青森地方裁判所 平成8年(ワ)186号 判決 2002年1月22日
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告らに対し,それぞれ金791万8400円及びこれに対する平成8年5月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,被告が設置経営する青森市民病院(以下「被告病院」という。)に入院していた甲野花子(以下「花子」という。)が平成6年7月28日にMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)による敗血症が原因で死亡したことについて,花子の相続人である原告らが,被告病院の医療従事者に過失があると主張して,花子に生じた損害については同女と被告との間で締結された医療契約における債務不履行に基づく損害賠償請求権を原告ら各自の相続分に応じて行使するとともに,原告らに生じた固有の損害については公務員の不法行為に基づく公共団体に対する損害賠償請求権を行使して,それぞれ合計791万8400円及びこれに対する平成8年5月31日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。
1 争いのない事実
(1) 当事者等
花子(大正11年9月30日生)は,被告病院に入院中の平成6年7月28日(以下特に年を示さない事実は,すべて平成6年のものである。),MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)による敗血症(以下「本件敗血症」という。)が原因で多臓器不全となり死亡した。原告らは,いずれも花子の子である。
被告は,青森市勝田1丁目14番20号所在の被告病院を設置管理し,経営している。
(2) 被告病院入院までの経過
花子は,1月15日午前9時30分ころ,テレビを見ていて突然嘔吐し,頭痛,めまいが出現した。花子は,家で横になり様子を見ていたが,その間に何度か嘔吐したので,救急車で木造町立成人病センターに搬送され入院した。同センターは,同月17日,花子について心房細動・脳梗塞の疑い及び右腕頭動脈・鎖骨下動脈・橈骨動脈通過障害の疑いとの診断を下し,花子を被告病院第2内科に転院させた。
(3) 被告病院における治療経過
ア 花子の入院時の所見は,意識は清明,発語障害有り,両上下肢の運動制限はなく,両下肢の膝蓋腱反射はやや亢進,右上肢は指先から肘にかけてだるさ,冷感があり,右上腕動脈,骨動脈の拍動は弱く,心音は収縮期,拡張期の雑音を聴取,というものであった。
その後の治療経過は次のとおりである。
(ア) 1月19日
心エコーで大動脈弁閉鎖不全兼狭窄症,軽度僧帽弁狭窄症,僧帽弁弁口面積2.20平方センチメートルの所見を認める。
(イ) 同月20日
脳CTで,小脳梗塞所見を認める。
(ウ) 同月26日ころ
原告らは,A医師から,花子は心臓の弁の動きが悪く,血流障害が起き,このため脳の血管が詰まり梗塞が起きている旨の説明を受けた。
(エ) 2月3日
心カテーテル検査を行い,大動脈弁閉鎖不全兼狭窄症,僧帽弁狭窄症の所見を認め,大動脈弁置換(AVR)手術の適応と診断。
(オ) 3月23日
被告病院第2内科は,心臓血管外科に診察を依頼し,同科では,花子を4月5日に転科させ,5月6日に手術を実施するとの予定を立てた。この段階で,花子は,被告との間で,大動脈弁置換術,僧帽弁交連切開術(以下これらを合わせて「本件手術」という。)及びこれに付随する治療を目的とする医療契約を締結した。
イ 花子が4月5日に被告病院心臓血管外科に転科してから7月28日に死亡するまでの治療等の経緯は,別紙時系列表のとおりである。
2 争点
本件の争点は,①本件敗血症の起因菌の感染経路,②被告病院の医師等の過失の有無及び③原告らの損害額である。
(1) 本件敗血症の起因菌の感染経路
(原告らの主張)
本件敗血症の発症経路は,次のアないしウのいずれかによるものである。
ア 本件敗血症は,本件手術の術創部の汚染により,術後創から血中に黄色ブドウ球菌が侵入し,これが増殖して6月14日ころ遷延性の敗血症が発症し,7月20日ころに増悪したものである。花子から検出されたMRSAは,6月15日から7月20日までの間にこの黄色ブドウ球菌が抗生物質の投与により変異したものである。
イ 本件敗血症は,5月11日から6月10日までの間留置されていたIVHカテーテルを介して黄色ブドウ球菌が血中に侵入し,同月14日ころ遷延性の敗血症が発症し,これが7月20日ころに増悪したものである。花子から検出されたMRSAは,6月15日から7月20日までの間にこの黄色ブドウ球菌が抗生物質の投与により変異したものである。
ウ 本件敗血症は,6月16日から7月21日までの間留置されていたIVHカテーテルを介して,7月19日ころ,MRSAが血中に侵入して急性の敗血症が発症したものである。
(被告の主張)
ア 花子には,6月30日から7月19日までの間抗生剤は投与されておらず,この間にMRSA感染を疑わせる症状や所見は何ら認められていないから,花子が感染したMRSAが,6月14日までに術後創から血中に侵入した黄色ブドウ球菌が抗生剤の投与により変異したものであるとは考えられない。仮に6月29日までの抗生剤投与によりMRSAへの変異が起こっていたならば,花子は,遅くとも6月30日ころには感染症を発症していたはずである。また,そもそも,6月14日ころ,花子が黄色ブドウ球菌の感染により敗血症を発症したとの事実はない。
イ 花子がMRSAに感染したのは,本件敗血症を発症した7月19日又は20日の数日前と考えられる。また,その感染経路は不明であるが,可能性としては,①口や鼻からの気道感染,②IVHカテーテルによる感染,③経尿道的カテーテルによる感染等が考えられ,このうち②である可能性は他のものと比べて高いとはいえる。
(2) 被告病院の医師等の過失の有無
(原告らの主張)
ア 術後創感染防止を怠った過失(争点(1)に関する原告らの主張アを前提として)
外科手術において,術後創感染の発生率は極めて高いから,執刀医としては,患者からの感染予防(術野を中心にブラッシングし,手術部位を消毒してドレープをかけ,他の皮膚面には滅菌シーツをかけるなどする。),手術チームのメンバーからの感染予防(清潔なマスク等を着用し,消毒液を用いたり,滅菌した手術用手袋を着用する。),手術野曝露による感染予防,手術操作・手術器具の感染予防等をし,また,ICU室での換気,出入り人数の制限,入室の際の消毒したガウン等の着用,手洗いを十分に行うなどの感染予防をすべき注意義務があり,花子に関する本件手術やその後の治療の過程においても,B医師らは,このような注意義務を負っていた。
しかるに,B医師らは,これらの注意義務のいずれかを怠ったため,術後創からの黄色ブドウ球菌感染を招き,本件敗血症を発症させ,花子を死亡させるに至った。
イ 感染の早期発見及び早期治療を怠った過失(争点(1)に関する原告らの主張ア又はイを前提として)
花子は,長期入院中であり,本件手術を受け,IVHカテーテルを施行された易感染性患者であり,抵抗力が低下していた。そして,易感染性患者においては白血球増多やCRP高値といった血液検査所見が常に現われるものではないこと,血液培養検査は菌が血中に存在していても陰性となることがあるため検査を繰り返し行う必要があること,遷延性敗血症の診断には血液培養検査が重要であること等を考慮すると,被告病院では,花子について,血液培養検査等の細菌検査を繰り返し実施すべき注意義務があった。
しかるに,被告病院の医師は,この注意義務に違反し,6月14日に血液培養検査を実施したのみでその後細菌検査を行わなかった。このため,被告病院は,花子の遷延性敗血症を早期に発見することができず,早期に適切な抗生剤を投与するという治療の機会を逸失したものであり,その結果,重篤な本件敗血症を招き,花子を死亡させるに至った。
ウ IVHカテーテル挿入留置の際の感染予防を怠った過失(争点(1)に関する原告らの主張イ又はウを前提として)
IVHカテーテルの挿入留置の際には,院内感染を防止するため,①カテーテル留置前に手洗いをし,施行時には滅菌手袋を使用する,②刺入部の消毒,③施行時に皮下トンネルを造り,切開創からの汚染を防ぐ,④カテーテルの皮膚面への固定を着実にする,⑤除菌の目的でマイクロフィルターを輸液ルート内に装着し,輸液セットとフィルターは週2回以上交換する,⑥使用するカテーテルはシリコン製を用いる,⑦輸液システムは空気針の不要なソフトバックを用いたクローズドシステムとする,⑧刺入部の消毒は毎日行い,無菌ガーゼで被覆する,⑨三方活栓などでIVHカテーテルから他の薬剤を投与しない,⑩輸液剤の調製は無菌の場所で行い,調製後数時間内に使用し,使用するまでは冷蔵庫に保存する,⑪抗生物質の予防投与は行わない,といった注意義務があり,被告病院の医師及び看護婦も,このような注意義務を負っていた。
しかるに,被告病院の医師又は看護婦は,これらの注意義務のいずれかを怠り,このたため,IVHカテーテルから血中への黄色ブドウ球菌(MRSAを含む。)の侵入を許し,本件敗血症を発症させ,花子を死亡させるに至った。
(被告の主張)
ア 原告らの主張アについて
本件手術の執刀者を含めた手術関係者,手術器具,手術野については,必要な消毒は行われており,手術室についても,必要な消毒や感染防止措置は行われていたし,手術後の創処置としても,消毒など必要な感染防止措置は行われていた。したがって,被告病院の医師及び看護婦は,感染予防の注意義務を怠っていない。
イ 原告らの主張イについて
花子は,6月18日には解熱し,そのころの白血球数は異常な値ではなく,CRP値も軽度高値を示しているだけであり,また,6月17日に出された同月14日実施の血液培養検査の結果も陰性であった。このように,6月17日ころの段階では,敗血症を疑わせるべき症状や所見はなかったのであり,そのような状況は7月20日ころまで同様であったし,また,6月12日ころからの発熱の原因としては,尿路感染症が疑われた。これらの状況の下では,被告病院の医師としては,6月14日以降に,血液培養検査等の細菌検査を繰り返し行うべき注意義務はなかった。
ウ 原告らの主張ウについて
①②③については,IVHカテーテル挿入時のことについてのものであり,花子のMRSA感染とは関係がない。また,⑪のIVHカテーテル留置中は抗生物質の投与を行ってはならないということはない。
④⑥⑦⑨⑩は行っている。⑤は,マイクロフィルターは使用していないものの,輸液セットを毎日交換していた。⑧に関しては,1日おきに刺入部の消毒を行っていた。
このように,被告病院では十分なIVHカテーテルの感染防止対策をとっていたので,被告病院の医師や看護婦に原告らが主張するような注意義務違反はない。
(3) 原告らが主張する損害額
原告らが有する損害賠償請求権の金額は,次のとおり,各791万8400円である。
ア 花子の損害賠償請求権
原告らは,次の損害(合計2517万3600円)についての花子の被告に対する債務不履行に基づく損害賠償請求権を,それぞれ4分の1ずつ相続した。
(ア) 付添看護費用 14万円
被告の履行補助者であるB医師及びC医師の過失行為がなければ,花子は,本件手術後,遅くとも平成6年6月末ころには無事退院できたのに,退院せずに死亡するに至ったのであるから,7月1日から同月28日までの間1日当たり5000円の付添看護費用相当分の損害を被った。
(イ) 入院雑費 3万3600円
(ア)と同様に,花子は,7月1日から同月28日までの間1日当たり1200円の入院雑費相当分の損害を被った。
(ウ) 慰謝料 2500万円
イ 原告ら固有の損害賠償請求権
原告らは,それぞれ,各自固有の次の損害(各162万5000円)について,国家賠償法に基づく損害賠償請求権を有する。
(ア) 慰謝料 各100万円
(イ) 葬祭費用 各25万円
(ウ) 弁護士費用 各37万5000円
第3争点に対する判断
1 本件で問題となっているMRSA等に関する医学的知見
証拠(甲13ないし15,17,18,23ないし26,乙3ないし5,7ないし10,15)によれば,本件に関する医学上の知見として,次の事実が認められる。ただし,甲第23号証ないし第26号証は,文献の刊行後相当年月が経過しているので,現在の医学的知見に関する証拠としては採用しない。
(1) MRSA
ブドウ球菌(Staphylococcus)は,グラム陽性球菌の一種で,自然界に広く分布し,人の皮膚や粘膜の常在菌でもあるが,一般には弱毒菌であって健康人には害がない。ただし,このうち,黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus,SA)は病原性が高く,化膿性疾患や一般的な感染症においては最も重要な病原菌の一つとされている。
黄色ブドウ球菌に対する抗菌剤としては,1940年代に最初にペニシリンが実用化されたものの,これに対する耐性を備えたペニシリン耐性ブドウ球菌が出現し,さらにこれに対する強い抗菌力を有する薬剤として開発されたメチシリンに対しても,開発の翌年である1961年には耐性を示す黄色ブドウ球菌が出現した。MRSAは,このメチシリン耐性黄色ブドウ球(Methicillin Resistant Staphylococcus Aureus)の略称である。黄色ブドウ球菌は,人体中では主に鼻腔粘膜に生息しており,約20パーセントの人から検出されるが,皮膚に湿疹等,外傷等の表在性の病変がある場合には,検出率は高くなる。また,上気道では30~50%,腸管では60~90%の人に常在している。SA鼻腔保有者のうち,MRSA保有者の割合は25パーセントないし33パーセント程度であり,全体からみた割合は5パーセントないし9パーセント程度である。
MRSAは,現在では更に諸系列の薬剤への耐性が加わる多剤耐性化が進んでおり,その増殖を確実に抑える薬剤としてはバンコマイシン,アルベカシン,リハンピシン等の数種類の薬剤があるのみである。我が国では,幅広い抗菌域を有しているもののブドウ球菌に対しては抗菌力を持たないβ-ラクタム剤に属する第3世代セフェム剤が多用されたことを背景として,1980年代の後半ころからMRSAによる感染症が急増し,病院内で多発するMRSA感染が問題化しており,院内感染の代表的存在となっている。このような薬剤多用がMRSA感染症増加を招く機構に関しては,抗生剤により黄色ブドウ球菌がMRSAに変異するという考え方は一般的ではなく,第3世代セフェム剤の長期投与の結果感染巣中や正常細菌叢(人体のうち細菌が寄生している部分における細菌群)中のグラム陰性桿菌類を中心とする多数の菌種が増殖を抑制され,これによって外部のMRSAが定着しやすくなりあるいは既に存在していたMRSAが増殖しやすくなるという,菌交代現象によるものであるとの説明がされることが多いが,β-ラクタム剤,特に第3世代セフェム剤のある種の薬剤と接触することによりメチシリンを含むβ-ラクタム剤に対するMRSAの耐性度が高進することを明らかにした新しい研究もある。
また,SAは,その産生するコアグラーゼという酵素によって炎症周辺にフィブリンを早期に形成する性質を有している。
(2) 菌血症及び敗血症
菌血症は,血液中に細菌が存在している状態をいい,生活中の様々な出血や様々な医療行為の際にも血液中に細菌が侵入して生じ得る。菌血症は,一過性に終わって無症状に経過することが通常であるが,中には悪寒,発熱,白血球増多,中毒症状等の重篤な症状を示すこともあり,特に敗血症と呼ばれている。
(3) 感染性心内膜炎
感染性心内膜炎(以前は細菌性心内膜炎ともいわれていた。)は,ブドウ球菌による菌血症の合併症中でも最も多く,しかも重要とされる。
感染性心内膜炎は,しばしば急性と亜急性とに分類されることがあるが,その区別の基準としては,例えば感染から治癒までの期間や心内膜への感染経路といった経過により区別するもの,組織像の観点から穿孔性の潰瘍又は潰瘍表層状の細菌にフィブリン帯の被覆がない状態であるかフィブリン帯に覆われているかで区別するもの等様々であった。そして,このように両者の区別は明確ではなく,また,両者の間には根本的な差異はなく,発症経過は起炎菌の病毒性の強さや患者の防御力,抗生剤の投与等の諸要素によって様々であることから,近時ではこのような病像の区別は重視されなくなり,原因菌により分類されるようになってきている。
2 争点(1)(本件敗血症の起因菌の感染経路)について
(1) 原告らは,まず,本件敗血症が,術創部又はIVHカテーテル挿入部から血中に黄色ブドウ球菌が侵入して6月14日ころに遷延性の敗血症として発症したとし,花子から検出されたMRSAについては6月15日以降としに投与された抗生物質により変異したものである旨主張する(原告らの主張ア及びイ)。そして,この主張に沿う事情として,花子が6月11日から同月17日までの間37度以上の発熱をしていること(前記争いのない事実),花子の入院診療録の表紙に6月15日開始の傷病名として感染性心内膜炎と記載されている事実(甲11の2)のほか,花子の死亡後に行われた病理解剖学的診断において,副病変(続発症・合併症)の一つとして亜急性化膿性心内膜炎が指摘されていること(甲2)を挙げることができる。
ア しかしながら,まず,本件鑑定の結果によれば,感染性心内膜炎に罹患しているにもかかわらず炎症所見や症状が全く現れないまま炎症が進行するという事態は医学的に考え難く,少なくとも不明熱が持続するものと認められるから,花子の発熱が6月18日に36度台に解熱し,その後7月20日の発熱まで特段の炎症症状も認められない(前記争いのない事実)以上,6月中旬の発熱をもって死亡時の感染性心内膜炎の端緒であると認めることはできない。かえって,証拠(乙8,証人B)及び前記争いのない事実によれば,6月12日から投与されていた抗生剤であるフルマリン(黄色ブドウ球菌に最も強い抗菌力を示す抗生剤の一つ)によっても花子は解熱していないこと,同月13日に行われたカテーテル尿の培養検査によって十分に多い量の肺炎桿菌と真菌であるキャンジダが検出されているのに対し,同月14日に行われた動脈血培養検査の結果は陰性であったこと,同月15日当時,花子には,発熱はあったものの,それ以外に,心不全の症状や所見,新たな心雑音等の感染性心内膜炎を疑わせる兆候はなかったこと,B医師は,同月15日,尿培養検査の結果,花子を尿路真菌症と診断し,そのための抗真菌症剤の投与を行い,花子は同月18日には前記のとおり36度台に解熱したこと等の事実が認められるのであって,これらを総合すれば,花子の6月中旬における発熱は,尿路感染症に罹患したことによるものと認めるのが相当であり,当該発熱の事実をもって花子が6月14日ころにMRSAに感染したとはいえない。
イ また,入院診療録の表紙に感染性心内膜炎との記載がされた点については,その趣旨目的に照らしても確定診断に基づくものとは解されない上(実際,花子の担当医であったB医師は,少なくとも事後的には,花子の6月15日の発熱は尿路感染症によるものと考えるのが相当であるとしている(乙8)。),同記載がされたのは,花子が感染性心内膜炎に罹患していたわけではなく,心臓の手術後であることを考慮して念のため比較的多量に投与したペントシリンという抗生剤については,尿路感染症という傷病名だけでは健康保険による診療報酬請求が認められないことから,このような事実と異なる傷病名の記載をしたにすぎないこと(乙8,証人B)からすると,当該記載を原告らの主張に沿う認定に供することは相当でない。
ウ 次に,病理解剖学的診断において,副病変(続発症又は合併症)の一つとして亜急性化膿性心内膜炎が指摘されている点については,前記1(3)で認定のとおり亜急性心内膜炎と急性心内膜炎の区別の基準についてはいくつかの考え方があるところ,当該診断を下したD医師は,花子の心内膜の病理組織学的所見が血栓が隆起して表面がフィブリンで覆われていることを理由に病理形態学的な見地から亜急性心内膜炎であると記載したにすぎず,その名称と臨床的時間経過とは直接の関係はないと説明しており(乙3の1,証人D),したがって,当該記載をもって,死亡時に存在していた心内膜炎が6月中旬ころの感染以降,亜急性すなわち緩慢な経過を辿った結果であると認めることはできない。
エ さらに,花子からMRSAが検出された経緯に関しても,6月15日から7月20日までの間に花子に投与された薬剤のうち継続的に使用されたペントシリン,ジフルカン及びフルマリンはいずれもMRSAを誘導しやすいβ-ラクタム剤に該当せず(甲16,鑑定の結果),このような薬剤が黄色ブドウ球菌のメチシリン耐性獲得やβ-ラクタム剤耐性の高進といった変異の原因となるとの医学的知見は見当たらない。したがって,原告らの主張ア及びイは,花子からMRSAが検出された経緯について合理的な説明をすることができないというべきである。
以上によれば,ほかに争点(1)に関する原告らの主張ア及びイの裏付けとなる証拠がない以上,原告らの主張は理由がないというほかない。
(2) すすんで,原告らは,本件敗血症は6月16日から7月21日までの間留置されていたIVHカテーテルを介して7月19日ころMRSAが血中に侵入して発症したものである旨主張するところ,前記2(1)で認定した事実に証拠(乙8,11,12,16,17,鑑定の結果)及び弁論の全趣旨を総合すれば,原告らの主張するとおり,本件敗血症の起因菌となったMRSAは,花子の身体に6月16日以降留置されていたIVHカテーテルを介して7月19日ころに直接血管内に侵入したものと推認するのが相当である。
3 争点(2)(被告病院の医師等の過失の有無)について
(1) 上記2の判断によれば,争点(2)に関する原告らの主張のうち,IVHカテーテル以外の感染経路を前提とする主張(原告らの主張ア及びイ)は,そもそも前提を欠いており,理由がない。
(2) 次に,原告らの主張ウにおける過失の主張は①ないし⑪と多岐にわたるものの,以下のとおり,いずれも理由がない。
ア ①ないし③について
上記認定のようにIVHカテーテルを介したMRSAの感染が7月19日ころである以上,6月16日のカテーテル挿入の際において被告病院に原告らが指摘する過失があったとしても,そのような挿入時の過失が本件敗血症の発症原因とはなり得ないことは明らかであるから,これらの注意義務違反をいう原告らの主張は理由がない。
イ ④⑥⑦⑨⑩について
これらの注意義務違反については,被告病院の医療従事者においてこれに該当する過失行為があったことについて具体的な主張立証はなく,かえって,証拠(乙8,証人B)によれば,被告病院においては,原告らが指摘するような点は,いずれもこれを実践していることが認められるから,これらの点に関する原告らの主張は理由がない。
ウ ⑤について
被告病院ではマイクロフィルターを使用していないことは,被告が自認するところである。そこで,マイクロフィルターを除菌の目的で輸液ルート内に装着すべき注意義務の有無について検討するに,原告らの主張に沿う事実として,IVHカテーテルからの感染の予防対策に関する文献の中に,マイクロフィルターの使用を推奨するものが複数存在することが認められる(甲13,乙17ないし19)。
しかしながら,他方,輸液回路内のフィルターの使用について感染を予防できるという報告はなく,かえって感染の可能性を増加させていると指摘する文献,IVHカテーテルのシステムにおけるフィルターの必要性は議論の対象となっており,必要ないとの意見もあると指摘する文献,あるいは,かえって場合によっては感染の機会を増すとの意見もあると指摘する文献も少なからず存在することが認められ(乙20,21,23),これらを総合すると,フィルターの使用を推奨する文献が複数存在することを踏まえても,平成6年当時における医療水準として,一般に医療従事者にIVHカテーテルの施行時にマイクロフィルターを使用しなければならないとの注意義務が課せられていたものと認めることはできないというべきである。なお,原告らは,輸液を薬剤部で調製し又は無菌性の高いクローズド・ニードル・サンプリング・システムを使用しない場合にはフィルターを使用しないことが注意義務違反に当たるとも主張するが,これに沿う証拠はなく,また,上記のとおりフィルター使用の要否に関する議論の存在を指摘する上記文献においても,輸液の調製場所や使用するシステムとの関連で議論が行われている形跡はないから,この主張も採用できない。
エ ⑧について
刺入部の消毒を毎日行うべき注意義務の有無について検討するに,乙第8号証によれば,被告病院では,刺入部を1日おきに消毒し,減菌ガーゼのついたデルマポアで覆い絆創膏で固定していたと認められる。そして,原告らの主張に沿う証拠としては甲第13号証(院内感染対策研究会(代表蟻田功)編集の院内感染対策マニュアル改訂第2版)があるものの,IVHカテーテル施行時における感染防止対策に関する他の医学文献(乙17ないし19)においては,刺入部の消毒を毎日行うべきとするものは見当たらず,かえって,消毒を1週間当たり2回とする文献(乙16)も存在するのであるから,上記甲第13号証をもってしても,被告病院の医療従事者において刺入部の消毒を毎日実施すべき注意義務があったと認めるには十分でない。
したがって,被告病院の医療従事者に原告ら主張の注意義務違反があったとはいえない。
オ ⑪について
前記争いのない事実によれば,MRSAの感染があったと推認される7月19日ころと本件敗血症の発熱がみられた翌20日の両日はもちろん,7月1日以降発熱までの間花子に抗生剤は投与されていないのであるから,この時期における抗生剤の投与を過失として主張する原告らの主張は,前提を欠くものというほかない。
(3) 以上によれば,被告病院の医師等の過失をいう原告らの主張は,いずれも理由がない。
4 結論
以上によれば,原告らの請求は,その余の争点について判断するまでもなくいずれも理由がないから,棄却を免れない。
(裁判長裁判官 山﨑勉 裁判官 畠山新 裁判官 宮﨑謙)
別紙
時系列表
4月6日 自己血液200ミリリットル採血。
13日 自己血液400ミリリットル採血。
20日 自己血液400ミリリットル採血,同月6日採血の200ミリリットルを輸血。
26日 心臓血管外科のB医師(以下「B医師」という。)は,花子及びその親族らに対し,病状,本件手術の内容,危険性等を説明し,本件手術の承諾を得た。
27日 自己血液400ミリリットル採血,同月13日採血の400ミリリットルを輸血。
5月2日 自己血液400ミリリットル採血。
6日 本件手術を施行。
手術感染防止のため,午後3時からフルマリン1回1グラムを1日2回,午後9時からペントシリン1回1グラムを1日2回の点滴静注をそれぞれ開始した。
7日 気管内チューブを抜管。花子は,もうろうとしており,視線定まらず,指示運動は出来るが左手に力が入らず,右共同偏視が認められる。
8日 グリセオールの投与を開始(6月6日まで)。
9日 脳CTで右脳梗塞の所見を認める(以後適宜脳CTの検査施行)。
10日 被告病院脳神経外科が診察,右中大脳動脈の塞栓症の疑いと診断。ステロイド剤の投与も開始(同月17日まで)。
11日 シュワンガッツカテーテルを抜去。左鎖骨下静脈よりIVH(静脈内高カロリー輸液)カテーテルを挿入し,中心静脈栄養開始。
16日 おはようのゆっくりした発語ができる。また,寒い,イヤダの意思表示もゆっくりできる。
17日 フルマリン,ペントシリンの点滴静注をこの日で止める。
18日 ベッドサイドでのリハビリを開始。
6月3日 ICUから2階東病棟に転室。
4日 経管栄養を開始。
8日 中心静脈栄養を止める。
10日 IVHカテーテルを除去。
11日 37度台の発熱出現。
12日 朝からフリマリン1回1グラム,1日2回の点滴静注を開始。
13日 カテーテル尿の培養検査を提出。
14日 発熱して脱水状態となる。
動脈血培養検査を提出。この日,フルマリンの点滴静注を2回行って,中止。
夜,チエナム1グラム,トブラシン60ミリグラムの点滴静注を行う。白血球数は10400,CRPは0・58ミリグラム毎デシリットル。
15日 朝,チエナム,トブラシンの点滴静注を行う。尿培養検査で,肺炎捍菌とキャンジダ(真菌)が検出される。
B医師は,花子を尿路真菌症と診断し,夕方,チエナムとジフルカン100ミリグラムを点滴静注。ジフルカンは,以後同月29日まで1日1回百ミリグラムの点滴静注を続ける。白血球数は8600,CRPは0・38ミリグラム毎デシリットル。
16日 ペントシリン1回2グラム,1日4回の点滴静注を開始。この日,チエナムは点滴静注せず。ICUに転室。
IVHカテーテルを再挿入し,中心静脈栄養を開始。
17日 動脈血培養検査の結果は陰性。
18日 36度台に解熱する。
21日 ペントシリンの1回投与量を1グラムに変更。
29日 この日で,ジフルカンの点滴静注を中止。
30日 ペントシリンは,午前4時の点滴静注で中止。
7月1日 ICUから2回東病棟に転室。
14日 プリンも半分くらい摂取,流動食を開始。
20日 昼過ぎ,39度の発熱出現。夜8時ころ,セファメジンを静注。
21日 ペントシリン1回2グラムを1日2回,モダシン1回1グラムを1日2回の点滴静注を開始。IVHカテーテルを抜去,それと動脈,尿,喀痰の培養検査を提出。白血球数は17000,ヘモグロビン10・3グラム毎デシリットル,血小板286000,CRPは9・21ミリグラム毎デシリットル。
24日 尿量減少傾向,マニトール,ラシックスの投与開始。BUN49ミリグラム毎デシリットル,クレアチニン1・57ミリグラム毎デシリットル,白血球12500,ヘモグロビン8・7グラム毎デシリットル,血小板12000。血圧低下,呼吸不全が認められる。気管内挿管を行い,人工呼吸開始。ドーパシン,ボスミン,FOYの投与を開始。多血小板血漿の輸血開始。持続的血液濾過透折を開始。
25日 動脈血培養などで,MRSAが検出される。夕方より抗生剤をミノマイシンとバンコマイシンに変更。総ビリルビン15・29ミリグラム毎デシリットル(直接ビリルビン10・98ミリグラム毎デシリットル),GOT(AST)119,GPT(ALT)41で肝不全を併発。
26日 肝不全悪化し,血漿交換を行う。
28日 午後10時23分,死亡を確認。