大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

静岡地方裁判所 平成19年(わ)273号 判決 2008年5月19日

主文

被告人を罰金30万円に処する。

その罰金を完納することができないときは,金1万円を1日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は,平成14年8月1日午後3時20分ころ,業務として普通乗用自動車を運転し,静岡県a町b番地先の交通整理の行われていない丁字路交差点をc町方面からd方面に向かい右折進行するに当たり,同交差点手前には一時停止の道路標識が設置され,交差する左右道路は優先道路であり,かつ同交差点は左右の見通しが悪かったのであるから,設置された一時停止標識に従って一時停止した後も,微発進と停止を繰り返すなどして左右道路から進行してくる車両の有無及びその安全を確認して右折進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,停止位置での一時停止後,左右道路からの車両の有無及びその安全確認不十分のまま漫然時速約5キロメートルで右折進行した過失により,折から,右方道路から進行してきたA(当時59歳)運転の普通乗用自動車左側部に,自車左前部を衝突させ,その衝撃により同車を横転させて路外水路に転落させ,よって,同人に約3週間の入院加療を要する全身打撲の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)省略

(事実認定の補足説明)

検察官は,「被害者が,本件事故により,加療約2185日間を要する脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)等の傷害を負った。」と主張し,さらに具体的な症状として「全身打撲,頭痛・頸部痛,頭の中でせみが鳴いているように感じる症状,めまい,全身の痛み」と釈明しているところ,当裁判所は,判示のとおり約3週間の全身打撲の傷害のみを認定した。以下,その理由を述べる。

1  関係各証拠によって認められる事実は,以下のとおりである。

(1)  被告人は,平成14年8月1日午後3時20分ころ,自己の経営する会社所有の軽四自動車を運転し,静岡県a町b番地先の交通整理が行われておらず,生い茂る夏草と高さ1.1メートルのガードレールにより見通しが悪い丁字路交差点において,一時停止後,c町方面からd方面に向かい時速5キロメートルで右折進行したところ,d方面からe市方面に向けて時速40キロメートルで走行してきた被害車両左側部に,被告人車両左前部を衝突させ,被害車両は,同車進行方向右斜めに17メートルほど走り抜け,その先の水路に180度回転して転覆して仰向けの状態で停止した。

(2)  被害者は同日,救急車でB病院に搬送され,頭部,胸部,腹部,臀部等の全身に痛みを訴え,同月2日付診断書で,全身打撲で全治2週間を要する見込みである旨診断され,同月12日付け診断書では,約3週間の入院加療を要する見込みである旨診断された。同病院の退院サマリー,入院カルテによれば,被害者は入院当初から断続的に頸部痛,胸部痛,頭痛を訴え,同月3日には歩行には問題がない旨記載されているものの,同月5日からは耳鳴りの愁訴が,7日頃からめまいを含む頭部に関する不定愁訴があり,同月9日に頭部MRIをとったものの異常がなく,愁訴が減ったため,8月19日には退院となった。

被害者は,同月22日,夫の運転する車でC警察署交通課に出向いて事故状況の聴取等を受けた。

(3)  しかし,退院後,B病院整形外科外来に通院中,被害者の症状は徐々に悪化し,同月27日,30日に頸椎のレントゲンをとるも異常がなかったが,同年10月ころから,右手,続いて左手のしびれを感じるようになり,同年11月22日のMRI撮影で第6頸椎と第7頸椎に微少な傷害が認められ,平成15年2月中旬頃からは歩行困難となり,車いすを使って移動するようになった。

更に,そのころ,ぴーぴーという耳鳴りが始まった。そこで,被害者は,同病院の内科,外科,脳外科,耳鼻科等で診察を受けるなどしたが,頸椎の微少な傷害以外に特に異常はなく,その傷害と耳鳴りとの関連も不明であった。

(4)  平成15年2月13日,被害者はインターネットで探した愛媛県のD病院を受診し,同病院で低髄液圧症候群と診断された。同年3月13日ころ,被害者は同病院に入院してブラッドパッチ療法を受けたが,症状は改善せず,同月頃から両足,顔のしびれが生じ,そのうち,左足はしびれて冷たくなり,右足は骨盤から下が痛くて足がつけない状態となった。被害者は同年7月31日,12月18日にも同病院に入院し,ブラッドパッチ療法を受けたが,やはり症状は改善しなかった。更に,低髄液圧症候群と診断した医師が香川県のE病院に転勤すると,被害者は平成16年から同病院を受診し,平成17年3月22日から同年5月27日まで同病院に入院した。平成17年6月2日からはF病院のG医師を受診するようになり,同病院でもブラッドパッチ療法を受けたものの,症状は改善しなかった。被害者は,この間も,家での転倒や,不定愁訴によってB病院等に通院,入院を繰り返し,平成16年8月19日には身体障害程度等級1級の身体障害者認定を受けた。被害者は現在,トイレや食事も一人では出来ず,夫の介助なしでは生活できない状態となっている。

(5)  被告人は,被害者が本件事故によって入院した平成14年8月1日から退院した同月19日まで,殆ど毎日手みやげを持って被害者を見舞いに行き,退院後も週1回のペースで被害者を見舞い,D病院にも見舞いに行くなどした上,四国までの旅費,衣服・下着,現金等を被害者から要求されるたび,保険ではなく自費でこれを支払うなどしてきたが,被告人の負担も限界となり,更に,平成16年2月頃からは保険金も支払われなくなったことで,被害者から損害賠償請求事件を起こされ,現在係争中である。

(6)  低髄液圧症候群とは,脊髄腔から脳脊髄液が漏出することによって生じる一連の病態のことであり,脳や脊髄腔全体を満たす脳脊髄液が漏出すると,頭蓋内圧が下がるために頭痛や頸部痛などの痛みやめまい,視覚異常などの脳神経症状が出るとされている。国際頭痛分類の低髄液圧症候群の診断基準は,①頭部全体および・または鈍い頭痛で,座位または立位をとると15分以内に憎悪し,項部硬直,耳鳴,聴力低下,光過敏,悪心のうち少なくとも1項目を有し,かつ,硬膜外血液パッチ後,72時間以内に頭痛が焼失すること,②低髄液圧の証拠をMRIで認める(硬膜の増強など)か,髄液漏出の証拠を通常の脊髄造影,CT脊髄造影,または脳槽造影で認めるか,座位髄液初圧が60ミリ水柱未満であること,③硬膜穿刺その他髄液漏の原因となる既往がないこと,であり,同基準は,その症状と機序を論理的に説明したものとして医学界で認められた定説であるが,髄液が漏出しても髄液圧が低下しない例や,典型症状がなく,また,それ以外の症状が生じる場合もあることから,患者救済の立場から,前述の低髄液圧症候群の診断基準に当てはまらなくても,それと類似の,多彩な愁訴が見られる患者の症状を広く「脳脊髄液減少症」と称する学説が唱えられるようになった。G医師は,その学説に与する一人で,同学説によれば,頭頸部外傷,気圧の急激な低下,結合組織の異常による硬膜脆弱性などに加え,いきみ,咳込み,性行為,しりもち,ビタミンA低下症なども脳脊髄液減少症の誘引とされている。そして,同医師によれば,脳脊髄液減少症の最も信頼性の高い診断方法は,RI脳槽シンチグラフィーであり,補助的な検査方法として頭部MRIやMRミエログラフィーがあるが,被害者は,RI脳槽シンチグラフィー検査の都合が合わず,頭部MRI検査とMRミエログラフィー検査を行った結果,いずれの検査によっても脳脊髄液減少症と認定する明確な所見は認められなかったものの,被害者は,交通事故直後頃から,脳脊髄液減少症によく見られる頭痛やめまい,視覚異常などの脳神経症状が見られ,現在まで持続している以上,交通事故による外傷が原因で被害者が脳脊髄液減少症になったと考えるのが相当で,同事故と脳脊髄液減少症の間には因果関係がある旨述べている。

(7)  また,G医師は,平成20年3月4日付意見書において,ブラッドパッチ療法はしばしば脳脊髄液減少症の治療に有効だが効果の見られない例もあり,ブラッドパッチで症状が改善しないからといって脳脊髄液減少症を否定することはできないし,被害者の場合,ブラッドパッチ療法で髄液漏出は止まったものの様々なストレスや自律神経症状などの複数の要因によって症状が憎悪し悪循環に陥ってほぼ寝たきりの状態になっていると考えると筋が通る上,苦しんでいる夥しい数の患者を救済する立場から脳脊髄液減少症は前向きに捉えられるべきである旨述べている

(8)  かかるG医師の診断基準に対しては,医学界において,その症状と機序の論理関係が明らかでないという強い批判があるほか,被害者が何度も受けているブラッドパッチ療法についても,硬膜下注入により癒着性クモ膜炎を発症し,腰痛やしびれを起こす可能性があり,発症した場合は重大な後遺症を残すことになるリスクの高い療法であるため,髄液漏出の事実や漏出部位を確認できないままブラッドパッチ療法を実施すること,とりわけ何度も実施することについては批判がある。

2  当裁判所の判断

(1)  被害者は,被告人車両と衝突後,水路に自車が横転したことによってB病院に搬送され,同病院に入院または通院中,徐々に症状が悪化し,現在では,トイレや食事も一人では出来ず,夫の介助なしでは生活できない状態となっている。また,被害者は,入退院を繰り返す中で,リスクの高いブラッドパッチ療法を4回も受けるなどして症状改善のために血のにじむ努力をしており,その愁訴は悲痛なまでに深刻かつ真摯で,同症状が詐病でないことは明らかである。一方で,被害者の症状は,国際頭痛分類の低髄液圧症候群の診断基準には当てはまらないし,新たに提唱された脳脊髄液減少症の診断基準に照らして被害者の症状を見ても,頭部MRI,MRミエログラフィー等の検査では脳脊髄液減少症と認定する明確な所見は認められず,4回にわたるブラッドパッチ療法によっても改善は見られない。しかし,G医師は,脳脊髄液減少症によく見られる脳神経症状がある以上は脳脊髄液減少症であることを否定し得ない旨述べている。

(2)  被害者の症状は,医学界において定説として認められている従来の「低髄液圧症候群」でないことは明らかであるところ,更に,「脳脊髄液減少症」であるのかという点については,G医師の検査によっても明確な客観的所見は認められなかったというのであるから,G医師が被害者を「脳脊髄液減少症」と診断する根拠は,結局のところ,被害者の主観的訴えが低髄液圧症候群において見られる脳神経症状の訴えに近似しているからというにとどまることとなる。しかしながら,かかる客観的所見に基づかない自覚症状のみで「脳脊髄液減少症」という診断がなされるのであれば,不定愁訴を訴える者の殆どは「脳脊髄液減少症」に該当することになり,髄液漏をその病気の本態とするはずの「脳脊髄液減少症」と,原因不明の不定愁訴の区別は全く付かないことになってしまいかねない。即ち,「脳脊髄液減少症」の病気の本態が髄液漏である以上,髄液漏が生じていることが客観的に認められない被害者の症状を,髄液漏を原因とする「脳脊髄液減少症」であると認めることは,その根拠について合理的な疑いが残ると言わざるを得ないのである。そして,被害者の症状を「脳脊髄液減少症」であると認定できない以上,検察官が第5回公判で釈明した「頭痛,頸部痛,頭の中で蝉が鳴いているように感じる症状,めまい」といった被害者の自覚症状(不定愁訴)は,いずれも多様な原因に基づき多様な場面で普遍的に見られる症状なのであるから,被害者のかかる症状が本件事故以外の原因によって起こった可能性は否定し得ず,そうであるとすれば,同症状と本件事故(被告人の過失行為)との関係は,そもそも,事故なくして症状なしという条件関係において,合理的な疑いが残るものといわざるをえない。

(3)  もっとも,かかる客観的所見のない患者を「脳脊髄液減少症」と称するのか否かについては医学上の見解の分かれるところであり,G医師と同様の見解を有する医師が少なからずいること,同医師らによれば,同症状は患者救済の立場から広く肯定されるべきであると提唱されていること,検察官もまた,かかるG医師らの新しい見解に基づいて,被害者の症状を「脳脊髄液減少症」であると主張していること,裁判所が医学論争に積極的に介入することは妥当ではないことなどから,被害者の症状を「G医師らの提唱する脳脊髄液減少症」であると認定した場合について,以下付言する。

被害者の症状が「G医師らの提唱する脳脊髄液減少症」であるとして,問題となるのは,「G医師らの唱える脳脊髄液減少症」と名付けられた被害者の症状と,被告人の本件過失行為との間に因果関係が認められるか,である。

この点,G医師は,交通事故直後頃から,脳脊髄液減少症によく見られる頭痛やめまい,視覚異常などの脳神経症状が見られ,現在まで持続している以上,交通事故による外傷が原因で被害者が脳脊髄液減少症になったと考えるのが相当で,因果関係はある旨述べている。しかしながら,前述のとおり,「脳脊髄液減少症」は,そもそもその症状と機序の論理関係が不明な点が問題視されていることから明らかなとおり,医学的・論理的に因果関係を肯定することは困難であること,「脳脊髄液減少症」は,いきみ,咳込み等によっても発症するとされているところ,いきみ,咳込み等は,我々が日常生活を送る中で何気なく経験するものであり,本件事故直前に被害者がいきみ,咳込み等を経験しなかったか否かは明らかでなく,その可能性を否定することができないこと,被害者が耳鳴りを訴え始めたのは,被害者供述に拠れば4日目くらい,カルテによれば5日目からであるところ,被害者は,平成20年2月25日付検察官調書において,「寝たきりで話をするのも辛い状態だったので,大きなくしゃみをするということもありませんでした」と述べているものの,退院サマリー・入院カルテによれば,入院2日目には「痛みも少しずつ軽減してきている 少しずつ体を動かせている」などと記載され,入院3日目には「点滴棒もってゆっくり歩行している ふらつきなし」「歩行に問題はない」旨記載されていることが認められるから,少なくともその間,いきみ,咳込み等のアクションもできないほどの寝たきり状態ではなかったことが認められる。とすれば,その間,かかるアクションがなかったと断言することができない以上,かかるアクションによって脳脊髄液減少症が発症した可能性も否定し得ないものといわざるをえない。

以上によれば,G医師の診断した被害者の「脳脊髄液減少症」と本件事故(被告人の過失行為)との関係についてもまた,事故なくして症状なしという条件関係において,合理的な疑いが残るものといわざるをえない。

(4)  そこで,合理的疑いを容れる余地なく,被告人に刑事上の責を帰すべき範囲はどの程度であるのか,が次に問題となる。

この点,前記1で認定した事実によれば,被害者車両は,被告人車両と衝突したことにより進行方向右斜めに走り抜け,その先に水路があったことから,同水路に転覆して仰向けの状態で停止したこと,被害者は当初から頭部,胸部,腹部,臀部等の全身に痛みを訴えていること,本件事故翌日に作成された診断書にも全身打撲である旨記載されていること,が認められ,以上の事故態様,診断書等に照らせば,本件事故によって被害者が全身打撲を負ったことは合理的疑いを容れる余地なく認められるものといえる。そして,検察官が釈明した「頭痛・頸部痛,頭の中でせみが鳴いているように感じる症状,めまい,全身の痛み」は,不定愁訴を羅列したか,脳脊髄液減少症と全身打撲の症状内容を詳しく釈明したにすぎないものであること,検察官の主張する2185日というのは,前述のとおり,因果関係はおろか条件関係すら認められない脳脊髄液減少症や不定愁訴の加療日数をも含めた日数であること,被害者は,平成14年8月2日付診断書では,全身打撲によって約2週間の加療を要する見込みである旨診断されたが,同月12日付診断書においては,全身打撲によって約3週間の入院加療を要する見込みである旨診断され,現に被害者は本件事故に遭った同月1日から同月19日まで入院していること,それ以外に,全身打撲による加療日数について判断に供すべき証拠は存在しないこと,が認められる。

以上によれば,証拠によって合理的疑いを容れる余地なく認められ,被告人の責めに帰すべき傷害結果は,約3週間の入院加療を要する全身打撲の傷害,ということになり,これに反する検察官,弁護人の各主張は採用し得ない。

(法令の適用)

罰条      平成18年法律第36号による改正前の刑法211条1項前段

刑種の選択 罰金刑を選択

労役場留置 刑法18条

(量刑の理由)

本件は,被告人が,左右の見通し困難な交差点を右折するに当たり,一時停止はしたものの,微発進と停止を繰り返すなどして左右道路から進行してくる車両の有無や安全を十分に確認しないまま,漫然と右折したために被害車両に衝突し,同車に乗車していた被害者に全身打撲の傷害を負わせたという事案である。

被告人は,左右の見通しの悪い交差点において,事故を防止するために自動車運転者に課せられた基本的な注意義務に違反して本件事故を惹起したもので,その過失の程度は小さいとはいえない。また,被害者は,本件事故によって,傍らの水路に自車が横転し,入院加療3週間を要する全身打撲の傷害を負ったのであって,被害結果も小さくはない。

しかしながら,被告人は,本件犯行後,横転した被害車両から直ちに被害者を救出し,被害者が入院すると入院先の病院に手みやげを持って日参し,退院後も何十回も被害者宅に見舞いに行ったり電話をかけたりした上,保険では賄われない被害者からの衣服や旅費,現金の要求にも応じるなど,能うる限りの誠意ある対応を行ってきたこと,本件を深く反省し,被害者に対し一貫して謝罪の意を表明していること,対人賠償無制限の任意保険に加入しているため,現段階で618万8131円が支払われ,今後も民事上の責任が認められる範囲で無制限に保険金が支払われる見込みであること,一旦不起訴となりながら,本件犯行後5年目にして被害者の症状に脳脊髄液減少症という診断名がついたがゆえに事件が社会的に大きく扱われ,社会的制裁も受けていること,など被告人のために酌むべき事情も認められる。

そこで,以上の諸事情を総合考慮の上,被告人を主文の刑に処するのを相当と判断した。

(求刑-罰金50万円)

(裁判長裁判官 長谷川憲一 裁判官 引馬満理子 裁判官 山谷美恵子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例