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長野地方裁判所 昭和34年(タ)1号 判決 1960年12月27日

判決

長野市大字鶴賀田町二千百九十一番地

原告

中 沢 保 治

右訴訟代理人弁護士

宮 下 文 夫

長野市大字鶴賀権堂町二千三百四十五番地

被告

中 済 むや志

右訴訟代理人弁護士

相 沢 岩 雄

右当事者間の昭和三十四年(タ)第一号離婚請求事件につき、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

原告と被告とを離婚する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、その請求の原因として、

「一 原告は昭和二十二年復員後、兄である訴外中沢忠蔵方に同居し、兄夫婦のすすめにより、同年九月あによめである訴外きりのの妹の被告と結婚し、同二十四年九月二十八日婚姻の届出を了した。

二 被告は、婚姻当時病弱であつて、子宮筋腫の手術をなしたことがあり、又性格は原告と合わず、そのため夫婦間の愛情は冷却し、不和が絶えず、夫婦生活は婚姻届出後一、二年で全く破綻した。原告はその回復に努力したが全然見込みなく、やむを得ず昭和二十七年二月兄の家を立ち去り、現に土建業を営んでいる。

三 被告はその間青果商の営業名義を、無断で原告から被告へ書き替え、店舗を忠蔵から買い受けて、営業繁盛し、多額の蓄財をなしている。

四 のみならず、被告は、訴外西沢勇男(昭和六年二月生)を数年前より雇傭しているが、同人は狭い被告方に同居し、被告の店の経営の主力となり、その金銭や物品を支配して主人然と行動し、親類近隣から被告と不倫関係ありといわれている。

五 被告はその後数年にわたり原告を寄せつけず、昭和三十三年十月二十三日朝原告が被告方へ赴き、被告の許に復帰したいと申し入れたところ、被告は原告に対し「今更何に来やがつた」と全然うけつけず、西沢は「三百万円も貰うからな」と放言したのである。

六 以上の如く、妻たる者が夫の許可もなく雇人と同一家屋で生活し、世間から不倫関係ありと推測される如き行動をすることは、かりに夫に女性関係があるとしても、当然に許されるものではなく、被告に原告と同居の意思があれば、西沢との同居をかたく拒否すべきである。にもかかわらず、夫の不在をよいことにし、現在に至るも同棲するのは、明らかに不貞行為である。

更に、被告は、原告からの離婚調停の申立に対しても、原告との婚姻継続を望むために申立に応ずることを拒むのではなくて「一生困らせてやる」と暴言する如く、原告に対する愛情は全くなく、あるのは憎悪の仇敵関係のみであつて、もはや夫婦関係は破綻し、婚姻の継続は全く不可能である。

七 かりに、原告に被告との不和の原因があるとしても、単に有責配偶者故に離婚請求を認めない従来の傾向には賛し得ない。即ち、人間の愛情には終生不変なることを期待出来ないし、離婚を認めないことによつて、枯れてしまつた夫婦関係が、甦つて新しい芽をふき、花をひらかせることを期待できようか。時の変遷に従い、婚姻生活を維持せんとする意思が夫婦相互に欠如するに至つた場合、有責者であつても離婚請求を許すべきである。

而して、原告は、現に訴外笠井節子と同居し、その間に章、慎二郎、及び紀男の三子があるが、笠井節子との同居は、原被告の夫婦不和の原因ではなく、原告が被告の病弱、性格の相違、愛情の冷却、不和等により、婚姻生活が破綻したことに失望した結果、求めた行動であり、原被告の婚姻生活の破綻の結果でこそあれ、決して原因ではなく、従つて原告を単純に有責配偶者ということはできない。のみならず、憎悪仇敵の関係しかない原被告間の婚姻が継続することにより、原告と笠井節子との事実上の夫婦関係が内縁関係にとどまることにより、その間の右三子が嫡出でない子として肩身も狭く生活し、被告の「一生困らせてやる」という残忍な考えの犠牲に供されることは許されない。

被告は、生活の保障を得、若き相談者を有し、又原告の復帰を望まぬ以上、被告の妻たる身分は却つてその行動の自由を制約し、世間から批判され、いつかは原告との姻婚解消の手段を必要とするに至るであろう。又、原告としても、不当な拘束から解放され、新しい婚姻生活を維持し得、子らも友人社会に対し卑下する悩みを除かれ、人間らしい生活が出来るのである。

以上の如く、冷却こそすれ、決して復活しない原被告間の婚姻関係は、すべからく解消すべきであるため、ここに敢て本訴請求に及ぶ次第である。」

と述べ、(証拠省略)

被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、

「一 原告の請求原因第一項は、原被告が挙式して事実上結婚生活に入つたのは、昭和二十二年三月二十六日であるとするほかは認める。同第二項中、被告が子宮筋腫の手術をしたこと(但しその日時は昭和二十三年七月である)原告が同二十七年二月忠蔵の家を立ち去つたこと、及び現に土建業を営んでいることを認め、その余を否認する。同第三項中、被告が青果商を営んでいることを認め、その余を否認する。同第四項中、被告が数年前(昭和二十七年五月)から西沢勇男(昭和六年三月二十日生)を雇傭し、同人が被告方に住込んでいることを認め、その余を否認する。同第五項を否認する。同第六項中、原告から離婚の調停申立がなされたこと(昭和二十七年二月と同二十八年二月の二度、長野家庭裁判所へ)原告が笠井節子と同棲し、節子の子である章、慎二郎及び紀男を認知したことを認め、その余を否認する。

二 被告は、小学校高等科卒業後、昭和九年看護婦免許をとり、爾来長野市桑原病院、東京神田杏雲堂医院、長野市三菱重工業株式会社長野工場診療室等に看護婦として勤務していたが、終戦後須坂市において上高井看護婦会を結成し、昭和二十五年三月同会が解散するまでその会長の職にあつた。ところで、原告には幸蔵、広蔵、忠蔵、音蔵の四名の兄があるが、幸蔵は原被告の結婚前に死亡し、広蔵は原被告の仲人となつたが昭和二十四年六月死亡した。なお、被告の姉きりのは、忠蔵の妻であり、原被告の結婚は忠蔵夫婦のあつせんによるものである。原被告が結婚したのは、前述の如く昭和二十二年三月であり、当時原告は忠蔵の土建業の手伝いをしていたが、収入はなく生活は被告の収入によつてまかなわれた。そこで、原告は同二十四年二月頃被告の実家のすすめにより青果の行商を始めたが、同二十五年三月被告も看護婦会解散後は、夫の青果業を手伝い、被告の実家の積極的援助を得て、逐次家業は盛んとなり、同二十五年六月には忠蔵の軒先を借り受け、同年秋には右土地に下屋を張り出して現在の店舗とした。ところが、原告は、同二十六年七月長野市の祗園祭の頃より、当時長野市権堂において芸者をしていた笠井節子と親しくなり、同年秋頃からは毎夜の如く節子のもとに通うようになり、親戚一同の手を切るようにとのすすめにもかかわらず、翌二十七年には、節子のもとより連日朝帰りするようになつた。かくして、原告は同年二月家を出て節子と同棲生活に入り、土建業を始めたが、その間節子との間に慎二郎及び紀男の二子をもうけて認知したが、被告を捨てて顧みず、一度も被告のもとに寄りつこうとしない。原告が家を出た昭和二十七年二月には、節子はすでに慎二郎を妊娠しており、家を出てすぐの同月十四日に離婚の調停の申立をした点からみても、原告は計画的に悪意を以て被告を遺棄したことは明らかである。これに反し、被告は、原告の留守中家業を存り、貞淑に生活し、原告が翻意して家庭に帰るのを待つている。よつて、原被告の婚姻の破綻は一に原告の責任に帰すべきものであり、有責配偶者に離婚の請求は認められない。」

と述べ、

証拠(省略)

理由

一  証拠省略を綜合すれば、次の事実が認められる。原告(大正四年十月十三日生)は、昭和二十一年復員してから後、兄である中沢忠蔵方に寄宿し、土建業の手伝いをしていたが、同人の妻きりのの妹である被告(大正四年二月二日生)と結婚することを、忠蔵夫婦らからすすめられ、必ずしも自発的な意思に基くのではないままこれを承諾し、同二十二年三月結婚式を挙げ、同二十四年九月二十八日婚姻の届出を了した。被告は、その主張の如く、看護婦の資格と経歴とを持ち、上高井看護婦会の会長を勤めていた際原告と結婚式を挙げたのであつて、式後須坂に同居し、同会が解散した同二十三年頃から、さきに原告が引売から始めていた青果商を共に営むこととなつた。かくして爾来昭和二十六年に至るまで原被告共同して辛苦経営した結果、長野市大字鶴賀権堂町の忠蔵夫妻方の一角に店舗を構えられるようになつた。

しかしながら、この間、被告は挙式後僅か三箇月位経つた頃、子宮筋腫の手術をしたが、その症状は結婚前から存在していたことがうかがわれるところ、そのことから原告は、将来子をもうける可能性がないものと考え、青果商が漸く軌道に乗るにつれて、子が出来なければ出来ないで、被告が妻として暖く接し、生活の労をいやしてくれるよう、強く希求するに至つた。これに対して、被告は、ただ働くことに専念し、原告の右のような心理と期待とに思いをめぐらすことは全くなかつた。このような事態において、たまたま昭和二十六年七月長野市権堂の祭礼に際し、原告は、当時そこの芸者をしていた笠井節子と知り合い、ここに、右の如き自己の境涯を語り、慰めを得る相手を見出して、次第に心を傾けるようになり、節子もまた原告に対する同情の念がつのり、かくして、同年未から翌年一月にかけて原告は子一人をかかえて暮す節子の居宅に時々外泊するようになり、やがて、同年二月に入ると間もなく、被告のもとを去つて節子と同棲するに至つた。爾後八年間原告は節子と共に暮し、その間に慎二郎(昭和二十七年十一月二十八日生)と紀男(昭和三十年五月三十一日生)の二子をもうけてそれぞれ認知し、建設業を営んで今日に及んでいる。一方被告は、原告が家を出た直後、西沢勇男を傭つて青果商を続け、相当の繁盛を来すに至つたが、この間、原告と節子とをひたすら嫌忌し、昭和二十七年及び同二十八年の二度の離婚調停及び一、二の周囲の者からの話合いを全く拒み、誰が何と言つても意地で籍を出さないと公言し、同三十三年十月二十三日に、原告が被告方を訪れた際も、どの面下げて来たんだ、商売やりたかつたら、腐れ芸者と何処へでも行つて、土方でも何でもやるがいい、さつさと帰つてくれ等と罵言を浴せる始未であつた。

(中略)これを左右する証拠はない。而して、原告本人尋問の結果中に、原告が節子と別れ、被告のもとへ帰ることもあり得るような口吻を示す部分があるが、弁論の全趣旨に徴し、それが単なる修辞であつて採るに直しないことは明白であり、他方被告本人尋問の結果中に、被告は原告さえ改心して節子と手を切り、子の始末をつけるならば、再び迎える意思があるように述べている部分があるが、これ又、弁論の全趣旨と右認定事実とに徴すれば、その前提たる条件が到底実現不可能であることを十分認識した上での供述で、同じく採用に値しない。してみれば、原被告間の婚姻は、すでに当事者の主観的意思においてはもとより、客観的な条件においても、回復の余地なきまでに破綻していることが明らかであり、民法第七百七十条第一項第五号にいわゆる「婚姻を継続し難い重大な事由」があるものといわなければならない(なお、ここにいう婚姻の破綻とは、単に当事者間の、夫婦としての信頼や愛情の欠如のみを指すのではない。それらを全く欠く婚姻というものも現実には存立し得る。ここでは、同居とか協力扶助とか、貞操とかという、婚姻を標識する外形的事実すら、到底期待し得ない状況に立ち至つた場合をいう)。

二 ところで、そのここに至つたについては、原告に、即ち、原告が節子と同棲したことに決定的原因があることは疑い得ないところであり、この点の責任を原告は到底免れることは出来ない。もつとも、原告をして、そのような挙に赴かしめたについては、前認定の如く、原告の希求に若干無理からぬものがあり、他方被告に、これに応える何程かの努力が要請せらるべきであつた以上(但し、かかる希求と呼応とが、一般に共稼ぎの夫婦にとつては、相互的であること勿論である)被告にも亦全く責なしとしない。そして又、原告と節子との同棲生活を八年の長きに亘つて継続せしめ且つ強化せしめたについては、被告の一貫したかたくなな態度が、全然関係ないとはいえないこと、前認定の事実に徴して窺知し得られる。ただしかし、被告に原告主張のような不貞行為があるかについては、(証拠省略)によれば、被告が西沢勇男を被告方に住み込ませ、その寝所が被告のそれと相接していたこと、西沢が、言棄も荒く一見主人然としたところもあること、世間の一部に両者の関係がおかしいとの噂の存在することを認め得るが(反対の証拠はない)さればとて、被告に、前認定のような事態にある原告の許可を受けなければ、西沢を住み込ませてはならぬ制約は何もなく、いわゆる不貞とか不倫とかを以て目せられるべき行為の存在は、原告挙示の証拠を以てしても認めるに足りず、他にかかる認定に供すべき資料はない。

要するに、原告には、被告との婚姻を破綻に導いた主たる責任があるとするのが相当である。そこで、かかる有責配偶者が、自ら離婚請求をなし得るかが問われなければならない。而して、この命題は、抽象的に問われてはならないこと勿論で、これを否定する明文の根拠なきわが民法の下においては、当該具体的事案に即して、一方婚姻の理念と、他方当事者(子があれば子をも含めて)の利害とを、相関的に考慮しながら、その可否を決すべきである。

それでは、本件の具体的な事態を更に考究してみよう。原被告間の夫婦関係は「夫さえ情婦との関係を解消し、よき夫として妻のもとに帰り来るならば」という、まさにその前提がもはや絶望的に不可能な状況にあるのであつて、「(そうすれば」何時でも夫婦関係は円満に継続し得べき筈である」(最高裁昭和二十七年二月十九日判決参照)と説くのが、無意味に等しい事態なのである。そして、そもそも「そのようなことになつたのは、もつぱら夫の行為に起因している」(最高裁昭和二十九年十一月五日判決参照)と一義的に断定し得るものではなく、主として原告の行為に起因すると言い得る場合である。更に、現に被告が、ひたすら「なお(原告との)夫婦関係の継続を望む」(最高裁昭和二十九年十二月十四日判決参照)心理にあるとは到底認められず、ただ憎悪と意地によつて――その気持は十分察し得ないではないが――離婚を拒んでいるに過ぎないのである。他方、原告には、節子と同棲して以来の八年の間に(ちなみに被告との同居期間は五年である)二子をもうけ、真面目に働いて誠実に二子の養育に努めていること、及び慎二郎は現に小学校二年生で、対社会的に父母との身分関係が問題として意識されるべき年令に達したことが、(証拠省略)によつてうかがわれるのであり、これに対して被告には子がない。又、原被告双方の経済状態ないし経済力は、むしろ被告の方が勝り、原告からの扶養を必要としたり、相続を期待したりすべき状況は、現在はもとより将来も先ず予測せられないことが、(証拠省略)に徴し窺知てされるのである。

してみれば、夫に対する愛情はすでに全くなく、子の保護の問題は何ら考慮せずともよく、自らに扶養をうける必要も、相続に期待すべきものも共にない被告は、原告との婚姻解消によつて今更失うべき何ものもないと言つても必ずしも過言ではないのに反し、原告には、この離婚が成らなかつた場合――本訴が、ここ当分はその成否を決すべき最後の機会であろう――、節子との共同生活はともかく、少くともその二子の将来に暗い負担がつきまとうことを避け難からしめるものと言うべく、罪なき子らのこの不幸を、また止むなしとして放置してよいいわれはない。

問題は、かかる有責配偶者に離婚を許すことは、一夫一婦の婚姻理念に反しないかということと、現実的には、不徳義の男性を増長せしめ、さなきだに今なお男性に比べて不利な社会立場に立つ女性を、ますます追いつめることにならないかということである。しかし、形骸のみの夫婦関係を法的に強制することが、却つて右の理念に実質的に背反することであり、その結果偽善や不倫を招来することは見易き道理であるのみならず、婚姻外の子の保護の問題は、近時思想的にも法律制度の上でも、右の婚姻理念と同等に尊重せらるべきものとされて来たことに思いめぐらせば、この後者を強調するの余り、前者の観点を忘れ、少くともこれを配偶者一方の意地による離婚拒否の犠牲に供すべきでないということが、特に指摘されなければならない。そうして、破綻の原因、別居の動機、妻との婚姻生活及び他の女性との同棲生活の各年数とその実態、子の幸福、妻の扶養と相続の期待並びに夫に対する愛情等につき、本件の如き具体的な事実を勘案すべきものとするならば、そう易々と男性の身勝手を横行させる契機となるおそれはないものと考える。

もともと、民法第七百七十条第一項第五号自体からは、有責配偶者の離婚請求を拒否すべき所以を導き出すことは、その沿革及び文理に徴しても困難であるのみならず、かかる解釈に、折角破綻主義へ前進したわが離婚法を、歴史の方向とは逆に回転せしめるものであるというべく、むしろそれは、民法第一条の、権利行使における信義誠実の原則(これは民法全編を貫く基本原理である)によつて、弾力的に制約すべきものではなかろうか。そうとすれば、一般的には、有責配偶者(特に妻以外の女性に走つた夫の如き)の離婚請求は、離婚権の乱用と目さるべきであろうけれども、本件の如き場合は、右に縷説したとおり、もはや現在の時点においては、むしろ相手方たる被告に、婚姻の解消を拒否することが妻たる身分権の乱用であると言えなくもない事実が存するのであるから、かかる場合には、民法第一条による制約は働かすべきではないと考える。

三  以上の次第で、原告の、婚姻を継続し難い重大な事由があるとして被告との離婚を求める本訴請求は理由がある、認容すべきものとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

長野地方裁判所

裁判官 高 野 耕 一

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