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長野地方裁判所上田支部 昭和37年(ワ)2号 判決 1965年3月20日

○○県○○郡○○大字○○、○○○番地

原告 甲野太郎

同所同番地

原告 甲野花子

右両名訴訟代理人弁護士 鷲海隆

○○○市○○○○○○番地

被告 乙山一郎

同所同番地

被告 乙山月子

○○○市○○町○丁目○○番地

被告 乙山二郎

右三名訴訟代理人弁護士 植松博一郎

右当事者間の当庁昭和三七年(ワ)第二号損害賠償請求事件について、昭和四〇年二月五日終結した口頭弁論に基いて次のとおり判決する。

主文

被告三名は連帯して、原告等に対しそれぞれ金二〇万円及びこれに対する昭和三七年八月二六日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

原告等のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを三分し、その二を原告等、その一を被告等の負担とする。

事実

原告等訴訟代理人は「被告三名は連帯して各原告に対し金一二五万円及びこれに対する昭和三七年八月二六日から支払済まで年五分の割合の金員を支払え。訴訟費用は被告等の連帯負担とする。」との判決並びに担保を条件とする仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、

一、訴外亡甲野A子は原告等夫婦の二女として昭和七年一〇月二六日○○県○○村大字○に生まれ郷里の中学校を卒業し父母の下を離れて職につき○○に住んでいたものであり、被告乙山二郎は昭和八年五月二日被告乙山一郎、乙山月子夫婦の長男として生まれ、父母のもとで高校を卒業し○○市の○○学院大学に進んだものである。

二、甲野A子は昭和三二年四月から○○市の○○○百貨店に店員として勤務し、同市内のアパートの一室を借り受けて居住していたが、昭和三五年被告乙山二郎も同じアパートの他の一室を借りすでに大学を卒業して同市の日立製品の販売店に勤めており、朝夕顔を合わせるうち親密な間となった。

三、被告乙山二郎は間もなく甲野A子に求婚し、同道して○○村の原告等を訪ね承諾を求めたので、原告等は念には念を押したが決意極めて固かったのでこれを容れた。

四、被告乙山二郎はその後同人の両親の承諾を受け、二人は昭和三五年七月一三日○○○市において双方の親戚列席のうえ結婚の式を挙げ、このとき新婦側では父甲野太郎、弟甲野L、隣人甲野Tの三名が出席し、以来同市○○町の被告乙山一郎方から一五〇米位離れた同人の経営する乙山工業所本工場の事務所の二階二部屋で新婚生活に入った。

五、これよりさき、被告等は帝国興信所に原告方の調査を依頼しており、同月三〇日その調査報告書が被告方に到着した。

六、それによると、原告甲野家が部落民であるかの如き記事があったので、被告等は部落民と断定してA子に調査書を突き付け、被告乙山一郎、同月子は二郎を通じてA子に対し、部落民を妻とすることは絶対に認容できない、両親の意思に添わなければ他郷で生活せよ、と申向け、同年一一月、一二月頃には二郎を使嗾して毎夜の如く特飲店に出掛け朝帰りをさせ、二郎の給料なども全部小使銭にしてA子には少しの家計費も与えないようにし、終始冷い態度を続け、三名共同して入籍もさせず、乙山家を出て行けと云わぬばかりの行動をとるなど言語に絶した精神的虐待をなし、遂にその迫害に耐えかねて同年一二月二二日遺書を残し睡眠薬ブロバリンを多量に服用し自殺するのやむなきに至らしめた。

被告等のA子に対するこのような精神的虐待は明らかに違法な行為であり、原告等は父母として非常な精神的苦痛を受けたので、民法第七一九条により被告等は連帯して各原告に金一二五万円及びこれに対する最終の訴状送達の翌日である昭和三七年八月二六日から支払済まで年五分の割合による金員を支払う義務がある。

仮りに右請求が全く理由がないとしても、被告等は右不法行為により甲野A子に与えた精神的苦痛につき連帯して損害を賠償する義務があり、その額は金二五〇万円が相当であり、原告等は直系尊属でありこの債権を二分の一づつ相続したから、同額の支払義務がある。

と述べ、

証拠≪省略≫

被告等訴訟代理人は「原告等の請求を棄却する。訴訟費用は原告等の負担とする。」との判決を求め、答弁の要旨として、

原告等主張の請求原因事実中第一項、第四、第五項の事実及び甲野A子死亡の事実を認め、その余を争う。

甲野A子は被告乙山二郎と○○市において昭和三四年始め頃から同棲生活を続けていたものである。

調査報告書は到着後直ちに被告乙山一郎から被告乙山二郎に渡され、間もなく原告等に郵送されたため、被告乙山月子は全くみていない。

甲野A子は被告一郎等に大学英文科四年を卒業したと云っていたのに、右調査書には新制中学を卒業しただけでバスの車掌となった旨記載され、また子供を生んだことがあるという噂だとも記載されていた。一郎はこれを鵜呑みにしたわけではないが、嫁の経歴について一応不審の念を抱き、この調査書を二郎に渡し真偽を質したところ、これを強く否定したので、それ以上新婚の夫婦について立入って干渉をしなかった。原告家を部落民と断定したことはない。

新夫婦は結婚当初から別居生活をしていたし、一郎は鉄工業を経営し、月子は住友生命支部長の身で、ともに多忙にまぎれてその後も若夫婦の生活には関与しなかった。

と述べ、

証拠≪省略≫

理由

原告主張の請求原因中第一項、第四、第五項の事実は当事者間に争いないところである。

≪証拠省略≫によれば、

被告乙山一郎は○○高等工業学校機械科を卒業し、住友に入って○○○市の工場に勤務し、昭和三〇年七月住友機械工業株式会社製造部長を退職、昭和三二年鉄工業を始め、住友機械○○○製造所と住友化学○○工場内で下請として数十人の工員を使用して機械の組立修理等をしていたが、昭和三五年五月二二日同市○○町に本工場を落成し、ここでも一〇人位を使って住友機械の下請工場として部品を製造している。資産は住居と右工場がその主なものである。

被告乙山月子は一郎と昭和六年結婚し、同人との間に被告二郎を頭に三男三女をもうけ、女性には珍らしく事業的手腕もあり、子供も成長したので昭和三〇年九月保険の仕事を始め、昭和三四、五年頃は同市の住友生命保険株式会社○○支部長として熱心に活動し、帰宅も遅くなることが多く多忙な日々を送っていた。

被告乙山二郎は昭和三〇年四月○○市○○区○○町にある○○学院大学工学部電気科に入学し、同じ○○町のアパートから通学したが、昭和三三年一〇月頃ふとしたことから甲野A子を知るようになり、偶アパートも同じであったので急速に親密の度を加え、昭和三四年一月頃から右アパートの一室で同棲を始め、間もなくA子は同市内○○○百貨店内のブラザーミシン販売所へ勤めるようになった。同年三月乙山二郎は同大学を卒業、四月から同市内の日立製品の販売店に勤めた。同年秋二人は○○村に原告等を訪ね同棲の承諾を求めた。翌三五年春二郎の弟乙山三郎も同大学に入学し、しばらく同居し、A子はこの頃勤めをやめて家事に専念した。

原告等は数反歩の農地を有して農業を主とし、その間に一男四女をもうけ、A子はその第二子として両親のもとで健康に育ち、昭和二三年三月郷里の中学校を卒業し、同年四月○○自動車株式会社○○営業所所属のバス車掌となり両親のもとをはなれて女子寮に入り、昭和二六年頃○○急行電鉄のバス車掌となりここでも寮に入ったが、昭和三二年頃から前記アパートに住んだ。独立心が強く○○方面に出てからは自分のことは自分で処理し原告等に心配をかけることもなく、時々文通はあったが殆ど帰省はしなかった。在学中の成績は普通であったが、仕事には熱心であり明朗で客扱いもうまく職場での成績は良好であった。二郎と知り合った頃は幾分健康を害し乗車勤務から遠ざかっていた。この頃から時折睡眠剤を服用するようになった。しかし、その両親やきょうだいは皆健康で、一族の中に精神異常者もいない。

被告乙山二郎は○○町の新工場が完成するので父を手伝うため昭和三五年五月中旬頃退職、原告等の同意をえたうえA子をともなって○○を引揚げ同月二六日○○○市に帰えり、はじめて同女を両親に引合わせた。一人で帰えるものと思っていた両親は突然二人から右同棲の事実をきき結婚の同意を求められ大いに驚いたが、二人の話ではA子も○○学院大学を卒業したということでありまたその性格にも好感が持てたので、敢えて反対はしなかったものの、長男の嫁でもあるので一応の調査をし慣例にしたがった挙式も必要と考えて一旦A子を親もとに帰えすこととし、同女は四、五日後落成式に名古屋から招待されていた月子の妹丙田K子とともに同市を発って帰信し、被告等はその際丙田K子にA子の結婚調査の依頼を托した。しかし、一郎夫婦はその調査報告にあまり関心がなく、挙式の日どりがきまっても催促もしなかった。

同年七月一三日挙式後は、二郎夫婦は両親とは別に工場の事務所二階に新世帯をもち、間もなく炊事や洗濯の設備も整い、風呂も銭湯を利用したので二人だけの生活が始まった。二郎は父の指導をうけながら六月上旬始業したばかりの同工場の監督と外交を担当し、不馴れな仕事に一生懸命奔走した。A子は会計を担当するということであったが事務所の仕事を何でも手伝って一日中忙しく立廻った。同女は明るい性格でもあったので、毎日一、二度見廻りに来る一郎にも気に入られたし、同家の他の家族や従業員にも好感を持って迎えられ、希望に満ちた幸福な新婚生活が始った。

同月三〇日頃A子の結婚調査報告書(甲第三号証の三)が到着し、これには同女について中学卒業後直ちにバスの車掌をしていたこと、数年前から同じ職場の異性と恋愛し子供をつれて帰郷したこともあるという風評のあること、家庭について家業は農業だが規模が小さく生活は収支手一杯で家具調度品もとぼしく中流以下の生活程度と評されていること、家柄について「代々農業のかたわら草履作りを兼ねて来たものと伝えられ、縁組は同族の中だけで行い一般の人々とはあまり交際していない。」「家柄は当地の下位であり、一般では〔結婚及び交際については特定地区の同系統の人達に限定する場合が多い〕と評している。」等との記載があった。

これをみて一郎夫妻は大いに驚き、一郎は二郎に右調査書を示してその真偽を確めたところ、A子の学歴をいつわっていたことを認めたので、それまでの二人の無責任な言葉を強く叱責した。二郎は同書を同人方へ持帰えり、右の事情はすべて同女の知るところとなった。同女は大きな衝撃を受け、同年八月三日右調査報告書を同封して速達郵便で原告等に右事情を報告した。このことがあってから二郎の両親とA子との間は急に冷たいものとなった。

一郎は、日数を経ても二郎から右報告書について何の弁明もないので、渡したときの二郎の言動などから出産の経験があるとの点を除き問題の記載は間違いないものと考えるようになり、同人や月子のA子に対する態度は一段と冷たくなった。一郎夫婦は事柄の性質上そのことを家族以外には話さなかったけれども、同人等の嫁に対する態度の急変は工場、買物先、道路等でA子に遇ったときの態度などから右工場の従業員は勿論隣人の目にもとまるようになり、同情して同人等の冷い態度をA子に告げる者も出て、その悲しみはつのるばかりであった。工場でもA子にはだんだん仕事が与えられなくなった。A子は同年八月頃戸籍謄本を取り寄せ二郎に婚姻の届出を求めたが、同人はその父母の態度に屈してこれに応じなかった。

幸福の夢を破られたA子は遠く郷里を離れ頼るべき親戚知人もなく、同年八月以降度々その苦衷を原告等に手紙で訴えた。日がたつにつれ夜眠れないため睡眠剤を使用し、また頭痛を訴えて居室に閉じこもることも多くなった。被告等はこれに気付いたけれどもその態度を改めなかった。二郎は秋の深まるとともにA子の精神的な痛手の深まるのを知っていたけれども、却ってこの問題から目をそらし、仕事に没頭することによってこれを忘れようとした。

同年一一月になると二郎は友人との交際や気晴らしのため夜外出することが多くなり、二万円の給料のうち大部分がその方に当てられA子の家計は極度に苦しくなり、同年一二月中旬からは忘年会も始まり、A子の杞憂は一層深まった。前途に全く希望を失ったA子は、遂に同年一二月二一日午後五時頃から翌二二日午前八時頃までの間に、自宅でプロバリン二〇〇錠位を飲み、別紙第一、第二のような手紙を遺して、同月二二日午後五時三〇分頃睡眠剤中毒により死亡した。二郎は前夜忘年会のため同日午前二時頃帰宅、午前八時頃起床し終日取引先を廻り、夕方六時頃帰宅してA子の異常に気付いたがすでに遅かった。

このことはやがて部落解放同盟○○県連合会、○○県同和対策協議会及びその前身の部落解放同盟○○県連合会等の取上げるところとなり、昭和三六年三月頃からその活溌な調査活動が始まり、これら関係者の強い要求により、数次の接渉の末被告乙山一郎は同年六月二五日○○新聞に陳謝文(甲第一六号証)を掲載し、損害賠償等については当事者間に残されたまま、以後前記諸団体の活溌な動きは終った。

以上の諸事実を認めることができる。当事者双方の各本人尋問の結果中右認定に反する部分は、前記各証拠に照し合わせて信用できず、他に右認定を動かすことのできる証拠はない。

右認定の事実によれば、被告乙山一郎、乙山月子の両名は二郎とA子が長く同棲していることをきき、明朗なA子に好感を持ち、学歴等について当人等の言葉を軽信し、念のため興信所に結婚調査を依頼しながらその結果を確認しようともせず、昭和三五年七月一三日双方の親戚列席のうえ結婚の式を挙げ、長男二郎の嫁として同家に暖く迎えることを誓いながら、同月三〇日調査報告書が到着すると結婚に強い不満の意を示して冷い態度に急変し、婚姻の届出にも強く反対し、A子が一人で苦しみ自室に引こもることが多くなってもそれを知りながら態度を改めず、二郎も両親の冷い態度になすところもなくこれを見過し、半ば諦めて夫としての十分な愛情を示すこともなく放任し、A子が同年一二月二二日入籍の希望もなく幸福な結婚生活への望を全く絶たれて絶望のあまり遂に自殺するに至ったこと(しかし、被告等が自殺までも予見しえたとはいえない)は、近く妻となるべく約されたものの地位を著しく無視したもので、被告等三名の右行為はいずれも違法なものといわなければならない。また、原告等はA子の手紙により終始その実情を知り、しかも同女が自分でどうすることもできないことがその大きな原因であったので、実父母として同じ苦しみを受けたものであるから、民法第七〇九条第七一〇条第七一九条により被告等は連帯して原告等にその精神的苦痛に対し損害の賠償をする義務があるものといわなければならない。

よって、その額について考えるに、原告等は一男四女を有し、A子はその第二子であること、同女は両親のもとで義務教育を終えた後バスの車掌となって寮に入り、特に昭和二六年頃○○○県で働くようになってからは完全に独立し家にも殆ど帰らなくなったこと、二郎との結婚についても殆ど自分で処理し原告等にあまり大きな負担もかけなかったこと、原告等は遠くに嫁ぐことを承諾したうえはひたすら本人の幸福のみを祈っていたこと、本人になんの責任もないことが破綻の一つの大きな原因であったため悲しみは一段と大きかったこと、しかしながらA子は遺書の中で社会の改善をひたすら願い、原告等に対しては誰も恨まないよう、特に二郎について「純真過ぎる人故この様な事に成って仕舞ひ世間をはばかり力を落さぬ様いたわって上げて下さい最後の願いです一生を捧げた只一人の人なのですこんな結果には成りましたが恋い慕う心に変りありません」と切願していること、さらに当事者双方の資産状態を考え合わせると、原告等に対しそれぞれ金二〇万円を支払うを相当とするものといわなければならない。

よって原告等の本訴請求中被告三名に対し連帯して各原告に金二〇万円及びこれに対する被告等に対する訴状送達の後であることが記録上明かな昭和三七年八月二六日から支払済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分は理由があるのでこれを認容し、その余は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条本文第九三条第一項本文によりこれを三分しその二を原告等その余を被告等の負担とし、仮執行の宣言を付することは相当でないのでこれを付しないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 土肥原光圀)

<以下省略>

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