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長野地方裁判所 昭和33年(タ)13号 判決 1963年7月05日

原告(反訴被告・第一六号事件被告) 小谷みち子

被告(反訴原告) 小谷正夫

(第一六号事件原告) 小谷良正 〔人名・店名いずれも仮名〕

主文

一、原告(反訴被告)と被告(反訴原告)とを離婚する。

二、被告(反訴原告)は原告(反訴被告)に対し金二〇〇万円を支払え。

三、原告(反訴被告)のその余の請求を棄却する。

四、被告(反訴原告)は原告(反訴被告)に対し金一二〇〇万円を支払え。

五、反訴原告(本訴被告)の請求を棄却する。

六、第一六号事件原告と同事件被告(本訴原告)とを離縁する。

七、訴訟費用は原告(反訴被告)と被告(反訴原告)との間においては本訴及び反訴を通じ全部被告(反訴原告)の負担とし、第一六号事件原告と同事件被告(本訴原告)との間においては全部同事件被告(本訴原告)の負担とする。

事実

(原告の求める裁判)

原告(反訴被告第一六号事件被告。以下原告という。)は本訴につき、「一、原告と被告(反訴原告。以下被告という。)とを離婚する。二、被告は原告に対し金六〇〇万円を支払え。三、被告は原告に対し財産分与として金一〇〇〇万円を支払え。」との判決、反訴につき、「被告の請求を棄却する。」との判決、第一六号事件につき、「同事件原告(以下良正という。)の請求を棄却する。」との判決を求めた。

(本訴の請求原因)

一、原告と被告は昭和一一年一〇月二三日曾我部俊介の媒酌で結婚式を挙げ、昭和一二年八月一〇日届出により婚姻した。被告は当時別紙第一目録<省略>(一)の建物において新山荘という屋号で料理店を経営していたのであるが、右建物は太田双二郎の所有で右新山荘はもと同人の妾がこれを経営し、同女死亡後料理人であつた被告の実兄小谷長一郎がこれを引継ぎ、同人が昭和九年二月二五日死亡後被告が二三歳の若さでこれを引継ぐに至つたものである。そして被告は独身では料理店の営業ができないので原告と結婚したのであるが、当時被告が右長一郎から引受けた営業上の借財が約金七万円(現在の約金三〇〇〇万円に相当する。)あり、原告は結婚後右の債務を毎月分割払しなければならなかつた。原告は右のような財政難の中にあつて被告を助けて家業に精進したが、被告は昭和一二年秋松本の連隊に召集され一旦帰宅したが半年ばかりで再び召集され、昭和一七年頃帰宅したが半年後三度召集され、終戦まで軍務に服したので、原告はその間単独で二〇名余の使用人を使つて新山荘の経営に当り、鉄道管理部の寮として買取られそうになつたのをようやく退け、戦時中物資不足の難局を切抜け、終戦まで長野市内唯一軒の料亭として営業を継続し、その間被告の前記借財を全部返済し、前記建物を太田双二郎から被告のために買受け、新山荘を完全に原、被告のものとした。新山荘の営業は終戦後急激に発展し、被告は昭和二六年金五〇〇万円を投じて新館(別紙第一目録(二))を新築し、昭和二八年上山田に土地(別紙第二目録<省略>(二)ないし(五))を買入れ約二〇〇〇万円を投じてホテル花月(同目録(一))を建設開業するに至つた。料理店営業は性質上女将の働きに待つことが大であることは勿論であるが、前記のとおり多額の借財があつたこと、被告が多年出征不在であつたことに鑑みれば、新山荘の今日の発展が原告の努力によることは衆人の認めるところである。

二、しかるに被告は昭和二二年頃から芸妓又は使用人と次のとおり情交関係を結び不貞行為を継続した。

(1)  昭和二二年頃権堂町の芸妓はつね(本名神田花子)と通じ、

(2)  昭和二五年春女中磯部幸子と通じ、

(3)  昭和二七年頃女中山田ふみ子と通じた。

(4)  昭和二九年頃から使用人平野美代子と関係し、昭和三一年二月一〇日男児良正(第一六号事件原告)を分娩させた。なお同女は分娩後間もなく狂死したので、被告は同年三月一四日良正を認知し、同年五月四日原告を強要して良正を養子とする縁組をさせ、良正を引取つた。

(5)  昭和三一年頃から使用人日下部登美子と通じた。

(6)  昭和三一年頃から使用人大林智子と関係し妊娠中絶の手術を行わせた。

(7)  昭和二八年以後上山田の芸妓菊乃(本名大下令子)、ひさよ(本名大野京子)、銀子(本名加藤富子)、清丸(本名不明)と通じた。

(8)  本訴提起後である昭和三五年四月被告はもと使用人千田由紀子と事実上の再婚をなし、長野市居町に居を構えて同女と同棲し、以後同所から新山荘へ通勤している。

料理店の主人が同一花街の芸妓や使用人と情を通ずることは女将にとつて他の芸妓、使用人の統率上の支障となり甚大な苦痛であることは多言を要しないのであるが、被告はこれを営業方針であると公言して恥ずるところなく、原告が諌言すれば或は暴行を加え、或は一時のがれの謝罪をするのみで一向にその態度を改めなかつた。そこで原告は昭和三二年五月一六日一時実兄下田弘方に身を寄せ被告の改悛を待とうとしたが、更に飜意の模様がないので同年八月一三日長野家庭裁判所に離婚調停の申立をし、右調停が不調となつたので右下田弘方に身を寄せたまゝ本訴を提起するに至つたのである。

三、右のような被告の不貞は民法第七七〇条第一項第一号により離婚原因となることは勿論であつて、同条第二項は本件に適用されるべきではない。すなわち、原告が昭和二二年一月子宮の手術をしたことはあるが、右は原告が子宮外妊娠をしたゝめ入院手術を受け、被告の希望により再び妊娠しないよう処置されたものであり、原告が昭和三一年五月四日良正を養子とする縁組をしたことは前記のとおりであるが、右は被告の執拗な強要によつてなされたものであつて、被告の前記平野との不貞を宥恕したためになしたものではない。よつて被告に対し離婚の裁判を求める。

四、原告は被告の前記不貞行為によつて甚大な精神的苦痛を蒙つたことは勿論であるから被告に対し慰藉料として金六〇〇万円の支払を求める。また被告所有の前記不動産(但しその一部は株式会社小谷商事の所有名義となつているが、右会社はいわゆる個人会社でその株式の殆ど全部は被告の所有であるから、実質上は被告の財産である。)に家具什器、骨董を合すればその価額は金四〇〇〇万円を下ることなく、前記のとおり被告の今日の財産は悉く原告の汗と努力の結晶ともいうべきであつて、原告は財産分与としてその二分の一以上を要求する権利があるから、債務を控除した純財産金二〇〇〇万円の半額である一〇〇〇万円の支払を求める。

(反訴及び第一六号事件請求原因に対する答弁)

原告が昭和一二年八月一〇日被告と婚姻し以後夫婦として同居していたこと、良正が昭和三一年二月一〇日前記亡平野美代子が被告と通じて産んだ子で同年三月一四日被告から認知を受け、同年五月四日原告の養子となる縁組をなし、その頃以後原告等夫婦と同居していたこと、原告が昭和二二年一月子宮の手術を受けたこと、昭和三一年五月一五日以来被告及び良正と別居するに至つたこと、同年八月離婚調停を申立て昭和三三年三月一四日本訴を提起したことは認めるが、その余の事実は否認する。原告が昭和三二年五月一五日から被告及び良正と別居し、実兄下田弘方に身を寄せるに至つた目的及び経緯は原告が本訴の請求原因として主張したとおりであつて、右が悪意の遺棄に当らないことはいうまでもない。なお。良正の第一六号事件訴は原告の本訴と併合して提起すべき要件を欠くから、本件本訴及び反訴とは分離して審理判決されるべきである。

(被告及び良正の求める裁判)

被告は本訴につぎ、「原告の請求を棄却する。」との判決、反訴につき、「被告と原告とを離婚する。」との判決、良正は第一六号事件につき、「良正と原告とを離縁する。」との判決を求めた。

(本訴請求原因に対する被告の答弁)

一、原告と被告とが昭和一一年一〇月二三日曾我部俊介の媒酌で結婚式を挙げ、昭和一二年八月一〇日届出により婚姻したこと、被告が当時別紙第一目録(一)の建物において新山荘という屋号で料理店を経営していたこと、右新山荘はもと太田双二郎の妾がこれを経営していたが、同女の死亡後被告の実兄小谷長一郎がこれを引継ぎ、同人死亡後被告がこれを引継いだこと、婚姻後被告が召集されて軍務に服したこと、昭和二六年新館を建築したこと、平野美代子と情交関係があり、同女が昭和三一年二月一〇日良正を分娩し間もなく死亡したこと、原告が昭和三二年五月一六日頃から被告と別居したこと、同年八月一三日長野家庭裁判所に離婚調停の申立をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

二、被告が平野美代子と情交関係のあつたことは原告主張のとおりであるが、右事由は次のような事情を考慮すれば民法第七七〇条第二項により離婚原因とはならない。すなわち、(一)原告は昭和二二年一月子宮の手術をしてから受胎不能となり、性交態度極めて冷静で夫婦としての愛情を欠いて嫉妬深くなり、金銭的利益の追求のみに走つて家庭生活に潤を欠くに至つた。(二)被告は原告に子供がないことを淋しく感じていた。(三)原告は被告と前記平野との関係を宥恕し昭和三一年五月四日その子良正を養子とする縁組届出をなし養親として養育監護の責任を負つていた。のみならず原告は被告と前記平野との情交関係を知つてから一年以上経過した後に本訴を提起するに至つたのである。

三、仮に原告主張の事由が離婚原因になるとしても、原告主張の慰藉料及び財産分与の額は過大である。被告は応召中も時々帰宅して新山荘の営業及び使用人の指揮監督をなし、守田酒店こと守田将一郎と関係をつけて戦時中も不自由なく酒を仕入れることができるようにし、新山荘が鉄道管理部の寮として買収されることを阻止したのみならず、被告が応召したればこそ新山荘は出征家族の営業として官民の同情を得て営業を継続できたのであつて、原告一人で戦時中その営業を維持継続したわけではない。また新山荘営業上の負債も被告が応召解除後債権者に頼み放棄又は減額してもらつて整理したのであつて原告が支払つたのではない。従つて被告が原告と婚姻後取得した財産があつたとしても、右は専ら被告の努力によるものであるから、原告に対しこれを分与すべき理由はない。現在被告所有の財産は別紙第一目録記載の不動産と僅少の書画骨董類であるが、前記目録記載不動産中(一)は被告が昭和三年七月一日太田双二郎から買受けたものであつて原告と婚姻後取得した財産ではない。のみならず被告は現在金一六四五万円(うち株式会社小谷商事の保証債務金一四八〇万円。)の債務を負担しているから、被告が原告と婚姻後取得した前記財産の価額から右債務額を控除すれば、原告に分与すべき財産は全く存しない。原告主張の被告の財産中前記不動産及び書画骨董類の一部以外のものは全部株式会社小谷商事の財産であつて被告の財産ではない。原告は右会社所有の財産も実質上被告の財産であると主張するが、右会社は昭和二三年六月三日設立された株式会社(当初の商号は株式会社新山荘。)で、被告は設立以来同会社の代表取締役であるが、現在発行済株式二万四〇〇〇株(一株の金額金一〇〇円)のうち一万〇〇九〇株を所有するのみであるから、右会社はいわゆる個人会社ではなく、会社財産を被告個人の財産と同視することは許されない。仮にそうでないとしても右会社は現在その資産の額を超過する金二四二九万〇二九一円の債務を負担しているから、被告個人の財産と同視すべき会社財産は全然存在しない。

のみならず原告は被告と同居中である昭和二七年五月から昭和三一年五月までの間被告には内密に次のように合計金三一〇万円の預金をなしこれを払戻している。(一)下田あき(原告の母)名義長野信用金庫普通預金、期間昭和二七年五月二一日から昭和三一年二月一三日まで、払戻額金一六五万六〇〇〇円。(二)原告名義三菱信託銀行長野支店普通預金、期間昭和二八年三月三〇日から昭和三一年五月一四日まで、払戻額金五五万三〇〇〇円。(三)西川とみ(原告の姉)名義、日本相互銀行長野支店普通預金、期間昭和二八年九月四日から昭和二九年四月九日まで、払戻額金二七万円。(四)原告名義長野信用金庫普通預金、期間昭和三〇年四月二日から昭和三一年五月一四日まで、払戻額金六二万一〇〇〇円。右払戻金合計金三一〇万円は昭和三二年五月一五日原告の家出当時原告個人の財産として保有されていたのであつて、原告は離婚後もこれにより不自由なく余生を楽しむことができるから、これ以上消極財産の多い被告から財産を分与する必要はない。

(反訴及び第一六号事件の請求原因)

前記のとおり原告は被告と昭和一二年八月一〇日婚姻し、以後夫婦として同居していた者、良正は昭和三一年二月一〇日前記亡平野美代子と被告との間に生れた子で同年三月一四日被告から認知を受け、同年五月四日原告の養子となる縁組をなし、その頃以後被告夫婦と同居し原告においてその監護養育に当つて来た者であるところ、原告は昭和二二年一月子宮の手術を受けてから性交態度極めて冷静で夫婦の愛情を欠いて嫉妬深くなり、昭和三二年頃被告が前記大林智子と関係があるように疑い、同年五月一四日被告が同女と一緒に風呂に入つているところを見たと無根の事実を主張して怒り、同月一五日午前二時頃被告には無断で被告及び良正を捨てて家出した。しかし被告と右大林との情交関係は原告の嫉妬にもとずく妄想に過ぎないから、原告の家出は何ら正当の事由がなく、原告は被告及び良正を悪意で遺棄したものである。また原告は同年八月離婚調停の申立をなし、被告はその前後を通じ曾我部俊介を介して原告に復帰するよう種々手を尽して勧告したが、原告がこれに応じなかつたため調停は不調となり、原告は昭和三三年三月一四日更に本訴を提起して不当に巨額の財産分与を請求するに至つた。これは原告が被告との婚姻を継続する意思がないことを明かにしたものであつて、本件婚姻はこれによつて破綻し、これにより原告と被告の婚姻及び右婚姻の継続を前提とする原告と良正の養子縁組はいずれもこれを継続し難い重大な事由が生じた。よつて被告は民法第七七〇条第一項第二号及び第五号にもとずき離婚の裁判を、良正は民法第八一四条第一項第一号及び第三号にもとずき離縁の裁判を求める。

(証拠)<省略>

理由

(婚姻の成立)

公文書であるから真正に成立したものと認める乙第一号証によれば、原告(大正二年九月二三日生)と被告(同年六月二一日生)とが昭和一二年八月一〇日届出により婚姻したことが明かである。

(被告の営業の発展)

公文書であるから真正に成立したものと認める甲第一ないし第四号証、第一〇ないし第一二号証、第一四号証の一、二、乙第四、第一三号証、第二〇号証の一ないし四、証人伊藤大三郎の証言及び原告本人尋問の結果(第一回)により真正に成立したものと認める甲第六号証、原告本人尋問の結果(第一回)により真正に成立したものと認める甲第一三号証の一、二、証人曾我部俊介の証言、被告本人尋問の結果(第一回)により真正に成立したものと認める乙第六、第七号証、被告本人尋問の結果(第一、第三回)により真正に成立したものと認める乙第一四、第二二号証、証人曾我部俊介、島田治郎、伊藤大三郎、下田弘、佐川幸太郎、木村則夫、下野太市、中野房夫、佐々仙吉、守田将一郎の各証言及び原告(第一回)、被告(第一、二回)各本人尋問の結果を総合すれば次の事実が認められる。

別紙第一目録(一)の建物はもと太田双二郎の所有で同人の妾奥田ゆき子が右建物において新山荘という屋号で料理店を経営していたところ、同女死亡後料理人であつた被告の実兄小谷長一郎が昭和三年七月一日右太田から右建物(敷地の賃借権を含む。)を代金は金一万五〇〇〇円、うち金三〇〇〇円は即時支払い残金は毎月金一二〇円づつ分割支払う、代金完済と同時に所有権移転登記手続をするという約束で買受けると共に新山荘の経営を引継ぎ、同人が昭和九年二月一五日死亡したので昭和一一年二月頃被告が長一郎の右建物残代金債務金一万円を含め約金四万円の営業上の債務を引受けると共に右新山荘の営業を引継いだのであるが、被告は独身では料理店の経営ができないので、伊藤大三郎の仲介で当時同町内の料亭酔山こと島田治郎方の女中をしていた原告の女将としての才能を見込んで妻に迎えることとし、同年一二月二三日曾我部俊介の媒酌で結婚式を挙げた。原告は同日から女将として被告を助けて新山荘の経営に当つたが、被告がその後三度応召し昭和一二年一〇月一三日から昭和一五年一月二五日まで松本市において、昭和一六年九月一九日から昭和一八年九月一五日まで中支において、昭和一九年七月一三日から昭和二〇年九月一五日まで金沢市、御殿場町等において軍務に服し(最後の階級は陸軍曹長)ていた間は、被告から指示や助言を受けながらも直接には一人で新山荘経営の衝に当つた。もつとも昭和一九年頃戦争が苛烈となり料理店営業は極めて困難となつたので、被告はこれを廃業し右建物及び附属施設を鉄道管理部に寮として売却しようと考えて接衝をはじめたが、同年七月一三日応召後その考えを変更して売却交渉を打切り、原告は被告の意を受けて終戦まで長野市内唯一軒の料理店として営業を継続した。ところで被告が結婚当時負担していた前記約金四万円の債務は以後漸時減少し、被告は昭和一五年一〇月二三日前記太田に対する右建物の売買代金残金八〇〇〇円のうち金五〇〇〇円の支払に代えて太田の銀行に対する債務を引受け、金三〇〇〇円を他から借り受けて支払い被告名義に所有権移転登記を経由したのであるが、被告が昭和二〇年九月一五日復員した頃までの間に他の債務も債権者から一部免除を受けて全額完済した。そして終戦後は長野市内の他の料理店の営業の再開がおくれたゝめ新山荘の営業は急激に発展し、被告は昭和二二年度の長野市における最多額納税者となつた。その後昭和二三年六月いわゆる税金対策のため被告を代表取締役とする株式会社新山荘(現在の商号は株式会社小谷商事)が設立され、以後右会社において新山荘を経営するに至つたところ、被告は昭和二六年別紙第一目録(二)の建物を新築して同目録(一)の建物と共に右会社に賃貸し、昭和二八年上山田町に別紙第二目録(二)ないし(五)の土地を買受け(但し現在は右会社所有)、右会社において同土地上に同目録(一)の建物を建築して同年六月一日ホテル花月の屋号で旅館業を併せ経営するに至つたのであるが原告はその間後記認定のとおり昭和三二年五月一六日被告と別居するに至るまで終始女将として直接座敷に出て使用人を指揮して客の応接に当つた。

(被告の不貞行為及び原、被告別居の経緯)

前記乙第一号証、証人曾我部俊介、島田治郎、伊藤大三郎、佐川幸太郎、小池福代、下田信美、下田弘、渡辺まつ、大林智子の各証言及び原告(第一、二回)、被告(第一回)各本人尋問の結果(但し証人大林智子、被告本人の各供述中後記信用しない部分を除く。)によれば、被告は昭和二四年頃新山荘の女中磯部幸子と情を通じ原告と悶着を起したほか、昭和二六年頃女中山田ふみ子と情を通じ、これを知つた原告の要求により手切金一万円を渡して同女を解雇すると共に、原告に不貞を詫びこれを繰返さないことを誓つた。ところが昭和二八年前記ホテル花月開業後被告はしばしば同ホテルに寝泊りし、なるべく原告を同ホテルに来させないようにして芸妓菊乃と通じたほか、同ホテルの事務員平野美代子と情交関係を結び、これを知つた原告の強硬な反対を押し切つて右関係を継続し、昭和三一年二月一〇日同女に男児良正(第一六号事件原告)を分娩させた。そして同女が同月一二日死亡したので被告は右良正を引取つて同年三月一四日同人を認知し、原告に対し同人を原告の養子とすることを執拗に強要した上、二度と不貞行為をしないと約束して同年五月四日原告に同人を養子とする縁組をさせた。しかるに被告は同年秋頃からまたもや右ホテルの事務員大林智子と情交関係を結びに至つたことが認められ、右認定に反する証人大林智子、大下令子、被告本人の各供述は前記各証拠に照らし信用せず、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。

証人曾我部俊介、島田治郎、伊藤大三郎、下田弘、菅野秀二、下野太市、中野房夫、佐々仙吉の各証言及び原告(第一回)被告(第一、二回)各本人尋問の結果(但し証人佐々仙吉、菅野秀二、被告本人の各供述中後記信用しない部分を除く。)によれば、原告は以前から被告と大林智子との関係に薄々気がついていたが、昭和三二年五月一五日午前二時頃前記ホテル花月において被告が同女と共に入浴しようとしているところを目撃するに及んで両名間に情交関係があることを確信し、原告の妻であり女将である立場を無視し度々の約束を裏切つて使用人と不貞行為を繰返す被告に反省を求めるため一時被告と別居する決意をなし、同月一六日から実兄下田弘方に身を寄せた。その後被告の態度に反省の色が見えなかつたので原告は同年八月被告を相手方として長野家庭裁判所に離婚調停の申立をしたところ、調停手続の内外において被告の義兄佐々仙吉その他の親族、知人等が仲に入つて原告を被告方に円満復帰させるべく努力を続けたが、被告が誠意ある態度を示さず特に大林智子を直ちに解雇して同女との関係を絶つことを承諾しなかつたため、右努力は失敗に帰し、調停も不成立に終つたので、原告は昭和三三年三月一四日右下田弘方に身を寄せたまゝ本訴を提起するに至つたことが認められ、右認定に反する証人佐々仙吉、菅野秀二、被告本人の各供述は前記各証拠に照らし信用せず、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。

なお証人森善夫、島田ミツエ、小島ナツ、千田由紀子、被告本人尋問の結果(第一回)(但し証人千田由紀子、被告本人の各供述中後記信用しない部分を除く。)によれば、被告は原告と別居した後である昭和三五年一月頃からもと右ホテルの事務員であつた千田由紀子を長野市居町に住まわせて良正の養育を託すると共に同女と情交関係を結んでいることが認められ、右認定に反する証人千田由紀子、被告本人の各供述は前記各証拠に照らし信用しない。

原告は以上認定のほか被告が使用人日下部登美子、芸妓はつね、銀子、ひさよ、清丸と情を通じたと主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はない。

(離婚原因について)

被告は、被告に不貞行為があつても民法第七七〇条第二項により原告の本訴離婚請求は棄却されるべきである、と主張する。そして原、被告間に子がないことは弁論の全趣旨によつて明かであり、証人沼田昭郎の証言及び同証言によつて真正に成立したものと認める甲第五号証、乙第二号証によれば、原告は昭和二二年一月二五日子宮外妊娠のため開腹手術を受け、左右の卵管と右側卵巣を切除したため受胎不能となつたことが認められるが、右のような事情が被告の不貞行為を原因とする原告の離婚請求を棄却すべき理由にならないことは個人の尊厳と両性の本質的平等を旨とすべき民法の解釈上明かである。被告は原告が右手術後夫婦としての愛情に欠けるに至つたと主張し、証人明石理三郎、被告本人(第一回)はこれに添うよう供述するが、右各供述は証人沼田昭郎の証言に照らし信用せず、他に事実を認めるに足りる証拠はない。また、原告が昭和三一年五月四日良正を養子とする縁組をなしたことは前認定のとおりであるが、前認定の原告が右縁組をなすに至つた経緯に照らせば、原告が被告の平野との不貞を宥恕した結果右縁組をなすに至つたものと認めることは相当でない。そして他に被告の不貞行為を原因とする原告の離婚請求を棄却すべき特別の事情は全く認められないから、原告の離婚の裁判を求める本訴請求は正当としてこれを認容すべきである。

次に被告の反訴請求について判断するに、原告が被告方を出て下田弘方に身を寄せた目的及び経緯は前認定のとおりであるから、右は原告において被告を悪意で遺棄したものと認めるべきでないことは明かであり、前認定の本訴提起に至る経緯に照らせば原告が本訴を提起した頃原、被告の本件婚姻は破綻したものと認めるべきであるが、右破綻が被告の責に帰すべき事由によつて生じたものであることは前認定の事実から明かであるから、被告の離婚の裁判を求める反訴請求はいずれも失当として棄却すべきである。

(慰藉料について)

原告が被告の前記不貞行為により重大な精神的苦痛を蒙つたことは明かであるところ、前認定の原、被告の年令、職業、婚姻継続年数、被告の不貞行為の回数及び態様等諸般の事情(但し後述の婚姻後被告の財産増加に対する原告の寄与の程度及び原告の資産の有無等に関するものを除く。)に照らせば、原告の右精神的苦痛は金二〇〇万円をもつて慰藉さるべきものと認めるのが相当である。よつて原告の慰藉料請求は金二〇〇万円の支払を求める限度において正当であるから右限度においてこれを認容し、その余は失当として棄却すべきである。

(財産分与について)

財産分与の本質は夫婦がその協力によつて婚姻中蓄積した財産の清算であると解すべきところ、原告には何ら見るべき資産のないことは後記認定のとおりであるから、以下被告が現に有する財産及びその価額並びにそのうち婚姻後原告の協力によつて得たものの価額について判断する。前認定の事実及び被告本人尋問の結果(第三回)並びに弁論の全趣旨によれば、現在被告の有する積極財産は別紙第一目録記載の建物と僅少の書画骨董類及び株式会社小谷商事に対する貸金債権一九五万六〇四五円だけで、原告が被告の財産であると主張する別紙第二目録記載の土地、建物、及び右各建物の電気水道等一切の附属設備、右各建物内にある営業用動産、書画骨董類(但し前記被告の所有であるものを除く。)は全部右会社の財産であることが認められる。しかし前叙の財産分与の本質に照らせば、被告の現在有する財産の価額は法律上被告に属する財産の価額のみではなく、法律上は第三者に属する財産であつても(従つて被告の責任財産に属しない。)事実上被告が支配し又は支配し得る財産或は将来被告の財産となる見込が十分な財産は、被告の潜在的な財産としてその価額を加算すべきものと解するのが相当であるから、次に右株式会社小谷商事の実態について検討する。

公文書であるから真正に成立したものと認める甲第一四号証の一、二、被告本人尋問の結果(第三回)により真正に成立したものと認める乙第一九、第二一号証、証人島田治郎、伊藤大三郎、下田信美、下田弘、菅野秀二、中野房夫、下野太市、佐々仙吉の各証言、原告(第二回)、被告(第三回)各本人尋問の結果(但し証人下野太市、佐々仙吉、中野房夫、菅野秀二、被告本人の各供述中後記信用しない部分を除く。)に前認定の事実を総合すれば、右会社はいわゆる税金対策のため設立された会社で、当初の商号は株式会社新山荘、目的は料理店業であつたこと、右会社は設立当初一株の金額金一〇〇円の株式三〇〇〇株を発行し、そのうち被告名義の株式は一〇二〇株であつたが、その余の株主一八名のうち下田信美(三〇〇株)、戸田五郎(五〇株)、西川誠(六〇株)の持株については被告においてその株金額の払込をなしたので、被告の実質上の持株数は一四三〇株であり、その余の株主も前記島田治郎、伊藤大三郎のほか全部原、被告の親族、出入の商人及び従業員等の縁故者であつたこと、会社の役員には被告のほか数名の株主が就任したが、原告の弟下田信美(昭和三二年七月四日取締役就任。)のほかは総て非常勤で、実際上は代表取締役である被告一人が会社経営の実権を握り、取締役会、株主総会は単なる形式に過ぎず、最近に至るまで株主名簿の備附もなかつたこと、会社は昭和三二年二月一日商号を株式会社小谷商事、目的を旅館業及一般物品販売業に変更したが、右は被告が独断によつてなしたものであつたため、前記伊藤大三郎、島田治郎等一部の株主が憤慨し払込金額及びその一割に当る金員を配当金名義で受領して持株全部を被告に譲渡したこと、現在の発行済株式数は二万四〇〇〇株でそのうち被告名義の株式は一万〇〇九〇株であるが、その余の株主一九名のうち大野統一(一〇〇株)及び守田将一郎(一万株)は現実には出資せず被告との間で右会社の株式と同人等の経営する株式会社の株式を相互に持つことにした結果株主となつたに過ぎないから、被告の持株数は実質的には二万〇一九〇株であること、その余の株主は全部被告の親族、同郷の知人、従業員等の縁故者であることが認められ、右認定に反する証人佐々仙吉、菅野秀二、下野太市、中野房夫、井上宗治、被告本人の各供述は前記各証拠に照らし信用せず、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。

以上認定の事業によれば右会社は被告一人でその経営及び財産を支配し得る会社であつて、特段の事情の認められない本件においては前記大野、守田以外の現在の株主が仮に全部現実に出資した者であるとしても、被告において必要が生ずればいつでも出資額(株金額)及びその一割程度の金員を配当金名義で支払つてその持株の譲渡を受けることができるものと推認すべきであるから、右会社の財産の価額のうち被告が他の株主から株式を買取るのに要する費用を控除したものはこれを被告の潜在的な財産と認め、被告個人の財産の価額に合算するのが相当である。そして右合算に当つては被告個人と右会社との間の賃貸借及び消費貸借関係はすべて存在しないものとみなすべく、会社の債務は実質上被告個人の債務と同視すべきであるから、そのうち被告個人の保証のあるものは重ねて被告の債務として合算すべきでないことが明かであるところ、鑑定人加賀明(第一、二回)、伊藤正の各鑑定の結果によれば、別紙第一目録記載の建物(借地権、電話加入権、電気、水道等一切の附属設備を含む。)の価額は金三六三七万八三〇〇円、同第二目録記載の土地、建物(建物については電気、水道等一切の附属設備を含む。)の価額は金一六〇〇万二四五〇円、右各建物内にある営業用動産及び書画骨董類の価額は金一九七万四四三五円合計五五二五万五一八五円であることが認められ、被告本人尋問の結果(第三回)によれば被告の債務の額は金一六四五万円(内金一四八〇万円は右会社の債務の保証債務。)であり、右会社の債務のうち被告に対するもの及び被告の保証したものを除くものの額は金五五三万四二四六円であることが認められ、前認定の事実によれば被告が他の株主から株式の譲渡を受けるのに要する費用は金四一万九一〇〇円(三八一〇株の出資額金三八万一〇〇〇円及びその一割の配当金。)であることが明かであるから、被告の現在の財産の価額は前記金五五二五万五一八五円から右各金額の合計を控除した金三〇八五万一八三九円であるといわねばならない。

前認定の事実及び弁論の全趣旨によれば右認定の被告の積極財産(潜在的財産を含む。)中別紙第一目録(一)の建物以外は全部被告が婚姻後取得したものであることが明かであり、右建物(敷地の賃借権を含む。以下同じ。)は被告の前主小谷長一郎において前記太田双二郎から代金一万五〇〇〇円でこれを買受け、被告において昭和一五年一〇月二三日代金を完済して被告名義に所有権移転登記を経由したものであることは前認定のとおりであるところ、特段の事情の認められない本件においては右建物の所有権は右代金完済のときに被告に移転したものと認めるべきであるから、右建物も被告が婚姻後取得した財産であるといわねばならない。もつとも右建物の代金のうちその三分の一に当る金五〇〇〇円は被告が原告と結婚式を挙げた当時既に支払われていたことは前認定のとおりであるから、右建物の価額の三分の一は被告が婚姻後取得した財産の価額から控除するのが相当であるところ、鑑定人加賀明の鑑定の結果(第一回)によれば右三分の一の価額は金一〇五一万七九六六円(円未満切捨)であることが認められるので、被告が婚姻後取得した財産の価額は前記金三〇八五万一八三九円から右金額を控除した金二〇三三万三八七三円であるといわねばならない。

そして前認定の事実によれば、原告は終始女将として直接座敷に出て使用人を指揮監督して客の応接に当つていたこと、被告の応召不在中は被告の指示、助言を受けながらも一人で直接料理店の経営に当つたこと、被告の営業が終戦後急激に発展したのは主として原告が被告の意を受けて終戦まで長野市内唯一の料理店として営業を続けたことに起因すること、被告は結婚当時約金四万円の債務を負担していたことが明かであるので、これらの事情を考慮すれば被告が婚姻後取得した財産の二分の一は原告の協力と寄与によるものであるといわねばならい。

財産分与の本質は前叙のとおりであるが、財産分与が右のほか離婚後の配偶者の一方の他方に対する扶養の性質をも併せ有することは否定できないところであるから、本件においても被告をして離婚後原告を扶養させる必要があるか否かについて次に検討するに、原告本人尋問の結果(第二回)によれば、前認定のとおり原告は昭和三二年五月一六日から実兄下田弘方に身を寄せていたが、約一年後から東京都文京区湯島天神町の料亭に女中として働いていること、被告方から取寄せた若干の衣類のほか見るべき資産は何もないことが認められる。もつとも原告本人尋問の結果(第一回)及びこれによつて真正に成立したものと認める乙第八ないし第一一号証、被告本人尋問の結果(第一回)及びこれによつて真正に成立したものと認める乙第一五、第一六号証によれば、原告は被告と同居中自己名義及び母下田あき、姉西川とみ、良正名義で長野信用金庫等に予金し適宜これを払戻したことが認められるが、証人下田信美の証言及び原告本人尋問の結果(第一回)によれば、原告は右払戻金を全部営業上の雑費に使用し、原告が被告と別居するに至つた昭和三二年五月一五日当時原告の財産として保有されていたものは同日払戻した金一万七二〇〇円だけであることが認められ、特段の事情の認められない本件においては右金員は既に原告の別居後の生活費として費消し尽されたことが明かである。右認定の事実のほか、前認定の原告の年令に照らし再婚の可能性の少いこと、前認定のとおり原告には老後を託すべき子がないことその他諸般の事情を併せ考えれば、有責配偶者である被告をして婚姻後取得した財産の価額の一割程度の金員を離婚後の扶養として原告に分与させるべきものと認めるのが相当である。

そうだとすれば被告から原告に対し財産分与として前記被告が婚姻後取得した財産の価額金二〇三三万三八七三円の約六割に当る金一二〇〇万円を支払うべきものと定めるのが相当である。(財産分与の請求は地方裁判所が判決をもつて裁判すべき場合でも非訟事件たる性格を失わないから、単に財産分与についての裁判を求める旨の申立があれば足り、一定の内容の裁判を求める旨の申立があつても裁判所はその申立の内容に拘束されない。)

(第一六号事件について)

良正が昭和三一年二月一〇日前記平野美代子が被告と通じて産んだ子であること、同女が同月一二日死亡し、被告が良正を引取つて同年三月一四日良正を認知したこと、原告が同年五月四日良正を養子とする縁組をしたこと、原告が昭和三二年五月一六日被告方を出て下田弘方に身を寄せ以後良正と同居していないことは既に認定したとおりであるが、原告が右下田弘方に身を寄せた目的及び経緯は前認定のとおりであるから、右をもつて原告が良正を悪意で遺棄したものと認めるべきでないことは明かである。しかし原告と被告との婚姻が昭和三三年三月一四日頃破綻したことは前認定のとおりであるところ、原告と良正との養子縁組が原、被告間に婚姻が継続することを前提としてなされたものであることは前認定の右縁組成立の経緯及び弁論の全趣旨によつて明かであるから、右縁組はその頃これを継続し難い重大な事由を生じたものといわねばならない。よつて良正の民法第八一四条第一項第三号にもとずき離縁の裁判を求める請求は正当としてこれを認容すべきである。

なお原告は良正の第一六号事件訴は原告の本訴と併合審理されるべき要件を欠くと主張するが、第一六号事件訴は人事訴訟手続法第七条第二項但書後段により本件反訴に併合して提起できるものと解すべきである。すなわち、昭和二二年法律第一五三号による改正前の同法第七条第二項但書は「……民法ノ規定ニ依リ婚姻事件ニ附帯シテ為スコトヲ得ル縁組ノ取消又ハ離縁ノ請求ハ此限ニ在ラズ」と規定し、旧民法(昭和二二年法律第二二二号による改正前の民法。以下同じ。)第八六六条第九号は「婿養子縁組ノ場合ニ於テ離婚アリタルトキ又ハ養子カ家女ト婚姻ヲ為シタル場合ニ於テ離婚若シタハ婚姻ノ取消アリタルトキ」を離縁原因の一となし、同法第八七三条第一項は「第八六六条第九号ノ場合ニ於テ離婚又ハ婚姻取消ノ請求アリタルトキハ之ニ附帯シテ離縁ノ請求ヲ為スコトヲ得」と規定していたので、旧民法施行当時においては離婚の訴に併合して提起し得る離縁の訴は前記同法第八六六条第九号、第八七三条第一項の場合に限られていたことが明かであるが、右のような規定が削除された現在においては、養子を当事者とする離婚訴訟の場合のみではなく養親を当事者とする離婚訴訟の場合においても、その離婚原因と密接に関連する事由を離縁原因とする離縁の訴はこれを離婚訴訟に併合して提起し得るものと解すべきところ良正が第一六号事件訴において主張する離縁原因は被告が本件反訴において主張する離婚原因と密接に関連することが明かであるから、第一六号事件訴は本件反訴に併合して提起することができ、従つて本件本訴とも併合して審理判決すべきものである。

(結語)

よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条、財産分与の措置につき人事訴訟手続法第一五条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 滝川叡一)

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