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長野地方裁判所上田支部 昭和54年(ヨ)46号 決定 1980年1月21日

申請人

前野良

申請人

中村丈夫

右両名代理人弁護士

新美隆

鈴木淳二

佐藤芳嗣

被申請人

学校法人長野学園

右代表者理事

藤巻幸造

右代理人弁護士

浅岡省吾

江川満

右当事者間の頭書事件について、当裁判所は、保証を立てさせないで、次のとおり決定する。

主文

一、申請人両名が被申請人に対し雇傭契約上の地位を有することを仮に定める。

二、被申請人は、昭和五四年七月一九日以降本案判決確定に至るまで、毎月二五日限り、申請人前野に対しては月額二九万一五二八円、申請人中村に対しては月額三二万〇三六一円の各割合による金員を仮に支払え。

三、被申請人は、申請人両名が研究のために被申請人設置の長野大学(長野県上田市大字下之郷所在)内に立入り、かつ、同大学内の申請人両名の個人研究室を使用するのを妨害してはならない。

四、申請費用は被申請人の負担とする。

事実

第一当事者の申立

一  申請人両名

主文第一ないし第三項と同旨

二  被申請人

本件各申請をいずれも却下する。

申請費用は申請人両名の負担とする。

第二申請の理由

一  当事者

1  被申請人は学校教育を行うことを目的とする学校法人であり、昭和四一年二月一一日設立され、当時は学校法人本州大学と称し、本州大学を設置していたが、昭和四九年四日一日、その名称を学校法人長野学園と変更し、その設置する大学の名称も長野大学と変えて今日に至っている。

2  申請人前野良は、昭和四一年、被申請人に本州大学経済学部の教授として採用され、政治学、国際関係論等の講座を担当してきた。また、昭和四三年四月から昭和四七年一〇月までは経済学部長の職にあった。

3  申請人中村丈夫は、昭和四四年四月、被申請人に同大学経済学部講師として採用され、昭和四五年四月同大学同学部教授となり、経済政策、中小企業論等の講座を担当してきた。

二  処分の存在

被申請人代表者理事藤巻幸造は、申請人両名に対し、昭和五四年四月一六日付書面により、就業規則第一九条第一号により解雇する旨の意思表示をなし、右は申請人両名に同月一九日到達した。

三  処分の無効性

1  本件解雇に至る経緯

(一) 被申請人は、設立後、財政危機に陥り、その再建が論議され、最終的には文部省等の指導の下に、経済学部の施設、図書、教職員等をすべて継承する形で産業社会学部を新設するとの案が採用された。

(二) 他方、このころ教職員の給与体系等をめぐり労使紛争が発生し、昭和四七年六月一四日、本州大学教職員組合より長野県地方労働委員会(以下地労委と略称する)に不当労働行為救済の申立がなされ、地労委により和解折衝が試みられた結果、昭和四八年七月一〇日、新たな給与体系の実施、不当労働行為を行わないこと、大学再建にともないいかなる学部学科の改組が行われる場合でも専任教職員たる組合員の身分は保障する旨の和解協定が成立した。

(三) また、昭和四八年六月二〇日の経済学部教授会において、<1>最終的には経済学部の専任教員全員が産業社会学部に移行する、<2>各人の条件を考慮して産業社会学部へは順次移行する、<3>経済学部廃止の時点において残留の専任教員の産業社会学部への移行については教授会として責任をもって実施する旨の決定がなされた。

(四) 昭和四九年四月産業社会学部が正式に発足し、経済学部は在校生の修業完了とともに廃部されることになった。経済学部の学生募集は昭和四八年四月以降停止されていたので、両学部の併存状態が昭和四九・五〇両学年度続くことになり、この間、当初からの経済学部教授会は改組され、新たに経済学部及び産業社会学部の各専任教員により構成される長野大学教授会が設けられ、右教授会の下に経済学部部会、産業社会学部部会が設けられ、両学部の人事等の決定は長野大学教授会が行うこととなった。

(五) 昭和五一年三月二五日、長野大学教授会に提出された昭和五一年度産業社会学部カリキュラム案から申請人両名の予定されていた講座が外されており、教授会は紛糾し、結論を得るに至らなかった。当時の産業社会学部部会責任者関戸嘉光教授は「両名は産業社会学部への移行、講座担当の意思なきものと推察した」旨の提案説明をしたが、申請人両名は、経済学部部会責任者森直弘教授を通じて、当時の土屋敦博学長代行に、産業社会学部への移行と講座担当の意思あることを明確に表示していたのであって、右関戸教授の説明は事実に反する。それのみか、右措置は当初から申請人両名をカリキュラムから排除しようとする大学当局の意図に基づくものであった。

産業社会学部新設に当って、文部省に届出、認可を得た昭和五一年度カリキュラムでは、申請人前野においては、一般教養の政治学、教職課程の政治学、専門課程の現代政治学を、申請人中村においては経済政策を担当することになっていた。しかしその後、申請人両名の意向を無視し、又、教授会の十分な議論を経ずに、わざわざ外部より非常勤講師として津田道夫氏を招き、現代政治学を現代政治論と変更したうえで講座を担当させ、経済政策については社会政策担当の天野勝行講師に当らせるという措置がとられた。このようにして、申請人両名の講座が不当に奪われるという事態が発生したのである。

前記昭和五一年三月二五日の長野大学教授会以降も申請人両名は経済学部教授の地位にあったのであるが、右教授会はその後今日に至るまで一度も開催されていない。この間大学の学内行政については、事実上産業社会学部教授会の名において行われており、申請人両名は、教学及び学内行政から排除されている。

以上のような経過の中で、申請人両名は、大学当局の良識を信じ、大学当局に対し、文書及び口頭をもって、不当な措置の撤回を再三再四求めて来た。これに対し、学長及び理事長は申請人両名の主張を理解するが如き態度を示しながらも、学長は理事会に、理事長は教授会にそれぞれ責任を転嫁するというありさまであった。申請人両名は、この間研究活動を休むことなく継続しながら不当な措置の撤回を求め、意を尽して大学当局とねばり強く交渉してきた。

(六) ところが、昭和五二年三月二日、理事会決定による退職勧告が申請人両名に対してなされ、更に同年五月二二日、同年三月三一日にさかのぼって申請人両名の経済学部勤務を解く旨の辞令が交付されるとともに、事務連絡として、申請人両名の長野大学教員たる身分は保障する旨の意思表示が被申請人によってなされた。

(七) 以上のような度重なる不当な措置に対し、申請人両名はやむをえず弁護士を代理人として被申請人と何回となく不当な措置の根拠を示しながら折衝したが、被申請人はこれを一切無視して何ら答えず、事態は一向に進展しなかった。申請人両名の身分問題は、国会の文教委員や文部省でも問題にされ昭和五四年五月、関係者により、この問題を解決するための小委員会が設けられ、同年五月二二日には両当事者に和解案を示すまでになった。

(八) かかる状態の中、昭和五四年四月ころ、申請人両名を含む数名の教員に対して、賃金差別があることが発覚したが、長野大学教員組合は何らの手段をも講ぜず、労働組合の機能を果さなかった。そこで賃金差別を受けている者が、昭和五四年六月七日、長野大学労働組合を結成し、申請人前野は副執行委員長に、申請人中村は書記長にそれぞれ就任した。右組合は賃金差別の撤廃を求めて同年六月九日付、同月一五日付、同月二〇日付、同年七月三日付で団体交渉の申し入れをなしたが、被申請人は正当な理由を示さず団体交渉の申し入れを拒否した。そこで弁護士である代理人が同年七月一三日付で団体交渉の申し入れをなしたところ、申請人両名に対する解雇通知が同月一六日付の書面でなされた。

解雇の事由は就業規則第一九条第一号該当であり、右規則は、「学園は、教職員が次の各号の一に該当するときは、30日前に予告するか、または労働基準法第12条に規定する平均賃金の30日分を支給して解雇する。ただし第4号の場合はこの限りでない。(1)講座または教科目の廃止および業務組織の変更または縮少、その他経営上やむを得ない事由のあるとき。((2)以下は省略)」と定める。

2  解雇無効の理由

(一) 本件解雇は大学教授の身分保障法理に反するものであり無効である。

(1) 学問の自由は、憲法により保障されている基本的人権の一つであり、大学の自治はその中核をなすものである。又教育基本法のみならず、教育公務員特例法等すべての教育関係法規に示される法理は、私立学校に対しても適用ないし準用されるべきものであって、大学教授の身分保障は、右憲法以下の諸法規によって客観的に要請されているところであり、使用者の恣意に委ねられるたぐいのものではない。この大学教授の身分保障は、戦後の民主憲法下では、国公立、私立を問わず妥当してきた基本原理なのである。なお、一九六六年(昭和四一年)ILO及びユネスコ協同で作成され、教員の地位に関する特別政府間会議で採択された「教員の地位に関する勧告」第四五条は「教職における雇用の安定及び身分の保障は、教育及び教員の利益に欠くことができないものであり、学制又は学校内の組織の変更があった場合にも保護されるものとする」と規定しており、教員の身分保障は、今や国際的な常識である。

(2) したがって、大学教授の解雇については、以上のような法理からして、単に学内組織の変更があること、あるいは経営上の理由などは解雇理由足りえない。さらにまた、大学内の人事、教学については、教授会の意思決定が必要不可欠であり、単に理事会のみが決定しただけでは大学教授を解雇することはできない。大学教授を解雇するには、教授会の決定が必要不可欠である(教育公務員法第六条参照)のみならず、本人の弁明の機会を与える等の適正な手続保障を必要とする本件解雇については、右手続が全くとられておらず、また申請人両名に対し、事前の通知すらなされていないものであって、これは前代未聞の不当解雇である。

(二) 本件解雇は、就業規則第一九条第一号に該当せず無効である。

(1) 本件解雇通知のなされた昭和五四年七月一九日当時同号にいう講座または教科目の廃止等は一切なされていない。

(2) これをもし経済学部の廃止をさすというのであれば前記のとおり経済学部の廃止はそれ自体が孤立してなされたものではなく、経済学部の施設、図書、教職員を新設の産業社会学部に全面的に受け継がせる、すなわち、産業社会学部は経済学部の継承発展であるという前提のもとに廃部の方針がとられたものに他ならず同号の想定する「業務組織」の変更に該当しない。なお、念のため申し添えるならば、文部省においては、申請人両名の地位にかんがみ、被申請人からの経済学部廃部の申請については、受理されていない。

(3) 申請人両名の担当講座が、産業社会学部において客観的に不要となったものでもない。

(4) 同条は、「経営上やむを得ない事由のあること」と規定するが、被申請人にとって、申請人両名を解雇しなければならない経営上の理由は全く存在しない。

(5) 昭和五四年七月に至って突如としてなされた本件解雇は、従来の被申請人の「申請人両名の長野大学教員たる身分は保障する」旨の言明に反するものであり、なおまた、前記昭和四八年七月一〇日の地労委斡旋による「いかなる学部、学科の改組が行われる場合でも専任教職員の身分を保障する」旨の和解条項、並びに同年六月二〇日の「経済学部廃止の時点において、残留の専任教員の産業社会学部への移行は、教授会として責任をもって実現する」旨の経済学部教授会決定に表明されている学内合意にも反する無効なものである。

(三) 本件解雇は不当労働行為である。

前記1(八)記載のとおり申請人両名を含む数名の教員に対し差別賃金が支払われていることが発覚したので申請人らは昭和五四年六月七日長野大学労働組合を結成したが、理事会による本件解雇の決定は、被申請人に対する右組合の組合結成通知後であり、また、解雇通知は、前後五回に及ぶ団体交渉申入中であった。申請人らの長野大学労働組合結成が本件解雇の直接の理由となっていることは明白であり、本件解雇は不当解雇(労働組合法第七条第一号違反)である。

四  賃金

本件解雇当時、毎月二五日限り、申請人前野は一ケ月金二九万一五二八円を、申請人中村は一ケ月金三二万三六一円の賃金をそれぞれ得ていたが、被申請人は、本件解雇を理由に解雇以後の賃金を支払わない。

五  保全の必要性

1  賃金仮払の必要性

申請人両名は、大学教授としてそれぞれの専門分野の学問研究に没頭してきた。そして、被申請人からの賃金によりその生活を支えていたものであって、世にあまた存在するマスコミ好みの学者とは全く異り他に収入源がある訳ではない。被申請人からの賃金を奪われ、その生活は窮迫状態に陥った。

2  学園内立入り、及び研究室使用妨害禁止の仮処分の必要性

(一) 大学教授の地位にある者は、その地位に基づき、学内に立入る権利、さらに自己の研究室を使用して学問研究する権利を有していることは言うまでもないことである。

(二) ところが、被申請人は、申請人両名が一〇年以上にわたって、それぞれ学問研究の場として継続的に使用してきた個人研究室の使用を禁止し、あまつさえ学内立入りさえ禁止した。

(三) 大学教授の学問研究は、特定のテーマを長年にわたり継続的に追究していくものであり、本案判決確定まで個人研究室の使用を妨げられることになれば、現に進行中の研究は中断を余儀なくされ、回復不可能な多大の損害を被り、学者としての生命を事実上断たれてしまうことになるのである。

六  申請人両名は被申請人との間の雇傭契約関係についてその存在確認を求める本案訴訟を提起すべく準備中であるが、右のとおり、本案判決の確定を待っていては回復不可能な損害を蒙るので、本申請におよぶ。

第三答弁及び被申請人の主張

一  申請の理由一項及び二項は認める。但し一項2の申請人前野についても、当初は講師として採用した。三項1のうち(一)は否認する。(二)は認める。(三)は、昭和四八年六月二〇日に経済学部教授会が開催されたことは認め、その余は否認する。(四)は、昭和四九年四月産業社会学部が発足し、経済学部は在校生の修業完了とともに廃部されることになったこと、経済学部の学生募集は昭和四八年四月以降停止されていたこと、両学部の併存状態が、昭和四九・五〇両学年度続くことになったことは認め、その余は否認する。(五)は昭和五一年三月二五日に教授会が開催されたこと、昭和五一年度産業社会学部カリキュラム案から申請人両名の講座が外されたこと、関戸教授の発言の点、昭和五一年度から非常勤講師津田道夫が現代政治論を担当したこと、社会政策を担当していた天野勝行講師が経済政策をも担当したこと、申請人両名が何度か口頭或は文書により申入れをなしこれにつき学長及び理事長が申請人両名と話合を続けたことは認め、その余の事実は否認する。(六)は退職勧告及び辞令の点は認め、その余は否認する。事務連絡は「学校法人長野学園における教員たる身分については変りがありません」というものである。(七)は弁護士から文書申入れがあったこと、代議士その他の関係者が私的に小委員会の名のもとに斡旋を行ったことは認め、国会文教委員及び文部省で問題にされたことは不知、その余の事実は否認する。弁護士には文書で回答した。(八)は申請人両名らが昭和五四年六月七日長野大学労働組合を結成したこと、申請人両名の同組合における役職及びその主張の文書申入、解雇通知、就業規則の条項は認め、その余の事実は否認する。三項2は争う。四項は賃金が毎月二五日払であること、解雇により申請人両名に賃金を支払っていないことは認め、賃金額の点は否認する。申請人前野の賃金は本給のみで月額二八万五〇〇〇円、申請人中村の賃金は本給月額三〇万八〇〇円、扶養手当二七〇〇円、合計三〇万三五〇〇円である。五項は争う。但し、五項2(二)のうち被申請人が申請人両名に対し研究室の使用を禁止していること、許可なく学園に立入ることを禁止していることは認める。

二  本件解雇の理由

1  本州大学再建問題

(一) 被申請人は昭和四一年四月に学校法人本州大学として設立されたものであるが、発足当初から学生募集難であり、これがため財政難に陥り、昭和四七年度には学生数も定員の三分の一程度であり、同年九月には負債七億円余という甚しい財政難で資金調達の目処もつかず、廃校の線が濃いなどと報道される状況にあった。

このように経済学部は衰退の一途をたどり、経営は極度に逼迫したため、理事会は、昭和四七年九月、併設していた女子短期大学の分離譲渡、大学用地の一部売却により債務の弁済をし、昭和四八年度の学生募集は停止し、更に抜本的な再建策を樹立することを決定した。これに先だつ同年六月ころ、教授会は再建計画について学生、教職員との協議決定を要求し、理事会が決定することに反対する声明を公表し、更に、当時経済学部長であった申請人前野及び申請人中村らが市民参加の本州大学を守る会の発足に出席したことなどがあったが、右理事会の再建対策が決定されるや、学生の一部が反対してハンスト等の実力行使を行い、教授会においても申請人ら一部教授が中心となってこれら学生の実力行動に呼応し、「教授会としては学生の権利を守るためあらゆる行動の準備を行う」等反対行動の提案をするなど騒然たる事態となった。

かような経過のうち昭和四七年一一月九日、教授会は、申請人前野が教授会内の再建委員会の委員長となってすすめた東京経済大学との提携によって経済学部の存続を図るという再建案について審議し、この案を廃案として白紙撤回し、再建を理事会に一任することを決議した。この結果申請人前野はこの案が廃案となった責任等から経済学部長を辞任した。

右決議により、申請人両名は、以後はこの教授会決定に従って行動すべきであったのに、これに反する言動を重ねたのである。

(二) 右の教授会の一任決議により、再建は理事会がすすめる運びとなり、理事会は、同年一一月二二日、再建構想を決定し、同月二六日、これに基づき藤巻幸造を委員長とする再建委員会が発足するに至った。

再建委員会は、昭和四八年六月五日、その再建案を教授会に諮り、教授会においてもこれを了承可決した。

これによって、教授会としても、今次の再建案を了承し、その実施に協力することが決められたのであるが、申請人両名は、なお、これに反対し、移行反対の行動を行ったのである。

即ち、再建案の実施として、文部省に対して新学部(産業社会学部)の設置認可申請の手続を行うこととなりその教員組織編成のため同年六月の時点で所定数の教員の移行承諾を得ることが必要であった。

この承諾は、二年、三年さきになってから移行するか否かを決めるということではなく、まさにこの時点で移行承諾をする必要があったのである。そして、もし所定数の承諾が得られなければ、新学部の設立そのものが挫折し、断念せざるを得なくなるというものであった。

然るに、申請人両名は、この決定に反して「経済学部が廃止となったらその時点で移行するか否かを決める」(申請人前野)とか、「就任承諾書をいま提出してしまえば向う四年間拘束されることになり、他大学への転出などできなくなる」(申請人中村)などといって移行承諾を拒否したばかりでなく、他の専任教員に対して移行承諾しないよう働きかけたのである。この申請人両名の行動は産業社会学部への移行を承諾した教員からは強い反感と不信感をもたれた。

また、昭和四八年六月、専門課程担当の専任教員のなかから、産業社会学部に移行する者を決めた際、申請人両名は、教授会におけるこの選考に当って、積極的に伊藤、嶋田、菅沼の三教員を推しながら、直ちに、この教授会の内容を学生に伝え、三教員が学生から「背反行為者」といわれて非難攻撃を受ける事態を招来し、これがため教授会において三教員の名誉を守るため声明文を作成表明し、また学生自治会の追及集会に菅沼教員が出席して経過を弁明するという事態も惹起させた。

(三) 再建委員会は同年六月六日再建案を理事会に答申し、理事会は、この答申に基づき、同月二五日、大学の名称を長野大学と改め、昭和四九年四月(昭和四九年度)より新たに産業社会学部を設置発足させ、現存の経済学部については、昭和四八年度の学生募集を停止していたがそのまま募集を打ち切り、最終入学の昭和四七年度入学生の卒業する昭和五一年三月(昭和五〇年度末)をもって廃部するとの再建案を決定した。

2  産業社会学部の発足

(一) 昭和四九年四月より産業社会学部が発足し、経済学部と併存することになったが、その際、教授会の構成について論議され、昭和四九年五月一六日の会議で一教授会(長野大学教授会)二部会(経済学部と産業社会学部)制が採用され、それぞれの学部に関することは各部会が決定処理するということが決定された。そして、各部会において責任者を置いて運営することとなり産業社会学部においては関戸嘉光教授、経済学部においては森直弘教授が選任された。

これにより二学部併存時の各学部の人事、学生の単位認定、卒業判定等はすべて、それぞれの部会において決定処理されることとなったのである。

(二) 昭和五一年三月二五日、学年進行による経済学部の廃部を控え、長野大学教授会、産業社会学部会が開催され昭和五一年度の産業社会学部のカリキュラム案が審議決定された。その経過は次のとおりである。

(1) 産業社会学部会

まず、産業社会学部会が開かれた。そこで、昭和五一年度カリキュラム案が審議されたが、当時経済学部に所属していた専任教授九名のうち六名については産業社会学部への移籍が認められカリキュラムに入れられたが、申請人両名を含む三名についてはカリキュラムには入れられず産業社会学部への移籍は認められなかった。

これにより、申請人両名の産業社会学部への受入は拒否されたのである。

(2) 長野大学教授会

ついで開かれた教授会にこのカリキュラム案がかけられ、経済学部責任者森直弘その他から、申請人両名がはずれているとの理由説明が求められ、産業社会学部責任者関戸嘉光から両教授は産業社会学部への移行意思なきものと推察した旨の答弁があり、これに対して経済学部責任者から単なる推察では話しにならぬなどの反論が出されるなど論議がかわされた結果、その場で申請人両名の意思を問うこととなった。

そして、申請人両名から、その意思があるとの言明があったので、教授会を一時中断して、産業社会学部会として改めて再検討することとなった。

(3) 再度の産業社会学部会

産業社会学部において再検討した結果、無記名投票により採決することとなり、賛成二〇、反対一、白票二で原案どおり可決された。

(4) 再開教授会

ついで教授会が再開され、再び審議が行われたが、結局、経済学部責任者より同学部の意向を十分考慮に入れて再々考されたい旨の要望があり、教授会の結論として産業社会学部に一任することが確認され、産業社会学部の決定をもって教授会の決定とすることが決められ教授会は閉会した。

(5) 再々開の産業社会学部会

この教授会決定を受けて、直ちに産業社会学部会が開かれたが、学部の意向は変らず、申請人両名を受け入れることについては多くの教員から強い難色が示され、原案どおり可決された。

(三)(1) 昭和五一年四月八日産業社会学部教授会が開催され昭和五一年度カリキュラムと授業時間割が審議されたが、カリキュラムについては「異常児童心理」を当該年度休講としたほかは前回決定のとおり決められている。

このため申請人両名らの担当講座はなくなった。

(2) その後、昭和五二年度から昭和五四年度まで毎年産業社会学部教授会において各年度のカリキュラムが審議決定されてきているが、申請人両名に対する産業社会学部教授会の態度は変らず、申請人両名の受入、講座担当は認められていない。

(四) なお、経済学部は前述のように昭和五一年三月をもって廃部となる予定であったが、偶々、留年学生四名が生じたため、経済学部の廃部は一年延長され、留年学生の残存講議については産業社会学部で行うこととなった(残存学課が産業社会学部にあったため)。留年学生四名は、その後いずれも中途退学した(昭和五一年五月に一名、五二年二月に三名が退学)。

3  本件解雇に至る経過

(一) 申請人両名の講座担当については、その後、学長代行、理事などと申請人両名との話合が数回持たれている。

理事会は、昭和五一年九月二一日、対応策について検討したが、学部の教務に関する事項は学部教授会の決定によるべきものであり理事会としては申請人らと教授会との融和を待つ外ないとの結論となり、当面事態の推移を俟つこととなった。

また昭和五一年一二月一〇日にも理事長と申請人中村と話合を持ち円満解決への手掛かりを求めて努力したが事態は進展しなかった。

(二) 昭和五二年一月一四日、理事会は、産業社会学部教授会が申請人両名を受け入れる可能性はなく財政再建のきびしい経営下、講座担当のない人員を置いておく余力はなく、やむなく、経済学部が廃部となる昭和五一年度末(昭和五二年三月)をもって、学園再建のため、申請人両名に退職勧告を行う方針をきめ、土屋学長代行(学長は空席)及び三輪学部長の了解を得たうえ、昭和五二年二月二六日、年度末をもって退職されるよう勧告したが、申請人両名はこれを拒否し、話合解決を要望した。

大学としては、なお、事態円満解決のため申請人両名の自主退職を求め、三月二日文書で退職勧告を行い、また、三月二五日に話合のため学園への登校を求め、申請人両名はこれを了承したが、当日登校せず、これに応じなかった。

そこで、更に三月三一日に、申請人両名に対し、四月六日から九日の間で都合のつく日を連絡するよう求めたが、これにも応じなかった。

その後申請人両名から、学長に対し、学長選挙の件、留年学生の退学認可の件についての説明等の要請があったが、退職勧告の件については、代理人に一任したとして、話合に応じなかった。

大学としては、事態進展のため、七月一九日に再度、申請人両名に対して、話合に応じるよう求めたが、申請人両名は、同様、これに応じなかった。

(三) この間、昭和五二年二月、留年学生四名がいずれも中途退学し(最終者が同年二月退学)、経済学部の学生は皆無となり、同年三月、評議員会の議を経て同年三月三一日をもって経済学部を廃部すること及び寄附行為、学則の変更(経済学部に関する条項の削除)が決定された。

そして、三月三一日経済学部廃部に関する書類を文部省に提出した。

(四) その後、学園として藤波代議士に仲介を依頼したり、嶋崎代議士より解決案が示されたりし、大日方理事も申請人両名と何度か話合をもったが、解決に至らなかった。

理事会は、事態をいつまでも遷延できないことから、昭和五三年度内解決を目標とし、嶋崎代議士に昭和五四年三月末をタイムリミットとして最終決定したい旨伝え、同年三月二二日、理事長、学長、大日方理事が申請人両名と話合をもち、三年余にわたる話合も成立せず、担当講座の回復は不可能であること等事情を説明し、自主退職を勧告したが、申請人両名はこれを拒否した。

その際申請人両名から第三者の仲介を望むとの意向が出され、同年三月二六日には、嶋崎代議士より、申請人前野については、転籍の方向で努力するので、三月三一日の決定は延期されたいとの要請があったので、大学としては、当面年度末決定を留保し、最後の努力として、今一度、第三者の仲介による解決努力をすることとした。

同年五月一八日、理事長、学長、大日方理事が、議院会館で嶋崎、羽田両代議士と面談して仲介を依頼し、嶋崎、藤波、羽田の三代議士と文部省の大崎(当時審議官)の四人が仲介にあたることとなり、大学としては、

<1> 申請人両名の転出期限を定める。転出期限は昭和五四年七月ないし最大限昭和五五年三月とすること。

<2> 申請人両名は講座担当なしとし、教授会にも出席しないこと。

<3> 転籍努力は本人及び小委員会が行うこと。

<4> 大学は転籍に協力し、この転出期限の間申請人両名の身分を保障すること。

の四点を解決条件として提示し、これが了承され、右四名の関係者で小委員会をつくり、学園の条件を入れて仲介案文を作り、大学と協議することが約束された。しかし、右条件に適合する仲介案が作成されなかったので、被申請人は、やむなく、昭和五四年六月一五日、右小委員会の四名に対して仲介の打切りを申し入れ、この小委員会の仲介は不調となった。

(五) 被申請人としては、申請人両名の講座担当がなくなって以来既に三年余を経過し、きびしい大学再建途上において、これ以上事態を遷延することはできず、昭和五四年六月二五日に理事会において検討の結果、前期末に最終的に今一度申請人両名に依願退職を勧告し、申請人両名がこれを了承しないときは、就業規則第一九条第一号により解雇を行うことを決定した。

そこで、同年七月一四日に申請人両名に対し、七月一六日に登校するよう求めたが、申請人両名がこれに応じなかったのでやむなく、七月一七日、本件解雇通知を文書にて行ったものである。

4  大学教授の身分保障との主張について

(一) 申請人両名は、私立学校に対して教育公務員特例法が適用ないし、準用されるべきであると主張しているが、教育公務員特例法は公務員たる身分を有する教員に適用される法規であって、私立学校の教員に適用されるものではなく、また当然に準用されるものでもない。

私立学校については、私立学校法が適用され、その運営は、文部省の認可のもとに制定される、その学校法人の寄附行為及びその附属規定によって運営されることになっている。

被申請人学校法人長野学園においては、「学校法人長野学園寄附行為」及び「長野学園理事会細則」「学校法人長野学園就業規則」がこれにあたる。

(二) 右寄附行為においては「この法人の業務は理事会で決定する」(第一二条)、「……この法人の設置する学校の管理運営に関し必要な事項は理事会が定める」(第四一条)と定め、右理事会細則において、理事会の専決事項として「この法人に勤務する教員の賃金決定に関する事項。人事に関する事項」を定めているので(第三条のト、チ項)、これらは、理事会がその業務執行として決定実施すべきものと決められているのである。

(三) また、申請人両名は、学内組織の変更、学校法人の経営上の理由は解雇理由にならないというが、そうではない。

学校法人は、国、公立学校の経営主体たる国又は地方公共団体とは異り、その経営主体は私法人であるので、その組織変更、経営上の理由によって、その雇用する従業員(教員、一般職員、用務員等は、いずれも従業員であり、その法的関係は雇用関係である)の解雇を要することも生じ得る。

従って、被申請人学校法人長野学園就業規則においても、その第一九条に解雇の条項を定めているのである。

5  就業規則第一九条第一号について

本件解雇は、さきに詳述した経過理由から、右就業規則第一九条第一号に基づき行ったものである。

(一) 申請人両名は、本件経済学部の廃部は右条項に該当しないと主張しているが、これは当らない。

右条項は、その規定する事由により、学園において、当該教職員の職場、職務等その雇用目的にそった労務受領の場或は労務受領の必要(労務提供を受ける必要)のなくなった場合を規定しているものである。教員については、右労務とは職員のような事務処理ではなく、もとより講座の担当である。

経済学部の廃部は、業務組織の変更であるとともにこれにより経済学部の講座、教科目の全面廃止が行われている。

そして、産業社会学部の教科目についての講座を担当するためには、大学自治の原則(学校教育法第五九条参照)から、産業社会学部教授会によって講座担当を認められ、これを割り当てられること即ちカリキュラムに編入決定されることが必要不可欠の前提である。

然るに申請人両名は、産業社会学部教授会によってこれを認められなかったのである。

長野大学は、経済学部の廃部により産業社会学部のみの単学部大学であり、産業社会学部以外に、学部はなく講座も教科目もない。また財政再建途上の学園において講座担当のない教員を置ける余地、状況にもないという経営上やむを得ない事由下にもある。

申請人両名については、その雇用目的にそった労務受領の場もなく、その労務受領の必要(労務提供を受ける必要)もなくなっているのである。

従って、本件解雇はもとより右就業規則第一九条第一号に該当する。

(二) また、申請人両名は、学園が昭和五二年五月に経済学部勤務を解く旨の辞令を交付した際、申請人両名に事務連絡として「申請人両名の長野大学教員たる身分は保障する」旨の意思表示をしたと主張し、本件解雇は、この言明に反するものというが、そのような事実はない。

申請人両名のいう事務連絡とは、申請人両名に対する辞令にそれぞれ添付した「事務連絡」書のことで、それには、「学校法人長野学園における教員たる身分については変りがありません」と記載しているのであって、申請人両名の主張は、これを歪曲したもので事実に反する。これは、当時、自主退職を求めて退職勧告をしていたので、経済学部勤務を解くことが即解雇通知ではないことを説明したものなのである。

そのほか、申請人両名は、本件解雇は地労委あっ旋による和解協定に反するというが、右協定条項が昭和五一年七月九日をもって解除され失効している。

6  不当労働行為の主張について

申請人両名は、本件解雇は、申請人両名らが長野大学労働組合を結成したが故になされたものであって、不当労働行為であると主張しているがそうではない。本件解雇は申請人両名らの組合結成とは、関係のないものであって、何ら不当労働行為となるものではない。

学園が申請人両名に学園を退職してもらうとの方針を決めたのは、昭和五二年一月一四日の理事会においてでありそして学園としては事態を円満に解決するため、まず退職勧告を行い、申請人両名に対する説得、話合を続け、第三者の仲介も依頼して努力を重ね、昭和五四年二月には年度内解決の目標を決め同年三月末までに話合解決に至らないときは三月末日をもって解雇することを決め、嶋崎代議士にこの旨も伝えたが、同代議士の強い要請でこれを留保とし、今一度仲介による解決努力を重ねたが、これも不調に帰し、本件解雇の発令に至ったという二年半の経過によるものであり、申請人両名の解雇は、この昭和五二年以来の懸案であって申請人両名らの組合結成とは何ら関係がない。

7  本件解雇は適法有効である

以上詳述したとおり、本件解雇は、適法、有効であり、本件仮処分命令申請は、いずれも被保全権利を欠き、却下さるべきものである。

8  研究室等について

(一) 申請人両名は、大学教授の地位にある者は、その地位に基づき当然学内立入権、研究室使用権を有していることは言うまでもないというが、そうではない。

学内立入は、法的にみて一般従業員の構内立入りと同じであり、労務受領の場への立入にすぎず独自の権利ではなく、また研究室使用は、被申請人が一の便宜供与として無償使用を認めているにすぎず、大学に対して排他的使用権を有するものではない。

(二) 更に、申請人両名は、この研究室が申請人両名の研究生活の中枢でこれを継続使用しなければ、進行中の研究の中断を余儀なくされ回復不能の損害を蒙ると主張しているが事実に反する。

現に、申請人両名が在職中の昭和五一年一月ないし昭和五四年七月までについてみても、申請人両名はいずれも東京都に居住していて、来校するのは月に数日にすぎず、一般に学者が研究に没頭集中される夏休(八月)には一日も来校せず、この三年半をみても寧ろ研究室は殆ど使用されていない状況にあった。

しかも、その研究室の状況は、殊に申請人中村の研究室は外人女優の写真を貼付するなどおよそ大学教授の研究室といえる状態でもない。

(三) 以上のとおり申請人両名の学内立入、研究室使用についての申請は被保全権利を欠くものである。また、この申請は、その内容において、いわゆる断行の仮処分を求めるもので、緊急、かつ回復不能の損害を要件とするものであるが、本申請は、およそ保全の必要性を欠くものであり、いずれよりみても却下さるべきものである。

理由

一  処分の存在

申請人両名が被申請人に経済学部教授として雇傭されていたこと、申請人前野は政治学、国際関係論等の講座を担当してきたこと、申請人中村は経済政策、中小企業論等の講座を担当してきたこと、被申請人代表者理事藤巻幸造は、申請人両名に対し、昭和五四年四月一六日付書面をもって、被申請人就業規則第一九条第一号の規定により解雇する旨の意思表示をなし、右は、同月一九日、申請人両名に到達したこと、右規則第一九条は「学園は教職員が次の各号に該当するときは、30日前に予告するか、または労働基準法第12条に規定する平均賃金の30日分を支給して解雇する。ただし第4号の場合はこの限りでない。(1)講座または教科目の廃止および業務組織の変更または縮少、その他経営上やむを得ない事由のあるとき。((2)以下は省略)」と定めていることは当事者間に争いがない。

二  本件解雇の適否

そこで本件解雇の適否について検討する。申請人両名は解雇手続の瑕疵をも主張するが、この点はしぼらく置き、まず、申請人両名に解雇事由となった被申請人就業規則第一九条第一号に該当する事由があるか否かについてみる。

同条項は講座等の廃止、業務組織の変更縮少、及びその他経営上やむを得ない事由のある場合を掲げるので、順次検討することとし、まず講座等の廃止について検討する。

当事者双方の提出した疎明資料によれば、被申請人は、昭和四一年設立され、経済学部単科の大学及び女子短期大学を設置していたが、設立当初から過大な負債を抱えていたうえ、学生数が定員に充たず、昭和四七年には定員の三分の一程度であり負債総額が七億円を超え(自己資本に対する借入資本の割合は約七〇〇パーセント、総資産に対する総負債の割合は約一〇〇%)、廃校が問題とされる状況となったこと、そこで被申請人は女子短期大学部門を他に譲渡し、所有資産を売却処分し、再建委員会を組織して、昭和四八年六月二五日、経済学部を学年進行により廃止し、昭和四九年四月より産業社会学部を設置するとの改革案を決定したこと、産業社会学部の設置は昭和四九年一月一〇日文部省より認可されたが、その際、経済学部を学年進行により廃止することが義務づけられたこと、これにより産業社会学部は同年四月より設置され、他方、経済学部は既に昭和四八年四月から学生募集を停止していたので、昭和五一年三月にはほとんどの学生が卒業し、若干の留年生も昭和五二年二月までに退学したため経済学部の学生は皆無となったこと、産業社会学部は、物的設備については経済学部の設備を継受し、教員については、経済学部の教員であって産業社会学部への配置転換を求め、あるいは承諾したものは、申請人両名を含む若干名を除き、全員が同学部勤務とされたこと、このようにして被申請人の設置する大学は経済学部単科の大学から産業社会学部単科の大学となったこと、なお、このように大学組織が改変されるに当って、昭和四八年六月二〇日の教授会は最終的には教員全員が産業社会学部に移ることを確認し、また、被申請人とその教職員組合との間の不当労働行為救済申立事件における同年七月一〇日成立の和解協定では「被申請人は、大学再建にともない、いかなる学部、学科の改組が行なわれる場合でも、専任教職員たる組合員の身分を保障する」と定めたこと(但しこの和解協定は昭和五一年七月九日解約された)、そして、産業社会部のカリキュラム中には、申請人前野の担当可能な現代政治論、申請人中村の担当可能な経済政策の各講座が含まれており、これらの各講座は理事会が産業社会学部設置を決めた改革案作成当初においては申請人両名に担当させることを予定していたものであることの各事実を一応認めることができる。以上の事実によれば、産業社会学部に申請人両名の担当可能な講座が存在する以上、経済学部の申請人両名の担当講座が存在しなくなったとしても、被申請人就業規則第一九条第一号にいう講座等の廃止には該らないといわなければならない。

また、右事実について鑑みるときは業務組織の変更縮少との理由で解雇しうるともなしがたいので、次に、その他経営上やむを得ない事由があるか否かについて検討する。

当事者双方の提出した疎明資料によれば、申請人両名は当初同学部へ移ることを留保していたが、同学部設置後、昭和五〇年九月ころになり同学部勤務を求めるようになったこと、しかし、産業社会学部会、後には同学部教授会において、申請人両名の同学部での講座担当を拒否したため、申請人両名は同学部へ移ることができなくなったこと、被申請人の設置する長野大学は単科大学であるから、申請人両名に担当させうる講座は産業社会学部以外にはなく、財政再建途上にあることから、講座担当のない教員を置ける余裕はほとんどないことの各事実を一応認めることができ、以上の事情は経営上やむを得ない事由に該当するかのようではある。しかしながら、前記のように、被申請人は、経済学部を廃止してその代りに産業社会学部を新設したもので、経済学部における講座が廃止されても産業社会学部において担当可能な講座があるときは講座の廃止とはいえないと認めうる事情があり、このような場合、単に産業社会学部において申請人両名の講座担当を拒否しているとの事情によっては、解雇をやむえないとする事由とはなしがたく、講座担当を拒否するについて合理的な理由が必要であると考えられる。そこで右拒否に合理的理由があるかについて検討するが、被申請人提出の疎明資料によれば、拒否の理由は被申請人の財政再建に関し申請人両名がなした諸々の反対行動に基づく不信感であると一応認めうる。

そこで更にいかなる反対行動がなされたかについてみるに、当事者双方の提出した疎明資料によれば、申請人両名は、昭和四七年、被申請人の経済的破綻から、その設置する大学の廃校が報道されたころ、学外における団体の集会に出席して事情説明をしたり理事会に対する批判的発言をしたことがあること、また同年九月に一部学生が被申請人理事会の女子短期大学譲渡学生募集停止などの決定に反対して大学事務室を封鎖したりハンストを始めたころ、時を同じくして理事会決定に反対をしたこと、また教授会は同年一一月九日財政再建を理事会に一任することを決議したが、その後も申請人両名は理事会による財政再建に反対する立場をとったこと、理事会は同年一一月二二日大学存続を前提とする再建構想を発表し、再建委員会を組織して財政再建案を検討させ、その答申に基づき、昭和四八年六月二五日経済学部を学年進行により廃止し、産業社会学部を設置するとの大学改革案(本州大学再建策)を決定したが、申請人両名は右改革案が教授会に諮問されたときにはこれに反対し、右改革案実施を目的とする文部省に対する新学部設置認可申請のため、新学部への移行を求められた際、これを留保し、他の教員にも同一歩調をとるよう働きかけたこと、更に、右認可申請のため経済学部専門課程の教員三名が産業社会学部へ移ることとなったときこれを一部学生が学生に対する背反行為として非難した際、申請人両名は一方で右三名の移行をすすめておきながら右学生らに好意的立場をとったことの各事実を一応認めることができる。しかし、右以上に、申請人両名が背信的行為をなしたとか、被申請人の財政再建や産業社会学部新設を妨害したとか、一部学生と通謀して大学を混乱に陥し入れたというような事実を疎明するに足りる資料はない。

産業社会学部所属の一部教員において、申請人両名に対し、相当強度の不信感を抱いていることが窺われるけれども、これを合理的と認めるに足りる資料はなく、右の程度の疎明された事実をもってしては、申請人両名の産業社会学部における講座担当を拒否する合理的理由とは認められないというべきである。

そうすると、結局、産業社会学部教授会による申請人両名の講座担当拒否をもって被申請人就業規則第一九条第一号にいう経営上やむを得ない事由とはなしがたい。

以上によれば、本件解雇は被申請人就業規則に規定する解雇事由に該当しないにもかかわらずなされたものであって、その余の点について判断を加えるまでもなく、本件解雇は無効といわなければならない。

従って、申請人両名と被申請人との間の雇傭関係は昭和五四年七月一九日以降においても存続し、申請人両名は雇傭契約上の地位を有すること、そして、右地位に附随して研究目的で被申請人設置の長野大学内に立入り、かっ、申請人両名に割り当てられた個人研究室を使用しうる地位にあることが一応認められる。

三  申請人両名の月額平均賃金等

申請人両名提出の疎明資料によれば、本件解雇当時、申請人前野は月額二九万一五二八円の、申請人中村は月額三二万〇三六一円の各平均賃金を得ていたことを一応認めることができ、賃金支払日が毎月二五日であること、申請人両名に本件解雇以後の賃金は支払われていないことは当事者間に争いがない。

また、申請人両名が被申請人により長野大学内への立入り及び研究室の使用をいずれも禁止されていることも当事者間に争いがない。

四  保全の必要性

申請人両名提出の疎明資料によれば、申請人両名は、被申請人から支給される賃金をほとんど唯一の生計の糧とする者であって、被申請人から雇傭契約上の地位を否定され、大学内への立入を禁止され、賃金が支払われないことにより、研究活動に支障を来たし、生活が困窮し、本案判決の確定をまっていては回復できない損害を蒙るおそれがあることを一応認めることができる。

五  結論

よって本件各申請を理由あるものと認め、申請費用については民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 松本哲泓)

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