青森地方裁判所弘前支部 昭和46年(わ)48号 判決 1974年7月15日
被告人 須藤章文 外七名
主文
被告人須藤を懲役三年に処する。
被告人宮形、同本間を懲役二年六月に各処する。
被告人工藤精一、同中村、同田中を懲役二年に各処する。
被告人工藤光雄、同櫛引を懲役一年六月に各処する。
未決勾留日数中六〇日をそれぞれ被告人等の右各刑に算入する。
訴訟費用は被告人等の連帯負担とする。
理由
第一認定した事実
一 本件犯行に至る経緯
1 背景
本件犯行の舞台になった青森県西津軽郡鰺ヶ沢町は、青森県の西海岸に位置する人口約二万人の小さな町である。ここには、零細な漁業と農業のほかにはみるべき産業はなく、町民の生活自体が町の財政支出や各種役職に何らかの形でからんでいたので、以前から選挙の度に、激しい政争が繰り返されてきた。昭和四六年四月二五日施行の鰺ヶ沢町々長選挙においては、中村清次郎、鈴木泰治、菊谷三朗の三名が立候補したが、中村候補と鈴木候補は町の二大政治団体である愛町会と竹風会からそれぞれ支援を受けており、右選挙は実質的には右二候補によつて争われることになつた。なお、中村候補は、当時現職の町長であつた。
2 被告人らの地位と経歴
(一) 被告人須藤章文は、もと警察官をしていたことがあり、町会議員も四期つとめたことがある。昭和四一年から前記竹風会の総務会副会長の地位にあつたが、本件当時は鰺ヶ沢町選挙管理委員会(以下選管と略称する。)委員長であり、本件選挙においてはその立場上積極的な選挙運動はしなかつた。
(二) 被告人宮形忠造は、八年間に亘る町会議員を経験した後、昭和三三年からは、選管委員の地位に就き、その間、委員長をつとめたこともある。竹風会には関係こそなかつたが、鈴木候補とは、戦前のいわゆる大政翼賛会の団体である赤誠会当時からの長年に亘る交友関係から、同人に好意的な心情をもつてはいたが、積極的な選挙運動はしなかつた。
(三) 被告人工藤光雄は、町会議員の経歴があり、当時は、選管の補充委員に選出されており、竹風会の会員でもあつた。
(四) 被告人本間由松も町会議員を三期つとめたことがあつたが、本件当時は自ら立候補したまえの県会議員選挙での公職選挙法違反で有罪判決の言渡を受け、公民権停止中の身であつた。竹風会においては、副会長のポストにあつたが、会長の一戸正太郎の健康がすぐれないところから、今回の選挙においては鈴木候補の後援会の実質上の最高責任者として選挙運動を積極的に推進した。
(五) 被告人工藤精一は、昭和二二年から引続き町会議員であつた。竹風会には関係していなかつたが、被告人宮形と同じく、赤誠会当時からのよしみで、鈴木候補のために、参謀格となつて選挙運動を推進した。
(六) 被告人中村元吉は、もと警察官を長期間つとめ、その間、鰺ヶ沢警察署長等を経た後、鰺ヶ沢町に合併される前の舞戸村の村長をつとめたことがある。以前の選挙では中村清次郎を応援したこともあつたが、この度の選挙においては、鈴木候補との個人的親交等の事情から同候補の選挙運動を参謀格となつて推進した。
(七) 被告人田中稔は、当時二期目の町会議員であつた。竹風会の幹事長であり、鈴木候補の選挙運動を参謀として推進した。
(八) 被告人櫛引豊は、以前鰺ヶ沢町役場の職員であつたが、昭和三八年、中村清次郎が町長に当選し、同人と派閥を異にするところから、企画調査課長の職を辞した。竹風会の事務局長であり、今回の選挙運動には、事務長格となつて積極的に参加した。
3 事態の推移
(一) 昭和四六年四月二五日(以下、特にことわりのない限り、月日は昭和四六年のそれをさす。)における鰺ヶ沢町々長選挙の投票は順調に行なわれ、即日開票の結果、同日午後一一時ころ、中村候補は五、二三三票、鈴木候補は四、七五五票、菊谷候補は一、二一八票の得票が確定され、同日選挙会において中村候補の当選が決定された。翌二六日、選管は須藤委員長名義で中村候補の当選を告示し、同人に当選証書を交付した。
(二) ところが、開票結果の判明した二五日の夜遅くから翌二六日の午前一時ころまでの間に、鈴木候補宅に同人の運動員や支持者が多数参集した際、鈴木候補の開票立会人であつた田中隆と開票を参観していた須藤喜代治から、「第一七投票所(通称建石地区)の投票箱の中の票は中村候補の票ばかりで、鈴木候補の票はほとんどなかつた」旨の報告がなされた。しかし、その場で、被告人田中が右発言をたしなめ、このときはそれ以上問題は進展しなかつた。
(三) 被告人中村は、二六日早朝、須藤喜代治から電話で前夜の鈴木宅における話を聞かされて第一七投票所の投票に不審を懐くにおよび、同日午前八時ころ鈴木宅に赴き、そこで被告人本間、同工藤精一、同櫛引、須藤喜代治、田中隆らと相談した結果、右投票の実情を調査することになつた。被告人中村、同工藤精一、野呂貞蔵、長内忠昭らが、同日午後から翌二七日午後にかけて建石地区の選挙関係人等に会つて当時の状況を調査した結果、(1)第一七投票所の投票箱を開票管理者に送致すべき投票立会人である木村政太郎は、二六日には投票所から投票箱をまつすぐ開票所まで運んだと言つていたが、実際は投票所から開票所へ行く方向とは逆の方向へ一キロメートル程行き、投票所事務従事者である木村武三郎方に立寄つている。また、後に木村政太郎は、武三郎方で自動車はUターンしたといつているが、そこは狭くてUターンできないところである。(2)投票終了後の投票箱の封印は投票立会人がすべきであるのに、同人らから印鑑を預かつていた投票所事務従事者長谷川兼己が封印をしている。(3)長谷川や投票管理者神昭造は、投票終了後、投票所に当てられていた教室の黒板に投票総数五〇一などと大書して約二〇分もかけて投票率等を計算していたが、これは、それ程時間を要しない筈である。(4)投票立会人は、投票箱を自動車に積込むのを見ていない、等の事実が判明した。この調査結果を知つた被告人中村、同本間、同工藤精一、同櫛引らは、幹部会を開くことを決定し、二七日夜鰺ヶ沢駅前にある若松旅館内の竹風会事務所において二〇数名で幹部会を開き討論したところ、神昭造に対する以前からの不信感も手伝つて、第一七投票所の立会人や事務従事者らが前記調査の際何ら不正はなかつた旨を回答したのに、これを信用せず、逆に、開票所に運ばれた投票箱の中の投票用紙がすりかえられたのではないかとの強い疑惑を懐くに至つた。そこで、第一七投票所投票箱が開票所へ運搬される途中すり替えられ、投票偽造、増減行為があつたとして被告発人不詳のまま告発することが決定された。なお、選管に対し選挙につき異議申立をなす件も検討されたが、その内容は、「第一七投票所の投票が全部中村票にすりかえられた、第一七投票所では鈴木候補に六割、中村候補に四割の投票がなされた筈である、第一七投票所の投票数は五〇一票である、よつて中村の得票のうち三〇〇票は無効であり、この三〇〇票を鈴木候補と菊谷候補に得票に比例して按分すれば、六〇票の差で鈴木候補が逆転当選する。」というものであつた。
(四) 二八日早朝、被告人本間、同中村らが集まつて前記問題の処理方法につき意見を交わした後、被告人中村と同工藤精一が野呂、長内、須藤喜代治名義の告発書を鰺ヶ沢警察署に届けたところ、書類に不備がある等のため受理されず、翌日提出することになつた。この日の夕刻になつて、建石地区の鈴木候補支持者が、竹風会本部は建石地区の投票中に鈴木票がほとんどなかつたと判断しているとして強い不満をもつていることを聞知したため、鈴木泰治と被告人本間らが建石地区へ事情説明に出かけた。
(五) 二九日午前、被告人本間、同中村、同田中、同工藤精一、同櫛引らが竹風会事務所に集り相談した結果、被告人本間の提案で同日午後七時から鰺ヶ沢町大字舞戸字上富田一一六ノ一、旅館山海荘に集合し、ここに鈴木派と目される選管委員である被告人須藤、同宮形、井上一美を招き(当時選管は他に小沼隆蔵を加えた四名で構成されていた)、選管に対する異議申立につき、同人らに事情を説明するとともに協力を依頼することになつた。被告人櫛引は、同本間の命令で右三名に連絡をとつたが、午後になつて井上が中村派であるのではないかとの疑いがもたれたので、再び被告人本間の指示により右井上には先に連絡した会合が中止になつた旨を伝えて出席させないことにした。
二 罪となる事実
(一) 昭和四六年四月二九日午後七時ころから前記山海荘二階の若水の部屋には鈴木候補の運動員や支持者がつぎつぎと参集した。出席者は、被告人須藤、同宮形、同本間、同工藤精一、同中村、同田中、同櫛引、田中隆、野呂、世永厳、杉沢申晃らである。被告人本間の司会で会は始められ、同中村の全体的な事実経過の説明のあと田中隆、野呂が第一七投票所における投票後の実情調査結果を報告し、被告人櫛引が三〇〇票が無効となる法律的見解の説明を加えた。やがて右投票所の投票はすりかえられたのではないかとの発言があいつぎ、次第に気焔があがつた。これをバツクに被告人本間、同中村、同田中らは選管の委員長であり、その委員である同須藤、同宮形に中村票から三〇〇票を無効票として抜きとり、鈴木候補の逆転当選を実現するよう取り計うことを強く要求した。しかしながら、被告人本間らの言い分は、票のすりかえがあつたとするものであるが、この点に関する根拠が余りに薄弱であつて飛躍があつたし、また、三〇〇票を無効とし、これを他の二候補に按分するという法律的な見解も荒唐無稽というほかないものであつた。そこで、被告人須藤と同宮形は、当然のことながら、真実投票のすりかえがあつたとの点についても、また多数票の中から同一筆跡の票を選別すること自体とその選別の困難さについても、強い疑問を表明した。しかし、すでにこの場の雰囲気は、異議申立の内容について慎重に再吟味することを選管に求めるということとは余りにもかけ離れており、被告人本間、同中村、同工藤精一、同田中らは、交々、「これだけの事実があれば、すりかえは間違いない」、「すりかえた方も二、三人で書いているだろうが、どうせ分らないように書いているだろう」、「筆跡の鑑定家ではないのだから同一筆跡かどうかは分らないだろうが、ちよつとでも似ていれば同一筆跡として抜けばよい」、「委員会で同一筆跡と認定すればそれでよいのだ」等と被告人須藤、同宮形に対ししつこく説得したのである。被告人須藤、同宮形を除く被告人らは第一七投票所の投票箱のすりかえに相当程度の疑問を懐いていたことは事実であるが、確信をもつていたわけではなく、熱心な選挙運動を展開したにもかかわらず惜敗した口惜しさと、今後更に四年間何かにつけ自派所属の人達が冷遇されることの不利益を考えて、前記の各不審な事実が存在することを口実に、自派に有利に無理な推測を重ね、この際強引に鈴木の逆転当選を図ろうと画策した。そのために、それ以上具体的に投票すりかえの事実の有無、可能性、具体的方法等につき冷静、客観的な吟味をなさないまま自派の選管委員のみを集め、極めて杜撰な方法による投票の点検を迫つたのであつた。かくて、当初被告人本間らの要求に難色を示していた被告人須藤、同宮形も、その場の強い雰囲気や要請と、自分自身鈴木候補を当選させたいという誘惑にまけて、公正中立を旨とすべき選管委員としての立場を無視し、ついに右要求に応じることとなり、ここに、被告人工藤光雄を除くその余の被告人全員の間に、投票用紙のすりかえがあつたことに藉口して、中村候補の得た有効票のうちから適当に三〇〇票を抜き出し、これを無効と決定したうえ、他の二候補に按分し、もつて投票の増減をし、鈴木候補を当選させることの共謀が成立した。その後、被告人須藤は、選管の定足数が三名であるところから、小沼、井上両委員が欠席する場合を慮つて、補充委員である被告人工藤光雄の選管出席への手配を同本間、同中村らに依頼した。
(二) 四月三〇日午前一〇時ころ、被告人工藤精一は、被告人櫛引作成の異議申出書(申出人は被告人工藤精一名義)を選管事務局の石岡清敏係長に提出した。そこには、すでに被告人須藤が待機していて、石岡に右申出書を読ませたところ、同人は無効だとする三〇〇票を鈴木候補と菊谷候補の二人に按分する根拠がなく、また潜在無効票であれば、三候補に按分しなければならない旨説明、指摘した。これを聞いた被告人須藤は、無効票として三〇〇票を抜いたのでは鈴木候補の逆転当選は実現せず、当初の目的を達成するためには、五〇〇票以上を無効としなければならないことに気付き、これを実行しようと決意した(中村候補と鈴木候補の得票差は四七八票であつた)。被告人須藤は、即日選管の開催を決定し、午前一一時ころ出頭した被告人宮形を選管事務室の隣室に招き入れ、前記石岡の説明を伝えて、五〇〇票の抜きとりを命じたところ、被告人宮形もこれを承諾した。その後被告人工藤光雄がその場に出頭してきたので、被告人須藤は、同被告人を補充委員から委員に昇格させて委員会を開催しようとしたが、この手続を違法だとする石岡係長の反対にあつて開催することができなかつたため、仕方なく、被告人らは帰宅した。同日夜、被告人須藤は、同田中と同櫛引を自宅に呼び、同日の石岡の説明を検討した結果、鈴木当選のために五〇〇票を抜いてしまうことに意見が一致した。他方、鈴木泰治と被告人本間は、同日午後七時ころ、被告人宮形方に至り、早急に委員会を開いて中村票を無効として抜くよう要求した。
(三) 五月一日早朝、被告人田中、同本間、同工藤精一、同中村らが鈴木宅に集まつた際、被告人田中が五〇〇票を無効とすることになつたいきさつの報告をしたところ、右被告人らはこれを了承し、選管事務局の職員が中村派と目されているので、その協力が求められないことを懸念し、鈴木候補を当選とせしめた際必要となる各種書類を自派で事前に準備しておくことになつた。ところで、この日の午前一〇時から、たまたま以前から予定されていた農業委員選出のための選管が開かれたのであるが、三〇分程でその議事が終了するや、被告人須藤は、同工藤精一の異議申立の件につき緊急委員会の開催を提案したところ、神武美選管事務局長が、まず、被告人工藤精一から申立の理由を直接きくのが先決であり、また緊急を要するものでないとの理由で強く反対したため、結局、五月四日に取扱方法を県選挙管理委員会に相談し、同月六日選管を開くことを決めて正午ころ散会した。ところが、右事実を知つた被告人本間らが、同須藤方を訪ずれ、鈴木派運動員が竹風会事務所で殺気だっている雰囲気を伝えるとともに、午後にも選管を再開するよう強硬に迫つた。そのため被告人須藤は、急きよ同日の選管開催を決意し自派の運動員に委員招集の手続をとらせて事務局へ出かけた。竹風会事務所で待機していた被告人工藤光雄は、右招集の連絡を受けたとき、被告人本間から中村候補の得票より五〇〇票を抜くことになつた理由を説明されたうえ、その旨要求され、これを了承し、ここに、同被告人においても、他の被告人らと意思を相通じ、前記(一)の内容の共謀を遂げ、事務局へ出頭した。被告人須藤は、午後二時三〇分ころ、出頭して来た同宮形と同工藤光雄に対し、事務室の隣室で「五〇〇票抜かなければだめだ、少しでも似ていたら同一筆跡として抜け」と命じ、両被告人はこれに同意した。しかし、石岡係長が投票用紙を収納してあるキヤビネツトの鍵を持つたまま外出していたので、同人を探し求めたがみつからず、ついに、この日も選管を開くに至らなかつた。このころには、選管の委員長側と事務局側との対立が先鋭、激化の様相を呈したため、警察の仲介によつて翌日開催することになつた。なお、被告人須藤は、事務職員の岩本光夫から委員長の職印を借り受けて自宅にもち帰り、翌二日の朝、自宅において、被告人櫛引の文案、竹風会々員中村圭吾の浄書による鈴木候補の当選証書に右職印を押捺して当選証書を作成準備したうえ、午前九時ころ岩本に右職印を返却した。
2 実行々為
被告人須藤委員長、同宮形委員、同工藤光雄補充委員(正規の委員が三名出席していたので、補充員の出席は違法であつた)、小沼委員は、五月二日午前一〇時三〇分ころから、鰺ヶ沢町大字本町二〇九番地所在鰺ヶ沢町消防署二階会議室において選管を開催し、何ら異議申立人の陳述を聞かず、投票に関しすりかえ等不正の事実があつたか否かにつき審理証拠調も全くなさないまま事務局員と警察官立会のもとに中村票のうちの同一筆跡票の点検を開始した。被告人須藤は、点検に先だつて、神事務局長に代理投票(公職選挙法第四八条)の数を確かめたところ、神局長が二六七票であると答えたので同一筆跡として五〇〇票を抜いても、代理投票の分は当然同一筆跡としなければならないので、これを考慮すると、鈴木当選のためには約八〇〇票以上を抜かなければならないと理解しこれを実行することを決意したが、被告人宮形、同工藤光雄にそのことを伝える機会をもてないまま、点検を始めざるをえなかつた。被告人宮形、同工藤光雄も神局長の右発言を聞いたのであるが、慢然と五〇〇票を抜けばよいと考えていた。被告人ら三名の同一筆跡票の選別方法は杜撰極まるものであつた。すなわち、点検の対象を中村票のみに限定し、各自二〇票ほどの票を広げ、点検の体裁を装えながら、明らかに異なる筆跡の票を、それと知りながら字画の極く一部でも相似ているだけで同一筆跡票として適宜抜きとることを繰り返し、かくて、同日午後六時ころまでの間に、被告人須藤は五六一票、同宮形は一一六票、同工藤光雄は一七〇票、小沼は一三票を抜き出し、各人の抜き出した票は他の委員等と相互に確認することもなく同一筆跡の票とした。この選別作業が済むと、被告人須藤は他の三名と右の票の処理方法につき協議を繰り返したが、結局被告人宮形、同工藤光雄の賛成を得て、小沼委員と、神局長の反対を押しきつて、右取りだした合計八六〇票の中村票から代理投票分二六七票を控除した五九三票を同一筆跡による無効な偽造票と認定し、もつて、中村候補の得票から有効投票である五九三票を故意に減少させた。そしてその場において、被告人須藤は中村候補の有効得票数を四、六四〇票として鈴木候補(得票数は四、七五五票)の当選を宣言した。
三 犯行後の経緯
被告人須藤、同宮形、同工藤光雄は、右委員会終了後の午後一〇時ころ、鈴木方に赴き、かねて用意しておいた前記当選証書を交付した。五月三日と四日、被告人須藤、同櫛引らを中心とする竹風会会員は、本来選管が作成すべき鈴木候補の当選告示書、中村候補に対する当選無効通知書、被告人工藤精一に対する異義についての決定書を作成し、これに被告人須藤個人の私用印を押捺し、それぞれ郵送した。ところが、その後被告人須藤は、選挙会を経ないでした前記各決定が違法であることを県選管から指摘されたので、選挙長として急きよ五月七日前記消防署会議室で選挙会を開催しようとしたが、構成員である中村候補と菊谷候補の各開票立会人である須藤左衛門と成田忠雄が右選挙会をボイコットして出席しなかつたので、右二名の代りに鈴木派の選挙運動員であつた渋谷文夫と中田盛三を勝手にその代理人として出席せしめて選挙会を強行し、ここで鈴木候補の当選を決定した後、再度同人に当選証書を交付した。
第二証拠の標目(略)
第三証拠についての判断
当裁判所は、前掲各証拠によつて前記事実の証明は十分であると確信する。しかし、被告人らと弁護人は、四月二九日の山海荘謀議は存在せず、その他本件犯行を共謀したことはなく、また被告人須藤、同宮形、同工藤光雄は五月二日の選管において真実同一筆跡と確信して八六〇票を抜き出したのであるから故意がなく、いずれも無罪である旨主張するので、この点についての当裁判所の判断の概略を次に示すことにする。
一 実行々為について
動かし難い客観的、かつ決定的な証拠が存在する。それは押収にかかる投票用紙五九三票である。これは被告人須藤ら四名の委員が同一筆跡として抜き出したものであるが、これを表示方法によつて分類すると、「中村清次郎」、「中村」、「なかむら」等一〇余種類であり、うち六票は裏面に記載がある。
1 これについての筆跡鑑定の専門家の意見によれば、(一)同一筆跡のものは一〇種類、二九票、(二)異筆のもの四七六票、(三)異同不明のもの一二票、(四)対照不能のもの七六票であり、右一〇種類の同一筆跡の票の中で最も多いのは五票である。同一筆跡の二九票は、いずれも代理投票補助者として代理記載した者の筆跡と一致する。(証人横川広一の第六回公判調書、同人作成の検査結果回答書、同人作成の鑑定書)。すなわち、投票用紙のすりかえは存在しなかつたのである。
2 筆跡鑑定の知識のない当裁判所が検分しても、右五九三票を一見すれば、明白に異筆と判断できる票がほとんどであり、慎重に検討、吟味しても、似ている筆跡の票を探し出すことすら至難である。
次に、被告人須藤、同宮形、同工藤光雄の当公判廷における各供述(捜査官に対する供述調書を敢えて除く)、「鰺ヶ沢町長選挙に係る異議申出について審査結果の概要記録および会議録」と題する書面一冊(昭和四六年押第一五号の四)および録音テープ三巻(同号の三の一ないし三)によれば、
3 票の点検方法は判示記載のとおりであり、
4 被告人須藤は、当時白内障を患つており、字をよく読むことができなかつた。
5 被告人らは、点検の途中において判断のつかない疑問票を他の委員と相互に検討し合つていない。
6 各自の点検作業が終了して後、他の委員が同一筆跡とした票を点検することなく、また四委員が同一筆跡と判断した票を互に照合したこともなく、従つて五九三票を分類整理しておらず、
7 抜き出した八六〇票から代理記載分二六七票を控除したが、代理記載の票の中には鈴木候補と菊谷候補の分も含まれていると考えるべきであるから、もし八六〇票が同一筆跡だとすれば、中村候補の得票から除外すべき無効票は五九三票を越えるはずであり、
8 右同一筆跡票点検に先だち異議申出の理由、事実の有無につき何ら審議せず、異議申立書記載の票数以上の票を無効票と認定し、
9 小沼委員や事務局職員の反対を押しきつて強引に鈴木候補の当選を決定し(選管には当選人を決定する権限はない)、同日夜当選人の告示をすることなくかねて用意の当選証書を鈴木宅で同人に交付した(この点も違法である、公職選挙法第一〇五条)。
以上の各事実を認めることができる。
右1ないし9の事実によれば、五月二日に至る経過についての被告人や関係人の供述をすべて証拠にしないでも、被告人須藤ら三名が、選管の権限に名を藉りて、鈴木候補の逆転当選を強行したことが歴然としているのである。被告人須藤ら三名が合計八六〇票の中村票を異なる筆跡の票であることを承知のうえ、故意に同一筆跡と断定して抜きとつたことは疑う余地がない。
二 共謀、とくに四月二九日夜の山海荘謀議について
1 本項の判断にあたつては、被告人須藤、同宮形、同工藤光雄の三名が何故右の如き無謀な行為に出たのであるかが検討されなければならない。
四月二五日の開票から五月二日に至る経緯については、第二証拠欄に記載のとおり多くの証拠が存するのであるが、いま被告人らが真実性を争う捜査官に対する各供述調書を除外して、被告人らが弁論の更新前後を通じて裁判所において被告人あるいは証人として供述したところのみに証拠を限定しても、第一項事実欄のうち、事態の推移の項(一)、(二)、(三)、(四)、共謀の項(二)、(三)(但し、いずれも謀議部分を除く)をほぼ認めることができ、また被告人らもとくに争う趣旨でないことは明白である。
このうち、四月二九日正午ころまでの経過をみると、被告人本間、同中村、同田中、同工藤精一、同櫛引を中心とする鈴木候補の運動員らが、神昭造を中心とする第一七投票所の事務従事者の行動に相当の疑惑をもつており、中村派に対する対抗意識や前回選挙における不信感と選挙に敗けたうつぷんから一種興奮状態にあつたことが認められる。また、四月三〇日から五月二日にかけて被告人須藤、同宮形、同工藤光雄らの行動をみると、選管の委員招集の仕方、補充委員である被告人工藤光雄を法定の要件もなく違法に委員にくりあげるやり方(地方自治法第一八二条第三項。なお被告人工藤光雄が委員に昇格すべき第一順位の補充委員であつたかは、他の証拠によるも不明であるが、この点について検討された形跡は全く存在しない。但し同被告人が鈴木派であつたことは明白である)、事前に鈴木候補の当選証書等を作成しておいた準備の周到さ、等が極めて注目をひくのである。以上の事情と、さきに述べた五月二日の選管における強引にして粗雑極まる実行々為の態様を併せ考えると、四月二九日の前後に本件投票減少行為の共同謀議が存在したことが強く推定される。そうして被告人本間らは、四月二五日以降五月二日までめまぐるしく行動してきたのであるが、四月二九日午後七時ころ以降について、被告人宮形、同工藤精一、同田中、同櫛引らの行動は全く空白となつており、被告人須藤、同本間、同中村はアリバイの主張をするものの後に述べるとおり、合理的疑いを容れるにはほど遠いのである。
2 被告人らは、第一回公判以降一致して山海荘謀議は存在しないとの供述を繰り返してきたのであるが、被告人工藤精一を除くその余の被告人は捜査の段階において右謀議の存在を自白したのであり、そこで以下において右各自白の調書の真実性について検討する。
被告人らは、いずれも右自白の動機を、思い違いがあつたとか、警察で不当な圧力を加えられたとか、捜査官が勝手に調書を作成するに任せたとか弁解する。そこで被告人らが右自白をなした時期をみると、最初自白したのは被告人櫛引であつて昭和四六年六月一日である。ところで同被告人が逮捕されたのは六月一一日であつて、六月一日は任意出頭を求められたのであり、しかも調べを受けた第一日目であつた。被告人須藤は逮捕から四日目の六月四日、同宮形は一日目の六月一日(但し謀議があつたのは四月三〇日としている)、同本間は六日目の六月一四日、同中村は九日目の六月一七日、同田中は一日目の六月一〇日にそれぞれ自白し、同工藤光雄は山海荘謀議に出席しなかつたが、その後犯行に加担した経緯を逮捕された六月一日に自白している。このように被告人らが自白した時期は逮捕後比較的早かつたのである。捜査の際に山海荘謀議を自白しなかつたのは被告人工藤精一のみであつた。次に、捜査官が被告人らに対し取調べに当つて不当な圧力を加えた事情を見出すことはできない。また、被告人らが四月二九日の前後山海荘へ集合したときのことと混同したとの点であるが、四月二九日の前に集合したのは投票日前のことであり、四月二九日の後に集合したのは逆転当選のあつた五月二日よりあとの五月四日のことであつて、いずれもおよそ混同するはずもないことである。更に被告人らの判示各経歴からすれば、右の如き状況の中で真実に反してまで自己の破廉恥な罪を認める供述をなすことは、ほとんど考えられないことである。被告人らの山海荘謀議についての供述内容が、出席者、出席時刻、着席位置、発言内容、飲食物の内容と供された時期等について必ずしも一致しないことは弁護人主張のとおりであるが、むしろ、捜査官による無理な押しつけがなかつた状況を物語つているとも評価できる事柄である。四月二九日夜の山海荘謀議は、四月二七日午後鈴木宅、同日夜竹風会事務所、二八日午前鈴木宅、同竹風会事務所、二九日午前竹風会事務所等において関係人らが会合を重ねたうえなされたものであり、従つて、被告人らの記憶において細部の点につき混同が生じることは十分ありうることである。また、四月二九日の山海荘謀議の存在については、これに添う証拠として、被告人らの検面調書と警面調書以外にも、右謀議の場に臨んだ世永厳、田中隆(三通)、野呂貞蔵の各検面調書と、右謀議に一度は呼ばれながら、後に中止の連絡を受けた井上一美の警面調書(六月六日付)が存在する。
以上検討したところによれば、被告人らの各自白調書中の山海荘における謀議の存在について、その真実性を肯定するのが相当であつて、判示記載のとおり四月二九日山海荘において本件犯行につき共謀が為されたこと、およびその後順次共謀が為されたと認定することができる。
三 被告人らのアリバイについて
1 被告人須藤は、昭和四六年四月二九日は午前中から娘の夫である森将昭の運転する自動車に乗つて、都築紡績の嘱託による工員募集業務のため、木造、広岡方面に赴き、午後三時ころ帰宅した後、ビールを飲んで寝てしまつたので、夜山海荘に行つたことはない旨主張する。
被告人須藤は、本件犯行の実行々為者であるから、右アリバイが成立したとしても、同被告人の犯罪の成否には直接の関係はない。しかし、本件犯行の動機としては重要であり、他の被告人にとつては共謀の成否を決する意味をもつている。第一〇回、第一一回公判調書中証人須藤章文の供述記載部分、第七回公判調書中証人森将昭、同山形ヤツヱの各供述記載部分によれば、前記主張のうち、ビールを飲んだ部分まではほぼ認めることができる。また、同日青森市に帰つた森夫婦が無事帰宅した旨の電話を被告人方にかけ、その頃は被告人がまだ自宅にいたことも認められる。ところで、森夫婦が電話をかけた時刻は、右証拠によると、午後七時すぎ、八時近くと考えられなくもないが、森夫婦の行動も、被告人方に居合わせた隣人である山形の行動も、ともに時計によつて確かめたものではなく、戸外の明暗度によつて表現されているものであつて不正確さを免れないばかりか、同人らの供述の信頼性については、被告人との親近関係からして、にわかに信用することはできず、結局弁護人も主張するように、他の証拠との関係により決するほかはない。しかして、さきに述べたところよりすれば、被告人が山海荘謀議に参加したことにつき合理的な疑いを懐くには至らない。
2 被告人本間は、四月二九日の夕刻から佐藤徳昭方へ商品であるダツシ(調味料)を届けに行つており、午後七時すぎまでには山海荘へ出かけることはできない旨主張する。
青森気象台弘前気象通報所長新岡重三作成の「気象資料の回答について」と題する書面一通と第七回公判調書中証人田沢久輝の供述記載部分、第八回公判調書中証人佐藤徳昭、同竹浪フジの各供述記載部分を真実とすると、被告人が佐藤方から帰宅したのは午後八時ころになると考えられ、そうすると被告人らの自白調書と矛盾が生ずることになる。ところで、右証拠中被告人の行動の時刻についても前記須藤の場合と同じく、戸外の明暗度で表現しているのであるが、すでに一年近くも経過した時点における証言であるので不正確さを免れることはできない。また、証人田沢は竹風会の会員であり、同佐藤は竹風会青年部副部長であつて、いずれも竹風会副会長の被告人とは親密な関係にあり、証人竹浪は被告人方の女中であることよりすると同人らの前記各供述記載部分については、慎重な検討吟味が必要である。まず、証人竹浪は、鈴木泰治方から赤飯を貰つたとき、既に、田沢が来ていた旨供述するのに対し、証人田沢は被告人宅へ行つたら丁度赤飯を食べていた旨供述し、この点、矛盾がある。次に、被告人の使用人で、帳簿の記帳係でもある笹野鎌次郎はいつも六時ころに帰宅するのであるが、四月二九日の夕刻につき、「仕事が終るころ佐藤にダツシを貸してきたからつけておいてくれと言われて(帳簿に)記載した」、記帳は被告人が「行つてきてからつける」旨証言し(第七回公判調書中証人笹野鎌次郎の供述記載部分)、これによれば、被告人が午後七時ころ山海荘に出かけることは十分に可能となる。更に、被告人が右アリバイを主張した時期については大きな疑問がある。すなわち、被告人は、昭和四六年六月九日に逮捕され、ひき続いて勾留中の六月一四日の時点において、四月二九日の謀議を自白し、九月四日に保釈になつたのであるが、この間、右アリバイを主張したことは一度もなかつたのである。しかし、四月二九日の山海荘謀議については被告人櫛引が六月一日捜査官に自白しており、その後、同被告人は逮捕される六月一一日までの間に右自白したことを被告人本間や同中村に伝えているのである(被告人櫛引の七月一日付検面調書)。仮りに、右調書を除外しても、被告人櫛引は当然被告人本間に右事実を伝えたと考えられる(なお被告人中村の六月二四日付検面調書)。そうすると、真実被告人本間が山海荘に出かけていなければ、四月二九日夜のアリバイを懸命に考えたはずである。本件から四〇日後に思い出せなかつたアリバイを昭和四六年七月一日に起訴されてから思いだした(一一―三、七九四)とするのは、大いに疑問である。以上の事情と被告人らの捜査官に対する各供述調書を合せ考えるならば、被告人が佐藤方へ出かけたにしても、午後七時前までには帰宅したと認めるのが相当である。従つて被告人のアリバイは成立の余地がない。
3 被告人中村は、四月二九日午後から翌日午前三時ころまで松山豊太郎方で碁をうつており、山海荘にはいかなかつた旨主張する。
被告人は、右アリバイを勾留中、山海荘謀議を自白する前に捜査官に主張したことがある。しかし、警察官がすぐその主張のあつた時点で、右松山を調べた結果、同人は、選挙後被告人と碁をうつたのは、五月下旬の一回だけである旨を確信をもつて供述した(同人の六月一五日付警面調書)。同人は、その後証人として、被告人が四月末に碁をうちにきた、六月一五日の取調べに際しそのことを言わなかつたのは最近のことしか聞かれなかつたからである旨供述した(第九回公判調書中証人松山豊太郎の供述記載部分)。しかし、右は前記調書の内容からして虚偽もはなはだしいばかりか、証人としても、「六月一五日は内心被告人のアリバイのことで調べに来たと思つた」旨供述しているのであるから、語るに落ちるとはこのことであろう。同証人は、選挙がすつかりすんだあとで、ゆつたりした気持ちで碁をうつた旨供述しているのであるが、前に述べたように、被告人らは四月二九日ころには、調査、会合、告発、異議申出等目まぐるしい行動を日夜展開し、鈴木候補の逆転当選実現に熱中し、緊迫した状況にあり、ゆつたりした気持ちで、長時間碁に興じるどころではなかつたのである。四月末頃、被告人が松山方へ碁をうちに来た旨の同人(第九回)および同人の妻松山愛子(第八回)の公判調書中の各供述記載部分はいずれも信用することができない。
第四弁護人の主張に対する判断
一 弁護人の主張
1 本件においては、押収してある告示書(昭和四六年押第一五号の八)が存在し、これによれば、被告人須藤は、昭和四六年五月二日選管委員長名義で別紙のとおり公職選挙法第九六条に基づく更正決定をなした旨の告示をなし、右告示書に引用された更正決定は同法第二〇六条の異議申出につき選挙会選挙長須藤章文名義で当選人を鈴木泰治と更正する旨の内容となつている。また、別の告示書(同号の一一)によれば、被告人須藤は同日選管委員長名義で異議申出について審査した結果左記のとおり更正決定した旨告示し、右決定の内容として、各候補者の選挙における得票数と異議申出に対する決定した得票数および中村清次郎の当選を取消し、鈴木泰治を当選とする旨の記載がある。
2 ところで、公職選挙法第二〇六条第一項により、地方自治体の長の選挙において、選挙人から選挙の効力に関し選管に対し異議の申出がなされたときは、同条第二項により選挙がその異議につき決定することとなる。この場合、選管は選挙会がなした行為(本件においては中村候補を当選人と決定した行為)の適、不適を審査し判断するにすぎず、自ら当選人を決定する権限をもたない。選管が当選の効力を無効と判断した後、当選人の更正決定をなすのは選挙長が統括する選挙会であり、選挙会が当選人を更正決定すると選挙長はその旨を選管に報告し、これを受けた選管が当選人を告示し、その後において当選証書の交付をなすことになつている(同法第九六条、第一〇一条、第一〇三条)。
3 以上によれば、被告人工藤精一の異議申出につき審査決定権を有する選管が決定しないで、権限をもたない選挙会が決定し、被告人須藤を委員長とする選管の五月二日における行為は、何らの権限なくして中村候補の当選を取消し、鈴木候補の当選を決定したものである。よつて選管は本質的に絶対無効の行為をなしたにすぎないのであるから、被告人須藤、同宮形、同工藤光雄らの行為は公職選挙法第二三七条第四項の構成要件に該当せず、無罪であり、従つてその余の被告人らも無罪である。
二 当裁判所の判断
弁護人の右主張のうち第1項と第2項は所論のとおりである。ところで、弁護人指摘の告示書と別紙決定書(昭和四六年押第一五号の八)は、被告人須藤らが五月二日選管において鈴木候補の当選を決めた後、五月四日になつて鈴木派運動員とともに作成し、被告人須藤個人の私用印を押捺したものである(但し、決定書については名義人須藤章文名下には印がなく、契印のみである)。また、別の告示書(同号の一一)は、五月一日被告人須藤に依頼された鈴木派の運動員中村圭吾が、今勇逸によつて持参された原稿(被告人櫛引の文案)をみて浄書したものである。ただし、当時は未だ票の点検が済んでいなかつたため、日付欄の五月二日の「二」と「異議申立に対し決定得票数」欄の各数字は、右中村が空欄としておき、五月四日になつて被告人須藤らが記入したものであり、選管委員長須藤章文名下の職印は、五月二日早朝被告人須藤が自宅において押捺したものである(中村圭吾の六月二二日付検面調書)。すなわち、被告人須藤らは、五月二日の前後にこれらの書面を作成し、五月四日町役場前に掲示したのであるが、前記公職選挙法につき理解がとぼしかつたため、かかる不備の書面を作成したのであつた。しかしながら、本件において罪となるのは、選管として当選人を決定したこと、あるいは五月二日の前後に右各書面を作成したことにあるのではなく、五月二日の選管における異議申出に対する審査として行つた中村候補の得票の点検と称する行為である。しかして、選管は被告人工藤精一の異議申出に対し審査権を有するのであり、その審査の過程においては当然投票の有効、無効を判断しその旨の決定をなしうるのである。被告人須藤、同宮形、同工藤光雄らは、右権限の行使に際し、明らかに有効な投票を故意に無効と認定して、特定候補者の得票数を減少させたのであつて、これが同法第二三七条第四項の投票減少行為に該当することは論をまたないところである。したがつて弁護人の主張には何ら理由がない。
第五法令の適用
被告人らの所為はいずれも刑法第六〇条、公職選挙法第二三七条第四項、第三項に該当するところ、被告人本間、同工藤精一、同中村、同田中、同櫛引には右条項に定める身分がないので刑法第六五条第二項により刑が加重されない公職選挙法第二三七条第三項に定める刑を科することとし、所定刑中いずれも懲役刑を選択し、右各刑期の範囲内で被告人須藤を懲役三年に、同宮形、同本間を各懲役二年六月に、同工藤精一、同中村、同田中を各懲役二年に、同工藤光雄、同櫛引を各懲役一年六月に処する。
なお、刑法第二一条により被告人全員に対し未決勾留日数中六〇日を右刑に算入し、訴訟費用は刑訴法第一八一条第一項本文、第一八二条を適用して全部被告人らの連帯負担とする。
第六量刑の理由
一 本件犯罪の本質
被告人らが犯した本件投票減少行為は、憲法の精神をじゆうりんし、公職選挙法を無視した極めて悪質かつ重大な犯罪である。
日本国憲法は、その前文において国政が国民の厳粛な信託に基づくことを高らかに宣言し、第一五条において公務員の選定権は国民の固有の権利であること、第四三条において国会議員は国民の選挙により選定されることを定めている。国民主権主義は、憲法の最も基本的な原理であり、いまや人類共通の普遍的な公理ともなつている。憲法はこの原理を地方自治にもおし広めた。けだし、民主政治の根本は地方公共団体における住民自治に基礎をおき、住民生活に密着した地方政治が民主的に運営されて、はじめて実り豊かな国政を享受することができるからである。日本国憲法が、明治憲法に存在しなかつた地方自治制度を保障し、第九三条において地方自治体の長やその議員の直接選挙を明文で規定したことには誠に大きな意義が存するのである。民主政治は、選挙によつて実現されこれが総ての民主的制度や秩序の基盤をなすものである。従つて、選挙によつて表明された選挙民の意思は、民主政治における最も神聖なものとして、何ものにもまして尊重されなければならないものである。しかして被告人らの本件行為は、自らよう立した候補者を、選挙民が自由に表明した意思に反して、町長の地位に就かせようとしたものであり、憲法に定めた国民の公務員選定権を否定し、選挙制度を根底から覆すまさに暴挙というほかないものである。
選挙において、たとえどれほど投票が公正になされても、表明された選挙民の意思を勝手気ままにとりかえてしまつたのでは、民主政治は危機に瀕することは明らかである。かかる意味において、被告人らがなした本件投票減少行為は、選挙運動に対するさまざまな規制の違反とはその本質を異にし、民主主義に真向から挑戦し、これを破壊するものとして許さるべき余地のない最も悪質な選挙犯罪と断ぜざるを得ない。
二 犯行の態様もまた無謀の一語に尽きるものである。
本件犯罪のきつかけは、鈴木候補派の開票立会人である田中隆と開票参観人である須藤喜代治が、第一七投票所の投票中には鈴木票がほとんど存在しなかつた旨放言したことにあるが、開票台上に広げられた投票用紙は、公職選挙法第六六条第二項により、かくはん、混同されたものであつて、同人らの発言は全く事実無根のことであつた。しかるに、被告人本間らは、右の軽卒な発言と、第一七投票所における投票事務や投票箱の送致のあり方から、勝手な推測を織り重ねて投票のすりかえがあつたと我田引水の虚構事実をつくりあげ、これを口実に公正な選挙運営を旨とすべき選管委員のうち鈴木派と目される被告人須藤、同宮形、同工藤光雄を強引にだき込み、その揚句、同被告人らは同派に属する工藤精一名義で提出された異議申出の審査に名を藉りて、事務局職員や警察官の立会い監視の中で、中村候補の得票の約一六パーセントにあたる八四七票(八六〇票から小沼委員の選び出した一三票を除く)もの大量の票を同一筆跡なりと軽々に判断したのであつた。その選別方法が如何に杜撰極まるものであつたかは判示第一の二の2項と第三の一項において述べたとおりである。被告人須藤らは、強引に選管を開催し、投票すりかえの有無について何ら調査することなく、ただしやにむに鈴木候補の当選をめざして突き進んだのである。被告人らの目的がとにもかくにも鈴木候補の逆転当選にあつたのであるから、本件実行々為とその前後の手続が法律違反を積み重ねたものであつたことは当然とも言えようが、それにしても、その選別方法、決定の軽卒さと破廉恥振りには言語に絶するものがある。まさに目的のためには手段を選ばぬ暴挙であつたと言うほかない。
三 被告人らがかかる暴挙をなすに至つた根本的な動機は、さきに認定したとおり、ともすれば一派に偏しがちな町政をきらい、自派が支援した鈴木候補を町長に就かせ、もつてその利得にあずかろうとしたことにある。鰺ヶ沢町を含む津軽地方一帯は、以前から激しい政争が繰り返され、公職の選挙は熾烈をきわめるとともに悪質な選挙違反が頻発して、巷間、いわゆる「津軽選挙」の異名をとる程であり、選挙後も不明朗な町政の運営が為されなかつたわけではない。しかしながら、現実の政治は時には偏向しがちなものである。けれども、これを是正する途は常日頃から存在し、わけても被告人らは、いずれもその経歴と地位からして町政に対し何かと発言する機会の多い、いわゆる町の有力者であつた。また、四年間に亘る町政を批判する機会として本件選挙が行なわれたのである。被告人らは、卒先してこの様な従前の選挙や町政の悪弊を追求して公明清浄な選挙運動を展開し、あとは選挙民の判断にまつべき立場にあつたのである。しかるに被告人らは、右選挙の結果を謙虚に受けとめようとはせず、却つて、謀議を重ねたうえ、本件を敢行し、鈴木泰治を町長にしたあとは、争訟が長びくことを狙い、その間の居すわりまで考えていた節が窺えるのである。こう見てくると、本件は、傲慢不遜の動機に基づく犯行といわざるをえない。
四 次に、被告人ら各個人の情状を検討する。
被告人らは判示第一項に認定した如く、いずれも鰺ヶ沢町において過去および犯行当時重要な役職につき、町民の信望も厚くて然るべき立場にあつたものである。とくに被告人須藤、同宮形、同工藤光雄は、町議会において「人格が高潔で政治および選挙に関し公正な識見を有する者」(地方自治法第一八二条第一項)として選管委員または補充委員に選出されたのであり、当然右自覚をもつて公正中立な態度を貫いて職務の執行にあたるべきであり、いやしくも、これを疑わしめるような言動さえ慎しむべき立場にあつた。しかるに被告人須藤、同宮形は、右の地位にありながら、選挙において相争つた一派と連日密接な連絡を重ねたばかりか、四月二九日山海荘において被告人本間らから本件犯罪の実行を迫られるや、当初においては、若干ちゆうちよしたようにみられるが、やがてこれを承諾し、ついでは積極的な意向に変わり、ついに本件実行々為を敢行したのであつて、その責任は極めて重大である。もし右被告人二名が自己の中正であるべき選管の職責逐行を充分に自覚して、無理な申立をきつぱりと断り、異議申出に対して厳正な態度で臨んでいれば、本件犯罪は発生しなかつたのである。とりわけ被告人須藤は、選管の最高責任者であつたにもかかわらず、一旦犯行を決意するや、終始積極的に犯行を準備し、白内障のため、十分字を読むことができないのに、五六一票の多きを同一筆跡として抜きとつたことは誠に唖然とするばかりである。
被告人工藤光雄は、山海荘の謀議には加わらなかつた点において、他の被告人に比べ、やや情状が軽いとは考えられるものの、被告人本間らより本件犯行をもちかけられるや、鈴木逆転当選を目ざして、易々とこれに同調し、補充委員であることを良いことに選管に加わり、一七〇票を抜き取つたもので、この責任も大きい。
被告人本間は、本件犯罪において、終始先頭に立つて筋書を画策し、これを指揮した首謀者とみられる。被告人須藤らに最も強い圧力を加えたのも被告人本間であつた。当時公職選挙法違反で刑の執行猶予中の身であつたのであるから、特に自己の行動については慎重であるべきであつたにもかかわらず、卒先して本件を誘発、敢行した被告人には罪の意識をみじんもうかがうことができない。
被告人工藤精一、同田中は、ともに当時町民から町政の信託を受けた町会議員の要職にありながら、本件謀議や犯罪の画策に、積極的で重要な役割を果したものである。
被告人中村は、村長をつとめたほかに、警察署長の職にあつて犯罪の予防、鎮圧に献身し、法秩序の維持にあたつて来たものと思われるのに、本件犯罪に加担し、被告人工藤精一らと同様の役割を果したことは、厳しく非難されなければならない。
被告人櫛引は、当時業務上横領罪で刑の執行を猶予されていたのに、謹慎するどころか、終始本件犯行の裏方的役割を担当したものである。しかし、本件犯行の謀議を他の被告人ほど積極的に推進した事情は存しない。
五 被告人らは本件犯罪を強行したものの、その余りにも杜撰なやり方のため、間もなく悪事が露見して、結局鈴木泰治が町長に就任するには至らなかつたのは幸いであつた。しかし、一時は鰺ヶ沢町に二人の町長が出現したとして、鰺ヶ沢町はもとより、日本全国にセンセーシヨナルな話題を呼び、その結果町民の心に植えつけられた動揺や選挙の公正さと選管委員や町会議員に対するぬき難い不信の念は極めて大きく、これをぬぐい去るには今後長年に亘る多大の努力が必要であると考えられる。しかるに被告人らは、本件審理の当初から、捜査段階の取調べを異句同音に非難し、山海荘謀議の存在を否定し、更には自己の行為の正当性をうそぶくといつた態度を続け、微塵も反省しようとしないことは誠に遺憾というほかはない。
六 よつて、以上の事情と証拠上認められる一切の事情とを総合して勘案すると、被告人らを長期の懲役に服せしめ、もつて犯した罪の大きさを自覚させ、再度かかる犯罪を犯さないよう反省せしめることが必要であると当裁判所は考え、主文掲記の各刑を量定した次第である。
よつて主文のとおり判決する。