長野地方裁判所 平成5年(ヨ)27号 決定 1994年8月12日
債権者
岩田薫
(ほか一〇名)
債務者
長野県
右代表者知事
吉村午良
右指定代理人
池田博
同
布山澄
債務者
日本鉄道建設公団
右代表者総裁
塩田澄夫
右両名指定代理人
東亜由美
同
森和雄
同
小野四郎
同
曲渕公一
同
関口正木
理由
第三 当裁判所の判断
一 所有権、賃借権又は立木所有権侵害のおそれ(争点1(一))について
1(一) 各債権者が所有権、賃借権ないし立木所有権を有する本件各土地に実施計画認可処分に基づく新幹線鉄道構造物及び線路わきの側道の建設が予定されている(〔証拠略〕)。
公団及び県は、側道建設の事業主体ではないにしても、右側道建設計画は新幹線の設計協議に基づいて立案されたものであるから、新幹線の用地買収及び工事と一体不可分のものとみることができる。
(二) 公団による工事においては、本件各土地の地面の掘り下げや立木の伐採収去が当然予想される。
(三) 公団及び県は、債権者らに対し、権利関係の確認、調査測量への協力依頼、個別の用地買収交渉を行ってきた(〔証拠略〕)。
2 ところで、債権者らが差止めを求める本件各土地についての新幹線用地買収とは、これを任意行為としての買収であると主張しているところからすると、公団及び公団から委託を受けた県と債権者らとの間の売買契約の締結ないし公団及び県から債権者らに対する右売買契約のための交渉をいうものと解されるが、所有権等の効力にはこれら権利の買受け交渉を禁止することまでは含まれておらず、このような用地買収を行うことが債権者らの土地所有権、賃借権ないし立木所有権そのものを侵害するとはいえないことは自明である。
なお、用地の買い取りの結果、残地が生ずる場合があるが、残地の評価が下がったときに評価減の分の補償がなされれば、やはり土地所有権、賃借権ないし立木所有権の侵害があるとはいえない。
また、債権者らの主張する公団の工事による本件各土地の所有権、賃借権又は立木所有権の侵害という事態は、公団が無権限で本件各土地での工事を始めない限り生じ得ないことであるが、公団による工事は、右のような本件各土地及び立木の任意買収が成立し、又は土地収用法上の手続きにより土地収用が行われるなどして公団に本件各土地及び立木の所有権が移転したことを前提として行われるものであり、所有権移転なしに無権限で工事を行うということは考えられない。
したがって、債権者らの主張する本件各土地の所有権、賃借権又は立木所有権の侵害のおそれは、主張自体失当であるといわなければならない。
二 騒音による人格権、環境権、自然享有権侵害のおそれ(争点1(二))について
1 まず、用地買収及び工事終了後の新幹線の列車走行による騒音問題を用地買収及び工事差止めの可否に関して考慮すべきか否かを検討する。
一般に、公害の事前差止について、完成される施設の構造及び運営に公害発生原因が存し、その運営から不可避的に公害が発生することが高い蓋然性をもって認められ、これにより住民等の身体に物理的な侵襲が生じ、重大な結果を生ずることがほぼ確実に予想されるときは、施設の公共性及び被害防止措置の難易の程度如何を考慮のうえ、人格権の効力として、施設の運営による侵害を排除すべく、施設の完成に密接に関連する工事等の準備行為にも右侵害原因が存するものとして、その差止めを認めるべき場合があるものと解される。
本件においては、本件各土地の用地買収が完了すれば右各土地上での工事を行うについて法律上の障害がなくなり、工事が終了すれば実施計画で予定しているとおりの速度での列車走行を行うことが現実に可能になるから、用地買収及び工事は、新幹線の完成に密接に関連する準備行為であると解され、新幹線の列車走行による騒音問題を用地買収及び工事差止めの可否に関して考慮することは許されるというべきである。右の密接関連性は事実上のもので足り、工事主体が公団であり、列車走行の営業主体がJR東日本であるという主体の相違によって結論が左右されるものではない。
2 そこで、本件の新幹線の列車走行による騒音の程度について判断する。
(一) 新幹線の列車走行に伴う騒音は、騒音規制法上の規制対象とならない特殊騒音であるが、環境庁が公害対策基本法九条一項に基づいて、「新幹線鉄道騒音に係る環境基準について(昭和五〇年七月二九日環境庁告示第四六号)」を定めており、これによれば、午前六時から午後一二時までの間、地域の類型ごとに、類型Ⅰ(主として住居の用に供される地域)は基準値七〇ホン以下、類型Ⅱ(商工業の用に供される地域等Ⅰ以外の地域であって通常の生活を保全する必要がある地域)は基準値七五ホン以下(以下、この基準値を単に環境基準ということがある。)とされ、各類型をあてはめる地域は都道府県知事が指定し、また、新設新幹線鉄道については、達成目標期間は「開業後直ちに」を目途とするが、環境基準の達成努力にもかかわらず、達成目標期間内にその達成ができなかった区間が生じた場合でも、可及的速やかに環境基準が達成されるよう努めるものとするとされている。
そして、本件の新幹線を含む整備五新幹線については、右環境基準の達成方につき、運輸省が「整備五新幹線に関する環境影響評価指針(昭和五四年一月二三日鉄施第一〇七号)」を定めており、音源対策(努力目標は八〇ホン)のほか、土地利用対策、障害防止対策等を含む総合的な施策により、右環境基準を達成するよう努力することとしている。
前記環境基準は、その内容及び右指針の存在からみて行政上の環境保全目標を定めたものに過ぎず、これを越える騒音が生じたからといって直ちに差止めの対象となるものではないが、社会生活上一般に受忍すべき限度(以下「受忍限度」という。)の一応の目安を定めたものとして、騒音の程度の判定において考慮すべきであると解される。
(二) 完成前の新幹線の列車走行による影響の予測は、既設新幹線の一部区間を利用した総合試験線及び二四〇キロメートル毎時速度向上試験のデータを分析し、騒音をレール・車輪転動音、構造物音、集電系音及び車体空力音に分類し、各音源の性質から決まる距離減衰を考慮して、予測しようとする地点における各音のレベルを合成し、その地点の騒音レベルとする手法であり、これによれば、軌道、構造物の種類、構造物の高さ、列車速度等の条件をもとにして、周辺が平坦な場合について、地上一・二メートルの高さの位置での騒音レベルを予測することが可能であるが、実際の騒音レベルは、周囲の地形条件、家屋の密集度等種々の条件によって変化し、また、測定時の風向き、雨の有無等気象条件によっても測定値はばらつく傾向がある(〔証拠略〕)。
これによれば、新幹線の環境影響評価において行われた騒音の予測値は、新幹線完成後の実際の列車走行に伴う騒音の測定値と完全に一致するとは限らないが、予測の手法に科学的合理性が認められ、現時点では一応信用に値する数値であると解される。
(三) 昭和六〇年一二月の環境アセスメント(新幹線の長野県区間)によれば、騒音レベルの予測値は次表のとおりである(〔証拠略〕)。
構造物の形式 盛土 高架橋
構造物の高さ 七メートル 七メートル
軌道構造 バラスト軌道 防振スラブ軌道
防音壁 いずれも直防音壁(レール面から約二メートル)
列車速度 いずれも二四〇キロメートル毎時
地形条件等 いずれも平坦地・家屋なし
予測位置 いずれも地上一・二メートルの高さ
線路中心から二五メートル地点の予測値 七七ホン 七九ホン
これによれば、線路中心から二五メートル地点の予測値は、前期運輸省指針の努力目標は達成しているものの、音源対策のみでは前記環境基準を満たさないこととなる。
(四) なお、平成四年七月の環境アセスメント(新幹線の石川県区間・富山県境~金沢駅)によれば、騒音レベルの予測値は次表のとおりである(〔証拠略〕)。
構造物の形式 盛土 高架橋
構造物の高さ 七メートル 七メートル
軌道構造 バラスト軌道 防振スラブ軌道
防音壁 いずれも直防音壁(吸音材あり)(レール面から約二メートル)
列車速度 いずれも二六〇キロメートル毎時
地形条件等 いずれも平坦地・家屋なし
予測位置 いずれも地上一・二メートルの高さ
線路中心から二五メートル地点の予測値 七四ホン 七五ホン
(車両はパンタグラフカバーが取り付けられ、また先頭形状が新型車両程度に改良されているものとする。)
これによれば、線路中心から二五メートル地点の予測値は、音源対策のみで一応前記環境基準を満たすこととなる。
(五) (四)の騒音予測値が(三)のそれより低下しているのは、実用段階に至ったパンタグラフカバーの取り付け、車両先頭形状の改良、吸音材の設置を予測の前提条件に組み入れたためであるが、さらに低騒音パンタグラフ、より効果の高い防音壁等の技術開発がなされれば、音源対策としての騒音の低減が可能になる(〔証拠略〕)。
(六) 公団は、公害等調整委員会において、平成五年一二月二〇日、軽井沢町住民一名との間で、新幹線騒音防止等調停申立事件の調停を成立させたが、その調停条項には、前記環境基準が達成されることを目的として、公団が、構造物、軌道、電気設備等の鉄道施設に係る音源対策、トンネル空気圧音に対する対策、鉄道施設に関する将来の技術開発の成果の新幹線の建設への導入をそれぞれ行い、さらに公団は、営業主体であるJR東日本に対し、車両対策及び車両に関する今後の技術開発の要請を行うこととされている(〔証拠略〕)。
なお、右騒音防止等調停は、私法上の効力は調停当事者間にのみ生じ、債権者らを何ら拘束するものではないことはもちろんであるが、右調停条項は、公団の音源対策に積極的な姿勢を示しているものと認められる。
右(一)ないし(六)を総合して考慮すると、新幹線の列車走行による騒音の程度は、家屋の防音工事等の障害防止対策を行うまでもなく、現在の技術水準で環境基準を下回っているか、あるいは今後の技術開発の可能性と公団の音源対策に積極的な姿勢を考慮すれば、開業時点までに環境基準を下回る数値に抑えることが十分可能であるものと判断することができる。ある時点での環境アセスメントの騒音予測値が環境基準を越えたからといって、直ちに新幹線の列車走行による騒音が債権者らの人格権を侵害する具体的危険性があることが高度の蓋然性をもって認められたとはいえない。
3 ところで、前述のように環境基準は一応の受忍限度の目安となるにすぎず、当該騒音の身体に対する影響、被害場所の地域性、四囲の環境、被害者の生活状態、土地利用の先後関係等の具体的事情によっては環境基準に一定の限度で軽減もしくは加重したものを受忍限度とするのが相当な場合がある。他方、社会経済生活上高い公共性を有する鉄道事業において、列車走行の差止めないしこれと同視しうる鉄道施設の用地買収及び工事の差止めを求めるためには、その人格権侵害の程度が受忍限度を超えたというに止まらず、右受忍限度の逸脱が著しいと認められる程度の違法性の強い場合であることを要するものと解するのが相当である。
本件においては、債権者らは、軽井沢町が自然保護要綱を有すること及び本件各土地の通常の騒音レベルが二〇ないし三〇ホン程度であることを主張するのみで、新幹線の環境アセスメントの予測値程度の騒音が身体にどのような影響を与えるかをはじめ、具体的な疎明を何ら行っていないから、環境基準に何らかの加重を行うべき事情が認められず、受忍限度の基準としては環境基準をそのまま適用する以外に方法がない。そして、新幹線の列車走行が極めて公共性の高いものであることは自明であるところ、右列車走行により避けられない騒音の程度については右2で判断したとおり、受忍限度の基準と考えられる環境基準を下回ることが予測されるのであるから、本件用地買収及び工事の差止めを求めるに足りる受忍限度の著しい逸脱について疎明が不十分であるといわなければならない。
4 債権者らは、被保全権利として人格権のほか、環境権及び自然享有権を主張するが、その内容、要件は極めて不明確であって、これを私法上の権利として認めることはできないものといわざるをえない。したがって、これら権利の侵害のおそれの主張(もっとも具体的な疎明もなされていない。)は失当である。
また、債権者らは、県の環境影響評価要綱違反を主張するが、本件では、債権者らの被保全権利(二)に関する債務者らの主張(4)記載のとおり、同要綱に基づく手続は一応履践されているものと認められるほか、仮に本件の経緯の中で右要綱等に違背する点があったとしても、このような手続違背は、公害の身体に対する侵襲の程度に直接影響はなく、公害の発生源である事業者の被害防止に対する消極性の徴表としてのみ意味があると考えられる。本件においては、すでに判断したように、騒音による人格権侵害のおそれの疎明が不十分であるばかりでなく、公団の音源対策の積極的な姿勢が認められるから、債権者らの主張は失当である。
第四 結論
以上のとおり、県は工事の主体ではなく、また、県及び公団による用地買収並びに公団による工事については、債権者らの被保全権利の疎明がないから、保全の必要性について判断するまでもなく、本件申立てはいずれも理由がないので却下することとし、申立費用の負担について民事保全法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 前島勝三 裁判官 杉山愼治 忠鉢孝史)