静岡地方裁判所 昭和56年(ワ)29号 判決 1983年3月30日
昭和五六年(ワ)第二九号事件
原告
岩瀬正山
外一四九名
昭和五六年(ワ)第八五号事件
原告
丸岡慈舜
外一四名
昭和五七年(ワ)第一八五号事件
原告
西本暁道
外三名
右原告ら訴訟代理人
中安正
片井輝夫
弥吉弥
川村幸信
山野一郎
沢田三知夫
河合怜
昭和五六年(ワ)第八五号事件、
昭和五七年(ワ)第一八五号事件
原告ら訴訟代理人
小見山繁
山本武一
小坂嘉幸
江藤鉄兵
富田政義
藤井宏
昭和五六年(ワ)第八五号事件
原告ら訴訟代理人
松井邦夫
昭和五六年(ワ)第二九号事件、
昭和五六年(ワ)第八五号事件、
昭和五七年(ワ)第一八五号事件
被告
宗教法人日蓮正宗
代表者代表委員
阿部日顕
同
阿部日顕
右被告ら訴訟代理人
色川幸太郎
川島武宜
宮川種一郎
松本保三
山本雅彦
松井一彦
中根宏
猪熊重二
桐ケ谷章
昭和五六年(ワ)第八五号事件、
昭和五七年(ワ)第一八五号事件
被告ら訴訟代理人
福島啓充
八尋頼雄
若旅一夫
松村光晃
今井啓三
小林芳夫
主文
一 原告らの訴をいずれも却下する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告ら
1 被告阿部日顕は、被告日蓮正宗の代表役員及び管長の地位を有しないことを確認する。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
二 被告ら
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告らはいずれも被告日蓮正宗の教師の資格を有する僧侶であり、同被告に包括される各末寺の住職、主管又は在勤教師であつて、右のうち住職及び主管は各末寺の代表役員及び責任役員の地位にあるものである。
(二) 被告日蓮正宗は、宗祖日蓮立教開宗の本義たる弘安二年の戒壇の本尊の主体とし、法華経及び宗祖遺文を所依の教典として、宗祖より付法所伝の教義をひろめ、儀式行事を行い、広宣流布のため信者を教化育成し、寺院及び教会を包括し、その他この宗派の目的を達成するための業務及び事業を行うことを目的とする宗教法人であり、日蓮正宗宗制及び宗規に基づき右の目的を達成するため代表役員、管長及び法主その他の機関を設置している。
(三) 被告阿部日顕(以下「被告阿部」という。)は、被告日蓮正宗の代表役員、管長及び法主の地位にあると自称している者である。
2 代表役員、管長及び法主の地位並びに法主の選任手続
(一) 被告日蓮正宗における代表役員、管長及び法主の地位は次のとおりである。すなわち、
(1) 代表役員は、一人で、管長の職にある者をもつて充て(宗制五条、六条一項)、法人を代表し、事務を総理する(八条)。
(2) 管長は、一人置かれ、一宗を総理し、宗制の制定、改廃及び公布、住職、主管の任免及び僧階の昇級、僧侶等に対する褒賞及び懲戒その他の宗務を執行する(宗規一三条一項、一五条)。管長は、法主の職にあたる者をもつて充てる(一三条二項)。
(3) 法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し、上人号等を授与し(宗規一四条一項)、総本山である大石寺の住職を兼ね(一七四条)、その代表役員に就任する。
以上のとおり、被告日蓮正宗における法主は、その地位に就くと、当然、管長及び代表役員に就任し、また、総本山大石寺の住職及び代表役員も兼任するものであり、宗教全般につき絶大な権限を有する。
(二) 法主の選任手続は次のとおりである。
(1) 法主は、必要と認めたときは、能化のうちから次期の法主を選定することができる(宗規一四条二項本文)。ここで能化とは、僧階が権僧正以上の者をいい、日号を称する。ところで、法主より相承(次期法主の指名)がなされた場合、相承の儀式が行われ、即座に相承を受けた僧侶が新法主に就任し、退職した法主は前法主と称する。
(2) また、次期法主として相承することが決定された場合は、次期法主の候補者を学頭と称し(同条四項)、宗内に公表される。そして、通常の場合、次期法主は能化のうちから選定されるが、緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる(同条二項但書)。
(3) 法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役及び能化が協議して能化若しくは大僧都のうちから次期法主を選定する(同条三項)。ここで総監及び重役とは、法人事務の決定機関である責任役員三名の構成員である(宗制六条二項)。
3 被告阿部の法主就任の経緯
昭和五四年七月二二日早朝、第六六世法主細井日達上人が富士宮市内の病院において急に遷化された。被告阿部は、当時僧階が大僧都で総監の地位にあつたが、通夜の席上、訴外早瀬日慈及び同椎名法英に対し、昭和五三年四月一五日前法主日達上人より内密に次期法主の相承を受けた旨披露した。右訴外人らは、右被告の一言だけで相承があつたものとして、被告阿部を第六七世法主とした。被告阿部は右のような経緯で法主に就任したことになつている。
4 被告阿部の法主の地位の不存在
(一) まず、被告阿部の右法主の選任手続は、日蓮正宗宗規に基づかず、宗規を無視してなされたもので違法である。すなわち、昭和五三年四月一五日、次期法主として指名を受けたとすれば、当然宗規により学頭と称されて、宗内に公表されるし、また相承を受けたとすれば、直ちに法主に就任した筈であるが、そのような事実はない。したがつて、被告阿部の法主の地位は、宗規に基づかないものであつて、同被告は法主を僣称しているにすぎないものである。
(二) また、右のとおり前法主日達上人の生前に相承がなされた事実はないのであるから、このような場合には、次期法主は、宗規一四条三項により、総監、重役及び能化の協議に基づいて選定されなければならない。そして、本件の場合は緊急やむを得ない場合にあたらないのであるから、新法主は能化のうちから選定されるべきである。ところが、被告阿部は、当時大僧都にすぎなかつたのであるから、法主に選定されるべき資格を有しなかつたことは明らかであり、法主に選定されることはできなかつた。また、日達上人遷化後に能化会議が開かれた事実もない。
(三) 以上のとおり、いずれの点からみても被告阿部の法主の地位は被告日蓮正宗の宗規に基づくものではなく、したがつて、法主に選定されたことを前提として就任した管長及び代表役員の地位はいずれも正当な根拠に基づかないものであり、被告阿部は右各地位を有しないものといわなければならない。
5 よつて、原告らは、被告阿部が被告日蓮正宗の代表役員及び管長の地位を有しないことの確認を求める。
二 被告らの本案前の抗弁
1 本件訴と裁判権について
本件において、原告らは、被告阿部の被告日蓮正宗の代表役員及び管長の地位を争い、その根拠として、それらの地位の前提をなす法主の地位を争つている。しかし、法主の地位は高度に宗教上の地位であるうえ、その地位の存否についての判断は、「血脈相承」という高度に宗教的な行為についての審理・判断を経なければなしえないものである。したがつて、このような争いは、裁判所の審理の対象とすべきではなく、不適法として却下されるべきである。
そこで、以下、法主の地位と血脈相承とが高度に宗教的意義を有するものであること及び本件の核心がこれら宗教上の事項についての争いであることを明らかにし、本件に対し、裁判所が裁判権を有しないゆえんを主張する。
(一) 法主の地位
(1) 法主の地位に関する教義
被告日蓮正宗においては、宗祖日蓮大聖人を宇宙の根源の法理を自ら悟つた三世常住の本仏(久遠元初の自受用身)と仰ぎ、宗祖が悟つた「内証」(仏が悟つた宇宙の根源の法理)を弘安二年(一二七九年)に図顕した曼茶羅を「戒壇の本尊」として信仰の根本対象としている。したがつて、この本尊を、「人法一箇」といつて、宗祖と根源の法理である妙法との一体不二の本尊と拝するのである。法主は、宗祖からその仏法の一切(内証と戒壇の本尊とがその中核となる。)を承継した第二祖日興上人並びにそれ以後の承継者であつて、代々被告日蓮正宗の信仰上の最高権威者としてその信仰を維持して今日に至つている。
(2) 法主の宗教上の権威
法主は、宗派の最高権威者として、宗内の僧侶及び信徒から、宗祖がその在世中門下から仰がれたのと同じように仰がれる立場にある。また、法主は、宗派の統率者として、宗内の秩序を維持する権限と責任を有し、教義の争い、疑義について最終的な裁定を下す権能を有する。更に、法主のみが本尊を書写し、授与することができる。ここで本尊書写とは、代々の法主が、宗祖の「内証」の法体たる「戒壇の本尊」を書き写すことである。これは、単なる写経の類いと異なり、代々の法主が書写したもの(曼茶羅と呼ばれる。)は宗門内に下付されて、日常の信仰における本尊として礼拝されるのである。すなわち、被告日蓮正宗の僧侶及び信者は、この代々の法主の書写した本尊を通して「戒壇の本尊」を拝し、その巧徳を受けることができる。
このように、法主が一般の僧侶にはない宗教的権威を有するということは、とりもなおさず、法主は本仏たる宗祖の「内証」を承継している、ということの証にほかならない。
(3) 法主の地位の特質及びその承継
以上のとおり、被告日蓮正宗においては、法主は、本仏たる宗祖の「内証」を代々承継し、宗派を統率し、教義の解釈・裁定を行い、かつ、本尊を書写し、本尊として下付する権能を有する宗教上の最高権威者として、高い尊崇を受けている。
ところで、宗教団体の宗祖(教祖)は、通常人が持たない特別の力ないし資質を体得している者として、それを承認する人々によつて信奉される存在である。このような宗祖の力ないし資質は、社会学者が「カリスマ」と呼ぶところのものであり、多くの宗数においてひろく見られる現象である。すなわち、宗祖とその信奉者たちが、宗教団体を形成するようになると、その永続性を確保するために、宗祖の地位の承継という現象が生じ、それは、宗祖の有するカリスマの承継と結びついて行われる。そして、そのカリスマの承継のために特殊な儀礼ないし行為が行われるのを常とする。
被告日蓮正宗においても、代々の法主は、他のすべての僧侶とは異なり、特別の力ないし資質を有する者として特別の尊崇を受けて今日に至つている。そして、このような特別の尊崇を受ける資格は、代々法主から法主へと特別の宗教上の行為すなわち血脈相承によつて授与されてきたのである。
(二) 血脈相承
(1) 血脈相承の意義
血脈相承は、被告日蓮正宗における最高の権威者たる法主の資格の承継にかかわる教義上の用語、概念であり、高度に宗教上の意義をもつている。そして、本件に即していえば、血脈相承とは、前記のような法主の有する宗教上の特別な資質ないし力を譲り渡す行為である。
宗祖は、入滅に先立ち、数多くの弟子の中から第二祖日興上人ただ一人を後継者として選び、その仏法の一切を授け、滅後の弘法を託した。以後、日興上人は日目上人に、日目上人は日道上人にというように、代々の法主の承継が行われ、第六七世である被告阿部に至つている。
このように血脈相承とは、あたかも父から子へと血統が受け継がれていく姿に譬えて、宗祖の遺した仏法の一切が、中断することなく、いささかも変えられることなく、そのまま代々の法主に承継されることを意味する。血脈相承により、代々の法主は、宗祖につらなる者として信仰上の最高権威を有する教団統率者たる地位を保持するものとされ、被告日蓮正宗の教義の同一性、教団としての永続性が保障される。それゆえ、血脈相承は、教団の存立の根幹にかかわる重要な意義を有するものとされている。
(2) 血脈相承の方法
(イ) 唯授一人
被告日蓮正宗においては、教義上、血脈相承は唯授一人とされている。唯授一人とは、法主がその後継者に仏法を伝授するにあたり、授けるにふさわしい僧侶ただ一人を選んで承継させることをいう。
(ロ) 口伝
宗祖からの血脈相承は「口伝相承」によりなされてきた。口伝相承とは口頭で伝えることで、仏法における重要な相承方法とされている。
(ハ) 秘伝
血脈相承は秘伝とされる。その意味は、血脈相承の具体的内容もその具体的行為も秘密とされるということである。血脈相承が、唯授一人であり、口伝でなされることは、それが秘伝であることと不可分である。血脈相承の内容は、被告日蓮正宗の教義上及び信仰上最も重要であり、かつ根幹をなすものであるが、それは代々の法主にのみ口伝される秘伝であり、したがつて、余人が知ることのできないものとして今日に至つている。
(ニ) 方式
血脈相承が具体的にいかなる行為であり、一定の方式をともなうのかは、血脈相承を授ける者と受ける者しか知ることができないものとされ、法主もその内容を口外しない。
(3) 血脈相承と儀式の要否
血脈相承を行うにあたり、それを外部にわかるような方法で行うか否かは、ひとえに当代法主の裁量によるところであり、その意味では、血脈相承に際して、必ずしも儀式等対外的な表示行為がなされるとは限らない。この点について、原告らは、法主より相承がなされた場合、相承の儀式が行われると主張し、外形的な儀式がなかつたことをもつて被告阿部に対する血脈相承がなかつたことの根拠としている。しかし、それが外部に表示されるような行為が必要であるとの趣旨であれば、そのような行為がなかつたことをもつて、血脈相承がなかつたことの根拠とすることはできない。
(三) 法主の資格ないし地位の承継に関する準則
(1) 不文の準則
先に述べたように、被告日蓮正宗においては、血脈相承を受けた当代の法主が次期法主にふさわしい僧侶を選び、その者に血脈相承を授けることにより次期法主を決めるということが、宗教上の教義であり、信仰上の信念となつている。そして、この次期法主たるべき者に血脈相承を授けることは、当代法主のみが有する宗教上の権能であり、かつ、責務でもある。このような法主の資格ないし地位の承継に関する準則は、宗祖日蓮大聖人以来、七〇〇年に亘る教義、信仰及びそれと深くかかわる宗教上の伝統として成文化されることなく、不文の準則として存在してきた。
(2) 明治以後の成文規定
被告日蓮正宗においては、宗派の統率者として法主がおり、法主は宗派独自の不文の準則に従つて選び定められてきたのであるが、当時の政府は明治一七年太政官布達第一九号により、法主に代わつて宗派を統監する管長制を法制化し、その就任に監督官庁の認可を要するものとし、管長を法主と称させることとした。しかし、このような宗教政策の下にあつても、被告日蓮正宗では、管長の就任と法主の地位の承継とを確然と区別し、管長就任の認可がなされても、法主としての資格が備わるのではなく、法主の地位の承継がなされるわけでもないとされてきた。そして、法主の資格ないし地位の承継は、あくまで教義・信仰・伝統に従い、血脈相承によつてのみ行われてきたのである。
(3) 現行の成文規定
法主の資格ないし地位の承継に関しては、現行の日蓮正宗宗規二条と一四条に成文規定があり、同二条は、宗制寺法以来一貫して同旨の規定が置かれ、同一四条は、昭和四九年八月の改正によつて、従前の管長後継者の規定が廃止され、法主による法主後継者の決定に関する事項が規定され現在に至つている。
(イ) 宗規二条の趣旨
被告日蓮正宗の伝統を表明した規定である。すなわち、同条は、宗祖の宗旨が血脈相承によつて第二祖日興上人に承継され、以下断絶することなく代々の法主に血脈相承によつて承継されているとの教義・信仰を表明したものである。要するに、被告日蓮正宗の宗旨は、血脈相承によつてのみ、また、血脈相承を受けた法主にのみ伝承されるということである。したがつて、血脈相承によらなければ、宗祖日蓮大聖人の説かれた教義・信仰は正しく理解することができないとされ、血脈相承の断絶は被告日蓮正宗の終焉をも意味するのである。
(ロ) 宗規一四条の趣旨
一項は、法主の資格と権能とを明らかにした規定で、「宗祖以来の唯授一人の血脈相承」を受けた者のみが、法主の資格を有し、本尊を書写し、日号等の授与を行う権能を持つことが定められている。
二項は、次期法主の決定が当代法主の専権であることを表明したものである。「法主は、……次期法主を選定することができる。」とは、当代法主が次期法主として相当とみた僧侶に対し血脈相承を授けるということを、その権限の面よりとらえて「選定」と表現したものにほかならない。そして、「必要と認めたとき」と表現してあることは、退任しようとするときに限らず、血脈の不断に備えて、法主が広く必要と認めたときに、予め血脈相承によつて次期法主を選び定めておくことができるとの趣旨である。被選定者の僧階資格については、能化を原則とし、緊急やむを得ない場合には大僧都以上ならばよいことを定めている。そして、緊急やむを得ない場合かどうかは法主の裁量による。
三項は、当代法主が、やむを得ない事由により、後継者に血脈相承を授けることができなかつた場合の規定である。「やむを得ない事由」とは、死亡の場合に限られない。この規定は、血脈の不断に備えた前法主がおられることを前提としている。この場合には、前法主が血脈相承を授けるが、その際、前法主は総監、重役及び能化の意見を徴する。
四項は、当代法主が次期法主の候補者を定めた場合の規定であり、その者を学頭と称するとした。学頭を設けるか否かは法主の裁量による。学頭を定める際には血脈相承はなされない。
五項は、前記三項の趣旨を前法主の側から規定したものである。唯授一人の血脈相承は宗旨にとつて絶対不可欠であるというのが被告日蓮正宗の教義・信仰の根幹をなすものであり、それ故に、退職した法主は血脈の不断に備えるとされているのである。三項と五項とは不可分の関係にあり、前法主がおられない場合には三項の事態はありえないとするのが被告日蓮正宗の教義・信仰である。なお、七〇〇年の宗史において、前法主がおられない場合に当代法主が血脈相承せず遷化したことはない。
(四) 血脈相承と法主就任の時期
血脈相承を受けた者が直ちに法主の地位に就くか否かは、ひとえに血脈相承を授けた当代法主の裁量による。すなわち、血脈相承を受けると同時に又は直後に、法主が交替する場合もあるし、時期を置いて交替する場合もある。また、当代法主の死亡により、すでに血脈相承を受けた僧侶が法主に就任するという場合もある。前二者の場合は、当代法主は退座して前法主(御隠尊)となるが、第三の場合には、そのようなことがない。そして、本件はこの第三の場合であつて、被告阿部は第六六世法主日達上人より昭和五三年四月一五日に血脈相承が受け、日達上人が昭和五四年七月二二日に遷化されたことにともない法主に就任したものである。
(五) 宗教上の信念の対立
右のとおり、被告阿部は法主に就任し、その旨を宗内に公表した。その後、御座替式、御盃の儀、訓論公布、御代替奉告法要等を行い、原告らにおいても被告阿部の法主就任について異論を唱える者はなく、宗内において同人の法主就任は確定した。
ところで、原告らを含む被告日蓮正宗の僧侶の一部は、昭和五五年七月四日、被告日蓮正宗の信者団体である創価学会を善導すると称して「正信会」なる会を発足した。そして、右正信会は、同年八月二四日、被告阿部の指南に基づく宗務院の禁止命令を無視して第五回全国壇徒大会を開催し、宗内を攪乱する行為に及んだため、被告日蓮正宗は、右大会に関与した者を懲戒処分にした。その後、原告らの代表は、被告阿部に対し、血脈相承に疑義があるとし、血脈相承の有無をただす質問状を送付し、昭和五六年一月一一日付で、「貴殿には全く相承が無かつたにもかかわらず、あつたかの如く詐称して法主並びに管長に就任されたものであり、正当な法主並びに管長と認められない。」旨の通告をしてきた。
このように、本件紛争の実体は、被告日蓮正宗と分派活動家である原告らとの間の教義解釈、信仰のあり方等に関する宗教上の信念の対立にあり、原告らはその一環として被告阿部の法主の地位を否定しようとするものである。
(六) 本件訴と裁判権
(1) 本件は、裁判所法三条の「法律上の争訟」にあたらない。
本件の争点は、前法主日達上人から被告阿部に対し血脈相承が授けられたか否かにある。そこで、裁判所が右争点を判断しようとすれが、少なくとも、血脈相承の意義・内容を教義解釈によつて確定し、日達上人と被告阿部との間に、右の教義解釈によつて確定された血脈相承があつたか否かについて各々審理・判断しなければならない。しかし、血脈相承の意義・内容は、被告日蓮正宗の教義、信仰上の信念に深くかかわるものであつて、このような事項についてはとうてい裁判所の審理・判断は許されないものである。
また、血脈相承によつて宗教上の特別の資質ないし力が承継されるということは、被告日蓮正宗の僧侶及び信者の宗教上の信念であり、本尊書写等の特別の権能をもつ法主の地位は、この宗教上の信念をもつ僧侶、信者が存在する限り認められるのである。つまり、ある法主が宗祖の「内証」等を承継している、すなわち、血脈相承を受けた法主であるか否かを決定するものは僧侶、信者の宗教上の信念であり、裁判所ではない。法主たる地位は、血脈相承という宗教上の行為と、それによつて授与された資格への信奉とによつて、決定されるというべきであり、換言すれば、被告日蓮正宗の法主たる地位は、教団内部で教義、信仰上解決すべき純然たる宗教上の問題なのである。
結局、本件は、日達上人から被告阿部に対し血脈相承が授けられたか否かが争点となり、この判断が本件の帰すうを左右する必要不可欠のものであつて、当事者の主張立証もこの判断に関するものがその核心となるところ、これについて裁判所は審理・判断をなしえないこととなる。かかる場合、申立自体は具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争の形をとつていても、実質において法令の適用による終局的な紛争解決は不可能であり、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらず、不適法として却下を免れない。
(2) 本件の審理・判断は憲法二〇条により許されない。
裁判所は、憲法二〇条によつて宗教上の問題に介入することを許されず、本件につき審理・判断することはできない。すなわち、国家は宗教上の問題に介入せず、宗教上抗争するどちらの立場をも支持することは避けるべきであるというのが信教の自由を定めた憲法二〇条の趣旨であるが、これは、国の機関たる裁判所が特定の宗派の教義や信仰上の信念に干渉することを禁止するものである。仮に、裁判所が特定宗派の教義や信仰上の信念に関する紛争を裁判することが許されるとすれば、裁判所は、対立する教義解釈や信仰上の信念の争いに判定を下すことによつて宗教論争に介入することになるからである。
本件において、裁判所が血脈相承の存否を判断するということは、血脈相承に関する教義上ないし宗教上の信念の対立に対し、その一方に支持を与えることになり、憲法二〇条に違反する。したがつて、このような場合には、その争いの一方の立場を支持する結果になるような実体についての判断はせず、本件訴を不適法として却下すべきである。
2 当事者適格について
団体内部の準則上理事者の選任手続に関与しない者が、裁判上理事者たる地位の存否を争うことができるとすると、その裁判上の判断が対世的効力を有するところから、準則上理事者の選任に関与しない者により理事者の交替がなされることになり、団体の自治を否定する結果となる。したがつて、その団体の準則上理事者の選任手続に関与することができない者は、その理事者たる地位の存否の確認訴訟について原告適格がなく、法律若しくは当該団体の自治規範において、特にその選任手続の適否を争う資格を有する旨が規定されている者に限り原告適格があると解すべきである。
原告らは、被告日蓮正宗の代表役員及び管長の選任手続に関与することができない者であるとともに、選任手続の適否を争うことができる旨の法規上の根拠が存在しないことも明らかであるから、原告らには本件訴について原告適格がない。
三 被告らの本案前の抗弁に対する原告らの反論
1 本件の争点と裁判権について
(一)本件の争点
宗教法人の機関たる地位を有するか否かにつき争いがある場合、その法人を被告として特定の個人が右地位を有しないことの確認を求めることができ、かかる訴が法律上の争訟として審理の対象となりうるものであることは、最高裁判所の判例とするところである。そして、宗教団体内部における宗教活動上の地位にある者が、その法人の規則上当然に代表役員となるとされている場合において、裁判所が、特定の個人が宗教法人の代表役員等であるか否かを審理・判断する前提として、その者が右規則に定める宗教活動上の地位を有する者であるかどうかを審理・判断することができるし、また、しなければならないとされている。
本件は、被告阿部が、被告日蓮正宗の代表役員等その機関としての地位を有するか否かが争われ、その判断の前提として、適法に法主に就任し、その地位を取得したかどうかが争われているものであり、その争点は、被告日蓮正宗における法主選任の手続上の準則が何か、被告阿部が右手続上の準則に従つて選任されたかどうかに関するものである。そして、被告日蓮正宗においては、法主就任の要件は宗規一四条二項及び三項に規定されているのであるが、本件では、前法主日達上人の死亡による後任の法主として被告阿部が就任したとされている。したがつて、本件においては、被告日蓮正宗において法主死亡の場合における後任法主選任の手続上の準則が何かということ及び被告阿部が右手続上の準則に従つて選任されたか否かが争点となる。
(二) 法主の地位
被告日蓮正宗においては、立宗当時から教団の統率者と宗教行為の主宰者たる地位は同一人に属せしめられてきた。古くは、その地位を「貫主」と称していたが、明治期に宗制が定められ、教団の組織上の統率者たる地位を管長、宗教行為の主宰者たる地位を法主と称するようになつた。すなわち、被告日蓮正宗は明治三三年本門宗から分離して新たに日蓮宗富士派として独立し、宗制寺法を定めたが、右宗制寺法によると、管長については、「管長は、宗制寺法によりて一宗を統監す。」(八条)とあり、宗制寺法施行のための教令の発布(一一条)、宗会の召集・解散(一二条)、住職・教師の任免(一七条)、懲戒(一九条)その他団体運営に関する権限を有するとされている。また、法主については、「管長は、宗祖己来の法系を伝承し、法主と称す。」(一四条)、「管長は法主として本尊を書写し、日号を授与す。」(一五条)とあり、教団の最高機関としての管長の職務のうち、宗教行為に関する部分を行う場合に管長が法主と称するとされている。
その後、宗制は数次の改正を経て現行の宗制宗規になつているが、管長と法主の関係は今日まで変更されていない。すなわち、現行宗規一三条一項は「本宗に管長一人を置き、本宗の法規で定めるところによつて、一宗を総理する。」と定め、同条二項において「管長は、法主の職にある者をもつて充てる。」とし、管長就任前に法主の選任があるような形式がとられているが、もともと管長と法主の地位が同一人に属し、その者が教団の最高機関であることの意義は少しも変つていないし、「管長が法主と称する」ことと「管長は法主の職にある者をもつて充てる」とすることとは全く同義である。そして、被告日蓮正宗の宗制には、宗教法人法の定める唯一の代表機関、執行機関として代表役員を置き、管長がこれに就任すると定め(六条)、法主・管長・代表役員の地位は同一人に帰することになつている。
以上のとおり、被告日蓮正宗においては、法主・管長・代表役員を併任する地位は、被告らが主張するような宗教上特別な力を有するか否かにかかわらず、被告日蓮正宗の最高機関としての地位である。
(三) 法主の選任準則
被告日蓮正宗の法主選任準則として、宗規一四条二項及び三項に明文の規定がある。
まず、宗規一四条二項における次期法主の選定とは、法主の退職による交替の場合に行われる後任法主の選任の意義であつて、同項による選定が行われたときには選定を受けた者が直ちに次期法主に就任するとの効果を生ずるものであり、その意味で選定は選任と同義である。
次に、宗規一四条三項における総監、重役及び能化の協議による次期法主の選定は、法主が死亡し、しかも学頭が選任されていない場合の手続であることは、右規定の文言からも明らかである。そして、同項にいう選定も二項の場合と同様選定により就任の効果が生ずる選任の趣旨である。
従来の規定をみても、選定の用語は、一貫してその地位に就任することの意味で用いられている。すなわち、宗制寺法教則第一号は、大学頭及び管長候補者選定規則の名称のもとに第一章は大学頭選定となつており、その一条には「大学頭は、……管長において……之に任ずる。」とあつて、選定が選任と同義で用いられている。また、昭和一六年三月改正の宗制においても、「管長退職せんとするときは予め次期の管長候補者を選定す。次期管長の候補者を学頭と称す。」(三九条)とあり、同宗制の他の規定もすべて選定の用語は選任権者の選任の意義、すなわち被選定者が直ちに就任する意義に用いられている。
ところで、被告らは、被告阿部の法主就任は宗規一四条二項に基づくものであるとし、同項は、法主死亡の場合であつても、予め法主により次期法主に選定されていた者があればその者が法主死亡により当然に法主に就任する旨の規定であると主張する。しかし、このような解釈によると、選定されたが未だ選定されない「次期法主予定者」という概念を導入せざるを得ないこととなり、それは次期法主の候補者として宗規上規定されている学頭の地位とどのように関係するのかも明らかではなく、このような解釈はとうてい採用し得ない。
また、被告らは、宗規一四条二項の被選定資格に関し、同項但書の緊急やむを得ない場合という要件の有無については、選定をする法主の自由な判断によると主張するが、それではこのような要件を設ける意義がなく、緊急やむを得ない場合にあたるか否かは、客観的な評価判断に照らして決定されるべきである。
以上のとおり、宗規一四条二項は法主退職の場合の次期法主の選任権を規定したものであり、同項にいう選定の効果は次期法主の就任であつて、選定と選任とは異なるという被告ら主張の解釈が誤りであることは明らかである。そして、日達上人が死亡の時まで法主であつた事実からして、本件においては、右条項が適用される余地はない。
本件は、被告日蓮正宗における法主死亡の場合における次期法主の選任準則が何かを宗規の解釈により確定すること及びこの点についての被告らの解釈が正当であるとした場合、宗規一四条二項の選定にあたる事実として被告らの主張する具体的事実行為、すなわち昭和五三年四月一五日に行われたとする血脈相承という事実行為の存否についての判断が争点となるところ、被告らは、これらの争点についての判断に関しては被告日蓮正宗の教義の当否についての判断が必要であるとしたうえ、教義上の主張をするが、被告日蓮正宗の法主選任準則に関しては、宗規一四条二項及び三項に明文の規定があり、その解釈は文理上、また従来の規定の沿革ないし慣行等に基づいて明らかになし得ることであり、教義が関係することはない。被告らが教義として述べるところは、結局、法主に次期法主選定権を付与している宗規一四条二項について、教義上の観点による説明を付加しているにすぎない。
また、被告らは、法主選任準則として、成文の準則に加え不文の準則が存在したと主張する。右主張が現行宗規における成文の法主選任準則とどのように関連づけられて主張されているのかは必ずしも明らかではないが、いずれにせよ、本件において、被告日蓮正宗における法主選任準則がどのようなものであるかについては、裁判所がこれを法規範として認定判断すべきことは当然のことである。
ところが、被告らは、右不文の選任準則に該当する事実とは信仰上存在する事実であるとする。信仰上存在する事実とすることは、右事実が特定の者の信仰の対象であつて、客観的認定判断の対象となるべき事実にあたらないことを自ら主張するものであり、このような主張自体意味のないものであることはいうまでもなく、かかる範ちゆうに属する事実を選任要件として主張すること自体無意味である。
被告らが不文の選任準則として主張するのは、選任準則ではなく、選任要件としての法主による選定の意義、根拠の説明を試みたにすぎないものというべきである。
更に、被告らは、昭和五三年四月一五日に行われたとする血脈相承行為は高度の宗教上の行為であり、その存否自体も裁判所の判断の対象とはならないと主張する。しかしながら、被告らが高度の宗教上の行為という趣旨は、これが宗教的意義を有する事実行為であつて、かつ、宗規一四条二項の選定にあたる行為であるというものであり、右血脈相承行為の存在の主張が法主選任要件にあたる一個の歴史的事実行為の存在の主張としてなされていることは明らかである。原告らは、右事実行為の存在を争つているにすぎず、かかる事実の存否が裁判所の判断の対象となることはいうまでもなく、したがつて、本件について裁判所の審判権が及ぶものというべきである。
(四) 血脈相承と称される儀式行為
被告日蓮正宗においては、従来管長・法主の就任に際し、それに前後して血脈相承と称される宗教的儀式が行われてきた。この儀式行為は、その教義上の意味づけは別として、管長・法主への権威の付与という機能を有する。それゆえ、かかる権威付与の行為としての血脈相承行為は、従来その行為が行われたこと自体について二義を許さぬ明確性が必要とされてきた。すなわち、血脈相承行為は、いずれも管長・法主の就任に際し、その前後に宗内に公示されたうえ、宗教上の儀式行為として行われてきた。
これらの儀式においては、その本体たる相承行為自体はこれを授ける者とこれを受ける者が対座して余人を交えずに行われるが、かかる儀式が行われることは、事前にその日時、場所、相承を受ける者が広く宗内に公示され、かつ、儀式終了後は、必ず右儀式が滞りなく終了したことが宗内に公示された。このように、行為自体の秘密性と行為が行われることの公然性の併存は、前記のとおりこの儀式が管長・法主に権威を付与する機能を有することを考えると、むしろ当然のことである。
被告らは、血脈相承を行うにあたり、それを外部にわかるような方法で行うか否かは法主の裁量にもよるものであるとし、血脈相承に際し、必ずしも儀式等対外的な表示行為がなされるとは限らないと主張するが、血脈相承行為が行われたことを宗内の誰も知らないということでは権威の付与ということ自体意味がなく、右主張は失当である。
2 当事者適格について
原告らは、宗制宗規により被告日蓮正宗の議決機関である宗会の議員を選挙し、また、その被選挙人たる資格を有するほか監正会など被告日蓮正宗の各種機関の構成員となり、またはその選挙人となるなど被告日蓮正宗の人的構成要素をなしている。更に、原告らは、宗制宗規により被告日蓮正宗の経費を負担しこれを納付する義務を負うし、また、被告日蓮正宗は原告ら僧侶の人事権・懲戒権をも有するなど両者の間に直接の経済的権利義務関係あるいは基本的な法律関係がある。
また、被告日蓮正宗の管長は、宗規一五条により宗制の制定改廃、宗会の招集解散等法人組織の根幹にかかわる宗務のほか僧侶の懲戒、末寺住職、主管の任免等人事にかかわる事項及び宗費の賦課徴収、義納金の徴収等財務にかかわる事項を行う権限を有している。そして、原告らは、被告日蓮正宗の僧侶として、また末寺の住職、主管若しくは在勤教師として、右人事、財務にかかわる管長の権限の行使により、直接、経済上そのの他法律上の利害を左右される立場にある。
以上のとおり、原告らは、被告日蓮正宗の構成員であり、同被告との間に財産上はもとより法律上の利害関係を有するから、被告日蓮正宗の代表役員及び管長の地位の存否についてこれを争う法律上の利益を有し、したがつて、本件訴について当事者適格があることは明らかである。
第三 証拠<省略>
理由
一被告ら主張の本案前の抗弁について判断する。
1 原告らの本件訴は、要するに、被告日蓮正宗においては、代表役員及び管長の地位を取得する前提として、法主に就任することが必要とされているところ、被告阿部は日蓮正宗宗規に定める所定の手続に基づかないで法主に就任したものであるから、代表役員及び管長の地位を有しないことの確認を求める、というにある。
被告らは、本案前の抗弁として、被告日蓮正宗においては、法主の地位は血脈相承という宗教上の行為により承継されるものであるから、法主の就任手続として血脈相承の存否が本件の争点となるところ、その意義、内容は被告日蓮正宗の教義、信仰にかかわるものであり、したがつて、本件訴訟は裁判所が審理、判断すべき法律上の争訟にあたらないと主張するので、以下、この点につき検討する。
2 まず、被告日蓮正宗における代表役員、管長及び法主の地位についてみるに、日蓮正宗宗制六条には、「代表役員は、この宗派の規程たる日蓮正宗宗規による管長の職にある者をもつて充てる。」と定められ、また、同宗規一三条二項には、「管長は、法主の職にある者をもつて充てる。」と定められ、被告日蓮正宗においては、法主の地位に就くと、当然、代表役員及び管長に就任すること及び法主は、本尊を書与し、日号、上人号、院号、阿闍梨号を授与する(宗規一四条一項)など宗教的活動の主宰者であつて、その地位が純粋の宗教上の地位にとどまることは当事者間に争いがない。
そうすると、法主の地位自体は宗教上の地位にすぎないから、その存否の確認を求めることはできないものというべきところ、その地位にある者が当該宗教法人の規則上当然、代表役員や管長の地位を兼ねるものとされていることから、右代表役員等の地位の存否を判断する前提問題として、特定人が法主の地位を有しているか否かを判断する必要がある場合には、その判断の内容が宗教上の教義やその解釈にかかわるような場合は格別、そうでない限り、その地位の存否について裁判所は審理、判断することができるものと解すべきである(なお、被告日蓮正宗における管長は、本宗の法規で定めるところによつて、一宗を総理し(宗規一三条一項)、また、責任役員会の議決に基づいて、法規の制定、改廃及び公布、宗会の招集、停会及び解散、訓論、令達の公布等の宗務を行う(一五条)とされていることからすると、管長は宗教的活動の主宰者とみられるが、他方、本宗並びに寺院及び教会の財産の監督、宗費の賦課徴収、義納金の徴収(一五条)、その他被告日蓮正宗の資産を管理する(二六二条)など財産的活動についても権限を有していることからすると、管長の地位は必ずしも宗教上の地位にとどまるものではなく、法律上の地位にも立つものと解することができるので、以下、法律上の地位の側面について論ずることとする。)。
3 そこで、被告日蓮正宗における法主の就任手続について検討するに、宗規一四条二項には「法主は、必要を認めたときは、能化のうちから次期の法主を選定することができる。但し、緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる。」と定められているところ、原告らは、右規定にいう次期法主の選定とは法主の退職による交替の場合に行われる後任法主の選任の意義であつて、同項による選定が行われたときには選定を受けた者が直ちに法主に就任する効果を生じるものであり、したがつて、選定は選任と同義であると主張するのに対し、被告らは、右条項にいう選定とは血脈相承という宗教上の行為を意味し、同条項は法主が次期法主となるべき者に血脈相承を授ける旨の規定であつて、右血脈相承を受けた者が法主の退職又は死亡により当然に法主に就任することとなると主張し、当事者間に解釈上の争いがある。
<証拠>によれば、被告日蓮正宗は宗祖日蓮立教開宗の本義たる弘安二年の戒壇の本尊を信仰の主体とし(宗制三条)、右本尊とは「宗祖所顕の本門戒壇の大曼茶羅」(宗規三条)であつて、宗規一四条一項に「法主は、……本尊を書写し、日号、上人号、院号、阿闍梨号を授与する。」と定められ、法主のみが本尊を書写する権限を有し、これを僧侶や檀信徒に下付し、日常の信仰における本尊として礼拝されていること、そして、右規定以外宗制宗規上法主の地位、権限について定めた規定はないものの、被告日蓮正宗においては、宗祖の遺文や歴代法主の教示等から、古来法主は宗旨を承継し、教義の解釈、裁定を行うなど宗派を統率する宗教上の最高権威者とされ、このような法主の地位に就任するには、現に法主の地位にある僧侶から次期法主となるべき僧侶に対し血脈相承という宗教上の行為がなされ、法主の退職又は死亡により血脈相承を受けた僧侶が新たに法主に就任するものとされてきたこと、宗規においても「本宗の伝統は……日蓮大聖人が建長五年に立宗を宣したのを起源とし、弘安二年戒壇の本尊を建立して宗体を確立し、二祖日興上人が弘安五年九月及び一〇月に総別の付嘱状により宗祖の血脈を相承して、三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る。」(二条)、「法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し」(一四条一項)と定められ、被告日蓮正宗が明治三三年九月本門宗から独立して日蓮宗富士派となつて制定した宗制寺法以来同旨の規定が置かれていること、被告日蓮正宗は、明治以降、当時の政府が宗教政策の一環として、宗教団体に対し、宗教規則の制定及び管長制を義務づけ、規則はもとより管長の就任についても認可制を採用したことにともない、明治三三年九月前記宗制寺法を制定し、管長を置き、「管長は宗制寺法に依りて一宗を統監す」(八条)るものとしたこと、また、管長が古来宗派の長たる者の名称を称することについても認可制となつていたことから、主務官庁の認可を受けたうえ、「管長は宗祖己来の法系を伝承し法主と称す」(一四条)と定めたこと、更に、管長就任手続として、管長が管長候補者として大学頭を選任し、管長欠員の場合に大学頭が監督官庁の認可を得て管長の職に就くものとされ(九条、二五条)、管長の死亡等により大学頭が選任されていない場合には、管長候補者を選挙するものとされ(二六条)、昭和一六年改正の宗制においても右と同旨の規定が置かれていたこと、これら管長及びその候補者の選挙規定は、前記のとおり、当時の宗教政策によるものであつて、被告日蓮正宗の伝統とは異質のもので、そのようなところから、被告日蓮正宗においては、当時も、管長の就任と法主の地位の承継とを確然と区別し、たとえ管長の就任につき主務官庁の認可がなされても、当然には法主の地位が承継されるものではなく、法主の地位は、前記のとおり血脈相承という宗教上の行為により承継されるものとされていたこと、戦後、宗教関係法令の改廃、制定がなされ、前記管長認可制が廃止された後も、被告日蓮正宗においては、宗規上管長職及びその候補者の選挙に関する規定が残されていたが、右選挙は実施されることなく、法主が管長に就任してきたこと、その後、昭和四九年八月八日宗規が改正され、従前の管長候補者の選挙制度は廃止されたが、管長の職制はそのまま残り、宗規一三条に「本宗に管長一人を置き、本宗の法規の定めるところによつて、一宗を総理する。2管長は、法主の職にある者をもつて充てる。」と定められるとともに、法主が次期法主を選定する旨の前記宗規一四条二項の規定が新たに設けられたこと、以上の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
右認定の事実によれば、宗規一四条二項にいう選定とは、法主が次期法主となるべき者に血脈相承を授けることを意味し、右血脈相承を受けた者が法主の退職又は死亡により当然に法主に就任することとなると解すべきである。
なお、宗規一四条三項には「法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役及び能化が協議して、第二項に準じて次期法主を選定する。」と定められているところ、原告らは、右規定は法主が死亡した場合のように次期法主を選定することができないときに総監、重役及び能化の協議によつて法主を選任する手続を定めているのであつて、日達上人の死亡にともなう本件の法主就任手続は右規定によらなければならないと主張する。
しかしながら、前認定の被告日蓮正宗における法主の就任手続に関する規則の沿革及びその運用の実態並びに前掲甲第一号証により認められる宗規一四条五項の「退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える。」との規定に照らせば、同条三項は、法主がやむを得ない事由により次期法主となるべき者に血脈相承を授けることができない場合の規定であつて、その場合、総監、重役及び能化が協議したうえ、二項に準じて前法主が次期法主となるべき者に血脈相承を授ける旨を定めたものであると解するのが相当であつて、原告らの右主張は採用できない。
4 そうすると、本件は、被告阿部が昭和五三年四月一五日、当時法主の地位にあつた日達上人から血脈相承を受けたか否かが争点となる。この点につき被告らは、血脈相承とは宗祖の遺した仏法の一切が中断することなく、そのまま代々の法主に承継されることを意味し、この血脈相承により代々の法主は宗祖につらなる者として信仰上の最高権威を有する教団統率者たる地位を保持するものとされ、被告日蓮正宗の教義の同一性、教団の永続性が保障されるのであり、血脈相承の断絶は被告日蓮正宗の終焉を意味し、それゆえ、血脈相承は教団の存立の根幹にかかわる重要な意義を有するものであり、したがつて血脈相承の意義、内容は右のとおり被告日蓮正宗の教義、信仰上の信念にかかわるものであるから、血脈相承の存否については裁判所は審理、判断することができないと主張する。
まず、被告日蓮正宗においては、宗祖日蓮上人が二祖日興上人を後継者としてその仏法の一切を授け弘法を託し、以後、代々法主の承継が行われ現法主に至る伝統を保持し、代々の法主は宗旨を承継し教義の解釈、裁定を行うなど宗派を統率する宗教上の最高権威者とされ、このような法主の地位の承継は血脈相承という宗教上の行為によつてなされてきたことは前記のとおりであるから、血脈相承という宗教上の行為が被告日蓮正宗の教義に深くかかわること自体は否定しがたいことであるといわなければならない。
また、前記のとおり「法主は『宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し」(宗規一四条一項)とあるところから、血脈相承は法主が仏法の一切を伝授するにあたり、唯一人の後継者を選んでその者にこれを承継させるという方法により行われることが明らかであり、前掲乙第二三号証によれば、右伝授は口伝によるものとされていることが認められるが、それ以上、血脈相承が具体的に如何なる内容のもので、如何なる方法によつてなされるかは秘事、秘伝であつて、血脈相承を授ける者と受ける者以外知ることができないという被告らの主張は、法主という被告日蓮正宗における宗教上の最高権威者の地位の承継に関する事柄の性質上是認せざるを得ないところといわねばならない。
以上に対し、原告らは、血脈相承という行為が事実として存在したか否かについては、裁判所は教義、信仰とかかわりなく審理、判断することができると主張する。
しかしながら、本件訴訟が被告日蓮正宗内部における紛争を背景とするものであることは原・被告ら双方の主張内容から明らかであるが、血脈相承については、次のような教義上の争い、信仰上の信念の対立が存在することが認められる。
すなわち、<証拠>によれば、原告らを含む被告日蓮正宗の一部僧侶によつて正信会という組織が結成されたのであるが、昭和五六年一月一日発行の正信会報第六号に掲載された「世界宗教への脱皮(二)」と題する論文において、正信会会長である原告久保川法章は、「日蓮正宗の教義は、宗祖を本仏と仰ぎ、大曼茶羅を本尊とし、唱題と方便寿量を読講し、特に謗法を厳誠することであり、その他の教義はこれらを是認する前提として生じたものである。この根本教義が法水となり、血脈となつて少しも変らず今日に伝えられてきたというのが日蓮正宗の血脈相承である。」「日蓮正宗にのみ大聖人の仏法が血脈相承されてきたということについては、異議を唱えるものではない。しかし、唯授一人、金口嫡々なるものが、前法主より現法主へ、現法主より次の法主へと直接に口移しで断絶することなく今日に至つている、一器の水を一器に移すが如く、歴代の法主が全く同じ法水を伝えてきたとする血脈相承は全く史実に反するものである。七〇〇年の宗門史を見れば、法主の誤りは大衆が正し、法主と法主との血脈の断絶した空白期間は大衆が補い、互いに護りあつて宗開両祖の法水を現在に相承されてきたことは、誰の目にも明らかである。血脈は法主だけが継承したという考えは間違いであり、大衆もまた血脈相承の要員であつたことを知るべきである。そうでなければ正宗の血脈は全く絶え、今日に伝わる筈がない。また、時には大衆によつて、法主の謗法が糾された時代があるという実証でもある。極言すれば本宗の血脈は法主を糾すことによつて正しく護られてきたともいえる。この時代の血脈は明らかに大衆に有り、法主には無いのである。」との見解を表明し、これに対し、被告日蓮正宗は、「久保川論文の妄説を破す」と題する小冊子を発行し、法主による血脈は不断であるとの立場から右久保川論文に対し教義上の論駁をしていることが認められる。
右認定の事実によると、原告らと被告らとの間において、血脈相承という宗教上の行為について教義上の争いが存在し、原告らは、被告らと異なる教義の解釈、信念に立つて、法主による血脈相承がなくても教義上被告日蓮正宗の血脈は絶えることがなく、その存立にいささかも影響を及ぼすものではないとして、被告阿部に対する血脈相承を否定しているものであるということができる。これに対し、被告らは血脈相承について前記のような教義の解釈に基づき、法主による血脈相承の断絶は被告日蓮正宗の終焉を意味するとして、血脈相承ひいては法主の地位の存否は信仰上の信念に帰着する問題であると主張しているのである。
そうすると、被告阿部の被告日蓮正宗における代表役員及び管長の地位の存否を決するには、血脈相承の存否を判断しなければならないところ、以上のとおり血脈相承という宗教上の行為は被告日蓮正宗の教義、信仰、教団の存立に深くかかわるものであるから、その事実の存否を判断することによつて、教義、信仰ひいては教団自体の存立に影響を及ぼすことは避けられず、したがつて、単に事実の存否のみに限定して判断するということは到底不可能であるといわねばならない。
このように、争点となる事実の存否の判断が宗教上重要な教義や信仰に影響を及ぼすことが明らかな場合には、国家機関である裁判所による公権的解決によるべきではなく、宗教団体内部の自治的解決に委ねることが信教の自由を保障し、国家と宗教との分離を規定した憲法二〇条の趣旨に沿うものであり、したがつて、裁判所はその事実の存否を審理、判断すべきではないと解すべきである。
結局、本件訴訟は、代表役員及び管長の地位の不存在確認という具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとつてはいるが、その争点は宗教上の教義、信仰にかかわる宗教上の争いであるといえるから、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。
二以上の次第で、原告らの本件訴は、その余について判断するまでもなく不適法であるからこれを却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(高瀬秀雄 荒井勉 山﨑勉)