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長野地方裁判所松本支部 平成22年(ワ)344号 判決 2013年11月13日

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

1  被告は,原告に対し,330万円及び内金300万円に対する平成20年8月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

第2事案の概要

1  事案の要旨

本件は,a刑務所(以下「本件刑務所」という。)在監中に肺結核を発病した原告が,原告の肺結核は収容者の中の肺結核患者(以下「本件患者」という。)から感染したものであり,刑務所職員らは,本件患者の隔離等の結核感染防止措置を怠ったと主張して,国家賠償法1条1項に基づき,慰謝料等330万円及び内金300万円に対する遅延損害金の支払を求める事案である。

2  前提事実(証拠を掲記した以外の事実は当事者間に争いがない。)

(1)  原告は,平成18年7月10日,刑事被告人として被告の設置する本件刑務所に入所し,平成20年8月13日にb拘置所に移管されるまでの間,継続して同刑務所に在監していた者である。

(2)  原告の在監状況

原告は,前記在監期間中,以下のとおり,同刑務所内の各居房に収容されていた。(証拠<省略>)

ア 平成18年7月10日(入所日)から平成19年8月29日まで 拘置場階上第c室(以下「階上c室」などという。)

イ 同日から同年12月12日まで 階上d室

ウ 同日から平成20年4月18日まで 階上e室

エ 同日から同年7月8日まで 拘置場階上第f室(以下「階上f室」などという。)

オ 同日から同月10日まで g区第h室

カ 同日から同月25日まで i棟(病棟)第j室

キ 同日から同年8月13日まで 階上f室

(3)  原告の検査等の経過

ア 原告は,平成19年6月15日,定期健康診断を受診したが,異常所見は指摘されなかった。

イ 原告は,平成20年5月30日に実施された定期健康診断における胸部X線検査の結果,肺結核の疑いが認められた。

ウ 原告は,同年7月25日,血液検査及びCT検査の結果から,k病院呼吸器内科医師により,肺結核の診断を受けた。

(4)  本件患者の在監状況及び検査経過等

ア 本件患者は,平成19年4月26日,刑事被告人として本件刑務所に入所したが,同年6月15日に実施された定期健康診断(胸部X線検査)により肺結核の疑いが認められ,その後,ツベルクリン検査,喀痰検査(PCR法)で陽性と判定された。(証拠<省略>)

イ 本件患者に対する勾留は,同年7月13日に執行停止され,同人は,同日から同年10月15日まで,肺結核の治療のため,k病院に入院した。(証拠<省略>)

ウ 本件患者は,同日,勾留執行停止期間の満了により,本件刑務所に再入所し,当時原告が収容されていた階上d室の隣室である階上e室に収容され,判決の宣告(刑の執行猶予)により出所した同年11月14日までの間,同室に収容されていた。(証拠<省略>)

3  争点及び当事者の主張

(1)  本件刑務所内における感染の有無

(原告の主張)

以下の事情からすれば,原告が発病した肺結核は,平成19年10月15日から同年11月14日までの本件患者が階上e室に収容されていた期間に,本件患者から感染したものである。

ア 肺結核は,初感染の場合,感染後5か月ないし12か月の発病が最も多く,感染後1年程度後の発病が次いで多いとされている。

そして,原告は,平成18年7月10日から平成20年8月13日までの間,裁判所に出頭するときを除き,継続して本件刑務所に収容されていたところ,平成19年6月15日の定期健康診断では何ら異常所見がなかったにもかかわらず,平成20年5月30日の定期健康診断の時点では肺結核に罹患していたのであるから,原告は,本件刑務所内で肺結核に感染したと推認される。

また,原告の①平成20年7月8日及び同月25日撮影の各X線画像(証拠<省略>)には,右上肺野に淡い浸潤影があり,石灰化,肺リンパ節腫大,胸水及び肺気腫は認められないこと,②同月8日撮影の各CT画像(CT10mm厚スライスImage9-12及びCT1.25mm厚スライスImage73-95)(証拠<省略>)には,右上肺野に浸潤影があり周囲は境界不明瞭であり,空洞,石灰化,胸水及び肺内リンパ節の腫大が認められないことからすれば,少なくとも古い病変による再発と指摘し得るものではなく,むしろ新しいものであると考えられる。

イ 以下の事情からすれば,本件患者の肺結核は,平成19年10月15日以降も治癒しておらず,第三者に感染させ得る状態であったことが明らかである。

(ア) 本件患者が階上e室に収容されている間,同人に対する食事の配膳は,衛生係受刑者ではなく職員が代行していた。

(イ) 本件患者は,平成19年10月15日以降も,肺結核の投薬治療を受けており,マスクも着用していた(ただし,同人は房内ではマスクを外したりしていた。)ことからすれば,本件患者には咳等の症状があったことが推認される。

(ウ) 本件患者の咳の症状は消失しておらず,喀痰培養検査による陰性の確認も同年8月20日と同月21日の2回しかなされていないことからすれば,本件患者は,退院時において,感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(以下「感染症法」という。)に基づく結核患者の「退院させなければいけない基準」及び「退院させることができる基準」のいずれも満たさない状態であった。

(被告の主張)

以下の事情からすれば,原告の発病した肺結核は,本件刑務所内で感染したものではない。

ア 肺結核の感染経路は,主として飛沫核感染であるところ,感染・発病したとしても,排菌(体外に菌を排出すること)していない場合には,他者に感染させることはない。

そして,本件患者については,平成19年10月15日に,同年8月20日及び同月21日に採取した喀痰の培養検査の各検査結果が陰性であることが確認されており,医師により一般人と同様の処遇が可能であると判断されるなど,同年10月15日時点で排菌していない状態であり,その後もk病院において受診及び投薬治療が継続されているが,肺結核が再発し排菌が再開した事実もない。また,長野県松本保健所長も,平成19年10月12日,感染症法に基づき,k病院における治療及び検査の結果から,本件患者に感染症の症状がないことを確認した上で,同月13日,本件患者の入院勧告を解除している。

したがって,同日以降に,本件患者が肺結核の感染源となることは医学的にあり得ない。なお,原告が本件刑務所に収容されていた期間に肺結核を発病していた収容者は,原告を除けば本件患者のみである。

イ また,肺結核は,感染しても,ほとんどの場合,免疫によって封じ込められ,一生発病することはない疾病であり,発病する場合でも,感染に引き続き発病する一次結核に至るのはせいぜい5パーセントに過ぎず,成人の肺結核の大部分は,感染した後,数年ないし数十年経過後に発病する二次結核であるとされているから,原告が発病した肺結核が,本件刑務所収容以前の感染による二次結核の可能性も十分考えられる。

(2)  本件刑務所職員が感染防止措置を怠ったか否か(過失・違法性)

(原告の主張)

ア 前記(1)のとおり,本件患者は,平成19年10月15日以降も,肺結核に罹患しており,第三者への感染のおそれがある状態であったから,本件刑務所は,同人を隔離するなどの措置をとるべき職務上の義務があったにもかかわらず,具体的な感染防止措置をとらず,同義務に違反した。

イ また,原告の肺結核は本件患者から感染した蓋然性が極めて高いこと,肺結核の感染力が強いことなどからすれば,原告の肺結核感染は,本件刑務所が感染防止対策を怠った結果であることが容易に推認できるから,本件が刑務所という特別権力関係の下における事案であることも踏まえ,被告が無過失について立証責任を負うべきである。

(被告の主張)

ア 前記(1)のとおり,平成19年10月15日時点で,本件患者は他者に肺結核を感染させる状態ではなかったから,同日以降,本件刑務所職員において,本件患者につき隔離措置等の感染防止措置を採るべき職務上の義務はない。

イ また,本件刑務所職員は,k病院の医師が作成した本件患者に関する診療情報提供書(証拠<省略>)により,本件患者が結核菌を排出しておらず,他者への感染可能性がないことを確認し,医師の専門的知見に基づく判断や長野県松本保健所による入院勧告解除の判断を根拠として,本件患者について通常の受刑者と同様の処遇を行うこととし,同人を隔離せずに階上e室に収容したものである。

したがって,万が一原告の肺結核が,本件刑務所内で本件患者から感染したと認める余地があったとしても,本件刑務所職員が本件患者を隔離しなかった不作為が職務上の法的義務違背となることはない。

(3)  損害

(原告の主張)

ア 慰謝料 300万円

原告は,本件刑務所職員の過失により肺結核に罹患し,肉体的・精神的苦痛を被った。これを金銭に換算すれば,300万円を下回らない。

イ 弁護士費用 30万円

(被告の主張)

争う。

第3当裁判所の判断

1  前提事実,証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(1)  医学的知見

ア 結核の感染及び発病の機序等

(ア) 結核は,結核菌の感染により発病する慢性の感染症であり,その9割以上が肺に病巣を形成する肺結核である。結核の感染経路のほとんどは経気道感染であり,活動性肺結核を有し,排菌している患者の咳,くしゃみ,会話などで生じた結核菌を含む小粒子(飛沫核)を吸入することにより感染するものとされており,患者の使用した食器や衣類,床や壁に付着した痰や塵埃を介しての感染の危険性はないとされている(証拠<省略>)。

(イ) 結核菌の感染の起こりやすさを左右する重要な要因は,①感染源となる患者の病状,②被感染者が吸い込む空気中の菌の濃度,③結核菌を含んだ空気に遭遇する機会の大小であるとされている。そして,上記①については,喀痰塗沫検査が腸性で,咳の回数が多い患者が強力な感染源であるが,その他の菌陽性(塗沫検査陰性であるが培養検査,核酸増幅法等で陽性)の患者は感染源となりにくく,②については,換気の悪い条件下で感染が起こりやすく,③については,感染源との接触が濃いほど飛沫核を吸入する機会が増えて感染の危険性が高まるとされており,家族内感染に関する調査等から,上記のうち,①が最も感染に寄与するものとされている。(証拠<省略>)

(ウ) 結核の感染力は,麻疹やインフルエンザのようなウイルス性呼吸器感染症と比較してはるかに低く,有効な感染を引き起こすためには,ウイルス性感染症の数十倍以上の空気を呼吸することを要するとされている。(証拠<省略>)

(エ) 感染者の10パーセントないし30パーセントが生涯にわたり発病するが,その時期は不定であり,発病例の5割が感染後3か月から2年以内に発病する。

結核菌への初感染の場合,大多数の個体では発病することなく治癒するが,宿主の抵抗力が低下しているときに,大量の結核菌を反復吸入した場合などに,初感染がいったん終息することなく,感染後早期(概ね1年以内)に引き続き結核を発病することがあり,これを初感染(一次)結核(以下「一次結核」という。)という。初感染後,そのまま発病(一次結核)に至るのは,せいぜい5パーセントにすぎないとされる。

他方,初感染巣がいったん沈静化した後,初感染から1年以上が経過した後に,あるいはその数年ないし数十年後に,初感染の際に細胞性免疫により封じ込められていた小病巣が,高齢,過労,疾病,投薬等による免疫能の低下を契機に再燃することで,活動性肺結核を発病することがあり,これを慢性(再燃性,二次)結核(以下「二次結核」という。)といい,成人の肺結核の大半は二次結核であるとされる。

(証拠<省略>)

イ 肺結核の診断及び治療方法

(ア) 肺結核の診断には,胸部X線検査,ツベルクリン反応,結核菌検出等の検査が有効であり,胸部X線検査では,一次結核の場合,浸潤性の,淡い,周辺不鮮明な比較的均一な陰影を呈し,二次結核の場合,好発部位はS1,S2及びS6領域であり,同部位に濃淡のある斑点状陰影又は透亮像(空洞)を伴う浸潤影を呈するが,病理学的変化に応じて多彩な陰影が顕れるとされている。

また,結核菌を検出する検査方法には,喀痰等の材料を検鏡して結核菌を検出する塗沫検査,材料中の結核菌を培養して検出する培養検査,結核菌の核酸を増幅して検出する方法(核酸増幅法)であるPCR法などがある。塗沫検査は,材料中に相当量の菌が存在する場合に菌の検出が可能であり,大量排菌患者において陽性となる。培養検査は,材料中の結核菌を培養して行う方法であり,塗沫検査よりもはるかに少量の菌の検出が可能であって,治療の効果判定には培養検査の陰性化が最も重視されるが,十分な菌量を得るまでに数週間程度が必要である。

(証拠<省略>)

(イ) 肺結核の治療方法としては,「結核医療の基準」(平成21年厚生労働省告示第16号)(証拠<省略>)で定められた抗結核薬のうち,イソニアジド(略称INH又はH。以下「INH」という。),リファンピシン(略称RFP又はR。以下「RFP」という。)の2剤に,エタンブトール(略称EB又はE。以下「EB」という。)又はストレプトマイシンと,使用できる場合にはピラジナミド(略称PZA又はZ。以下「PZA」という。)を加えた3ないし4剤(一定期間経過後はINH及びRFPの2剤又はこれにEBを加えた3剤)を併用する6ないし9か月の化学療法が標準的治療方法とされている。

薬剤耐性のない結核菌の場合には,標準的な化学療法開始後,喀痰中の菌数は急激に低下し,症状も急激に消退するとされており,化学療法の開始後2週間以降は事実上感染症ではなくなると考えてよいとか,患者管理の実用上からは症状発見から治療開始までの間の接触期が問題とされるなどとも指摘されている。

(証拠<省略>)

(2)  入退院基準

厚生労働省が感染症法における結核患者の入退院及び就業制限の取扱いについて定めた「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律における結核患者の入退院及び就業制限の取扱いについて」(平成19年9月7日通知)(証拠<省略>)による,結核患者の入退院の基準は以下のとおりである。(証拠<省略>)

ア 感染症法所定の結核患者に対して入院勧告等をすることができる基準である「まん延を防止するため必要があると認めるとき」(感染症法26条,19条,20条)とは,当該患者が以下の状態にあるときとする。

(ア) 喀痰塗沫検査の結果が陽性であるとき

(イ) 喀痰塗沫検査の結果が陰性であった場合に,喀痰,胃液又は気管支鏡検体を用いた塗沫検査,培養検査又は核酸増幅法の検査のいずれかの結果が陽性であり,以下の(a),(b)又は(c)に該当するとき

a 感染防止のために入院が必要と判断される呼吸器等の症状がある。

b 外来治療中に排菌量の増加がみられている。

c 不規則治療や治療中断により再発している。

イ 前記アの入院勧告等による入院患者を退院させなければならない基準である「当該感染症の症状が消失したこと」(同法26条,22条1項)とは,咳,発熱,結核菌を含む痰等の症状が消失したこととし,当該痰の消失は,異なった日の喀痰の培養検査の結果が連続して3回陰性であることをもって確認することとする。

また,以下の基準を全て満たした場合には,上記の状態が確認できなくても当該患者を退院させることができるものとする。

(ア) 2週間以上の標準的化学療法が実施され,咳,発熱,痰等の臨床症状が消失している。

(イ) 2週間以上の標準的化学療法を実施した後の異なった日の喀痰の塗沫検査又は培養検査の結果が連続して3回陰性である。(3回の検査の組み合わせは問わない。)

(ウ) 患者が治療の継続及び感染拡大の防止の重要性を理解し,かつ,退院後の治療の継続及び他者への感染の防止が可能であると確認できている。

(3)  本件患者の処遇及び診療経過等

ア 本件患者は,平成19年4月26日(以下,同年については,年の記載を省略する。)に本件刑務所に入所し,階下8室に収容されていたところ,6月15日実施の胸部X線検査の結果,肺結核の疑いが認められ,その後,同月28日撮影の胸部X線画像においても,肺全体に陰影が認められ,同月29日には,本件刑務所の法務技官(医師)により,結核の疑いと診断された。(証拠<省略>)

イ 前記アの診断に伴い,同日,本件患者は,階下8室から階上l室に転室され,本件刑務所において,本件患者の処遇要領が以下のとおり定められた。(証拠<省略>)

(ア) 職員が本件患者と接触する必要がある場合,本件患者及び職員の双方が指定されたマスクを着用する。

(イ) 食器は居室備付けとし,配食は職員が行う。

(ウ) 入浴・運動については,連行(連行途中においてもマスクを着用させる。)も含め,単独で実施し,入浴については最後に実施する。

(エ) 換気については,なるべく居室外窓を開くよう指導するとともに,連行等で開扉する場合,直前に数秒間,外窓を開けさせて換気してから開扉する。なお,夏季処遇として食器口が開放されても,本件患者の食器口は開放しない。

ウ 本件患者は,7月3日,k病院呼吸器内科を受診し,その後,同病院医師により塗沫検査の結果は陰性であるが,胸部X線所見,ツベルクリン反応,PCR(核酸増幅法検査)陽性等の結果から,肺結核(疑)の診断を受け,糖尿病もあることから,早急な入院治療が相当であると判断された。また,本件患者は,同月11日,階上l室から階上m室に転室された。(証拠<省略>)

エ 本件患者は,同月13日,勾留の執行停止により釈放され,k病院に入院し,INH,RFP,EB及びPZA(HREZ)の4剤併用の化学療法が開始され,入院期間中,これが特に問題なく継続された。(証拠<省略>)

オ 本件患者は,8月20日及び21日の培養検査で陰性が確認されたことなどから,10月13日付けで,長野県松本保健所により,本件患者の入院勧告が解除され,同月15日,k病院を退院した。また,退院時には,INH,RFP及びEBの3剤が処方された。(証拠<省略>)

カ 本件患者は,同日,本件刑務所に再入所し,階上e室に収容された。(前提事実(4)ウ)

キ 本件患者は,11月2日,k病院呼吸器内科を受診した。同日の診断により,処方薬がINH及びRFPの2剤に変更され,同月14日に本件患者が釈放されるまでこれらの投与が継続された。(証拠<省略>)

2  争点(1)(本件刑務所内における感染の有無)について

(1)ア  前記医学的知見によれば,結核の感染の危険性は患者の病状の影響を強く受け,塗沫検査陽性患者が特に危険な感染源であるが,塗沫検査が陰性でその他の検査で陽性の患者は感染源となり難いこと,薬剤耐性のない結核菌による肺結核の場合,標準的な化学療法により感染の可能性は急激に低下すること,厚生労働省による退院基準においても,2週間以上の標準的化学療法の後,咳,発熱,痰等の臨床症状及び排菌が消失した場合には退院可能とされていることが認められる。

そして,前記1の各認定事実によれば,①本件患者の塗沫検査の結果は,肺結核の診断がなされた時点で陰性であったこと,②本件患者に対しては,診断後連やかに入院措置がとられた上で,前記医学的知見に沿う標準的な化学療法が行われ,化学療法は順調に推移しており,本件患者が感染していた結核菌が薬剤耐性のものであったとの事情は見当たらないこと,③上記治療の結果,8月20日,21日の喀痰培養検査で陰性が確認されたこと,④10月13日時点で,松本保健所により,退院基準を満たすものとして入院勧告が解除されたこと,⑤本件患者に対しては,退院(本件刑務所再入所)後も,標準的治療法に沿った抗結核薬の処方が継続されており,その後の診察においても症状の再発等は認められていないことが認められる。

そうすると,本件患者は,大量排菌に至る前の段階で肺結核の診断を受け,標準的な化学療法を特段の問題なく継続された後,培養検査の結果が陰性化したことが確認されており,その後に症状が再発したり,再度の排菌が認められたりすることもなかったのであるから,前記医学的知見に照らし,10月15日以降,第三者に結核を感染させる状態にはなかったと認めるのが相当である。

イ  ところで,原告は,本件患者は,8月20日及び21日の計2回の培養検査の結果しか確認されておらず,肺結核患者の退院基準(退院させなければならない基準及び退院させることができる基準)である,異なる日の3回の検査での陰性は確認されていないから,排菌がなくなったとはいえないと主張する。

確かに,本件証拠上確認できる入院後の具体的な検査結果は,8月20日及び21日の培養検査の結果のみである。

しかし,①厚生労働省の定めた結核医療の基準においても,治療中は結核菌検査及びX線検査を行って病状の改善の有無を確認することとされており(証拠<省略>),本件患者に対しても上記基準に沿う標準的治療方法が行われているところ,約3か月間の入院期間中,上記2回の培養検査以外に塗沫検査等の結核菌の検出検査が行われていないとは考え難いこと,②本件患者に対しては,10月13日に保健所によって入院勧告が解除されているところ,保健所が,結核患者の退院基準を満たさないのに,入院勧告を解除するとは考え難いこと(証拠<省略>),③本件刑務所の看守長であるBは,k病院での入院期間中,各月1回(計4回)の塗沫検査が実施された旨の引き継ぎを受けたと述べており(証拠<省略>),上記①及び②に照らしても,その内容は自然で信用できることなどからすれぱ,本件患者については,上記2回の培養検査に加え,入院中の塗沫検査による陰性が確認されたものと考えられる。

よって,原告の上記主張は採用することができない。

ウ  また,原告は,本件患者は,10月15日の再入所以降もマスクを装着していたから,咳の症状は消失しておらず,感染の可能性があった旨を主張し,10月15日以降に本件患者がマスクを着用していることを本件刑務所の職員から聞いたり,その姿を直接見たりしたなど,上記主張に沿う内容の記載がある代理人弁護士宛ての手紙(証拠<省略>)を証拠として提出し,同旨の供述をする。

しかし,原告は,結核患者の存在に気付いたのは当該患者が隣室(階上e室)に入る前に別の居房にいたときのことであること,本件患者がマスクを着用していたのは,夏場であり,居房の小窓が開放されていた時期であったこと,刑務所職員から,本件患者はもうすぐ娑婆の病院に入院するからそれまで待つように言われたことなどを述べているところ(証拠<省略>),前記各認定事実及び証拠(証拠<省略>)によれば,本件刑務所において,単独室の食事口の開放が認められるのは夏季(平成19年においては7月2日から9月9日まで)に限られており,10月15日時点では既に開放が禁止されていたこと,本件患者は同日以降,釈放されるまで階上e室に収容されていたことが認められ,原告の上記供述等は客観的事実と整合しない。また,原告は,本件刑務所の居房から隣室以外の離れた居房の会話や様子を聞くことができたと述べているところ(証拠<省略>),原告と本件患者は,6月29日から7月13日までの間,いずれも拘置場階上の各居房に収容されていたのであるから,原告が本件患者について7月13日以前に見聞きしていたとしても不自然ではなく,原告が記憶を混同している可能性も否定できない。

そうすると,原告の上記供述等は採用することができず,その他,本件患者が10月15日の再入所以降に所内でマスクを着用していたことを認めるに足りる証拠はない(なお,原告は,被告が本件訴訟において,10月15日以降にマスクを着用した事実を認めたことを殊更に主張するが,原告の指摘する準備書面の記載からしても,被告主張のマスク着用時期が7月13日までの期間であることは明らかである。)。

したがって,原告の上記主張は採用することができない。

(2)  前記の医学的知見によれば,結核は結核菌を含む飛沫核を吸入することにより感染するが,結核菌の感染力自体はそれほど強くなく,相当程度の密度での接触がない限り感染しにくいものとされているところ,本件患者と原告の接触状況をみると,両名は,4月26日から7月13日までの間,居室内で接触したり,同一機会に運動・入浴・護送等が行われたりしたことはなく(証拠<省略>),10月15日以降に両名が相当程度の密度のある接触をもったと認めるに足りる証拠もないことからすると,本件患者が排菌していたとしても,これが原告に感染する可能性は相当に低かったというべきである。なお,一次結核については,抵抗力が低下している際に大量の結核菌を反復吸入した場合などに発病するものとされているのであるから,原告が一次結核を発病したという原告の主張によれば,感染の可能性はさらに低かったということになる。

(3)  原告は,原告の発病した肺結核は,既に感染していた結核菌による二次結核ではなく,一次結核であると主張し,平成20年7月撮影の胸部X線面像及びCT画像には,一次結核であることを示す特徴があると主張する。

しかし,原告主張の画像診断を裏付けるような専門家の所見等は証拠として提出されていない上,二次結核においては,多彩な画像所見が示されることが指摘されていることなども考慮すると,原告の上記主張から,直ちに原告の肺結核が一次結核であると断定することは困難である。

かえって,前記各認定事実及び証拠(証拠<省略>)によれば,前記各画像で浸潤影が認められるとされる右上肺野は,二次結核の好発部位であることや,原告のk病院呼吸器科内科における担当医であり,原告主張の各画像診断も行ったC医師も,原告の肺結核について,平成19年度の胸部X線検査以前に感染した既感染の肺結核の再燃の疑いがあると判断していたことが認められる。

そうすると,原告の肺結核が一次結核であるとは認めるに足りないというほかなく,むしろ,成人の肺結核の多くは二次結核であるとされていることや,上記C医師の見解等からすれば,原告の肺結核は二次結核である可能性が高いというべきである。

(4)  以上によれば,[判事事項]本件患者は,本件刑務所に再入所した10月15日時点において,第三者に肺結核を感染させ得る状態でなかったか,少なくともその可能性が極めて低い状態であり,同日以降,本件患者と原告の接触もほとんどなかった上,原告の肺結核が,過去に感染していた結核菌による二次結核である可能性も十分に認められるから,これらの事情を総合すれば,原告が本件刑務所内で発病した肺結核が,本件患者から感染したものであるとは認められない。

第4以上によれば,その余の争点につき判断するまでもなく,原告の請求は理由がないので棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判官 今岡健 長谷川武久 伊藤吾朗)

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