点から、その様式等について改訂を行なったもので、その主な内容は、各教科の学習の記録の評定について、小学校第一学年及び第二学年については五段階評価を改め三段階評価としたこと、従来の「Ⅱ所見」欄の記録を一層指導に活用できるようにするため、学習指導要領に示す目標の到達状況を観点ごとに評価することとし、欄の名称を「Ⅱ観点別学習状況」と改めたことなどである。そして、右評定は従来どおり絶対評価を加味した相対評価によって行うが、新設の「Ⅱ観点別学習状況」欄の評価は、観点項目別に児童の目標達成状況を把握し、必要に応じてその評価結果を指導に反映させることが比較的容易ないわゆる絶対評価法(到達度評価)によってこれを行うこととされ、これが指導要録改訂の眼目の一つとされた。
4 右指導要録の改訂を受けて、被告は、新指導要録に関する指導のため「指導要録の様式・解説」を作成し、「観点別学習状況評価のための参考資料」を掲載するなどして、教員が学習指導要領にあげられている各教科、学年、単元等の目標を具体的な下位目標に分析し、児童の学習状況が観点別に把握できる達成基準作成の参考資料の一つとした。また、各学校においても、校内研修会等を通じて新指導要録の解説、記入上の注意などの徹底が図られた。
5 川平小においても、昭和五六年二月中に、到達度評価の研修会が職員全員によって二回にわたって持たれ、到達度基準として「達成している」は正答率八〇パーセント以上、「おおむね達成している」は正答率七九パーセント以下六五ないし六〇パーセント以上、「達成が不十分」はそれ以下を一応の目安とすることとされた。
もっとも、その際、永安教務主任が松本校長の指導の下に作成した「到達度基準の設定と判定方法について」が川平小案として配付されたが、右案の中には、右の到達度基準の分割点の設定に関し、学級全体の正答率を参考にすることなどが記載されていた。この点は、到達度評価が本来は事前に到達点を設定して評価するのに対し、学級全体の正答率との関係で事後的に相対的に評価する結果になり、実践的にはともかく理論的には問題を含むものであった。原告は、研修会においてこの点や原告が抗弁に対する答弁三1(一)(2)で主張する点などを指摘して訂正を求めたが、松本校長はこれらに対して明確な回答をなし得ず、原告の不信をかう結果になった。
二 つぎに、評価不記入の具体的経過について検討すると以下のとおりである。
1 (証拠略)の結果(同)を総合すれば、以下の事実が認められる。
(一) 川平小松本隆吉校長は昭和五六年一月、第三学期始めの職員会議で「昭和五五年度在校生の第三学期通知表にかかわる成績一覧表と指導要録にかかわる成績一覧表の提出期限は三月一七日、第三学期通知表は三月一九日、指導要録は三月二五日とする。」と指示した。そして、三月に入って指導要録にかかわる成績一覧表の提出期限については三月二三日の朝までと変更した。
(二) 原告は、右提出期限の同月一七日までに通知表にかかわる成績一覧表を提出しなかったので、松本校長は、同月一八日に原告に対しこれを同日一六時三〇分までに提出するよう命じ、さらに翌一九日には職員朝会で通知表の提出を命じたが、原告は「通知表とそれにかかわる成績一覧表の内容への干渉を避けるため」三月二三日まではこれを提出しないとの決意を固めて、そのいずれをも提出しなかった。さらに同月二〇日、松本校長は職員朝会で「通知表及び通知表に関する一覧表を提出せよ。その決裁後、通知表に記入すること。校務がすんだ人は卒業式後校外補導に出てよい。」と命じた。原告は、通知表及びそれにかかわる成績一覧表を提出しておらず卒業式後の校外補導(実態は終業時間前の退校)が認められないことから、これに抗議する意を込めて、三月二三日一日分と翌二四日修了式の日の朝一時間の年休届を出した。松本校長は、この年休届を受理すれば修了式前に通知表とそれにかかわる成績一覧表の決裁が出来ないと判断して、平間教頭立会いのもとに原告に対し、このままでは年休届けは受理できないとして、「とにかく通知表とそれにかかわる成績一覧表を提出しなさい。」と命じた。原告は、教頭からの助言もあって右年休届を間もなく撤回した。
(三) 松本校長は、同月二三日午前一〇時三五分ころ、職員室において同校全職員に対し、「昭和五五年度学年末成績一覧表(指導要録にかかわるもの)の未提出者はかねて指導のとおり作成し、本日一六時三〇分までに校長へ提出すること。」と命じた。なお、その時点で右成績一覧表の未提出者は原告のみであった。その後、同日一三時三〇分から松本校長は原告を校長室に呼び、平間教頭立会いのもとに、原告が交換授業によって到達度評価を行なっていた一年生理科の観点別学習状況が、評価結果の各観点ごとに一名について達成しているとの評価『+』が記入されているだけでほかはすべて空欄になり、他の教科とも著しく異なっている点について、各観点を達成した者はこれ以上いないのか、逆に達成しなかった者はいなかったのか、いま一度実態をふまえて評価を適正にするようにと指導した。原告は、何人つけろというのか、判断した結果がこうであるとして反発したが、松本校長は見直しを指導した。その後原告は、同日一五時三〇分から一時間の年休を提出したので、松本校長は、通知表とこれにかかわる成績一覧表を提出してからにせよと命じたが、原告はいま作成中である、明朝提出するとして、帰宅した。
(四) 原告は、修了式当日である同月二四日の朝になって通知表及びそれにかかわる成績一覧表を提出した。そのため、松本校長は、通知表を修了式後に児童に渡さなければならないので修了式開始時刻まで成績一覧表の決裁業務に追われた。
松本校長は、同日午前八時四〇分ころ、職員朝会で「指導要録及び諸帳簿は定められた期日(三月二五日)までに提出すること。」と命じた。
松本校長は、同日一三時三五分ころから五五分ころ、原告の担任する教室におもむいて平間教頭立会いのもとで原告に対し、一年理科の観点別学習状況の評価についていま一度見直し、より適切な評価をするよう、また、本校の尺度(基準)を目安として評定するよう指導した。これに対して原告は、これが実態で、本校の基準のとおりに評価している旨を答えたので、松本校長は、それならば資料を見せるように求めたところ、原告は、管理体制の強化である、資料の提出はしない、もうこれ以上仕事はしないと述べて、記入していた指導要録を閉じてしまった。
そこで、松本校長は、原告に、今、指導要録を記入していたようだが、記入の前にまず指導要録にかかる成績一覧表を提出するように指示した。これに対して、原告は、原簿は指導要録だから、指導要録を出せばよいでしょうと答えたので、松本校長は、その児童指導要録を記入する前に一覧表が必要であると述べたところ、原告は、では一覧表を提出するからあとは校長の方が記入してもらいたいと応じ、その後実際に、同日一五時一五分、指導要録にかかわる成績一覧表に児童の氏名だけを記入して平間教頭に提出した。松本校長はこの報告を受け、不備なものは受け取れないから完成してから提出するようにと指示して平間教頭から原告に返させた。
原告は、この日の松本校長との以上のようなやり取りに反発して、松本校長に対しては指導要録を提出しないことを決心し、永安教務主任に対して、すべての帳簿の提出を拒否する旨を宣言した。
(五) 松本校長は、翌二五日一〇時すぎに職員会議修了後全職員に対して、本日は指導要録及び諸帳簿の提出日になっており、提出完了して自宅等での研修承認ということになる旨を指示した。
ところが、原告は、同日一一時ころ、同日一一時三〇分から翌二六日の年休届を出してきたので、松本校長は原告を校長室に呼び、平間教頭立会いのもとで指導要録及び諸帳簿を提出するように命じたところ、原告は提出しないと答えた。そこで、同校長は、改めて提出を命ずると共に、提出があるまでは自宅研修は承認できない旨を述べたが、原告はこれに従おうとしなかった。しかし、平間教頭が原告に対し二七日(金)、二八日(土)、三〇日(月)、三一日(火)は勤務でよいのかと確認したところ、原告がそれでよいというので、松本校長は、不本意ながら右年休届を受理した。
(六) 原告は、同月二七日、右のとおり二五日に二七日以降の勤務を了承しておきながら、その約束を一方的に破り、電話連絡の方法で年休をとった。原告は、翌二八日出勤して、当日(土)三時間、三〇日(月)、三一日(火)の年休届を出したので、松本校長は原告に対して、校長室で平間教頭立会いのもとで「指導要録とそれにかかわる成績一覧表を記入し、提出しなさい。年度内に校務を処理しなさい。」と命じた。
しかし原告は、右に反抗して三月二八日から四月一日にかけて強引に二日五時間の年休を取った。
このため、昭和五五年度内の指導要録及びそれにかかわる成績一覧表は年度内に原告から提出されなかった。
(七) 松本校長は、原告担任学級の指導要録を決裁できないまま、昭和五六年度人事異動により長崎市教育委員会学校教育課指導主事に転任し、平間保雄校長(五五年度は同校教頭)がその後任となった。
平間校長は、同年四月二日、永安教務主任が原告から預かった原告学級の指導要録(証拠略)を市山教頭、永安教務主任立会いのもとで点検し、五教科の観点別学習状況の評価が全部空欄になっていることを知り、その状況を決裁権を有すると考えた松本前校長に連絡した。松本前校長は右の評価欄は未完成であるからそのままでは決裁すべきものでないと答えた。そこで、平間校長は、同日一四時三〇分原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに「指導要録は未完成だ。」「児童指導要録は大切な公簿だから早く記入しなさい。」と命じたところ、原告は、記入しようと思えば、すぐに記入できるとしながらも、松本前校長との間にあった前記「評価権への介入問題」や春季休業中の自宅研修及び年休の問題などを持ち出して記入拒否の態度を示したが、説得の結果四月六日までには考えようということになった。
平間校長は、同月六日になって原告学級の指導要録を点検したが、依然として五教科の観点別学習状況の評価が記入されていなかったので、同日一四時に原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに音楽と体育以外の教科の観点別学習状況の評価の記入がないので、早く記入するよう指示したが、原告は、観点別学習状況の評価は納得いかないので評価していない旨を述べた。そこで、平間校長は原告に、昨年度の職員会議で資料をもとに話し合って決まったではないかと指摘したが、原告は、話し合いや資料での理解ならしているが、それだけでは納得いかないので記入していないと同じことをくり返した。そこで、平間校長は原告に対し、六日までには完成すると言ったではないか。早く記入しなさいと命令した。
(八) 平間校長は、同月九日一五時三〇分、原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに「四月六日以降、何も記入されていない。どうして記入しないのか。」とただした。原告は「私は児童指導要録の形式や内容、それに画一的な評価の発想等に疑問をもっている。また、評価の方法についても十分理解できない。だから観点別学習状況の評価はしていない。」と答えた。そこで、平間校長は、昨年度の職員会で同校独自の共通理解として出した基準に触れたうえで児童指導要録を早く記入するよう指示したが、原告は前同様松本前校長の件を持ち出してきた。これに対し、平間校長は、松本前校長とのことにいつまでもこだわらずに、期日も経過しているので急いで書くように命じた。
(九) 平間校長は、同月一三日一六時一〇分、原告を校長室に呼び、教頭立会いのもとに、「まだ記入していないがどうしてか。何度も言わせないように早く記入しなさい。」と命じ、市教委からの指示に基づき、「重ねて言うが、市内小学校で指導要録の未決裁者は三人となり、重要な段階にきている。」と警告した。
しかし、原告は「前校長との問題が解決しないことには、児童指導要録は記入しない。」と主張し、さらに「処分があってもこわくはない。」と言ってひらき直り、記入するとは答えなかった。
(一〇) 平間校長は、同月一四日一五時三〇分、原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに「まだ記入されていないがどうしてか。」とただすと、原告は「新しい指導があれば考えてもよいが、私が容認できないのは松本前校長が私の評価に介入したからで、基準や率があるのか。私と松本前校長とでは評価についてのとらえかたに大きな差がある。」などと言った。そこで平間校長は「松本前校長が資料の提出を求めたことは校長の職責であり、評価への介入ではない。松本前校長とのことが毎回といってよいほど出され、それが大きな理由になっているが、児童指導要録は大切な公簿であるから早く記入しなさい。」と述べた。しかし、原告は、「松本前校長が評価に介入しないということが第一だ。松本前校長に私の評価には介入しないと一筆書くように伝えてもらいたい。」などと言うので、平間校長は「松本前校長が立場上そんなことが出来るはずはない。しかし今までのことはその都度必要なことは伝えている。」と言ったところ、原告は「私も児童指導要録を戦略には使わないが、評価に介入されれば自分の考えを否定されることになるので記入しないのだ。年休を行使したことは、このままでは児童指導要録は未完成で終わるぞという意思表示だったが、松本前校長はそのままにしていた。」「私は状況が進展せず、処分を受けることになってもかまわない。」などと述べた。
平間校長は、原告に対し、感情的にならずに早く記入するよう指示した。
(一一) 平間校長は、同月二三日一六時一五分、原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに「今日までにもう何回も指導し命じてきたのに、どうして記入しないのか。前にも言ったが未決裁者は三人である。市教委も重要な段階に来ているといっている。早く記入しなさい。」と言い、原告は前回と同じく「松本前校長が、評価には介入しない、資料の提出を求めたのは遺憾であったと言わない限り記入しなさい。」と答えた。
市山教頭も原告に「あなたが書いていない教科については、一年生の理科の観点別学習状況の評価を行ったときの基準でまず記入してみてはどうか。」と言ったところ、原告は「今のところ納得できないので記入しない。」と答えた。
(一二) 平間校長は同月二八日一三時一〇分、家庭訪問に出かける前の原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに、観点別学習状況評価についての基準を定めるために配布した昨年度の資料を示して「これをもとに観点別学習状況の評価基準を定め、それをもとに評価するように職員会議で話しあったことを覚えているだろう。」とただすと原告は「記憶している。しかし、私の学級の児童指導要録に関しては公簿として重要であるなら松本前校長が解決して転勤すべきで、松本前校長の責任であると考える。また、仮に責任の大半が私にあるというのであれば、行政処分をすればよい。こちらもそれで争うつもりだ。」と述べ記入に応じようとはしなかった。
(一三) 平間校長は、同年五月六日一六時、原告を校長室に呼び、市教委の指導を受けて市山教頭立会いのもとに「児童指導要録の未決裁者は一人になった。これは脅しではない。市教委も重大な決意がなされていると聞く。だから、松本前校長との問題ばかりを取り上げていてはいけない。何度も言うことだが、児童指導要録の教育的見地からしても記入すべきである。」と説得したが、原告は「私は記入しないとは言ってない。ただ松本前校長との問題が残っている。私が松本前校長に職務命令乱発だと反発もしたが、それは市教委や校長会とのからみで考えると出さざるをえない面もあることはわからないでもないが、今すぐ記入せよと言われても記入できない。」と答え、平間校長は「五月に入ったのだから早く完成しなさい。」と命じた。
(一四) 平間校長は、翌七日一六時一五分、原告の担任教室に出向き、市山教頭立会いのもとに「児童指導要録の未決裁者は一人になった。市教育委員会も重大な決意をしている。処分を受けてよいというが、処分というのは問題が解決されなかったときの処置であると考える。何よりもまず第一は児童指導要録の完成であるから、この点をよく考えなさい。」と言った。この時も原告は、再び、松本前校長とのかかわりや、資料の提出を求めたこと、職務命令のことなどを持ち出し「この問題が何らかの解決を見ないことには記入しない。」と言った。平間校長は「そのことばかりにとらわれず、早く記入しなさい。」と命じたが、原告は「すぐに書くとは言えないが、書かないとも言わない。」と述べた。
(一五) 平間校長は、翌八日八時四〇分、原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに「山田教諭は本日午後二時までに市教委に出頭すること。」との市教委の指示を伝達した。これに対し、原告が、「用件は。それに市教委に出頭させる勤務態様がはっきりしない。」と言うので、同校長は「児童指導要録の件だ。勤務の態様は市教委に行けば指示がある。」と答えた。さらに、原告が「用件がある方が来ればよい。」と言うので、校長は、再度、市教委に午後二時までに出頭するようにとの指示を明確に伝達したところ、原告は「市教委よりの連絡は聞いた。」と言って校長室を出ていった。その後、教頭から原告に二度にわたり市教委からの出頭の指示を伝えたが、原告は行く意思はないと答え、結局市教委には出頭しなかった。
(一六) 同月一一日一六時一五分、平間校長は原告担任の教室に出向き、市山教頭立会いのもとに「最終的な指導としたい。どうして書かないのか。その真意を理解するために来た。」と言うと、原告は「書かないとは言わない。松本前校長は自分で種をまいておきながら何の指導もしない。松本前校長が遺憾の意を表したら書く。」「形式や内容を問わない。ただ感情的な面をすっきりさせてほしい。そしたら自分も書く。」と答えたので、校長は、「そのような人間的な関係における意味でのことなら、松本前校長に伝えてみる。だから、あなたもすぐに児童指導要録を完成しなさい。」と述べたが、原告は「今すぐに完成するとは言えない。考えておきます。」という返事であった。
(一七) 平間校長は、翌一二日一六時、原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに「松本前校長の意を伝えたらただちに書き始めるのか。」と念をおしたところ、原告は「ただちに書き始める。ただ完成期限は六月初旬としておいてもらいたい。」と述べた。そこで平間校長は、松本前校長の「資料の提出を求めたとき、資料未作成のままで児童指導要録を作成していたのではないかととれる言い方をして誤解を与えたことは遺憾であった。」旨の意思表明を読み上げ、原告が了承したので「では早く完成しなさい。」と命じた。
(一八) 平間校長は、同月一三日一〇時二〇分、人事委員会の審理に出かける前の原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに「前日のことを市教委に報告したところ、一六日までに完成し提出せよとの指示があった。」と伝えた。原告は話が違うと反論したが、平間校長は右市教委の指導に基づき改めて原告に対して指導要録を一六日までに提出するように命じた。
(一九) 平間校長は、同月一八日一四時一五分、原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとで「五月一六日までに指導要録を記入して提出するように言っておったが、まだ提出しないのはどうしてか。」とただした。原告は「このことは聞いてはいたが一六日までと言われても学校行事などで書ける状態ではなかったし、また一六日までに書く意思もなかったのでその意味も含めて一六日は年休をとりました。指導を拒否する気持ちはないし、現校長の意はくんでいるが、どうして五月中、五月中にと急ぐのか。六月初めまでには書くといっておるのではないか。」と言うので、平間校長は「もう期限も相当に経過している。五月中に書いて出しなさい。」と命じた。
(二〇) 平間校長は同月二一日、新任校長研修会に出席した際市教委の森岡指導主事の指示を受けて、一三時、会場から電話で市山教頭に「山田教諭に指導要録の記入について指導するように。」と指示した。
市山教頭はこれを受けて原告に対し、教育的見地から指導要録を記入することが学級担任としての重要な責務であることを力説し、記入するよう指導したが進展はなかった。
(二一) 平間校長は、翌二二日一六時、原告を校長室に呼び、永安教務主任立会いのもとに「今日はもう二二日だ。ここまで来て、しかも記入すると言っているのにどうして六月にならないと完成しないと言うのか。再度、児童指導要録の公簿としての重要性を考え、処理しなさい」と命じた。しかし、原告は「私は五月中に記入すると言ったことはない。公簿としての重要性というようなことを持ち出されると、また理論的な論争になる。私は六月に入ってからでないと記入しないと言っておるのだから、私の面目もあるのでそうさせてもらいたい。」と言い張った。
(二二) 市教委は、同月二七日、新任校長訪問のために川平小を訪問し、その際、森岡指導主事が一人残り、三校時後の休み時間に校長室において校長立会いのもとで原告を呼び「児童指導要録を早く完成して決裁を受けるようにしなさい。」と指導した。ところが原告は「自分にそれだけのことを言うために呼んだのか。失礼ではないか。待ってください。今から私の話を聞くべきです。年休を取って論争します。」と反発した。しかし、森岡指導主事は「あなたは授業だから。」と言って、原告が四校時からの授業をおいて年休を取っている間に帰ってしまった。そこで原告は市山教頭に不満を訴え、さらに平間校長と話し合いたいと申し入れてきたので、平間校長は教頭立会いのもと原告を校長室に呼んだところ、原告は「なぜ五分間という短い時間に自分を呼んだのか。市教委の指導主事が校長の頭越しに勝手に指導してよいのか。そんなことをしたので今までの校長との約束は壊されてしまった。」「もう記入はしない。白紙に戻った。」と言うので、平間校長は「森岡指導主事は職務上指導したことであって、何も校長を差し置いての越権行為だということではない。このことで児童指導要録を記入しないという理由にはならない。記入しなさい。」と強く指示した。しかし原告は「今日のことは校長、教頭のように素直に受け入れることはできない。市教委は山田を指導したという事実が欲しかったのだ。私は森岡指導主事と論争するつもりだったのだ。」と言うので、平間校長は「そう感情的にならず、児童指導要録を書きなさい。」とたしなめたが、原告は一三時一〇分に退勤した。
(二三) 平間校長は、同月三〇日一一時一五分、四校時終了後、原告の指導をするため市山教頭を呼びにやったところ、原告が今日は土曜日で時間もないので教室で市山教頭と話し合いたいというので、市山教頭に指導をさせた。
市山教頭が、指導要録の記入はどうなっているのか、六月初めまでに書くということだったがとただしたところ、原告は「約束はそうだったが、森岡指導主事が校長との約束を壊した。校長も立ち会っていたので校長もそうさせたことになる。だから白紙に戻したのだ。」などと主張し、指導要録を早く記入するようにとの指示に応じようとしなかった。
(二四) 平間校長は、同年六月二日一三時五分、原告を校長室に呼び、市山教頭立会いのもとに「指導要録は六月初めまでに記入するとのことだったが記入していない。今日中に記入しなさい。」と命じた。原告は「森岡指導主事があのような一方的な行為をしたのだから書かない。市教委は私を疑っているからだ。あのようなことをされた以上もう何と言われても書かない。」と答えた。そこで平間校長は「森岡指導主事は職務上したことだから、そのことにいつまでもこだわってはいけない。」と言ったが、原告が「もう何度言われても書かない。」と拒否したので、「児童指導要録は本日中に完成して提出しなさい。」と再度命じた。しかし、原告はこれに応じようとしないので、平間校長は、右事実を市教委に報告するとともにそれ以上の指導をしなかった。
原告は、五教科についての観点別学習状況の評価を遂に記入しなかった。
(二五) 以上の指導の過程を通じて、原告から平間校長に対して、五教科の評価に関して、「これ(空欄のまま)をもって記載ずみと言えば言える」という趣旨の話が幾度か出たことはあるが、後に原告が本訴で主張するような評価方法についての説明や、それに基づいて原告としては評価を完了しているのだといった積極的な主張はなされなかった。
以上の事実を認めることができる。
2 右事実の経過に対する原告の反論について
(一) 以上の認定に対して、原告は、その本人尋問及び(証拠略)においておおむね次のように反論する。
すなわち、原告は、昭和五六年三月二三日中休みの午前一〇時三五分ころは多分二年生の教室で仕事をしており、職員室におらず1(三)の命令は聞いていない。同月二四日午前八時四〇分ころは、修了式の式場となる六年生の教室で式場作りの加勢をし(但し、この部分は原告本人尋問では撤回)、その後、担任の二年生の教室に立ち寄り、児童に日程の説明をし、清掃作業の分担を予告した後職員室に入ったので、同(四)の命令は聞いた記憶がない。また、同月二五日午前一一時ころ松本校長から校長室に呼ばれたことはなく、被告が主張する同(五)の職務命令は受けたことはないし、勤務に関する問答もない。また、同月二八日は、原告の春休み中の研修テーマが学校側によって意図的に書き換えられていたので、平間教頭に職員室で問いただしたことはあるが、松本校長から指導要録について同(六)のような命令を受けたことはない。
同年四月二日に校長室に呼ばれたことはなく、同(七)の命令を受けたことはないし、同月六日に指示を受けた記憶もない。同月一三日に校長室に呼ばれたことはなく、同(九)の命令を受けたことはない。同月二八日は家庭訪問に出ていて平間校長に会っていないから同(一二)の問答はない。五月六日に校長室に呼ばれたことはなく、同(一三)の命令は受けていない。
また、同年四月九日、同月一四日、同月二三日、同年五月七日及び同月一一日校長室や三年生の教室で平間校長から、四月二日に提出した指導要録に関し、「もっと『+』『-』をつけて欲しい。」と言われたので、平間校長に「どのような根拠から、もっと『+』『-』をつけるようにいうのか。」などと尋ねたが、これに対する回答はなく、平間校長は、ただ「『+』『-』をもっとつけて欲しい。」というだけであった。四月一四日、二三日、五月一一日には自分なりの評価で記入はすんでいる旨を答えた。この間、五月八日、平間校長が「市教委から『市教委に来て欲しい。』という電話があったことをお伝えします。」と言ったので、原告は用件などを尋ねたが、その際、平間校長は、右出頭につき「職務命令は出ていない。」と答えた。同月一一日には教室に来た平間校長と話し合い、評価への介入について松本校長から遺憾の意を表わすことになった。同月一二日、原告は、指導要録について「六月初旬までに完成させる。」と言ったことはないが、同月一一日の話し合いで平間校長が何回ももっと『+』『-』をつけるように言い絶対間違いないかと問いつめるので、再検討してみる旨を答えた。同月一三日は人事委員会に行って学校を早退し、同(一八)の命令は受けていない。同月一八日は校長室に入った記憶はなく、同(一九)の命令は受けていない。同月二一日の同(二〇)の指導を受けた記憶はない。同月二二日の(二一)の命令もない。
さらに、五月二七日については、市教委の指導主事が川平小に来て、中休みの時間に原告に対して何か言ったが、聞き取れなかったので、問い返したけれども、指導主事の返答はなかった。同月三〇日には下駄箱のところで教頭に「要録は」とだけ言われた。
同年六月二日まで平間校長から、指導要録記入に際し職務命令を受けたことはないし、六月二日も、平間校長から「もっと『+』『-』を書いて欲しい」と言われたが、原告は観点別学習状況についてはすべて評価のうえ記入しており、修正したりする気はない旨答えた。
(二) しかしながら、これら原告の供述などでは、三月二三日の時点で児童指導要録にかかわる成績一覧表の未提出者は原告のみであったのに、松本前校長が原告不在の場所で右提出を命じているということ、原告は三月二四日午前八時四〇分ころは修了式の式場となる六年生の教室で式場作りの加勢をしたとの点を撤回していること、三月二八日、原告と松本校長が会っていながら指導要録の話が出ていないということ、そうすると、原告の供述では三月二五日以降、松本校長は原告に対し、指導要録の提出に関する話をしていないことになるが、市教委への転出が決まっていた筈の校長にとって最も重要な指導要録の決裁を急ぐのは当然であるのに、それを提出しない原告に対して催促、命令をしていないということになること、また、昭和五五年度には川平小の教頭であり原告の指導要録未提出の件についても当然引き継ぎを受けているはずの平間校長が、四月二日に原告の指導要録を点検しながら四月九日以前に原告に対し何の指示もしなかったということ、四月二三日以後五月七日までの間にも何の指示もしていないということになること、五月八日の市教委の原告に対する出頭指示は、市教委が平間校長に対して五月八日の二時に市教委へ出頭する旨原告に伝えるよう連絡してきたことを受けて行なわれているのに、平間校長が職務命令は出ていないと否定したということ、松本校長の遺憾の意の表明があった五月一二日以降六月二日まで、原告は平間校長と会っていないということ、さらに、原告は、五月一一日以前から松本校長との確執に関するやりとり(松本前校長が評価権に介入したから指導要録の評価記入をしないなど)がなされていたことを否定するが、もしそうなら、五月一一日になって全く突然、原告と平間校長のやりとりの中で松本校長の遺憾表明についての話が出てくることになってしまうこと、四月一四日や六月二日に原告が平間校長に評価のうえ記入を完了している旨を積極的に主張していたならば、平間校長からさらにその評価方法がどのようなものであるかについての質問などがあるのが自然であるのにそれがないということ等、前記原告の供述などは内容的にもそれ自体極めて不自然、不合理であり、前記1に掲げた具体的でかつ相補強する各証拠と対比してみても、原告の前記供述中などのうち、前記1の各認定に反する部分は到底措信しえない。
三 そこで、原告は五教科について指導要録の観点別学習状況の評価・記入を行っていたのか否かについて、改めて検討する。
1 新しい指導要録の観点別学習状況欄の到達度評価(絶対評価)は「十分達成」「おおむね達成」「達成不十分」の三段階に分かれ、「十分達成」は+、「達成不十分」は-と記載し、「おおむね達成」の場合は何も記入せず空白のままにしておくことになっていたこと、及び、原告が作成して提出した学習指導要録(<証拠略>)の「各教科の学習の記録Ⅱ観点別学習状況」欄は、二八名の児童全員の国語、社会、算数、理科、図画工作の五教科の全ての観点欄が空欄のままになっていたことは当事者間に争いがない。
2 原告は、本訴において、右の空欄は観点別学習状況欄の評価をしたところ全員が「おおむね達成」であったため、空白のままにして提出したものであって、評価は完了している、評価未記入であるとの被告の主張は重大な事実誤認に基づくものであり、仮に原告の行なった評価の不当をも主張しているものとすれば、教育の内的事項への不当な介入である旨主張する。
しかして、本訴において原告が行なったとする評価の方法は、原告本人尋問の結果によって(証拠略)以下のとおりである。
まず、国語を例に取ると、指導要録の観点は「言語に関する知識・理解」「表現の能力(作文・話す)」「理解の能力(読む・聞く)」「書写」「国語に対する関心・態度」に分かれるが、これだけでは到達度を正しく評価するには抽象的であるので、具体的な評価細目を設定する必要がある。そこで、原告は、各観点を更に細かく分析し、観点細目(<証拠略>)を設けた。国語でいえば、先の「言語に関する知識・理解」という観点を九つの下位目標に細分し、「Ⅰ片仮名をすらすら読むことができる」から「9丁寧な言葉づかいに関心をもち、使うことができる」の九個に分け、各観点細目毎に、三段階の評価すなわち「十分達成」、「おおむね達成」、「達成不十分」という評価を行う。この各観点細目の評価の基準は、テストによる場合は正答率九〇%及び六〇%を分割点とし、九〇%以上を「十分達成」、九〇%未満六〇%以上を「おおむね達成」、六〇%未満を「達成不十分」とし、観察によって判定する場合は、別に設けた評定尺度(<証拠略>)を参考にして判定する。
ところが、観点別学習状況の到達度評価は昭和五五年度から始まったばかりであり、各学期の成績評価簿(<証拠略>)は新しい観点に基づいて記載されていないので、各学期の成績評価簿の中から、前記『昭和五五年度第二学年用観点細目表』(<証拠略>)に対応又は関連する成績を抽出したうえで、再評価することになる。その新しい観点細目ごとの再評価を一覧表にしたのが『昭和五五年度第二学年観点細目評価簿』(<証拠略>)である。このようにして各観点細目につき評価したうえで、観点細目全部について「十分達成」とされた場合その観点は「十分達成」、一つでも「達成不十分」の観点細目があると、その観点は「達成不十分」という総合判定を下したというものである。
そして、原告本人尋問によれば、右の各学期の成績評価簿(<証拠略>)の中から、前記観点細目表に対応又は関連する成績を抽出するにあたっては、テストの結果を利用する場合は、テストの中には複数の観点細目が混在しているわけであるから、その中から観点になるものないしは類似のものから転換しうるものを使って、観点細目ごとに評価していくことになるが、これについては(<証拠略>)だけでは不足であり、テスト問題、点数を書いていた補助簿、授業における子供の発言回数、内容を書いた点検表を利用したというものである。
3 しかしながら、本件証拠を総合すると、原告は、本訴で主張しているような評価方法を実際に行なっていたとは到底認められない。
(一) 原告の主張する評価方法では、観点細目全部につき「十分達成」(しかも正答率九〇パーセント以上)の評価を受けなければその観点は「十分達成」にはならないから、複数観点細目の一つでも「おおむね達成」であれば、残りのすべての観点細目が「十分達成」でも、その観点は「おおむね達成」になってしまうし、観点細目の一つにでも「達成不十分」があると、他の観点細目の成果に拘らずその観点細目は「達成不十分」になるのであって、極めて厳しい評価方法である。そうすると、通常の学級であれば、達成不十分の評価が続出することが予想されるが、原告の学級では、五教科全ての観点について一人も達成不十分の評価がなされていない。(証拠略)によってもテストの素点についてはかなり低い点数が散見されるが、達成不十分になっていない理由について、原告は本人尋問において、テストの結果達成不十分な観点細目があれば放置することなく達成できるように指導するからであるというが、(証拠略)指導要録によって認められる各児童の二度にわたる知能検査の結果や原告自身の行っている評価及びその児童の三年生から五年生までのその後の実際の観点別学習状況の評価の結果(たとえば数人の児童は三年生以降の五科目について、ほとんど達成不十分の評価を受けている)などに照らすと、原告がその主張するようなことをすべての児童について、かつ、すべての観点細目について実行できたとは、到底考えられない。
また、反対に、いかに厳しい評価基準であっても、(証拠略)によって窺われる各児童の能力などに照らして、小学校二年生の課題について、十分達成したと評価すべき観点が一つもないということも不自然である。
(二) 現に、原告の行なったという評価時点の半年後に行われたテストの結果では、原告主張の評価基準では「達成不十分」とすべき児童が多数存在することが明らかになっている。
すなわち、(証拠略)、原告の後任として原告のもとの学級の担任を引き継いだ江戸寛次郎は、当時はすでに三年生に進級していた同一児童らに対して、昭和五六年九月二二日及び二四日、原告担任当時から施行されていた学習指導要領に基づく二年生用の教研式全国標準学力検査(L形式、以下「江戸テスト」という。)を実施したところ、その結果は、各教科(四教科)の児童の正答率(<証拠略>)の「正答率計」欄の数字)につき分割点を原告と同様九〇パーセント以上を「十分達成」、九〇パーセント未満六〇パーセント以上を「おおむね達成」、六〇パーセント未満を「達成不十分」として評価してみると、教科単位でみても国語について一七名、社会について七名、算数について八名、理科について九名が「達成不十分」と評価される結果になったことが認められる(各観点ごとに達成不十分の判定をすると、教科単位でみる場合よりさらに多くの児童が一部にせよ「達成不十分」になる)。原告は、転校児童が存し原告が受け持った学級の児童と江戸テスト時の学級の児童とは完全に同一ではないとか、テストの実施時期が実施要領どおりでないなどと主張するが、それらは、江戸テストの結果により、原告の主張する評価方法、基準を取った場合に「達成不十分」の観点がある児童が一人も存しないことの非現実性が実証されていることを、左右するものではない。
(三) 原告の主張する評価方式は、それを後から実行するとしたら大変な手間を要する方式で、この方式に対する確信がなければ到底実行し難い体のものであるが、前記認定のとおり、原告は自己のとった評価方法について松本校長や平間校長らにまったく説明していないことは不自然である。
原告が本当にその主張する評価方法を採って、大変な手間をかけてこれを実行していたのならば、松本校長や平間校長から指導要録を提出するように職務命令ないし指導を受けた際、その評価方法について説明するのが自然であると思われる。仮に原告が本人尋問で言うように三月二四日には「松本校長は自分の評価基準でないと受け付けないという態度であったので、要録はもう出さないと決心し、新年度の平間校長にゆっくりと説明した方がいいんじゃないかと思った。」というのなら、少なくとも初めて平間校長と指導要録について話をしたと原告が主張する四月六日には、単に+-をもっと付けろと言う同校長に対し、原告の評価方法について何らかの説明をしてしかるべきである。しかし、原告は、前記認定のように四月六日の際に自己の評価方法について説明していないのみならず、松本校長や平間校長から何度も指導要録を提出するように職務命令ないし指導を受けているにもかかわらず、抽象的に評価への介入だと反発したり、いくつ+-をつければいいのかとそれこそ評価への介入になるような言質を取ろうとしただけで、結局、本件処分を受けるまでの間、自己が採ったと主張する評価基準やその評価の具体的方法について一度も説明したことはないことが認められる。そうすると、当時は、原告は本訴でいうような評価方法を採っていなかったといわれてもやむを得ない。
なお、原告本人尋問中には、自分の評価方法につき四月二三日、市山教頭に説明し平間校長も同席していたから聞いていたはずである旨の証言もあるが、その内容は極めて曖昧であり到底信用できない。
(四) 次に、原告は、本訴において右評価方法を行った際の資料として(証拠略)を提出するが、これらの資料には、重大な疑念がある。
例えば、原告が担任した児童の中で(証拠略)の一、二の男子一一番の児童は昭和五五年二学期末で転校しているにもかかわらず、原告はこの児童についても昭和五六年三月時点で評価を行っている。原告はこの点につき、「うっかりして評価した。」と述べるが、原告が行った評価作業テスト答案や補助簿の記載を見て細目毎に評価していくのであるから、この児童の三学期のテスト答案はないし、補助簿にも三学期の記載はないのであるから、うっかりこれを評価するということは考え難い。
次に、原告はテスト等を行った日を(証拠略)に記入している部分があるが、この日付と児童出席簿(<証拠略>)とを照合すると、原告がテスト等を行なったとしている日に欠席している児童がいたり、あるいは出席しているのに欠席となってテストを受けていないとなっている児童がいる。
さらに、(証拠略)の作成時期について、原告は本人尋問において、(証拠略)は昭和五六年三月初めから、(証拠略)は同月一五日から二〇日あたりであると供述する。しかし、前記認定の事実経過のように原告は松本校長及び平間校長らにこれら書証の存在につき話をしたことはなく、また、原告が最初の時点で提出した(証拠略)(陳述書)において評価について述べた部分にも、これら書証の存在を窺わせる記載は全くない。そして、これらが書証として提出されたのは、原告が本訴を提起し執行停止を求めた昭和五六年一一月一八日より更に半年後の昭和五七年五月六日である。
また、(証拠略)、観点細目ごとに全児童の三段階評価をした膨大な一覧表であるが、「達成不十分」を意味する×印は一つも無く全て△印と○印のみで、(一)、(二)で述べたような点に照らして内容的に極めて不自然である。むしろ、仮に観点細目の一つでも×印を付けると、その観点について「達成不十分」になり、空欄のままの指導要録を記入済みであると主張できなくなることから、あえて、×印を付けることをしなかったと解するほうがはるかに合理的である。そうだとすると、この書証は、原告が前記のような主張を始めた後に作成されたものというほかはないことになる。この点は、(証拠略)の各成績評価簿に観点別の評価を追加して書き込んだ部分についても同様である。
(五) 反対に、原告が主張するような評価方法を実行するためには、本訴において提出されたような資料では決定的に不足している。
すなわち、原告が主張するような評価作業をするには(証拠略)の成績評価簿だけでは不可能であり、原告も、その外に、テスト問題、点数を書いた補助簿などを使ったとしている。そうすると、原告の手元には一年間の児童のテスト答案が残っているか、テスト結果を(証拠略)の細目別に区分した児童の一人一人の点数が記録として残っていなければならないことになる。しかし、テスト答案は採点のうえ児童に返還するのが通常で、昭和五六年三月時点で資料になるテスト答案が手元に残っているかは疑問であるうえ、原告が行ったテストは観点毎あるいは観点細目毎のテストを実施したものでもないというのであるから、観点細目毎の点数を知るためには、ほとんど全部のテストが必要になるものと考えられるところ、それに必要なだけのテスト答案が残っていたとは到底考えられない。また、児童一人一人につき、テスト結果を細目別に区分した記録があるためには、予め観点細目表が出来上がっていなければならないが、前記のとおり観点細目表は昭和五六年三月初めから作成作業を始めたというのであるし、また当時のテスト自体、(証拠略)のような観点細目が明確に分離できるようなテストではなかったというのであるから(原告本人尋問)、一ないし三学期のテストの結果を観点細目別に記載した記録が観点細目を作成する前に存在するはずがない。原告は補助簿に点数を記載していたと述べるが、その点数とは右のようなテストの素点を記載していたというのであって、これを観点細目毎に記載したものではない。
結局、原告が主張するような評価方法を取った場合に必要となる資料が昭和五六年三月時点に存在していたとは認められない。
また、原告の主張する作業を実際に行ない(証拠略)のような一覧表を作成するためには、作業過程で補助的な一覧表などが必要になるものと考えられるが、かかる補助的な資料も証拠としては一切提出されていない。
(六) 次に、原告は、本人尋問において、自ら到達度評価につき勉強したと主張し、その一つとして、昭和五五年二月京都に出張した折り、その学校の評価の問題について到達度研究の実際ということで直接校長から話を聞き、特別に研究会等に出席して勉強したと述べ、かつ、これに基づいて昭和五六年二月中に持たれた前記川平小の到達度評価の研修会で川平小案を批判したとも述べている。
しかし、(証拠略)によると、原告が京都に出張したのは、昭和五五年二月ではなくて一年後の五六年三月四日から七日のことであり、京都出張の目的は「健康を作り出す子供の育成研究発表会」への出席であり到達度評価の研修ではないこと、また、原告自身その際評価についての資料は何も貰わなかったと述べていることなどの点に照らせば、原告の前記供述は明らかに虚偽であって信用できない。
4 以上の諸点を総合すれば、原告が本訴で主張するような評価方法を実際に行い、その結果、児童全員が国語・社会・算数・理科・図画工作の全観点につき「おおむね達成」となったため、指導要録の該当欄を空欄として提出していたものとは到底認められないことが明らかである。右のような主張は指導要録の評価不記入を既に評価済みであると強弁するためになされたものと推認するほかはない。
四 職務命令の有無について
原告は、前記のように、松本校長や平間校長からの指導要録等の提出に関する指示の存在を否定するほか、これを認める場合にも、それらはすべて「お願い」や「要請」であり、必ずしもこれに従わなければならないものではなく、職務命令を受けたことはなかった旨主張する。しかしながら、職務上の上司が、その職務に関して行った指示に対しては、それが法律上又は事実上不当あるいは不可能な事柄を求めるものでない限りそれに従うことが期待されていることは当然であるうえ、そもそも、本件で問題となっている指導要録についてはそれを提出しなければならないことが明らかな以上(この点は原告も争わない。)、原告としては前記指示が職務命令であるか否かに関わりなく指導要録を提出すべき義務を負っているのであるから、仮に前記松本校長や平間校長からの指導要録等の提出に関する指示に「お願い」や「要請」といった表現が使われたとしても、原告としてはこれらの指示に従う義務があったものと認められる。かかる事項について、お願いや要請である限り従わなくても良いと考えること自体が、原告の上司に対する反抗的な性向や自己の職務に対する無自覚を意味するものである。
また、本件処分は、職務命令違反の行為そのものを対象とする懲戒処分ではなく、原告の教職に必要な適格性を問う分限処分であるから、職務命令の成否自体は、むしろ、間接的な意義を有するにすぎないのであって、前記認定以上にさらに個々的にその成否を問題とする必要はないものと解される。
五 つぎに、指導要録及び観点別学習状況の評価の意義について検討する。(証拠略)によれば、以下のとおりである。
指導要録は、先に見たとおり、学校に備え付けを義務づけられている諸表簿の中でただ一つ二〇年の保存が定められている最も重要な表簿であり、校長がその作成を義務付けられているものであるが、校長は各学級担任に学級担任の職務として指導要録を作成させ、点検のうえこれを決裁している。そして、児童、生徒が他の学校に転校した場合は、校長は指導要録の写しを転校先に送付し、原本は当該校において、写しは転校先の学校で半永久的に保存される。
右のとおり、指導要録は、学級担任教員が一人一人の児童について、日頃の学習状況、毎日の生活行動等をつぶさに観察し、かつ観察のうえに立って適切な指導を行ない、その観察・指導によって児童が成長・発達した記録を記入している累加記録簿であり、指導要録を見ることによって、在学中はもとより卒業後においても、児童の学習状況、成長・発達の過程、行動様式等が明確となるものである。したがって、新たに在学中の児童の担任を命じられた教員は、個々の児童の指導要録の記録を調べることによって、学習上、生活指導上の指導の手掛かりを得、的確な指導を行ない得るのである。本件原告の如く、指導要録の記入を拒否するならば、指導上必須のものである個々の児童の過去の記録が残されないこととなり、半永久的に保存される表簿としての存在意義を大きく減殺するばかりでなく、事後の指導上にも支障を来すのである。
また、指導要録が半永久的に保存されることの他の理由は、指導要録が対外的証明の原本としての性格をも併せ持つことである。記録不備の指導要録は、対外的証明の面からも、証明内容の信憑性を疑われるものとなりかねない。
つぎに、昭和五五年度の指導要録の改訂の眼目として新たに採り入れられた「各教科の学習の記録Ⅱ観点別学習状況」の評価は、これによって、個々の児童が各教科の具体的下位目標に到達しているか否かを評価し、具体的下位目標に到達していない場合何らかの形での補充指導を行うなどして、評価と指導を直結し、指導の反省と補充と改善とを導き出そうとすることにあった。したがって、観点別学習状況の評価は、単に児童一人一人の教科の観点に対する到達度を記録するにとどまるものではなく、累加記録として事後の指導上不可欠であり、その評価がおろそかになされているときは、個々の児童の指導への手掛かりを求める重要な手段を欠くことになる。
六 まとめ
以上の一ないし五を総合すれば、原告は、昭和五五年度の川平小において二年生の学級担任をしていた際、児童二八名全員について、学校備付表簿中最重要ともいえる児童指導要録の五教科の観点別学習状況欄の評価、記入を行なわず、これを校長への提出期限である昭和五六年三月二五日までに提出せず、松本校長の提出を求める再三の命令ないし指導にも従わず、さらに、その後任となった平間校長からの児童指導要録の観点別学習状況の評価記入を行なうようにとの同年四月二日から六月二日までの再三、再四にわたる命令ないし指導にも、当初は松本前校長との確執にこだわって従わず、これが調整された後には森岡指導主事の指導への反発から記入の約束を一方的にひるがえすなど、筋違いな理由によってこれを評価、記入しようとせず、放置したことが認められる。またこの間、市教委に出頭するようにとの命令にも従わなかったことが認められる。このような言動が、教師としての適格性に疑問をもたらすことは明らかである。
のみならず、原告が実際にはその主張するような方法で評価を行っていないにもかかわらず、評価をしたと主張し、二八名の児童全員の五教科全部のすべての観点が「おおむね達成」であり、観点すべてについて、「十分達成」した児童はおらず、「達成不十分」の児童もおらず、指導要録の空欄は評価の結果であると強弁し、その根拠として、実際に当時作成され評価していたとは認められない具体的な評価資料を提出するに至ったことなどは、本件の各職務命令ひいては本件処分が、原告の既に行っていた評価への介入、すなわち原告のいう「教育の内的事項」に対する介入であり、原告はこれに抵抗したものであると言い繕い、これによって、本件処分の当否に関する論点をすり替えることを意図したものであるとせざるをえない。のみならず、かかる主張や評価資料の作出は、教育の重要な一環である評価そのものに対する冒涜ともいうべきもので、教育に携わる公務員としての適格性の否定に直結するものとして、軽視することはできない。
もっとも、前述のように原告が空欄をもって評価の結果であると積極的に強弁し出したのは、本件処分後のことであるが、本件分限処分事由は、掲げられた個々具体的な行為そのものではなく、その職に必要な適格性を欠くことなどであるから、処分後の行為も、処分以前の行為を不適格性の徴表とみうるか否かを判断する資料としては考慮し得るものというべきである。そのような観点から原告の処分後の本訴における主張等をみると、それはまさに、前記事実認定(第二の二)においてあえて詳細にその経過を認定した評価拒否の際の言動の延長上にあるものというべきであり、一連の人格態度に根ざすものと解されるのである。
第三 五島在勤時代の行状に関して
一 原告が、昭和四六年度から昭和五一年度まで富江町立盈進小学校に勤務していたことは当事者間に争いがない。
二 昭和五〇年五月一九日午後、原告が盈進小山口校長の承認を経ず同校を離れたことについて
1 以下の事実は当事者間に争いがない。
(一) 昭和五〇年度、山口校長は、原告を専科教員とし、学級担任を命じなかった。
(二) 昭和五〇年五月一九日から同月二三日までの五日間、盈進小では、午後の授業を打切り、学級担任による家庭訪問が行われた。
(三) 同月一九日一二時過ぎ、原告が同校事務職員山口庄三郎の机上に自宅研修承認願を置いて帰宅しようとしたので、同事務職員がこれを同校長のもとに急いで持ってゆき、これを見た同校長が原告を校長室に呼んだ。校長とのやりとりの後原告は、一三時三〇分ころ同校を離れた。
(四) 翌二〇日、同校職員朝会後、同校長は原告を校長室に呼び、前記承認願の余白に赤マジックペンで「不承認、地公法三五条」と朱書し、同校長の私印を押して返すとともに「昨日帰宅した取扱いはどうするのか。」と尋ねたところ、原告は「自宅承認願を撤回するつもりはない。」などと言い、同校長の自宅研修は承認しない旨の意向を無視する態度を示した。
(五) 同日盈進小分会役員が右自宅研修承認の件で、同校長と交渉を持った。
(六) 原告は後日、五月一九日の年次休暇願を提出した。
2 その趣旨及び方式により公務員が職務上作成したものと認められるから真正な公文書と推定すべき(証拠略)は、山口校長が、以上の経過について昭和五〇年六月五日付盈小親第四号「教職員の自宅研修承認願についての事実報告」として富江町教育長あてに提出した書面であると認められるところ、右書面には、右争いのない事実のほか、概略以下のとおりの事実経過が記載されている。
(一) 原告提出の自宅研修承認願には研修計画は単に日本史についてとなっていた。山口校長は、研修計画の内容を見て、原告を校長室に呼び、この研修計画は校務に含まれるので勤務時間内に校内で研修するよう指導し、自宅研修は認められない、年休届を出してはどうかと話した。これに対し原告は、校長に年休を出せという権利があるかと詰問し、さらに、あくまで自宅研修承認願を出す、「学級担任でないので児童は下校しているし授業に支障がなく家庭訪問もないので自宅研修をしたい」との意見を述べた。そこで同校長は、授業とは狭い意味でなく校務と考えて欲しいと述べると、原告から自宅研修を認めないのかと反問されたので、長期の夏休み等に認め、短期については内容により検討すると答えた。原告は、この承認願が認められない根拠を、明日、この承認願に書いてもらいたいと述べて、同校長が承認できないというのを振り切って同日午後一三時三〇分ころ下校した。同校長は、以上の経過のあらましを直ちに町教育長に口頭で報告した。
(二) 同月二〇日(ただし、同書面では一七日と誤記されている。)、職員朝会後の校長室における原告と山口校長とのやりとりにおいて、原告が同校長の自宅研修不承認の意向を無視する態度を示したのに対し、同校長はやむなく、自宅研修願をめぐる原告の言動を事実の報告として具申する旨申し渡して話を打ち切った。同校長は、同日一一時一〇分ころから一二時五分ころまで、盈進小分会役員ら三名と上記の問題で交渉を受けたが、平行線のまま解散した。さらに、同校長は、原告と六月五日にも三回目の話し合いをした。
(三) なお、同書面末尾には、「山田教諭の所見」、「校長の所見」との項目を設けて双方の見解を要約しており、原告の所見としては、「教特法第二〇条に授業に支障がない限りとあるので、その日は午後は当然授業打ち切りで授業に支障がないので自宅研修承認願いを認めるべきだ。」と記載されている。
3 これに対し、原告は、五月一九日の行動について、自宅研修ではなく校外研修を行ったものであり、社会科の専科教員として、郷土の史跡へ出掛けて実地に研修した、併せてよく地図を忘れてくる児童の家庭訪問をしようと思ったが、不在のため実現しなかった、自宅研修願の用紙を用いたのは当時校外研修用の用紙がなかったためである旨を主張し、原告は本人尋問においてこれに沿う供述をし、更に、校外研修と家庭訪問の予定については同日校長室で山口校長に伝えていると供述する。
しかしながら、右原告の主張及び供述には、以下のとおり疑問があり、到底採用できない。
(一) 前出の(証拠略)によれば、山口校長と原告との間では、校長による教員の自主研修の承認の是非、要件について争いがあったこと、そして、同校長は、承認の判断は個々の事案により校長の裁量によるとの見解を有していたことが認められる(以上については原告も概ねこれを認めており、研修については当時の組合運動の重点目標であったとする。)ところ、右書面は、事実経過を報告するとともに、この点の双方の見解及び当該事案の処理について、その是非を町教育長にただす趣旨のものであることが明らかである。
そうすると、研修の承認は個別の事案によるとの見解を有する山口校長としては、原告が当時現に主張していた研修の必要性に関する事情については、出来る限り正確に記載し報告したものと解される。加えて、原告自身からも不承認の理由を明示するように求められていたのであるから、同校長が、研修の必要性に関し、自宅研修と校外研修との区別といった基本的事項をあいまいにしたまま不承認の判断をしたとは到底考えられない。したがって、その点に関し、(証拠略)は、当時作成された資料として、それ自体高い信頼性を有するものというべきである。
そして、右書面には、原告の述べた見解について比較的詳細な記載がなされているが、その中に校外研修や家庭訪問に関する記載は一切なく、かえって、当日原告は「家庭訪問もないので自宅研修をしたい」と主張したなど、原告が自宅に帰ることを前提とした原告の言動が記載されている。
(二) 原告は、主尋問に際しては、当日の下校後の行動について具体的に供述し、史跡見学や家庭訪問のほか、その際同僚の二人の教員を車で送ったことなどについてもるる供述するが、反対尋問において、同僚教員の当日の家庭訪問予定先と原告が供述する行動経路との矛盾などを指摘されると、にわかに供述があいまいとなり、再主尋問においては、校外研修を申請してその日に史跡を見学したことは間違いないがその具体的な日付には記憶がなく、被告が主張するので五月一九日のことだと思う。そのころ家庭訪問をしたことはあるがそれが校外研修を申請した日のことであったかははっきり分からないなどと供述するに至り、原告の供述は、それ自体一貫性を欠き信用性に乏しい。
さらに、原告の主張変遷をみると、訴状においては家庭訪問をしたとし、その後の準備書面(原告本人尋問以前)では校外研修をしたとし、最終準備書面に至ってその両方を行ったとするなど、一貫性を欠き、不自然の感を免れない。
(三) そもそも、原告が当日家庭訪問を予定していたとういこと自体、極めて不自然である。すなわち、原告は、家庭訪問について事前に担任や訪問先の家庭に直接連絡をしていない旨を供述するところ、当時担任による全校的な家庭訪問を実施中であり、当該児童についても数日中に担任による家庭訪問が予定されていた筈なのであるから、担任でない原告が、担任と無関係に、しかも事前連絡もせずに家庭訪問を行うものとは到底考えられない。
(四) その他、盈進小に勤務して四年目になる原告が、わざわざ当日郷土の史跡を見学するのは不自然であること、その後の分会と校長との交渉の過程においても、原告の校外研修や家庭訪問が話題とされた形跡がないこと、用紙の点についても、自宅研修用のものしかないのであれば、書式の一部を訂正するなり、研修の内容としてその旨書き加えるなりしてその旨を明らかにすることは容易であったのに、それをしていないことなど、原告の主張及び供述には、不合理な点が多い。
以上のとおりであって、原告の主張及び供述は到底採用できず、(証拠略)により認められる原告の山口校長に対する言動に照らすと、原告は下校後自宅に帰宅したものと推認される。そして、原告が五月一九日午後に自宅等においてその他の何らかの自主的研修を行ったとの主張はなく、またそれを窺わせる証拠も一切ないのであるから、結局、原告は、何ら合理的な理由がなく勤務を放棄して帰宅したものと断ぜざるをえない。
4 なお、原告は、右研修承認願は後日年次休暇として解決を見たものである旨主張し、原告本人は同年六月終わりか七月初めに年休届を出した旨供述するところ(後日年休届を提出したことは争いがない。)、確かに、昭和五〇年五月当時の原告の出勤簿(<証拠略>)の年休欄には訂正の跡があること、当時学校側が原告の行為に対し、無断欠勤として扱った形跡がないことなどの事情に照らすと、その時期はともかく、一旦は年休として処理されたことがあるのではないかと見られないではない。
しかしながら、仮に同年六月終わりころ、原告から年休届が出されたとしても、年休届は本来事前に出されるか、事後の場合もすみやかに提出されるべきものであるところ、本件においては、同日の行為そのものを懲戒事由として考慮するものではなく、原告が教職に必要な適格性を欠くか否かについてを考慮する事情として前記の行為を問題としているのであるから、その意味で、同年六月終わりころ以降提出された年休届が出勤簿上どのように処理されたかを、本件において判断するまでの必要はない。
ちなみに原告は本人尋問において、既に五月一九日の山口校長との話し合いの時点において、後日研修か年休で処理することに話がついていたとも供述するが、その翌日に、同校長が原告に前記承認願の余白に「不承認、地公法三五条」と朱書して返し、その際改めて自宅研修承認願を撤回するかについて応酬があったことや、校長と分会役員とで交渉がもたれたことなど前記争いのない事実と明らかに矛盾しており、原告が一九日当日の事実関係を右のとおり認識していたのであれば、それ自体原告の独善的性格を示すものといわざるをえない。
5 さらに原告は、教特法二〇条二項の趣旨等からして原告の校外研修は承認されるべきであり、むしろ山口校長が不承認とした処置が相当でないとの旨を主張する。しかしながら、右主張は原告に何らかの正当な研修目的があることを当然の前提とするものと解されるところ、前記のとおり原告が下校、帰宅したことについては全く正当な理由が認められないのであるから、そもそも原告の右主張はその前提を欠き、その余の点について判断するまでもなく、理由のないことが明らかである。
6 なお、被告は、原告らが自宅研修承認に関して執拗に抗議した旨主張するところ、翌二〇日の前記争いのない事実や六月五日の話し合い(<証拠略>)のほか、弁論の全趣旨により成立の認められる(証拠略)によれば、その後も数度にわたり分会と校長との交渉の席で自宅研修承認の件が話題となることがあったものの、通常の交渉の過程で交渉事項の一つとして議論がなされたに過ぎないものと認められ、被告が主張するような執拗な抗議という評価には当たらないものというべきであり、したがって、右事実をもって、分限処分の事由を判断する要素として考慮することは相当でない。
7 小括
原告が、昭和五〇年五月一九日午後、盈進小の他の教員が児童の家庭訪問を行っている間、何らの合理的理由がないのに自宅研修を要求し、それが承認されていないにもかかわらず下校、帰宅したことは、職務義務に反し、職務を放棄したものと言わざるをえない。
三 出勤簿押印拒否の事実について
1 事実関係
原告が、昭和五〇年六月一四日以降昭和五二年三月末長崎市に転勤するまでの間出勤簿に押印しなかったこと、地教行法等の被告主張の関係諸規定によって、原告に出勤後直ちに出勤簿に捺印する義務のあることは、当事者間に争いがない。
そして、その方式及び趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるから真正な公文書と推定すべき(証拠略)によれば、この間、原告は、昭和五〇年四月一〇日の盈進小の職員朝会において、同校山口校長より押印についての注意を受け、さらに同月二八日にも、職員朝会において出勤簿の捺印もれについての注意を促されたこと、山口校長からは、盈進小分会との交渉の中でも出勤簿に押印するようにとの話があったほか、昭和五一年度藤田校長からも出勤簿に捺印するように言われていたことが認められる(藤田校長の点については争いがない。)。
2 原告の出勤簿押印拒否の理由について
(一) 原告は、出勤簿押印拒否の理由について、出勤簿の管理が杜撰なことから、これについて教育長らに反省を求めるため、同僚の何人かの者と押印を保留していたものであると主張し、原告本人尋問にも同旨の供述がある。
しかし、仮に原告が指摘する出勤簿管理不備の諸事実があったとしても(右事実を認めるに足りる的確な証拠はないが、この点はしばらく措く。)、出勤簿の押印拒否が、教育長らに反省を求めるために適当な方法であるとは到底いいがたく、原告自身、その本人尋問において「問題点があろうとなかろうと、押印というのは、それと区別して押印すべきであった。」と反省の言葉を述べているところである(なお、原告は訴状においては「忘れることがあったにすぎない」として、「不注意によるものであると主張していたものであるが、その後右のとおりむしろ意図的なものであるとして正反対の主張をするに至ったが、その経過自体不自然といわざるを得ない。)。
(二) また、原告は、当時同校においては出勤簿の押印は単に形式を整えさえすればよい状態であった旨主張し、原告本人尋問の結果によれば、当時同校では出勤簿の押印は励行されておらず、給与支給等のために一定時点で形式が整っていれば問題とされることはなく、後日事務職員が判を預かって適宜押印するようなことも行われていたものと認められる。しかしながら、そもそも、これらの事情があったとしても、それにより原告自身の押印義務が免除されるものでないことが明らかであるうえ、原告自身はそのような形式を整えることさえしていないのであるから、この点に関する原告の主張は、原告の出勤簿押印拒否を何ら正当化するものでない。
(三) なお原告は、原告の不押印期間中であっても、夏季、冬季、春季の休み中は自宅研修期間中であり、他の教職員も押印していないと主張するが、被告もこれら押印が不要の日についてまで分限免職の事由の判断要素として問題にしている訳でないことは明らかである。
3 以上、原告は、出勤簿に押印しなければならない義務があり、校長からも押印するように指示されながらも、およそ出勤簿の不押印を正当化する理由にならない理由によって、昭和五〇年六月一四日以降昭和五二年三月末長崎市に転勤するまでの間出勤簿に押印しなかったものである。
四 週案不提出の事実について
1 原告が昭和五〇年度、昭和五一年度と校長に対し週案を提出しなかったことは当事者間に争いがなく、原告本人尋問の結果によれば、週案とは、学校が作成する年間指導計画書を基に何をいつどこまで指導するかについての各教員の一週間分の授業案であること、盈進小では低学年、中学年、高学年とにわけてそれぞれ校長に対する週案提出の曜日が定められていたことが認められる。
2 しかしながら、他方、原告本人尋問の結果によれば、原告自身は週案を作成し、それに基づいて授業をしていたこと、以前の大浜小学校ではそれを校長に提出していたが、校長から有益な指導、助言を受けたことはなく、校長も形式的に目を通す程度であったこと、盈進小においても同様の状態が予想されたため、盈進小においては週案の提出をしなかったこと、他方、当時週案の提出については学校側から厳しく指導されるようなことはなく、組合員であるか否かを問わず、週案を提出しない教員が多数いたこと、現に盈進小においては、一二名の教員中二名しか週案を提出していなかったこと、それについては特段の問題とはされず、教務主任から朝会時に注意されることがあった程度で、校長から直接指導がなされることはなかったこと、週案提出を厳しく指導されるようになったのは、土井首小に転勤した以降であること(後記第四、四2参照)など、おおよそ原告主張のとおりの事実が認められる。そして、当時盈進小において、原告が週案を提出しなかったことによって特段の問題が生じたり、それについて、原告に対し特段の指導がなされたとの形跡は窺われない。
3 右に認定した事実によれば、原告の盈進小勤務当時同校においては、週案を作成していても、これを提出しないことがむしろ一般的であったということができ、週案の不提出自体については、免職につながるような意味での教員としての不適格性や勤務成績不良を示す徴表であるとは即断できない。したがって、当時における週案不提出については、分限処分の事由を判断する要素として考慮することは相当でないというべきである。
第四 長崎市在勤時に関して
一 学校訪問公開授業における指導案の役割などについて
1 原告が昭和五三年度の土井首小における学校訪問及び昭和五四年度の川平小における学校訪問において、公開授業に用いる公開授業指導案(以下「指導案」という。)を提出しなかったことを論ずる前提として、まず、学校訪問の意義やその際の指導案の役割などについて検討する。
2 いうまでもなく、学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならず(教育基本法六条二項)、教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない(教育公務員特例法(以下「教特法」という。)一九条一項)ものである。
他方、教育公務員の任命権者は、教育公務員の研修につき、研修に関する計画を樹立し、その実施に努めなければならず(教特法一九条二項)、地教行法二三条八号は、校長、教員その他の教育関係職員の研修に関することを教育委員会の権限事項とし、また、同法四五条一項は、県費負担教職員の研修は、市町村委員会も行うことができる旨を定めている。そして、教育委員会は、指導主事を置き、指導主事は、学校における教育過程、学習指導その他学校教育に関する専門的事項の指導に関する事務に従事することとされている(地教行法一九条一項、三項)。
3 そして、(証拠略)によれば、以下の事実が認められる。
学校訪問は、右にみた研修、指導を目的として市町村教育委員会が学校経営の各般について指導を行うために企画する計画訪問であり、教科指導訪問と事務指導訪問に分けられている。そのうち教科指導訪問は、教科等の指導に関する諸問題の解明を図るものであり、特に重視されるのは各教員の教科の指導力を高めていくことである。そのため、教育委員会の指導主事は、実際に授業を見て、授業をもとにして指導したり、あるいはその学校が抱えている問題について指導をすることが予定されている。
指導案はいわば授業の計画表であるところ、そのうち「学習指導の目標」の記載は、教師がその時間で何をねらっているかを明らかにするものであり、「展開」の記載はそのねらいをもとにして教師がその時間にどういうふうに授業を進めていくかを明らかにするものであり、とりわけ重要な記載事項である。このような指導案は、<1>各教科の指導力を高めるために、まず指導案をつくることにより事前の研究ができるうえ、指導主事らが見て後に意見を述べたり、他の先生の意見も聞いたうえで、一緒にその指導計画のあり方について検討をしていく分科会のために必要であり、<2>また、指導主事らが授業を見る場合、指導主事の数は限られているので一人の指導主事が全部の学級の授業を一時間中見るということはできないところ、そのような部分的な参観しかできない場合には、特に一時間の授業の流れを頭の中によく入れておかないと正しく見ることができないし、先生の創意工夫の跡を知ることも困難となるために必要であり、<3>さらに、事前に指導主事も十分研究しておかないと必要な指導助言もできないので、事前研究をするためにも必要であるとされていることが明らかである。
以上のことからすると、指導案は教科指導のための学校訪問の目的を達するためには必要不可決なものであることが認められる。
なお、(証拠略)によれば、昭和五三年度及び同五四年度の各学校訪問実施要項には、指導案を用意していない授業も参観することがある旨の記載がされていることが認められるが、前記指導案の目的・必要性を考えると、単に、指導案を用意していない授業も参観することがありうることを示したにすぎないことが明らかであり、指導案を出さなくてもよいとする趣旨であるなどというのは、為にするこじつけであるというほかはない。
4 これに対し、原告は、指導案は本来各教員が自主的に作成しているものであり、その形式、内容はもとより、その提出も教員の自主性に委ねられており、指導案の提出を強要することは、これを提出させて、それを通して教師の教育の自由をチェックしようという意図でなされたということができ、教育の内的事項への不当な介入を招来する危険が大きいものである旨主張する。
しかしながら、教育基本法一〇条は、国の教育統制権能を前提としつつ、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き、その整備確立のための措置を講ずるにあたっては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する「不当な支配」となることのないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがって、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは、たとえ教育の内容及び方法に関するものであっても、必ずしも教育基本法一〇条の禁止するところではないと解するのが相当であるところ(最高裁昭和五一年五月二一日大法廷判決、刑集三〇・五・六一五)、前述した教員の研修の義務と教育委員会の役割、学校訪問の意義等に照らせば、前記のとおり、指導案は上記学校訪問の目的を達成するために極めて重要な役割をもつものとしてその提出が求められているのであり、上記指導案の提出を求めることは、上記目的のために必要かつ合理的なものとして是認し得るものと認められるのであり、また、指導案に記載されることが要求されている内容についても、前記のとおり当該公開授業における「学習指導の目標」や「展開」などであって、特に教員の思想・信条等をチェックしたり、あるいは教育の自主性を歪めるものとはいえず、したがって、それにより、教育基本法一〇条が禁じるような合理的な範囲を超えて、教育が国民の信託に応えて自主的に行われることを歪めるような目的・効果を有しているものとも認められない。
よって、この点に関する原告の前記主張は採用できない。
二 学校訪問公開授業指導案提出拒否の事実(その一)について
1 原告が、昭和五二年度及び昭和五三年度、土井首小に勤務していたこと、市教委は、土井首小を昭和五三年度の教科指導を主とする訪問校に指定したこと、市教委は、あらかじめ訪問校に「昭和五三年度学校訪問実施要項」を送付し、その中で、教科指導訪問につき、指導の主な内容を明示したうえ、二校時ないし五校時を公開授業とし、各教師は公開授業のうち、いずれか一つの授業の指導案を用意することを求めたこと、延期後の学校訪問に関して昭和五四年一月三〇日高雄校長が指導案提出について職務命令を出したこと、最終的に原告を含む同校教員一七名が指導案の提出を拒否し、昭和五四年五月二五日懲戒戒告処分に処せられたことは当事者間に争いはない。
2 (証拠略)の結果(但し、以下の認定に反する部分を除く)によれば以下の事実が認められる。
(一) 土井首小の学校訪問は、当初昭和五三年一〇月二五日に予定され、同年九月四日、高雄校長及び教務主任が公開授業、分科会、事前準備に関する基本的事項について教員に説明した。これに対し原告は、学校訪問は学校の具体的問題を解明していくのが趣旨であるから分科会はやめてでも全体会を持って欲しい、分科会に時間を多く取ることは個人指導が主になり趣旨に反するなどと主張した。
(二) その後、一〇月五日以降度々開かれた職員会において、高雄校長や教務主任らは学校訪問の趣旨、内容や指導案の形式などの説明をしたが、原告は、学校訪問の趣旨は「学校としての問題や悩みを解明する」といっているのに個人の授業を見る、そしてそれに対して指導を受けると言っているところに納得がいかぬなどと主張し、指導案を提出しようとしなかった。そして、原告を含む教員らは、学校訪問の機会に、土井首小が当面している学校運営や施設その他の教育条件の整備について、全体会で市教委と話し合いを持つことを希望し、その条件等をめぐって高雄校長や市教委と交渉した。
原告は、全体会の時間を長くするように主張し、教育条件の整備や主任制の問題は是非取り上げて検討すべきであり、時間が足りないなら公開授業を四時間もする必要はない、教科指導についてはあくまで対等である、指導という上から下へという考えがおかしいなどと主張した。
(三) その間、高雄校長は、原告らに、学校訪問当日の教科を決め指導案を出すようにと指導したが、原告は、これに応じようとしないことから、やむなく、同月二三日、原告を含む指導案未提出者に対し、職務命令として、明二四日九時までに学校訪問当日の公開授業の指導案を出すことを命じ、その後も再三指導案の提出を求めたが、原告らはこれに従わず、結局、同校教員二八名中、一六名が指導案を提出しなかった。
(四) その結果、市教委の学校訪問は延期された。そして、二回目の学校訪問は昭和五四年一月三〇日に行なわれることとなった。
(五) 高雄校長は、昭和五三年一二月二二日以降、原告らに対し指導案を提出するように求め、さらに、昭和五四年一月二二日、原告らに対し、明日までに指導案を是非とも提出するようにとの職務命令を発した。
しかし、原告はこれに応じようとせず、高雄校長の個別指導に対しても、教科指導だからといって指導案を準備する必要は感じないと述べて、指導案の提出を拒否した。そこで、高雄校長は同月二五日、改めて、原告らに対し、明二六日一四時までにこれを提出するようにとの職務命令を発した。
(六) 学校訪問の当日である同月三〇日、高雄校長は、職員朝会において改めて公開授業の指導案を一校時終了までに提出することを命じ(争いがない)、市教育長ほか指導主事一八名が来校し、指導案の提出を求めたが、結局、同校教員二八名中、原告を含む一七名が指導案を提出せず、このため、同日の学校訪問は中止になった。
(七) なお、当時県教組及び長崎総支部は「教育の権力的支配を排除し教師の教育の自由を守るため」として、市教委の「一方的、査察的に実施する学校訪問」には反対し、廃止する運動をとっていたが、指導案の提出自体については、具体的な指示を出しておらず、原告らの行為は、県教組や長崎総支部の意向に沿ったものとはいえない。また、昭和五三年度に教科指導訪問が予定された一一校のうち、指導案が提出されず、学校訪問が中止になったのは土井首小のほか一校あるのみであった。
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
3 以上のとおり、土井首小の高雄校長は、市教委による学校訪問を実施しようとしたが、原告らは、本件学校訪問が教科指導訪問であり、各教科の指導力を高めていくことが重要であるにもかかわらず、当初予定されていなかった全体会を要求し、そこにおいて教科指導に直接関係しない学校の運営や施設設備の問題について取り上げるよう要求するなど教科指導訪問の趣旨に沿わず実現困難な要求を行い、さらに、度重なる職務命令や指導を拒否して、教科指導訪問の目的達成のために極めて重要な指導案の提出を拒否し続け、学校訪問を延期ないし中止するに至らしめたことが明らかである。これは、教育公務員に課せられた研究と修養に努めなければならない義務に反して、自ら研修の機会を拒否し、また、他の教員の研修の機会を奪ったものであって、そこに原告の反抗的で独善的な性行や問題性がうかがわれるといわざるを得ない。
なお、高雄校長らの指導案提出に関する個々の指示が職務命令か単なる指導であるかについては、教科指導訪問における指導案の役割は前述のとおりであって、学校訪問実施要項にもその指導案を提出すべき旨が明確に記載されている以上、原告としてはこれに従う必要があったものと認められるのであって、先に述べたとおり本件が秩序違反の行為自体に対する懲戒処分ではない以上、前記認定以上にさらに個々的にその成否を問題にする必要はないものと考えられる。
三 学校訪問公開授業指導案提出拒否の事実(その二)について
1 争いのない事実
原告が、昭和五四年度川平小に勤務していたこと、市教委は昭和五四年度も昭和五三年度と同様な目的で、長崎市内の学校訪問を計画し、川平小についても同年一一月二七日に学校訪問を行ったことは当事者間に争いがない。
2 (証拠略)によれば、以下の事実が認められる。
(一) 昭和五四年八月二一日、穂坂校長は、午前一一時からの職員会で、市教委の行う学校訪問を主な議題とし、昭和五四年度学校訪問実施要項を教員に配付して説明し、同校の学校訪問が一一月二七日に予定されていることを明らかにした。
これに対し、原告以外から特に発言はなかったが、原告は、自分の考えを知って欲しいなどとして、学校訪問に関して市教委の態度を非難する趣旨の発言をし、次いで、校長に、「市教委は、指導案の提出がなければ学校訪問をしないのか。」と尋ねるなどし、最後に、「土井首小では指導案を提出しないため、処分を受けたが、私の判断は正しいと信じている。また『本校で学校訪問があるから指導案を提出するように。』と求められたからといって、自分の態度がすぐ変わるということにはならない。そのため、今後先生方に迷惑をかけることがあるかもしれない」などと発言した。これに対し穂坂校長は、学校訪問は教育目標に重要なかかわりがあるので、指導案を提出し、研究を十分に深めて欲しいと述べて、指導案提出を指示した。
(二) 同年九月四日午後二時からの職員会では、学校訪問に関して、原告は、穂坂校長に市教委の態度、見解をただすなどし、指導案提出の強制は法規的にみて問題があるなどと発言したので、穂坂校長は、学校訪問の趣旨、効用などを説明すると、原告は「指導案を提出しなければどうなるのか。」と尋ね、穂坂校長は「学校訪問の意義を考えれば、指導案の必要を云々するまでもない。我々の授業をより適切効果的なものにするために学校訪問が行われるので、指導内容について十分研究を深めた指導案を作り、提出して下さい。」との趣旨を述べた。以上のやりとりに終始して予定の時間を経過してしまったため、穂坂校長は、当日の職員会で予定していた学校訪問についての他の議題まで進めることができず、学校訪問以外についての議題も後日機会を設けることにした。
(三) 同年一〇月一九日、午後三時三三分から学校訪問について行なわれた職員会では、公開授業、分科会の研究問題、指導案について検討され、原告が担任する第二学生(ママ)を除いた全学年の公開授業の校時及び教科が決定され、指導案については様式を定め、その提出期限を一一月九日とすることが決定された。
その際、原告は、私の学校訪問についての考え方を言いたいとして、「平常通りの授業はするが、要項にあるような指導案を用意しての授業、または指導案を用意して行った授業の教科の分科会への出席はしないことを表明する。なお、学校訪問について全面的に反対するわけではないが、指導案を提出しなければ学校訪問をしないという行政当局の姿勢に反対する。」と述べたので、穂坂校長は、授業をより効果的に行なうためには周到な計画が必要である、指導案は授業者の意図を表記したものであり、これがなければ参観者の誤解を招き、研究討議が全くかみあわないことにもなる、授業を高めていくために我々は努力をしており特に学校訪問には指導案が必要であるなどと学校訪問の趣旨、効用を説明した。ところが、原告は「私と教育委員会とは係争中の関係にある。その決着がつかない段階で、処分した教育委員会から『指導案を提出するように。』といってきたから、それに応じるほどお人好しではない。」などと述べたので、穂坂校長は「指導案の価値、必要性について職員の共通理解ができている。本校では、ここ何年か市教委の指導を受ける機会がなかったが、よい機会であるから、学校訪問時までに十分準備をし、指導を受けるようにしてください。」と述べた。これに対し原告は、「市教委が指導案の提出を求めるのならば、指導主事も当日授業することを、条件として校長から市教委に出して欲しい。」、「市教委の訪問要項によれば、分科会は指導案を提出した教科に出席するのであるから、指導案を提出しない場合は出席できないから、分科会に出席しない。」などと述べたので、穂坂校長は、重ねて、指導案を提出しその教科の分科会に出席するよう指導した。
(四) 一一月九日は公開授業の指導案及び分科会の研究問題の提出期限であったが、原告は、この日までにそれらを提出しなかった。
(五) 同月一二日、穂坂校長は、午後二時三〇分から同三時三〇分まで、校長室で教頭立ち会いのうえ原告を指導した。
これに対し原告は、指導案提出についての自分の態度はいままで表明してきたとおりであるなどとして、従来の主張を変えなかった。穂坂校長は「長崎市での学校訪問を受けたことがないのなら、予想で批判をすることをやめ、指導案を早く作成しなさい。私の経験を言うと、指導を受けて、いままでの自分の指導方法に大きな改善を見出したり、題材のとらえ方に新しい見方を発見したり、その効果は測り知れないものがあった。」と述べたが、原告は、校長のいうことや要項に書いてある趣旨は分かるとしながらも、指導案を提出しない意向を示したので、穂坂校長は、重ねて指導案と分科会の研究問題を早く提出するよう指導した。
(六) 原告がこのままでは指導案を提出しないと感じた穂坂校長は、市教委に赴いて梅原指導係長の指導を受け、職務命令という形をとることも考えた。
同年一一月一四日午後二時一五分から同二時三五分まで、穂坂校長は、校長室で教頭立会いのうえ、「一昨日、学校訪問の日の公開授業の指導案と分科会に提出する問題について、早く提出するように言いましたが、どうしているか聞きたい。」と尋ね、原告の態度を明確にするよう求めると、原告は「学校訪問については指導案を提出しての指導は受けないということである。」と答え、続けて、市教委を非難する趣旨の発言をした。それに対する応答などがあった後、穂坂校長は「一一月二七日、本校の学校訪問日に山田先生が指導案を用意して行う授業の教科名・何時に行うか・分科会に提出する問題などが決定していないので、本日一五時二〇分までに私に報告してください。」と明確に指示した。
そして、穂坂校長は同日一五時二〇分から校長室で、教頭立会いのうえ、「さきほど言いましたことについて、報告してください。」と原告の発言を求めると、原告は「学校訪問が指導案を提出することを要件とするとは思わない。」と答え、穂坂校長が「あなたの判断で提出しなくてよいというものではない。長崎市教育委員会は指導案を提出するよう学校訪問実施要項のなかに明示している。」と言うと、原告は自分に対する人事異動の不当性について述べ、続いて指導案は前日までにできればよいなどと述べた。そこで穂坂校長は、一五時四五分ころ、「さきほど山田先生に求めたことについての明確な報告がないので、職務命令を発します。」と前置きしたうえ、「一一月二七日(火)四校時の国語は指導案を用意して授業すること。また、指導案並びに国語分科会に提出する問題は、一一月一六日九時までに提出すること。」との職務命令を発した。原告はこれを聞き終わったあと、「私は、学校訪問は指導案の提出を要件としないと信じて行動しているので、校長がこのように割り当てても、指導案を提出するような無節操なことはしない。」と述べて、校長室を出ていった。
(七) 同月一六日一〇時二五分より、穂坂校長は、校長室で教頭立会いのうえ、原告に対し、「学校訪問日の国語授業の指導案並びに国語分科会に提出する問題は提出済みですか。」と確かめると、原告は「何回もいうように、市教委が学校訪問をするから指導案を提出するようにと言ういわれはないので出さない。私は、学校訪問にあたり指導案提出の義務はない。私の職務内容を言って欲しい。」と述べ、穂坂校長が法令集の中に明示されているので後で見ておくようにと答えると、「指導主事は私に指導案を提出するよう求める権限があるのか。学校訪問の指導案のことで処分を受けた者が、川平へ来たからといって数か月のうちに気が変わって提出することはない。」などと述べた。そこで、一〇時三九分、穂坂校長は「学校訪問で専門の指導主事の指導を受け、今後よりよい川平小づくりをすることが必要な状況であり、また、児童、保護者の信頼に応えるためにも充実した授業にする努力は、この学校訪問が重要なかかわりをもっている。山田先生、一一月二七日(火)学校訪問日の国語の指導案並びに分科会の問題を明日一一月一七日(土)八時四五分までに提出しなさい。」と重ねて命じた。
(八) 同月一七日八時二〇分頃、原告から穂坂校長に「病気だから休む。」という電話があり、その後、原告は化膿性扁桃腺炎のために同月二九日(木)まで出勤しなかった。
3 以上に対し、原告は、自身の発言について概ねこれを認めるものの、穂坂校長が職務命令による強制という態度ではなかったため素直に提出するつもりであったが、一一月一六日夜に突然発熱し、化膿性扁桃腺炎により翌一七日から同月二九日まで病欠せざるをえなかったので提出できなかったに過ぎない、一一月一六日の穂坂校長の発言も職務命令ではなく、通常の口調で「提出してください。」と言ったものである旨主張し、原告も本人尋問においてこれに沿う供述をし、さらに、一〇月一九日の職員会のころは、指導案を出すべきかどうか迷っていた、一一月一四日には、学校訪問は指導案の提出を要件としないと考えていたが、土井首小のことで戒告処分を受けていたので、今回は不本意だが指導案を提出しようと考えていた旨を供述する。しかしながら、前記認定のとおり、原告は、学校実施要項の配付を受けた昭和五四年八月二一日当初より、職員朝会などで指導案の提出が必要とされることに対し反対の意思を表明し、その後の校長の指導案提出にかかる指導に対しても同様の意思を表明していたこと、とりわけ、穂坂校長が指導案の提出期限とした同年一一月九日にも指導案の提出をしなかったこと、その後も一一月一六日まで出勤していながらなお指導案を提出しなかったことに照らせば、原告の右供述は不自然であり到底措信し難い。さらに、一一月一六日の穂坂校長の発言についてみれば、既に提出期限を過ぎ、学校訪問の期日も目前に迫っていたのに、その当時に至っても原告は指導案提出に反対する旨の言動を採っていたことなど、客観的事実及び概ね争いのない原告の供述のみに照らしても、穂坂校長としては、当然今回も前年と同様の事態となることを予想したであろうこと、そうなれば原告は前年以上の重大な処分を受けるおそれがあること、時期的にみても、いわば最後通告の段階になっていたことが容易に推認でき、この段階に至って、原告が主張、供述するようなあいまいな態度に終始していたとは到底考えられず、指導係長と連絡を取りつつ、職務命令として告げるべき文言をあらかじめメモしていたとする証人穂坂の証言は十分に信用性があり、右に反する原告の主張、供述は到底採用できない。
4 原告は、昭和五四年度の川平小においても、穂坂校長の指導案の提出を求める職務命令及び指導を拒否し、校長指定の期日までに指導案を提出せず、教育公務員の研修の義務を自ら放棄しようとしたものであるとともに、前年度に土井首小において指導案の提出を拒否した事実により懲戒戒告処分を受けたにもかかわらず、昭和五四年度においても再び同様の行為を繰り返したものであって、そこに容易に矯正しがたい反抗的で独善的な性向や問題性がうかがわれるということができる(なお、個々の指示が職務命令か否かにつき、前記認定以上にさらに個々的にその成否を問題にする必要がないことは前記二の3と同様である。)。
四 学習指導記録簿提出拒否の事実
1 原告は、昭和五二年度からの土井首小在勤時及び昭和五四年度からの川平小在勤時において、学習指導記録簿の提出を拒否し続けたことは、当事者間に争いがない。
そして、原告本人尋問の結果によれば、学習指導記録簿とは、前記週案と同一のものであることが認められる。
2 (証拠略)を総合すれば、原告は、当時も週案(学習指導記録簿)を作成していたこと、しかし、土井首小に転勤後も、盈進小と同様の理由により週案(学習指導記録簿)を提出しなかったこと、その後昭和五二年一〇月、被告が週案についての通知を出し、週案提出を強く指導する方針を打ち出したこと、県教組は、これに対抗する形で、「国家権力による統制に反対し、教育の自主性を守る」ためとして、「週案提出強要排除」の運動方針を掲げ、多くの組合員もこれに従って自覚的に週案を提出しないようになったこと、原告もその当否を検討したうえでこれに従い、自覚的に週案(学習指導記録簿)の提出を拒否するようになったこと、一方被告側としても、週案提出については、明示的に職務命令を出すことはしない方針で臨んだこと(被告も、当時原告に対し職務命令を出したとの主張はしていない。)が認められる。
3 そうすると、昭和五二年一〇月ころ以降の学習指導記録簿の提出拒否については、原告としては、組合の運動方針に従ったものであって、その意味では、一応の客観性、合理性が認められる所信に従って、あえてその指導に反したものということができないわけではなく、それが直ちに持続性のあるその性格等に起因するものであるとはいえないという意味において、右行為が懲戒事由とはなりえても、直ちにその職に必要な適格性を欠くことの徴表であるとは速断できず、他方、それ以前については、盈進小当時と同様の事情であったとみられるのであるから、結局いずれにしろ、提出義務の有無や義務不履行に正当事由があるか等について判断するまでもなく、右一連の提出拒否の事実を、分限処分の事由を判断する要素として考慮することは相当でない。
第五 原告の勤務評定について
被告は、原告が、被告が行ってきた勤務成績の評定結果のうえからも、勤務実績不良と評価されている旨具体的に数値を示して主張するところ、県費負担教職員の勤務成績の評定は、都道府県教員委員会の計画の下に、服務監督権者である市町村教育委員会が行うものとされており(地教行法四六条)、(証拠略)によれば、被告は、「長崎県市町村立学校教員の勤務成績の評定に関する規則」において、市町村教育委員会の行う県費負担教職員の勤務成績の評定に関し必要な事項を定め、教諭が被評定者である場合、その評定者を校長、調整者を市町村教育委員会教育長とし、県教育委員会教育長の定める勤務成績評定書によって評定又は調整を行うこと等が規定されていること、そして、右勤務成績評定書における総評は、ABCの三段階に区分され、評定に際しての評定要素や観察内容についても詳細に定められていることが認められ、以上の事実によれば、被告の行う勤務成績の評定が、原告の主張するようにその項目及び基準が不明で信用性がないなどとすることはできない。
そして、(証拠略)は、昭和四九年から昭和五二年までの間の五島教育事務所管内被評定県費負担職員、昭和五二年から昭和五五年までの長崎教育事務所管内被評定県費負担教職員に対して、被告主張のとおりのランクによる評価が行われており、そのランクごとの人数なども被告主張どおりであることが認められるところである。しかしながら、これらの証拠は、単に各ランクごとの人数の集計結果を一覧表にしているのみであって、それ以上に原告がその勤務評定中被告主張どおりのランクに入っていることまでを明らかにするものではなく、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
したがって、原告の勤務評定が勤務実績不良と評価されているということはできないのであるから、原告が「勤務実績が良くない場合」(地公法二八条一項一号)に該当するという被告の主張のうち、右の勤務評定の点を根拠とする部分は採用することができない。
第六 本件分限免職処分の適法性
一 分限処分の趣旨・目的及び裁量性について
地方公務員法二八条所定の分限制度は、公務の能率の維持およびその適正な運営の確保の目的から同条に定めるような処分権限を任命権者に認めるとともに、他方、公務員の身分保障の見地からその処分権限を発動しうる場合を限定したものである。分限制度の右のような趣旨・目的に照らし、かつ、同条に掲げる処分事由が被処分者の行動、態度、性格、状態等に関する一定の評価を内容として定められていることを考慮するときは、同条に基づく分限処分については、任命権者にある程度の裁量権は認められるけれども、もとよりその純然たる自由裁量に委ねられているものではなく、分限制度の上記目的と関係のない目的や動機に基づいて分限処分をすることが許されないのはもちろん、処分事由の有無の判断についても恣意にわたることを許されず、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮して判断するとか、また、その判断が合理性をもつ判断として許容される限度を超えた不当なものであるときは、裁量権の行使を誤った違法のものであることを免れないというべきである。そして、任命権者の分限処分が、このような違法性を有するかどうかは、同法八条八項にいう法律問題として裁判所の審判に服すべきものであるとともに、裁判所の審査権はその範囲に限られ、このような違法の程度に至らない判断の当不当には及ばないといわなければならない(最高裁昭和四八年九月一四日第二小法廷判決民集二七巻八号九二五頁)。
二 原告が分限処分事由に該当するかについて
1 ところで、本件分限免職処分は、地公法二八条一項一号(勤務実績がよくない場合)及び同三号(その職に必要な適格性を欠く場合)に該当するとしてなされたものであるところ、同三号の「その職に必要な適格性を欠く場合」とは、当該職員の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性格等に起因してその職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる場合をいうものと解されるが、この意味における適格性の有無は、当該職員の外部にあらわれた行為、態度に徴してこれを判断するほかはなく、その場合、個々の行為、態度につき、その性質、態様、背景、状況等の諸般の事情に照らして評価すべきことはもちろん、それら一連の行動、態度については相互に有機的に関連づけてこれを評価すべく、さらに当該職員の経歴や性格、社会環境等の一般的要素をも考慮する必要があり、これら諸般の要素を総合的に検討したうえ、当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連においてこれを判断しなければならないのである(前掲最高裁判決参照)。
2 そこで、原告が右一号及び三号に該当するかについて検討するに、前記第二ないし第四で認定したように、原告は、五島在勤時原告が勤務していた盈進小において、昭和五〇年度、同校山口校長が原告の提出した自宅研修承認願を承認していないにもかかわらず、帰宅してその職務を放棄し、また、昭和五〇年六月一四日から昭和五二年三月末までの間、一年一〇か月にわたって一切出勤簿に押印せず、長崎市在勤時においては、昭和五三年度、土井首小で行われる予定であった学校訪問に際し、同校高雄校長らの職務命令及び指導に従わず、学校訪問及びその公開授業に重要な役割を有する指導案を提出せず、右学校訪問を延期ないし中止するに至らせ、それにより、懲戒戒告処分を受けた後も、翌五四年度川平小において行われた学校訪問においても、同校穂坂校長の指導案提出に関する職務命令及び指導に従わず、昭和五五年度には、川平小において原告が担任した学級児童の指導要録のうち第二学年の「各教科の学習の記録、Ⅱ観点別学習状況」欄の、原告の担当する五教科について、同校松本校長及び後任の平間校長らの命令ないし指導に従わず、その評価、記入を行わずに放置するなど、原告は昭和五〇年度以降本件処分に至るまで、再三再四にわたって故意に職務上の義務を拒否し、職務上の上司であった歴代校長の職務命令及び職務に関する指導に反抗して従わなかった事実が認められるのであって、これらの各事実を総合的に見ると、そこには、原告の、職務上の命令及び指導に服さず、自己の主張や見解に固執するなどの独善的で反抗的な性格傾向や性癖が一貫してうかがわれるのみならず、原告が、第二の六で要約したように、教育の重要な一環である指導要録の観点別学習状況の評価、記入を放置したり、はては、空欄は評価の結果であり全員が全観点について「おおむね達成」と評価されたと強弁したりすることは、教育にたづさわる者としての適格性に重大な疑念をもたらすものといわなければならない。
しかして、児童の教育指導に携わる教育公務員の適格性は、単に学科の指導面のみならず、児童の人としての成長を見守る包容力、多くの児童の師となるべき公正さ、父兄との信頼関係、独善に陥ることなく常に研究と修養に努め向上をめざす意欲や柔軟さなど様々な面において高い水準のものが要求されることはいうまでもないことであり、先に見たような原告の外部に現れた個々の行為や態度を、その性質、態様、背景、状況等諸般の事情に照らして評価した場合、原告には、簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、性格等に起因して、教育公務員としての職務の円滑な遂行に支障があることの徴表があるということができ、原告はその職に必要な適格性を欠いているとする任命権者である被告の判断を不合理なものとまでいうことはできない。
また、前記第二ないし第四で認定した前記各行為は、職務義務や定められた服務上の手続きを履行しなかった行為として、勤務実績が良くない場合にもあたるということは否定できない。
したがって、原告は地公法二八条一号及び三号の分限処分事由に該当するものというべきである。
3 これに対し、原告は、処分事由として教員の教育権を侵害するような事実を援用することはできないところ、被告が分限処分事由として掲げる行為のうちには教育の内的事項にかかわるため分限処分事由となりえないものがあると主張するが、指導要録については、前記第二でみたようにもともと原告は評価、記入を行っていないのであるから評価に対する不当な介入といったことはそもそも問題にならず、指導案の提出拒否については、前記第四でみたように、指導案の提出を求めること自体が教育に対する行政権力の不当、不要な介入にあたるとはいえないから、これを分限処分の事由の判断に当たって考慮することが許されないとするいわれはない。
三 裁量権の逸脱ないし濫用について
1 先に見たとおり、分限処分が、分限制度の目的と関係のない目的や動機に基づいてされた場合、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮して処分理由の有無が判断された場合、あるいはその判断が合理性をもつ判断として許容される限度を超えた不当なものである場合、裁量権の行使を誤ったものとして違法となる。
しかしながら、前記二で検討したような本件処分事由は、原告の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、性格等に起因してその職務の円滑な遂行に支障がある場合に該当するというものであって、一方で原告が主張するように、原告がその教育実践の結果、多くの児童、父兄等から評価され、各種研究、研修会にも参加、発表してきたり、あるいは、現在では押印拒否や川平小において森岡指導主事に対してとった言動などについて反省している旨述べていることなどを十分考慮しても、なお、被告が、原告には教員としての適格性そのものを欠くとしてなした本件分限免職処分が合理性をもつ判断として許容される限度を超えた不当なものであって裁量権を逸脱または濫用したものと認めることはできない。
2 さらに、原告は、被告が処分事由として問題にしているのは、すべて原告の上司との関係で生じたものであり、単に上司に対する態度だけで、また、原告と相対立する校長の主観的ともいえる一方的に認識した事実をもって適格性を欠くとして処分することはまさに原告に対する差別的発想に基づくもので、組合の諸活動に熱心な原告に対する懲罰的な側面が否定できないなどと主張するが、原告の各行為は、前述のように教育の重要な一環である評価、記入を放置したり、教育公務員にとって重大な義務である研究と修養に努める義務を怠って研修の機会を拒否するなどの行動が認められるのであって、それ自体重大であり、仮にそれに至る動機が上司との確執にあり、あるいはまた上司のこれに対する対応に必ずしも十分でない点があったとしても、そのことによって宥恕されるべき性格のものではないから、これをどの程度考慮するかはかなりの部分が任命権者の裁量に属するものというべきであって、本件において右裁量権の逸脱ないし濫用があるとはいえない。また、本件分限処分が原告に対する差別的発想からあるいは組合の諸活動に熱心なことを嫌悪するなどの動機目的からなされたものと認めるに足りる証拠はない。
さらに、原告は、免職をもたらさない懲戒処分によって対処することが十分に可能であるから、具体的処分の選択という点においても、裁量権の逸脱又は濫用があるとするが、懲戒処分と分限処分はその要件の異なる別異の処分であり、両者がその目的を異にしていることは明らかであるから、この点に関する原告の主張も理由がない。
第七 よって、本件分限処分を違法としてその取り消しを求める原告の請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 小田耕治 裁判官 井上秀雄 裁判官 浦島高広)