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静岡地方裁判所 平成8年(ワ)13号 判決 2001年1月30日

原告

亡甲野花子訴訟承継人

甲野太郎

外3名

上記4名訴訟代理人弁護士

藤森克美

被告

静岡市

上記代表者市長

小嶋善吉

上記訴訟代理人弁護士

牧田静二

上記訴訟復代理人弁護士

祖父江史和

主文

一  原告亡甲野花子訴訟承継人らの各請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告亡甲野花子訴訟承継人らの負担とする。

事実及び理由

第一  原告亡甲野花子訴訟承継人らの請求

一  被告は、原告亡甲野花子訴訟承継人甲野太郎に対し、金4341万9008円及びこれに対する平成元年3月16日から完済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告亡甲野花子訴訟承継人甲野一郎に対し、金1447万3002円及びこれに対する平成元年3月16日から完済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。

三  被告は、原告亡甲野花子訴訟承継人甲野二郎に対し、金1447万3002円及びこれに対する平成元年3月16日から完済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。

四  被告は、原告亡甲野花子訴訟承継人乙山葉子に対し、金1447万3002円及びこれに対する平成元年3月16日から完済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

以下、原告亡甲野花子を原告、原告亡甲野花子訴訟承継人甲野太郎を太郎、原告亡甲野花子訴訟承継人甲野一郎を一郎、原告亡甲野花子訴訟承継人甲野二郎を二郎、原告亡甲野花子訴訟承継人乙山葉子を葉子、太郎・一郎・二郎・葉子の4名を太郎らという。

一  本件は、被告の設置する静岡市立静岡病院【被告病院】で平成元年3月15日に腹部血管造影検査(選択的血管造影検査)【本件検査】を受けた原告(当時63歳)が肺塞栓症となり重度の後遺障害が残ったことを理由に、被告に対し、診療契約に基づく債務不履行又は不法行為(使用者責任)を原因として損害賠償請求訴訟をしていたところ、本件訴訟係属中の平成10年12月18日に死亡したので、その遺族である太郎らがその承継人として被告に対し、原告の死亡についても因果関係があることを理由に、原告の死亡による次の損害(合計8683万8015円)につき、相続分に応じた前記請求のとおりの賠償請求と付帯請求をしている医療事故の事案である。

1  治療費 158万1327円

2  付添看護費 2317万2500円

3  入院雑費 106万8200円

4  逸失利益

(一) (63歳から死亡の72歳までの9年間) 1709万5982円

(二) (72歳から74歳までの2年間) 165万9177円

5  入院慰謝料 362万円

6  後遺症慰謝料及び死亡慰謝料 2500万円

7  葬祭費 120万円

8  介護機器及び介護用品費 645万829円

9  弁護士費用 600万円

二  原告は、平成10年12月18日、死亡した。その相続人は、夫である太郎(法定相続分2分の1)、長男である一郎(法定相続分6分の1)、二男である二郎(法定相続分6分の1)、長女である葉子(法定相続分6分の1)である。

(右は記録上明らかな事実である。)

第三  争点

一  本件検査を選択して実施したことの過失と債務不履行の有無について

1  原告及び太郎らの主張

本件検査前、被告病院のA医師らは、原告の病状として血管腫が最も考えられると診断した。しかして、原告は、それまで殆ど病気らしい病気をしたこともなく健康であった。また、原告の肝臓の病気は、肝嚢であって、癌ではなかったのである。そうすると、原告の肝臓の病変について悪性の可能性が100%否定できなかったとしても、危険な本件検査を早急に実施しなければならないほどの緊急性があったとは考えられない。

このように、被告病院のA医師らは、原告の肝臓の病変につき、経験不足又は力量不足により超音波検査とCT検査によって肝嚢と確定診断できる病気を適切に診断し得ず、その見落しの結果、漫然と原告に対して不必要で危険な本件検査を安易に勧誘して実施した過失と債務不履行がある。

2  被告の反論

原告に対して施行された本件検査は必要な検査である。

すなわち、被告の病院で原告に造影CT検査を実施したところ、肝臓のS4、S5に腫瘤像が認められた。特にS5の腫瘤は、鑑別診断上、脂肪変性を伴う肝臓癌、移転性肝臓癌等の悪性腫瘍の可能性を否定できないと判断された。したがって、本件では肝癌等の悪性腫瘍との鑑別の必要があったことは明らかであり、本件検査の適応は存在していた。

3  当裁判所の判断

争いのない事実及び証拠(甲一の1、2、三の1、四、八、九、一五、乙一ないし三、証人A、同G、鑑定人Gの鑑定【G鑑定】)によれば次の事実が認められる。

(一) 原告は、大正15年1月2日生の女性である。身長151.7センチ、体重54キロ、やや肥満タイプで、高脂血症、血が固まりにくい体質であった。

(二) 原告は、平成元年1月14日(当時63歳)、腹部から胃部にかけて痛みを感じ、同月17日、清水市のⅠ医院にて腹部の超音波検査(エコー検査)を受けたところ、右葉前区域に2センチ×1センチの腫瘤像が認められた。そのため原告は、肝腫瘍の疑いがあるから精密検査を受けるようにと指示され、被告病院(静岡市立静岡病院)を紹介された。

(三) 原告は、同月26日、Ⅰ医師の紹介状を持参して被告病院に来院した。そして消化器科で受診し、腹部の超音波検査を受けた。主治医は消化器科のA医師【A医師】で、原告の初診時の主訴は、1月14日午後より腹部から胃部にかけてしめつけられる疼痛が1時間毎位に数秒あり、1月16日まで持続したというものであった。

(四) 更に原告は、同年2月10日、被告病院にて腹部CT検査及び同造影CT検査を受けた。その結果、肝臓のS4及びS5の位置に各1個(合計2個)の腫瘤陰影が認められた。肝臓S4の位置の腫瘤は嚢胞でおそらく良性のものと考えられた。しかし、S5の位置の腫瘤(2センチ弱位)は血管腫と考えられるが、脂肪変性を伴う肝癌、原発性及び転移性肝癌等の悪性腫瘍の可能性を否定できないと判断された。

(五) そこでA医師は、鑑別診断上本件検査が必要と判断し、同月23日、原告に対して、本件検査である腹部血管造影検査の必要性と検査方法等について説明をしてこれを受けるよう勧めた。

(六) A医師は、同月27日に開かれた被告病院の消化器科と外科との合同カンファレンスに原告の症例を持ち出し、本症例に対する本件検査の必要性を検討したところ、出席した約10名の医師の意見は、本件検査が必要であるとの結論であった。

(七) 原告の私的鑑定書である甲一二の1(医師H作成の鑑定意見書【H意見書】)は、肝S5の腫瘤に対して肝癌も否定できないと診断するのは適切と考えられるし、更に適切な検査を行う必要があるとしている。

また、G鑑定は、肝S4及びS5の腫瘤から肝癌等の悪性腫瘍の可能性は否定できないと判断して本件検査を行ったことにつき特に問題はないとしている。

以上によれば、A医師が原告の肝臓癌等の悪性腫瘍を否定できない状況下において本件検査を選択して実施したことには違法、過失はなく、本件で経過観察を選択しなかったからといって直ちに違法となるものではない。もっとも、本件検査実施前の血液検査の結果(乙一)によると、腫瘍マーカーのaFP値は7で正常域(0〜10)、同フェリチン値は49で正常域(女性8〜100)であるが、これらが正常域の値だからといって肝癌等の悪性腫瘍を否定する根拠にはならないし(甲一二の1、乙三)本件検査の結果原告の腫瘤は癌でなかった(乙二、三、証人A)からといって、右の判断を左右するものではない。

二  説明義務(インフォームドコンセント)違反の有無について

1  原告及び松夫らの主張

医療行為が適法であるためには原則的に患者の同意が必要である。ところが、患者が医療行為を受けるかどうか、その諾否を決めるためには、まず行われようとしている医療行為そのものを理解しなければならないし、右医療行為を理解するためには当然専門的な医学知識を必要とする。そこで、患者の同意の前提として、専門職である医師の説明が重要となり、その説明のいかんによって、素人である患者の理解は左右される。そこに、医師の説明義務の必要性の根拠があり、その内容が問題になる訳である。それゆえ医師の説明が不十分なために、患者の当該医療行為の理解に欠けるところがあったとすれば、その患者の同意は無効と解され、結局、同意のない医療行為として違法な医療行為となる。

ところで、本件検査前、被告病院のA医師らは、原告の肝臓の病状について血管腫が最も考えられると診断しながら、肝臓の病変に悪性の疑いを否定できないとして本件検査を勧誘して実施したものである。しかして、血管腫は急に生命にかかわったり特に重篤な状態を来したりするような重大な疾患でなく、他方、本件検査は一般に内膜の損傷、造影剤の漏逸、肺塞栓、脳梗塞など重篤な合併症を起こす危険性があるといわれており、現に原告のように植物人間状態ないしは死亡に至る可能性をもった危険な検査である。

したがって、このような本件検査を実施しようとする場合、担当医師らは事前に患者である原告はもとよりその家族に対しても検査の必要性と危険性等、すなわち①超音波検査とCT検査によって確定診断が下せなかった理由、血管腫が悪性である可能性が否定できないとする判断の具体的根拠、②本件検査を行うことによって判明する内容及びメリット、③本件検査の目的、必要性、危険性、副作用、肺塞栓等の合併症の発生頻度・発生確率(1000分の1ないし2であること)、肺塞栓に罹患した場合植物人間化する可能性、検査担当医師の経験数、合併症の経験数について、十分な説明と理解を得させその上で本件検査を受けるかどうかの判断・決定を委ね、原告本人の承諾を得る必要がある。

しかして、原告の肝腫瘍は良性の可能性が高く、本件検査の必要性は必ずしも高くない一方で、本件検査の危険性はかなりあることなどを正確に原告に対して説明していれば、原告が本件検査を受けなかった可能性はかなりある。

しかるに、被告病院のA医師らはこれを怠り、本件検査について十分な説明もせず、漫然と本件検査を実施した過失及び債務不履行がある。

そして、原告は、本件検査を受けなければ肺塞栓症も発生しなかった筈であるから、右説明義務違反と原告の死亡との間に相当因果関係があるというべきである。

2  被告の反論

A医師は、2月23日、本件検査の施行に当たり、原告に対し本件検査の必要性と検査方法等について具体的に説明している。したがって、インフォームド・コンセントの実施には何ら問題がない。

3  当裁判所の判断

争いのない事実及び証拠(甲一二の3、一四、乙二、四、五、六、七の1、九、二一、証人A、同G、G鑑定)及び弁論の全趣旨によれば次の事実が認められる。

(一) A医師は原告に対し、概略「Ⅰ医院の腹部超音波検査や被告病院のCT検査の結果肝臓に腫瘤が2か所あるだろうが、1つについては悪性腫瘍の疑いを否定できないので悪性か良性かを確定診断するために本件検査が必要である。本件検査の手技は、腿の付け根にある血管からカテーテルと呼ばれる細い管を入れ、それを肝臓のところまで進め、造影剤を注入してX線撮影をし、癌かどうかを判断する。本件検査に要する時間は1〜2時間である。細かい事は入院してから看護婦が説明する。本件検査は安全に行われるが、稀に造影剤の影響等で合併症や副作用が起こることもある。充分な対応をするので安心して本件検査を受けて下さい。」などと説明したが、本件検査に起因する肺塞栓症の合併症については説明しなかった。

(二) 原告は、A医師の説明を了解し、承諾書に署名した上被告病院宛に提出した〔これにより、被告は原告との間で、その症状に応じて適切な医療措置を講ずることを内容とする診療契約を締結したことになる。〕。

(三) G鑑定は、本件検査を行うに際して原告に説明した前記内容は妥当であるとしている。

(四) 本件検査の合併症頻度と危険性については以下のようにいわれていた。

① 昭和52年の小林明らの心臓カテーテル検査及び心臓血管造影の重症合併症の検討では、肺塞栓症との関連については指摘されておらず、実際の頻度については不明であると報告されていた。

② 昭和58年6月号の三重野龍彦ら(自治医科大学)の文献では、肺塞栓症の発生頻度は欧米に比べて極端に低く、血栓を生じても無症状のことが多いと報告されていた。

③ 昭和62年1月号の大塚英明ら(新潟大学)の文献では、肺血流シンチグラムを用いた心臓カテーテル検査後に15例中6例に血流欠損像が認められたので肺塞栓の出現率は40%であるが、これらはいずれも1週間後に消失したことが確認されたと報告されていた。

④ 平成元年6月号の国枝武義(国立循環器病センター)の文献には、肺塞栓が起こっても単発性の小さいものは無症状か或いは症状があっても数日以内に溶解することが知られ、臨床で問題となることは少ないと記されている。

⑤ 平成元年9月号の三重野龍彦ら(自治医科大学)の文献では、致死的ないしは死因に関与した肺塞栓症の頻度は欧米では10〜15%、日本では1%前後、多くみても2%を越えないと報告されていた。

⑥ 平成元年の平松京一(慶應義塾大学)の文献には、カテーテル抜去後肺塞栓がどの程度の頻度であるかはわからないが、多くは無症状ないしは軽症であり、実際には少ないと思われると記されている。

⑦ 平成元年の小野寺壮吉ら(旭川医科大学)の文献には、急性肺塞栓の実数の把握は極めて困難であり、軽度の塞栓の場合には無症状であったり、当初症状があっても本症と診断されずに経過し、血栓の自然溶解とともに後に何らの変化も残さない場合等は全く見逃されてしまうと記されている。

⑧ 平成5年の長谷川浩一ら(川崎医科大学)の文献では、急性肺塞栓225例中カテーテル検査後のものは19例(8%)であったことが報告されている。

⑨ 被告病院では昭和62年度から平成6年度までの間に血管造影検査を合計1万754例(昭和62年度と昭和63年度の合計は1890例)実施しているが(但し、肺血流シンチグラムを用いていない。)、右検査後に臨床的に発生したと考えられる肺塞栓症は原告の1例を除いて外にない。なお、平成7年度にはもう1例発生しているようであるが(甲二七)判然とはしない。

⑩ 証人G(浜松医科大学)は、血管造影をした後、ショックになって倒れて死ぬほどの肺塞栓症は非常に少なく、血管造影検査に起因する致死的な肺塞栓症の頻度は1000例に1例位で、1%にいかないと供述している。

以上によれば、本件検査当時、本件検査に起因する肺塞栓症は治癒していく程度の軽いものが殆どであって、死に至るような危険なものの頻度は極めて低く、このような場合にも死ぬおそれがあるかのように患者に対して説明することは、それでなくても不安が一杯で心細さと憂うつが交錯する患者に対し徒に不安を掻き立てて恐怖心を与えかねず、適当とはいい難い。したがって、A医師が、マイナーな合併症と考えて肺塞栓症の合併症である肺塞症を原告に説明しなかったことには本件検査当時において違法、過失はないというべきである。

三  本件検査の施術(手技)についての当裁判所の判断

1  争いのない事実及び証拠(甲一一、一二の1、一五、乙二、三、一二、一七、原告訴訟承継人太郎、証人A、G鑑定)によれば次の事実が認められる。

(一) 被告病院外科のB医師及びC医師は、平成元年3月15日被告病院の検査室において原告に対して本件検査を実施した。

(二) 本件検査は、肝臓、脾臓、すい臓、腎臓、腸管等に通ずる血管内に造影剤を注入して連続X線撮影を行い、血管の走行を見たり、病変を調べたりする検査である。その検査方法は、局所麻酔の後、患者の鼠蹊部(腿の付け根)にある血管(大腿動脈)からカテーテルを入れ、検査目的の臓器に通ずる血管までその先を進め、造影剤を注入して連続撮影をするのであり検査の時間は普通1、2時間といわれている。

(三) まず、原告に対し、前処置として、硫酸アトロピン、ソセゴン、アタラックスPの薬剤を筋肉注射し、静脈確保のためにラクテック500ccを点滴した後、同日午後1時21分、原告の右鼠頚部に局所麻酔を施したうえ、大腿動脈を穿刺した。その際、血が吹上げたが、それに対する処置がなされた。そして、右の穿刺箇所から標準的な太さである7フレンチのカテーテル(シース)を挿入し、造影剤を注入してX線連続撮影をした。

(四) そして本件検査は午後2時11分に終了した。

(五) 右の手技は一般の血管カテーテル法に準拠している。

(六) H意見書は、撮影された血管造影のフィルム及び看護記録をみる限り本件検査の施術内容は適切であると記している。

(七) G鑑定も、本件検査の前処置は妥当な処置であり、本件検査の実施内容は適切であったと考えるとしている。

2 以上のとおりであるから、本件検査の手技については違法、過失はない。

四  本件検査の翌日に発生した原告のショック症状(容態の急変)の病名・原因、本件検査と原告の死亡との因果関係の有無について

1  事実経過

争いのない事実及び証拠(甲五、一三の1、2、一五、一六、乙二、原告訴訟承継人太郎、証人A)によれば次の事実が認められる。

〔平成元年3月15日から同月17日までの経過〕

(一) 平成元年3月15日、カテーテル抜去後、原告に対して穿刺部の圧迫止血が行われたが、カテーテルを挿入した部位からの出血はなかなか止まらなかった。

(二) 原告は、止血確認後、午後3時30分ころ、検査室から西館6階602号の病室に戻った。その際の原告の状態は、不快感はなく、足背動脈拍動の触知可能、血圧は150/80、脈拍数は84、体温37.2度で異常は認められなかった。

(三) 原告は、被告病院のルーティンどおり、本件検査で動脈内に管(カテーテル)を挿入した時にできた傷口からの出血を防止するため①翌朝9時までの絶対安静、②翌朝6時までの砂嚢の固定の励行が指示された。

そして、原告は、翌朝6時まで砂嚢による固定と翌朝9時までの絶対安静がなされた。

(四) 同月16日午前8時30分ころのA医師の回診では特に原告の異常は認められなかったので、午前9時ころ、原告に対するベッド上での安静は解除された。そのころ原告は、ガーゼを交換し、ベッドの上で身体を拭き、寝衣を交換して体動したところ、少し息苦しく胸が切なくなり、その旨を看護婦に話した。

(五) 原告は、同日午前12時(午後零時)30分ころ、昼食をとり、その後お膳を下げてベッドに戻った。その直後に原告は意識を失ってベッドサイドに倒れたところを同室の患者らに発見された。連絡を受けたD医師(内科)やE看護婦らが直ちに駆け付けたところ、原告の呼名反応はなく、開眼状態で失禁もあった。そこで呼吸確保のため挿管したところ、原告は一時意識を取り戻したが、その後再び意識を失った。

(六) 原告は、直ちにHCU(高度集中治療室)に収容され、駆け付けたF医師、A医師らによって30分以上にわたり心臓マッサージによる心肺蘇生措置が行われるとともに、気管内チューブ挿入による人工呼吸も行われた。更に、フィジオゾール、ラクテック等の補液を静脈への点滴により行ったところ、原告は一時意識を取り戻したが、再び意識を失った。

そこで、A医師らは、ボスミン、メイロン、塩酸ドパミン等の薬剤の静脈注射をする等して原告の心肺蘇生を図りながら午後2時35分ころ、CCU(心疾患集中治療室)への転室を行った。

そのころの原告の状態は、自発呼吸をするものの、呼名反応はなく、瞳孔は左右不正で散瞳気味で、肺動脈圧は66/128ミリHgと上昇し、右心室の運動低下、拡大を示していた。

(七) A医師らは、各種の検査結果と臨床症状から、原告の病名を肺塞栓症に起因する低酸素血症と診断し、血栓溶解剤であるウロキナーゼ72万単位/日、血液凝固阻止剤であるヘパリン2000単位の4時間毎の注射等、肺塞栓症の治療を行った。その結果、午後10時30分ころには、瞳孔の不正は消失し、散瞳もなくなり、血圧は1242/92、肺動脈圧は44/22と改善傾向を示した。

(八) 太郎は、同日午前12時(午後零時)30分ころ、被告病院から連絡を受け、原告がベッドより起き上がろうとした時に突然意識不明になったと伝えられた。

更に、太郎は、同日夜半過ぎ、A医師らより、原告の病状等につき、「原因は安静解除後に起きた血管内の血液の塊や脂肪の塊が肺に飛んでいって起こる肺塞栓症と思う。そのため低酸素症を起こし、脳に酸素が十分行かなくなり、意識を失って倒れ、意識障害や四肢の麻痺が起きていると考えられる。」等との説明を受けた。

〔平成元年3月24日から平成10年12月18日の死亡時までの経過〕

(一) 原告は、平成元年3月24日には呼吸状態が一応落ち着いたので、CCUからHCUに移室し、更に、同月27日には身体状態の改善により一般病室に転室し、治療が続けられた。

(二) 原告は、同年5月1日にはベッドの上でリハビリを開始し、同年6月2日には車椅子による歩行を始め、同月9日には食事を全量摂取するまで回復した。しかし、発語はなく、四肢が麻痺し寝たきりの状態で完全看護を必要とすることとなった。

(三) そこで同年8月2日、原告は、転院のため被告病院を退院し、天城湯が島町にある慶應義塾大学月が瀬リハビリテーションセンターへ転院し、1年8か月間にわたる入院治療を受けた結果、介助により車椅子に座ることができるようになったが、四肢麻痺と発語は改善されず、平成3年4月17日退院した。

(四) その後原告は自宅で療養し、約1年間、週に1回、リハビリのため清水市立病院へ通院していた。

(五) ところが平成4年9月7日、原告は、呼吸不全のため清水市立病院に緊急入院し、同年11月7日、鼻に流動食用のカテーテルを、また膀胱にもカテーテルを付けた状態で退院した。

(六) 原告は、その後も検査入院したり退院したりしていたが、全般的な高度脳萎縮による最重度痴呆状態となり、回復の見込みがなかったところ、平成10年12月18日、直接の死因が低酸素脳症により死亡した。

2  原告の前記ショック症状の病名が肺塞栓症であることは争いがない。

3  肺塞栓症の誘因・発生機序、本件検査と原告の肺塞栓症・死亡との因果関係

(一) 原告及び太郎らの主張

大腿動脈若しくは静脈穿刺によるカテーテル検査では、止血操作時に血腫を形成すると、大腿静脈の圧迫、閉塞を引き起こし、深部静脈血栓が形成され、安静解除後に肺塞栓症を引き起こすと推定されている。

肺塞栓症は、伝染病、下腹部手術、心臓疾患などで心臓内、下肢又は骨盤静脈に生じた血栓が剥離して肺に移行した場合が最も多い。管(カテーテル)を入れるだけで肺塞栓が起きる場合もあり、カテーテル挿入は非常に危険である。下肢の静脈に管を入れるので静脈の壁を傷つけやすく、管を抜いたあと血を止めるために指で押さえるのが血栓を作る原因となる。

本件は、砂嚢による止血が長過ぎ、その使用時間が14時間30分と長過ぎたことから血栓が形成され、肺塞栓症を発症させたものである。

原告の肺塞栓は、鼠径部より造影剤を注入して行った本件検査の直後に生じており、原告の肺塞栓による後遺障害及び死亡と本件検査の間には因果関係が存在する。すなわち、原告は、本件検査により血液の塊や脂肪がはずれ、それが肺に飛び、肺塞栓に罹患させられ、脳に酸素が行かなくなって低酸素脳症状態におとしめられ、植物人間状態となった。そして、その状態は遂に改善することがなく、時の経過とともに筋肉が弱まって自呼吸する力も弱まり、死亡の1か月前から顔にマスクを当てて酸素吸入を施していたが、脳に酸素が行かなくなり、その結果、遂に低酸素脳症によって死亡するに至ったものである。

よって、本件検査と原告の肺塞栓症との因果関係は存在するから、本件検査と原告の死亡とは因果関係がある。

(二) 被告の反論

急性肺塞栓症の原因の90%以上は、骨盤・下肢の深部静脈血栓に由来する、或いは臨床上、肺塞栓症の原因の80〜100%は下肢の深部静脈血栓であるといわれている。したがって、人体の血行動態からして本件のような動脈穿刺から肺塞栓を起こすことは考え難く、本件検査と原告の肺塞栓との間には医学的に因果関係はない。また、砂嚢による圧迫と肺塞栓症の発生との因果関係は不明である。現に、被告病院では、昭和62年度から平成6年度までの8年間に1万754件の各種血管造影検査が行われているが、本件の1例を除き他に肺塞栓症の発生がないのである。

血栓形成には、血流の停滞、血管内膜の損傷、血液凝固能の亢進の三因子重要であり、肺塞栓の発症の結び付く種々の臨床危険因子が知られているが、本件において肺塞栓になるほど大きな血栓が飛んだ理由は、原告が当時63歳の高齢、婦人の肥満(身長151.7センチ、体重54キロ)、高脂血症等の体質であったこと等身体的素因が大きく影響していると思料されるから、本件検査終了後の止血処置或いは術後の安静によって原告に肺塞栓症が生じたとしても、本件検査と直接の因果関係はなく、偶発的なものと考えられる。

(三) 当裁判所の判断

後掲かっこ内の証拠(文献)によれば次の事実が認められる。

肺塞栓症(PE)については『①肺の動脈の塞栓は下腹部手術、心臓疾患、産褥等で心臓内、下肢又は骨盤静脈に生じた血栓が剥離して肺に移行した場合が最も多い(甲三の2)。②血栓・腫瘍細胞・脂肪・空気等の栓子が静脈系・右心系を介し種々の太さの肺動脈分枝の内腔を充填し、その血流を障害する病態を指す(乙五)。③静脈血流中に入った各種の塞栓子が肺血管床で捕らえられ、肺血流を阻害することによって成立する(乙六)。④静脈系で形成され、ときには混入した塞栓子が右心系を経て、肺動脈に達し、血流を遮断すれば、肺塞栓症が成立する(乙七の4)。⑤血栓或いは腫瘍塊・脂肪塊等が肺動脈を閉塞して起きる病態である(乙八)。』といわれている。重症度は、流出する血栓の量によって異なり、無症状のものから突然死を起こすものまで様々である(甲一二の1)。

また、急性肺塞栓症の原因の90%以上は骨盤・下肢の深部静脈血栓に由来する(乙六)ところ、深部静脈血栓症は、40才以上が大半を占め、女性にやや多く、圧倒的に左側下肢に多い(乙二四)。そして、肺塞栓症の複合的危険因子としては高齢、女性の肥満等が上げられている(乙六、七の1)。

血管造影カテーテル検査との関連では『①圧迫包帯が強すぎたり長時間圧迫したままにしておくことによって大腿静脈に血栓が形成され、これが圧迫包帯除去後に流れ出し、肺動脈塞栓を作ることがある(甲一一、乙一二)。突然の発症と既往のカテーテル検査は肺塞栓症の疑いに結びつく。特に検査後の安静を解いた直後の発症は典型的で、診断のポイントである(甲一三の4)。③長時間穿刺部の圧迫が行われ、翌朝患者がトイレに立った時に圧迫部の大腿静脈内に形成されていた血栓が剥離し、肺塞栓症が起こり、不幸な転帰をとることがある(甲一三の5)。④カテーテル検査直後或いは安静解除直後等に原因不明のショックや呼吸困難等が出現した場合肺塞栓症の可能性が高いと考えられる(甲一四)。⑤血管造影検査後、強い圧迫は血栓による肺塞栓症の原因となるので注意を要する(乙二〇)。⑥カテーテル抜去後の圧迫に際して隣接する静脈が過度に圧迫された場合に静脈血栓症或いは血栓性静脈炎が生じ、その血栓が塞栓となって肺塞栓症が起こると考えられている(乙二一)。』といわれている。

しかして、H意見書は、本件につき、安静解除後に突然ショック状態で発症しており、血管造影後に生じ得る典型的な肺塞栓症の経過と考えられ、引き続き施行された血液・生化学検査、心電図・心エコー所見等の検査所見も肺塞栓症として矛盾しない旨並びに本件は圧迫固定の時間が長すぎたため大腿静脈内に血栓が生じ、圧迫解除と歩行開始によってこの血栓が剥離して肺動脈に流出し、肺塞栓症をきたした典型的症例と考えられる旨を述べており、また、G鑑定及び証人Gの供述では、原告に発生したショックの原因として考えられるものとしては、血管造影後1日目かつ大腿部の砂嚢を除いた後に発生したので、発症直後はⅠ肺塞栓、肺梗塞、Ⅱ心筋梗塞、Ⅲ脳血管障害、Ⅳショック(心原性、神経性、出血性)の順に挙げられるところ、砂嚢を乗せたことによる血液の停滞が肺塞栓症を惹起した旨を述べている。

以上の文献等の知見に照らして、前判示の原告の病状の変化・変遷をみると、原告のショック症状による低酸素血症・低酸素脳症、これによる原告の死亡と本件検査との間には因果関係があるものと認めるのが相当である。これに反する被告の主張は採用することができない。

五  原告の肺塞栓を心筋梗塞と誤診し、不適切な救急処置を行った過失と債務不履行の有無について

1  原告及び太郎らの主張

被告病院より原告が倒れたとの連絡を受けて来院した太郎、一郎、葉子らは、病院待合室において、A医師より「心筋梗塞を起こしました。」と聞かされ、それから15分以上してから同医師より肺が動いていない肺塞栓であることを告げられた。

肺塞栓は心筋梗塞と誤診されやすく(このことは現代医学に携わる医師の間で周知の事実である。)診断が難しいが、本件検査後に肺塞栓が起こりやすいことは現代医学の常識であったところ、A医師ら被告病院の担当医師は、原告の意識障害の原因について最初から肺塞栓を疑ってしかるべきであった。

ところが、A医師ら被告病院の担当医師は、原告が倒れて40分程経過した時点で原告の病状につき肺塞栓ではなく、専ら心筋梗塞との誤った診断を下し、肺塞栓の可能性を露ほども疑わなかった。原告が最終的に肺塞栓と診断されるまでに原告の意識障害が発生してから実に2時間を要している。この診断の誤りと正しい診断の遅延は肺塞栓の早期治療の妨げとなった。すなわち、肺塞栓の発症に対しては、胸部X線撮影、血液ガス分析、心電図等の諸検査を早急に実施し、酸素吸入、昇圧剤、強心剤のほか、ヘパリン(抗凝固療法)やウロキナーゼ(血栓溶解療法)による緊急治療が必要であり、血栓溶解剤は時間が経過すると血栓が溶けにくくなるので、速やかな処置が必要であるところ、A医師ら被告病院の担当医師は、原告が倒れて40分程も経過した時点で原告の肺塞栓を誤って心筋梗塞と診断したため、右緊急治療が行われなかったものであり、右緊急治療がなされたのは原告が倒れた3月16日午後12時30分ころから2時間を経過した後の午後2時35分である。

仮に肺塞栓であることが早期に診断され、発症後短時間に適切な処置(酸素吸入を行い、脳への酸素供給を怠らないこと、そして血栓溶解剤を速やかに投与すること、また血栓が小さい場合にはカテーテルによる吸引で取り除くこと)がなされていれば、原告は少なくとも植物状態とならずに軽快した可能性がある。

以上のとおり、A医師ら被告病院の担当医師の右誤診は、標準的、平均的医師の基準からみて、その基準に達した診療がなされなかった結果惹起されたものである。

よって、A医師ら被告病院の担当医師には原告の肺塞栓を心筋梗塞と誤診しそのために適切な処置を施さなかった過失と債務不履行がある。

2  被告の反論

A医師ら被告病院の担当医師は、原告の症状を肺塞栓と正しく診断している。また、A医師、F医師らは、太郎らに対し「奥さんは心肺機能低下を起こしてショック状態となっています。おそらく肺梗塞によるものと思われます。現在その蘇生に努めていますが、管理に万全を期するためこれからCCUに移っていただきます。」と説明しており、肺塞栓症を脳梗塞或いは心筋梗塞と誤診したこともないし、その旨の説明をしたこともない。

3  当裁判所の判断

重症肺塞栓が心筋梗塞と似た症状を呈することがあることは原告及び太郎らの主張するとおりである(G鑑定)。

しかしながら、A医師ら被告病院の担当医師が原告のショック症状を心筋梗塞と誤診したことを的確に認めるに足りる証拠はない。

かえって、証拠(乙二、三、証人A、G鑑定)によれば、心電図等の検査をしないと重症肺塞栓症と心筋梗塞を完全に鑑別できないことがあるところ、A医師らは、心電図検査で右室負荷があること、心エコー検査では右心房及び右心室の拡大、心室中隔の平坦化が認められること、動脈圧検査では急性期の肺動脈圧が66ミリHgと非常に高いこと、胸部X線では肺血流の減少がみられること、原告のショック症状が突然で、心停止をきたしていること等肺塞栓を裏付ける所見で一致し、心原性ショック等他のショックの原因を否定できることから肺塞栓症との診断の基に原告に対して血栓溶解療法や抗凝固療法等の緊急処置を講じたことが認められる。

したがって、甲一五(太郎の陳述書)及び原告訴訟承継人太郎の供述中、A医師らが原告のショック症状につき、心筋梗塞と誤診したことを前提とする説明をしたとの部分は採用することができず、A医師ら被告病院の担当医師には原告の肺塞栓を心筋梗塞と誤診した過失と債務不履行はない。

六  カテーテル抜去後の止血法、砂嚢による圧迫帯使用上の過失と債務不履行の有無について

1  原告及び太郎らの主張

カテーテル検査中ないし検査後の重篤な合併症として肺塞栓症或いは脳梗塞(脳塞栓症)がある。これは、カテーテル抜去後の止血のための圧迫に際し、隣接する静脈が過度に圧迫された場合に静脈血栓症或いは静脈血栓炎が生じ、その血栓が塞栓となって起こると考えられている。したがって、静脈血栓症或いは静脈血栓炎の予防には、圧迫が強過ぎないようにすること、過度の長時間にわたる静脈圧迫を避けるべきこととされている。そして、以前は24時間の絶対安静が必要とされていたが、肺塞栓症或いは脳梗塞(脳塞栓症)の予防のため、軽度の圧迫と6時間程度の短時間の安静、圧迫帯の使用が良いとされている。

原告の場合、3月15日午後3時30分から翌16日午前6時30分まで15時間の砂嚢による圧迫と、3月15日午後3時30分から翌16日午前9時まで17時間30分の絶対安静が義務づけられた。

また、原告は、3月16日の午前中から背中が熱く苦しいことや胸がせつなく息苦しいことを被告病院の看護婦に訴えていたが、何の処置も施されなかった。しかし、胸痛、背部痛は軽度の肺塞栓症の典型的な症状であり、この時、原告は軽度の肺塞栓症を起こしていたものと考えられ、圧迫が強過ぎたと考えられる(推認される)。更に、圧迫帯の使用時間も14時間30分と長過ぎた。そのため、静脈の圧迫により静脈血栓が形成され、翌朝の圧迫帯の解除と絶対安静の解除後に原告が昼食の後片付けのため歩行を開始するとともに、静脈血栓が流れ出し、肺動脈に詰まり、肺塞栓症を引き起こし、或いは肺を通過して右中大脳動脈に詰まり脳梗塞(脳塞栓症)を引き起こしたものと考えられる。

以上のとおり、カテーテル抜去後の止血のための砂嚢による圧迫が強過ぎ、その時間も長過ぎたことが原告に肺塞栓の原因たる血栓を形成させたもので、本件事故の直接の原因であると推測される。

右止血についての当時の医療機関の一般的水準からみると、被告病院は、砂嚢による止血、止血時間の長さの2点において総合病院としてあるまじき遅れた水準にあった。すなわち、砂嚢による止血は静脈を圧迫する可能性がより高いことから枕子に変わってきていたのであり、平成元年当時、砂嚢による止血方法をとる施設は遅れた病院であった。

被告病院は、地域の基幹たる総合病院として時代の流れを読んで随時枕子を採用していくべきであり、被告病院のレベルでは早期の採用がなされて当然であった。ところが、被告病院は、平成元年当時、未だ砂嚢による止血方法をとっており、止血方法に関する情報収集及び検討が遅れていたのであって、医師の怠慢にほかならない。そしてまた、A医師は、止血方法としての枕子の使用や止血時間の短縮化という時代の趨勢を知らずに旧態前の印刷されたオーダーを墨守し、漫然と砂嚢による長時間の圧迫固定を行い、これにより原告に肺塞栓を発症させたものである。

また、砂嚢を使う止血は平成元年当時6時間が一般的であったから、止血方法は6時間にとどめるべきであり、被告病院が平成元年当時において圧迫時間を15時間もとっていたのは長すぎるのである。

したがって、被告病院の担当医師には重大な過失があり、過失責任と債務不履行責任は明らかである。

2  被告の反論

被告病院では、本件検査の場合、動脈内に管を挿入した時にできた傷口からの出血を防止するため、検査の翌朝6時までの砂嚢固定、午前9時までの安静がルーティンに義務付けられており、これに従い、原告に対して3月16日午前6時まで砂嚢による固定が行われ、午前9時ころまでベッドで安静とされた。

被告の病院において昭和62年度から平成6年度までに実施された1万754件の血管造影検査(腹部、心、脳)後に本件と同様な砂嚢による止血のための圧迫が行われているが、肺塞栓症は本件以外に発生していない。

仮に砂嚢による圧迫と肺塞栓症の発生との相当因果関係が認められたとしても、原告に対する砂嚢による圧迫止血時間の15時間は、平成元年3月当時の医療水準に照らして正当であり、少なくとも当該医師に求められる注意義務に違反するほど長時間のものではない。

3  当裁判所の判断

不法行為や債務不履行の成否は当該行為当時の過失の有無によるところ、医療過誤訴訟における不法行為や債務不履行の成否は診療時を基準として医師らの過失(予見可能性と結果回避可能性)、すなわち注意義務違反の有無を検討すべきである。しかして、右注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であるところ、当該医療機関に要求される医療水準であるかどうかを決するについては、当該医療機関の性格、その所在する地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮すべきであり、その知見が当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関に相当程度普及しており、当該医療機関において右知見を有することが相当と認められる場合には、特段の事情のない限り、右知見は当該医療機関にとっての医療水準であるというべきである。それゆえ、実践における医療水準は普及度・経験度等に照らし定着・確立されたものであることが必要である(単に「傾向」にあったというだけでは足りない。)。したがって、患者の具体的症状、状況に照らして施行された医師らによる医療行為(作為又は不作為)が、当時の臨床医学の実践における医療水準の範囲内にあれば、或いは右の医療水準に照らし相当である限り、又は定着・確立されていない医療水準を要求するものである場合には、いかに発生した結果が重大であっても、これについては注意義務違反による責任を肯定されることはなく、右の結論は、医学が試行錯誤の過程を経ながら発達することに鑑みればやむを得ないといわなければならない。

そこで、本件では平成元年3月15日、16日の時点を基準に判断する。

(一) 後掲かっこ内の証拠によれば次の事実が認められる。

① 昭和55年4月1日発行の「系統看護学講座別巻7」(大澤忠自治医科大学教授編集)では、血管造影検査後の安静のしすぎは肺塞栓症等の合併症の頻度が高くなるとしながら、血管造影検査後に必要なこととして、安静24時間若しくは施行医の指示によることを挙げている(乙一八)。

② 昭和60年5月20日発行の打田日出夫ら(奈良県立医科大学)の文献では、カテーテル抜去後の止血につき、圧迫包帯後に砂袋1〜2キロを乗せ、砂袋は3〜4時間後に除去し、圧迫包帯と絶対安静は通常8〜15時間行うが、圧迫の強さと持続時間は年齢、血圧、出血素因の有無、検査手技や時間等により異なり、出血傾向のある症例では圧迫時間も長くなると記されている(乙二〇)。

③ 札幌市立札幌病院による昭和61年4月1日から昭和62年2月28日までの医療施設のアンケート調査結果では、血管造影検査後の止血部位の固定方法はさまざまで、抑制時間は6時間ないし48時間と幅がみられ、体動抑制時間を6時間に短縮したところ症例30中に初回歩行時出血例が2例(6.66%)が報告されている(甲二三)。

④ 昭和62年1月発行の大塚英明ら(新潟大学)の文献では、心臓カテーテル検査後の肺塞栓による死亡例を報告するとともに、15例に対し、2キロの砂嚢を止血部位に6時間乗せ、約24時間安静仰臥位を保たせ、肺血流シンチグラムを用いて調査研究したところ、6例(40%)に肺塞栓が出現したが、これらは1週間後に消失したこと、肺塞栓出現の原因としては、圧迫時間が必要以上に長かったことやカテーテル検査後長時間の砂嚢による圧迫等も影響している可能性が考えられ、穿刺、圧迫等手技上の問題が大きいと記されているが、その研究結果として圧迫抑制時間(何時間限定)の遵守については言及していない(乙二〇)。

⑤ 被告病院による昭和61〜62年の全国60の病院(心臓カテーテル検査施行)のアンケート調査結果では、左心カテーテル検査後の安静時間は最低6時間から最高24時間と、その時間差が大きく、圧迫止血方法も各病院により異なっていた旨の報告がなされ、昭和62年10月に看護研究発表がなされている(甲二〇の1)。

⑥ 昭和62年2月1日発行の平松京一(慶應義塾大学)編集の「血管カテーテル法による治療」では、カテーテル抜去後の止血につき、以前は24時間の絶対安静が必要とされていたが、大腿静脈に血栓が形成されることがあるため、最近は絶対安静と圧迫包帯使用時間を短縮していること、穿刺部位における血腫形成は血管カテーテル法に見られる最も頻度の高い合併症であり、一般にカテーテル抜去後に発生するので止血を十分に行ってから圧迫包帯をするべきであること、しかし、圧迫包帯もあまり強すぎたり長時間圧迫したままにしておくことによって、大腿静脈に血栓が形成され、これが圧迫包帯除去後に流れ出し、肺塞栓を作ることがあるので注意すべきであり、圧迫包帯はできるならば6時間程度に短縮する傾向にあることを記している(甲一一、乙一七)。

右の点につき、証人Gは、平松京一教授のような先駆的な人は右のようにすべきだということを勧めていると考えるべきだと思うと供述している(尋問事項99項)。

⑦ 昭和63年発行の平松京一(慶應義塾大学)の文献では、カテーテル抜去後の止血につき、圧迫包帯を施し、6〜24時間の絶対安静を指示すると記している(乙二一)。

⑧ 本件検査当時、浜松医科大学では、カテーテル検査後肺塞栓により死亡した例はないこと、カテーテル抜去部位の圧迫には砂嚢ではなく枕子を用いており、その圧迫止血時間は6時間程度であったこと、枕子を用いた場合でも肺塞栓は起こっている(証人G)。

⑨ 平松京一(慶應義塾大学)は、本件検査当時、血管造影後には6時間程度の圧迫固定が安全である点を明記したテキストブックは出版されていなかったため、一般病院においては、この点が充分に徹底していなかったものと考えられると述べている(乙二五)。

⑩ 平成元年12月発行の倉本憲明ら(筑波大学)の文献では、従来、動脈造影後は局所を絆創膏による圧迫固定と砂嚢を用いて20時間の床上安静がスタンダードであったと述べている(乙二二)。

以上が本件検査以前の知見である。

そして、以上の知見を総合すると、カテーテル検査後に発生する肺塞栓を予測した上での医療措置として6時間の圧迫止血法が、本件検査当時、臨床医学の場において未だ定着・確立していたものということはできない(「傾向」では医療水準を形成するに至ったとはいえない。)。したがって、「平成元年当時であっても血管造影後の1キロ砂嚢による穿刺部の圧迫固定は6時間以下、ベッド上安静は24時間以下というのが標準的なプロートコールである」とのH意見書並びに「平成元年では約6時間の圧迫止血が一般的な考えと思う」との証人Gの供述部分はいずれも採用しない。

次に、念のため本件検査以降の文献についても検討しておく。

⑪ 平成元年12月発行の倉本憲明ら(筑波大学)の文献では、最近の穿刺針、カテーテルの軽量化により、軽度の圧迫と短時間の安静でよいと考えていること、創部圧迫用の砂嚢は静脈血栓の下地となるので筑波大学病院では殆ど使用していないと記しているが、遵守すべき圧迫抑制時間についての具体的な記載はない(乙二二)。

⑫ 平成5年発行の長谷川浩一ら(川崎医科大学)の文献では、カテーテル検査後の急性肺塞栓症発生の予防策として、カテーテルサイズを細くし圧迫止血時間の短縮(5〜6時間)を図ることが有用と考えられると記している(甲一二の3)。

⑬ 平成7年2月20日発行の武藤晴臣(日本大学)の文献では、血管造影法を鼠径部から施行した時は安全性を考えると10時間以上の圧迫、穿刺部の固定が必要であり、出血傾向にある患者の場合は48時間とした方がよいとしており(乙一九)、圧迫抑制時間につき6時間遵守とはなっていない。

⑭ 平松京一(慶應義塾大学)は、別件訴訟の鑑定において、平成8年1月、2月の血管造影検査後の肺塞栓症の事例につき、圧迫固定時間を6時間程度に短縮することが進められていること、圧迫時間についてはテキストブック等ではっきりした記載がなされていないことを指摘している(乙一六)。

⑮ 平成9年9月30日発行の平松京一(慶應義塾大学)編集の「腹部血管造影診断の基本と実際」では、カテーテル抜去後の止血につき、圧迫包帯を施し、6時間前後の絶対安静を指示すること、以前は24時間の安静が必要とされていたが、あまり長時間臥床させたままにすると大腿静脈に血栓が形成されることがあるため、最近は絶対安静と圧迫時間を短縮していることが記されている(乙一二)。

証人Gは、乙一二のような成書ができるまでには4、5年かかると供述している(尋問事項23項)。なお、医学の場合5年ぐらい前にだいたいいきわたったであろう知識を教科書に書くと言われていることは公知の事実である(例えば、平沼高明「医事紛争入門」239頁参照)。

⑯ 平成9年発行の松永尚文ら(山口大学、長崎大学)の文献では、穿刺部の圧迫は原則として6時間を超えないこととし、翌朝まで持ち越さないように注意すべきであると述べている(甲一二の5)。

⑰ 平成10年発行の幕谷士郎ら(東大阪市立病院、奈良県立医科大学、県立奈良病院)の文献は、鼠径部からの血管造影後の圧迫止血方法につき、52の医療施設のアンケート調査結果では、安静は絆創膏固定で絶対安静時間2〜4時間、安静解除は6〜12時間が最も多いが、各施設間で大差があり確立されたものはなかったと報告している(乙二一)。

⑨平松京一(慶應義塾大学)は、最近(平成12年)のテキストブックでは6時間程度の固定圧迫が安全であるとされていると指摘している(乙二五)。

(二)  以上の知見に照らせば、原告は、本件検査後に行われた1キロの砂嚢による15時間の圧迫止血及び17時間30分の絶対安静が原因で、重症の急性肺塞栓症に罹患したと推認するのが相当であるところ、血栓を作る研究はあまりない(証人Gの尋問事項129項)こともあって、血栓が形成される過程については、その患者の体質的な問題等様々の要素があるため、どの程度の強さでどのような血栓がどれ位の時間で形成されるかは不明である(右(一)掲記の各証拠)。したがって、原告の場合、血栓が形成されない最大限の時間についても証拠上不明であり、他方、G鑑定も、3〜6時間で砂嚢を除いた場合、原告に何も起こらなかったかどうかは不明であるとしている。

なお、前記新潟大学(大塚英明ら)が用いた2キロ(原告の場合の2倍の重さ)の砂嚢による6時間圧迫固定、24時間安静(甲一四)と原告になされた1キロの砂嚢による15時間圧迫固定、17時間30分安静のどちらが血流の停滞とそれによる血栓を生じさせ易いかについても不明である。

また、カテーテル検査後の穿刺部位に起こる最も多くかつ深刻な合併症は(大量の)出血とこれに続発する血腫の形成であるから、右検査における圧迫固定は止血(大腿動脈からの出血の防止)と血栓(肺塞栓)のバランスが最も重要であると解されるところ、止血の観点からすると、原告に6時間圧迫止血を施した場合に果たして完全に止血することができたか否かについても判然としない。

そして、前記認定のとおり、カテーテル検査による肺塞栓の発生率は本件検査以前に40%(但し、軽度で治癒していくもの)という文献が1件あるけれども、一般には発生頻度は1%位、概ね0.02%から0.7%の間であり、死亡に至るような重篤な症例の発生頻度はさらに低いといわれている(乙一五の37〜39頁)。また、症状の程度は、それに対する措置を考える上で重要であるから、軽症も重症も区別せず単に肺塞栓の発生率で検討するのは適当とは言い難い。しかして、本件の原告のような死亡に至る最重症のものは被告病院では1890例中1例もなく(平成6年度までの間では1万余件で原告の1例のみである。)、また、死亡に至る重症の肺塞栓症は1000例に1例程度であるという文献もあるが(証人Gの尋問事項123項)、この割合は少ない確率といわれている(証人Gの尋問事項104項、114項等)。G鑑定でも、血管造影等の処置後に死に至る重症例は少ないようであるといわれている。

なお、アメリカでは右の発症率が高いものの、日本人とは脂肪摂取量の違いや食生活に相違があるので(証人Gの尋問事項30項)、アメリカの発症率を根拠に論じることは相当でない。

してみると、A医師らの被告病院担当医師が、本件検査時点において、本件検査後の死に至る重篤な肺塞栓の発生を予見することは困難であったといわざるを得ない。

(三)  そのうえ、被告病院が地域の中核的な総合病院であり、同病院消化器科は昭和60年から平成元年までの5年間、A医師(昭和63年、日本消化器内視鏡学会認定専門医)と4名の勤務医で、22の論文を発表していること(甲二六、二八)を考慮に入れて検討したとしても、被告病院及び同病院の担当医師らが、人的・物的に先進的研究機関を有する大学病院と同じレベルの臨床における医学水準にあったとの証拠はなく、しかも、被告病院と類似の特性を備えた医療機関における本件検査当時の止血方法・止血時間についての証拠のない本件においては、被告病院及び同病院の医師が圧迫止血時間を6時間とすべきであるとの医学的知見が相当程度普及していて、臨床医学の実践における医療水準として定着・確立していたものとは認め難いというべきである。

(四)  しかも、血が固まりにくい体質であり、現に本件検査において血が吹上げ、カテーテル挿入部位からの出血がなかなか止まらなかった原告に対して、7フレンチのシースを使用したため(当時としては普通サイズであったが、現在では5〜6フレンチと細くなっているようである。乙一五)、カテーテル挿入部位からの出血や血腫の形成を防止することを主眼において被告病院のA医師らが行った1キロの砂嚢による15時間の圧迫止血方法及び17時間30分の安静の指示は、本件検査当時における臨床医学の実践における医療水準の範囲内にあり、右の医療水準に照らし相当であったと認めるのが相当である。

(五)  よって、A医師らには止血法に関する過失及び債務不履行があるとはいえない。

「本件検査後、砂嚢を使う止血法は3〜6時間内にとどめるべきであった」とのG鑑定並びに「16時間以上も砂嚢による圧迫固定が行われた点は予防措置として不適切といえる」とのH意見書(甲一二の1)はいずれも右の判断に抵触する限度において採用しない。

また、被告病院の看護婦は、左心カテーテル検査後の安静保持による患者からの腰痛の訴えに対処するため、本件検査以前である昭和62年段階で、砂嚢による圧迫時間や安静時間を短縮していたことが認められるが(甲二〇の1、2)、これは看護の観点からのものであって、肺塞栓症の発生を未然に防止するための方策ではないから、被告病院の担当医師が、看護の観点からではなく医師としての立場から原告の止血を指示したことになる本件においては、右の判断を左右するものではない。

七  経過観察義務違反の過失と債務不履行の有無について

1  原告及び太郎らの主張

カテーテル検査後の安静中に担当医は患者の経過を観察すべき義務がある。静脈を圧迫していないか、両足の太さをメジャーで測定したり、看護婦の目で視測すべきであった。しかるに、動脈に関する情報のチェックはしたが、静脈のチェックはしていなかったし、動脈情報しか集めておらず、動脈情報収集を静脈情報収集と誤解していた。また、砂嚢解除後も、担当医は患者の経過を観察すべき義務がある。両足の太さをメジャーないし目視によって測定したり、砂嚢と15時間安静という長時間圧迫という悪条件が重なれば、安静解除後速やかに肺シンチグラムの検査を実施すべきである。担当医はこれらをいずれも懈怠している。

肺塞栓或いは脳梗塞(脳塞栓症)が引き起こされやすいことは現代医学の常識であり、被告病院の担当医師も充分熟知していた筈である。したがって、被告病院の担当医師は、カテーテル検査後の肺塞栓或いは脳梗塞(脳塞栓症)等の発生の危険性が高いことを考え、看護婦から原告の容態を聞くなどして経過観察を行い、万が一肺塞栓症或いは脳梗塞(脳塞栓症)が疑われるべき症状が発症した場合直ちに早期の治療措置を講じるべき義務があった。しかるに、原告が肺塞栓症の典型的な症状である背部痛、胸痛を訴えたにもかかわらず、被告病院の担当医師、看護婦らは、これを見逃し、何らの処置も施さなかった。もしも肺塞栓の前兆であったと推測される背部痛、胸痛の段階で、被告病院の担当医師が肺塞栓症を疑い、適切な診断、早期治療がなされていたならば原告は肺塞栓或いは脳梗塞(脳塞栓症)までには至らなかったものと思われる。

以上のとおり、被告病院の担当医師及び看護婦の経過観察と処置が不十分であったために、原告は、安静解除後、肺塞栓症或いは脳梗塞(脳塞栓症)を発症し、重度の意識障害に陥り、植物人間状態になり死亡してしまったのであるから、カテーテル検査後の観察と処置にも過失がある。

2  被告の反論

原告が背部痛や胸痛を訴えた時点で既に肺塞栓が発症していたとは断定できないし、それらの非特異的所見によって肺塞栓を疑って処置することを医師に要求することは無理である。

また、カテーテル抜去後、穿刺部位の十分な止血を得るためにはある程度の圧迫固定と安静時間は絶対に必要であるけれども、反面、砂嚢による圧迫が必要以上に強すぎ、下肢に血流の停滞や血栓の形成を起こさないよう配慮を払い、足背動脈の拍動が触知できるかどうか、また、下肢の冷感や色調の変化等がないかどうかに十分な注意を払う必要があるところ、被告病院では担当看護婦が頻回に原告の経過を観察しており、原告に対する経過観察を十分尽くしている。

患者の両足の太さをメジャーで測定すべきであったとの原告の主張は現実離れしており、経験ある看護婦が四肢の冷感や色調等を注意深く観察すれば十分であり、いちいちメジャー測定の必要性はない。

また、安静解除後、原告に対して肺シンチグラムを実施すべき必要性はなかったし、その検査義務もない。

3  当裁判所の判断

本件検査終了後、砂嚢固定中であろうとその解除後であろうと、患者の状態を十分に観察すべきことが求められることは当然である。

証拠(乙二、八、一八、G鑑定、証人G)によれば次の事実が認められる。

(一) 背部痛や胸痛は肺塞栓の特異的な所見ではない。したがって、原告がそれらの痛みを訴えた時点で肺塞栓を疑った措置をとることは困難である。

(二) 血管造影検査では、同検査終了後、合併症の有無のチェックとして、穿刺部の血腫血栓の有無、穿刺部以下の動脈(普通は足背動脈)の拍動の確認を要するところ、被告病院の担当看護婦は原告の両足又は片足背動脈の拍動を確認している。すなわち平成元年3月15日午後3時30分、午後4時30分、午後6時、午後7時、午後12時、同月16日午前2時、午前4時、午前6時30分いずれも触知できた(乙二の223〜224頁)。これにより圧迫が強すぎるものではなかったことが推認できる。

(三) 深部静脈に血栓が生じたり血流の停滞や障害が起きた場合、痺れとか冷感を訴える筈であるが(証人Gの尋問事項73項)、本件では原告は下肢又は四肢の冷感を看護婦に述べているものの、疼痛・痛みについては特に述べていない。

(四) 深部静脈に血栓が生じたり血流の停滞や障害が起きた場合、痺れを訴える筈であり、足の太さが違ってくるので、足の太さを事前に計測しておきカテーテル検査後にメジャーでもって足の太さを絶えずみていれば静脈についての情報が分かるけれども、普通はそういうことはやらないし、本件検査当時、浜松医科大学でも行っていなかった(証人Gの尋問事項62項、68項、75項、113項)。

(五) 肺塞栓は臨床上の症状がなければ検査しないところ、臨床的に肺塞栓の症状がなければ肺シンチグラムはやらない(証人Gの尋問事項86項)。

(六) G鑑定は、原告のショック症状発生までの管理は適切であったと述べている。

以上の事実を総合すると、原告について肺塞栓症を疑うべき徴候を見出し難い本件では、A医師及び担当看護婦らには経過観察義務を怠った過失及び債務不履行を認めることはできない。

八  原告のショック症状発生後の救命救急処置の過失と債務不履行の有無について

1  原告及び太郎らの主張

原告は、3月16日の午前中から背中が熱く苦しいことや胸がせつなく息苦しいことを被告病院の看護婦に訴えていたが、何の処置も施されなかった。しかし、胸痛、背部痛は軽度の肺塞栓症の典型的な症状であり、この時原告は軽度の肺塞栓症を起こしていたものと考えられる(推認される)。

急性肺塞栓症は早期診断・早期治療が大切であり、A医師らは、本件検査後の肺塞栓の可能性をまず疑い、ヘパリンを投与しながら他の検査を進めるべきであった。また、肺塞栓の確定診断には、肺血流シンチグラム検査が有効であり、実際に被告病院において右の検査を行うことができたのであるから、A医師らが肺塞栓を疑ったというのであればすぐに右の検査をしなければならなかったが、これを行わず、2時間も経過してようやく肺塞栓と診断しヘパリンとウロキナーゼの投与を始めた。このことは、A医師らには本件検査後の肺塞栓発症に関する知識がなかったことにほかならない。このようにA医師らは、肺塞栓に関する知識不足ないし経験不足のために、肺塞栓(肺梗塞)を予測できなかったのである。そして、原告が発作を起こし意識不明に陥ったにもかかわらず、肺塞栓(肺梗塞)を疑うということをしなかったために、2時間にわたって右の診断が下せず、原告の発作後2時間もの間肺塞栓の治療を怠った。そのため、肺塞栓を溶解するための治療が遅れた過失ないし債務不履行が存在する。

2  被告の反論

原告が背部痛や胸痛を訴えた時点で既に肺塞栓が発症していたとは断定できないし、それらの非特異的所見によって肺塞栓を疑って処置することを医師に要求することは無理である。

原告に肺塞栓症が発生した後は、治療に当たった主治医のA医師、F(循環器科)らは、本症を正しく肺塞栓症と診断しており、何ら過誤に該当する事実はない。

そして、被告病院の担当医師や看護婦は、原告が意識を失って倒れたとの連絡を受けた後、すなわち原告にショック症状が発生した後、原告を直ちにHCUに収容し、心臓マッサージその他の心肺蘇生の救命救急措置及び肺塞栓に対する血栓溶解療法等をとり、肺塞栓症の治療に当たったものであり、何ら過誤に該当する事実はない。

3  当裁判所の判断

(一) 証拠(甲一二の3、乙五ないし九)によれば、肺塞栓の治療方針は、その原因となった血栓に対する抗凝固療法、血栓溶解(線溶)療法であり、抗凝固療法としてヘパリン5000単位を初回静注し、維持量として1万〜2万単位/を維持点滴し、血栓溶解(線溶)療法としてウロキナーゼや組織プラスミノゲンアクチベータが用いられており、その投与量は初回72万〜96万単位を1時間で点滴静注し、翌日その半量を、翌々日4分の1量を2〜3時間かけて静注して終了するのが一般的な治療法であることが認められる。

(二) 甲一二の1(H意見書)によれば、原告のショック状態に対して直ちに心肺蘇生術が開始され、肺塞栓症に対してもウロキナーゼによる線溶療法が行われており、肺塞栓症発症後の治療は適切であったことが認められる。

(三) G鑑定及び証人Gの供述によれば、原告のショック発生後の治療等の処置は適切であること、原告に対して心肺蘇生を行った後、集中治療室に運び、血線溶解剤ウロキナーゼ72万単位/日、血液凝固阻止剤ヘパリン2000単位の4時間毎の注射等の処置は妥当であったことが認められる。

(四)  したがって、A医師らのとった救命救急措置は前記四1のとおりであるが、この点に関する過失及び債務不履行は認められない。

九  よって、主文のとおり判決する。

(裁判官・笹村將文)

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