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静岡地方裁判所 昭和40年(わ)120号 判決 1966年3月31日

被告人 安原豊治

主文

被告人を無期懲役に処する。

押収してある鉄棒一本(昭和四〇年押第七一号の一)、ジヤツクナイフ一丁(同号の二)を没収する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(被告人の生い立ちから本件犯行に至る経緯)

被告人は、浜松市東伊場町で当時計量器の修理工をしていた父三郎と母かつゑの二男として出生し、両親の下で養育されて同市内の県居小学校、積志小学校、北小学校を経て同市立中部中学校へ進学し、昭和二八年三月、同校を中上位の学業成績で卒業すると、すぐ店員として約二年間同市大工町の松下薬局に勤めた後、昭和三一年頃、実兄秀雄が家業を嫌つて家を出たこともあつて同薬局を辞め、父三郎が同市元浜町四七五番地の自宅でその一年位前から細々と営み始めた計量器販売業を手伝うことになり、その外交販売を担当して懸命に働くうち、昭和三六年頃には右営業の経営形態を会社組織とし有限会社安原計量器店と改称し、漸く家業が隆盛になるに及んで、その頃から被告人の縁談が持ち上り数回見合をしたが、いずれも不調に終つたことや過労等が重なり、昭和三八年一一月頃から次第に家業への熱も失せて仕事をよそに一人で鬱ぎ込むようになり、果てはノイローゼ様の症状を呈するようになつたので翌三九年三月三日同市住吉町所在の精神科朝山病院に入院し、精神分裂病との診断を受けたが、間もなく快方に向い、同年六月一〇日には完全寛解して退院を許され、ほどなく住居を実兄秀雄の担当していた島田市南町六、三八三番地の四所在の右会社島田営業所に移し、同人にかわつて一人で住み再び同所で家業の計量器販売、修理等に従事したものの、身辺の世話をしてくれる者がなく何かと不便を感じたので、早急に妻を娶りたいと考え同年八月頃静岡市神明町にある佐野松平夫妻が経営する佐野結婚相談所へ赴いて、結婚相手の斡旋を依頼し、同月二三日(日曜日)には、同所で開かれたパーテイに出席し姉和子に伴われて同所へ赴いた出光興産清水支店に事務員として勤務する岡田美世子(当二三年)を見染め、被告人側の申込で同月三〇日同女と右相談所において被告人の父三郎、美世子の母はるの立会の下に見合をするにいたり、その後、被告人と美世子の二人は互に好感を抱き合いながら交際を続け、同年九月一三日同市内の喫茶店「白鳥」で会つた際被告人から美世子に対し結婚を申し込み同年一〇月一日頃には同女もこれを受諾するにいたつたので、同月二八日頃被告人の父三郎が美世子方を訪問し、同女の母はるに対し結納を取り交したい旨申し入れたが、偶々、その頃美世子の父銀一が交通事故で入院していたこともあつて、結納の授受は延期されることになつた。その後も被告人と美世子は時折落ち会つては交際を続けていたものの、同年一一月上旬頃になつて美世子が被告人の言動や、容姿等に対する不満も手伝い、何故か次第に被告人に嫌悪の情を抱き始め、同月一一日被告人が美世子方を訪ねた際、同女から「話はなかつたことにして貰いたい」旨申出られたので、同女の飜意を促すべくその後屡々同女の前記勤務先へ電話をしたり、同所へ直接訪ねていつたりしたが、同女が心好く取り合わず、段々冷淡な態度をとるようになつた。

そこで、被告人は同月一四日午後六時頃美世子を誘つて国鉄清水駅で落ち合い、同女を自己の運転する自動車の助手席に同乗させ清水市内三保松原附近の駐車場に赴き、同所に停車中の車内で同女の気持を質すため同女に接吻をしようとしたところ、同女から「そんなことをすると余計嫌いになる」と云つてこれを固く拒否されたのでこれに憤激し、いきなり所携のナイフで同女の顔面を切りつけて切創を負わせ、さらに同女に対し「静岡の大浜でチンピラに斬られたことにしておけ」等と申し向け、同女もやむなくこれに同調したので、同女を付近の医院へ連れて行き治療を受けさせたうえ、同女宅へ送り帰した。

一方、右岡田方において翌一五日前記被害を清水警察署へ届け出たこと等から、被告人が美世子を斬りつけたことを知つた被告人の父母はその措置に苦慮し、父三郎は美世子宅へ謝罪に行き、母かつゑは翌一六日被告人を伴つて一旦浜松中央署へ出頭し、その足で被告人を無理に浜松市泉町所在の精神科三方原病院に入院させてしまつた。

被告人は同病院でも精神分裂病と診断され、一時は保護房に隔離収容されて治療を受けたが、保護房内での生活は、毛布二枚を与えられただけで、枕や布団もないため夜は寒くて眠れず、そのうえ下痢、腹痛や、吐血をするなどみじめな状態であつたが、右隔離後五日位経つて漸く保護房から一般病室へ移され治療を続けることになつたものの、その頃からこの様に精神病院へ収容され苦しめられるのはひとえに右美世子の裏切りによるものであると考え始め同女を痛く恨むようになり、又入院中父三郎から「美世子の方では結婚の話はなかつたことにしてくれと云つて来たから、あきらめてくれ」等と云われるに及んで、同女の仕打に対し益々憎悪の念を燃やし、いつそ同女を殺害してしまおうと決意するにいたつた。

かくて、被告人は同年一二月二八日漸く軽快状態に達したものと認められ同病院を退院し、ひとまず浜松市元浜町四七五番地の自宅に帰えり、同月三〇日頃母かつゑから四万円を貰い受けて翌四〇年一月一日夜かつて三方原病院で同じ入院患者として知合つた鈴木資久と共に国鉄新幹線で横浜市へ赴き二日ほど遊んだ後、同月三日頃から同市中区花咲町にあるモナコパチンコ店に店員として住込みで働き始め、その数日後同僚の店員奥住精一、佐川某等に「清水の女をばらすために、ピストルを買いたい、金はいくらでも持つているから」と申し出でたが、ピストルは入手できず、一方その頃右鈴木に合計八、〇〇〇円を二回にわたつて手渡して美世子一家五人を殺害することを依頼したが、同人が店を出たまま帰つて来なかつたので、もはや、被告人自身が手を下すよりほかはないと思い立ち、同月八日頃および一〇日頃の二度に亘つて浜松市の自宅へ帰りその都度母かつゑからそれぞれ三五、〇〇〇円と一〇〇、〇〇〇円を貰い受けて上京し、都内浅草付近で遊び暮しながら、美世子殺害決行の時期を窺い、一面弟安原善四郎の立場も考えて、同人が迎える同月一五日の成人式を過ぎた頃を見計らい、同月一八日になつて、愈々同女を殺害しようとの決意を固め、同日午前九時頃国鉄東京駅から下り列車に乗車し、同日午後一時頃静岡駅で下車した。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和四〇年一月一八日午後一時頃前記のように国鉄静岡駅で下車するや美世子殺害の手段として先ず同女の頭部を鉄棒で強打し、それでもなお死亡しないときはナイフで同女を突き刺して殺そうと考え、同駅付近の金物店で折たたみ式のジヤツクナイフ一丁(昭和四〇年押第七一号の二、刃渡約七・四センチメートル)を買い受け、更に同市国吉田にある岡田鋼材株式会社の倉庫に赴いてシヤフト用の鉄棒一本(同号の一、重さ約二・五キログラム)を買い求め、右鉄棒を所携の新聞紙にくるんで手に持ち、右ナイフをジヤンパーのポケツトに入れて携帯し、同日午後五時頃清水市馬走静鉄孤ケ崎駅前に至り、同所附近の公衆電話から美世子の前記勤務先へ電話を掛け、巧みに同女が同勤務先に居ることを確めたうえ、暫く附近を徘徊した後、同日午後六時頃清水市有東坂一九六番地の四岡田銀一方に赴き、同家の門内に入り込み、靴を脱いで西側門柱と玄関出入口付近の物蔭に潜み、右手には前記鉄棒を握り、左手には刃を立てた前記ジヤツクナイフを持つて美世子の帰宅するのを待ち伏せていたところ、間もなく、女の足音が近づいて来るのを聞きつけ、美世子が帰つて来たものと思い込み、右手に持つた鉄棒を振り上げて構え、折柄右美世子の実姉岡田和子(当時二四年)が帰宅し、同門内へ入つて来るや、その頃同所において、矢庭に前記鉄棒で同女の頭部を一回思い切り強打し同女をその場に仰向けに昏倒させ、同家勝手場付近から洩れて来る薄明りでその顔を見たところ、同女が目指す美世子ではなく姉の和子であることを知つたが、こうなつたからには、ひと思いに同女をも殺害しようと決意し、右鉄棒をその場に置いて、前記ジヤツクナイフを右手に持ちかえ同女の左側頸部を三回突き刺し、更にその直後頃偶然同女の母はる(当五一年)がゴミを捨てるため同家勝手場から東側前庭付近に出たのを見るや、騒ぎ立てられるのを怖れ、同所においてとつさに殺意をもつて右手に前記鉄棒を握り、同女の頭部をめがけて一回強打し、同女が救いを求めて「困る」等と叫びながらその場に踞つたところをなおも続けざまに三回位頭部を殴打し、次いで同女の立ち騒ぐ声を聞きつけた美世子の妹岡田光代(当一八年)が様子を覗うべく右勝手場から顔を突き出すや、同所においてやにわに殺意をもつて、前記鉄棒で同女の顔面を一回殴打し、さらに同家奥の間に逃げようとする同女の頭部を背後から一回強打し、つづいて、同女の父岡田銀一(当五三年)が同家茶の間から右光代の叫び声に驚いて右勝手場へ出て、立ち向つて来る被告人を勝手場の外へ押し出したうえ、隣家に助けを求めるため大声で叫びながら同家前路上へ駈け出すや、これを追いかけ、同所付近路上において、いきなり殺意をもつて右ナイフで背後から同人の背部、左上腕後面等を四回突き刺し、よつて、右和子を前記左頸部刺創に基く左総頸動脈切断による出血によりその場で死亡させて殺害の目的を遂げたものの、右はるに対しては加療約六週間を要する頭頂骨に達する頭部挫傷四個所、右光代に対しては加療約三週間を要する左頬部、左手背部打撲、骨膜に達する前頭部挫傷、右銀一に対しては加療約四週間を要する肩甲骨に達する背部刺創二個所、左第六肋骨に達し、同肋骨骨折を伴う背部刺創一個所、左上腕後面部刺創等の傷害を負わせたにとどまり、右はる、光代、銀一ら三名殺害の目的を遂げなかつたものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示岡田和子に対する所為は、刑法第一九九条に、岡田はる、岡田光代、岡田銀一に対する各所為は、いづれも同法第二〇三条、第一九九条に各該当するので、所定刑中右殺人の罪については無期懲役刑を、右各殺人未遂の罪については有期懲役刑を各選択し、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから同法第四六条第二項本文により判示殺人の罪の刑に従つて処断することとし、他の刑を科さず、被告人を無期懲役に処し、押収してある鉄棒一本(昭和四〇年押第七一号の一)は、判示岡田和子に対する殺人、岡田はる岡田光代に対する殺人未遂の、ジヤツクナイフ一丁(同号の二)は、判示岡田和子に対する殺人、岡田銀一に対する殺人未遂の用に各供した物で、いずれも犯人以外の者に属さないから、同法第一九条第一項第二号、第二項、第四六条第二項但書を適用してこれを没収し、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人が本件犯行当時心神喪失ないしは心神耗弱の状態にあつたと主張するので、この点について判断する。

なるほど被告人は、判示冒頭掲記のように数度の見合に失敗したこと等から憂鬱な日々を過ごし、ノイローゼ様の症状を呈するようになり昭和三九年三月三日浜松市住吉町所在の朝山病院へ入院して、精神分裂病と診断(以下朝山診断という)され、治療を受けて同年六月一〇日に退院し、また同年一一月一四日岡田美世子の顔面をナイフで斬りつけたこと等から同月一六日同市泉町所在の三方原病院へ入院し、同じく精神分裂病と診断(以上三方原診断という)されて治療を受け、同年一二月二八日退院したことが前記各証拠によつて認められ、医師溝口正美作成の精神状態鑑定書(以下溝口鑑定という)によると、同医師は、被告人が「その性格特徴より精神分裂病様の妄想反応を発し、その妄想内容が本件犯行の動機になつた」ものであると診断していることが認められる。

しかしながら、医師田原幸男作成の精神状態鑑定書(以下田原鑑定という)によると、被告人は本件犯行当時「結婚の失敗といつた体験を動機的心因として心因反応としての妄想状態を発し所謂パラノイドリアクシヨン(偏執反応)を呈していたものである」旨鑑定がなされており、さらに医師中田修作成の精神鑑定書(以下中田鑑定という)、証人中田修の当公判廷における供述(以下中田証言という)によると、同医師は被告人が「性格的に小心・無口・几帳面な傾向と情性稀薄・爆発性の傾向をあわせ持つ軽度の精神病質者であるが知能には欠陥を持たない。被告人は現在、狭義の精神病の症状はこれを見出しえない。犯行時は右の性格に加えて心因性の感情性興奮がみられたのみでとくに異常な精神状態にあつたとは考えられない」と鑑定していることが認められる。

そして、医師朝山種光、三方原病院長各作成の捜査照会に対する各回答書、証人朝山種光の当公判廷における供述、前記中田鑑定中田証言によると、前記朝山診断、三方原診断は精神分裂病の診断に必要な長期に亘たる慎重な診察にもとづいてなされたものでなく、初診時の問診等に基く短期の診断によつて暫定的になされたものであることが認められ、とくに朝山病院入院中の担当医師朝山種光自身当公廷において被告人は少なくとも典型的な分裂病ではなかつた、非典型的な錯乱状態だと思う、同病院入院中の被告人のカルテには、同病院の副院長医師島崎素吉が三月一八日付で被告人が精神病質者であると観察できる旨記載していたと述べており、また、三方原病院の主治医渡辺庸一も、医師中田修に対し「入院二、三日で興奮はおさまり、その後とくに分裂病と思われる症状はなかつた。一応精神分裂病としましたが、今から考えると心因反応かと思う」と述べており、入院病歴中には診断名を「精神分裂病(心因反応?)」と記載しているうえ、朝山診断、三方原診断で被告人は精神分裂病と診断されたものの、入院当初の興奮は数日を経ずしておさまり、朝山病院には、約三ケ月間、三方原病院には四二日間入院しただけで、前者では社会的寛解ないし完全寛解し、後者では臨床的に軽快状態になりそれぞれ退院を許されていることが認められるから、右各診断は本件犯行時において被告人が精神分裂病に罹患していたことを推認し得る資料としてはその根拠に乏しくにわかに採用できないものである。

また、溝口鑑定は、同鑑定書によると、二〇日間という比較的短期の観察診断に基くものであるうえ、「精神分裂病様の妄想反応」という鑑定自身が、前記中田証言によると非常に漠然とした診断で分裂病の妄想反応なのか、心因性の反応としての曲解を意味するのかを区別できず、そのいずれとも受け取ることができる性質のものであるから、溝口鑑定をもつても、被告人が本件犯行当時精神分裂病の妄想状態にあつたと断定することはできないところである。

一方、前記田原鑑定は、中田証言によると中田鑑定とは、必ずしも矛盾するものではなく、結局中田鑑定が示す本件犯行時は心因性の感情興奮がみられるのみであるとの見解とほぼ一致することが認められる。

そして、前記中田鑑定書、中田証言によると、中田鑑定は、東京医料歯科大学総合法医学研究施設犯罪心理学部門教授、医師である同鑑定人が、同大学助教授小木貞孝を助手として、昭和四〇年七月三日から同年一二月六日までの長期間に亘つて、被告人を静岡刑務所に訪問したり、被告人の身柄を東京拘置所に移し、前記大学付属病院神経科外来において被告人の心身を精査し、さらに被告人の生家、前記朝山病院、三方原病院、岡田美世子方を各訪問し関係者から詳細な陳述を得たうえ、作成されたもので、ことに精神所見は問診のほか、東京拘置所における生活態度、心理テスト、WAIS知能検査、麻酔分析等豊富な資料を基礎に綿密周到な検討を経て導き出されたものであつて、その正確性は極めて高く信用に値するものであるといわねばならない。

そして右中田鑑定、中田証言、田原鑑定によれば、前記のように被告人は狭義の精神病ではなく、軽度の精神病質者であるが、重篤なものではないうえ犯行時は心因性の感情興奮がみられたのみでとくに異常な精神状態にあつたものでもなく、犯行時の行動は意識混濁のない、かなり清明な意識において行われ、犯行の動機と犯行との関係は正常心理学の範囲内で了解可能なものであることが認められるから、被告人が本件犯行当時事理弁識能力およびその弁識に従つて行動する能力を全く欠いていたことは勿論、著しく欠いていたものとも到底認められない。

なお、弁護人は前記中田鑑定書について、証拠として取調べることに同意したものの、その後同鑑定書が被告人に対しイソミタールを静脈注射して問診を行い、いわゆる麻酔分析に基き作成されているからこれを証拠として採用することは不相当であると主張しているが、麻酔分析の結果を犯罪事実認定の資料に使用するのとは異なり、本件のように犯罪の客観的事実自体には何ら争いがなくもつぱら被告人の精神鑑定の目的に供される場合であつて、しかも、前記中田鑑定、中田証言によると、麻酔分析は、近時我が国において寡默を固持する精神病患者の診断、治療あるいは精神療法の補助的手段として臨床医家の間で屡々使用され、精神鑑定の場合にも時折利用されていてて、同鑑定人自身も従前被拘禁者のヒステリー拘禁反応等の検査に試みて有効であつた経験を有するところから、本件においても被告人がその施用に積極的に反対しないので同鑑定人が精神鑑定の一資料ないし診断の補助手段として被検者たる被告人の精神緊張を解く目的で麻薬イソミタール(アモバルヒタール)を静注して問診を行う方法、すなわちいわゆる麻酔分析を行つたものでありかつ、同鑑定人は麻酔分析により得られた被告人の供述のすべてを決して真実とは見ず、ただそれを精神医学の専門的立場から診断の参考にするという慎重な態度を堅持しつつ本件鑑定に当つたことが認められるうえ、本鑑定は他の資料だけからも充分同じ鑑定結果を導き出し得るもので、麻酔分析自体にそれほど重点が置かれたものではないことが認められるから、麻酔分析が右鑑定の一資料として採用されているという一事をもつて、前記中田鑑定書全体が書面作成時の情況を考慮して相当ではないとの理由の下に、証拠能力を欠くにいたるものとは到底認められない。

以上の次第であるから、弁護人の主張は採用できない。

(量刑の理由)

判示冒頭掲記のように被告人は度重なる縁談の不首尾からノイローゼが亢じ精神病院で治療を受けて一応治癒したものの、またまた岡田美世子との婚約が結納の授受寸前まで発展しながら、同女の変心から破談になる虞れが生ずるや、焦慮の余り同女を清水市三保松原附近に誘い出して同女の顔面をナイフで深く斬りつけたことから被告人の父母の計らいで精神病院に再度入院させられたため同女の仕打を恨んで同女を憎悪しつづけるにいたつたものであるが、婚約者である同女が被告人を次第に嫌悪するようになつた理由は被告人の些細な言動や、風貌等から受けた漠然とした気持から来るもので合理的な説明が出来ないものであつたとしても、もとより事の性質上これを強く咎めることはできないにもかかわらず、被告人は自らの言動を何ら反省悔悟することなく、ただ一途に同女の心変りと冷淡な態度に憤慨憎悪して前記のように同女の顔面を斬りつけ傷を負せたうえに、それでも飽き足らずさらに同女を殺害しようと考え、ピストルの購入先を探したり、友人に金銭を与えて殺害を依頼したりし種々策謀をめぐらしそれが失敗に終るや、執拗な計画の下に本件犯行に及んだもので、動機において同情の余地は殆んど見出し得ないばかりか、犯行の態様たるや判示認定の如く重い鉄棒のほか鋭利なナイフを携えて被害者岡田銀一方住居へ乗り込み、門柱の物蔭に隠れて待ち構え、折しも勤務を終えて帰つて来た右美世子の姉岡田和子がその住居へ一歩足を踏み入れたところを、右鉄棒で思い切り同女の頭部を強打したうえ、右ジヤツクナイフで左側頸部を三回突き刺してその場で死亡させ、そこへ来合せた同女の母岡田はる、妹岡田光代の頭部等を次々と鉄棒で殴りつけ、父岡田銀一に対しては、助けを求めて逃げるのを路上まで追い駈けて行き同人の背部を右ナイフで突き刺して右三名にそれぞれ判示重傷を負わせたものであり、とりわけ岡田和子に対する所為は、同女を終始美世子と誤信していたのならまだしも同女が目指す美世子ではなく何ら被告人と関係のない姉の和子であることに気付きながら、意識をなくし抵抗するすべも失いその場に打ち倒されている同女に対し、殺意をもつて、なおもナイフを振るつて左側頸部を三回も突き刺し、決定的な致命傷ともいうべき左総頸動脈切断を負わせたものであるから、被告人の本件一連の犯行は極めて残酷、兇暴なものというべく何ら酌量の余地のない悪質な犯罪であるといわなければならない。

さらに、死亡した被害者岡田和子は、清水市立商業学校卒業後、静岡市北番町所在の県販購連にタイピストとして勤務する未婚のうら若き女性で、すでに婚約も成立し、結納の授受、挙式を待ち佗びていた矢先であり、本件犯行により一瞬にしてその希望は消え去り無残にもその生命までも奪われてしまつたのであつてしかも本件犯罪後被害者岡田一家は日々不安と恐怖に戦き、岡田美世子もその勤務先へ被告人が電話をかけて来たためもあつて、勤務先をも辞職せざるを得ない破目に追い込まれており、家族の心中は誠に同情を禁じ得ないのである。

一方、被告人は本件犯行後も反省の色なく変装等しながら転々として巧みに逃亡しつづけ、その間平然と美世子の前記勤務先へ電話したり等していることは被告人の冷酷な性格の一端を示しているものと考えられるし、本件犯行の惹起した大きな社会的影響をも軽視することができない。

以上の諸般の事情を思い廻らせば、被告人の責任は重くかつ大であるといわなければならない。

しかしながら、本件犯行は被告人が前認定のとおり是非弁別の能力に著しく欠けるところはないにしても生来、小心、無口、几帳面な傾向と情性稀薄、爆発性の傾向をあわせ持つ軽度の精神病質者として精神病院の保護室に隔離収容されたこと等から惹き起された心因性の感情性興奮の下に敢行したものであること、被告人はこれまで道路交通法違反等で罰金刑に処されたほかは前科なく、ともあれ家業に専心従事し懸命に働きつづけて来たこと等を考えると被告人にもなお斟酌すべき事情がないでもない。

よつて、本件において取調べた各証拠によつて認められる以上各般の情状を考慮したうえ、無期懲役刑を量定し、主文のとおり判決する。

(裁判官 石見勝四 高井吉夫 吉川義春)

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