長野地方裁判所 昭和33年(タ)9号 判決 1960年3月09日
原告 長沢信子
被告 長沢太一(いずれも仮名)
主文
本訴につき、
原告と被告とを離婚する。
被告は原告に対し金六万円を支払え。
反訴につき、
反訴原告と反訴被告とを離婚する。
訴訟費用は、本訴民訴を通じ原告(反訴被告)と被告(民訴原告)の平等負担とする。
事実
第一本訴
原告(反訴被告)訴訟代理人は、「原告(反訴被告。以下単に原告という。)と被告(反訴原告、以下単に被告という。)とを離婚する。被告は原告に対し金三十万円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求の原因として、
「一 被告の家庭は、父(分離前相被告)長沢三郎、母きみ、弟吉三の家族四人暮しであり、被告は長野電機工場に勤めている。原告の家庭は父所沢信一、母カツノ、兄金一、弟光男の家族五人暮しで、原告は長女であり、信濃商店に勤めている。
二 原告は山金保三の媒酌によつて、昭和三十二年三月十七日被告と結婚の式を挙げ、同年四月十三日届出を了し、被告の家族と同居して暮すこととなつたが、家族と相談の結果、従前からの前示勤務を継続することとなつた。
三 結婚当時は平凡に経過したが、同年七月頃から被告の母きみは原告につらく当るようになつたところ、被告は原告をかばう様子もないので、原告はにわかに心細く感ぜられた。
四 原告はその頃から妊娠したが、これを被告に知らせたところ、更に喜ぶ気配もなく、同年九月に至り、被告親子が相談の結果、原告に対し妊娠中絶をするよう迫つたので、原告もやむなく同月十六日高山医師の手術を受けてこれを実行した。被告の母は、右中絶の件を原告の実家の者に相談したとのことであるが、実は何の断りもなかつたので、実家の家族は心中こころよく思わなかつたようである。
五 その後、被告とその家族は原告を疎隔したけれど、年若き原告は、がまんにがまんをかさねてきた。昭和三十三年二月上旬頃、原告の父と媒酌人山金保三(同人は昭和三十二年十二月十七日死亡)の妻とが、被告宅に出向いて懇談の結果、今までのことは水に流して仲よく暮してゆくよう依頼して帰つた。けれどもその効果は更になく、同月十二日原告の父母及び兄がかさねて被告宅におもむき、同様のことを依頼したところ、爾後は被告もその家族も原告に対して無言の振舞で、一言も言葉を交えなくなつた。原告も辛棒しきれず、再三被告にその本心をたずねたところ、被告は、「お前がいやになつたから夫婦別れするよりほかに方法がない。」というのである。そこで原告は、同年三月五日被告の母にことわつて媒酌人方に行き、その話をしたところ、実家に帰つておれといわれたので、実家に帰り今日に至つている。なお実家の父から即日その旨を被告宅に申し伝えた。
媒酌人の話によれば、同人が早速被告を勤め先の工場に訪ね、その真意をただしたところ、さきと同様のことを述べ、いずれあとの始末は父に相談して返事をするということであつた。しかし、その後も返事がないので、催促したら、被告の父は、「私の不在中に無断で実家へ帰つたから承知できぬ。」といつたとのことであつた。
六 以上の次第で、原告は、被告とはもはや到底夫婦として苦労を共にしてゆくことができないので、昭和三十三年三月十八日長野家庭裁判所へ調停を申し立てたが、被告がその父と共に、離婚はするが慰藉料は一毛たりとも支払わぬ、荷物は解決のつくまで引き渡さぬと主張するので、前後三回の期日で遂に不調となつた。
そこで、以上は婚姻を継続し難い重大な事由にあたるから、ここに被告に対し離婚の請求に及ぶ次第である。
七 原告は昭和六年十二月二十五日生れで、初婚であり、結婚後一箇年間無駄な苦労をしたわけであつて、この間信濃商店から受けた給料手取合計金十四万三百九十五円(内訳、昭和三十二年四月から同三十三年二月まで十一箇月分の俸給計金十一万千八百六十五円、昭和三十二年六月及び十二月の賞与計金二万八千五百三十円)を被告に渡したのであるから、これを考慮して、被告に対し、慰藉料金十五万円、民法第七百七十一条、第七百六十八条による財産分与金十五万円、合計金三十万円の支払を請求する。」
と述べた。
被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。」との判決を求め、答弁として、
「一 請求原因第一項中、原告の家族関係は不知、その余は認める。同第二項は認める。同第三項中、結婚当時原被告の生活が平凡に経過したことを認め、その余は否認する。同第四項中、原告が妊娠し、昭和三十二年九月十六日高山医師の手術を受けて妊娠中絶をしたことを認め、その余を否認する。同第五項中、昭和三十三年二月上旬及び同年二月十二日に、原告の父母らが被告宅へ来たこと、同年三月五日原告が実家に帰り今日に至つていること、及び原告主張の媒酌人が被告をその勤め先の工場に訪ねたことを認めるが、その余を否認する。同第六項中、原告主張のような調停の申立がなされ、それが不調に終つたことを認めるが、その余を争う。同第七項中、原告の生年月日がその主張のとおりであること、及び被告との結婚が原告にとつて初婚であることを認めるが、その余を争う。
二 以上のとおり、被告は本件につき離婚の責任を負ういわれはなく、原告にこそその原因があるのであるが、かりに、被告にもその責任があるとして、被告は原告との結婚に際し、祝宴費、引物代等金三万六千五百七十六円、結納金二万二千円のほか、原告のために購入してやつた衣類二点(防寒コート及び単衣)を加え、合計金六万四千八百二十六円相当の金員を出費した。又、被告方は、被告のほか、老令の父母と病身の弟の三名家族であるが、右三名はいずれも無職で、被告の給与のみが全収入であつて、他に不動産も預貯金もなく、借家住いで、その生活は困難な状況にあり、原告の請求に応じられる資力はない。」
と述べた
第二反訴
被告訴訟代理人は、「被告と原告とを離婚する。反訴訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、その請求原因として
「一 被告と原告とは、昭和三十二年三月十七日、山金保三夫妻の媒酌で結婚の式を挙げ、同年四月十三日婚姻の届出をした夫婦である。
その挙式前、樽入のため、右山金と被告の父とが原告の実家を訪れた際、原告の父から、原告が勤め先である信濃商店を将来やめるときに退職金がもらえるが、それは原告の実家で七分、被告の方で三分の割合で分けるよう申し入れがあつたので、被告の父はこれを承諾した。
二 被告は長野電機工場に勤めているが、朝その出勤を見送る原告は、何も落ちないのに、「アー落ちました、落ちました」などといつては被告をやゆし、又は、「バイバイ」といつては手をふるなど、新婦の振舞としては、少しどうかと思われ勝ちで、隣近所の人前もあるところから、被告の母(以下単に姑ともいう)が、「行つていらつしやいでいいですよ。」と言つたりしたけれど、その当座はともかく、少したつとまたまたそれをくりかえすのであつた。
三 昭和三十二年四月七日、原告は被告の母と打ち揃つて街へ買物に出た際、街頭で出あつた知人があいさつのついでに、「お母さんの方が若いようだ「と冗談を言つたのにいたく立腹し、帰宅後姑や家の者が話をしかけても返事もしなかつた。
四 同年七月半頃、原告はお腹が痛いとて勤め先から帰り、床に就いた。しかし夕方姑と共に入浴に行き、その帰途盛んに放歌するので、姑が「もうお腹はなおつたのか。」と聞いたところ、原告は「私はカアーツとなつて、カアーツと下がればよいのだ。」と言葉を返して平然たるものであつた。一体原告は余程放歌が好きとみえて、挙式後十日位すぎた頃から、食事のあとかたずけなどのときには、必ず放歌した。それもその歌詞はたいてい、「あいたさみたさにこわさもわすれ。」というようなものが常であつた。
五 被告は、原告及びその実家の父母とも相談の上、同年九月十六日長野市内の病院で原告の妊娠中絶をすることとした。その手術後三日目の夜、原告の父が酩酊して被告方へ原告の見舞に来たので、姑が「経過はよいから安心して下さい。」と言つて、寝ている原告を起して会わせたところ、「信子や、産のときは百日位は寝ていろよ、ゾゼー(甘えることの方言)放題ゾゼーていろ、勤めの方はおれがいくらでも手続きするからなあ」と言うのであつた。更に被告に対して、「お前は馬鹿だ。おろすぐらいなら、なぜ始めからサツクでも使わないのか。」と述べ、かたわらにいた若年の被告の弟にまで、「お前もよーくこのようなことを聞いておぼえていろ。」とまくし立てたので、当人はただ顔をふせてだまり、他の者も唖然としていた。そして帰るに際しても傲然たる態度で、ろくなあいさつもしなかつた。被告は侮辱感と立腹とにたえかねて、その晩家をとび出したが、父母があとを追つて連れ戻しなだめた。原告はその有様をながめながら、床に入つたまま起きもしないし、また一言もしやべらなかつた。
六 同年十二月三十日朝、姑は原告から、「昨晩お父さんがこたつに火をいれておいのですか。」とたずねられたので、被告の父(以下単に舅ともいう)にそのことを聞いた。そこで舅は原告に、「いれたが消えたかしれない。それはいけなかつたね。」と述べたのに対し、原告は何のあいさつもなく、不平らしい態度をしていた。これは、原告が勤めに出ているので、舅が原告の寝室のこたつへいつも火をいれておくのを例としていたのであるが、木炭の火はこたつに入れるととかく消えたがるものであるから、新しい嫁としては舅姑に対してもう少し何とか言動にあやがあつてほしいものである。「親しき仲にも礼儀あり」と古人も教えている。
七 同年十二月三十一日夕方、原告が風邪気味とていつもより少し早く勤めから帰つて来たので、姑は床に就かせて氷のうを吊るやら下熱の頓服等を買つてのませるやらさせた。そして寝室へ外気が入らないようにしめきつておいたのに、しばらくして行くと戸が全部開いており、原告は「戸は先程から開いていた」といつた。その場は「そうか」といつてそのままにしたが、あとで被告に、風邪の時は戸をあけて寒い外気を直接病人にあててはよくないという話をした折、「寝室の戸は始めに私がしめておいたのになあ」と普通にしやべつた。被告がそのことを床に入つてから原告に話したところ、翌朝原告は姑に「私が戸をあけたのを開いていたといつて申しわけごわしない。」と怒気を含んで荒々しくいうので、姑は元旦のことでもあるし、「正月そうそう怒るものではないですよ。」となだめた。このように被告が家のなかをとりなす意味で床に入つてから何か注意すると、原告はその翌朝必ず姑に食つてかかるのを常とした。
八 昭和三十三年二月十二日の夜、原告の父母と兄とが被告宅を訪れた。その際も、原告の父は被告に向い、「お前義理を知つているか。」とくりかえし言つた。その意味は、この正月被告が原告の実家へ年始に行かなかつたことを詰つたのである。しかし被告が年始に行かなかつたのは、正月二日に市内で姑らが原告の父や兄に出会つた際被告を年始に招待する言葉がなかつたからである。このように、被告は原告の父から一再ならず侮辱を受けた。なおその席で原告の父は常套語である「マメ満足の者をくれてある。」ということを強調し、原告には、「お前はおれのいうことさえきいていればそれでよい。」と放言したので、被告の父は、「それはお父さん、当方でもらつた人だから、そのようにお父さんが一から十まで世話をやくことは遠慮してもらいたい。」と言つたことであつた。被告の母はその夜原告の父らが帰つてから、興奮の余り短時間ではあつたが意識不明になり、家族の者が手当を加えてようやく蘇生したのであるが、このような場合でも原告は我れ関せずで、全く超然としていた。
九 同年二月二十六日の夜、原告が勤め先から帰らないので、被告方では被告の弟を原告の実家へ迎えにやつたところ、翌日帰宅した。しかし同年三月五日の朝、原告は仲人宅へ行くと言つて被告宅を出たまま帰らず、他方原告の兄から、「原告が来たから、二、三日静養させる。」と告げてきた。このように原告が二度も家を出て行つたことは、被告にしてみれば妻にふられたという一種異様な感じを与えるものである。
十 以上のような経過があつて、原告から長野家庭裁判所へ離婚調停の申立がなされ、同年四月二日その第一回が開かれ、前後三回の調停が行われたが、被告としては、原告の主張する理由による離婚は認められないこと、並びに、そのことと、原告が被告の家へ入れたとする金額が認められないこと及び被告側の経済上の不如意などから、原告の請求する慰藉料は支払えないことのために結局不成立に終つた。
十一 これを要するに、被告は原告の父から一再ならず侮辱を加えられたこと、又原告自身としても、他の非を指摘する前に先ず自己を内省するの要があつた筈で、いかに民主主義の世の中とはいえ、長幼の序、夫婦間の道義というものがなくてはならないのにこれを守らなかつたことから、事態がここまでもつれてしまつたのである。かくては、もはや婚姻の継続は難しい。即ち、被告は原告に対し婚姻を継続し難い重大な事由があるとして離婚の請求に及ぶ次第である。」
と述べた。
原告訴訟代理人は、「被告の反訴請求を棄却する。反訴訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、
「一 反訴請求原因第一項は認める。但し退職金分配の申入は、原告が従前から信濃商店に勤務して居り、結婚後妊娠でもすれば退職せねばならぬ事情にあつたことから、当然の措置にすぎない。同第二項ないし第四項は否認する。同第五項中、原告が被告主張の日時場所で妊娠中絶をしたこと、それは被告が原告の同意を得た上でなされたものであることを認め、その余を否認する。同第六項は否認する。同第七項中被告主張日時に原告が風邪気味のため、いつもより少し早く勤めから帰宅し、床に就いたことを認めるが、その余を否認する。同第八項中、被告主張日時に原告の父母及び兄の三名が被告宅を訪れたことを認めるが、その余を否認する。同第九項中、被告主張日時に原告が仲人宅へ行くと言つて被告宅を出たまま現在に至るまで帰らないことを認めるが、その余を否認する。原告が右の如く家を出るについては、被告の母にことわつて出たのであつて、仲人宅へ行つたところ、仲人から実家に帰つておれと言われたので、以後実家に戻つているものである。同第十項中、原告から長野家庭裁判所へ離婚の調停を申し立て、被告主張の日時に第一回、そして前後三回の調停が行われたが結局不成立に終つたことを認め、その余を否認する。同第十一項は争う。
二 被告の反訴提起は、原告の被告に対する本訴につき、慰藉料及び財産分与金を支払いたくないためになされたものである。即ち、被告は前述の調停において、離婚については異議はない、慰藉料等は支払いたくない、原告の持参した嫁入道具は本件解決まで渡さぬと言明し、又調停不成立後の昭和三十三年五月九日田中徳一を介して、僅か金一万円か一万円五千円位で勘弁してもらいたいと原告に申し入れたことがあり、これらによつて叙上の意図を察知し得るのである。」
と述べた。
第三証拠
原告訴訟代理人は、甲第一ないし第三号証を提出し、証人山金美江、所沢信一の各証言及び原告本人尋問の結果を援用し、乙第一号証の一ないし十二の成立を認め、第二号証の一ないし七の成立は不知と述べ、
被告訴訟代理人は、乙第一号証の一ないし十二、第二号証の一ないし七を提出し、証人長沢きみ、長沢三郎の各証言、及び被告本人尋問の結果を援用し、甲第一及び第二号証の成立を認め、第三号証の成立は不知と述べた。
理由
一 離婚請求について。
(一) 公文書であつて成立の真正を認むべき甲第一、第二号証、証人山金美江、所沢信一、長沢きみ及び長沢三郎の各証言並びに原被告各本人尋問の結果を綜合すれば、以下の認定に導かれる(右各証人及び本人の供述中、この認定に反する部分は措信しない)。
原告と被告とは、昭和三十一年十一月頃、長島の紹介によりいわゆる見合をし、その後二、三回映画を共に観るなどのことがあつて後相互に結婚を諒承し、翌三十二年三月十七日山金保三夫妻を仲人として結婚式を挙げ、被告の父母及び弟らが同居する被告方において結婚生活に入つた。これより先、原告は信濃商店に勤務していたところ、被告と合意の上、結婚後もなおその勤務を続けることとなり、他方被告もまた長野電機工場に勤務する者で、いわゆる共稼ぎの夫婦として出発したのである。結婚届は同年四月十三日にすませた。時に原告は二十五才、被告は二十八才であつた。結婚後の生活は始めから必ずしも順調ではなかつた。それには先ず、被告の母きみが、原告に対し余りにやかましすぎたことをあげねばならない。例えば、原告が被告の出勤を見送るのにバイバイと言つたり、落ちました落ちましたといつたりしたこと、流行歌が好きでよく歌うことなどに一々注意を与えているが、これらは元来極めて些細なことであり、一々とやかくいうべき事柄ではあるまい。そのほか、同年六月頃、原告の兄が被告に借金を申し込んだことから、きみは原告に対し、金田の家(原告の実家)で生活に困るというのであれば、原告が被告方にとどまつて食べながら、手助けすることはできないから、実家へ帰つて助けてやれとすすめているが、これなど度を過した言葉というべきであろう。同年九月十六日原告は妊娠中絶をした。この場合、それは原被告双方の合意に基くものではあつたが、きみ自身、原告の妊娠に冷たく、中絶を希望したのであつた(但し、原告の両親が、事前に何の連絡もうけなかつたということはなく、被告の母から、中絶のの予告をうけ、原告の母はこれを諒承した)。この妊娠中絶を契機として、かねて原告に対する被告の家族の仕打に面白からぬ気持をいだいた原告の父所沢信一は、同月十八日原告の見舞かたがた被告方を訪れ、被告を馬鹿呼ばわりするなどの悪口雑言を吐いた。ためにその夜被告はくやしさの余り家を出たが、家人に連れ戻されるなどのことがあつた。かくて原告対きみ即ち嫁と姑との反目は、原告の実家と被告の実家との抗争にまで進展した。その後は、原告に対する被告及びきみらの態度は一層冷たくなり、原告が何か聞いても「あゝ」とだけ返事するような有様であつた。昭和三十三年二月八日原告の父信一と仲人の山金美江とは、このような事態を打開するため、被告方を訪れ、被告やその両親との間で、従前のことは水に流して、今後は仲よくやるという話し合いをつけることができた。しかし、その際信一が原告について、まめ満足の者をくれてあるのだし、家風がどうのとか、余り世話をやくようなことはしないでくれ、などと発言したことが機縁で、きみの態度は更に硬化し、たとえば原告がなつ葉とにんじんのいため方をたずねても、お前の父から世話をやくなといわれたから、といつて教えようとしない有様であつた。同月十二日再び信一は、その妻及び原告の兄と共に被告方を訪れ、被告が結婚後始めての盆にも正月にもあいさつに来なかつたことから、お前は義理を知つているかと叱責した。かくしてその後は、被告の家族は原告に対して殆んど言葉をかわさないようになつた。しかしながら、ことがここに至つたについては、原告自身にも非がないわけではなかつた。結婚後間もない昭和三十二年四月、人が冗談に「姑さんの方が若い」と言つたのをきみから聞かされて立復し、食事の席を立つてしまつたり、同年十二月三十一日自分のこたつの火が消えてしまつていたことで、被告の父にあたつたり、同日から翌年一月四日にかけて、風邪のため床に就いた際、きみに対し、部屋の戸を自分であけたのにあいていたと述べたことから、これを詑びる際にも、怒つたような荒々しい態度を示したり、又さきに述べたように、被告が原告の父信一から馬鹿呼ばわりされた際、くやしさの余り涙を流したときも、原告は起きようとすらせず、原告の父母や兄が訪ねてきた日には、その夜おそく、被告の母が卒倒したにもかかわらず、看病に手をかすこともなかつた。更に、昭和三十三年二月二十六日無断で実家へ帰り、一泊するに及んだことは、その心情は察し得ないわけではないが、決して穏当な行動とはいえない。これらのことは、原告が性来勝気であることと相まつて、被告や被告の両親やとの和合を妨げる原因となつたものといえよう。しかしながら、結局誰よりも責められるべきは被告自身である。自分の母親と原告との反目に対して、終始消極的な態度で臨むばかりか、むしろ母親にくみして原告を非難攻撃する有様であつた。原告は、後述するように、被告と結婚以来自らの給料の大部分を被告の母に提供して、被告の給料と共にではあるが、被告の両親及び弟の生活費をもまかなつているのである。その原告に対し、前述のように昭和三十三年二月頃から、家族と共に殆んど言葉をかわさないのみか、同年三月二日から四日まで寝室を別にする挙に出た。同月五日原告が同じ部屋に寝てほしいと頼んだのに対し、「おれはもうお前と一諸に寝るのはいやだ」と言つてこれを拒絶した。このことがきつかけとなつて、原告は同日実家へ帰り、爾来再び被告のもとへは戻つていないのである。そうしてこの間、仲人の山金美江が、被告をその勤先に訪ねて真意をただしたところ、被告は、信子がいやならいやで自分にも覚悟がある、と述べ、原告と和解する意思のないことを表明した。結局その後、原告から被告を相手どつて長野家庭裁判所へ調停の申立がなされたが、離婚すること自体には問題はなかつたけれども、慰藉料等財産上の処理につき話し合いがつかなかつたため、不調に終つた。
(二) かくして原告は、昭和三十三年五月十七日本訴を提起し、被告もまた同年八月一日反訴を提起して、それぞれ離婚の意思を公然と表明するに至つた。原被告各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、原告及び被告はともに、現在においてもかたく離婚の意思を有していること、及び本件訴訟において目指すところは、一に離婚に際しての財産的処理をめぐる紛争の解決にあることが明白であつて、前出(一)の事実関係とあわせ考えれば、原被告間の婚姻そのものは、客観的にも完全に破綻しているといわなければならない。かように原告及び被告が、それぞれ本訴及び反訴において離婚の請求をなし、客観的にもその結婚が破綻していると認められる場合、しかも後述するように、この訴訟において、離婚にまつわる財産関係の包括的終局的処理がはかられる場合には、すすんで離婚原因の仔細な探究、就中原被告のどちらに主たる責任があるかなどの具体的究明をまつまでもなく、婚姻を継続し難い重大な事由があるとして、民法第七百七十条第一項第五号に基く原被告双方の離婚請求をともに理由ありとなすべきものと考える。けだし、離婚そのものを認めるか否かについては、右以上の追及はおよそ無意味であるからである。
よつて、原告の被告に対する本訴離婚の請求及び被告の原告に対する反訴請求を、いずれも認容すべきものとする。
二 慰藉料及び財産分与請求について。
(一) さて、原告は被告に対し、慰藉料として金十五万円、民法第七百七十一条、第七百六十八条(以下単に第七百六十八条のみを引用する。)による財産分与として金十五万円を請求する。右にいわゆる慰藉料が、離婚による損害賠償として、民法第七百九条、第七百十条に基くものと観念されていることは一応疑いない。ところで、民法第七百六十八条に規定された財産分与請求権は、その立法の沿革、条文の体裁、現実の機能及び合目的的配慮等から、次のように解するのが正当であろう。即ちそれは、離婚によつて不利益を蒙つた当事者の財産的救済のための、包括的統一的な法的保護制度であり、夫婦間における実質的共有財産の精算を中核的要素とし、離婚後の扶養料的要素及び離婚にともなう損害賠償的要素をも包含する、独特の且つ一箇の離婚給付請求権である(もつとも、一般にはこの財産分与の裁判は、実体法上の権利としての、財産分与請求権の存否を確定するものではないと解せられている。おもうに現行法上それが非訟事件として取り扱われていることは、家事審判法第九条第一項乙類第五号、第七条、人事訴訟手続法第十五条第一項ないし第三項、第七条等に徴して、否定し得ないように思われる。しかしこれは立法の裁量によるものであつて、財産分与の請求が、元来紛争性と共に権利性をも有するものであることは、後述するところからも明らかであり、このことを認めることと右の取り扱いとは、必ずしも矛盾しないと考える)。
右についての詳説は省くが、これを離婚にともなう慰藉料請求権との関係において若干触れておく。民法第七百六十八条による財産分与請求権と右慰藉料請求権とが、その本質を異にすることは、今日異論をみない。而して、後者は前者と別箇独立に行使し得るというのが多数説といつてよかろう。しかしながら、元来この財産分与制度は、実践的には離婚によつて不利益を蒙ることの多い妻に対し、離婚後相当の生計を維持するに足るべき財産を与え、以て離婚の自由を経済面から保証することを意図したものであるが、後にそれにとどまらず、実質的夫婦共有財産の清算という思想を導入することによつて、離婚に際して、夫婦間の財産関係の包括的処理をはかるべきものとされ、清算と扶養のほか、離婚にともなう損害賠償的要素をもこれが一要素として包含し、以て右の要請にこたえるべきものとして創設されたことが、立法の沿革にほかなかないのである。条文上も右損害賠償的要素を排斥するものだとみる余地はなく、却つて同条第三項の「その他一切の事情」という表現からすれば、これをも含むと解するのが素直であろう。そしてこれら諸要素が、渾然として一箇の請求権を成すところに、この新しい離婚給付制度の独自性と、輝やかしい存在意義があつたのだといえよう。今この財産分与から慰藉料の要素を除き、これを一般不法行為制度にゆだねた場合、我が国における実質的な離婚給付制度が、実体面で二元的となると共に、手続面でも、非訟事項と訴訟事項、二年の除斥期間と三年の時効、請求額にかかわらぬ百円の貼用印紙と民事訴訟用印紙法により請求額に応ずるそれ、などの異別を生じ、そのわずらわしさはいうまでもない。更にまた、すべての紛争につき、その解決が一回の措置で完結するのが望ましいことは言うまでもないが、別して離婚という、当事者の全生活を包み、且つ極めて微妙な問題にあつては、それにまつわる財産関係の処理についても、解決の一回性ということが特に要請されなければならない。そうである以上、右のような二本立制が、よく離婚婦の保護をはるか所以でないことは明白である。のみならず、実質的夫婦共有財産の清算といつても、その厳格な算出は著しく困難であり、他方離婚後の扶養料についても、自己が無責で、相手方が有責という典型的な場合は、慰藉料との弁別が難しいから、結局従来から親しまれ、且つその内容をひろげてきた慰藉料請求のみが活用され、右のような意味での財産分与請求は次第に敬遠され、民法第七百六十八条は死文と化するおそれが多分にある。かくなつては、同条が置かれた前述の法意と背馳すること甚だしいといわなければならない。而して不法行為制度は、元来は一般市民相互の間における、「不法」な行為により発生した、損害の賠償をはかるための制度であつて、夫婦という身分関係にある者の間における、且つまた当代においてはもはや「不法」という法意識の稀薄な離婚行為における損害の発生、賠償について規律するには、ふさわしくないものなのである。民法第七百六十八条が創設されない以前はともかく、前述のような趣旨で同条が設けられた以上、従前不法行為制度が離婚給付について果していた機能は、挙げて同条に吸収されたものと考えるのが相当である。以上が離婚給付に関しては、民法第七百六十八条の財産分与請求権と別箇独立に、不法行為による損害賠償請求権を認むべきでないとする論拠の要点である。
ところで、原告が本訴で財産分与として金十五万円、慰藉料として金十五万円、合計金三十万円を請求する趣旨は、離婚に際して、包括的終局的な、夫婦財産関係の処理即ち離婚給付を求めるにあること、弁論の全趣旨に徴して明らかであつて、これは上来説示したところによる民法第七百六十八条の財産分与請求にほかならず、結局原告の求めるところもここにあると認められるから、以下原告の附した法律上の見解にかかわらず、右請求を同条に基き金三十万円の財産分与を求める申立とし、前述の基準に照らして判断する。
(二)(イ) 原告は、結婚前から結婚後現在に至るまで、信濃商店に勤務し、その間昭和三十二年四月から同三十三年二月まで、右商店から受けた給料手取月額平均一万円のうち、小遣い、貯金、無尽掛金等を除さ、昭和三十二年四月金四千六百百五十八円、同年五月金六千三百六十八円、同年六月金六千五百八円、同年七月金六千四百七十四円、同年八月金六千五百九十八円、同年九月金六千六百十八円、同年十月金六千五百九十二円、同年十一月金六千五百三円、同年十二月金八千六百三円、昭和三十三年一月金九千二十九円、同年二月金九千八円を、更に賞与として昭和三十二年六月金一万四千百三十円、同年十二月金一万四千四百円を、ほかに原告の貯金一万二千円と共に、被告の母きみに差し入れている(成立に争いのない乙第一号証の一ないし十二、証人長沢きみの証言及び原告本人尋問の結果により認める)。これらは、元来原告の特有財産と目すべきものであるが、その大部分は、原告が婚姻から生ずる費用の分担分として、被告の母を介して被告に提供したものとみるのが妥当である。而してその余は、被告の給料から同じくその婚姻から生ずる費用の分担分を除いた金額と共に、夫婦共稼ぎによる原被告共同の蓄積となるべきものであろう。しかし、現にとるに足るべきかような蓄積が存在するとの証拠はないのである。但し、それが生活能力の殆んどない被告の両親と弟に対する扶養料にあてられたものであるということは、証人長沢きみの証言及び原被告各本人尋問の結果によつてこれを推認するに難くなく、これが反証はない。そうするとすれば、これらの者に対し法律上当然に扶養義務を負うのは原告ではなくで被告であるから、少くとも被告の消極財産の増大を防止するのに幾ばくかの役割を果したものといえないことはない。他方、前述のように、原告と被告との結婚による共同生活の期間は僅か一年であり、且つ共稼ぎであつたこと、及びその夫婦生活の実態に徴し、家庭内での生活の面において、原告が被告の能力(例えば給与取得能力)増進に特に寄与したとの、格別の事情は認められない。
以上要するに、原被告が夫婦である間における実質的共有財産と目すべきものは、現に存在するものとしてはもとより、被告に化体して将来産み出され得べきものとしても、殆んどとるに足りない。ただ僅かに、被告の消極財産の増大を防止した若干のものが、原告の寄与の賜として清算の対象となり得るにとどまるといえよう。
(ロ) さきに認定したところに徴し、本件離婚の原因には種々のものがあげられる。先ず被告の母が原告をおのが「家」の「嫁」と考え、原告をさしおいていわゆる「姑」として微細な点にまで原告に干渉したこと、そしてその裏に、自分の息子即ち被告をとられることへの嫉妬感情ないしは、被告を独占しようとする慾求が潜在し、それが自己と、延いてはまた被告と、原告との融和を妨げた要因であることを推定するのは、さして困難ではない。一方原告の父にも、原告について、まめ満足の者を「くれてある」という言葉や、「義理」をかさにきて被告に対する態度のなかに、古風な意識や道徳がみられ、それらが問題をこじらせる因子となつたと考えられる。しかしながら、当代の結婚はその本質上当事者自身の問題であり、原告と被告とが責任を以て処理すべき事柄である。なかんずく、被告は、原告が勤めに出ている身であること、及び被告の両親や弟と共に生活していることにかんがみて、できるだけ自己との間はもとより、これらの家族との間の和合の道を講ずべきであつた。その努力の足りなさは歴然としている。従つてもとより原告にも非難さるべき種々の点はあるけれども、結婚を破綻に導き、遂に離婚にまで至らしめたについては、被告により責任があるというベきである。このような原因から原告が離婚するにおいては、相当の精神的苦痛を蒙るべきことがたやすく看取され、相応の慰藉がなされて然るべきである。
(ハ) 原告は結婚前から現在に至るまで信濃商店に勤務して、前述のような給料を得ており、将来この職を失うべき特段の事情はうかがわれない。してみると離婚後扶養を要する状態に陥る可能性は現在のところ予見せられない。しかしながら当代社会においては、一般に離婚婦は、離婚そのものによつてすでに或る種の不利な評価を受けるばかりか、将来再婚を望むにせよ、独立自営の道を志すにせよ、幾多の障碍に遭遇せねばならぬことは、今更縷説を要しない。原告の場合、この離婚婦特有の社会的不利益を負うべき事態と異る状況を予想させる事情は何も存在しない。
以上の諸事情を総合勘案すれば、原告がこのまま離婚するにおいては、財産的、精神的及び社会的に種々の不利益を受けるのであつて、この不利益に対応する離婚給付、即ち財産分与として、被告に対し相当の金員を請求し得るものとなすべきところ、被告は、殆んど生活能力のない父母、及び右眼失明し、脊髄カリエスをわずらう弟の三名をかかえ、借家に住まつて、自己が会社から受ける給料手取月額約一万六千円と定期の賞与等を以てその生活を支えてゆかねばならず、まとまつた金銭等の貯えも存しないことがうかがえる(証人長沢きみ、長沢三郎の各証言及び被告本人尋問の結果による。)ので、その他本件にあらわれた一切の附随的事情をも斟酌して、右金員の額は金六万円を以て相当とする。
三 結論
上来説示した如く、原告の本訴中、離婚請求はこれを認容し、金三十万円の財産分与を求める申立は、被告に、原告に対し金六万円を支払うべきことを命ずることとし(前述のとおり、財産分与の請求が非訟事件として裁判されるところから、原告の右申立額には拘束されず、従つてこの金六万円を超える部分について、主文において請求棄却をうたう必要はない。)、被告の反訴請求はこれを認容すべきものとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八十九条、第九十二条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 高野耕一)