静岡地方裁判所富士支部 昭和60年(ワ)187号 判決 1989年1月20日
原告
小 山 博 司
原告
小 山 善 子
右両名訴訟代理人弁護士
鵜 飼 良 昭
柿 内 義 明
福 田 護
宇 野 峰 雪
野 村 和 造
千 葉 景 子
被告(亡有賀文敏承継人)
有 賀 郁 子
被告(同)
有 賀 文 弘
被告(同)
有 賀 文 久
右法定代理人親権者母
有 賀 郁 子
右三名訴訟代理人弁護士
望 月 保 身
主文
原告らそれぞれに対し、被告有賀郁子は金一〇〇四万二二七一円、被告有賀文弘及び被告有賀文久は各金五〇二万一一三五円並びに右各金員に対する昭和六〇年六月一六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告らの負担とする。
この判決第一項は仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求める裁判
一 請求の趣旨
1 原告らそれぞれに対し、被告有賀郁子(以下「被告郁子」という。)は金一八九四万五八〇六円、同有賀文弘(以下「被告文弘」という。)及び同有賀文久(以下「被告文久」という。)は各金九四七万二九〇三円並びに右各金員に対する昭和六〇年六月一六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決ならびに仮執行の宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
との判決
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 当事者
原告らは、昭和六〇年六月一六日静岡県富士宮市立富士宮総合病院において死亡した小山紫野(昭和四九年六月一五日生。以下「紫野」という。)の父母である。
有賀文敏(昭和六二年六月六日死亡。以下「有賀」という。)は、外科医であり、富士宮市神田川町四番地の一八において有賀外科医院を開設し、診療行為に従事していた者である。
2 診療契約の成立
原告らは、昭和六〇年六月一五日、有賀との間で、紫野の左前腕部骨折の治療を目的とする診療契約を締結した(以下「本件診療契約」という。)。
3 本件事故の発生
有賀は、昭和六〇年六月一五日午後四時三〇分過ぎから、前記有賀外科医院手術室において、紫野に対し、一パーセントキシロカイン(薬品名塩酸リドカイン。以下「キシロカイン」という。)又は一〇万分の一のエピレナミン(日本薬局方エピネフリンの別名)を含有する一パーセントキシロカイン(キシロカイン・エピレナミン。以下「キシロカインE」という。)を用いて局所麻酔を施し、前記骨折の観血的整復のための執刀を開始した。
ところが、紫野は、麻酔開始後二〇分ほどして全身痙攣を起こし、有賀より酸素吸入や点滴を受けたりしたが、全身痙攣が容易に収まらず、同日午後一一時頃に至りようやく収まったが、呼吸状態が悪化し、酸素吸入でようやく呼吸している状態であり、こうした状態が翌一六日未明まで続き、同一六日午前七時頃、富士宮総合病院に救急車で転院し、同病院の処置室で治療を受けたが、同日午前一〇時四〇分頃、局所麻酔薬であるキシロカイン又はキシロカインEの急性中毒である全身痙攣が長時間継続したことによる酸素欠乏が原因となって死亡した(以下「本件事故」という。)。
なお、紫野には頭部外傷がなく、外傷性癲癇の既往歴もなく、全身痙攣の原因が外傷性癲癇によるものであるということはないし、本件において脂肪塞栓がその原因であるということも考えられない。
4 局所麻酔薬中毒
(一) 局所麻酔薬による急性中毒は、局所麻酔薬の血中濃度が高くなったため起こる。局所麻酔薬の血中濃度の上昇は、大量が使われたとき、急速に血中に吸収されたとき、直接、血管内に注入されたとき、肝臓や血中酵素の異常など解毒機構が異常なときなどの場合に生じる。
症状として、中枢神経症状と循環系症状があり、その八割以上が中枢神経症状である。
(二) 中枢神経症状は、初期にはその刺激症状であり、不安、精神的興奮、頭痛、耳鳴、めまい、ふるえ、などが現われ、脳幹の刺激により、血圧上昇、過呼吸、頻脈などが起こる。さらに中毒が進み、進行期にはいると、局所麻酔薬がなお一層、脳皮質を刺激するので、筋痙攣が現われる。痙攣は眼輪筋などの顔面筋や四肢の先端の小筋から始まり、次第に躯幹の筋も強直性間代性痙攣に発展する。したがって、呼吸ができず、チアノーゼがみられる。局所麻酔薬の血中濃度がさらに高く保たれると、中枢神経系全体の抑制症状に移って、痙攣も止まり、意識は消失し、呼吸抑制、呼吸停止となる。
(三) 循環系症状も、中枢神経症状と似て二相性である。実際には、これらの症状は局所麻酔薬の心筋と血管系への直接の抑制作用と、前述の中枢神経系を介しての循環系への影響を混合したものである。始めは血圧上昇と頻脈がみられ、これは主として中枢神経系を介しての間接作用であるが、後には心筋と血管の直接抑制作用の結果、血圧下降、徐脈、皮膚蒼白、冷汗、不整脈、そして極端なときは心拍停止が起こる。
(四) 治療方法としては、早期発見と早期治療が大切である。痙攣にはジアゼパム(製品名ホリゾン、セルシン)又は超短時間作用性のバルビツレート(製品名ペントタール、ラボナール、イソゾールなど)を痙攣が止まるまで静注する。この際、酸素による人工呼吸を行なう。時に筋弛緩剤を使用する必要がでるが、これは原因の治療にはならない。循環系の抑制には血管収縮剤、輸血、非開胸心マッサージを適宜用いる。
(五) 局所麻酔薬中毒の予防としては、必要以上の濃度と量を与えないこと、それぞれの局所麻酔薬の一回最大使用量を超えないこと、全身衰弱、肝機能障害、高齢者での使用には注意を要すること、炎症のある部分には使用しないこと、指、足指、陰茎の神経ブロック以外では、エピレナミン添加の局所麻酔薬を使うほうが安全であること、注射するときは必ず念入りに吸引テストを行ないゆっくりと局所麻酔薬を注入することがあげられる。
5 責任原因
(一) 注意義務
(1) 有賀は医師として、人の生命及び健康を管理する医療行為に携わるものであるから、その行為の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を尽くすことが診療契約上の義務として求められる。したがって、有賀が右義務に違反し患者である紫野の生命又は健康を害する結果を生じたときには、右診療契約の不履行として損害賠償責任を負うべきものである。
(2) 前記のとおり、局所麻酔薬の使用は、時に重大な事故が発生する危険性を有しているのであるから、一般に細心の注意をもって行なわなければならない。加えて、万一局所麻酔薬による急性中毒を生じたときは、被害を最小限にくい止めるため、迅速かつ適切に対応することが必要である。そして、そもそも局所麻酔薬の使用には、重大な事故の危険が伴うのであるから、局所麻酔薬を使用する手術の要否自体も慎重に考慮されなければならない。
(二) 観血的手術選択の過誤
(1) 骨折には、骨折部付近の皮膚に損傷のない単純(皮下)骨折と、骨折部付近の皮膚及び皮下軟部に損傷があり、多くは骨折部が外界と交通する複雑(開放)骨折とに分けられる。一般に骨折の治療は非観血的整復固定が原則であり、観血的治療が積極的に採り上げられるのは、開放性骨折や神経血管損傷合併などの例外的な場合に限定される。特に小児骨折においては、仮骨形成が迅速で骨癒合も確実であり、偽関節はきわめてまれであること、外固定による拘縮が起こりにくいこと、周転を除いてある程度までの短縮、屈曲、横軸転位などの変形に対して成長にともなう旺盛な修復力による自然矯正が期待できること、長期臥床にともなう全身的合併症の危懼が少ないなどの特質があるので、観血的治療の適応はさらに制約され、特別例外的事例を除いては非観血的に処置されなければならない。
(2) ところで、紫野の骨折は、通学している富士宮市立黒田小学校の教室の入口の鴨居にぶら下がって遊んでいて、後方に飛び降りたとき、前のめりになったため、手を突いたことにより生じたもので、紫野は、骨折後も自分で音楽室まで歩いて行き、先生に助けを求めており、会話も通常どおりにできる状態であった。紫野の骨折は、非開放性(左尺骨部に開放創はなかった。)の左前腕部単純骨折(左橈骨、尺骨の転位もせいぜい数ミリ程度のもので、著しいものではなかった。)であり、しかも小児骨折であるから非観血的治療を選択すべき場合であって、観血的治療を選択する必要性は全くなかった。にもかかわらず、有賀は、漫然と観血的治療を選択し、前記局所麻酔薬を施用したもので、治療にあたって医師に対して課せられる危険防止のために最善の手段をなすべき注意義務に違反した。
(三) 局所麻酔薬過量投与の過誤
(1) キシロカインの成人一回に対する極量(基準最高用量)は、一パーセント液であれば通常二〇ミリリットルとされ、製造元製薬会社の使用説明書にもその旨明記されており、使用説明書の支持する極量は、長期間に亘る幾多の臨床例、実験例によって確立された基準値であって、これをこえる使用量は、局所麻酔薬中毒の発生を十分に予見させる過量投与にあたるものであるところ、有賀は、紫野に対し、腋窩神経の伝達麻酔及び局所の浸潤麻酔として右極量をこえる合計四〇ミリリットルのキシロカイン(一パーセント液。以下、特に断わらない限り同じ)を施用した。有賀は、生前、捜査機関に対して、キシロカインE(一パーセント液。以下、前に同じ)を施用した旨供述しているが、診療録にはキシロカインと記載されているものであり、右供述は、キシロカインEであれば、キシロカインより極量が多いことを意識した虚偽の疑いが濃厚なものである。
(2) 仮に有賀の施用したのがキシロカインEであったとしても、キシロカインEの成人一回に対する極量は、通常五〇ミリリットルとされ、製造元製薬会社の使用説明書にその旨明記されている(ただし、右極量は、頑強な外国人に対してのものであり、日本人成人の場合には三五ないし四〇ミリリットル位と考えられており、実際の臨床的使用量は三ないし二〇ミリリットルとされている。)ところ、右使用説明書にいう成人の体重を五〇キログラムと想定して(ただし、最近における日本人成人の体重の平均値は五〇キログラムを大幅にこえている。)、体重三一.九キログラムの紫野に対する極量を換算すれば三一.九ミリリットルとなるので、有賀の施用したキシロカインE四〇ミリリットルは、極量をこえる過量投与である。
(3) また仮に有賀の施用したキシロカインEの使用量の伝達麻酔に二〇ミリリットル、浸潤麻酔に一〇ミリリットルであったとしても、それは紫野に対する極量ぎりぎりの量であるうえ、伝達麻酔の右使用量は、右使用説明書所定の成人の伝達麻酔の用量(三ないし二〇ミリリットル)を体重三一.九キログラムの紫野に換算した場合の用量一二.七ミリリットルを七.三ミリリットル超過している。
さらに、有賀は、成人の場合の用量が三〇ないし六〇ミリグラムである鎮痛剤ソセゴンを三回に亘り前記局所麻酔薬と併合して合計四五ミリグラム紫野に筋注ないし静注しているものであるが、ソセゴンは副作用として呼吸抑制、不安感、痙攣、意識障害、ショック症状等を起こすことがありうるものであり、しかも、幼・小児への投与に関する安全性が確立されていないので投与しないことが望ましいとされている薬品であって、鎮痛効果を狙って投与したとしてもキシロカイン又はキシロカインEによってその目的を十分達成できるので、これらと併用する理由はなく、ソセゴンの投与は前記局所麻酔薬中毒による紫野の全身痙攣発作を一層増悪させたものである。
(四) 全身痙攣発症後の処置の不適切
(1) 紫野は、麻酔後、二〇分ほどたって全身痙攣を起こしたが、この原因が、局所麻酔薬中毒であることは明確であり、このような場合、全身痙攣を起こす以前に、当然、初期症状があり、この段階で局所麻酔薬中毒であることは十分認識可能なものである。
また、日常的に骨折などの治療にあたる有賀は、紫野のような小児に局所麻酔薬を使用すれば本件のような事故が発生することは十分に予見できたということができる。
(2) そして、一般に全身痙攣は数分間のうちにおさえなければ脳に対する酸素供給不足等によって、致命的になるのは医学上の常識であるから、全身痙攣に対しては、直ちにジアゼパム(製品名ホリゾン・セルシン)又は超短時間作用性のバルビツレート(製品名ペントタール、ラボナール、イソゾールなど)を痙攣が止まるまで静注し、必要があれば酸素による人工呼吸を行なう等の処置を講じなければならない(前記使用説明書でも同様の指示がなされている)。
しかるに、有賀は、紫野の全身痙攣が局所麻酔薬中毒であるとは全く思い至らず、かつ、その場合に必要な前記のような処置をも怠り、漫然と放置したために紫野は全身痙攣による酸素供給不足によって、遂には死に至った。
なお、紫野が心不全の状態になったことはないし、ジアゼパム、バルビツレートが心不全に禁忌であるということもない。
(五) 賠償責任
以上は有賀の前記診療契約に基づく債務の不履行を構成するとともに紫野に対する不法行為にも該当するものであり、有賀には債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償責任が生じた。
6 損害
(一) 紫野の逸失利益
金四六三六万七一九六円
紫野は、死亡当時小学校五年生一一歳の女児であるので、中学卒業時から六七歳まで稼働し、また賃金センサス昭和六〇年第一巻第一表の産業計、企業規模計、学歴計の女子労働者の全年齢平均賃金年額金二三〇万八九〇〇円に家事労働相当額年六〇万円を加算した金額を得るものとして、これから三割相当の生活費を控除し新ホフマン係数により年五分の民事法定利率による中間利息を控除して、事故時の原価を算出すると金四六三六万七一九六円となる。
(2,308,900+600,000)×{26.3354(67年−11年=56年に対応する新ホフマン係数)−3.5643(15年−11年=4年に対応する新ホフマン係数)}=66,238,852円
66,238,852円×0.7=46,367,196円
(二) 紫野の葬儀費用
金一〇〇万円
(三) 紫野の慰謝料
金二〇〇〇万円
本件事故の原因は有賀の一方的且つ重大なる過失にあり、その結果、いたいけな若い生命が奪われたこと、現在の平均賃金額を基礎として中間利息を控除して逸失利益の現価を算定する方法は、将来労働賃金が上昇し貨幣価値が下落することが公知の事実であることからみて極めて控え目な数値をもたらすこと、女子の収入を予測する場合男子のそれと著しい格差のある現状が将来も長期間継続することは必ずしも妥当でなく、また、特に児童の死亡による損害の算出に当り男女の将来収入に格差を認めることは本来合理性に乏しいこと等に鑑み、本件事故によって被害者が被った損害総額の判断に際し、これらの諸点を慰謝料額の算定において考慮するのを相当とするところ、これが金二〇〇〇万円を下回らないことは明らかである。
(四) 原告らの相続
原告らは、紫野の相続人であり、他に相続人はなく、相続により、同人の権利を各二分の一の割合で承継取得した。
(五) 原告ら固有の慰謝料
金一〇〇〇万円
原告らは、最愛の娘を思いもかけぬ本件事故によって失い、その苦痛は筆舌に尽し難いものがあるところ、これを慰謝するに少なくとも各金五〇〇万円が相当である。
(六) 弁護士費用
金六〇〇万円
原告らは本件訴訟の提起追行を原告ら訴訟代理人弁護士に委任したものであるが、その弁護士費用としては金六〇〇万円が相当である。
(以上合計金八三三六万七一九六円)
7 被告らの相続
有賀は昭和六二年六月六日死亡し、妻である被告郁子が二分の一、子である被告文弘、同文久が各四分の一の割合でその義務を承継取得した。
8 結論
よって、紫野の相続人である原告らは、債務不履行又は不法行為による損害賠償請求権に基づき、それぞれ、右損害賠償の内金として、いずれも有賀の相続人である被告郁子に対し金一八九四万五八〇六円、同文弘、同文久に対し各金九四七万二九〇三円並びに右各金員に対する損害発生後である昭和六〇年六月一六日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求の原因に対する認否
1 請求の原因1の事実は認める。
2 同2の事実は認める。
3 同3のうち有賀が昭和六〇年六月一五日午後五時四〇分頃(四時三〇分過ぎではない。)から有賀外科医院手術室において、紫野に対し、一〇万分の一のエピレナミンを含有する一パーセントキシロカインEを用いて局所麻酔を施し、紫野の骨折の観血的整復のための執刀を開始したこと、ところが、麻酔開始後二〇分ほどして紫野が全身痙攣を起こしたこと、紫野が同月一六日午前七時五〇分頃富士宮総合病院に救急車で転院したこと、紫野が同日午前一〇時四〇分頃、同病院で、全身痙攣の原因を別にして、全身痙攣による酸素供給不足により死亡したことはいずれも認めるが、その余は争う。
紫野の全身痙攣は、有賀が三回にわたり合計二五ないし三〇ミリリットルのキシロカインEを紫野に注射し執刀を開始したのち約一五分後、突然に起こり、同時に紫野の血圧は上が二二〇mmHg(以下、単位の記載は省略する。)をこえ、脈拍も一分間一六〇を数え、急性心不全の症状を呈した。痙攣は、最初の発作が起こってから二時間位は断続的にみられたが、六月一五日午後八時頃には頻度が少なくなり、午後一一時頃からすべての体動がみられなくなったが、血圧は発作時以外、上が一〇〇前後に保たれていた(一時六〇前後に下降したことがあったが、その後、回復した。)。紫野の死因として、キシロカインEの中毒により痙攣発作を起こし、これが低酸素状態を招いたことは可能性のひとつとして認められるけれども、そのほかに、紫野には、局所麻酔中毒による中枢神経症状の初期症状としてみられるといわれている過呼吸、血圧上昇、徐脈が現われず、窃然全身に痙攣を起こしていることに加え、高い場所から落ちて受傷しているので右痙攣の原因として頭部外傷による癲癇の可能性もあるし、紫野に嘔気、嘔吐がなかったのでキシロカインEに混入されたエピレナミンによる可能性もある。
4 同4(一)ないし(五)の事実はいずれも認める。
5(一) 同5(一)(1)の主張は、「実験上必要」とあるのを、「医療を行なう当時の医療水準において必要」と訂正のうえ、認める。
同(2)の主張は認める。
(二) 同(二)(1)のうち小児骨折においては非観血的治療が原則であることは認める。しかし、開放性骨折の場合、骨折部位の転位が著しく非観血的には十分な整復固定とその保持が得られない場合には観血的処置が必要である。
同(2)のうち紫野が骨折していたこと、有賀が紫野に対し観血的医療を実施し、局所麻酔薬キシロカインEを施用したことはいずれも認めるが、その余の事実は否認ないし不知。
紫野が有賀外科医院に来院したときの所見は、左手関節の上方が極度に屈曲し、尺骨の一部が皮膚から突き出ていて疼痛が激しく、顔面は蒼白で、冷汗があり、ショック状態であった。レントゲン写真の所見によれば、折れた骨が四、五センチメートル重なっているほどの傷害であり、有賀は、左橈骨及び左尺骨の複雑骨折と診断し、手術前、原告小山善子(以下「原告善子」という。)に対し、前記レントゲン写真を見せ、骨のずれがひどいから手術が必要である旨説明し、その了解を得た。紫野の骨折は右のようなものであったから、観血的手術の適応があったものであり、仮に開放性骨折でなかったとしても、転位があったので、手術の適用は否定されない。また、脂肪及び血栓等の塞栓症を防止するためにも観血的整復が必要であった。
(三) 同(三)(1)の事実は否認ないし不知。有賀が施用したのはキシロカインEである。
同(2)のうちキシロカインEの成人一回の極量が五〇ミリリットルとされ、使用説明書にその旨明記されていることは認めるが、その余の事実は否認ないし不知。
有賀は、前記のとおり、キシロカインEを三回にわたり合計二五ないし三〇ミリリットル施用したものであり、右使用量はキシロカインEの使用説明書所定の成人の体重を五〇キログラムとして換算した場合の紫野に対する極量の範囲内である。また、極量は、中毒量よりかなり少量で、十分安全な範囲で定められている。
同(3)のうち有賀がキシロカインEを伝達麻酔及び浸潤麻酔として合計二五ないし三〇ミリリットル施用したこと、ソセゴン一五ミリグラムを筋注し、ソセゴン三〇ミリグラムを静注したことはいずれも認めるが、その余は否認ないし不知。
有賀は、紫野の来院後、レントゲン写真撮影前に鎮痛剤ソセゴン一五ミリグラムを筋注し、その後、レントゲン写真を撮り、応急措置をとったりなどしたのち、紫野を手術室に入れ、自動血圧計を巻き、前投薬アトロピン〇.五ミリグラムを筋注し、電解質補液に止血剤トラメチン、副腎皮質ホルモンクレイトンを混入して点滴を開始し、次いで一〇万分の一のエピレナミンを含有する一パーセントキシロカインを注射により腋窩神経に伝達する方法による麻酔を開始した。有賀が用いていた注射筒はその容量が二〇ccであり、有賀はその注射筒二本にキシロカインEを採り、まず皮下に五ないし一〇ミリリットル注入し、約五分後腋窩神経に約一〇ミリリットルを注射した。しかし、未だ疼痛が取れなく、肋間神経の枝が入っているので、それを含めて遮断するため、約一〇ミリリットルを腋窩神経の周囲に追加浸潤させた。その後、ソセゴン三〇ミリグラムを静注し、患部の消毒をして、午後五時四〇分頃、執刀を開始したものである。
また、有賀は、紫野の体重を三五キログラムと認識して麻酔を行なったものであるところ、紫野の解剖時の体重は三一.九キログラムであったが、死亡前日の夕刻から痙攣発作を起こし死亡するまで重篤な症状が継続していたので、この間の消耗による体重の減少を考えると、有賀の右認識について過失はない。
仮に紫野の全身痙攣の原因がキシロカインEの中毒によるものであるとしても、それはキシロカインEの過量投与によるものではなく、紫野の体重又は麻酔時の全身状態が不測の薬効をもたらしたものであり、有賀の麻酔方法に過失はない。
(四) 同(四)(1)のうち紫野が麻酔後二〇分ほどたって全身痙攣を起こしたこと、有賀に局所麻酔薬を使用する際の危険の予見可能性があったことはいずれも認めるが、その余は争う。
紫野の場合には、前記のとおり、局所麻酔薬による中枢神経症状のときにみられる過呼吸、血圧上昇、徐脈の初期症状が現われず、突然全身痙攣が起こっていることや紫野が高い所から落ちて受傷していることからして、紫野の痙攣は局所麻酔中毒によるものではなく、外傷性癲癇が原因である可能性が強い。
同(2)のうち全身痙攣は数分間のうちに抑えなければ脳に対する酸素供給不足により致命的となること、全身痙攣が起こった場合には酸素による人工呼吸を行なうなどの処置を講じなければならないこと、紫野が全身痙攣による酸素供給不足により死亡するに至ったことはいずれも認めるが、その余は争う。
前記のとおり、紫野は、執刀約一五分後、突然全身痙攣を起こし、同時に血圧は上が二二〇をこえ、脈拍も一六〇を数え、急性心不全の症状を呈した。有賀は、直ちに創を圧巾で包んで創の処置を中止し、まず紫野に酸素マスクをかけ、手動により酸素を送り、看護婦に挿管の準備をさせ、無線による心電計を取り付けた。血圧は二〇〇、脈拍数は一分間一六〇前後を数えた(発作性頻拍症)。有賀は、筋弛緩剤サクシンを最初は筋注で二〇ミリグラム、次いで静注で二〇ミリグラムを投与し気管内に挿管し、手動を人工呼吸器に切りかえ、抗痙攣剤フェノバールを筋注した。フェノバールは一時間位の間に一ccずつ四回投与した。さらに降圧剤アポプロンを投与し、点滴に脳賦活剤ルシドリール・シチコリン、副腎皮質ホルモン・クレイトン、抗生物質ダラシンを混入投与した。
痙攣は最初の発作が起きてから二時間位は断続的にみられたが、午後八時頃には頻度が少くなり、午後一一時頃、人工呼吸器を自動から手動に切り替えた時からすべての体動はみられなくなった。このように紫野は心不全の症状を呈したものであるところ、ジアゼパム、パルビツレートは心不全の患者に対しては施用してならないものであるから、有賀のした筋弛緩剤サクシン、抗痙攣剤フェノバールの投与は妥当なものである。
また、紫野の発作症状は両手足を引きつけ、口から泡を出すという激しいもので、約二〇分の間隔で三回起き、その後も断続的に約二時間続いた。右症状は抗痙攣剤の効果が期待できないものであったところ、痙攣発作が激しく、抗痙攣剤の効果が期待できない場合には、呼吸の抑制が強くみられるので、筋弛緩剤を投与して痙攣を除去し、人工呼吸を行なうべきであるという医学上の学説があるものであるから、前記のように発作の都度、筋弛緩剤サクシンを投与して痙攣を除去し、次いで気管内挿管により人工呼吸を行ない、さらに抗痙攣剤フェノバールを投与した有賀の処置に過失はない。
(五) 同(五)の主張は争う。
6(一) 同6(一)のうち紫野の年齢、性別は認めるが、その余は争う。生活費として少なくとも五〇パーセントを控除すべきである。また、就労可能期間が長期に亘るので、中間利息控除についてはライプニッツ係数を用いるべきである。
(二) 同(二)の事実は不知。
(三) 同(三)は争う。
(四) 同(四)の事実は認める。
(五) 同(五)、(六)はいずれも争う。
7 同7の事実は認める。
第三 証拠<省略>
理由
一当事者、診療契約の成立
請求の原因1、2の事実はいずれも当事者間に争いがない。
二本件事故の発生等
請求の原因3のうち、手術開始時刻が午後四時三〇分過ぎであるかどうか、また施用された局所麻酔薬がエピレナミンを含有しないキシロカインであるかどうかを一時別にして、有賀が昭和六〇年六月一五日午後有賀外科医院手術室において紫野に対し、少くともキシロカインEを用いて局所麻酔を施し、紫野の骨折の観血的整復のための執刀を開始したこと、ところが麻酔開始後二〇分ほどして紫野が全身痙攣を起こしたこと、紫野が同月一六日午前七時五〇分頃富士宮総合病院に救急車で転院したこと、紫野が同日午前一〇時四〇分頃同病院で、全身痙攣の原因を別にして、全身痙攣による酸素供給不足により死亡したこと及び請求の原因4(一)ないし(五)の事実はいずれも当事者間に争いがなく、右及び前記各争いのない事実、<証拠>を総合すれば、本件事故の発生に至る経緯等として、次の事実を認めることができる。すなわち、
1 紫野(昭和四九年六月一五日生)は、昭和六〇年六月一五日午後三時三〇分頃、通学している富士宮市立黒田小学校三階の五年二組の教室において、友達と一緒に教室出入口の鴨居に両手を掛け、ぶら下って勢いをつけて後方に飛ぶ遊びをしていて後方に飛び降りた際、前のめりになり、床に手を突いたことにより左手首上方を骨折し、自分で音楽室まで歩いて行き、城内貢教諭(以下「城内教諭」という。)に助けを求めたところ、同教諭は、直ちに自己の運転する自動車に紫野を同乗させて校医である有賀経営の有賀外科医院へ紫野を連れて行った。城内教諭が来院前に紫野の患部を見た際、患部に出血は見られなかった。
有賀(昭和一一年八月一九日生)は、昭和三七年七月医師免許を取得し、昭和五五年一〇月から富士宮市神田川町四番地の一八において有賀外科医院を開業していたものである。
2 紫野は、前記のように城内教諭に付き添われて同日午後四時前頃、有賀外科医院に到着した。来院した当時の紫野は、しばしば大声で「痛いよう」と言って激しい疼痛を訴えていたが、会話の応答は正確で、取り乱して泣き叫ぶということはなく、顔面も蒼白ではなかった。
有賀が城内教諭に対して紫野の受傷状況を尋ねたところ、同教諭から、「どこか高いところから落ちた」との説明を受けたが、それ以上の具体的な説明は聞かなかった。
有賀外科医院に来院した当時の紫野の患部は、左手首がだらんと屈曲し、左手首が横から上に反るような状態で、素人目に見ても一見して骨折と分かるものであり、患部の周囲は血腫で腫脹があり、手指の循環不全が軽度あった。紫野を診察した有賀は、紫野の保護者の来院前であったが、取りあえず応急処置をすることにし、まず一階レントゲン室に紫野を連れて行き、正面方向から左手首付近患部のレントゲン写真を四つ切りの大きさで一枚撮影し、すぐその結果を調べたところ、橈骨と尺骨が二本とも骨端で完全骨折し、いずれも数ミリメートルほど左右にずれを生じ、転位していることが分かり(右所見は前記レントゲン写真上明らかである。)、左前腕複雑骨折と診断した。有賀は、本来であれば、正面方向からのほか、側面等の方向からもレントゲン撮影をすべきものであると考えていたが、紫野が泣いていて余裕がなかったので、正面方向以外からのレントゲン撮影をしなかった。また、城内教諭からは頭部を打ったようなことを聞いていなかったので頭部レントゲン写真の撮影をしなかった。
3 次いで、有賀は、紫野を外来診察室の診察台上に横にさせ、看護婦に指示して鎮痛剤ソセゴン一五ミリグラムを筋注させたうえ(ソセゴンの筋注は当事者間に争いがない。)除痛剤イリナトロン二五ミリグラム二錠を服用させて応急処置をなし、包帯をしないで紫野の保護者の到着をまった。そうするうち、紫野のクラス担任の山田孝子教諭(以下「山田教諭」という。)が同日午後四時二〇分前後頃に駆けつけ、その後、母親の原告善子が同日午後四時四〇分前後頃に到着した。
原告善子は、富士宮市内の産婦人科医院で准看護婦として働いているものであるが、到着後、山田教諭と一緒に外来診察室に入って紫野に会い、むき出しになっていた紫野の左手首付近を見たところ、手の甲が「くの字」に曲っているような状態であったが、出血は見られず、山田教諭が患部を見たときも出血は見られなかった。紫野の患部は、このあと有賀により、手術のため切開されたが、手術のための切開箇所は、手関節から前腕外側上向き縦約五センチメートルの橈骨側であって、死後の司法解剖による所見によれば、骨折端が皮膚外に出ていたということはなく、非開放性骨折と認められた(尺骨の一部が皮膚外に突き出していたことを認めるに足りる証拠はない。)。原告善子らが入室していた当時の紫野は、前記診察台上に横になっていたが、同原告や山田教諭らと夏に予定されていた学校行事の林間学校のことなどについて普通の会話を交わしたりして意識は正常であり、顔色も普通であった。
4 有賀は、前記レンドゲン写真の結果等から、紫野の患部の屈曲が顕著で、骨折の転位が著明であり、骨折した骨が血管その他を傷つけるおそれがあるとともに徒手整復によっては脂肪塞栓を発症させるおそれがあると考え、徒手整復による治療では無理であり、直ちに観血的手術をする必要があると考え、原告善子に対し、前記レントゲン写真を示して、転位がひどいので手術が必要である旨説明した。これに対し、原告善子は、手術の必要性について疑問を感じたりしたが、手術の必要性について確認すると、有賀より重ねて、「切開しなければ治らない、骨がずれちゃっているから。」などと言われたりしたので、有賀による手術をうけることを承諾した。
こうしたのち、まもなく、有賀は、看護婦を通じ、原告善子から、紫野の体重が三六キログラムである旨聞いたが、手術前に既往歴やアレルギー体質の有無などについての問診をしなかった(有賀は、その後、看護婦を通じ、原告らに対し、紫野がこれまでに熱を出して引きつけを起こしたりしたことがないか、その有無を尋ね、そのような経験はない旨の返事を受けたが、右質問をしたのは、紫野の手術に着手し、紫野が全身痙攣を起こしたのちのことであった。)。こうして、紫野は、手術を受けることになり、外来診察室から入院が予定された二階の病室に一旦立ち寄ったのち、同日午後五時前頃、看護婦に連れられて二階手術室に入った。
5 ところで、小児骨折の治療においては、小児の仮骨形成が旺盛で骨の癒合機転も早く、成人にみられるような骨癒合がうまく行なわれずに結合組織性癒着のためいつまでも骨折部に可動性が認められるという偽関節の形成はむしろ稀であって、ある程度の変形などは、成長につれ、損傷骨全体に改変が生じ、自然矯正される作用があること、ギプスなどの外固定により起こり易い関節拘縮も小児では少ないこと、周転を除いてある程度までの短縮、屈曲、横軸転位などの変形に対して成長に伴う旺盛な修復力による自然矯正が期待できることなどの特質があるので、外科ないし整形外科医学の臨床上、一般に小児骨折の治療は非観血的療法が原則であり、観血的療法は例外的なものであるとされ、昭和六〇年六月当時もこのように解されていた。そして、小児の自然矯正能は、年齢、骨折部位、変形の程度・方向、隣接関節との関係などによって異なるが、自然矯正を期待しうる年齢は男女差もあるが概ね一二歳前後であること、小児の骨端部骨折は直ちに整復すべきであり、その際、当然成長軟骨に対する損傷を可及的に避けることが大切であること、関節内に嵌入した内側上顆骨折や転位の大きな橈骨頸部骨折などは観血的治療の適応のある例であるが、これらのほか、骨片の大きさ、転位の状況によっては手術的操作が必要となる場合があること、成人の骨折治療が局所の現状回復を終局目的とするのに比べ、小児の骨折治療には将来起こりそうな変形発生を予測したライフプランをも加味する配慮が必要であるなどと一般にいわれている。
また、脂肪塞栓とは、非乳化した脂肪滴による毛細血管の閉塞のことであり、このような病理解剖学的状態が常に臨床症状を呈するとは限らないものの、臨床症状を呈する疾患状態を特に脂肪塞栓症候群と呼んでいる。同症候群の誘因としては外傷とりわけ骨折が多く、病理解剖的所見としての脂肪塞栓は災害死者の約九割に証明されるが、同症候群の発症頻度ははるかに低く全災害傷害の一ないし二パーセント前後、性別頻度は男女ほぼ同率であるが、年齢別では小児に少なく、二〇歳代と五〇歳代以上に多発している。同症候群の分類としては、受傷後短時間の潜伏期のあとに錯乱、昏迷、譫妄、昏睡などの脳症状が現われ、一ないし三日の経過で死に至る電撃型と受傷後数時間から数日の潜伏期のあとに発熱、頻脈、呼吸器症状、脳症状、皮膚点状出血などをもって発症する定型的症候群などがある。同症候群は、受傷から発症までの間に潜伏期をもっており、従来二四ないし四八時間位が普通と考えられていたが、最近の研究ではより早い発症が明らかにされ、受傷後二四時間以内になんらかの病像を呈していたことが報告されている。ほとんどすべての同症候群の症例にセ氏三八度をこえる発熱とそれに対応した頻脈がみられる。血圧は初期には正常のことが多い。同症候群による死亡率は症状発現例の一ないし二割の間であると想像されている。予防法は、局所的手段としては骨折局所の確定な外固定による局所的な安静が重要であり、骨折患者の外固定不良のままでの輸送直後や骨折の徒手整復後に発症したという報告も少なくなく、全身的予防としては、ショックの予防及び適切な治療が予防につながる。
6 有賀は、手術室に入った紫野を手術台上に横にさせたのち、自ら又は看護婦に指示して右上膊部に自動血圧計を巻き、ワイヤレスの心電計をセットした。自動血圧計を動かしてから三分後の最初の血圧は、上が一二九、下が七一であり、一一歳の小児としては高かった。
有賀は、手術に先き立ち、看護婦に指示して前投薬アトロピン〇.五ミリグラムを筋注させ、電解質補液に止血剤トラメチン、副腎皮質ホルモン・グレイトンを混入して点滴を開始したのち、自ら紫野の左腋窩部位を消毒し、二〇cc入りの注射器二本にそれぞれ二〇cc注入した局所麻酔薬キシロカインE(前記のとおり、一〇万分の一のエピレナミンを含有する一パーセント液であり、以下同じ)を使用し、左腋窩に浸潤麻酔としてキシロカインEを一定量(少くとも一〇cc位)皮下注射し、次いで右麻酔の効力が効き始めた数分後、左腋窩神経に向かって伝達麻酔としてキシロカインEを一定量(少なくとも一〇cc位)注射し、その後、しばらく様子を見ていたところ、大声で泣いていた紫野が泣きやんだので麻酔の効能があったと判断したが、紫野の左手首付近をもって、「どうだまだ痛いか」と尋ねたところ、「うん」という返事があったので、まだ完全に麻酔が効いていないものと即断し、さらに左腋窩神経に向かって伝達麻酔としてキシロカインE一定量を注射し、このように僅か数分余りの間に三回に亘り局所麻酔薬キシロカインEを注射したもので、その使用量は三回合計で三〇ないし四〇ミリリットル(浸潤、伝達麻酔として少なくとも合計二五ないし三〇ミリリットルを施用したことは当事者間に争いがない。)であった。
有賀は、その後、完全に痛みが取れたと思われたので、左上腕神経叢に長針を二回刺して紫野に指先に痛みを感じるかどうか発問し除痛を確かめた。有賀が右局所麻酔注射前に酸素の投与などの抗ショック治療を行なったことはない。
診療録には「伝達麻酔一%キシロカイン三〇〜四〇ml」との記載があり、これによれば使用された局所麻酔薬は一見エピレナミンを含有しないキシロカインの如くであるが、開封され五〇㏄の残量のあるキシロカインE'入り薬壜一本が本件事故発生後まもなく警察に領置されていることや、キシロカインEと記した手術記録簿の存在等からすれば、前記診療録の記載は、エピレナミン混入の記述を脱落したものであって、使用された局所麻酔薬はキシロカインEであるといえる。
また、使用量について、有賀は、捜査段階において、二〇㏄入りの注射器二本に合計四〇㏄のキシロカインを注入したのは事実であるが、実際に使用したのは合計三〇である旨供述し、前記手術記録簿にはほぼその供述に副う記載がなされている。しかしながら、有賀の右供述内容は、仔細にみると、警察での取調段階と検察庁での取調段階では各麻酔方法の用量につきかなりの相違があり、変遷し、首尾一貫しておらず、また右手術記録簿中の該当箇所の記載はその体裁等からして追記したことが明らかであり、保険請求の点数のことを付記するのも極めて不自然でもある。診療録には実際に行なった医療内容を記述すべきが当然であり、医療事故発生の場合に医師の尽くした医療行為の内容等について重要な証拠になることが明らかである診療録上になされた前記の如き記載の存在に、注射器二本に合計四〇㏄が採取されたことは動かせない事実であることなどを総合考慮すれば、使用量は、診療録の前記記載どおり、合計三〇ないし四〇ミリリットルと認めるのが相当である。
7 キシロカイン(一般名塩酸リドカイン)は一九四八年にスウェーデンのアストラ社で開発されて以来、内外各国において、各種形式の局所麻酔剤に広く使用されている局所麻酔剤で、従来の局所麻酔薬に比べ作用発現が迅速、確実で持続時間も長く、血管収縮剤エピレナミン一〇万分の一を含有したキシロカイン一パーセント液(キシロカインE)の極量は通常成人に対して一回五〇ミリリットル、伝達麻酔の用量は通常成人に対して三ないし二〇ミリリットル、浸潤麻酔の用量は通常成人に対して二ないし四〇ミリリットルであるが、年齢、麻酔領域、部位、症状、体質により適宜増減して使用すべきものであり、これら極量、用量等は製造元製薬会社作成の使用説明書(効能書)に書かれており(右極量や使用説明書明記の点は当事者間に争いがない。)、有賀もこれらを知悉していた。
極量は、日本薬局方で定められた最大投与量で、通例、その量をこえては用いない大人に対する量であり、中毒量よりはかなり少なく、十分安全な程度で定められており、意識的にこれをこえる場合にはその旨を医師が処方せんに記号で明記する必要がある。極量は、体重五〇キログラムの成人を前提としており、体重がそれより軽い子供の場合には、体重に比例した数量とすることが医学上一般に承認されている。紫野の体重は、昭和六〇年四月八日の健康診断時が二九.六キログラム(身長は一.三六八メートル)、後記司法解剖時が三一.九キログラム(身長は一.四〇メートル)であるが、原告善子が手術前、有賀に対して三六キログラムと説明したことは前記のとおりである。
また、前記使用説明書には、浸潤、伝達麻酔使用上の一般的注意として、稀にショック様症状を起こすことがあるので、キシロカインEの使用に際しては常時直ちに救急処置のとれる準備が望ましいこと、キシロカインEの投与に際し、その副作用を完全に防止する方法はないが、ショック様症状をできるだけ避けるために、①患者の全身状態の観察を十分に行なう、②できるだけ薄い濃度のものを用いる、③できるだけ必要最少量にとどめることの諸点に留意することなどが、また、浸潤、伝達麻酔時の循環器、中枢神経系副作用として、次の(ア)、(イ)のような中毒症状を起こすことがあるので観察を十分に行ない、次のような処置をとること、すなわち(ア)血圧降下、顔面蒼白、脈拍の異常、呼吸抑制等の症状が現われた場合には、直ちに人工呼吸、酸素吸入、輸液、炭酸水素ナトリウム、昇圧剤の投与、適切な体位等、(イ)振戦、痙攣等の症状が現われた場合には、人工呼吸、酸素吸入等の処置とともにジアゼパム又は超短時間作用型バルビツール酸製剤(チオペンタールナトリウム等)の投与等、ということが明記されている。
8 有賀は、除痛確認後一五分位経ったのち、紫野の患部を消毒し、点滴していた側管から二〇㏄の蒸留水に溶かした鎮痛剤ソセゴン一五ミリグラム二アンプルを麻酔補助として静注(ソセゴンの静注は当事者間に争いがない。)して紫野の左手首骨折部分の橈骨寄りを縦に六センチメートル位皮膚切開して整復を始めた。
ソセゴン注射液一五ミリグラムは、一ミリリットルの一アンプル中に日局ペンタゾシン一五ミリグラムを含有する製剤で、鎮痛剤、麻酔前投薬及び麻酔補助に使用されるもので、ペンタゾシンの鎮痛効果は三〇ミリグラムを非経口投与したときはモルヒネ一〇ミリグラムにほぼ匹敵する効果があり、その使用説明書には、一日の極量は〇.一五グラム、鎮痛目的の場合の用量は成人一回一五ミリグラム、麻酔前投薬及び麻酔補助の場合の用量は成人一回三〇ないし六〇ミリグラムであること、副作用として稀にショック症状が現われることがあるので視察を十分に行ない、顔面蒼白、呼吸困難、チアノーゼ、血圧下降、頻脈、全身発赤等の症状が現われた場合には投与を中止し、適切な処置を行なうこと、時に血圧上昇、皮膚紅潮、全身熱感が現われることがあることなどが、幼・小児への投与として幼・小児への投与に関する安全性は確立されていないので投与しないことが望ましいことが明記されている。
9 整復を始めた有賀が紫野左手関節を操作していた午後六時過ぎ頃、突如、紫野に痙攣発作が起こり、両手足を引きつり、口から泡を出したりした。前記自動血圧計の始動時から三六分後のことで、その時の血圧は上が一九四、下が九三、脈拍は一分間一六〇で血圧が急激に上昇し、頻脈状態になった。そのため、有賀は、直ちに手術を中止し、看護婦に指示して即効性の筋弛緩剤サクシン(塩化スキサメトニウム)二〇ミリグラムを点滴の側管から静注させる一方、自ら人工呼吸器による気管内挿管をして酸素を供給したのち、一旦発作の収まった紫野の骨折の矯正を完了しないまま、切開箇所を縫合して副木を当て包帯を巻いた。
次いで、最初の痙攣発作から二〇分位経った頃、二度目の発作がきたので、有賀は、看護婦に指示してサクシン二〇ミリグラムを前同様の方法により静注させたところ、発作は一応収まったが、その後、さらに二〇分位経過した際、三度目の発作の兆候がみられたので、看護婦に指示してサクシン二〇ミリグラムを前同様の方法により静注させた。そのほか、発作が起こったときにサクシン二〇ミリグラムを二アンプル使用した。
紫野の父母である原告らは、午後七時過ぎ頃、看護婦に呼ばれて手術室に入った。原告らが見た紫野の発作は、顔面蒼白になって、顔その他の身体全体を痙攣させ、手足をバタバタとし手術台上でバウンドしているような非常に激しいものであった。
10 紫野の激しい全身痙攣は少なくとも二時間位断続的に続いたが、その後、次第に弱くなり、症状が落ち着き、午後一一時頃に有賀が人工呼吸器を自動から手動に切り換えたときからすべての体動はみられなくなり、自発呼吸するような状態になり、その頃から有賀は、筋弛緩剤の中和剤を間欠的に筋注したりした。こうした間、有賀は、鎮静・抗痙攣剤一〇パーセントフェノバール(パルビツール酸誘導体の長時間型催眠剤で、催眠量以下の投与でも抗痙攣作用がある。皮下又は筋肉に注射して使用され、静脈注射は禁忌とされている。)二アンプルを二回に分けて筋注したほか、血圧が高くなった時点にアポロプロン一アンプルを筋注し、熱が上がり気味のときに下熱剤タナミンを筋注し、点滴に脳賦活剤ルシドリール・シチコリン、副腎皮質ホルモン・クレイトン、抗生物質ダラシンを混入投与したりした。しかしながら、有賀は、前記キシロカインEの使用説明書が記していた即効性のある抗痙攣作用を有するジアゼパムの製品ホリゾン注射液を常備し、使用可能であったものの、ホリゾンを紫野に投与しなかった。
紫野の血圧は、キシロカインEの注射当初よりあまり下がらず、最初の発作時に前記のとおり急上昇したほか、その後も痙攣発作を起こしたのちはしばらくは急上昇し、上が二〇〇以上になったこともあるが、サクシンの注射がされたりすると多少下がったりし、発作時以外は概ね上が一〇〇ないし一二〇台で推移したが、その後、上が一〇〇以下になり、八〇台、七〇台へと低下していった。
有賀は、翌一六日午前零時頃、人工呼吸器をはずして酸素吸入だけにし、午前二時頃と三時頃の二回に亘り呼吸促進剤テラプチク一アンプルずつ筋注し、午前三時頃、気管内チューブを取りはずし、自発呼吸と酸素マスクを併用させた。有賀は、同日午前七時過ぎ、原告らの強い希望により紫野を転院させることにし、その後、各方面と連絡を取ったうえ、自らも救急車に同乗し、意識喪失状態にあった紫野に酸素吸入を続けながら、富士宮総合病院に移送した。前記自動血圧計の記録した最後の血圧は、上が七〇、下が三八であった。
11 局所麻酔薬中毒の原因、症状、治療方法、予防のあらましは請求の原因4に記載されたとおりであり、局所麻酔薬による急性中毒は、局所麻酔薬の血中濃度が高くなったために起こるもので、使用量と相関するというよりむしろ血中濃度と正の相関を示し、使用量が少くても、血管が豊富な部位での使用や直接血管内へ注入された場合などは早く中毒量に達する。
中毒の症状には、中枢神経症状と循環系症状とがあり、中枢神経症状は、初期にはその刺激症状であり、不安、精神的興奮、頭痛、耳鳴、めまい、ふるえなどが現われ、脳幹の刺激により、血圧上昇、過呼吸、頻脈などが起こるとの説明は、麻酔学に関する多数の教科書、論文に記述されているところであるが、局所麻酔薬中毒は、局所麻酔薬の血中濃度が異常に上昇した場合に発生するものであるから、その血中濃度の高低により、症状も様々であり、常に一定の症状を示すというものではない。すなわち、中毒症状発現の様式として、中毒量まで血中濃度が上昇したが、その程度が低く、不安、興奮、多弁などの軽度ないし初期の中毒症状を示しただけで回復するパターンもあれば、比較的急激に血中濃度が上昇したために軽度の症状を示すことなく突然に意識消失、痙攣などの重篤な症状を呈するパターンなどがあり、すべての局所麻酔薬中毒においてすべてが同じようなパターンで発生するものではなく、使用説明書に記載されている中毒の症状が必ず全部生じると決まっている訳ではなく、記載の順に出現するというものでもなく、一般に、医師にはこうしたことは理解がなされている。紫野には、不安、ふるえなどの前記初期症状がみられなかったが、血圧上昇、頻脈、顔面蒼白等の症状が現われたことは前記のとおりで、右初期症状がみられなかったのは、比較的急激に血中濃度が上昇したためか、使用された局所麻酔薬量が大量で徐々に吸収されたものの血中濃度が異常上昇したことによる。また、エピレナミンによっても、頻脈、不整脈、血圧上昇、多呼吸、不安頭痛、振戦などの症状を発現することがあり、医師には知られている。
12 精神安定剤ジアゼパムは、即効性の抗痙攣作用を有し、局所麻酔薬中毒の予防と治療に有効であることが広く承認されており、前記のとおりキシロカインEの使用説明書に痙攣が現われた場合の処置としてジアゼパムの投与が記載されているほか、麻酔に関する多数の医学書、論文に記述されており、証拠上、麻酔学上の異説は見当らない(乙第八号証の一の記述は、抗痙攣剤を投与してもその投与の効果が期待できない場合の処置についてのものと認められる。)。
有賀が常備していたホリゾン注射液は、一管一ミリリットル中五ミリグラムのジアゼパムを含有し、一般に成人には初回二ミリリットル(ジアゼパム一〇ミリグラム)を静脈又は筋肉内に緩徐に注射して使用し、静注可能である点が皮下又は筋注のみに限られるフェノバールと異なる主要な点であり、初回以後、必要に応じて三、四時間ごとに注射して使用するが、この程度の使用量では完全な心肺虚脱を起こす可能性は少ない。もっとも、副作用として、ときに呼吸抑制が現われたり、頻脈、血圧低下、循環性ショックなどが現われることがあるが、痙攣発作は中枢の一部の興奮状態であり、数分間のうちに抑えなければ脳に対する酸素供給不足によって致命的になる(全身痙攣は数分間のうちに抑えなければ酸素供給不足により致命的となるものであることは当事者間に争いがない。)ので、全身痙攣が発症した場合にはジアゼパム又はチオペンタールを投与して一刻も早く発作を抑えることが緊要であり、ホリゾンの投与により呼吸抑制が起これば人工呼吸を行ない、血圧低下があれば昇圧処置と救急蘇生法に順じた処置を行えばよい。要は、全身痙攣をいかに早く抑えるかが最優先されるべきものである。
13 有賀は、紫野の痙攣発作について、癲癇発作が急激にきたものか、又は骨折の合併症として脳の塞栓症、心臓の塞栓症が急激に起こったものと判断して前記各処置を行なった一方、ホリゾンを投与しなかったのは、ホリゾンが抗痙攣の即効性を有するのを承知していたものの、血圧の急上昇、頻脈状態になった紫野に投与すると心発作を起こす可能性があると考えたことによるものであったが、紫野が手術前に脳障害があれば生ずるはずの意識混濁を示したことはなく、また、紫野が頭部を打ったようなことは聞いておらず、頭部レントゲン撮影をしなかったことは前記のとおりであり、頭部外傷の既往歴のない症例に外傷性癲癇の起こることはほとんどありえないことであるし、さらに紫野の心臓に疾患があったこともなく、ホリゾンの副作用については前記のとおりであるが、全身痙攣で血圧上昇、頻脈になった患者に対するホリゾンの投与は禁忌であるとはされておらず、有賀の右判断はいずれも医学上の相当根拠に乏しいか、少くとも局所麻酔薬キシロカインEの局所麻酔薬中毒によるものであることを否定するに足りるものではなかった。
14 紫野は、前一六日午前八時三〇分頃、富士宮総合病院に到着し、直ちに処置室で、不整脈治療のため塩酸リドカイン三〇ミリグラムの静注を受けたほか、各種の蘇生措置を受けたが、意識を回復しないまま同日午前一〇時四〇分頃死亡した。
同病院入院当初の紫野の血圧は、上が六〇ないし七〇位の異常状態にあり、引き続いて呼吸停止、心停止が起こったもので、転院した時点ではすでに非可逆的な状態にあった。
同病院の佐藤晴彦医師は、同日付死亡診断書を作成し、その中で紫野の直接死因を急性心不全、その原因を外傷性ショックである旨記述したが、右外傷性ショックの記述は、紫野の死亡後まもなく有賀に紫野死亡の連絡をしたうえ、有賀との話合によりその意向を取り入れたものであった。
15 紫野の死体は、死亡翌日の一七日午後一時三〇分から司法解剖(鑑定)がなされ、その結果の概要は、骨折は左前腕尺骨橈骨の骨幹下端の非開放性骨折である、頭部外傷はなく脳に異常はない、心臓に異常はなく、特異体質を考慮させる所見もなく死因となるような病変疾患はない、心臓から採取した血液の塩酸リドカイン(キシロカイン)の血中濃度は二.〇mg/mlで、死因は紫野の痙攣症状やその発生時期等をも併せ考えると有賀が使用した多量の塩酸リドカインの血中移行によって生じた塩酸リドカイン中毒と認められるというものである。もっとも右司法解剖をした法医学教授浅野稔は、有賀の使用した局所麻酔薬をエピレナミンを含有しないキロシカインであると理解していたが、この点は右解剖結果に影響を及ぼすものとはいえないし、また富士宮総合病院で静注された塩酸リドカイン三〇ミリグラムのことを見落していたが、右は少量で紫野の生存中にほとんど消費されたと考えられるもので、紫野の転帰とは関係がなく、右解剖結果に影響を及ぼすものではない。
塩酸リドカインの血中治療濃度範囲は一般に一.二ないし五.〇mg/mlとされ、中毒濃度は六mg/ml以上とされている。有賀により浸潤、伝達麻酔として使用された塩酸リドカインは、ある量血中に移行したものであるが、塩酸リドカインの血中からの消失は相当に速く、消失期は一.五ないし二時間(平均一.八時間)とされている。紫野の血中濃度は二.〇mg/mlであるが、使用後死亡までに一七時間位が経過している(死亡後は血中濃度にさほどの変化を生じない。)。したがって、使用後まもなくその数倍の最高濃度に達したものと考えられるものである。併用されたソセゴン自体の投与でも痙攣を起こす可能性があることは前記のとおりであり、ソセゴンの投与が紫野の痙攣発作の症状の発現、増悪に関与した可能性もある(右鑑定結果は、この点まで否定するものとは解されない。)。紫野の痙攣発作はいわゆるアナフィラキシーショックによるものではない。
以上の事実が認められ、<証拠>中右認定に反する供述記載部分は前掲各証拠に照らし措信し難く、<証拠>は右認定に反するものではなく、他に右認定を左右すべき証拠はない。
三責任原因
1 注意義務
有賀には、人の生命及び健康を管理する医療行為に携わる医師として、その行為の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意を尽くす注意義務のあることは原告ら主張(請求の原因5(一)(1))のとおりであり(実験上必要との点を除いて当事者間に争いがない。)、局所麻酔薬の使用、急性中毒を生じた場合の対応及び局所麻酔薬を使用する手術の要否についての原告らの主張(同(一)(2))は当事者間に争いがない。
2 観血的手術の選択について
原告らは、本件は小児骨折で手術の適応のない場合にあたるから、手術を選択した有賀に注意義務の違反がある旨主張する。
確かに、小児骨折においては非観血的治療が原則であることは当事者間に争いがなく、前記二認定の小児骨折の特質等にかんがみれば首肯できるところであり、そうして、前記二認定事実によれば、紫野の骨折は非開放性のもので、骨折した左橈骨尺骨がずれ、横転位があったが、被告ら主張のように四、五センチメートルほども重なっていなかったものであると認められ、脂肪塞栓の予防のために手術が必要であったとの医学上の根拠も必ずしも十分ではない。しかしながら、医師の治療は、その性質上、相当高度な専門的知識と技術を必要とし、迅速な判断を求められることも少なくないものであるから、治療目的実現のため、診療時において一般的に是認された医学上の原則に拠った合理的な判断にしたがい適正とみられる治療をしたときには、当該症例について、右原則から著しく逸脱していると認められる場合でない限り、その裁量の範囲内に属するものであるというべきであるところ、前記二認定の本件は左前腕橈骨尺骨の二本が骨端において完全骨折したもので、骨端骨折には速やかな整復が求められること、骨折した二本とも数ミリ程度とはいえ横転位を生じ、紫野が激しい疼痛を訴えていたこと、紫野は幼児ではなく、骨折転位の自然矯正を期待しうる年齢上限に近い年齢であったことや有賀が原告善子にレントゲン写真を示して骨折状態を説明し、同原告の手術承諾を得たことなどの諸事実によれば、手術には麻酔を伴うものであり、レントゲン撮影が正面方向からのみしかなされていないことなどを考えたとしても、有賀が前記二認定のような判断で観血的手術を選択したことが小児骨折の治療に関する臨床医学上の原則から著しく逸脱したものであるとまでは直ちに断定することはできず、他に右逸脱の事実を認めるに足りる証拠はない。
それゆえ、原告らの前記主張は採用することができないというべきである。
3 局所麻酔薬の投与量等について
局所麻酔薬の使用は前叙のように時に重大な危険性を有しているものであるから、その使用にあたっては一般に細心の注意が求められることは当然であり、局所麻酔薬の極量は局所麻酔薬の血中濃度の上昇による急性中毒を防止するために定められているものと解されるので特別の医学上の必要のない限り、極量をこえて使用すべきでないことはもとより、キシロカインEの前記使用説明書にも明記されているように具体的な症例に対する使用量については年齢、麻酔領域、部位、組織、症状、体質により適宜増減し、できるだけショック様症を避けるためにできるだけ必要最少量にとどめて使用することなどが求められるというべきである。しかるところ、有賀は、前記二認定事実によれば、一一歳の女児である紫野の左前腕骨骨折治療のための局所麻酔に、浸潤、伝達麻酔として僅か数分間余りの間に三回に亘り、成人一回に対する極量から原告善子の述べた紫野の体重三六キログラムを基準に換算して得られる極量を幾分上回るか、又はこれを多少下回るだけで極量に近接した三〇ないし四〇ミリリットルのキシロカインEを注射したが、手術室に入ったのちの紫野の血圧は年齢にしては高く、麻酔前に大声を出して泣くこともあり、精神的な不安定状態を示していたのに格別の考慮を払わず、キシロカインE(塩酸リドカイン)は作用発現が迅速確実で持続時間も比較的長い特徴を有するのに、二回目の注射後、左手首付近をもって「どうだ痛いか」と尋ねただけで追加麻酔の必要があると即断して三回目の注射に及んだものであり、また手術前に鎮痛剤ソセゴン一五ミリグラムを除痛のため筋注し、キシロカインEの投与直後、麻酔補助のためソセゴン一五ミリグラム二アンプルを静注したが、右ソセゴンはそれ自体がショック症状を起こすことがあるとされている医薬品であるばかりでなく、幼・小児に対する投与の安全性が確立されていないので投与しないことが望ましいとされているもので、しかも右投与量は通常成人に対する用量と同量の多量に達し、こうした局所麻酔薬等の使用により、特異体質や死因となるような病変疾患のない紫野に比較的急速で重篤な局所麻酔薬中毒を生ぜしめたもので、ソセゴンの使用も症状の発現、増悪に関与した可能性もあることなどが認められるものであって、こうしたソセゴンの不相当、過剰投与に、キシロカインEの大量かつ一括的な投与事実等によれば、たとえキシロカインEの使用量が三〇ミリリットルにとどまるものであるとしても、有賀のしたキシロカインEの投与量は必要最少量を著しくこえたものであると認められる。そうして、有賀が局所麻酔薬を使用した場合の危険の予見可能性があったことは当事者間に争いがないから、有賀の局所麻酔施術には医師として課せられた注意義務の違反があったものというべきである。
4 全身痙攣発症後の処置について
局所麻酔薬による副作用は不可避的に起こる場合もあり、医療行為に携わる医師は、局所麻酔薬を使用する場合には、副作用の発現に備え事前に静脈の確保その他救急処置のとれる準備をなすべきはもとより、局所麻酔薬の使用が原因で全身痙攣が発症する場合もあるが、全身痙攣は数分間のうちに抑えなければ脳に対する酸素供給不足により致命的になるものである(この後段の点は当事者間に争いがない。)から全身痙攣が起こったときの処置、手技についての知識、方法等も診療時の一般臨床医の水準として確立されたものについてはこれを身につけておくべき義務があるものというべきである。しかるところ、紫野の全身痙攣の原因は有賀の使用したキシロカインE(塩酸リドカイン)中毒によるもので、特異体質や外傷性癲癇、脂肪塞栓などが原因ではなく、心疾患もなく、しかも小児における脂肪塞栓の合併や頭部外傷の既往歴のない症例に外傷性癲癇が起こることはほとんどありえないことや紫野の場合は軽症例ではなく比較的急激な重篤例であるが、重篤例としては多数の麻酔学教科書等に記述されているような典型的な症状経過を示したものであったことなどの前記二認定の諸事実によれば、医師である有賀には紫野の全身痙攣の原因がキシロカインEの中毒によるものであることは容易に認識することができたものであると認めることができ、また、痙攣が起こった場合には人工呼吸等の処置に並んで即効性のある抗痙攣剤ジアゼパムを投与すべきであることはキシロカインEの使用説明書に明記されるなどして広く知られていたことやジアゼパムは心不全に対して禁忌とされていないことなどの前記二認定の諸事実によれば、フェノバールの投与では不十分であり、有賀はホリゾンを投与すべきであったと認められるから、ホリゾンを投与しなかった有賀には、全身痙攣に対する診断ないし処置を誤った過失があるものと認められる。
5 因果関係
前記二認定事実に右1、3、4に説示したところによれば、有賀の過失と紫野の死亡との間には相当因果関係があるものと認められ、右認定に反する証拠はない。
したがって、有賀は、紫野の死亡による損害について、債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償責任を負うに至ったものというべきである。
四損害
1 紫野の逸失利益
紫野が死亡当時小学校五年生一一歳の女児であったことは当事者間に争いがなく、原告ら各本人尋問の結果によれば、紫野は生前は健康な子であったことが認められるから、一八歳から六七歳までの四九年間就労が可能であり、その間に成立に争いのない甲第二七号証によれば、賃金センサス昭和六〇年第一巻第一表の産業計、企業規模計、学歴計の女子労働者全年齢平均給与額二三〇万八九〇〇円と同額(これに家事労働相当額を加算するのは相当でない。)の年間収入を取得しえ、収入の三割にあたる生活費を要すると推認され、ライプニッツ式計算法(ライプニッツ係数一二・九一二二)により中間利息を控除して紫野の逸失利益を計算すると、金二〇八六万九〇八五円となる。
2 紫野の葬儀費用
紫野の死亡時の年齢その他本件に顕われた諸般の事情によれば、損害賠償請求しうる紫野の葬儀費用としては金七〇万円と認めるのが相当である。
3 紫野の慰謝料
紫野の死亡時の年齢、本件医療過誤の態様その他本件に顕われた諸般の事情を総合考慮すれば、本件事故により紫野が蒙った慰謝料としては金一二〇〇万円をもって相当と認める。
4 原告らの相続
請求の原因6(四)の事実は当事者間に争いがないので右1ないし3の合計金三三五六万九〇八五円の損害賠償債権につき、原告らは、紫野の死亡により法定相続分(各二分の一)にしたがい各金一六七八万四五四二円ずつ相続したものというべきである。
5 原告ら固有の慰謝料
本件医療過誤の態様、原告らと紫野との身分関係その他本件に顕われた諸般の事情を総合考慮すれば、本件事故により原告らが蒙った慰謝料としてはそれぞれ金一五〇万円をもって相当と認める。
6 弁護士費用
原告らが原告訴訟代理人弁護士に委任して本件訴訟を提起追行していることは本件記録上明らかであるところ、本件事案の内容、訴訟の経過、認容額等に照らすと、原告らが賠償請求しうる弁護士費用はそれぞれ金一八〇万円をもって相当と認める。
(以上合計 原告ら各金二〇〇八万四五四二円)
7 被告らの相続
請求の原因7の事実は当事者間に争いがない。
したがって、被告らは有賀の相続人として、原告らそれぞれに対し、被告郁子は前記二〇〇八万四五四二円の二分の一である金一〇〇四万二二七一円、被告文弘及び同文久は前記二〇〇八万四五四二円の各四分の一である各金五〇二万一一三五円(一円未満切捨)並びに右各金員に対する損害発生後である昭和六〇年六月一六日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるというべきである。
五結び
以上のとおり、原告らの本訴請求はそれぞれ右金員の支払を求める限度において理由があるからこれを認容するが、それをこえる部分は失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官榎本克巳)