青森地方裁判所 平成5年(わ)33号 判決 2004年1月05日
主文
被告人を懲役2年に処する。
この裁判が確定した日から4年間その刑の執行を猶予する。
訴訟費用中,鑑定人B及び同C並びに証人B及び同Cに支給した分は被告人の負担とする。
(犯行に至る経緯)
被告人は,平成3年4月5日,交際中のRと酒を飲む約束をし,同日午後7時ころ,2人で青森市a町にある居酒屋に赴き,ビールをジョッキで一杯(400cc入)ずつと日本酒約3合半を一緒に飲み,同日午後9時ころ,前記居酒屋と同じビル内にあるスナックにおいて,ウイスキーの水割りを各自3ないし4杯程度飲んだ。その後,2人は青森市bにある飲食店に場所を移動し,翌6日午前0時ころから午前2時ころまで,それぞれ水割りを2ないし3杯程度飲酒し,立ち食いそばを食べた後,帰宅することとなった。2人は,同じタクシーに乗り込み,一旦Rの自宅があるD大学に赴いた後,被告人宅に向かうため,Rの所有する軽四輪貨物自動車に乗り換えた。
(罪となるべき事実)
被告人は,
第1酒気を帯び,呼気1リットルにつき,0.25ミリグラム以上のアルコールを身体に保有する状態で,平成3年4月6日午前3時10分ころ,青森市大字c字de番地のf付近道路において,軽四輪貨物自動車を運転し,
第2前記日時ころ,業務として前記自動車を運転し,前記場所付近道路中央線寄り通行帯をg方面からh方面に向かい進行するに当たり,ハンドル・ブレーキ等を的確に操作し,進路を適正に保持しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのに,これを怠り,進路を適正に保持せず自車を道路左端に暴走させた過失により,自車左前部を道路左端に設置されていたコンクリート製電柱に激突させ,自車同乗者のRを車外に放出させて,路上に転倒させ,よって,同人に上部頸椎骨折等の傷害を負わせ,同日午前4時25分,同市大字i字jk番l所在のE病院において,同人を同傷害により死亡させたものである。
(事実認定の補足説明)
第1問題の所在
関係各証拠によれば,判示第2事実の事故(以下「本件事故」という)当日,被告人とRは,青森市a町などで飲酒した後,タクシーでR宅に赴いたが,さらに,Rの所有する車(以下「本件車両」という)に乗り換えて被告人宅に向かう途中,本件事故に遭ったものであり,本件事故当時,本件車両に乗車していたのは,被告人とRの2人だけであることが明らかである(被告人の当公判廷における供述,甲2,23ないし25,31ないし33)。
ところで,被告人は,本件車両を運転していた記憶がないと弁解し,弁護人も,当時,被告人が本件車両を運転していたことを証するに足る客観的証拠はなく,目撃証言等も信用性が乏しいとして,無罪である旨主張するので,以下検討する。
第2前提事実
関係各証拠によれば,次のとおりの事実が認められる(括弧内の甲乙の番号は,認定に供した証拠である。なお,公判調書中の供述部分及び公判廷における供述については,いずれも「公判供述」と記載する)。
1 本件事故の経緯
(1) 被告人とRは,本件事故の約1年前から交際していた。本件車両は,Rの所有であるが(甲65),被告人も,Rと会った際に,しばしば運転することがあった(被告人の第37回公判供述)。
(2) 本件事故当時,被告人とRは,平成3年4月5日午後7時ころから,翌6日午前2時ころまで飲酒し,立ち食いそばを食べた後,帰宅することになった。タクシーでR宅のあるD大学に行ったが,さらに,同大学内で,本件車両に2人で乗り換え,被告人宅に向かった(被告人の第37回公判供述,甲31ないし33)。
(3) 同日午前3時10分ころ,本件事故が発生した。
(4) そのころ,本件車両の後方で車両を運転していたFは,自動車運転代行業の仕事を終えて,コンビニエンスストアに向かう途中であったところ,前方で大きな音がしたのを聞くとともに,ガラスの破片が散らばったのを見た。事故だと思った同人は,前方で道路中央線に前部を向け横向きに停止していた本件車両から2メートルほど手前に同人運転車両を停め,降車して本件車両に近づいた。同人は,本件車両の助手席側後方の路上にRが倒れているのを発見し,一旦同人運転車両の無線で連絡をとろうとしたがつながらず,その後本件車両助手席側から被告人を車両外に運び出した(Fの第4回公判供述,甲25)。
(5) 同じくそのころ,Gは,時速約58キロメートル程度の速度で進行していた同人運転のタクシーを本件車両が追い抜いた後,急に左に進路を変更し,そのまま同車両前部助手席側が後述2(2)の電柱に衝突したのを目撃した。同人は,タクシーを停止した本件車両から約22メートルほど手前の地点に停め,無線で事故の連絡をした。その際,タクシーの前照灯は下向きであった。その後,同人は,タクシーを降りて本件車両に近づき,同車両後部から回り込んでみたところ,同車両助手席側後方の道路上にRが倒れているのを発見した(Gの公判供述,甲24,25)。
2 本件事故現場
(1) 本件事故は,南北に通ずる主要地方道m・n線の,青森市大字c字de番地のf付近道路において起きたものである。本件事故の現場道路は,歩車道の区別のある幅員約15.8メートル,直線平坦なアスファルト舗装道路で,付近は片側二車線である。本件事故当時,路面は乾燥していた。街路灯は,現場から離れたところにあるが,付近の店舗の灯りのため現場はやや明るく,直線道路であるため見通しはよかった(甲23)。
(2) 「交通事故現場見取図」(以下「見取図」という)の▽地点のコンクリート製電柱には,道路から約0.4メートルないし約1.41メートルの高さにかけて赤色が付着しており,そこから約3.4メートル北東側の見取図①地点に,本件車両が前部を東方に向けて道路の片側をふさぐ形で横になって停止していた(甲23,25,47,48)。
(3) 見取図のA地点には左足のハイヒール(黒色)1個があり,そのハイヒールの外側後部に赤色が付着していた。B地点には右足のハイヒール1個があった。C地点には血痕が若干路上に付着しており,その付近にRが倒れていた(甲23ないし25)。左足のハイヒール(黒色)の左側面部には,鋭利なものによって形成された真新しい擦過痕が残されていた(甲14)。
3 本件車両の状況
(1) 本件車両の前部左側が最大0.9メートル内側に潰れ,ボンネットがくの字に折れ曲がり,フロントガラスが破損し,屋根部分が潰れていた。車両左側面は,左前部フェンダーが助手席にめり込んで原形がなく,助手席側のドアは,閉じてはいたものの,付け根部分から助手席方向にめり込んで,内側から外側に折れ曲がり,車体の外側にくの字型に屈折してドアが車体にくい込み,ドアの下方が路面に接触して開閉できなくなっていた。ドアガラスは破損し,屋根部分が前部方向から押された状態で潰れていた。助手席部分は,足置き部分が前部方向から押し潰されて,その部分がなく,座席のシートも潰れていた。
これに対し,車両右側は,右前部フェンダーが先端部分から左側に引き寄せられた状態に曲がっていて,運転席ドアは,閉じられており,内側から外側に曲がってドアガラスも破損していたが,開閉することはできた。運転席部分も,計器板が破損してプラスティック片が散乱し,ハンドル部分全体が,取付部分を中心に車体右側に傾いて向きが変わり,運転席の床に,折れたワイパーレバーが一本遺留されていたが(甲66,67),車両右側ないし運転席部分の損壊の程度は,車両左側ないし助手席部分に比し,一見して小さい。
車両後部及び後部荷台に破損箇所はなく,後部座席の右側に取り付けてあったスピーカーが,脱落してシート上に残されていた(以上につき甲2,11,23)。
シフトレバーの運転席側には右斜め上方向に複数の線状の痕跡が存在していた(Hの公判供述,甲90)。
(2) 本件車両助手席ドア内側の下部取付金具部分の破損箇所に黒っぽい毛のような微物が採取され(甲11),この微物を構成する繊維と2(3)のハイヒールの左側面部の主要構成繊維の異同識別について鑑定したところ,同種のものであることが判明した(Iの公判供述,甲18)。上記微物採取場所は,ドアが閉止しているときには車内に開放されない箇所であり,通常の乗り降りで靴を擦過させる位置ではない(Jの公判供述)。
(3) 本件車両のシートベルトは,運転席,助手席ともに,シートベルトホルダーが装着されていなかった。車内のスピードメーターの針は,100キロメートルのところで停止されていた(甲23)。
4 本件事故後の被告人とRの状況
(1) Rは,本件事故現場から救急車でE病院に搬送されたが,同日午前4時25分,上部頸椎骨折により死亡した(甲4ないし6)。Rの左頬には長さ約9センチメートルの裂創と,右顎に口唇から右耳下部にかけて長さ約5センチメートルの擦過傷があり,頭部,後頭部,腹部及び背部に外傷はなかった。右鎖骨下部には縦約5センチメートルの三角形状の擦過傷があり,右手首から右手甲にかけて,擦過傷及び皮下出血が見られた。左右の大腿部,つけね内側のあたりと,左右の下肢,膝のあたりから足首にかけて,数センチメートルの擦過傷が多数あり,左右の足,母指頭に五円玉大の皮下出血があった(甲3)。また,左足外果部に拇頭大の表皮剥離が見られるとともに,左足の左側面部に複数の擦過傷が見られる(甲69)。
(2) Rの左頬の長さ約9センチメートルの裂創付近から,赤色塗膜片(Kの第5回公判供述,甲63)が発見され,鑑定の結果,そのうちの塗膜片の1片が,本件車両のボンネット上の助手席側の塗膜剥離部分に符合することが判明した(Lの公判供述,甲11,29,54,58)。
Rは,本件当時,黒色のレインコート,緑色のワンピース,スリップ,ブラジャー,ストッキング,パンティを着用していた。前記2(3)のハイヒールはRのものである(被告人の第34回公判供述,甲79ないし82)。
(3) 被告人は,本件当時,ジャンパー,ジーンズ(甲88),スニーカーを着用していた(甲59)。被告人は,M医院に搬送され,医師Nが被告人の着用していたジャンパー前面内側から黒色プラスティック片(甲62)を発見し,これを警察に提出した(Nの公判供述,甲19,20,51)。このプラスティック片の破断面の一部と本件車両運転席側にあるプラスティック製メーターケース左側の破損箇所の破断面の一部を照合したところ,一致することが確認された(Oの公判供述,甲21)。
また,本件事故発生から1時間40分後に同医院内で実施された飲酒検知により,被告人の呼気1リットル中に0.5ミリグラム以上のアルコールの含有が認められた(甲10)。
(4) 被告人の怪我は,左股関節部脱臼,腰部打撲等により入院加療約3週間を要するものだった(甲22)。同月9日の時点で,被告人の顔には,顎下部中央に長さ2センチメートル,幅0.3センチメートルの上下に走る切創痕,その下部に長さ2センチメートル,幅0.3センチメートルの左右に走る切創があった。左手には,子指根部から示指根部にかけて幅5センチメートル,長さ8センチメートルの左手甲部全体的な挫傷痕があり,この挫傷部は,示指第二関節部,中指第二関節部,薬指の第一関節と第二関節の中間部まで及んでおり,示指と中指の指根部に1か所縫合,薬指の指根部に1か所縫合があった。右手は,子指の指根部から指先にかけて長さ5センチメートル,幅1センチメートルほどの挫傷痕があり,その中央部に1か所縫合があった。左膝蓋の下部中央付近には,踵から39センチメートルの位置に,横に走る長さ3センチメートル,幅0.3センチメートルの切傷痕と同切傷痕の下部0.5センチメートルから内側にかけて2センチメートル間隔で直径0.3センチメートルの丸形挫傷痕が2か所あった(甲9)。
第3本件事故時における本件車両及び乗員の動静
1 鑑定人P(以下「P鑑定人」という)の,本件事故時における本件車両及び乗員の動静に関する意見の概要
(1) 本件車両の前部左端の変形・破損の状況を総合すると,本件車両は高速度で見取図▽の電柱に衝突したものである。
(2) 本件車両は,上記電柱への衝突により,①進行方向に減速し,②電柱に直接衝突した部位が前面左端部であって,衝撃力の方向が本件車両の車体重心を左に外れていることから,本件車両の車体に進行方向から見て右斜め方向(東方面)に左方向の回転運動(反時計回り)が生じ,③本件車両が高速度で進行していたため,若干のZ軸方向の縦回転運動が生じたものである。この①から③までの運動を時系列で見ると,衝突した車はすぐに回転運動を始めるのではなく,衝突してから最大変形が生じるまで,いわゆる慣性の法則によって生じる慣性力で衝突する前の方向及び姿勢を維持するから,まず,①が生じ,次に②と③がほぼ同時に生じると考えられる。
(3) 上記電柱への衝突により,本件車両に負荷される力(加速度)は,大別して,ア電柱に衝突したときに本件車両の進行方向と上下方向に負荷される衝撃力,イ衝突後に横滑りしたときに本件車両の横方向と進行方向に負荷される減速力,ウ衝突後に回転運動した時に作用する遠心力である。このうち,イ,ウに比し,アの衝撃力は極めて大きく,本件車両には大きな減速力(減速加速度)が進行方向と反対の方向に作用する。そのため,車室内の乗員に衝突前の運動を続けさせるという形で作用する慣性力も肢体の筋力で身体を保持する力の数倍となり,乗員はその意思と無関係に運動することになる。
(4) 以上の理解を前提に,乗員の動静をまとめると,次のとおりである。
即ち,本件車両の前面左端が電柱に衝突したとき,最初の大きな衝撃力が加えられ,同前面左部を中心として変形が生じる一方,同前面左部を停止させるような減速力が生じ,同車両は急激に減速するが,乗員は慣性力により衝突前の運動を続けようとする。したがって,乗員は本件車室内前部の方向へ移動する。このとき,運転席乗員は,ハンドル部を介してダッシュボード又はフロントガラスの方向へ移動し,助手席乗員は,直接的にダッシュボード又はフロントガラスの方向へ移動する。この後前に移動した乗員は,電柱に衝突した直後の縦回転運動(前記(2)③)により,車室内を左横方向に移動する。なお,衝突後,タイヤと路面の摩擦によって減速が生じるため,減速力が働いて,その反対方向へと乗員は移動し,また回転運動による遠心力も乗員に作用するが,これらの力は,先に見た本件車両内前部及び左横へ移動する際乗員に作用する力に比べて極めて小さい。
2 以上のP鑑定人の意見は,本件事故の影響で本件車両の前部左側が最大0.9メートル内側に潰れて,そのボンネットがくの字に折れ曲がっていること,同車両右側運転席部分においてはハンドル全体が右に傾いていたものの同部分ドアの座屈変形やフロントピラー部の後退はなく,足置き部分の変形もないこと,同車両左側助手席部分においては同部分ドアが座屈変形し,フロントピラーが大きく後退していて,足置き部分が前部方向から押しつぶされていること等客観的に認められる本件車両の損傷状況をもとに,本件事故時における本件車両の動静について物理法則を当てはめて三次元的に分析し,さらに乗員の動静についても同様の分析を行ったうえで導き出されたもので,十分に合理性があり,信用できるものである。
第4以上の認定事実及びP鑑定人の意見を前提に,本件事故当時,本件車両を運転していたのは被告人とRのいずれであるかについて,検討する。
1 本件事故時における本件車両乗員の動静
(1) 前記認定事実及びP鑑定人の知見を前提として,乗員の動静を検討すると,次のとおりである。
本件車両が電柱に衝突したとき,運転席乗員も助手席乗員も慣性力により前方向に移動し,ダッシュボード又はフロントガラスの方向へ移動する。この慣性力は,本件車両に作用する減速力(減速加速度)の増加に応じて大きくなるものであるところ,本件車両は,前部左側が電柱に衝突しており,作用する減速力は助手席側の方が運転席側に比べてはるかに大きいのであるから,助手席側乗員に作用する慣性力も運転席側乗員に作用するそれに比べて遙かに大きいものとなる。本件車両運転席側乗員が前方向に移動した場合,ハンドル部によって身体が拘束される一方,足置き部分の大きな変形はなく,移動した乗員の下半身が存在する空間は確保されているため,車外に放出される可能性は低い。これに対し,助手席側乗員についてみると,電柱への衝突によって助手席前部が潰されて内部に大きく張り出し,足置き部分も前方向から押し潰されダッシュボード下部に乗員の下半身が潜り込む空間はなくなることから,助手席側乗員は,腰掛けた状態のまま車体の変形により足下を持ち上げられた形で前方に移動を始め,車内でその膝が動きを止められて前のめりになりながら,さらに頭部を前に突っ込むように移動し,そのままフロントガラス部から車外へ放出される可能性が高い。
以上に鑑みると,前記認定のとおり,本件事故現場において被告人は車内に留まり,Rが車外に放出されていること,Rの左顔面には本件車両のボンネット上部助手席側の塗膜剥離部分に符合する塗膜片が付着していたことが明らかになっているところ,この塗膜片は,助手席に座っていた乗員がフロントガラス部から車外に放出される際に付着したものとみるのが自然であることは,本件車両の助手席に乗っていたのはRであって,被告人は運転席にいたと推定させるものである。
(2) これに対し,弁護人は,本件車両と電柱との衝突により助手席側乗員の下半身がダッシュボードの下部に潜り込み始めるのは車体が最大変形する以前であると主張する。しかし,弁護人がその根拠として挙げる衝突実験は,時速40キロメートルで進行する車両同士が正面衝突した場合であり,かつ乗員がシートベルトをしている状態を設定してなされており,少なくとも時速約60キロメートル以上で進行しており,乗員がシートベルトをしていなかったと推定される本件車両の前部左側が電柱に衝突した本件事故とは,まったく態様を異にすると言わざるを得ない。弁護人の主張はその前提を欠き失当である。
2 本件車両乗員の傷害
(1) 乗員の傷害は,事故の態様,本件車両及び乗員にそれぞれ作用する力,さらには本件車両の車室内の状況を反映すると考えるのが合理的であるところ,①既に1(1)で検討したとおり,運転席側乗員に比較して助手席側乗員に作用した力が極めて大きく,そうであれば,助手席側乗員の怪我の方が運転席側乗員の怪我より重いのが自然であるところ,被告人の傷害の程度が加療3週間程度であるのに対し,Rは本件事故直後に死亡していること,②前記1(1)の経過で助手席側の乗員が頭部を前に突っ込んだ場合,顔面及び膝に損傷を受けるであろうと考えられるところ,Rの左頬には約9センチメートルの裂創,右顎に約5センチメートルの大きな擦過傷があり,同人の両膝辺りに多数の擦過傷があること,③被告人は本件事故により左手甲部及び右手小指甲部に挫傷を負っているところ,殊に,左手甲部の挫傷は,ちょうど示指の根部から小指の根部にかけて幅5センチメートル程度に,左手甲部の上部だけに形成されており,被告人が衝突直前までハンドルを握っていたことを示唆するものであることは,いずれも助手席に居たのがRであり,運転席に居たのが被告人であるとの推定に結びつく。
(2) 弁護人は,これに対し,本件は車両が直進して衝突した場合とは状況が基本的に異なり,本件車両は三次元的な激動を経たのであって,乗員は車室内で振り回されているのであるから,乗員の傷害から乗車位置を判定するのは許されない旨主張する。
確かに1(2)で述べたように,本件はいわゆる直進衝突とはまったく状況が異なる。しかし,上記の検討は,本件車両の動静について物理的法則をあてはめて三次元的に分析し,さらに乗員の動静についても同様に分析したうえで本件事故時における本件車両乗員の動静を認定し,これを踏まえて行ったものであって,弁護人の主張は当を得ないというべきである。
3 被告人のジャンパー前面内側から発見されたプラスティック片
次に,前記認定のとおり,本件事故後,被告人が搬送された病院の医師が,治療に際し,被告人の着用していたジャンパー前面内側から黒色プラスティック片を発見し,これが本件車両の運転席前部にあったプラスティック製メーターケース左側の破損箇所の一部の破断面と一致することが確認されていることからすると,前記運転席前部のメーターケースのプラスティック片は,本件事故の強い衝撃によって壊れ,運転席にいた被告人のジャンパー前面内側に入り込んだとみるのが自然である。
これに対し,弁護人は,本件事故発生時(最大衝撃時),運転席乗員は車体右側に大きく押しやられ,メーターケースと運転席乗員との間に位置するハンドルが運転席乗員を前に移動させることを妨げるので,前記プラスティック片が運転席乗員の着衣の中に入る可能性は乏しいと主張する。しかしながら,かかる弁護人の乗員の動静に関する見解は,本件車両に負荷される力について,最大衝撃時における衝撃力を殊更に無視し,遠心力を過度に評価したものか慣性力を考慮に入れないものとしか解しようがなく,上記主張は失当である。前述(第3の1(4))のとおり,最大衝撃時における衝撃力により本件車両前面左部を中心とした変形が生じた後,同車両の乗員は慣性力により車室内前部に移動し,その後,左横方向に車室内を移動するのであるから,上記変形によりハンドル部分の傾き,メーターケースの破損が生じ,この破損したプラスティック片が運転席乗員の着衣の中に入る可能性は非常に高く,反面,助手席乗員の着衣に入り込む可能性は極めて乏しいというべきである。
4 本件車両助手席ドア内側に付着していた微物
(1) 前記認定のとおり,本件車両助手席ドア内側下部取付金具部分の破損箇所から黒っぽい毛のような微物が採取され,この微物を構成する繊維と,見取図A地点にあった前記第2の2(3)の黒色ハイヒールの左側面部の主要構成繊維の異同識別について鑑定した結果,その主要構成繊維は同種のものであることが判明しているところ,Rが事故後路上に投げ出されており,その路上にRのハイヒール(両足)が残されていることからすれば,Rは本件事故当時,当該ハイヒールを履いていたものと推認され,そのハイヒールの左足左側面部には真新しい擦過痕があること,Rの左足左側面部に,上記ハイヒールの擦過痕に相応する表皮剥離箇所があることに加え,上記微物発見箇所はドアが閉止しているときには車内に開放されない箇所であり,通常の乗り降りで靴を擦過させる位置ではないことを併せ考えれば,前記微物は,本件事故の強い衝撃により付着したと推認される。これによれば,Rが助手席に座っていた蓋然性が高い。
(2) これに対し,弁護人は,微物の付着箇所の部位が明確でなく,また他の機会に微物が付着する可能性も考慮しなければならないのになされていない旨主張するが,被告人の父親が立会人として微物の位置を指し示している写真(甲11写真№36)や採取状況を写した写真(同写真№37)からすると,少なくとも,助手席側ドア内側の取付金具部の下部付近に微物が付着していることが認定できるものであり,前述した点に照らせば,むしろ,微物は本件事故時に付着した可能性が高いというべきである。
5 本件車両シフトレバーに印象されていた擦過痕
(1) 本件車両シフトレバーの運転席側には,右斜め上方向に複数の線状の痕跡が存在すると認められる(Hの公判供述,甲90)ところ,鑑定人Q(以下「Q鑑定人」という)は,本件事故時における被告人及びRの着衣と本件車両シフトレバーに印象されていた擦過痕につき,以下の意見を述べる。
本件車両シフトレバーの運転席側には,同鑑定人作成の鑑定書5頁の図7の写真のとおり,右斜め上方向に複数の線状の痕跡が印象されている。この痕跡は,素手でこすっても消えず,表面の固い金属類や表面の滑らかな人体の皮膚等によって印象される痕跡とは明らかに異なっており,布片をローターに半固定して金属に衝突させる印象実験の結果得られた痕跡との比較からすれば,繊維痕と判断される。しかも,前記印象実験の結果からすると,このような繊維痕は,通常の日常生活における接触の程度では印象されず,摩擦を伴う強い衝撃によって記される性質のものであり,また,このような繊維痕の収集調査の結果,印象後10ないし20年以上経過しても自然と消えないことからすると,本件事故の際印象されたものである。本件事故時に被告人が着用していたジーンズとRが着用していたワンピースにそれぞれ類似する布片を用い,これらをローターに巻き付けて金属板に衝突させる実験を経て,その痕跡の類似性を検討した結果,線の本数,太さ,形状に照らし,本件車両のシフトレバー運転席側に印象された繊維痕は,Rが着用していたワンピースに類似する布片の繊維痕とは大きく異なり,被告人が着用していたジーンズに類似する布片の繊維痕に近い。上記シフトレバー上の繊維痕は,その箇所が運転席側であることからして,本件事故の際に運転席乗員が着用していた着衣が擦過することによって生じた繊維痕と考えるのが合理的であり,実験結果からすると,本件事故当時被告人が着用していたジーンズによって印象された可能性が高い。
(2) そこで検討するに,Q鑑定人作成の鑑定書及び補充鑑定書によれば,実験に供された布片は,本件事故当時に被告人が着用していたジーンズやRが着用していたワンピースそのものではないが,その繊維や編み方においてよく類似するものである。そして,この実験により,各繊維痕を10ミリメートル間で比較した場合,本件車両シフトレバーに印象された繊維痕は21本であるところ,ジーンズによる繊維痕は23本,ワンピースの繊維痕は7本と,ジーンズによる繊維痕に近似していること,更に,痕跡の一線,一線が,シフトレバーとジーンズの繊維痕では流れるような細い線であるのに対し,ワンピースについては不規則な形であることが認められる。
したがって,シフトレバー上の繊維痕は,運転席にいた被告人のジーンズによって印象された可能性が高いとのQ鑑定人の見解は,相応の合理性があるものである。
(3) これに対し,弁護人は,そもそも上記シフトレバーに痕跡自体が存在しない旨主張し,さらにはQ鑑定人作成の鑑定書ないし補充鑑定書に掲げられた同シフトレバーの写真について,同鑑定人がコンピューターによる何らかの加工を施して痕跡が存在するようにしたかの如き主張をする。
しかし,前述のように同シフトレバーに痕跡が存在することは明確であり,上記鑑定書図7及び補充鑑定書図12に掲げられた同シフトレバーの写真について,それ自体及び両者の比較において何ら弁護人主張のような加工を疑わせるものは存在しない。弁護人の主張はいずれも失当である。また,弁護人は,本件事故の際,乗員は瞬時に前方に移動する力が働き,運転席乗員がシフトレバーの方向に向けて接触するような暇はなかったと主張するが,前記第3の1(4)のとおり,本件車両内の乗員は,衝突時,一旦車室内前部の方向へ移動した直後,車室内の左横方向に移動するのであるから,むしろ車室内の乗員の移動に符合するというべきである。
(4) なお,弁護人は,後に提出されたQ鑑定人作成の補充鑑定書について,当初提出された鑑定書と一体をなすものと評価することは許されないと主張する。
しかし,上記補充鑑定書は,鑑定書の結論を変えたり,内容を訂正する趣旨のものではなく,鑑定書に記された鑑定人の意見の理解を容易にする便宜のため,実験試料や繊維痕の類似性を一見して判断できるよう表現を具体化し,あるいは図示するとともに,交通事故によって生じる繊維痕のメカニズムについての参考論文を添付資料としたものであって,判断内容が変更されたものではなく,鑑定書と一体をなすものであることに疑いはない。
6 本件事故に関する目撃証言
(1) F証言について
ア F証言の要旨
証人Fは,本件事故を目撃した状況について,おおむね次のとおり証言している。
① 平成3年4月6日午前3時過ぎころ,自動車の代行業の仕事を終えて,h方面に向けて,車を走らせていたところ,自車の前を本件車両が走っていた。それから前方で何か大きな音がして,ガラスの破片が散らばっていたのを見て,事故だと思った。
② 当時,薄い霧がかかっていたが真っ暗ではなく,街灯の灯りはあった。自車のライトは下向きであったが,道路の見通しは比較的良かった。
③ 本件車両は,道路中央線に向くような格好で止まっていた。自車を本件車両に近付けて停め,自車の運転席のガラス窓を開けて,大丈夫かと声をかけた。そのとき,男性が手前の運転席に乗っており,男性は,運転席の座席にもたれて,顔を斜め上の方に上げて,上を見るような感じでいた。
④ 自車から降車して本件車両に近づくと,本件車両の助手席側道路上に女性が倒れていたのが見えたので,会社に無線を入れたがつながらなかった。
⑤ 本件車両にいた男性を助けなければならないと思い,男性を見ると,運転席の方から助手席の方に移動しようとしていた。助手席側から本件車両の中に身体を入れて,男性の両脇の下に手を入れて引き出そうとしたが,男性の身体が何かに引っかかったような感じで,なかなか引き出すことができなかったが,何とか助け出し,男性を路上に寝かせた。
イ F証言の信用性
かかるF証言は,その大筋において不自然,不合理な点はなく,本件事故直後に作成された各実況見分調書(甲23,24)ともよく合致するものであること,本件事故は午前3時過ぎに起きたもので,視認状況は芳しいとはいえないが,真っ暗というわけではなく,同人は,本件事故直後,自車を本件車両の手前約2メートルの地点で停め,自車の運転席から本件車両の運転席に男性がいるのを確認しており,その視認自体は容易であること,同人が被告人やRとは本件事故以前何らの関係も有さない第三者であること等を考慮すると,その証言は信用することができる。
ウ これに対し,弁護人は,以下のとおり各主張するが,いずれも失当である。
第1に,弁護人は,Fが自車運転席から本件車両の運転席に被告人が座っているのを見たとする点について疑わしい旨縷々述べるが,既に述べたとおり,Fは約2メートルの距離で本件車両を視認したのであり,上記目撃自体に誤りが生じることはまず考えられないと言うべきである。
第2に,弁護人は,Fが被告人を救出する際,Fの車両から近く,しかも開閉可能な本件車両の運転席側からではなく,同助手席側から助け出しているのであるから,そもそも被告人の身体自体が助手席にあったのだと主張する。しかし,Fは,一旦,同助手席側路上に倒れていたRの存在を確認して自車の無線で連絡を試みた後被告人の救出に向かっているのであって,Rの存在を認識していたFが,まず同助手席側路上に向かい,そこで被告人の救出を開始したとしても不自然ではなく,Fが同助手席側から被告人を救出したことをもって,そもそも被告人の身体自体が同助手席側にあったとすることはできない。
第3に,弁護人は,Fが後述のGが側にいたことを記憶していない点について疑問があると主張するが,事故直後の興奮した状態のもとで,他に本件事故現場にいたタクシー運転手の存在を認識しないことも十分にありうることであり,そのことによって,F証言の信用性に疑いが生じるものではないというべきである。
(2) G証言について
ア G証言の要旨
証人Gは,本件事故を目撃した状況について,おおむね次のとおり証言している。
① 平成3年4月6日午前3時10分ころ,タクシーを運転して,時速約58キロメートル程度でa町に向かっていたとき,本件車両が自分のタクシーを追い抜いた後,急に左に進路を変更し,そのまま同車両の助手席側が電柱に衝突したのをを目撃した。周りは暗く,自車のライトは下向きにしていたが,十分前方は見えた。自分の視力は両目1.5である。
② 事故現場のかなり手前でタクシーを停めた。ジャンパーを着た男が,本件車両の運転席側から助手席側に動くのを見た。男性のおしりは運転席側で,頭は助手席側にあった。運転代行社の車が本件車両の近くに停まっていたのはわかっていたが,いつの間にかいなくなっていた。
③ タクシーを降りて本件車両の側に行ってみると,女性が路上に倒れていた。一旦タクシーに戻って無線で会社に連絡した後,タクシーを本件車両に近づけて停め,降りて同車両の側に行くと,男性も車外に出ていた。男性は自力で降りたのかなと思った。その後,警察から事情を聞かれて,運転代行社の車がいたことを話した。
イ G証言の信用性について
このGの証言は,前記第2の1(3),同(5),第2の2(1)記載のとおり,本件事故は4月6日午前3時10分ころであり,現場はやや明るい程度であったこと,Gが自分の車を停めた位置は,本件車両から約22メートル離れた地点であり,ライトは下向きであったことなどからすれば,本件車両内の乗員が運転席側にいたか助手席側にいたかを十分に視認できたかは疑問が残るところであり,「ジャンパーを着た男が動いた」との部分以外は信用性ありと言えるか疑問なしとしない。しかし,このG証言も,F証言と矛盾するところはない。
(3) 以上によれば,F証言は信用できるものであり,G証言もこれと矛盾するところはないのであるから,F証言により,本件事故直後,本件車両運転席に被告人が座っていたと認めることができる。そして,本件事故直後,本件車両運転席に被告人が座っていたことは,本件車両の運転者が被告人であることを推認させるものである。
(4) なお,弁護人は,本件事故直後の被告人の位置によって,本件事故時に同人が運転席乗員であったか否かを論結すること自体,本件車両及び乗員の事故時における激動からすれば,非科学的である旨主張する。
しかし,既に検討してきた本件車両及び乗員の動静を踏まえて,本件事故時における運転席乗員が被告人かRかを判断する一要素として,本件事故直後の被告人の位置を考慮することはむしろ当然と言うべきであり,弁護人の上記主張からしても何ら問題がないことは明らかである。
第5弁護人は,本件助手席側に被告人の血液が付着していたことから,本件事故当時,被告人が運転席にいたとは認められないと主張するが,前記認定のとおり,被告人は助手席側から救出されたのであり,信用できるF証言によれば,被告人を助手席側から救出する際,被告人の身体は何かに引っかかったような感じでなかなか引き出すことができなかったというのであるから,被告人の血液が助手席シート・助手席ドア内側に付着したというのは不自然ではなく,当事実によって被告人が本件車両を運転していた事実に合理的疑いが残るものではない。
また,弁護人は,本件事故当時,被告人は本件車両の助手席にいた旨結論付ける鑑定人Cの意見が重要である旨主張するが,同人作成の鑑定書においては,乗員の動きが慣性の法則に従うとする一方で,衝突と同時に本件車両は左回り(反時計回り)に回転運動を始めるとしつつ,乗員は同車両の右あるいは右前方に移動するという慣性の法則に反する論旨が述べられているうえ,結局被告人が本件事故時助手席にいたとする力学的な根拠はこの論旨以外何ら掲げられておらず,同鑑定人自身が公判廷において,鑑定書自体を全面的に書き直す必要がある旨自認するなど,同鑑定人の意見自体極めて信用性に乏しいものである。
第6結語
以上検討したとおり,本件事故の客観的証拠関係及び目撃供述からすれば,本件車両を運転していたのは被告人であると認定するのが相当であり,そこに合理的疑いを差し挟む余地はないというべきである。
(量刑の理由)
1 本件は,飲酒のうえ乗用車を運転した被告人が,進路を適切に保持できずに車を電柱に激突させ,その勢いで同乗していた恋人を車外に放出させて,死亡に至らせた事案である。
2 被告人は,数件の飲食店を飲み歩いて酒に酔った状態であったにもかかわらず,本件車両を運転したうえ,直線の見通しの良い道路上で進路を適正に保持せず,道路左端の電柱に衝突させるといった,基本的な注意義務に反する極めて危険な運転を行ったものである。かかる被告人の無謀運転により,助手席に同乗していた被害者は車外に投げ出され,事故の直後,死亡するに至ったもので,結果は重大であり,突如同人を失った遺族の悲しみは深い。
そのうえ,被告人は,昭和61年に対向車両の運転手と自車に同乗していた女性を死亡させた業務上過失致死事件により禁錮10月の実刑判決を受けた同種前科があるところ,出所後わずか3年余りで本件犯行に及んだものであり,被告人の道路交通法規に関する規範意識は鈍磨していると言わなければならず,厳しく非難されなければならない。そして,被告人には,本件犯行後も,平成9年に酒気帯び運転で罰金5万円に処された前科を含め,平成7年以降ベルト装着義務違反等合計8回に亘る交通違反歴があって,平成9年と平成12年に免許停止処分を受けていることも,本件犯行時における被告人の道路交通法規に関する規範意識の鈍麻を裏付けるものである。
3 しかしながら他方,本件の被害者は,前記本件犯行に至る経緯のとおり,本件犯行直前まで被告人と数件の飲食店を飲み歩き,被告人が酒に酔っていたことを十分に知りつつ,一旦は被害者宅に戻っていながら,自ら本件車両に同乗したものであって,被害者にも少なからず落ち度があるものと言わざるを得ない。
そして,本件起訴は事件発生の約2年後にされたもので,起訴されて以来約10年もの審理期間が経過しており,かように裁判が長期化したことにより,被告人は,有形・無形の社会的非難を負担してきた一方,その間,会社員として真面目に稼働してきたものである。
4 そうすると,本件事故が招いた結果は誠に重大であり,被告人の過失の程度も軽視することはできないものの,上記の諸事情を総合して考慮すると,被告人に対し,主文のとおりの刑に処したうえ,その刑の執行を猶予するのが相当であると認められる。
よって,主文のとおり判決する。
(求刑 懲役2年6月)
宣告日時 平成16年1月5日
(裁判長裁判官 髙原章 裁判官 結城剛行 裁判官 吉田静香)