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静岡地方裁判所 平成21年(わ)515号 判決 2010年10月21日

主文

被告人を懲役3年に処する。

未決勾留日数中300日をその刑に算入する。

この裁判が確定した日から5年間その刑の執行を猶予し,その猶予の期間中被告人を保護観察に付する。

押収してある紐1本を没収する。

訴訟費用中,証人甲に支給した分は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は,平成21年8月20日未明,a市b番c号被告人方において,長男A(当時6歳,以下「被害者」という。)を殺害しようと決意し,その場にあった紐を同人の頸部に巻き付けて強く絞め付け,よって,そのころ,同所において,同人を絞頸により窒息死させて殺害したものである。なお,被告人は,本件犯行当時,心的外傷後ストレス障害(PTSD)に基づく強い希死念慮を伴う急性一過性の抑うつ状態のため,心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)省略

(事実認定の補足説明)

被告人が被害者を殺害した時刻についてみると,証人甲は,解剖時における被害者の遺体の状況からすると,被害者が死亡したのは,平成21年8月19日夜から翌20日未明であると供述している。そして,被告人は,8月19日午後7時ころ,被害者に夕食を食べさせ,午後11時57分ころ,元夫であるBから電話で罵られ,被害者を殺害する決意をして,翌20日午前1時半か午前2時ころ,被害者を殺害したと供述している。そうすると,被告人が被害者を殺害した時刻は,8月20日未明と認めるのが相当である。なお,証人甲は,被害者の胃の内容物からすると,食後3時間以内に死亡したと推定されると供述する。しかし,証人甲も,胃の内容物の消化の程度には個人差があることなどから,食後6時間程度経過して死亡した可能性も否定していない。そうであれば,証人甲の前記推定は,被告人が,被害者が食事をした8月19日午後7時ころから6,7時間程度経過した8月20日未明に被害者を殺害したとする認定の妨げとなるものではない。

(法令の適用)

罰条  刑法199条

刑種の選択  有期懲役刑

法律上の減軽  刑法39条2項,68条3号

未決勾留日数の算入  刑法21条

刑の執行猶予  刑法25条1項

保護観察  刑法25条の2第1項前段

没収  刑法19条1項2号,2項本文

訴訟費用の負担  刑訴法181条1項本文(証人甲に支給した分について)

(責任能力についての判断)

検察官は,本件犯行当時,被告人には完全責任能力があったと主張し,弁護人は,本件犯行当時,心的外傷後ストレス障害(PTSD)に基づく強い希死念慮を伴う急性一過性の抑うつ状態のため,被告人は心神喪失の状態にあったと主張するので,以下判断する。

1  前提事実

関係各証拠によれば,次の事実が認められる。

(1)  犯行に至る経緯

① 被告人は,平成14年2月ころ,Bと知り合って同棲を始め,妊娠したことが分かって5月に入籍した。Bは,飲酒の上,被告人に対し,暴力を振るい,暴言を浴びせ,被告人の携帯電話を3回にわたり握りつぶして破壊する等の行為をしたことから,結婚生活はうまくいかなかった。被告人は,10月末にはBと別居し,12月に被害者を出産したものの,平成17年10月には離婚調停の申立てをした。被告人とBは,平成18年4月に和解離婚したが,その結果,被告人が被害者の親権者となり,Bに対し月1回の面接交渉権が認められ,Bが被告人に対し,養育費として毎月10万円のほか,解決金300万円を毎月10万円に分割して支払うことになった。Bは,被告人に対し,養育費や解決金に上積みをして,毎月おおむね30万円程度を支払っていた。

なお,平成15年4月ころ以降,Bからの暴力や暴言は減少したが,暴言等は断続していた。

② その後,被告人は,実母と同居していたが,平成21年3月,実母との金銭上のトラブル等から別居することになり,知人名義で賃借したアパートに引っ越したものの,その知人とのトラブルから,Bに頼らざるを得なくなり,4月ころからは,B名義でアパートを賃借することになった。Bは,そのころから頻繁に被告人方を訪れるようになり,食事をしたり風呂に入ることもあった。被告人は,Bから被害者の教育方針等についてメールや電話でうるさく言われ,Bと口論になることが多かった。

③ 被告人は,平成21年7月28日,突然被告人方を訪れたBに対し,頻繁に来てもらっては困る旨述べたところ,Bは怒って帰っていった。被告人は,同月30日,Bから,被告人の被害者に対する教育が犬の飼育に似ているなどという内容のメールを送られてショックを受け,養育費がもらえなくてもBとの関係を切っても良いと思った。そして,被告人は,8月7日,Bから,被害者と夏休みを過ごしたいなどという内容のメールを受け取ったが,それに対しては直接返事をせず,これを拒絶する意思で,Bが7月30日に送信してきた「二度と行かないし二度と会わないよ」などという内容のメールをそのまま送り返した。

④ 被告人は,平成21年8月18日午後8時14分ころ,飲酒したBから電話で,「貴様のような奴には被害者を育てさせられない」「被害者も親を捨てるような人間になる」などと言われ,Bから暴力を受けていたころのことなどが思い出されて,Bから逃げ出したくなり,そのためには,被害者を殺して自殺をするしかないと思い詰め,ほとんど一睡もせず,翌19日明け方までに,実父の乙やその妻である丙宛の遺書を書き,昼前に郵便ポストに投函した。被告人は,昼食として,被害者にきのこ入りのハヤシライスを食べさせ,午後7時ころ,夕食として,お茶漬けを食べさせた。午後10時ころ被害者と寝たものの,Bからいつ電話がかかってくるかと思いながらうとうとしていた。午後11時57分ころ,飲酒したBから電話があり,罵倒されるなどしたため,被告人は,Bから逃れることができないと思い詰め,被害者を殺害して,自殺することを決意した。

(2)  犯行及び犯行後の行動

被告人は,平成21年8月20日未明ころ,被害者を殺害し,部屋が出血で汚くなるのを嫌ってビニールシートを敷き,バファリンを50錠飲んだ後,カミソリやカッターナイフを使用して自殺を図り,午前5時53分ころ,乙に電話をかけて,被告人方に来るように頼み,訪れた乙のために玄関の錠を開けた。

2  判断

(1)  精神障害について

鑑定人丁は,「①本件犯行当時,被告人は,Bによる心身の虐待(DV)に起因する心的外傷後ストレス障害(PTSD)にり患しており,平成21年8月18日夜のBがかけてきた電話が誘発刺激となって,虐待の記憶がフラッシュバックし,強い希死念慮を伴う急性一過性の抑うつ状態をきたした。②この精神状態は,ストレス処理が未熟な被告人の人格傾向や,本件犯行の数か月前から被告人にかかっていた複数のストレス,そして,社会的孤立状況と相まって,被告人の判断能力を著しく狭め,被害者を道連れにした拡大自殺という行動を制御する能力を著しく低下させていた。③この精神状態は,犯行前日から生じていたものであり,8月19日の深夜のBからの電話の前と後で,判断能力の低下に量的な差異はあったが,質的には変わりなかった。④うつ状態は中等度であった。」旨鑑定している。

前記前提事実によれば,Bは,長年にわたり,断続して,被告人に対し,暴力のほか,携帯電話を3回も握りつぶしたり,暴言を吐くなどのDVと評価できる行為をしており,平成21年7月30日以降,Bから自立しようとしていた被告人が,8月18日,19日の電話によって,DVの記憶がフラッシュバックし,Bの支配から逃れることができないと思い詰めて,本件犯行に及んだものと認められるから,強い希死念慮を伴う急性一過性の抑うつ状態をきたした,旨の鑑定結果は十分信用することができる。

確かに,本件は,ICD-10やDSM-Ⅳ-TRに定められたPTSDの基準,すなわち「戦争,災害,犯罪被害などの甚大な心理的ダメージがあった」という基準を満たすものではないが,鑑定人丁の提示する「甚大なダメージとまではいえないが,虐待やDVなどの心理的ストレスが長期間断続した」という基準を満たしている。鑑定人丁によれば,上記基準を満たせばPTSDに該当するとの学説も有力であり,臨床例も多数ある。被告人は,PTSDと同様の精神状態にあったと認めるのが相当である。

なお,検察官は,被告人が平成21年8月18日以前から被害者との無理心中を意識していたことが強くうかがわれると主張する。しかし,被告人が本件以前に自殺を企図したことはなく,被告人が無理心中を意識していたとの明確な証拠はないのであって,本件犯行が8月18日以前からの計画的なものとは認められない。

(2)  是非善悪の判断能力及びこれに従って行動を制御する能力について

① 犯行の動機についてみると,被告人は,Bから離れて自立する道を選択しようとしていたところ,Bから2度にわたり電話で罵倒され,結局,Bから逃げることができないと思い込み,Bの前から消えたいと思って,被害者を道連れにした拡大自殺を図った,というものであり,一見,動機が了解可能であるようにもみえる。しかし,被告人は,平成21年6月に市営住宅への入居を申し込んでBからの自立を考えていたものであり,600万円の預金もあることなどの事情を考慮すると,被告人が,Bから電話で罵倒されたというだけで,被害者を殺害して自殺を図るというのは,その経緯に大きな飛躍があるのであって,犯行動機が了解可能であるということはできない。また,被告人は,精神科への通院歴もなく,被害者を慈しみ育てながら,日常生活に支障をきたすこともなかったのであって,8月18日,19日のBからの電話を契機として,突然,被害者を殺害したという本件犯行は,平素の被告人の人格から考えると異質なものであるというべきである。

② 他方,被告人の抑うつ状態が中等度であったこと,被告人は,乙等に対し遺書を書いたり,部屋が汚れないようにビニールシートを敷いたり,自殺を図った後,乙に連絡したりするといった合理的な行動をしていることなどを考慮すると,被告人は,精神障害であるPTSDに基づく抑うつ状態の強い影響を受けて,本件犯行に及んだと評価できるものの,抑うつ状態の圧倒的な影響によって犯行に及んだとは評価できない。また,被告人がもともとストレス処理の未熟な人格であることを考慮しても,PTSD,フラッシュバック,それに引き続く抑うつ状態という精神状態の質的変化がなければ,本件は発生しなかったもので,被告人のもともとの人格に基づく判断のみによって犯したものであるということもできない。

そうすると,被告人は,本件犯行当時,心神耗弱の状態にあったが,心神喪失の状態にはなかったことが明らかである。本件犯行当時,被告人が心神喪失の状態にあったという弁護人の主張は,採用することができない。

(量刑の理由)

本件は,PTSDにより希死念慮を伴う抑うつ状態にあった被告人が,実子である当時6歳の被害者と心中しようとして,被害者を紐で絞め殺したという事案である。

何の罪もない被害者は,限りない愛情を注ぎ,慈しみ,庇護してくれるはずの母親の手によって,希望に満ちた将来を突如絶たれたのであって,その無念さは察するに余りある。被害者の死亡という結果は極めて重大である。被害者は,幼いとはいえ,独立した人間として自己の意思を持ち,懸命に生きていた。被告人は,被害者を当然に自分と生死を共にすべき存在と考えていたものであるが,このような考え方は,被害者を独立した人格として尊重しない誤ったものである。犯行当時は心神耗弱の状態にあり,やむを得なかったという一面もあるが,被告人は,他に取り得る手段がいくらでもあったのに,Bとの関係を絶つべく本件犯行に及んでおり,犯行動機は,余りにも身勝手で,短絡的であるといわざるを得ない。被告人は,幼い子を抱えていたとはいえ,離婚し,疎ましく思っていたはずのBを頼ってアパートの名義人になってもらったが,これにより本件犯行が誘発されたともいえ,被告人の離婚後の生活態度にやや甘さがあったと言われてもやむを得ない。そして,被害者の実父であるBも,大切にしていた被害者を,突然,永久に奪い去られ,深い悲しみを抱いている。

以上によれば,被告人の刑事責任は重大である。

他方,本件犯行は心神耗弱の状態で衝動的に行われたものであり,計画的なものではないこと,被告人は,本件犯行を行ったことを認めて,被害者を殺害したことを後悔しており,明確には供述していないものの,内心では本件を反省していることがうかがえること,社会復帰後は,乙や丙と同居する予定であり,同人らの監督と生活支援が期待できること,被告人も,新たな環境の下で更生する意欲を示していること,人格形成期に両親が離婚し,自らも夫のDVにより離婚するなど,被告人の半生には同情すべき点も見受けられ,それが本件犯行の遠因ともなっていること,被告人には前科前歴がないことなど,被告人に有利な事情も認められる。

以上のような諸事情を総合的に考慮すれば,被告人を実刑に処することも考えられるが,今回は,社会内において,被害者の冥福を祈らせつつ,そこで直面する困難と正面から向き合わせ,物心ともに自立した生活を営ませることが相当であると認め,その刑の執行を猶予することにした。なお,これまでの被告人の生活態度等に照らすと,被告人に対しては,保護観察所の適切な指導監督に服させ,補導援護を受けさせるのが相当であるから,その猶予の期間中保護観察に付することにした。

(求刑 懲役10年及び紐1本の没収)

(裁判長裁判官 原田保孝 裁判官 髙橋孝治 裁判官 久保田千春)

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