青森地方裁判所弘前支部 平成11年(ワ)165号 判決 2002年4月25日
原告
子原春子
外2名
原告ら訴訟代理人弁護士
葛西聡
被告
国
同代表者法務大臣
森山眞弓
同訴訟代理人弁護士
石田恒久
同指定代理人
坂本善信
外8名
被告
財団法人秀芳園
同代表者理事
石川惟愛
同訴訟代理人弁護士
木﨑孝
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告らは、原告子原春子に対して、連帯して金1129万1500円及びこれに対する平成9年9月9日から支払済まで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは、原告子原太郎に対して、連帯して金564万5750円及びこれに対する平成9年9月9日から支払済まで年5分の割合による金員を支払え。
3 被告らは、原告丑山夏子に対して、連帯して金564万5750円及びこれに対する平成9年9月9日から支払済まで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
1 本件は、被告国の医師の指示により、被告財団法人秀芳園(以下「被告法人」という。)勤務の医師による大腸切除手術を受けた結果、小腸の癒着などが生じるなどして死亡した者の遺族が、同医師らに誤診、手術したことの過失及び説明義務違反があるとして、損害賠償請求(共同不法行為)をする医療過誤の事案である。
2 争いのない事実
(1) 子原次郎(以下「次郎」という。)は、昭和2年5月18日生の男子であったが、平成9年9月8日、後記3の経緯により死亡した(以下、同一連の経緯を「本件事故」という。甲1)。
(2) 原告子原春子(以下「原告春子」という。)、原告子原太郎(以下「原告太郎」という。)及び原告丑山夏子(以下「原告夏子」という。)は、それぞれ次郎の妻、長男及び長女である(甲1ないし3)。
(3) 甲田一郎医師(以下「甲田医師」という。)は、本件事故当時、被告国が設置管理する弘前大学医学部附属病院(以下「大学病院」という。)第1内科の医師であり、国家公務員であった。
(4) 乙山二郎医師(以下「乙山医師」という)は、本件事故当時、被告法人弘前中央病院(以下「中央病院」という。)に雇用された職員であった。
3 診療の経過(争いがない)
(1) 次郎は、浪岡町の一般の健康診断において、良性の大腸ポリープのあることが指摘されていたが、取り立てて問題はなかった。
次郎は、平成7年7月10日、大学病院で右下肢等の閉塞性動脈硬化症術の手術を受け、以来2週間に1回ほどの割合で大学病院に通院していた。
(2) 平成8年6月21日、次郎は、肛門下血の症状が現れたため、大学病院第1内科を受診した。
同年7月3日、次郎は、大学病院第1内科において甲田医師の手による大腸内視鏡(ファイバースコープ)検査を受けた。その結果、肛門から20センチメートルのS状結腸に約2センチメートルの有茎性ポリープがあることが判明し、内視鏡ポリペクトミー(ポリープ除去)の適応と判断された(大腸は、盲腸、結腸及び直腸の3部分に区分されているが、大腸ポリープとは、この大腸粘膜から隆起して認められる病変を総称する医学的な臨床用語である。ポリープには、良性と悪性(癌)があり、大腸早期癌の多くはポリープの形態を示す。大腸ポリープの担癌率は、その大きさの増大に伴い増加することが数多く報告されている。一般に長径6mm以上のポリープを内視鏡的なポリペクトミー適応と判断することには医学的なコンセンサスが得られている。)。また、S状結腸に多数の大腸憩室も認められた。
(3) 次郎は、平成8年11月ころ、甲田医師から、「ポリープをとりましょう」と勧められ、同年11月27日、次郎は、内視鏡的ポリペクトミーを受けるため大学病院第1内科に入院したが、閉塞性動脈硬化症術後として大学病院第1外科にて抗血小板剤(プレタール)が処方されていたことから、約1週間の休薬後の同年12月2日、大学病院第1内科の丙川三郎医師(以下「丙川医師」という。)の手による内視鏡的ポリペクトミーの施術を受け、同手術は出血、穿孔等の合併症もなく終了した。
翌12月3日、丙川医師が腹部所見・臨床症状に異常がないことを確認し、退院後の生活上の注意点などを説明した後、次郎は退院した。
(4) 切除されたポリープ(以下「本件切除ポリープ」という。)についての病理組織検査の結果は、平成8年12月10日に判明したが、その態様は「中等度分化腺癌、sm(粘膜下深達)、med(髄様型)、INFα(膨張性発育)、ly0(リンパ管侵襲なし)、v1(軽度の血管侵襲あり)」というものであった。
大学病院の医師は、粘膜下層に浸潤した早期大腸癌であり、切除部の断端は陰性であるものの、脈管侵襲(静脈侵襲)が陽性の中分化型腺癌であり、外科的追加切除の適応と診断し、次郎に対し、同年12月後半ないし平成9年1月ころ、腸の一部を切除するための開腹手術を説明し、行うこととなった。
手術は、大学病院からの紹介で、中央病院で行うこととされた。
(5) 次郎は、平成9年2月12日、中央病院に転入院した。大学病院第1外科からの紹介状(診療情報提供書)には、「いわゆる脈管侵襲(+)につき追加切除が必要なため、手術をお願いする次第です。腫瘍の局在については、当院第1内科にご相談下さい。」と記載されていた。手術の日程は、同月26日と定められた。
(6) 平成9年2月13日、中央病院で、経静脈性の血管造影検査(iv−DSA)が行われた。この検査の目的は、本件患者には、閉塞性動脈硬化症による腹部大動脈―右大腿動脈―右膝窩動脈間バイパス手術の既往があったため、これが本件S状結腸追加切除手術に影響するかどうかを確認することにあった。
血管造影検査の結果からは、本件手術を行うに当たり、閉塞性動脈硬化症による同バイパス手術の既往は特に影響なさそうであった。しかし、IIA(内腸骨動脈)が同定できないため、IMA(下腸間膜動脈)は手術の際温存した方がよいであろうと判断された。
同月17日、癌の肝臓転移の有無を調べるため腹部CT検査が施行されたが、肝転移は認められなかった。
同月19日、乙山医師は、ポリープがあった場所が手術の際大腸の漿膜側(大腸の外側)からはっきりと分かるようにするため、大学病院第1内科に対して、大腸ファイバースコープによるポリープ切除部位のマーキングを依頼した。そして、この大腸ファイバースコープによるマーキングは、同月24日に施行されることになった。
同月20日、右鎖骨下静脈からIVH(中心静脈栄養法)が行われた。
(7) 平成9年2月24日、大学病院第1内科で、甲田医師により、大腸ファイバースコープによるポリープ切除部位のマーキングが試みられた。しかし、切除部位の同定ができなかったためマーキングは施行されなかった。その結果報告書によれば、「S状結腸に憩室多発し、発赤が散在し、軽度の憩室炎です。その付近に(ポリープの)瘢痕があるはずですが、(切除してから)2か月以上たっているのでほとんど分かりません。よってマーキングは出来ませんでした。R―S(直腸S状結腸の移行部)を中心に切除下さい。」とのことであった。
同日、原告春子及び原告太郎(以下「原告春子ら」という。)は乙山医師に呼ばれ、次郎の病名が癌である旨を告げられた。原告春子らは、大学病院からは病名が癌であるということは一切聞かされていなかったために大きなショックを受け、「明日あさってに手術というときになっていきなり癌告知をするとはひどいではないか。」と苦情を述べた。この際、原告春子らが、開腹手術に強く反対したため、中央病院では、2日後に予定していた手術施行は見送ろうと考えた。
しかし、その直後、甲田医師と連絡を取った乙山医師から、手術の施行の必要性の説明等を受け、結局は開腹手術を行うこととなった。
(8) 同月26日、乙山医師の執刀により、本件手術(S状結腸の高位前方切除術)が行われた。甲田医師から、ポリープ切除部位は肛門から20cmの所なので、距離を測って切除してほしいと電話で連絡を受けていた乙山医師は、肛門からサイザーという計測機械を挿入して、肛門から20cmの所に黒の絹糸でマーキングを施し、そのマーキング部位を中心に、口側10cm、肛門側5cmの部位で大腸を切除した(切除した大腸の長さは約15cm)。
同月27日、弘前大学医学部に対して、中央病院の乙山医師から切除標本(大腸及びリンパ節)の病理学的検査の依頼があり、これを受けて、同学部の病理学第1講座の丁田四郎教授及び戊川五郎医師が切除標本の病理学的検査を行ったところ、切除標本に癌遺残はなく、リンパ節転移は陰性であった。
(9) 手術後数日して、次郎に癒着腸閉塞の症状が生じ、その後小腸の癒着が生じていることが判明した。
(10) このため、平成9年3月17日、乙山医師は、癒着した小腸部分を剥離・切除する手術を行った。その後、小腸瘻が形成されていることが判明し、以後、次郎は、口から管を入れて生活しなければならなくなり、また、その後も強い腹痛で苦しみ、全身が衰弱していった。
同月27日、次郎は、中央病院から大学病院第1外科に紹介入院となった。
(11) 次郎は、大学病院に入院時(平成9年3月27日)、上腹部・下腹部にまたがる正中創の中心部約5センチメートルが離開しており、そこから腹腔内に向けてサンプチューブが挿入され、右側腹部にはダグラス窩に向けて10mmのドレーン、腹腔内トライツ靭帯付近に向けて10mmのドレーン、下腹部正中創へ皮下ドレーンの合計6本の排液ドレーンが挿入されていた。また、正中創の細菌学的検査では腸内細菌が検出された。そして、皮膚には軽度黄疸を認め、聴診上は右上肺野の呼吸音の軽度減弱がみられ、腸閉塞症、難治性小腸瘻で経口摂取不能の状態であった。
(12) 平成9年3月29日、大学病院第1外科の乙川春江医師(以下「春江医師」という。)が、原告夏子に対してこれまでの経過を説明し、治療方針としては炎症の沈静化を待ち、いずれ外科的処置が必要となるかもしれないこと、経過中に全身状態の悪化の可能性もあることを説明した。原告夏子はこの説明を了承した。
同年5月7日には、春江医師が次郎に対してこれまでの症状経過を説明し、いずれ手術が必要になるであろうと話した。次郎はこれを了承した。
(13) 平成9年6月16日、春江医師は、原告春子らに対し、次郎に中心静脈栄養カテーテルに起因すると思われる発熱がみられるため解熱したら手術についての日程を検討したい旨説明し、承諾を得た。
同年7月4日、春江医師は、原告春子に対し、腸瘻のカテーテルから少量の経腸栄養(成分栄養)を施行したところ次郎の全身状態も好転してきたので7月中に手術をしたい旨説明し、承諾を得た。
同月24日、春江医師は、原告春子らに対し、最終的な手術の予定として、2か所の腸瘻を含めて小腸を切除し、小腸の端々吻合をしたい旨伝え、術後は縫合不全などの合併症もあり得ることも説明した。原告春子らはこれを承諾し、原告太郎が手術の同意書に署名した。
同月28日、次郎の小腸瘻周辺の炎症が消退したため、春江医師をはじめとする消化器グループの4名の医師が全身麻酔下に開腹し、腸瘻を含む約42cmの小腸切除と胃瘻造設術を施行した。
同月31日、次郎の腹腔内ドレーンから胆汁を含む腸液の排出が認められ、腸管穿孔または縫合不全と考えられた。以後、次郎は腹膜炎の所見を呈した。
同年8月8日、春江医師が原告春子に対して、次郎は腹膜炎を併発しているがCT上明らかな膿瘍は証明できないこと、同日から急激に低酸素血症の状態となり、呼吸・循環不全に陥ってきたので集中治療室に移して治療したい旨伝え、承諾を得た。
同月9日及び11日、春江医師は、原告春子らに対し、次郎は呼吸器不全、腎不全、肝不全及び重症感染症併発で、全身状態不良である旨説明した。
その後、同月18日、22日及び9月2日にも春江医師等が原告春子らに対して経過を説明した。
(14) 平成9年9月7日、春江医師が原告春子らに対し、次郎の全身状態の悪化を伝えた。これに対し、原告春子はこれ以上の積極的な治療を望まない旨の意思を表明したが、原告太郎はこのままの治療の続行を希望した。
翌8日、次郎の多臓器不全は改善せず、午後4時3分死亡した。春江医師が原告春子らに対してこれまでの経過を説明し、病理解剖を申し入れたが原告春子らの了承は得られなかった。
(15) 平成10年2月17日、青森地方裁判所弘前支部により本件の証拠保全が行われた(事件番号平成9年(モ)第325号)。
4 請求の概要
原告らは、被告国に対しては、甲田医師の過失による国家賠償法1条又は民法715条に基づき、被告法人に対しては、乙山医師の過失による民法715条に基づき、損害賠償請求権として(甲田医師と乙山医師の共同不法行為である。)、原告春子は1129万1500円、原告太郎及び原告夏子は各564万5750円並びにこれに対する不法行為の後である平成9年9月9日(次郎死亡の日の翌日)から支払済まで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
5 争点及び争点に対する当事者の主張
(1) 国家賠償法の適用の有無
(原告らの主張)
国立大学医学部附属病院における医療行為についても、国家賠償法の適用を認めるべきである。
(被告国の主張)
国立病院あるいは国立大学附属病院における医師の医療行為は、医師が専らその専門的技術及び知識経験を用いて行う行為であって、医師の一般的診断行為と異なるところはないから、それ自体としては公権力の行使たる性質を有するものではなく、国家賠償法1条の適用はない。
したがって、被告国は、大学病院の医師の行為について国家賠償法1条の責任を負うことはない。
(2) 癌と誤診した過失の有無―過失その1
(原告らの主張)
大学病院の甲田医師は、経過観察をせずに腸切除手術を選択した過失を犯した。
① 医学的見解について
ア ポリペクトミーによって切除したポリープの病理組織学的診断に「明らかな脈管侵襲」が見られる場合に、追加的腸切除の手術が不適応ではないことは認める。
しかし、このような場合でも、腸切除手術が唯一の治療手段というわけではなく、当面は腸切除術を施行せずしばらく経過観察をするという選択にも、十分に合理性がある。
イ 大腸癌取扱い規約(乙A6)が挙げている腸切除適応の3条件(①明らかな脈管内癌浸潤、②低分化腺癌あるいは未分化癌、③断端近傍までのmassiveな癌浸潤の1項目以上の存在)について、脈管侵襲特にリンパ管侵襲の正確な組織学的診断は必ずしも容易ではない。また低分化腺癌はきわめてまれな組織型であること、断端またはその近傍までのmassive invasionは切離線の位置がポリペクトミーの技術に左右されることから、これらのリスクファクターの有用性に問題がないわけではないとして、転移・再発について他の種々のリスクファクターを用いる説のあることが指摘されている。
ウ 内視鏡的切除等の後に組織学的にsm癌で転移のリスクファクターが認められた場合には腸切除の追加が適応となるが、転移があることは多くないので、実際に追加切除を行うか否かは、患者の年齢、病変部位や全身状態などから、総合的に判断されるべきであるとする説もある。
エ 一般に、早期の大腸癌(m癌、sm癌)は、全体としては転移の可能性はそれほど高くなく、内視鏡的切除術の予後も良いと考えられている。
オ 早期大腸癌の中でもsm癌(特にsm2、sm3癌)の中には、リンパ節などへの転移が見られるものが一定あるとされているが、その割合は概ね10%程度とされている。
カ ポリープ様の隆起型早期癌は、発育速度が遅く浸潤性大腸癌になりにくいとの指摘もある。
② 次郎の大腸癌の状態
本件切除ポリープの病理組織学的診断によれば、脈管侵襲のうちリンパ管侵襲はなく、静脈侵襲のみであり、その侵襲の程度はv1すなわち軽度の侵襲であった。
被告らは、この大腸癌の深達度についてsm2と主張するが、カルテ上の記述はいずれも単に「sm」とされているのみであること、甲4の1の4枚目「組織学的所見」の欄の右端図からは、「sm浸潤部の粘膜筋板のレベル」と「固有筋層上縁」のそれぞれがどの部分に位置するのかが明らかでないことから、sm2とする根拠はない。
③ 追加的腸切除の妥当性
前記①指摘のように、追加切除を行うか否かは、大腸癌取扱い規約が挙げている腸切除適応の3条件を参考とするものの、これらを含め、種々のリスクファクターを用いて、患者の年齢、病変部位や全身状態などから、総合的に判断すべきであるところ、前記②指摘のように、次郎の場合、脈管侵襲のうちリンパ管侵襲はなく、静脈侵襲のみであり、その侵襲の程度はv1すなわち軽度の侵襲であったというのであるから、癌の遺残や転移等の危険因子が多数見られたとまでは言い難く、前記①エないしカ指摘の事由等を考慮すれば、当面、追加的腸切除をせずにしばらく経過観察をすべきであった。
(被告国の主張)
① 医学的見解について
ア 大腸sm癌には、10%程度のリンパ節転移の可能性があり、リンパ節転移が陰性であるか否かの判定も困難であることから、原則的に手術適応か否かの判断は、大腸癌診療の規範となる「大腸癌取扱い規約」に準じて判断されるべきである(追加腸切除の適応基準は、①明らかな脈管内癌浸潤、②低分化腺癌あるいは未分化癌、③断端近傍までのmassiveな癌浸潤のいずれか1項目以上の存在)。
イ リンパ節転移の頻度は、sm1は、sm2、sm3と比較し明らかに低率であるが、sm2以上の場合、転移率に有意な差があるとは必ずしもいえない。癌遺残のリスクを検討した19施設1806例の結果によれば、sm2のみでも11%にリンパ節転移が見られ、しかも、sm2では、リンパ節転移がある癌の45.6%はS状結腸とされている。また、有茎性の形態のものでは41.2%、11から20mmの大きさのものでは48.5%という高率でリンパ節転移がみられる。さらに、リンパ節転移のあるsm2癌の約29.4%が中分化型腺癌であり、33.8%に静脈侵襲がみられる。
ウ sm浸潤量絶対値による浸潤度分類が、内視鏡的摘除大腸sm癌の追加腸切除の適応を決める上で最も有用であるとの報告例も多い。リンパ節転移リスクに対するsm垂直浸潤最大長の絶対安全領域としては、報告されている限り、最も長いもので1000μm(1mm)である。
エ 中分化腺癌をリスクファクターのひとつとしている例もある。
② 次郎の大腸癌の状態
本件切除ポリープの病理組織学的所見によれば、癌はポリープの頭部に存在し茎部まで浸潤しており、深達度は粘膜下層浸潤癌(sm癌)の中のsm2(浸潤の深さにより3つに分類した場合における中程度のもの)、静脈侵襲(+)、長径2cmの中分化型腺癌であった。
大腸sm癌の浸潤度分類は、相対値による分類と絶対値による分類に大別される。臨床的には、相対値による分類がよく用いられ、粘膜下層の厚さを3等分し、癌の浸潤が上3分の1にとどまるものをsm1、3分の2までをsm2、3分の2を越えるものをsm3に分類するものである。内視鏡的切除では粘膜下層までしか切除されないため、内視鏡的摘除標本では「固有筋層の上縁」の同定は不可能であるが、次郎の癌は「粘膜筋板のレベル」を明らかに超え、さらには茎部に浸潤し断端近傍まで深く及んでいることから、中等度浸潤以上(sm2以上)であることは明らかである。また、次郎のポリペクトミー標本と追加手術標本で実際に検討してみると、1回目のポリペクトミーされたポリープの長径は15mm、粘膜筋板から切除断端までの距離は約9mmであり、内視鏡フィルムの検討では内視鏡的に追加切除された部分は2mm前後であり、残存している粘膜下層は1から2mm程度とみるのが相当であるから、次郎の粘膜下層の厚さ(粘膜筋板から固有筋層までの距離)は12ないし13(9+2+1ないし2)mm程度と解される。次郎のsm浸潤は粘膜筋板を越えて約7mmに及んでおり、粘膜下層の厚さの約2分の1を超える浸潤と判断されるので、明らかに中等度浸潤(sm2)である。
③ 追加的腸切除の妥当性
大腸癌診療の規範となる大腸癌取扱い規約(前記①ア)では、内視鏡的切除後の腸切除の適応の3条件の1つとして「明らかな脈管内癌浸潤」をあげているところ、次郎の癌の粘膜下層浸潤は、粘膜筋板から7mmに及んでおり、「より深い粘膜下浸潤癌」、すなわちmassiveな癌浸潤例であり(「きわめて浅いsm浸潤癌」は、粘膜筋板を約200μmから300μmを越えた程度の浸潤とされている。)、脈管内癌浸潤(静脈侵襲)のリスクファクターを有していた。
次郎の癌は中分化腺癌であった。
さらに、前記①ウ指摘の相対的、絶対的な大腸sm癌の浸潤度分類に照らし合わせても、次郎のsm垂直浸潤最大長は、同絶対安全領域の7倍に当たる7mmであった。
これらを踏まえ第1内科東田六郎医師(以下「東田医師」という。)及び第1外科西山七郎医師(以下「西山医師」という。)は、次郎の場合、種々の危険因子を有していることからリンパ節転移の可能性が高く、リンパ節を含んだ腸切除が必要であると判断したものである。
ところで、このような危険因子を有する症例に対して実際に腸切除を施行しても、全ての症例でリンパ節転移が証明されるわけではない。しかし、一方で、経過観察中に多発性の血行性転移や骨転移を起こした症例も報告されている。すなわち、腸切除前にこれら癌の浸潤したリンパ節あるいは腸管壁の静脈浸潤を細胞レベルで100%確実に診断することは、現在の医学水準では不可能である。したがって、現時点では、多数の臨床例の解析結果に基づいて、切除したポリープに種々の危険因子を有する場合には、リンパ節転移を中心とする遺残の危険性が高いと判断せざるを得ず、腸切除の施行という根治的治療が勧められるのである。
以上から、原告らの主張は、病理的理解を欠いており失当である。
④ 原告らの主張に対する反論
原告らは、ポリペクトミーによって切除したポリープに「明らかな脈管侵襲」が見られる場合でも、腸切除を施行せず経過観察も選択肢の一つであると主張する。
sm1癌あるいは「きわめて浅いsm浸潤癌」については追加切除の適応としないことは、概ねコンセンサスが得られている。また、sm2癌あるいは「より深い粘膜下層浸潤癌」についても、結果としてはその90%にリンパ節転移がみられない。しかし、リンパ節転移陽性の10%の症例をより高率に検出するために数々の検討が行われてきているものの、いまだ感度の高い因子は発見されていない「より深い粘膜下浸潤癌」の場合には脈管侵襲がはっきりしない場合でも追加切除を考慮した方がよいとされているように、陰性と判定することは困難であるとされている。したがって、次郎の切除ポリープが危険因子としてv1(軽度の静脈侵襲)とされても、明らかな陽性所見が認められた場合には、追加切除適応とみるべきである。
(3) 開腹切除手術の過失の有無―過失その2
(原告らの主張)
甲田医師及び乙山医師は、平成9年2月24日にファイバースコープ検査で「癌切除部分が不明、マーキング不能」という所見であったのであるから、さらなる検査や経過観察等、切除部分の癌組織の有無について慎重に確認すべきであったのに、これを怠り、開腹切除手術を施行した注意義務違反がある。
(被告国の主張)
争点(2)の被告国の主張のとおり
(被告法人の主張)
① 癌が遺残していたとしても、ポリープ切除後2から3か月程度で、当該切除部位にポリープの再発が起こることは可能性としては少ない。ポリープ切除後2か月以上たった時点で「癌切除部分が不明、マーキング不能」という所見であったことは、全く、癌遺残の可能性を減少させるような事情ではなく、「切除部位の癌組織の有無を慎重に確認」すべきといった注意義務を定立する根拠にはなり得ない。
② 本件切除ポリープの病理組織検査で静脈侵襲が陽性であった本件においては、癌遺残の可能性、リンパ節転移の可能性は高く、リンパ節を含んだ大腸切除術の適応にあったことは明らかであり、「癌切除部分が不明、マーキング不能」という所見は、この手術適応を何ら減殺するものではない。
③ 原告は、「さらなる検査」をすべきであったというが、具体的にどのような検査をすべきであったか明確でない。切除部分の癌組織の遺残の有無やリンパ節転移の有無を確認する方法としては、本件手術(大腸切除)の施行以外にはない。
④ 原告は、経過観察を行うべきであったともいうが、次郎の場合、大腸憩室が多発していることもあり、大腸内視鏡等での経過観察は困難であった。さらに、仮に困難をおして大腸内視鏡等で経過観察したとしても、再発形式は前回と同じようにポリープであるとは限らず、周囲のリンパ節転移や遠隔転移の形で再発する可能性もある。そのような場合、再発が確認できた時点では手遅れである可能性も高い。
(4) 説明義務違反の有無―過失その3
(原告らの主張)
① 注意義務違反の内容
ポリペクトミーの結果を踏まえて追加的腸切除手術を行うかどうかを決定する際には、医師としては、患者・家族に対して、患者の病状、当該手術を選択する理由、当該手術を行った場合の改善の見込み・程度、当該手術による合併症等の危険性、当該手術を行わず経過観察とした場合の予後(転移・再発の可能性など)等について、できるだけ具体的に説明し、患者・家族がそれらを十分に比較衡量した上で手術に同意するか否かを決定できるよう配慮すべき義務を負うと解すべきである。特に、本件の場合には、手術2日前に初めて大腸癌であると聞かされた原告ら家族が、開腹しての腸切除手術に当初強く反対しており、乙山医師ですら開腹手術の施行を一時取りやめようかと考えたほどであった。このような事情の下では、医師側としては特に前記の事項について具体的な情報を十分に患者・家族に与え、患者・家族がこれをもとに熟考した上で切除手術を受け容れるかどうかの判断をさせる必要が高い。また、直接手術を担当する医師を指導し助言を与える医師においても、かような説明の上で手術への同意が得られるよう配慮して指導・助言を与えねばならない。
ところが、甲田医師は、「絶対に手術して欲しい」と強く指示・勧奨し、乙山医師は、sm癌のリンパ節等への転移頻度や、腸切除手術の後の癒着性イレウスの合併についても具体的説明をせず、「今ならば盲腸程度の手術で終わるが、転移してから手術をするとなると命にかかわる」等、今の時点で開腹手術をすることが不可欠であり、今当該手術をしなければ重大な結果を生じかねないという趣旨の話を原告らにした。このため、原告ら及び次郎は、専門家である医師がそこまで強く現時点での手術を勧めているところから手術を先延ばしすることに極めて大きな不安を抱き、腸切除手術に同意せざるを得なくなった。
このように、次郎及び原告らの瑕疵ある同意によって腸切除手術が施行され、これに起因して重い術後イレウス等の合併症が生じ小腸瘻形成その他全身状態の悪化を来すなかで、次郎は死に至ったものであって、少なくとも、このような瑕疵ある同意を導いて腸切除手術を施行した点で、甲田医師や乙山医師らに十分な説明をしなかった注意義務違反がある。
② 原告らの主張する説明に関する事実
ア 大学病院の医師から次郎に対して、平成8年12月27日及び平成9年1月9日に「ポリープが癌であり、癌が遺残している可能性がある」旨の説明がされたことはない。
次郎は、ポリープがまだ残っているかもしれないという説明は受けたものの、癌あるいは悪性の腫瘍が残っている、そうであるから外科的に切除手術が必要であるという説明は受けていない。
前記各日時には、次郎が1人で大学病院に赴いたが、病院から帰ってきた次郎は、「盲腸よりも簡単な手術になるそうだ」「4月からでもまた仕事ができる」などということしか原告らに話していないし、次郎が中央病院に手術入院する直前の平成9年1月、原告春子が「まさか癌ではないだろうね」と聞いたのに対して、次郎は「そんなはずはない。簡単な手術して3週間くらいすれば退院できると聞いたぞ」と答えていた。
次郎は、自分の病名が癌ないし悪性腫瘍という一般に命にかかわるものと考えられているようなものとは考えておらず、原告らも、手術直前に中央病院で説明を受けるまでそのような認識はなかった。
イ 原告らは、平成9年2月24日、甲田医師が乙山医師にしたという助言についての説明を受けていない。
原告ら家族は、当初、開腹手術には強硬に反対していた。その結果、いったんは乙山医師も含めて手術を中止しようということになり、原告らは荷物をまとめて帰宅せんばかりとなった。ところが、乙山医師から「子原さんは大学病院からお預かりしている患者さんなので、大学病院の先生にも了解を得なければならないので、少し待って下さい」と言われ、以後原告らは、2、3時間ほど待たされた。
その後、原告らは乙山医師から再び話をされたのだが、その際に、甲田医師が乙山医師にしたという説明はなかった。
原告らが受けた説明は、次郎の腸に癌が残っているということを前提として、今の時点で切除手術をしておけばごく軽い手術で終わり2、3週間程度で退院できる、しかし、もしも後になって転移等してから手術をするとなると、命にかかわる重大なものとなりかねない、というもので、今手術をしないと大変なことになるという説明であった。
乙山医師からは「やはり手術は延期しましょうか」との旨の発言もあったが、これに対して原告太郎が「今退院して、しばらくしてもしも調子が悪くなったら、そのときに開腹手術をするということでもいいのですね」と確認をしたところ、乙山医師は「もしかしたらその時は病床が満杯かも知れないし……」と、すぐには対応できず開腹手術ができる時期が遅れるかも知れないとのニュアンスの返答をした。
このような同医師の言動を目の当たりにして、原告らは、やはり今開腹手術をしてもらわなければ後でどうなるかも分からないと極めて強い不安に陥り、また、専門家である医師がそれほど開腹手術が不可欠だというのならばやむを得ないという気持ちにもなり、予定どおりの手術施行に同意せざるを得なくなったものである。
(被告国の主張)
平成8年12月27日に病理組織検査結果に基づいて、東田医師が次郎に対し、「切除手術したポリープに悪性の部分があり、一部残っている可能性がある。内視鏡的に再切除手術は無理で、外科的にその部分の追加切除が必要である」旨を説明している。その判断は、甲田医師の個人的判断ではなく、あくまで治療指針に基づいたものである。
平成9年1月9日には、西山医師が次郎に対し、「ポリープは大腸の早期癌で遺残の可能性があり、後始末の手術が必要である」旨を説明し、次郎はこれに納得している。
東田医師及び西山医師は、次郎に十分な同意能力があると判断し、本人に対して説明したもので、次郎もこの説明を受けて納得し、承諾している。さらに、平成9年1月10日、第1外科南沢八郎医師も、次郎に対し病状の説明を行い、次郎は手術に納得している。
癌は仮に10%であっても転移のリスクが存在する以上、転移の有無を事前に判断することが現時点では不可能であるため、「遺残・転移の可能性」として次郎に説明がされたのである。
仮に、次郎が大学病院での説明を十分に理解していなかったとしても、その後乙山医師から術前に次郎及び原告らに対し説明がされており、さらに手術の延期についても提言されていたものである。
甲田医師と乙山医師の間に社会的な上下関係や利害関係は全く存在しない。また、甲田医師の助言は乙山医師から電話で助言を求められたのに応じて行われたものであって、これらの状況からみても、甲田医師が乙山医師に強制的に手術を行わせたとする原告らの主張は失当である。
(被告法人の主張)
① 被告法人が主張する説明の概要
ア 乙山医師は、手術予定日の2日前である平成8年2月24日午前10時半頃から、原告春子らに、大学病院で切除したポリープから癌が見つかり、静脈に浸潤していたため、癌の遺残や転移の可能性があるので、大腸の追加切除を予定している旨の説明を行った。
ところが、原告春子らは、大学病院からは癌が見つかったなどとは一言も聞いていないと立腹し、気持ちの整理がつかないことなどを理由に、本件手術に反対した。
そのため、乙山医師は、甲田医師に相談するため電話をした。この時、甲田医師は不在であったが、午後になって連絡が取れた。甲田医師は、「子原氏の場合、ポリペクトミーで切除したポリープの断端には癌細胞は認められなかったが、癌の血管侵襲があった。このような場合、癌のリンパ行性転移や血行性転移の可能性がある。追加切除しても残存癌はない可能性は十分にあるが、やはり腸の追加切除を行うべきだと思う。追加切除をしない場合には内視鏡検査で追跡検査を行っていくことになるが、子原氏の場合は大腸憩室が多発して存在しており、内視鏡検査は困難である。その点からも、追加切除をしておくことが望ましい。」といって、乙山医師に、手術を行う方向で家族を説得することを勧めた。
イ 乙山医師は、甲田医師の同助言をもとに、更に手術の必要性を原告らに伝えて説明したが、原告らはまだ釈然としない雰囲気であったため(追加切除術の必要性に疑問を感じているというよりも、癌が見つかったことを大学病院が説明しなかったことに対して立腹し、気持ちの整理がつかないようであった。)、「いろいろと考える時間もあった方が良いと思いますので、予定していた26日の手術は延期することにしますか。癌の残存も実際にはないかもしれませんし。」と述べた。これに対し、原告らは、「そういう説明ならば分かりました。手術の準備のため大量の下剤を使用し、何度も排便する姿は苦しそうであり、このような思いを再度させるのもかわいそうなので、手術は予定通り施行していただきたい。」と答えた。このように家族の納得を得たうえで、大腸切除術は予定通りに行われた。
ウ 乙山医師は、「手術をして大腸とその周囲のリンパ節を取ってみなければ、癌が残っているかどうかは分からない。癌が残っていなければ、当然、今回の手術をしなくても問題はないわけであるが、もし、癌が残っていた場合には、放っておくと、再発の可能性があり、その場合、今回と同じポリープで再発するとは限らず、周囲のリンパ節転移や遠隔転移で再発する可能性もある。調子が悪くなったときにはもう手遅れという可能性も高い。だから、現在の医学の考え方からすれば、医者としては手術を勧めざるを得ない。」と説明した上で、さらに、「しかし、あくまで最終的に判断するのはご本人、ご家族である。」と話し、手術を受けるかどうかの判断を時間を十分かけて行えるように、手術の延期を提案したのである。
エ 乙山医師は、手術の必要性だけでなく、開腹手術をした場合の合併症の可能性についても十分説明を行っていた。
② まとめ
以上のとおり、乙山医師は、甲田医師の助言に基づき、手術の意義、目的について原告らに説明し、家族の納得を得て、また当然のことながら患者本人にも説明のうえ同意を得て、予定通り大腸切除術を行ったものであり、甲田医師からの強い指示により乙山医師が「今手術をしなければ大変なことになる」と手術の施行を強く勧奨した過失はない。
(5) 損害額
(原告らの主張)
① 逸失利益
次郎は、手術前、警備員として稼働しており、入院・手術等がなかったならば引き続き稼働して収入を得ていた蓋然性が高い。
次郎の稼働時の年収は147万8183円であったが(甲6)、平成9年簡易生命表による平均余命は13.5年であり、次郎は少なくとも6年間は稼働可能であったとみることができる。
よって、次郎の逸失利益は、147万8183×5.13(稼働可能年数6年に対応する新ホフマン係数)により、758万3078円である。
② 慰謝料
次郎は、筆舌に尽くしがたい肉体的・精神的苦痛を嘗めながら早すぎた死を強いられたものであり、これによる苦痛を慰謝するには少なくとも金1500万円をもってすることが相当である。
③ 相続
以上により、次郎の損害は、少なくとも金2258万3000円にのぼるが、次郎が死亡したため、同損害のうち、原告春子が金1129万1500円についての賠償請求権を、原告太郎及び原告夏子が各金564万5750円についての賠償請求権を、それぞれ相続した。
(被告らの主張)
①及び②は否認する。
第3 争点に対する判断
1 国家賠償法の適用の有無(争点(1))
国立病院あるいは国立大学附属病院における医師の医療行為は、医師が専らその専門的技術及び知識経験を用いて行う行為であって、医師の一般的診断行為と異なるところはないから、それ自体としては公権力の行使たる性質を有するものではなく、国家賠償法1条の適用はない(最高裁昭和57年4月1日民集36巻4号519頁)。
したがって、被告国は、大学病院の医師の行為について国家賠償法1条の責任を負うことはない。
2 癌と誤診した過失の有無(争点(2))
(1) 前記第2の3診療の経過記載のとおり、次郎は、平成8年7月3日、甲田医師により、大腸内視鏡(ファイバースコープ)検査を受け、内視鏡的ポリペクトミーの適応と判断され、同年12月2日、丙川医師により内視鏡的ポリペクトミーの施術を受けたこと、その結果、外科的追加切除の適応と判断され、平成9年2月26日乙山医師の執刀により、本件手術(S状結腸の高位前方切除術)が行われたこと、本件手術により切除された大腸及びリンパの病理学的検査の結果、切除標本に癌遺残はなく、リンパ節への癌転移も見られなかったことが認められる。
(2) そこで、甲田医師又は大学病院の医師において、経過観察をせずに本件手術を選択した過失があるといえるか検討する(なお、原告らは、過失の対象を甲田医師に限定しているが、これは、大学病院において、次郎の診療がいわゆるグループ診療として行われていたところ(乙A14)、甲田医師を主治医であると誤信したことによるものであって、医療過誤という事案の性質上、過失の対象を甲田医師に限定するのは妥当ではなく、本件手術の適応があると判断した大学病院の他の医師についてもその過失の有無を検討することとする。)。
(3) 前記第2の3診療の経過記載の争いのない事実に加え、証拠(掲記の証拠の他、乙A13、14、証人西山七郎、証人甲田一郎)及び弁論の全趣旨によれば、次郎の病状及び次郎に対する診療の経過として次のような事実を認めることができ、これを覆すに足る証拠はない。
① 平成8年7月3日、次郎は、大学病院第1内科において甲田医師の手による大腸内視鏡(ファイバースコープ)検査を受けた(乙A12、右上に「21」と記載のあるもの。以下これを頁として示す。)。
その結果、肛門から20cmのS状結腸に約2cmの有茎性ポリープがあることが判明し、内視鏡的ポリペクトミー(ポリープ除去)の適応と判断された。また、S状結腸に多数の大腸憩室も認められた。
② 同年12月2日、丙川医師が、次郎の大腸ポリープについて、内視鏡的ポリペクトミーを2回に分けて施術した。本件切除ポリープの病理組織学的所見(乙A12、10頁)によれば、組織学的診断として、「中分化型腺癌、粘膜下層癌(sm)、髄様型癌(med)、膨張性浸潤(INFα)、ly0(リンパ管侵襲なし)、v1(静脈侵襲軽度)」、組織学的所見として、粘膜下層及び粘膜とも断端に癌はなく、①腫瘍細胞が不規則な腺を形成し、筋板を超えて増生しており、脈管侵襲がみられること、断端は側方、下方ともに癌は見られない、②断端に腫瘍細胞が見られないとされ、甲田医師の所見として、「脈管侵襲+につき追加切除」と記載されている。
本件切除ポリープのうち、1回目分の長径は15mm、粘膜筋板から切除断端までの距離は約9mm、sm浸潤は、粘膜筋板を超えて約7mm(乙A10の2における目盛り25から95)に及んでおり、2回目分の高さは2から3mmである(乙A10の1と2)。
③ 同月27日、第1内科の東田医師が、来院した次郎に対し、ポリペクトミーの結果、ポリープが一部残っていること、切除したものの一部から悪性のものも認められたので、追加切除が必要であるが、内視鏡的ポリペクトミーでは無理であるので、翌年1月6日に第1外科を受診するよう説明した(乙A2)。
④ 平成9年1月9日、次郎が第1外科を受診した。診察は、西山医師立ち会いのもと、北川助教授が行った。診察結果は、次郎がいない場で西山医師に説明があり、早期の大腸癌で、ポリペクトミーで断端の脈管侵襲が陽性であるので、入院して大腸切除手術を施行するという所見であった。西山医師は、次郎に対し、ポリープの絵を描きながら診察結果を伝え、あとしまつのため、手術が必要であると説明したところ、次郎は手術について納得する態度を示した(乙A3)。
⑤ 同月10日、次郎が第1外科を来院し、第1外科の南沢八郎医師に対し、手術を受けることについて承諾した(乙A8)。
⑥ 同年2月24日、乙山医師から手術部位のマーキングを依頼された甲田医師が内視鏡検査を行った。その結果、甲田医師は、S状結腸に憩室が多発し、発赤が散在し、軽度の憩室炎であると診断し、その付近に瘢痕があるはずであるが、ポリペクトミーから2か月以上経過しているので、ポリペクトミーによる切除部位がほとんど分からないこと、したがって、マーキングはできなかったこと、ただし、肛門から20cmの部位にポリープがあったことから、R―S(直腸S状部)を切除することという報告を乙山医師にしている(乙A12、26頁)。
(4) 証拠(甲8、9、乙A4ないし7、9、11)によれば、本件医学的見解について、次のとおりと認めることができる。
① 大腸癌診療の規範となる「大腸癌取扱い規約」によれば、粘膜下浸潤を伴う大腸癌の内視鏡摘除後の追加腸切除の条件は、①明らかな脈管内癌浸潤、②低分化腺癌あるいは未分化癌、③断端近傍までのmassiveな癌浸潤のいずれか1項目以上の存在である(乙A6)。
この考えに対しては、①について、脈管侵襲特にリンパ管侵襲の正確な組織学的診断は必ずしも容易ではないこと、②について、低分化腺癌はきわめてまれな組織型であること、③について、断端またはその近傍までのmassive invasionは切離線の位置がポリペクトミーの技術に左右されることから、これらのリスクファクターの有用性に問題がないわけではないとして、転移・再発について他の種々のリスクファクターを用いる説のあることが指摘されている(甲8)。また、③について、massiveの具体的内容は何かという問題があるとして、粘膜下浸潤について「きわめて浅い浸潤(粘膜筋板をわずかに(たとえば約200から300μm)越えた程度の浸潤)」と「それより深い浸潤」を区別し、前者であればリンパ節転移がほとんどないのに対し、後者ではリンパ節転移があり得るのでリンパ節郭清を含む腸切除を考慮する必要があるとするものもある(乙A6)。
② 大腸sm癌には、リンパ節転移の可能性があるといわれており、その頻度について、1806例中153例で8.5%とするもの(乙A5、7)100例中9例で9%とするもの(甲9)、約12%とするもの(乙A11)等がある(証人甲田一郎は、脈管侵襲がある場合、リンパ節転移の可能性が数%から30%あると証言するが、乙A11では35%というものがある。)。
③ リンパ節転移の頻度は、粘膜下浸潤の程度により、sm1は、sm2、sm3と比較し明らかに低率であるが、sm2以上の場合、転移率に有意な差があるとは必ずしもいえない(乙A5)。
④ 癌遺残のリスクを検討した19施設1806例の結果によれば、sm2では11%にリンパ節転移が見られた(sm1は3.2%)。sm2でリンパ節転移がみられた症例についてみると、占居部位の45.6%はS状結腸であり(sm1は42.9%)、肉眼型では有茎性(Ip・Isp型)の形態が41.2%を占め(sm1は47.6%)、sm2癌の最大径は11から20mmのものが48.5%を占めている。また、リンパ節転移のあるsm2癌の約29.4%が中分化型腺癌であり、33.8%に静脈侵襲がみられる(乙A5)。
⑤ sm浸潤量絶対値による浸潤度分類が、内視鏡的摘除大腸sm癌の追加腸切除の適応を決める上で最も有用であるとの報告例もある。リンパ節転移リスクに対するsm垂直浸潤最大長1000μm(1mm)未満の領域(絶対安全領域)ではリンパ節転移陽性病変はみられなかった(乙A9)。
⑥ 大腸sm癌の浸潤度分類は、相対値による分類と絶対値による分類に大別される(sm深達レベルによるとするものもある。乙A9)。臨床的には、相対値による分類がよく用いられるが(乙A9)、これは、粘膜下層の厚さ(粘膜筋板位置から固有筋層まで)を3等分し、癌の浸潤が上3分の1にとどまるものをsm1、3分の2までをsm2、3分の2を越えるものをsm3に分類するものである。
⑦ 中分化腺癌をリンパ節転移のリスクファクターのひとつとして追加腸切除を考慮した方がよいという考えもある(甲8、乙A11)。
(5) 以上を前提に、本件手術を選択した甲田医師及び大学病院の医師の判断に過失があるか検討する。
① 前記(3)のとおり、ポリペクトミーによる本件切除ポリープに粘膜下浸潤がみられ、sm癌であること、粘膜下浸潤度については、内視鏡的切除では粘膜下層までしか切除されないため、内視鏡的摘除標本では「固有筋層の上縁」の同定は不可能であるが、次郎のポリペクトミー標本と追加手術標本で実際に検討してみると、1回目のポリペクトミーされたポリープの長径は15mm、粘膜筋板から切除断端までの距離は約9mmであり、内視鏡フィルムの検討では内視鏡的に追加切除された部分は2から3mm前後であり、残存している粘膜下層は1から2mm程度とみるのが相当であるから、次郎の粘膜下層の厚さ(粘膜筋板から固有筋層までの距離)は12ないし14(9+2ないし3+1ないし2)mm程度と解されるところ、次郎のsm浸潤は粘膜筋板を越えて約7mmに及んでおり、粘膜下層の厚さの約2分の1を超える浸潤と判断されるので、明らかに中等度浸潤(sm2)に該当するものと評価できること(この点、原告は、カルテ上の記述はいずれも単に「sm」とされていること、甲4の1の4枚目「組織学的所見」の欄の右端図からは、「sm浸潤部の粘膜筋板のレベル」と「固有筋層上縁」のそれぞれがどの部分に位置するのかが明らかでないことから、sm2とする根拠はないと主張するが、浸潤度は、相対的に判断することも一般的であるところ、乙A10の本件切除ポリープの写真からして、一応の推測は可能であり、その浸潤の程度は相当あるものと認めることは困難ではない。)、リンパ管侵襲はないものの、軽度の静脈侵襲が見られ、中分化型腺癌であると診断される。
② してみると、大腸癌診療の規範となる「大腸癌取扱い規約」における粘膜下浸潤を伴う大腸癌の内視鏡摘除後の追加腸切除の条件のうち、静脈侵襲が見られることから①明らかな脈管内癌浸潤に該当するとも認められるし、粘膜筋板から7mmに及ぶ粘膜下層浸潤が見られることから「より深い粘膜下浸潤癌」、すなわち③断端近傍までのmassiveな癌浸潤のいずれにも該当するものと認められる。
③ さらに、中分化腺癌であったこと、sm垂直浸潤最大長が7mmと絶対安全領域の7倍であったこと等、リンパ節転移の可能性ひいては腸切除適応のリスクファクターが存在していたものと認められる。
④ してみると、甲田医師及び大学病院の他の医師(東田医師及び西山医師)が、大腸ポリペクトミーの結果等を踏まえ、大腸癌がリンパ節等に転移する可能性があることからリンパ節を含んだ追加切除の適応であると考えたことに判断の誤りがあり、注意義務違反があったものとは認められない。
⑤ 原告らは、内視鏡的切除等の後に組織学的にsm癌で転移のリスクファクターが認められた場合であっても、リンパ節への転移がある可能性は10%程度であるから、実際に追加切除を行うか否かは、患者の年齢、病変部位や全身状態などから、総合的に判断されるべきであるところ、次郎の場合、脈管侵襲のうちリンパ管侵襲はなく、静脈侵襲もv1と軽度であったから、癌の遺残や転移等の危険因子が多数見られたとまでは言い難く、当面は腸切除術を施行せずしばらく経過観察をすべきであったと主張する。
⑥ しかし、平成9年2月24日の内視鏡検査の結果、S状結腸に憩室が多発し、発赤が散在し、軽度の憩室炎であったというのであるから、経過観察を行ったとしても、内視鏡によるリンパ節転移の発見等が十分行われなかったことが予測される上、そのような状態では、内視鏡検査を行うこと自体危険であることからして、経過観察を行うことが困難な状況であったこと、腸切除前にこれら癌の浸潤したリンパ節あるいは腸管壁の静脈浸潤を細胞レベルで100%確実に診断することは、本件手術当時の医学水準では不可能であったことからして、経過観察を選択しないことに合理的理由があったというべきである。
(6) 以上によれば、甲田医師及び大学病院の医師が誤って本件手術を選択した過失を認めることはできない。
3 開腹切除手術の過失の有無(争点(3))
(1) 前記2(3)⑥認定のとおり、甲田医師は、平成9年2月24日の内視鏡検査で「癌切除手術部分が不明、マーキング不能」という診断をしたこと、乙山医師も同日付け報告書(乙A12、26頁)により、それを知ったことが認められる。
(2) そこで、甲田医師及び乙山医師において、さらなる検査や経過観察等、切除部分の癌組織の有無について慎重に確認すべきであったのに、これを怠り、開腹切除手術を施行した注意義務違反があるか検討する。
(3) 前記2(5)で認定したとおり、甲田医師及び大学病院の医師らが次郎について本件手術の適応であると判断したことに注意義務違反はない。乙山医師は、大学病院の医師らから手術を行うよう依頼されて、実施したものであるが、同人が本件手術の適応であると判断したことに注意義務違反がないことは甲田医師や大学病院の医師らと同様である。
そして、癌が遺残していたとしてもポリープ切除後2から3か月程度で、当該切除部位にポリープの再発が起こることは可能性としては少なく、ポリープ切除後2か月以上たった時点で「癌切除部分が不明、マーキング不能」という所見であったことは、癌遺残の可能性を減少させるような事情ではないこと、本件切除ポリープの病理組織検査で切除断端陰性で、静脈侵襲が陽性であった本件においては、癌が再発するとすれば当該ポリープ切断部位よりもリンパ節転移という形で異なる部位に再発する可能性が高いこと(証人乙山二郎)からして、本件手術を施行するかどうかの判断が(1)の内視鏡検査の結果に左右されることはないというべきである。
原告は「さらなる検査」をすべきであったと主張するが、具体的にどのような検査をすべきであったか明確ではないし、むしろ、切除部分の癌組織の遺残の有無やリンパ節転移の有無を確認する方法としては、本件手術(大腸切除)の施行が最も適切であったものと認められる(証人乙山二郎)のであって、原告らの主張には理由がない。
また、原告らは、経過観察を行うべきであったとも主張するが、次郎の場合、大腸憩室が多発していることもあり、大腸内視鏡等での経過観察は困難であったことは前記のとおりであるし、仮に困難をおして大腸内視鏡等で経過観察したとしても、再発形式は前回と同じようにポリープであるとは限らず、周囲のリンパ節転移や遠隔転移の形で再発する可能性が高かったのであるから、再発が確認できた時点では手遅れである可能性も高いのであり、この主張も認められない。
(4) よって、甲田医師や乙山医師に本件手術を施行した過失があると認めることはできない。
4 説明義務違反の有無(争点(4))
(1) ポリペクトミーの結果を踏まえて追加的腸切除手術を行うかどうかを決定する際には、患者の身体が侵襲されるのでその承諾を得るためあるいは病気及びそれによる予後が患者に及ぼす影響が大きいことから患者の自己決定権を確保するため、医師としては、患者に対して、少なくとも手術の内容及びこれに伴う危険性を説明する義務があるものと解されるが、それ以上に、患者の現病状とその原因、当該手術を行った場合の改善の見込み・程度、当該手術を行わず経過観察とした場合の予後内容(転移・再発の可能性など)、危険性について不確定要素がある場合にはその基礎となる症状把握の程度、その要素が発現した場合の対処の準備状況等についてまで説明すべきかどうかは、患者の既往症、患者が罹患している疾病の内容・程度、患者の診療・治療の予定・経過、患者に対して取られる診療・治療の方法・内容、患者の性格など具体的な状況、事情に応じて判断すべきものと解する。
(2) 前記2(3)で認定した事実、証拠(掲記の証拠の他、甲7、11、乙A13、14、丙1ないし3、証人西山七郎、証人甲田一郎、証人乙山二郎、原告春子)及び弁論の全趣旨によれば、本件手術に関して医師らが次郎及び原告らに説明した内容については、次のとおりと認められ、これに反する証拠は採用できない。
① 平成8年12月27日、第1内科の東田医師が、電話で原告春子に対し、翌年1月6日に受診するよう説明すると、電話当日午後零時50分頃、次郎が来院した。そこで、東田医師が、次郎に対し、ポリペクトミーの結果、ポリープが一部残っていること、切除したポリープの一部から悪性のものが認められたので、追加切除が必要であるが、内視鏡的ポリペクトミーでは無理であるので、翌年1月6日に第1外科を受診するよう説明した(乙A2)。なお、この際、「癌」という言葉が発せられたことはなかった。
② 平成9年1月9日、次郎が第1外科を受診した。診察は、西山医師立ち会いのもと、北川助教授が行った。診察結果は、次郎がいない場で西山医師に説明があり、早期の大腸癌で、ポリペクトミーで断端の脈管侵襲が陽性であるので、入院して大腸切除手術を施行するという所見であった。第1外科の西山医師は、次郎に対し、ポリープの絵を描きながら、診察結果を伝え、あとしまつのため、手術が必要であると説明したところ、次郎は、特に動揺することもなく、手術について納得する態度を示した(乙A3)。
この点につき、原告は、丙3の中央病院看護婦作成のムンテラ(ムント・テラピー)には、同年2月24日の欄に、原告ら家族への症状の説明(大腸癌と告知)とは別に、本人にはこのままにしておくと腸が詰まってしまうので手術するという大学での説明のままでいきますとの記載があること、①②の各診察後、次郎は、「盲腸よりも簡単な手術になるそうだ」「4月からでもまた仕事ができる」などということを原告らに話していること、次郎が中央病院に手術入院する直前の平成9年1月、原告春子が「まさか癌ではないだろうね」と聞いたのに対して、次郎が「そんなはずはない。簡単な手術して3週間くらいすれば退院できると聞いたぞ」と答えていたこと(甲11、原告春子)等から、次郎が「癌」あるいは「悪性腫瘍」であると説明されることはなかったと主張する。
たしかに、原告が根拠とする事実はそのとおりであり、さらに、証人西山七郎が、次郎に癌と告げたところ、それを聞いた次郎に特別変わった様子はなく、次郎から特に質問されることもなかったと証言する点は、初めて癌と告知された者の反応としてはいささか不自然な対応であると解されなくもない。
しかし、次郎は、内視鏡検査の結果大腸にポリープがあったことからポリペクトミーを受けたものであるところ、①認定のように、平成8年12月27日に、その診察結果を1月6日に聞きに来るように電話で言われたのに、即日大学病院に行き、直接診断結果を聞いているのであって、自分の病状に特に強い関心があったことがうかがえるところ、東田医師から、ポリープが見つかり、その一部が悪性であったと説明されたというのであるから(ポリープ切除の手術を受けたのであるから、ポリープについての結果を当然説明されているはずである。)、悪性のポリープが存在していたものと認識するのが通常であり、一般に悪性のポリープが癌と結びつけられることも多いことからして、次郎において、この時点で、少なくとも癌の可能性がかなりあるものと認識したものと解される。そうすると、癌である可能性を認識していた次郎が、西山医師から癌と言われて動揺しなかったとしてもあながち不自然な対応ともいえないし、西山医師自身、癌といっても早期であることを強調し、取ればほとんど治るという気持ちで言っていたと証言していることからしても、次郎が全く動揺しなかったとの証言が信用できないものでもない。原告らが指摘するムンテラについては、乙山医師が原告らから聞いた内容をもとに記載したもので(証人乙山二郎)、直ちに次郎の認識とは結びつくものではないし、原告らとの会話についても、次郎自身、大腸の早期癌のおそれがあると認識していたとしても、西山医師から手術自体の危険性が極めて高いものであるとか、長期の入院を要するものであるとの説明はなく、取ればほとんど治るとの説明を受けていたとすれば、家族である原告らには、それを秘したり、生死に関わるような重篤な癌ではないから家族に言うまでもないとの認識で、前記会話になったとも考えられるのである。そうすると、このような事情が前記認定を左右するとは解されない。
③ 平成9年2月24日(本件手術の2日前)における原告春子らと乙山医師との間のやりとりは次のとおりである(甲4の1、27頁、4の3と8、丙1、3)。
ア 乙山医師は、原告春子らに対し、午前10時半頃から、大学病院で切除したポリープから癌が見つかり、静脈に浸潤していたため、癌の遺残や転移の可能性があるので、大腸の追加切除を予定している旨の説明を行った。
ところが、原告春子らは、大学病院からは癌が見つかったなどとは一言も聞いていないと立腹し、気持ちの整理がつかないことなどを理由に、本件手術に反対した。
イ そのため、乙山医師は、手術を延期してもよいか、紹介病院である大学病院の医師に相談するために電話をした。乙山医師は、まず、第1外科の西山医師に電話をし、患者に癌告知をしたかどうかを問い合わせたところ、西山医師は、大腸の早期癌であることを告知したと答え、経過観察については、第1内科の了承を得られればよいと回答した。
乙山医師は、甲田医師に連絡を取ったが、この時、甲田医師は不在で連絡が取れなかった。午後になって連絡が取れ、乙山医師が手術前の説明で患者の家族から経過観察の希望が出たので、手術を延期して大学病院に転院させることでいかがかと相談した。これに対し、甲田医師は、「子原氏の場合、ポリペクトミーで切除したポリープの断端には癌細胞は認められなかったが、癌の血管侵襲があった。このような場合、癌のリンパ行性転移や血行性転移の可能性がある。追加切除しても残存癌はない可能性は十分にあるが、やはり腸の追加切除を行うべきだと思う。追加切除をしない場合には内視鏡検査で追跡検査を行っていくことになるが、子原氏の場合は大腸憩室が多発して存在しており、内視鏡検査は困難である。その点からも、絶対に追加切除の手術をして欲しい。」といって、乙山医師に、手術を行う方向で家族を説得するよう要請した。
ウ 乙山医師は、甲田医師の同助言をもとに、更に手術の必要性を原告らに伝えて説明した。その際、手術をして大腸とその周囲のリンパ節を取ってみなければ、癌が残っているかどうかは分からないこと、癌が残っていなければ、当然、今回の手術をしなくても問題はないが、もし、癌が残っていた場合には、放っておくと、再発の可能性があり、その場合、今回と同じポリープで再発するとは限らず、周囲のリンパ節転移や遠隔転移で再発する可能性もあること、調子が悪くなったときにはもう手遅れという可能性も高いこと、よって、追加切除手術をすべきであることを説明した。
これに対し、原告春子らはまだ釈然としない雰囲気であったため、乙山医師は、「いろいろと考える時間もあった方が良いと思いますので、予定していた26日の手術は延期することにしますか。癌の残存も実際にはないかもしれませんし。」と述べた。これに対し、原告太郎から、経過観察をして癌の再発が認められたときに手術ということでもよいのかとの質問があったので、乙山医師は、中央病院の外科の医師が大学病院第1外科の人事で勤務していることから、手術が必要になったとき、自分が中央病院に勤務しているか分からないこと、経過観察は大学病院で責任を持つことになり、再度中央病院を紹介するのであれば、中央病院で手術を行うことになるが、そのときに、ベッドが満床等の理由で実施できないこともあることが考えられるので、「もしかしたら、そのときはベッドが満杯かもしれない」と言った。すると、原告春子らは、「そういう説明ならば分かりました。手術の準備のため大量の下剤を使用し、何度も排便する姿は苦しそうであり、このような思いを再度させるのもかわいそうなので、手術は予定通り施行していただきたい。癌であったことは、次郎に対しては、我々が話します。」と答えた。
さらに乙山医師は、血管手術歴があるので、縫合不全の危険性があること、したがって、慎重に手術を行うこと、手術自体は2から3時間の予定であり、生命の危険はないこと、腸閉塞等の合併症の危険があること等を説明した。
この点、原告らは、本件手術をしても癌がないかもしれないことや本件手術の危険性、経過観察が困難であることの説明を受けていないと主張し、原告春子は、本人尋問及び陳述書(甲11)においてこれに沿う供述をする。しかし、乙山医師は、上記認定のような証言をしているところ、カルテ中には、24日午後の説明として「こわいのは縫合不全ですので慎重に手術を行います」との記載があること(丙1)、乙山医師が大学病院第1外科に宛てて記載した「診療情報提供書」(甲4の3)中には、「家族には術後経過について説明はしていましたが、これほどまでの癒着性イレウスの合併については術前に説明しておらず」との記載があることが認められ、これらを踏まえると、乙山医師は、原告春子らに対し、上記の説明をしたものと認めることができる(なお、原告らは、丙3について、その記載場所や記載順序等から信用性が低いものであると主張するが、その記載内容自体は、概ね原告春子の陳述(本人尋問や甲11の陳述書)と一致しているものであり、信用性が低いものとはいえない。)。
④ 乙山医師は、その後本件手術までの間に、次郎に対し、ポリープ切除検査の結果を踏まえて、追加的に大腸を切除すること、手術自体は2、3時間の予定であること、血管手術歴があるので、縫合不全の危険があること、出血、腸閉塞、感染などの合併症の危険性があることについて説明した(丙2、証人乙山二郎)。
(3) 以上認定の事実をもとに検討するに、大学病院の東田医師及び西山医師は、次郎に対して、大腸から悪性のポリープが発見されたこと、そこで、ポリペクトミーではなく、大腸の追加切除手術が必要となること、大腸の切除をすればほとんど治ること等を説明したことが認められ、また、本件手術を行った乙山医師は、原告春子らに対し、次郎に早期大腸癌が認められ、リンパ節等への転移の可能性があること、転移したら生命の危険が生じる可能性があること、よって本件手術を受けるべきこと、本件手術により、縫合不全や合併症が生ずることがあること、経過観察していて腸切除手術になった場合にはすぐには手術ができないことがあることについて説明し、次郎に対しても、本件手術によって縫合不全や合併症が生じる可能性があるといった本件手術の危険性について説明をしたことが認められる。
そうすると、次郎に対しては、本件手術までの間に、手術の内容及びこれに伴う危険性のみならず、現病状、当該手術を行った場合の改善の見込み・程度について十分に説明されているものと解されるから、次郎に対する説明義務は尽くされているものというべきである。
もっとも、本件手術を行わずに経過観察とした場合の予後内容(転移・再発の可能性など)等についてまで具体的に説明したものとは解されないが、前記のとおり、次郎に対しては早期大腸癌として追加切除手術が相当な治療方法であること、それ自体が相当の危険性がある手術というものではないこと等からすれば、そこまで説明すべき義務があるものとは解されない。
(4) なお、原告らは、原告春子らが本件手術に同意せざるを得なくなったのは、甲田医師の積極的な働きかけや乙山医師の態度によるものと主張するが、次郎に対する説明義務が尽くされている以上、原告らの承諾はもともと問題とならないし、原告春子らの手術を承諾するに至った経緯は前記(2)認定のとおりであって、経過観察をしていて予後が不良になる可能性と比較的安全であると信じた本件手術とを比較考量した結果であると解されるから、瑕疵を伴うものとは認められない。
5 まとめ
以上によれば、甲田医師や大学病院医師ら及び乙山医師になんら過失は認められないから、その余を判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がない。
(裁判長裁判官・土田昭彦、裁判官・佐藤哲治、裁判官・山城 司)