長野地方裁判所 昭和30年(ワ)82号 判決 1958年12月24日
原告 秋葉とし子
被告 須坂市
主文
被告は原告に対し金九萬八千三十円の支払をせよ。
原告のその余の請求はこれを棄却する。
訴訟費用はこれを三分しその一を原告の負担としその余を被告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金二十萬円の支払をせよ、訴訟費用は被告の負担とする」との判決並に仮執行の宣言を求め、その請求の原因として次のとおり陳述した。
「原告は昭和三十年二月二日訴外牧米雄よりその所有と称するその所有名義の須坂市大字須坂字横町三百五十三番敷地家屋番号大字須坂四百九十五番木造板ぶき平家建居宅一棟建坪十六坪二合を売渡担保とするから金十萬円を貸与されたいとの申込を受けてこれを承諾し、翌三日右建物につき売買による所有権移転登記を受けた上同人に対し金十萬円を同年三月十九日までに返還を受ける約束で交付したところ、同人は右の弁済期を過ぎるも右金員の返還をせず、しかも右建物は実は同人の実兄牧善一郎の所有であつて、原告はその後右善一郎より前記登記の抹消を求める訴を長野簡易裁判所に提起され、同年八月二十三日敗訴の判決を受け右判決は確定した。
すなわち牧米雄は右建物が自己の所有でないにも拘らず自己の所有であると偽りこれを売渡担保に供すると称して原告から金十萬円を騙取したものであるか、原告が右金十萬円を騙取されるに至つたのは次のような事情による。
牧米雄は牧善一郎の印鑑を偽造して昭和三十年二月一日須坂市役所に出頭し須坂市戸籍印鑑係吏員たる小林哲子に申出て善一郎の右偽造印による改印届をした上右小林哲子より右偽造印による善一郎の印鑑証明書の交付を受け、翌二日右偽造印を用いて善一郎名義で自己に対する前記建物の贈与証書及び所有権移転登記申請書を偽造し、右交付を受けた印鑑証明書を添付して右建物につき善一郎より自己に対する所有権移転の登記手続をし、更に同月三日再び須坂市役所に赴き前記小林哲子より前同様の善一郎の印鑑証明書の交付を受け、これと共に右偽造印を用いて善一郎振出名義の金額十萬円の約束手形一通及び同人名義の代理委任状一通を偽造し、原告に対して前記建物の登記済証のほか、右建物と共に貸金の担保とする趣旨で右約束手形を、自己が善一郎より右約束手形作成の権限を与えられていることを証する趣旨で右代理委任状を、右約束手形及び右代理委任状の印鑑が真正のものであることを証する趣旨で前記の二月三日に交付を受けた印鑑証明書をそれぞれ交付したので、原告は右建物が米雄の所有であり且つ右書類がいずれも真正のものであると信じ、米雄に金十萬円を交付したのである。そうして前記小林哲子が昭和三十年二月一日前記偽造印による善一郎の改印届を受理し且つ同日及び同月三日前記各印鑑証明書を米雄に交付したのは、出頭者が善一郎本人であるかどうか及び本人でないとすれが右改印届及び印鑑証明書交付申請について正当な代理権限を授与されているかどうかを確認するに足りる十分の措置を講ぜず、口頭で本人であるかどうかを問い質したのみで漫然牧善一郎本人が出頭したものと信じ乃至は出頭者が善一郎より代理権限を与えられているものと認めて、改印届を受理し印鑑証明書を交付したのであつて、小林哲子にはその点の過失があり、結局原告が米雄に金十萬円を騙取され且つ善一郎より前述の訴を提起されて敗訴したのは右小林哲子の過失に基くものである。
そうして市町村のなす印鑑証明事務は国家賠償法第一条にいわゆる公権力の行使に該り、仮りに印鑑証明事務が右公権力の行使に該らないとしても、被告は小林哲子の使用者であるから、被告は右小林哲子の印鑑証明事務の執行に際しての過失に基き原告に与えた損害の賠償義務があるので、被告に対し、原告が牧米雄に騙取された金員相当の金十萬円の物質上の損害の賠償並に原告が牧善一郎より訴控を提起され敗訴したことによる精神上の苦痛に対する慰藉料金十萬円の支払を求める。」
被告訴訟代理人は請求棄却の判決を求め、答弁として次のとおり述べた。
「原告主張の事実中被告の戸籍係吏員である小林哲子が昭和三十年二月一日須坂市役所に出頭した牧米雄を牧善一郎と認め右米雄から善一郎の改印届を受理し右届出の印鑑による善一郎の印鑑証明書を交付し、更に同月三日同様に米雄に善一郎の印鑑証明書を交付したことは認めるが、右小林哲子に過失があつたとの主張事実は否認する。その他の事実は不知。仮りに右小林哲子に過失があつたとしても、市町村の印鑑証明事務は国家賠償法第一条にいわゆる公権力の行使には該らないから、被告には同法に基く賠償義務はなく、また被告は同女の選任監督について相当の注意をなしたから原告の請求には応じられない。」
立証として、原告訴訟代理人は甲第一及び第二号証、第三号証の一、二、第四号証の一乃至四、第五号証の一、二及び第六乃至第十五号証を提出し、証人牧米雄(第一、二回)、同牧善一郎、同小林哲子(第一回)、同石川宏臣(第一乃至第三回)及び同角田勝造の各訊問を求め、乙号各証の成立を認め、被告訴訟代理人は乙第一及び第二号証の各一、二を提出し、証人牧米雄(第一回)、同牧善一郎、同小林哲子(第一、二回)、同渡辺修、同角田政造、同石川宏臣(第一回)及び同角田勝造の各訊問を求め、甲第七乃至第十号証第十四及び第十五号証の成立を不知と述べたほかその余の甲号各証の成立を認めた。
理由
被告の戸籍係吏員である小林哲子が昭和三十年二月一日須坂市役所に出頭した牧米雄を牧善一郎と認め右米雄から善一郎の改印届を受理し右届出の印鑑による善一郎の印鑑証明書を交付し、更に同月三日再び同様に米雄に善一郎の印鑑証明書を交付したことは当事者間に争いがない。
そうしていずれも成立に争いのない甲第一号証、同第三号証の一、二、同第四号証の一乃至四、同第五号証の一、二、同第六号証、同第十一号証及び同第十二号証、証人牧米雄(第一、二回)、同牧善一郎、同小林哲子(第一、二回)、同石川宏臣(第一乃至第三回)の各証言(但し証人牧米雄の証言については後記信用しない部分を除く)並に弁論の全趣旨を綜合すると、牧米雄は実兄善一郎の印鑑を偽造し、昭和三十年二月一日右印鑑を持参して須坂市役所に出頭し、前記小林哲子に申出でて右偽造印による善一郎の改印届をして受理され、同時に右偽造印による善一郎の印鑑証明書二通の交付を受け、更に右偽造印を用いて善一郎名義で自己に対する贈与証書及び所有権移転登記申請書を偽造した上、翌二日長野地方法務局須坂出張所において右登記申請書に右贈与証書及び右印鑑証明書を添付して右善一郎所有の須坂市大字須坂字横町三百五十三番敷地家屋番号大字須坂四百九十五番木造板ぶき平家建居宅一棟建坪十六坪二合について同人より自己に対する贈与を原因とする所有権移転の登記手続をなした上その登記済証の交付を受け、同日訴外石川宏臣方に赴き同人に対して右登記済証を示し、右建物は兄善一郎より贈与を受けたものであるが、これを担保とするからオートバイ購入の資金を融通して貰いたいと申込んだところ、右石川は更に善一郎が保証人となり且つ右建物の敷地の賃借権の譲渡についての地主の承諾書をも持参するならば原告を代理して金十萬円を貸与してもよいと述べたので、米雄は更に同月三日須坂市役所に赴き前同様小林哲子に申出て自己の印鑑届をした上その印鑑証明書二通の交付を受けると共に、再び善一郎の印鑑証明書二通の交付を受けた上、右建物の敷地の所有者である小林山三郎方に行き右建物を他人が使用することを承諾する旨を記載した証書(甲第十号証)を入手したほか、前記偽造印を用いて善一郎名義の代理委任状(甲第八号証)を偽造し、また自己名義で原告に対する右建物の譲渡証書及び右建物を昭和三十年三月十九日までに明渡す旨を記載した書面(甲第九号証)を作成し、右各書類と同日交付を受けた善一郎及び自己の印鑑証明書各一通を持参して石川方に赴き、同人に対して善一郎は忙しくて来られないから代理委任状を持つて来たと偽り、前記善一郎の偽造印を用いて自己と善一郎の共同振出名義の金額十萬円の約束手形(甲第七号証)をその場で作成し前記持参の各書類と共に交付した(証人石川宏臣は同日甲第一号証を他の書類と共に受取つた旨証言するが、右甲第一号証は当裁判所において長野地方法務局から取寄せた牧善一郎より牧米雄に対する昭和三十年二月二日附所有権移転登記申請書添付の印鑑証明書であるから、右証言は正確を欠き、右甲第一号証は昭和三十年二月一日附となつているけれども、右証言は同日附の印鑑証明書の交付を受けたとの趣旨ではなく、単に甲第一号証と同様の形態をなした牧善一郎の印鑑証明書を受取つたとの趣旨であると認める)ので、右石川は米雄が数年前前記建物において計理事務所を開設していたことを承知していた事情もあつて、米雄を信用し右建物が真実善一郎より米雄に贈与されて米雄の所有となつたものであり、且つ善一郎は米雄が原告から金融を受けその債務を担保する趣旨で善一郎名義の約束手形を作成交付する権限を米雄に与えたものであると信じ、内縁の妻である原告を代理して金十萬円を利息元金百円につき一日金二十七銭弁済期昭和三十年三月十九日と定めて米雄に貸与することに応じ、前記長野地方法務局須坂出張所において右建物について原告に対する所有権移転登記手続を受けると共に、右米雄に金十萬円より前払利息、右建物の火災保険料及び右登記手続の費用を控除した金員を交付したほか、その後右火災保険料及び登記費用の支出をしたこと、しかるに善一郎は右建物を米雄に贈与したことはなく右建物は善一郎の所有であり、従つて同人は米雄に対して改印の届出及び印鑑証明書の交付申請についての代理権限を与えたことなく、また右建物を担保に供したり約束手形を振出すことを承認したこともなく、前記のような米雄の諸行為はすべて善一郎の不知の間になされたものであり、且つ米雄は無資力であつて、前記金員は米雄が貸金名義の下に原告より騙取したものであること、米雄は前記の弁済期をすぎても右金員を原告に返還せず現在に至つたこと、そうして右善一郎は原告及び米雄を共同被告として長野簡易裁判所に前記建物につき善一郎から米雄に対して及び米雄から原告に対してなされた各所有権移転登記の抹消を求める訴を提起し、原告は証人を申請する等種々の防禦方法を提出したが遂に敗訴の判決を受け右判決は確定したことをそれぞれ認めることができる。証人牧米雄(第一回)は勝手に善一郎の印鑑を偽造したけれども右建物は以前善一郎より贈与を受けたものであり自己の所有である旨或いは善一郎は自分のしたことをその後承認した旨証言するが、右証言部分は証人牧善一郎の証言及び前記甲第十二号証に照し到底信用し難く、その他右認定を覆すに足りる証拠はない。
してみると被告の吏員たる小林哲子が昭和三十年二月一日牧米雄より同人の偽造にかかる印鑑による牧善一郎の改印届を受理したり、同日又は同月三日右米雄に右偽造印による善一郎の印鑑証明書を交付したりしなかつたならば、原告は米雄に金員を騙取されたり善一郎より訴訟を提起されたりして物質上精神上の損害を被ることがなかつたことは明かである。
そこで原告が右の経過によつて被つた損害の賠償を被告に対して求め得るかどうかについて判断する。
原告は国家賠償法第一条の規定に基いて被告に対し損害の賠償を求めるのであるから、まず市町村の行う印鑑証明事務すなわち印鑑届、改印届の受理、印鑑証明書の交付等の行為が国家賠償法第一条にいわゆる公権力の行使に該るかどうかについて検討する。右の印鑑証明事務は市町村が従来慣行として行つてきたものであり、条例に基く以外に、市町村が右のような事務を行うべきことを直接定めた法律の規定は何ら存しないけれども、右印鑑証明事務は、私人の証明書作成等の行為とは本質的に異り、専ら市町村が公益的見地から取扱うものであることは疑いのないところであつて、一種の公証行為に属すると認められる。ところで国家賠償法第一条にいわゆる公権力の行使とはいかなるものをいうかというに、国民に対して命令又は強制を加える権力的行為のみならず、国又は公共団体が私人と全く同様の立場に立つてするいわゆる私経済的行為を除いた他の一切の行為をいうのであつて、公証行為の如きもこれにはいるものと解するのが相当である。けだし憲法第十七条が「何人も公務員の不法行為により損害を受けたときは法律の定めるところにより国又は公共団体にその賠償を求めることができる」と定めているところからすれば、およそ国又は公共団体の公務員がその職務を行うにあたつて私人に損害を与えたときは、国家賠償法第二条その他特別の規定によつて国又は公共団体の賠償責任の定められている場合は格別、それ以外の場合には国家賠償法第一条又は民法第七百十五条のいずれかの規定によつて私人は国又は公共団体に対して損害の賠償を求め得るのであつて、その間にいずれの適用をも受け得ない間隙が存すべき道理はないが、もともと私人間の生活関係を規律する民法の規定は国又は公共団体が私人と同様の立場にある場合すなわち私経済的関係に立つ場合にのみ適用されると解するのが最も自然であるのみならず、国民に対して命令強制を加える権力的行為とその他の行為とを一般的に区別して賠償責任を定める実質的理由に乏しく、「公権力の行使」なる用語に垢泥すべきではないからである。よつて市町村の行う印鑑証明事務は国民に命令強制を加えるものではないけれども前述のとおり一種の公証行為であつて私経済的行為ではないから右の公権力の行使に該り、市町村はその公務員が印鑑証明事務を行うにあたつての過失によつて私人に損害を与えた場合には国家賠償法第一条に基き賠償の責に任ずべきである。
よつて次に小林哲子に過失があつたかどうか及び原告の被つた損害が右小林哲子の過失に基くかどうかについて判断する。
まず印鑑届乃至改印届をなしまた印鑑証明書の交付を申請するには如何なる手続を要するか須坂市の場合について見ると、須坂市印鑑条例には(一)印鑑届について第四条第一項に「印鑑の届出は本人印鑑携帯の上でしなければならない。但し未成年者禁治産者及び準禁治産者は法定代理人がしなければならない。」と規定し、同第二項に「届出人が病気又は巳むを得ない事故により出頭することができない時は代理人が委任状を提出して届出をなすことができる。但し代理人は成年者にして本市在住者でなければならない。」と規定しており、(二)改印届については第六条に「届出のある印鑑を亡失、毀損及改印したる時は直ちにその旨届出なければならない。」とあるのみであるが、改印届についても新規の印鑑届に準ずべきものと解せられ、(三)印鑑証明書の交付申請については第八条第一項に「印鑑証明は本人自らが出頭し出願しなければならない。」と、同第二項に「未成年者禁治産者及び準禁治産者にあつては第四条第一項但書の規定を準用する。」と、同第三項に「本人又は法定代理人出頭することができない時は委任状にその事由を具し代理人をもつて願出ることができる。但し市長において必要がないと認めたときはこの限りでない」と規定している。
思うにわが国においては行政庁に提出する文書その他法令の定める文書について殆んどの場合署名のみならず捺印をも要求すると共に反面署名については自署を必要としない場合が多く、一般の財産取引に用いられる文書についても亦同様のならわしとなつていることは当裁判所に顕著な事柄であるから、如何に印鑑が重要であるかということは多言を要しないところであり、市町村が印鑑簿を備付けて届出ある印鑑につき印鑑証明書を発行し、行政庁に提出する文書や一般取引文書にも印鑑証明書の添付を要求される場合が少くなく、殊に不動産の登記についても通常その添付を必要とすることもこれがためであるということができる。従つて他人の印鑑を不正に使用することによつて多く詐欺等の不正行為が行われるが、その印鑑についての印鑑証明書を入手し得た場合には一層不正行為をなすことが容易であり、まして他人の印鑑を偽造しこれをもつて印鑑届乃至改印届をなした上印鑑証明書の交付を受けることが容易であるならば不正の行われる機会は極めて頻繁となる道理である。従つて印鑑届又は改印届をなすにも印鑑証明書の交付を申請するにも本人(未成年者等の場合における法定代理人も本人に準ずる、以下同様)自ら出頭してなすことを原則とし、代理人によつてなすのは、印鑑証明書の交付申請については相当の事由ある場合、印鑑届又は改印届については已むを得ない事由ある場合にそれぞれ限り、その場合の手続も相当厳格にすることが要請されるのであつて、須坂市印鑑条例の定めるところも亦右の趣旨によるものと認められる。
そこで市町村の吏員が印鑑届又は改印届を受理し若しくは印鑑証明書を交付するにあたつて、出頭した者が本人であるかどうか又は本人より正当に代理権限を与えられているかどうかを調査するについて、如何なる注意を用うべきかについて考えてみるに、前記のような見地からいつて、いずれの場合にも周到な注意を用いなければならないといわなければならないが、更に印鑑届又は改印届を受理する場合と印鑑証明書を交付する場合とではこれを区別して考えなければならない。けだし、本人が濫りに自己の印鑑を他人に預けたりすることなくその保管を厳重にし他人がこれを手にする機会さえなければ、他人がその印鑑による印鑑証明書の交付を受けることもあり得ないから、他人が本人の印鑑を偽造してその偽造印による印鑑届乃至改印届をしない限りは、本人の印鑑証明書を入手してこれを不正に使用することもないが、如何に本人が印鑑の保管を厳重にしようとも、一旦他人が偽造印を用いて印鑑届乃至改印届をした場合には更にその偽造印による印鑑証明書を得て本人の不知の間にこれを使用する虞があるからであり、従つて市町村の吏員としては、既に前もつて印鑑の届出がなされており、単に印鑑証明書の交付の申請のみがなされた場合には通常甚だしく厳重な調査をする必要はないということができるが、印鑑届又は改印届がなされた場合には相当厳格な調査を実施しなければならないといわなければならない。まして印鑑届乃至改印届と同時に印鑑証明書の交付の申請のなされた場合或いは単に印鑑証明書の交付の申請のみがなされた場合でも印鑑届乃至改印届のなされた後短時日の間に印鑑証明書の交付が申請された場合には、特に慎重を期して厳格な調査をしなければならないというべきであつて、その場合について更に具体的にいうと、出頭した者が本人であるかどうかを確認するには、当該吏員又は他の吏員において面識がある等の事由によつて本人であることを疑う余地のない場合は格別、そうでない場合には、単に本人であるかどうかを尋ねその返答の内容や態度或いは出頭した者の性別や年格好等によつて本人であるかどうかを確めるのみでは足りず、少くとも直接本籍、住所、生年月日等を尋ねて戸籍簿、住民票等の公簿と照合して本人であるかどうかを確認することが必要であり(この点に関し被告の戸籍係主任であつた証人角田勝造もそのような取扱をすべきであると証言している)、その返答が公簿の記載と合致せず或いは返答の態度が曖昧である等によつて不審の抱かれる場合には、更に家族の氏名や生年月日を尋ねて公簿と対照したり、印鑑届乃至改印届をし或いは印鑑証明書の交付を申請する必要を問い質す等の手段によつて不審を解消するに至るまで調査を尽すべきであり、また出頭した者が本人でないことが判明した場合に本人より正当に代理権限を与えられているかどうかを確認するためには、本人が出頭できない事由、本人が出頭し得る状態になるのを俟たずに印鑑の届出をし乃至は改印をする必要或いは印鑑証明書の交付を受ける必要ある理由等を問い質し、なおそれらの点について例えば本人が病気で出頭できない場合には医師の診断書を徴する等場合に応じて適当な文書の提出を求めたり、更に疑問の存する場合には本人に電話連絡をとつて確め或いは直接本人方に出向いて調査する等万全の措置を講ずることが必要であり、以上のような手段方法を採つて、本人以外の者から偽造印による印鑑届又は改印届を受理しひいては偽造印による印鑑証明書を交付することがないようにする注意義務があるものと解するのが相当である。なお本人が出頭せずに印鑑届又は改印届を受理する場合には必ず本人の委任状を徴すべきことも、須坂市印鑑条例の定めるように条例にその定めのある限りは勿論であり、委任状を徴することは代理人と目される出頭者の氏名を明かにする等不正の防止に或る程度役立つものといえるが、もともと不正を行おうとする者が本人の印鑑を偽造するにおいてはその偽造印をもつて委任状を作成することも亦容易であるから、届出ずべき印鑑と同一の印鑑による委任状を徴してみても、不正防止の上に大なる効果があるとは認められないから、代理権限があるとするには委任状が提出されたことをもつて十分とせず、その提出の有無に拘らず前叙のような調査を実施すべきである。
そこで小林哲子が牧米雄より牧善一郎の改印届を受理し米雄に対し善一郎の印鑑証明書を交付するにあたつて、如何なる措置を採つたかについて調べてみると、前記甲第四号証の一乃至四並に証人牧米雄(第一、二回)及び同小林哲子(第一、二回)の各証言を綜合すると、まず小林哲子が従来採つてきた手続は、新規の印鑑届を受理する場合には届出人の住所氏名及び生年月日を印鑑簿に記入するため戸籍簿又は住民票を調べるが、改印届を受理するにはそのような公簿を調査せず、また印鑑証明書の交付申請のみがなされた場合には印鑑簿に記載された住所氏名生年月日を記載して印鑑証明書を作成交付するのであり、従つてそれらの書類を参照する関係上記載された生年月日と出頭者の年格好と比較することはあるが、特に本人であるかどうかを確めるためには単に口頭で本人であるかどうかを尋ねるのみでそれ以上の手段を用いず、もつとも印鑑証明書を交付するにはその申請を口頭で受理して口頭申告簿なる帳簿に記載するので、その関係上申請者の住所氏名を尋ねるが、本籍や生年月日を詳細に問い質して公簿の記載と照合する等の手続は採らず、またいずれの場合をも通じて、出頭者が本人でないことが判明した場合には本人の委任状を提出させるのみで、それ以上に出頭者が代理権限を与えられているかどうかを確認するための調査をせず、出頭者が本人と親子兄弟等の近親関係にある旨述べた場合には委任状すら徴さない取扱をしてきたこと、従つて小林哲子は昭和三十年二月一日牧米雄が出頭して牧善一郎の改印届をなしその印鑑証明書の交付を申請した際にも、右の取扱にならつて口頭申告簿に記載するため善一郎の住所氏名を尋ねたほか出頭者が善一郎本人であるかどうかを問い本人である旨の返答を得たので、更に印鑑簿に記載された生年月日と出頭した米雄の年格好とを比較したのみで、漫然出頭した米雄を善一郎本人であると信じて改印届を受理し印鑑証明書を交付したのであり、米雄にも善一郎にも面識がなかつたにも拘らず、それ以上の措置を講じなかつたこと、また同月三日米雄が出頭して善一郎の印鑑証明書の交付を申請したほか自己の印鑑届をし且つその印鑑証明書の交付を申請した際にも、前同様の手段をとつたほか、米雄が善一郎の弟であることを戸籍簿によつて確かめたのみで、前同様出頭した米雄を善一郎であると認め、右善一郎が自己の印鑑証明書の交付を申請すると共に弟である米雄を代理して米雄の印鑑届をなし且つその印鑑証明書の交付を申請するものであると即断してそれぞれの手続をし、右のように善一郎が米雄を代理して米雄の印鑑届をするものと認めながら米雄より善一郎に対する委任状すら徴さなかつたことをそれぞれ認めることができ、以上の認定を左右する証拠はない。
してみると小林哲子としては、昭和三十年二月一日米雄が善一郎の印鑑届をなしその印鑑証明書の交付を申請した際には、善一郎の住所氏名を尋ねたのみでなく、少くともその本籍生年月日を問い質して戸籍簿又は住民票等の公簿と照合し、その本籍住所生年月日等が合致するかどうかを確めるべきであつたのであり、それらが合致せずその他不審の点があつた場合には更に前叙のような適誼の措置をとるべきであつたということができ、同女が右のような措置を採らなかつたことについては過失があると認められ、そうしてもしも同女が右のような措置を採つていたならば恐らくは、出頭した者が善一郎本人でなく米雄が不正に善一郎の改印届をし印鑑証明書の交付を受けようとしたものであることを知ることができ、従つて改印届を受理せず虚偽の印鑑証明書を交付せずに済んだであろうと考えられ、そうすれば米雄は前記建物について自己に対する所有権移転登記をなすことがもともとできなかつたことは明かである。また仮りに右二月一日の際に小林哲子が善一郎の本籍住所生年月日等を問い質しても、その返答が公簿の記載と合致し何ら不審の点がなく右の不正を発見し得なかつたとしても、同月三日米雄が善一郎の印鑑証明書の交付を申請すると共に自己の印鑑届をし且つその印鑑証明書の交付を申請した際には、小林哲子としては、既に米雄が善一郎本人であると称していたことにより米雄を善一郎であると信じたとしても、米雄より善一郎に対する委任状を徴すべきことは勿論、米雄の出頭できない理由、米雄の出頭を俟たずに印鑑届をした上印鑑証明書の交付を受けることを必要とする理由等をつぶさに問い質すべきであつたということができ、同女がそのような手段を講じなかつたことにはかなり大なる過失があつたと認むべきであり、もしも同女がそのような措置を採つていたならば、米雄の返答の内容態度によつて、出頭した者が善一郎でなく米雄であつて同人が何らかの不正行為をなさんとしていることを看破し得たであろうことは容易に推察することができるから、その場合において善一郎の印鑑証明書の交付を拒否していれば、前述の経過に照し容易に原告が前記の建物につき所有権移転の登記を受けて米雄に金員を騙取されるということはなかつたことが明かであり、小林哲子としては更に米雄の印鑑証明書の交付をも留保してその間に事情を調査し、もつて原告が損害を被ることを全く防止することができたと認められる。
そこで更に小林哲子が牧米雄に牧善一郎の印鑑証明書を交付したことと原告が被つた損害との関係について考えると、その間に米雄が原告の代理人石川宏臣に対してなした欺罔行為をはじめとして登記官吏のなした登記手続等関係者の行為が多数介在していることは前記認定のとおりであるが、もともと印鑑証明書は財産取引に屡々用いられ、殊に不動産の登記については通常その提出が要求されるが、登記官吏は登記手続の形式に関する審査の権限は有するけれども不動産に関する権利変動の実体について審査する権限を有たないことからいつて、虚偽の印鑑証明書を入手した場合には詐欺等の不正行為殊に不動産に関係ある不正行為をなすことが容易であり、虚偽の印鑑証明書が発行されたときはそのような不正行為の行われることが十分に予測され、またそのような不正行為が行われたときはこれによつて民事上の紛争が生じ得ることも亦当然であるから、小林哲子が牧米雄に牧善一郎の印鑑証明書を交付したことと、原告が米雄に金員を騙取されたことにより被つた損害及び牧善一郎より前記建物の所有権移転登記の抹消請求の訴訟を提起されて敗訴したことによる損害との間には相当の因果関係があり、また右損害は通常生ずべき損害の範囲に属すると認めるのが相当である。
よつて被告は原告に対して右の損害を賠償する義務があるものと認めなければならない。
そこで更に進んで、損害の数額について判断するに、証人石川宏臣の証言(第三回)、右証言によつて成立の認められる甲第十四及び第十五号証並に証人牧米雄の証言(第二回)によると、昭和三十年二月三日石川宏臣が原告を代理して牧米雄に交付した金員は十萬円より前払利息として約定の元金百円につき一日金二十七銭の割合による四十五日間の金員に略相当する一萬二千円、前記建物に対する火災保険料として金二千四百円、登記手続費用として金三千九百八十五円合計一萬八千三百八十五円を差引いた金八萬一千六百十五円であるが、その後火災保険料が三百三十円不足であつたところから米雄より金三百円を取戻したので、結局米雄に交付した金員は差引八萬一千三百十五円であり、そのほか原告は右建物の火災保険料として大東京火災海上保険株式会社に金二千七百三十円を支払い、右建物の所有権移転登記手続の費用として金三千九百八十五円を司法書士山下敏明に支払つたことを認めることができるので、原告が牧米雄の金員騙取行為によつて被つた財産的損害は合計金八萬八千三十円であることが認められる。また原告が牧善一郎より右建物の所有権移転登記抹消の訴訟を提起されて種々の防禦方法を講じたことは前記のとおりであるが、そのこと自体により原告が応訴のため種々の煩わしさを味わつたことを推測することができ、それにも拘らず敗訴したとなればその精神的苦痛は決して僅かなものでなく金銭をもつて慰藉すべきものと認めるが右精神的苦痛は原告が被告より右財産的損害の賠償を得ることにより概ね回復し得られるところであり、その他諸般の事情を考慮して、慰藉料の額は金一萬円をもつて相当と認める。
よつて原告の被告に対する本訴請求は、合計金九萬八千三十円の支払を求める限度において正当と認めて認容するが、その余は失当として棄却すべく、訴訟費用は民事訴訟法第八十九条第九十二条本文を適用して主文第三項のとおり負担せしめるが、仮執行の宣言はこれを附する必要を認め難いのでその宣言をしないこととし、主文のとおり判決する。
(裁判官 今村三郎)