静岡地方裁判所沼津支部 平成11年(ワ)30号 判決 2001年10月03日
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1本件請求
1 被告は,原告らに対し,各金3219万4855円及びこれに対する平成11年2月7日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
第2事案の概要等
1 事案の概要
本件は,胃内視鏡検査の際,検査前投薬としてオピスタン,ブスコパンの静脈注射を受けた患者が,同注射直後に薬剤アナフィラキシーショックとなり,その3日後,意識の回復を見ないまま低酸素脳症により死亡したことについて,ショックが予見可能であったから同投薬自体が禁忌であり,しかも,ショック発症後の蘇生処置にも過誤があった等として,患者の相続人である原告らが,同投薬を行った医師である被告に対し,診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償として計6438万9710円の支払を求めている事案である
2 次の事実は,当事者間に争いがないか,後掲の証拠によって認められる。
(1) 原告Aは,亡B(昭和26年8月14日生れ。)の夫であり,原告Cは,Bの子である。Bの相続人は,原告らのみである。(証拠略)
被告は,静岡県三島市a町b丁目c番d号e所在のD胃腸科医院(本件医院という。)を開設している医師である。
(2) Bは,平成5年5月21日,上腹部痛,嘔吐のため,本件医院で初診を受け,被告との間で診療契約を締結した。そして,Bは,同日,同年6月7日及び平成6年11月17日の計3回にわたり,同医院において,胃内視鏡検査を受検した。
(3) Bは,平成7年3月29日午前11時ころ,本件医院において,4回目の胃内視鏡検査(本件内視鏡検査という。)の前投薬であるオピスタン及びブスコパンの静脈注射を受けたところ,その直後から血圧が低下し,ショック状態となり,救急車で社会保険三島病院(三島病院という。)へ搬送された。
Bは,同病院到着時には意識不明,心肺停止の状態となり,同病院で蘇生処置を受けて心拍が一旦回復したが,薬剤アナフィラキシーショックの疑いと診断され,対ショック治療として種々の全身管理を受けても意識が改善せず,その後循環動態が悪化し,再び心停止となり,同年4月1日午後9時22分,死亡した。同病院医師は,Bの死因について,薬剤アナフィラキシーショックに起因する低酸素脳症と診断した。(証拠略)
3 争点及びこれに関する当事者の主張
(1) Bには,ブスコパン,オピスタンに対する過敏症の既往歴,徴候があったか。また,同薬剤の投与方法に過誤があったか。
(原告らの主張)
ア 被告は,Bに対する胃内視鏡検査を一定期間をおいて複数回行い,そのたびにオピスタン,ブスコパンを投与していたところ,平成6年11月17日の胃内視鏡検査(第3回内視鏡検査という。)の際,ブスコパン,オピスタンの投与を受けたBが気分不快を訴えたため,同内視鏡検査を中断し,約1時間休憩させた上,前回の内視鏡検査から1年5か月経過している場合には当然行うべき生検組織採取及び病理組織診を実施しなかったことがあった。また,被告は,第3回内視鏡検査の際には少なくともブスコパンについては全量投与していたにもかかわらず,本件内視鏡検査の際には同薬剤につき1/2量に止めた。
そうだとすれば,被告は,遅くとも本件内視鏡検査の際には,Bがブスコパン,オピスタンについて過敏症の既往歴ないし徴候が見られる禁忌者であることを知っていた,あるいは知り得たということができる。
イ オピスタンは,抗コリン剤と併用すると呼吸循環不全等の副作用が増強されるので,抗コリン剤であるブスコパンと併用して投与しないことが望ましいとされ,しかも,医学文献には併用使用を行う際にはパルスオキシメーターを使用して被検者の酸素飽和濃度のモニタリングを行うこと,救急医薬品の準備,蘇生術の習得が望ましいと注記されるなど,併用使用自体は相当危険性が高かった。しかるに,被告は,Bに対する本件内視鏡検査において,上記注意事項をいずれも遵守しないままこれを併用した。
現に,被告は,本件事故以降,ブスコパンの代わりにセスデンを使用し,上記両剤の併用使用を避けている。
ウ ブスコパン,オピスタンは,急速に注射した場合,呼吸抑制,血圧降下等の症状を引き起こす可能性があるから,静脈注射には1分以上かけるべきであったにもかかわらず,被告は,本件内視鏡検査の際,ごく短時間で行った。
(被告の主張)
ア Bにはブスコパン及びオピスタンの投与により,発疹や掻痒感を呈した既往歴がない。Bが第3回内視鏡検査の際,気分不快になったとの原告らの主張は争うが,仮にそのような事実があったとしてもこれは上記両剤の副作用(治療目的に有用でない作用)の発症に過ぎず,Bが同薬剤に対して過敏症であり,投与禁忌者であるとはいえない。
被告は,Bの診療過程で通常行うべき診療を行った結果,過敏症その他の禁忌症状の存在を知り得なかった。
さらに,被告は,同内視鏡検査及び本件内視鏡検査において,オピスタンだけでなく,ブスコパンの使用量も1/2としたが,これはBの胃潰瘍による痛みの症状が軽減していたためであるから,本件内視鏡検査の際,同人が同薬剤に対する過敏症であることを被告が知っていたというわけではない。
イ 現在までにブスコパンとオピスタンの併用により危険性が高まるとの報告はない。オピスタンにつき,抗コリン剤との併用注意の記載があるのは,麻痺性イレウスに至る重篤な便秘又は尿貯留が起こるためであって,ショックの危険性が高まるためではない。内視鏡に関し先端的な医療を行っている東京慈恵会医科大学においても,内視鏡検査の前投薬として上記両剤の静脈投与がされている。
パルスオキシメーターによるモニタリングは,決して医師の注意深いバイタルチェックに代わるものではなく,本件内視鏡検査当時,学会でも同モニタリングの有用性につき結論が出ていなかったところ,本件内視鏡検査において同薬薬を併用使用するに当たり,同モニタリングを行うべきことは一般的とはなっていなかった。
また,セスデンも抗コリン剤であり,薬理作用,注意事項はブスコパンと変わらない。
ウ 被告は,本件内視鏡検査の際,オピスタンを20mlのブドウ糖注射に希釈して静脈注射しており,投与方法の緩徐に関わらず,適切であった。なお,被告は,Bに対する胃内視鏡検査実施の際は,いずれも1分間以上かけてゆっくり静脈注射した。
(2) Bがショック症状を発症した後の被告の対処に過誤があったか。
(原告らの主張)
オピスタン,ブスコパンとも呼吸抑制,血圧低下等のショック症状を起こす可能性が知られている薬剤であるから,被告は,Bがショックを起こし,自発呼吸が停止した場合に備えて強制的に肺に酸素を供給するため,レスピレーター等の人工呼吸器を準備しておくべき義務があった。しかるに,被告はこれを怠り,上記機器を準備しなかったため,自発呼吸が止まり,緊急状態となったBに対し,適切な事後処置を執ることができなかった。
また,リンデロンのような高い抗ショック作用を有する薬剤を投与すべきところ,平成7年3月29日欄のBのカルテの記載によれば,リンデロンは横線で消されており,被告は,同日,Bのショック症状への対処として同薬剤を使用しなかった。さらに,被告としては,本件医院看護婦に対し,ショック症状に対する救急治療を習得させるべき義務があったところ,本件内視鏡検査当時,本件医院看護婦Fに対し,同救急治療の教育を受けさせなかった。
(被告の主張)
オピスタン,ブスコパンによるショック症例は,過去,前者が1例,後者が5例報告されたに過ぎず,頻度は極めて少ない。
被告は,本件内視鏡検査当日,Bに対し,偶発症に対する処置のため,テオカルジン,ヌトラーゼ,ロルファン,ノルアドレナリンのほかリンデロンを施用し,他の薬剤も多数用意していた。また,被告及び本件医院看護婦らは,いずれも救急蘇生術を習得しており,現に同日,Bに対して実施した。
さらに,被告は,同内視鏡検査に際し,人工呼吸器として,アンビューパック及び付属器一式を準備していたが,Bに自発呼吸,心拍があったため,その使用の必要はなく,そのまま酸素投与を行ったのであり,レスピレーターの設置が必須であったとはいえない。
(3) オピスタン,ブスコパン投与に関する被告のBに対する説明は不適切であったか。
(原告らの主張)
Bは,第3回内視鏡検査の際に気分が悪くなったことがあったため,本件内視鏡検査当日に同内視鏡検査の受検を嫌がっていたのであるから,被告は,医師として上記の気分不快の原因を究明し,Bに対し,オピスタン,ブスコパン投与の副作用について説明するべき義務があるところ,これを怠り,その副作用について説明しないまま同薬剤を投与した。
この点,被告は,同薬剤の注射時に説明したと主張するが,注射を目前にして副作用の重大性を具体的に説明することは時間的に困難である。また,本来説明が尽くされ,承諾した後に内視鏡台に乗り,注射を受けるべきところ,注射を目前にした時点に至って説明しても,被検者としては注射及び検査を断りにくいのが通常である。さらに,患者としては,信頼する医師が注射器に薬品を充填したのをみれば,薬品や医師の手間を無駄にしたくないという心情から注射及び検査を断りにくい。よって,Bは,注射時には,諾否を任意かつ自由に判断できる状況にはなく,被告から同時点での何らかの説明があったとしても,上記説明義務を尽くしたとは到底いえない。
(被告の主張)
医師が患者に薬剤を使用する際,その能書に記載されている副作用等の情報をすべて説明しなければならないという義務はない。殊にオピスタン,ブスコパンについてはショック発症の頻度が極めて少ない。他方,内視鏡検査は,患者に緊張ないし精神的負担をもたらし,過度の緊張は循環系への影響を及ぼすことから,安全な検査であることを説明することが望ましく,原告の主張は医療の実態に反するというべきである。なお,Bが胃内視鏡検査を受けるのは4度目であり,同人はそのたび被告から説明を受けている上,本件医院においては,待合室に内視鏡検査の手順,使用薬剤の能書を置いて,患者がいつでも閲覧できるようにしてある。
(4) ベノキシールビスカスの使用は禁忌であったか。
(原告らの主張)
仮にBに発生したショック症状が,オピスタン,ブスコパンによる薬剤ショックでなかったとしても,本件内視鏡検査当日使用したベノキシールビスカスもその使用によりショックを起こす可能性を有する薬剤であるから,過敏症の有無等につき事前に問診し,投与の際には十分に観察しながら行い,ショック等が起きた場合には直ちにショック状態を除去する措置を執るべきであるが,被告はそうした配慮を怠った。
(被告の主張)
ベノキシールビスカスにつき,じんま疹,浮腫といった過敏症の既往歴はなく,本件内視鏡検査当日も同症状は現れていない。同薬剤の使用量は15mgであって,能書に指示された用量(12ないし30mg)の範囲内である。被告は,Bのショック症状発症後,ショック状態除去のために執りうる措置をすべて執った。
(5) 原告らの損害
(原告らの主張)
ア 治療費 金3万4660円
イ 葬儀費用 金147万9384円
ウ 墓地永代使用料・墓石代 金215万円
エ 逸失利益 金3292万5667円
Bは,死亡前年の平成6年に321万6648円の給与所得があったが,このほか家事一切を担う主婦であったから,高校卒業満43歳の平成7年平均賃金である340万8800円をもとにし,生活費控除3割として,ライプニッツ方式で中間利息を控除した金額である。
オ 慰謝料 金2200万円
Bは,平成7年に一人息子である原告Cが成人し,親としての責任も果たし,これから原告Aとともに自分の人生を楽しもうとする矢先,しかも当時43歳の人生の半ばを過ぎたばかりで突然生命を断たれたのであり,その無念さは察するにあまりある。
カ 弁護士費用 金580万円
アないしオの合計の1割に相当する金額である。
原告らは,アないしカの損害につき,各自2分の1ずつ相続した。
(被告の主張)
原告らの主張は争う。
第3争点に対する判断
1 診療経過
前記第2の2の各事実,書証番号省略(三島病院入院診療録,三島病院外来診療録,本件医院診療録,本件医院麻薬使用簿等),証人E,同F,同G,同Hの各証言,被告本人の供述に後掲の証拠を総合すると,次のとおり認められる。
(1) 平成5年5月21日の受診と第1回内視鏡検査
Bは,約2週間前からの上腹部痛,嘔吐の主訴で,予約なしに本件医院を初めて訪れた。同人は,問診の際,被告に対し,既往歴として,昭和61年に胃潰瘍に罹患したこと,平成4年3月には,同疾患により池田病院において入院加療を受け,その後一般検診を受けていることを申告した。被告は,腹部触診し,胃潰瘍の疑いがあると診断し,即時緊急内視鏡検査を実施することとした。(証拠略)
被告は,同内視鏡検査の実施に先立ち,Bに対し,①胃潰瘍,胃ガンの早期発見,確実な診断のためには内視鏡検査が必要であること,②咽頭,食道,胃は食物が通過する箇所であるから,カメラの嚥下に本来危険はないこと,ただ,③嚥下を容易にするため咽頭の局所麻酔が必要であり,局所麻酔剤によるショックの予防,予知のためテストが必要であることを説明したところ,Bは実施に同意した。
そこで,被告は,Bに対し,胃潰瘍症状改善のため,まず点滴を行うこととし,5%グルコース(ブドウ糖)100mlにガスター(上部消化管出血抑制剤),ソルコセリル(粘膜の抵抗性を高める胃・十二指腸潰瘍の症状改善剤),ビタミンB1,ビタミンCを混合して点滴した。同点滴の際,本件医院看護婦は,Bに対し,胃カメラの診断範囲,局所麻酔薬の必要性,同薬剤の副作用とテストの必要性といった説明事項を記載した文書,及び局所麻酔剤として使用する各薬剤の能書を一つのファイルにしたものを手渡して読むように指示し,テスト液である微量のベノキシールビスカス(口腔・咽喉・食道用粘骨性表面麻酔剤)とガスコンドロップ(胃内有泡性粘液除去剤)を約10mlの水溶液として飲用させ,喉の反射の強弱を確認し,点滴による安静の後,外観上異常所見が認められなかったことから,特に血圧,脈拍の測定を行わないまま胃腸内視鏡検査を実施することとした。そして,上記点滴には計約1時間を要するところ,被告は,同点滴の終了間際に,ベノキシールビスカス5mlを咽頭に塗布し,20%グルコース20mlにブスコパン20㎎1A,オピスタン35㎎1Aを混合し,上記点滴液に追加して投与した。その際,被告は,上記ブスコパン,オピスタンが喉の痙れんを抑え,痛みを鎮めるために必要だと説明し,副作用がある薬剤であるから何かあったら申告するようにと申し添えたが,Bはこれに異議を唱えなかった。上記点滴終了後,被告は,Bに内視鏡を嚥下させ,内視鏡所見で胃角部にUL4の深い巨大潰瘍を認めたので,内視鏡先端部から病巣部の組織を一部採取した。(証拠略)
被告は,Bに対し,本件医院への入院を勧めたが,同人が通院治療を強く希望したので,以後毎日通院することを指示した上,8週間の投薬予定で通院治療を行なうこととし,胃潰瘍治療薬等を処方した。(証拠略)
上記検査で採取した病巣部組織については,同月26日,組織科学研究所から,①病理組織学的診断として,活動期の胃潰瘍でグループⅡに属すること,②所見として,組織Ⅰは壊死組織であり,組織Ⅱは再生上皮であるが,いずれも悪性ではないとの病理組織学的検査報告を得た。
(2) 平成5年5月22日から平成6年11月16日までの治療等の状況と第2回内視鏡検査
被告は,平成5年5月22日から同年6月18日までの間,Bに対し,胃潰瘍の症状改善のため,ほぼ毎日,症状改善剤等の点滴と内服薬の処方を続けた。同月7日,同日までに上腹部の痛みは消失していたが,下痢症状があったため,胃潰瘍症状の改善のため,5%グルコース100mlにブスコパン20mg1Aほかの薬剤を混合して点滴した上,経過観察の目的で2回目の胃腸内視鏡検査を実施することとした。その際,ベノキシールビスカス,ガスコンドロップのテスト溶液を飲用させ,約30分安静にさせ,反射の強弱及び異常がないことを確認した。被告は,カメラ室にBを移すと,血圧,脈拍の測定を行わないまま,ベノキシールビスカス5mlを咽頭に塗布し,検査前投与として20%グルコース20mlにブスコパン20㎎1A,オピスタン35㎎1Aを混合して静脈注射した。同内視鏡所見では,第1回内視鏡検査時に比して潰瘍はやや縮小し,治療効果が認められたが,なお大きな潰瘍が認められ,病巣部組織を一部採取したが,病理組織学的検査は行わなかった。そして,同内視鏡検査終了後,胃潰瘍症状改善剤が静脈注射により投与された。(証拠略)
同月18日の胃潰瘍症状改善剤点滴が終わると,被告は,Bを問診の上,上記治療予定期間満了前の同年7月14日に3回目の内視鏡検査及び血液検査一般を受検できるよう予約を取ったが,同日,Bは通院しなかった。
Bは,その後平成6年7月までの1年間,被告から2週間毎に通院するよう指示され,通院毎2週間分の内服薬の処方を受けていたが,ほぼ月1回の頻度で本件医院に通院したにとどまった。
そして,Bは,平成6年8月4日,上腹部痛を訴えて本件医院に通院した。被告は,問診の際,Bから体重が49ないし50㎏と減少し,一般検診で貧血を指摘されたとの申告があったので,胃潰瘍の再発の疑いがあると判断し,X線による胃部造影剤使用透視診断を実施することとし,それに先立ち,ブスコパン20mg1Aを皮下注射し,ガスコンドロップ15mlを投与した。同診断の結果,胃角部にUL3~4に該当する巨大潰瘍を認めた。そのため,Bは,同日から同月22日まで,再びほぼ毎日胃潰瘍症状改善剤の点滴を受け,同日から同年10月7日まで,ほぼ毎日胃潰瘍症状改善剤の静脈注射を受けるとともに,内服薬の処方も受けた。そのころ,被告は,Bに対し,経過観察と悪性所見出現の恐れがあったため,同年11月17日に3回目の内視鏡検査を実施することを指示した。(証拠略)
(3) 平成6年11月17日から平成7年3月7日までの治療等の状況と第3回内視鏡検査
被告は,平成6年11月17日,第3回の胃内視鏡検査を実施した。被告は,第2回までと異なり胃症状改善のための点滴を行わず,検査1時間前にベノキシールビスカス,ガスコンドロップをテストのため飲用させ,異常がないことを確認した後,検査前投与としてベノキシールビスカス5mlを咽頭に塗布し,20%グルコース20mlにブスコパン20㎎1A,オピスタン35㎎1/2Aを混合して静脈注射した。その際,F看護婦は,Bの血圧心拍を測定し,血圧は110/67,心拍数は53/分であったので,カルテにその旨記載した。
同内視鏡所見では,胃角部にHⅡステージの潰瘍を認めたが,被告は,一見して良性の潰瘍であると判断したため,生検組織採取及び病理組織診断は行わなかった。
Bは,同内視鏡検査終了後,気分が悪くなったので,本件医院で約1時間休憩してから帰宅した。その途上,Bは,目が窪んで寝起きのような状態になっていたが,同日も,同人が本件医院への通院の度に訪れていた静岡県三島市a町b-f-g所在のブティック「サロンド・アイ」に立ち寄り,同店経営のIに対し,胃カメラの検査で気分が悪くなり,約1時間本件医院で横になってきたことや後日再度検査をする必要がある旨を話し,コーヒーを飲んで帰宅した。(証拠略)
Bは,同月25日,胃潰瘍症状改善剤の静脈注射を受け,その後も平成7年1月10日,同年2月10日にそれぞれ2週間分の胃潰瘍症状改善剤等の処方を受けた。
(4) 平成7年3月8日から同月22日までの治療等の状況
Bは,同月8日,激しい上腹部痛を訴えて来院したので,被告は,胃潰瘍再発の疑いが濃厚と診て,5%グルコース100mlにガスター20㎎1A,ソリコセリル1Aを混合して点滴し,悪性所見出現のおそれがあったため,翌日内視鏡検査を受けるよう説得したが,勤務の都合で同月29日迄できないという回答であったので,同月29日に検査の予約を入れ,同日午前9時に来院するよう指示した上,胃潰瘍症状改善剤等14日分を処方した。(証拠略)
同月22日,Bから本件医院に内服薬が無くなるので処方して欲しいとの電話があり,被告はこれを準備したが,Bは取りに来なかった。
(5) 平成7年3月29日(本件当日-本件医院)の状況
Bは,同日午前9時を過ぎても本件医院に来院せず,この間に午前11時実施予定の患者が早めに来院した。F看護婦は,Bに電話をかけたところ,起床したばかりとのことだったので,検査の順番を変更することとし,同人にゆっくり来院するよう伝え,午前11時開始予定の患者の内視鏡検査を時間を早めて終えた。Bは,午前10時ころ,本件医院に到着した。
被告は,Bに対し,前回までの検査と同様,微量のベノキシールビスカスとガスコンドロップ他を約10mlの水溶液としてテストのため飲用させ,待合室で約1時間安静にさせた。被告が,午前11時,Bを内視鏡台に寝かせた上,血圧・脈拍をとりながら身体の一般状態を問診したところ,血圧は79/46,心拍数は57/分との測定結果であった。被告は,同血圧値について,やや平常より低めであると感じたが,Bは,同日を外すと仕事の休みが取れないとのことであり,また,同人の外観上の所見からはBの具合が悪そうには見えなかった上,同人から勤務先会社の検診で貧血(Cレベル)があると言われたが今は気分が良いとの申告を受けたため,カルテに上記血圧値を記載した際,その末尾に疑問符を付した。そこで,被告は,Bの上記血圧測定値をふまえても,本件内視鏡検査施行に支障がないと判断し,ベノキシールテストが済んでいることを確認した上,咽頭にベノキシールビスカス5mlを塗布し,続いて20%グルコース20mlにブスコパン20㎎1A及びオピスタン35㎎1Aを混合した溶液の半量を1分間以上かけて静脈注射した。なお,被告は,同薬剤の残りの半量を破棄した。しかしながら,同注射を終了して20ないし30秒後,被告が,口内に内視鏡を入れようとしたとき,Bは,「手足がしびれるようで何だか変だ。」と言いながら胸を掻きむしりだし,「トイレに行きたい。」と言って起き上がろうとした。被告が診ると,Bの顔色が変わり,耳が紫色になり,チアノーゼが出ていたので,起きてはいけないと告げて上体を押して寝かせ,看護婦に血圧を測定するように命じ,被告は先ず脈拍を診た。すると,血圧の低下が認められ,脈拍は触れるが次第に弱く,呼吸も弱くなってきたので,被告は,Bにショックが起きたと考えた。そこで,被告は,マスクにより酸素ボンベの酸素を吸入させ,Bの静脈を確保し,5%グルコース100ml+テオカルジンM(ジプロフィリン,心不全・喘息治療剤)2ml1A+ヌトラーゼ(コカルボキシラーゼ,心筋代謝障害を改善し,虚血性心疾患患者の心電図所見を改善する効果をもたらす補酵素型ビタミンB1)1ml+ロルファン(酒石酸レバロルファン,麻薬の呼吸抑制作用を速やかに消失させることができる麻薬拮抗薬)0.3ml+ノルアドレナリン(ノルエピネフリン,各種ショック時の補助治療に用いる血圧上昇剤)0.1%0.2ml+リンデロン(リン酸ベタメタゾンナトリウム,糖質副腎皮質ホルモン)4㎎1Aを混合した点滴を行なうよう指示し,同各薬剤を混合した点滴を行った。さらに,被告は,ノルアドレナリン0.1%0.2ml,ロルファン0.3mlの皮下注射を行なった。被告は,同皮下注射を行なってから三島病院内科のH医師にBの症状を伝えて緊急転送の承諾を得,救急車の手配を行い,午前11時11分に本件医院に到着した救急車に,点滴を付けたままのBを乗せ,三島病院に救急搬送した。その際,Bは,意識レベルはJCS(ジャパンコーマスケール)Ⅲ100(痛み刺激に対し,払いのけるような動作をする状態)であり,呼吸,脈拍とも遅く,救急車内で,酸素吸入及び気道確保の応急処置を受けた。そのころ,被告は,本件医院診療録をもとに,Bのショック発症の経緯,投薬内容を記載した申送書を作成し,三島病院に対し,ファックスで送信した。(証拠略)
(6) 三島病院への搬送以後の状況
午前11時21分,三島病院に救急車が到着した時点では,Bの意識レベルはJCSⅢ300(痛み刺激に反応しない状態),瞳孔散大,対光反射なし,呼吸なし,脈拍触知不可,血圧測定不可といった状態であり,末梢チアノーゼがあり,心電図モニター上は波形平坦であった。そのため,同病院のH医師は,アンビューパックによる人工呼吸に加え,外来でラクテック(乳酸リンゲル液,循環血液量及び組織間液の減少時における細胞外液の補給・補正のための体液用剤)500ml2本,カコージン(塩酸ドパミン,心収縮力増強作用等を有する非ステロイド系急性循環不全改善剤)200mlの点滴投与を開始し,直ちに心マッサージとボスミン(エピネフリン,心停止の補助治療に用いる副腎皮質ホルモン)1Aずつの側方注射,心臓注射を繰り返す心肺蘇生術を実施したところ,心拍が再開し,大腿動脈が触知可能となったので,同病院に即入院となった。担当医である医師は,上記の心肺蘇生術を補助するとともに,直ちに挿管し,レスピレーターという人工呼吸器を装着するなどしたが,一時自発呼吸が現れ,瞳孔の散大が軽減したものの,対光反射は現れなかった。医師は,Bの血圧が80未満であったため,看護婦に対し,カコージンの増量投与を指示し,それでも血圧が下降した場合は,ドブトレックス(塩酸ドブタミン,急性循環不全における心収縮力増強の適応があるカテコールアミン)の投与を行うよう指示した。同日,被告は,三島病院を訪れ,医師に対し,Bについて,心肺疾患の既往症はないこと,以前胃内視鏡検査施行時に本件内視鏡検査と同じ薬剤で軽い気分不快はあったが特に問題はなかったと申送りした。(証拠略)
翌同月30日のBの意識レベルは,GCS(グラスゴースケール)E4(自発的に開眼),V1(言葉による応答なし),M3(運動による最良の応答が異常屈曲まで),JCSⅢ300であり,対光反射は左右眼とも速やかであり,血圧は130台,心拍数は120前後/分であった。同月31日には,JCSⅢ300,GCSE1~2(痛み刺激による開眼あり,あるいは開眼なし),V1,M1(運動による応答なし)と意識レベルがより低下した。高熱と頻脈があり,脳幹障害の進行が疑われ,脳浮腫に対する治療が施された。同年4月1日には,JCSⅢ300のまま変わらず,対光反射もなくなり,午後7時には血圧,心拍が低下し,モニター上は接合部補充収縮を伴う洞停止の状態となり,心臓マッサージで血圧80,心拍数60台まで回復するも,午後9時10分過ぎ,再度血圧,心拍の低下が起こり,心停止となった。その後,心臓マッサージ,ボスミン心臓注射を試みたが,心拍が再開しないまま,Bは,同日午後9時22分,死亡した。
(7)ア 上記(1)の認定に反し,被告は,Bに対し,第1回内視鏡検査の際,事前に血圧測定を行ったと主張し,証人F,同Eの証言はこれに沿う。しかし,乙1(本件医院診療録)には血圧の記載がないこと,被告が,本人尋問において,同内視鏡検査の際,血圧を測定しなかったことを認める供述をしていること,また,同人は,内視鏡検査に際し,血圧は測定したりしなかったりしたと供述していることを総合すれば,本件医院看護婦らの上記証言は,直ちに採用することはできず,被告の上記主張には理由がない。
イ 上記(3)の認定に反し,被告は,第3回内視鏡検査の際,一旦オピスタンとブスコパンを1Aずつ混合した後,その1/2量を静脈注射したが,診療録には1/2Aと記載しなかったにすぎないと主張し,乙2(本件医院診療録),被告本人の供述はこれに沿うようにも考えられる。しかし,①乙5(麻薬使用簿)によれば,同内視鏡検査日欄に,オピスタン1AをBと他の患者とで1/2Aずつ使用したとあるから注射器に一旦オピスタン1Aを混合するとは考え難いこと,②乙2にはブスコパンを1/2Aにするとの指示記載がないこと,③証人Fは,本件医院で胃内視鏡検査を行う際,一般に被告からオピスタンを1/2とする指示を受けたことはあったが,ブスコパンを1/2とする指示を受けたことは記憶にないと証言していること,④ブスコパンは鎮痙剤であり,オピスタンは鎮痛剤であるところ,第3回内視鏡検査の際には症状が多少軽快していたため胃症状改善剤の点滴が行われなかったことに照らせば,ブスコパンについては診療録の記載どおり1A投与されたと認められ,被告本人の上記供述は俄に措信し難く,被告の上記主張には理由がない。
ウ 次に,上記(3)の認定に反し,原告らは,第3回内視鏡検査の際,生検組織採取及び病理組織診を予定していたが,被告が中止したと主張し,甲17(三島病院入院診療録),乙2(本件医院診療録)の記載はこれに沿うようにも思える。しかし,①甲17によっても,検査中止との記載はないこと,②乙2,被告本人の供述によれば,Bの胃潰瘍症状は,内視鏡のモニターから軽快していることが明らかであったこと,③被告本人の供述によれば,Bの胃潰瘍の状態が一見して良性と判明したと認められること,④第2回内視鏡検査時においても,病理組織診は実施していないこと(被告本人は,同内視鏡検査時に病理組織診を実施したはずであると供述するが,本件全証拠によってもその検査報告がないことは明らかであるから,同供述は採用できない。)に照らせば,被告が,病理組織診は不要と判断したため,モニターチェックだけで同内視鏡検査を終了させたというべきであって,第3回内視鏡検査が,Bの気分不快が重度だったために途中で中止になったと認めることは困難であり,原告らの上記主張には理由がない。
なお,この点につき,被告は,第3回内視鏡検査当日にBが気分不快を訴えたことはなかったと主張し,乙13(被告陳述書)の記載はこれに沿う。しかし,甲17には,被告から三島病院医師への申送り事項として,以前胃内視鏡検査施行時には同じ薬剤で軽い気分不快はあったとあること,前認定のとおり,第3回内視鏡検査終了後に血圧測定がされたことはないことに照らせば,乙13の上記記載部分は信用し難く,乙2の記載を前提としても被告の主張は理由がないというべきである。
エ さらに,上記(5)の認定に反し,原告らは,被告がBのショック発症後の点滴液にリンデロンを入れるよう指示したが,本件医院に同剤の準備がなかったため,同指示を撤回し,結局Bにステロイド剤を投与しなかったと主張する。
なるほど,<ア>乙3(本件院診療録)の処置及び処方欄のリンデロンの記載が棒線で抹消されていること,<イ>甲34(三島病院外来診療録)中の被告が事故直後に三島病院に対して送付した申送書には,Bに対する投与薬としてリンデロンの記載がないこと,<ウ>乙13(被告本人の陳述書)にも点滴中にリンデロンを混合したとの記載がないこと,<エ>甲25(平成7年3月分診療報酬明細書)にもリンデロン分の診療報酬が請求されていないことに照らせば,被告がBに対してリンデロンを投与したことはなかったようにも考えられる。
しかしながら,まず,①ステロイド剤は,抗アレルギー作用があるから,ショック時にはある程度即効性が期待できる有効な薬剤であるとの報告があるところ,被告が当初から同剤の投与を考えず,指示しなかったのであれば格別,一旦指示しておきながら撤回する合理的理由はないから,上記指示を撤回したとは通常考え難い。次に,②乙3によれば,リンデロン4ml1Aの記載の上の線は,同紙面上の他の棒線抹消部分と比較すると,弱い筆跡であることが窺われるから,筆を滑らせて引いてしまった線と見ることができなくはない。また,③上記点滴指示は,Bがショック症状に陥った後,緊急蘇生術を施していた最中になされたものであり,平常時ならば誤記として書き直すものであっても書き直す暇がないといった事態も容易に想像できる。さらに,④医師から看護婦に対する点滴液の内容の指示は,一旦口頭で行われているから,これを撤回するとすれば,再度口頭で明確に行われるはずであり,しかも上記の緊急場面における指示であるから,本件医院看護婦は何らかの形で記憶しているはずであるところ,同看護婦らの各証言によれば,被告において投薬内容の指示を撤回したことはない。そのうえ,⑤後記2(1)に認定のとおり,本件医院には,リンデロン以外に少なくとも2種類以上のステロイド剤が事前に準備されていた。最後に,⑥甲25,34,乙13は,診療録に基づいて治療後に作成された文書である(甲25は看護婦の作成文書である。)ところ,乙3につき被告が自ら筆を滑らせてしまったにもかかわらず,意識的に抹消したものと誤認して転記してしまったと考えられなくはない。
以上の諸事情を考え併せれば,乙3,13,甲25,34の各記載にもかかわらず,被告がBに対する点滴液の中にリンデロン4ml1Aを混合していたと認めるのが合理的であるから,原告らの上記主張には理由がないというべきである。
オ 上記(5)の認定に反し,被告は,79/46の血圧値は,本件内視鏡検査開始後ショック状態となってから測定した結果であると主張し,被告本人の供述はこれに沿う。しかし,①上記血圧値は低血圧の者ならば生じうる程度の低値であること,②同血圧値の記載位置が勤務先で貧血の指摘を受けたとの記載より上にあり,ショック状態除去のための各種投薬の指示等の記載位置からはかなり離れていること,③ショック発症後であれば異とする程の数値とは思われないのに,疑問符を付していることに照らせば,上記測定値をもってショック発症後のものと認めるのは困難であり,被告の上記主張には理由がないといわなければならない。
2 本件医院での緊急時対応策
後掲の証拠によれば,以下の事実が認められる。
(1) 本件医院では,本件内視鏡検査当時,偶発症に対する処置のため,前記(5)記載の実際に施用した薬剤のほか,次の薬剤を準備していた。
①ソルコーテフ(糖質副腎皮質ホルモン),②ジキラノゲン(強心利尿・ジギタリス配糖体),③テラプチク(呼吸循環賦活剤),④アスペノン(不整脈治療剤),⑤リドカイン(アリニド系局所麻酔,不整脈治療剤),⑥インデラル(β遮断剤),⑦硫酸アトロピン(副交感神経遮断剤),⑧エピネフリン(副腎髄質ホルモン),⑨アネキセート(ベンゾジアゼピン受容体抗剤),⑩アタラックスP(抗アレルギー性精神安定剤)(証拠略)
(2) 本件医院では,本件内視鏡検査当時,次の救急器具を備えていた。
①アンビューパック及び付属器具一式,②咽頭鏡,③ポータブル蘇生器,④オキシメーター,⑤ベッドサイドモニター心電計(証拠略)
3 医学的知見について
後掲の証拠によれば,以下の事実が認められる。
(1) 薬剤アナフィラキシーショック(証拠略)
ア アナフィラキシーとは,抗原分子によって感作された個体が,再度微量の同一抗原に曝露されたときに発生する即時型アレルギー反応のことであり,そのうち薬剤が原因物質(抗原)となり,急速かつ激しい症状をもたらすものを薬剤アナフィラキシーショックという。その発生頻度は必ずしも高くなく,重症度も個体差が大きいが,時に死に至る例もある。
イ 薬剤アナフィラキシーショックの発生機序は,まず抗原と特異的に反応する免疫グロブリンE(IgEという。)が産生され,再度抗原又はこの抗原と同じ抗原決定基を持つ物質が生体内に進入し,マスト細胞(肥満細胞)又は好塩基球膜上に結合しているIgEと結合する。その結果,IgEFcレセプター(受容体)と連鎖したプロスタグランジン産生系や血小板活性化因子産生が活性化され,またヒスタミン,スルフィドペプチドロイコトリエン等のケミカルメディエーターが産生・放出されるというものである。
このほか,本態性といった非免疫学的機序によるアナフィラキシー様反応等があるが,臨床症状や治療法に関しては,IgE抗体反応によるものと全く差異がない。
ウ アナフィラキシーでは,抗原曝露から数分以内に症状が発現する。
自覚症状としては,しばしば前駆症状として,口唇しびれ感,四肢末梢のしびれ感,動悸,めまい感,虚脱感,胸部不快感,咽頭浮腫による咽頭狭窄感,腸管平滑筋のれん縮による嘔気,腹痛,下痢を訴える。
他覚症状としては,初期症状として皮膚紅潮,じんま疹,眼瞼及び口唇の血管運動性浮腫がみられる。しかし,これらは必ずしも重篤な全身臓器症状の前駆症状とはならないこともある。気道閉塞による呼吸困難,下部気道閉塞による喘息様症状がみられることもある。さらに,末梢気管支の広範なれん縮が生じると,人工呼吸器を用いても有効な換気が不可能になり,極めて危険な状態になる。また,末梢血管の拡張と透過性の亢進により,血圧低下や不整脈,さらに意識障害が出現する。
エ アナフィラキシーショックは,迅速かつ適切な治療により数十分内に著明に改善することが多い。
治療方法としては,①アドレナリンの皮下,筋肉内若しくは静脈注射を繰り返すこと,②仰臥位とし,ブドウ糖投与などして血圧を管理すること,③呼吸困難等が強い場合は,人工呼吸器の装着,気道切開などにより気道を確保することのほか,④ステロイド,抗ヒスタミン薬,重炭酸ソーダ,抗痙れん剤,利尿剤等の投与を必要に応じて行うことが挙げられる。なお,ステロイド剤には,抗炎症作用のほか,抗アレルギー作用としてある程度速効作用があるとする報告があるが,その効果についての意見は一致していない。(証拠略)
カ 抗原に対して作られた抗体は,だんだん壊れ,減少する。しかし,抗体を作るB細胞は,しばらくの間抗体を作り続けており,また,当分の間は当の抗原に対するB細胞が細胞分裂によって増殖しているので,2回目以降の抗原の侵入により多くの抗体が作られる。そして,各B細胞は,2回目以降,1回目より早く抗体を作ることができるようになる。
一般に人が抗原に何回か曝露されて抗体が作られ,アレルギーの準備状態ができていた場合には,その後の少量の抗原の侵入によってもアレルギー反応が引き起こされる。特に抗原である薬剤を注射した場合には,抗原が直接血液中に入るため,血液中の好塩基球から大量のヒスタミン等が放出され,急激な血圧低下と呼吸困難によりショック症状が起きやすい。従って,副作用によってショックの起きる可能性のある薬はできるだけ使用しないようにすべきである。
(2) 胃内視鏡検査の前処置について(証拠略)
上部消化器官に対する内視鏡検査の前処置のうち,同内視鏡検査時の患者の不安や苦痛を軽減することを目的として,検査直前に経静脈的に鎮静剤や鎮痛剤を投与し,患者に声をかければ応答できる程度の意識レベルの麻酔を行う方法を意識下鎮静法という。東京慈恵会医科大学内視鏡科では,まず,①ガスコン2mlを経口投与し,②咽頭麻酔のため,キシロカインビスカス3ないし5mlを咽頭に1ないし3分貯めさせ,2ないし8%のキシロカインを噴霧し,③鎮痙剤として,ブスコパン10ないし20mgを静脈注射(あるいは,グルカゴンU.S.P静脈注射)し,④鎮静剤として,フルニトラゼパム0.2ないし0.6mg又はミダゾラム2ないし4mgをいずれも生理食塩水で希釈して静脈注射し,⑤キシロカインアレルギーの人や咽頭の反射が極めて強い患者には,鎮痛剤として,オピスタン35ないし70mgを静脈注射する方法で施行しており,平成12年に至っても同方法を推奨している。
ただし,同科においては,鎮痙剤として,抗コリン剤を使用する方法については,心疾患,緑内障,前立腺肥大の患者には禁忌となっていることから,糖尿病や褐色細胞腫等の疾患がなければ,副作用の少ないグルカゴンを多く使用しているとし,アメリカでは,抗コリン剤が使用される機会はほとんどないと紹介している。また,意識下鎮静法による場合,パルスオキシメーターによるモニタリングを行いながら内視鏡検査を行えば,被検者の全身状態の微妙な変化をいち早く察知でき,異常事態に対してすぐに対応できるので,同装置は特に有用であると紹介している。
日本国内の報告(平成6年)では,鎮静剤,鎮痛剤による麻酔法を行う施設の増加により偶発症が最近増加しているとの報告がある。しかし,前記大学の施設では,昭和63年以来意識下鎮静法を導入しているが,前投薬による偶発症として軽度の呼吸抑制や循環抑制が見られることはあったものの,酸素の投与,補液,拮抗薬の使用ですぐに改善し,重大な偶発症は経験していないと報告されている。
(3) 胃内視鏡検査の各種前投与薬の薬理作用について
ア 薬理作用とは,生体に本来備わっている機能を量的に変える働きをいう。ある薬物の持つ作用のうち,そのときの治療目的に適った作用を主作用といい,それ以外の有用でない作用を副作用という。(証拠略)
イ ブスコパン(証拠略)
(ア) ブスコパンとは,抗コリン薬(副交感神経遮断剤)である医薬品名臭化ブチルスコポラミンの注射液の製品名で,胃・十二指腸潰瘍等における痙れん並びに運動機能亢進に適応があり,消化管のX線及び内視鏡検査の前処置として使用され,皮下又は静脈注射による投与で,基礎及び刺激時の胃液分泌量,酸分泌量,ペプシン分泌量を抑制する作用がある。
同剤に対し過敏症(発疹)の既往歴のある患者に対しては,投与が禁忌とされる。なお,上記過敏症及びショックは,いずれも発症率が0.1%未満と報告されている。
同剤を注射した症例中約15%に副作用が報告され,その内訳は抗コリン作用による口渇,目の調整障害,心悸亢進,顔面紅潮,めまい等である。また,重大な副作用として,まれにショックが現れることがあると報告されており,これを防ぐためには十分に観察を行い,悪心・嘔吐,悪寒,皮膚蒼白,血圧低下等が現れた場合には,中止し,適切な処置を行う必要がある。さらに,静脈注射を行う際は,患者の状態を観察しながらゆっくり注射しなければならない。また,ショック発現をできる限り回避するために,患者の体調について十分に問診を行い,注射後は患者の状態を観察し,異常があれば直ちに救急処置を行う等の基本的注意を必要とする。
(イ) ブスコパン注射液投与後に現れたショック症状の症例には,次のようなものがある。(証拠略)
a 55歳の女性患者が,腹痛,水様便の改善のため,ブスコパン1管(20mg)皮下注射を受けたところ,約5分後に脈拍が触れず,チアノーゼが現れ,強度の呼吸困難となり,喘鳴,冷汗,四肢厥令,排便を起こしたが,担当医師が直ちに酸素吸入,塩酸エチレフリンの静脈注射,イソプロテレノール,ソリタT3の点滴静脈注射,ハイドロコーチゾン(ヒドロコルチゾンと同じ。副腎皮質ホルモン)静脈注射を施すと,約20分後に脈の触知が可能となり,4時間後には完全回復した。
b 42歳の女性患者が,胃部精密検査のため,X線検査の前処置として,ブスコパン2管(40mg)を筋肉内注射し,その約35分後,X線造影剤バリウム液を服用したところ,約5分後に嘔気,胸内苦悶が生じ,顔色不良,発汗多量となり,血圧が78/50mmHgと低下し,脈拍は66/分と微弱になり,軽度の呼吸困難,前腕,頸部発赤疹等のショック状態を呈し,バリウム液を嘔吐した。そこで,担当医師は,直ちにデキサメタゾン(副腎皮質ホルモン),2%ドーパミン,マレイン酸クロルフェニラミンの点滴静脈注射を施すとともに,酸素吸入をした。すると,約1時間30分後には胸内苦悶が緩和し,その後悪化と回復を繰り返し,約20時間後には,指間の?痒感が消失し,平常時血圧に回復した。
c 41歳の女性患者が,下腹部痛のため,胃腸検査前処置として,ブスコパン注射液20mgの筋肉内注射を受けたところ,検査室までの歩行中に気分が悪くなり,到着時には,顔面から頸部にかけての紫赤色発赤・腫脹,軽度の呼吸困難と血圧下降が認められた。そこで,担当医師が副腎皮質ステロイド剤の静脈注射及び点滴を行ったところ,約10分後には呼吸が落ち着き,腫脹も軽快した。
d 38歳の女性患者が,人工透析後の腹痛に対し,ブスコパン注射液20mgとブドウ糖注射液の混注を受け,腹痛軽減後帰宅した。帰宅後再度腹痛が起こり,インダシン坐薬(非ステロイド系消炎,鎮痛,解熱剤)を挿入したが,同日,腹痛を訴えて病院を訪れたため,再びブスコパン注射液20mgとブドウ糖注射液の混注を受けた。すると,静脈注射後2ないし3分でショック状態となった。これに対し,担当医師は,心マッサージ等の処置を行ったが,患者は,ショック発現から約3時間後に急性心不全で死亡した。
e 58歳の男性患者が,大腸内視鏡検査の前処置として,メトクロプラミド(消化器機能異常治療剤),腸管洗浄剤を経口投与した後,ブスコパン注射液20mgを筋肉内注射したところ,その2分後に嘔気,嘔吐が起こり,全身皮膚が紅潮し,収縮期血圧が60mmHg台に低下した。担当医師は,直ちに,輸液により血管を確保し,コハク酸ヒドロコルチゾンナトリウム(副腎皮質ホルモン),塩酸エチレフリン,塩酸ドパミンの静脈注射を開始し,酸素吸入等の処置を採った。すると,血圧,意識の回復が見られ,約1時間後には通常血圧に回復し,その後全身紅斑も改善し,約18時間後,アナフィラキシーショックはほぼ軽快した。
ウ オピスタン(証拠略)
(ア) オピスタンとは,鎮痛・鎮痙合成麻薬である医薬品名塩酸ペチジンの注射液の製品名で,①激しい疼痛時における鎮痛,鎮静,鎮痙のほか,②麻酔前の投薬,③麻酔の補助等に適応があり,①の場合,1回35ないし50mgを皮下又は筋肉内注射により投与し(特に急を要するときは緩徐に静脈注射する。),②の場合,麻酔の0.5ないし1.5時間前に50ないし100mgを皮下又は筋肉内注射し,③の場合,5%ブドウ糖注射液又は生理食塩液で10mg/mlに希釈し,10又は15mgずつ間欠的に静脈注射する(場合により50mgまで増量する。)。
同剤及びアヘンアルカロイドに対し過敏症(発疹,?痒感等)の既往歴のある患者に対しては,投与が禁忌とされ,抗コリン作用を持つ薬剤と併用する際には,相加的に抗コリン作用を増強させるため,麻痺性イレウス(腸管の運動麻痺によって腸内容の通過障害をきたした状態)に至る重篤な便秘又は尿貯留が起こるおそれがあるから,定期的に臨床症状を観察し,用量に注意する必要がある。なお,同剤の過敏症発症率は,5%以上又は頻度不明と報告されている。
同剤の使用成績等の副作用発現頻度が明確となる調査は実施されていないが,呼吸抑制が現れることがあり,息切れ,呼吸緩慢等が現れた場合には中止すべきである。その場合には麻薬拮抗剤が拮抗する。
また,オピスタンを静脈注射する場合は,患者を寝かせて極めて緩徐に投与するか,又は希釈(5%ブドウ糖注射液又は生理食塩液)して投与するのが望ましく,適用上の注意を要する。同剤を急速に注射した場合,呼吸抑制,血圧降下,循環障害,心停止等が現れることがある。そのため,麻薬拮抗剤や呼吸の調節,補助設備のないところでは静脈注射を行ってはならない。
(イ) オピスタン投与によるアナフィラキシーショックとして報告されている事例は,国内にはなく,海外で次のようなものがある。
50歳台の女性患者に対する内視鏡検査を行う際,ガスコン,塩酸リドカイン(咽頭麻酔薬),リドカイン等を投与した後,生食100mlでラインを確保し,同内視鏡検査前投薬として,脈を診ながらオピスタン35mgをうつらうつら状態で注入した後,ジアゼバム(麻酔前投薬に用いる抗不安薬)5mgを投与し,その4,5分後ブスコパン20mgを注入した直後,気分が悪いといって患者が少量の胃液を吐き,その10秒後,口唇にチアノーゼが急速に出現し,頭部が枕からうつ伏せに落下し,ショック状態となった(同日の血圧は87/51)。呼吸停止,脈微弱のため,担当医師は,薬物性ショックと考え,即座に人工呼吸,心マッサージを開始し,コハク酸ヒドロコルチゾンナトリウム(糖質副腎皮質ホルモン)1Aを4回注入し,リン酸ヒドロコルチゾンナトリウム(糖質副腎皮質ホルモン)を輸液中に入れ全開としたが蘇生不能であったため,他の病院に転送し,各種回復処置を継続した。すると,心拍は再開したが,意識が回復することがないまま,2日後に脳死状態となり,4日後,急性循環不全及び急性腎不全のため死亡した。
エ ベノキシールビスカス(証拠略)
ベノキシールビスカスとは,表面麻酔剤である医薬品名塩酸オキシブプロカインの外用液の製品名である。口腔,耳鼻,咽喉,気管,食道,胃等に対する検査,処置,手術時の表面麻酔に適応があり,用法としては,0.3%ビスカスは,咽頭喉頭食道麻酔に12ないし30mgを咽頭腔に約5分間含ませた後嚥下させ,1%のものは,食道鏡・胃カメラ検査の場合20ないし50mg,気管内表面麻酔の場合50ないし100mgを用いる。同剤の成分又は安息香酸エステル系局所麻酔剤に対し過敏症(じんま疹,浮腫等)の既往歴のある患者に対しては,投与が禁忌とされる。
ベノキシールビスカスの副作用としては,頻度不明で眠気,めまい,悪心,嘔吐等が現れることがある。また,重大な副作用としては,①まれにショック,すなわち,血圧降下,顔面蒼白,脈拍の異常,呼吸抑制等と②まれに振戦,けいれん等が現れることがある。そのため,医師としては,局所麻酔時には,常時直ちに救急処置のとれる準備が望ましく,できるだけショックを避けるため,患者の全身状態の観察を十分に行い,できるだけ薄い濃度のものを用いるべきである。また,気道内表面麻酔の場合には,吸収が早いので,できるだけ少ない量で使用すべきである。
(4) その他の薬剤について
ア リンデロンとは,糖質副腎皮質ホルモンであるリン酸ベタメタゾンナトリウムの製品名であり,薬物その他の化学物質によるアレルギー,中毒に適応があるステロイド剤である。同剤の投与により,副腎皮質機能低下,関節の不安定化,精神変調といった副作用のほか,まれに(0.1%未満の頻度で)アナフィラキシー様症状といった重大な副作用が発症し得る。(証拠略)
イ セスデンとは,抗コリン作用を有する医薬品名鎮痙4級アンモニウム塩の製品名であり,胃・十二指腸潰瘍等における痙れん並びに運動障害に伴う疼痛の緩解に適応があるが,同剤の投与によりまれに(0.1%未満の頻度で)ショックを起こすことがある。(証拠略)
ウ グルカゴンとは,消化管のX線及び内視鏡検査の前処置に適応がある膵臓ホルモンであるが,頻度不明でショックを起こすことがある。(証拠略)
4 医師の見解(証拠略)
(1) Bの死因は,低酸素脳症(大脳皮質の低酸素状態によって引き起こされる中枢神経障害)であり,その機序としては,薬剤によるアレルギー反応のため,ショック状態となり,血圧低下,心肺停止がもたらされ,その結果血流が止まり,低酸素状態が引き起こされたと考えられる。
それまで元気だった人間が非常に短時間のうちに心停止に陥るには,いくつかの機序が考えられるが,Bについては,被告の胃内視鏡検査のための前処置の薬剤投与を受けた直後にショック状態に陥っていること,過去に何度かブスコパンの投与を受けたことがあることから,単純なアレルギーではなく,何度かブスコパンを使用しているうちに抗体ができた結果,薬剤アナフィラキシーショックに陥ったと考えられる。ブスコパンとオピスタン等の他の薬剤とを比較した場合,ブスコパンの方が副作用が起こる確率が大きいことから,ブスコパンが抗原であると考えた。
上記ショック状態の原因としては,重症不整脈の発現の可能性も全くないとはいえないが,Bには心肺疾患の既往歴がないことに照らせば,その可能性は低い。
(2) アレルギーを引き起こす原因となる抗体の量を測定することは,一部のものを除いては,現実的には困難であり,また,量的な問題だけでなく,外敵が侵入してきたときに新しく産生するものもあり,通常の状態で見ていても,実際抗原が入ってきたとき,どのような反応をするかについて予測することはかなり困難である。
ブスコパンを一定期間をおいて複数回使用した場合,抗体が増えるということはあるが,抗体の量は,一般的には期間の経過によって減少する。ただ,抗体の半減期については,体質による個体差が大きい。
ある薬剤の投与後,患者が気分不快となった場合,その原因が同薬剤によると特定できれば,爾後同薬剤の使用を控えるか,使用する場合には減量するといった配慮が必要になる。ただし,胃内視鏡検査の場合,内視鏡の挿入自体が気分不快をもたらすことがあり,薬剤の副作用との判別は困難である。
抗体量の測定が困難であること,薬物により抗体ができる確率がごくわずかであると考えられることからすれば,薬剤ショックを予測することは不可能である。
(3) 医師自身,内視鏡検査の際,ブスコパン又はそれに類する薬は使用していたが,オピスタンは,ほとんど使用したことがない。しかし,患者になるべく苦痛を与えないように医療行為をするという医療全体の流れからは同剤の使用も理解できる。
ステロイド剤は,アレルギー反応の治療効果が高く,期待されている。
薬剤アナフィラキシーショックを防ぐ方法としては,抗原となる薬剤を投与する前にステロイド剤を投与することが考えられるが,ステロイド剤自体の副作用もあるので,一概には採り得ない。
第4これまでに認定した事実をもとに,以下検討する。
1 Bの死亡の機序
(1) Bの死因
Bは,本件当日,内視鏡検査受検まで意識清明で,軽快及び増悪の症状を繰り返していた胃潰瘍症状以外に大きな疾患が認められなかったこと,また,本件証拠上,心肺機能につき器質的疾患があったとは認められないことからすると,本件内視鏡検査のための前処置を受けた直後に容態が急変し,血圧低下,末梢チアノーゼ,心拍微弱,呼吸困難,意識障害といったショック症状が生じたことは,同前処置と因果関係があると認めるべきである。
そして,Bは,上記ショック発現当初,被告らに対し,四肢のしびれ感を訴えたほか,トイレに行きたいと述べており,ここから同人に腹痛あるいは下痢の自覚症状があったことが推認できるなどアナフィラキシーの典型的な前駆症状を発現していると認められること,Bの上記検査前処置として使用された薬剤の中には,ブスコパン,オピスタン,ベノキシールビスカスといった,いずれも投与後まれに(0.1%未満の確率で)ではあるが,重大な副作用としてショック症状を発症する危険性を孕んだ薬剤が含まれていたこと,上記各薬剤の投与から約20ないし30秒以内に上記ショック症状を発現したこと,Bは,本件内視鏡検査より前の2年以内に少なくとも3回は上記各薬剤の投与を受けたことがあることが認められる。また,Bの死亡原因につき,三島病院での担当医である医師は,薬剤アナフィラキシー・ショックの疑いと診断し,証人尋問においてもその旨証言した。
以上の各事実を考え併せると,Bに対する上記各薬剤投与後,Bに突如致死的不整脈が発症したこと考えることは不自然である。むしろ,Bは,以前に上記各薬剤の投与を受けた際,いずれかの薬剤が抗原となって抗体が作られていたところ,本件内視鏡検査前の投与により再度抗原に曝露し,薬剤アナフィラキシーショックを発症し,急激な血圧低下,呼吸抑制,意識障害からやがて心肺停止の状態となり,同状態から回復できないまま血流が停止し,低酸素状態が引き起こされ,死に至ったと認めることができる。
(2) 薬剤アナフィラキシーショック発症の原因薬剤
本件内視鏡検査前に投与された薬剤のうち,ベノキシールビスカスについては,テスト溶液として飲用してから約30分間経過した後に,同剤5mlの溶液を喉に塗布し,その後,ブスコパン,オピスタンを含む静脈注射を投与したことからすれば,テスト溶液の飲用により同薬剤による過敏症(じんま疹,浮腫)の兆候は何ら見られず,特に異常が認められなかったからこそ,被告又は本件医院看護婦が,その後の前処置を継続したことが明らかである。これに上記溶液を塗布する気道内表面麻酔の場合,5mlの施用は通常の指示用量の範囲内でもできるだけ少ない量に抑えられているから,よりショックが起きにくいこと,本件証拠上,これまで同剤による重大副作用例としても致死的な副作用までは報告された例がないことを考え併せれば,上記塗布からショック発症までの時間が数分であったとはいえ,Bにベノキシールビスカスによるアナフィラキシーショックが発症したとは考え難い。
そうすると,本件内視鏡検査の前投薬のうち,ベノキシールビスカスのほかにアナフィラキシーショック発症の原因となり得る薬剤は,ブスコパン,オピスタン以外には認められないこと,Bは,本件内視鏡検査より前に,同じく胃内視鏡検査のため,約2年間で3回にわたり,オピスタン,ブスコパンの投与を受けたことがあること,オピスタン及びブスコパンの混合液を静脈注射してから20ないし30秒後にショック症状を発症していることに鑑みれば,両剤のいずれかがBのアナフィラキシーショックの原因薬剤であると認めることができる。
ただし,①オピスタンについては,日本国内でアナフィラキシーショックの症例が報告されていないこと,②前認定の海外症例についても,オピスタン投与直後には容態の変化は認められず,他にショック症状の因子足り得る薬剤が多種投与されたことからすると,直ちにオピスタンによる薬剤アレルギーの症例と考えて良いかどうかは疑問の余地があること,③前認定のとおり,オピスタンによるショックが発症した場合,直ちに麻薬拮抗剤を投与すれば拮抗して著明に改善するとのことであるが,本件では,被告が直ちにロルファンを皮下注射及び点滴により投与したものの,全く効果が現れていないこと,これに対し,④前認定のとおり,これまでブスコパン投与によるショック発症例は日本国内でも複数報告されていること,⑤医師がブスコパンを抗原と考えていることを考え併せれば,Bのショック発症の原因となった薬剤は,ブスコパンである蓋然性が高いというべきである。
なお,被告は,Bのショック症状発症は,同人の心因性因子に負うところが大きいと指摘するが,乙19(文献)によっても,心因性因子が独立の発症原因足り得ないことは明らかであるから,上記認定を動かすものではない。
原告らは,被告にはベノキシールビスカスの使用について注意義務違反があると主張するが,上記のとおり,ベノキシールビスカスをBのアナフィラキシーショックの原因薬剤と認めることはできないし,本件内視鏡検査当日において,被告は事前にベノキシールビスカステストをさせた上で,検査施行前にベノキシールビスカス5ml(15mg)を咽頭に塗布しているのであるから,その施用方法及び使用量ともに適正であり,その使用について注意義務違反があったと認めることはできない。
よって,争点4(ベノキシールビスカスの使用は禁忌であったか。)に関する原告らの主張には,理由がない。
2 争点1(Bには,ブスコパン,オピスタンに対する過敏症の既往歴,徴候があったか。また,同薬剤の投与方法に過誤があったか。)について
(1) 医師が,ある薬剤を投与する際,患者に同薬剤に対する過敏症の既往歴があり,またはその徴候が現れていた場合には,同薬剤の投与によるアレルギー反応のためショック症状が発症することを防ぐため,同薬剤の投与を止め,あるいは,投与量の減量を行うなどの処置を執るほか,予備検査を実施する等すべき注意義務があると解するのが相当である。
また,医師としては,ある薬剤の投与によりショックが発症する可能性のあることが広く医療関係者に知られていたときは,同薬剤の投与にあたっては,不測の事態を回避できるような態勢をもって臨むべき注意義務があると解するのが相当であるから,急激な投与,他の薬剤との併用投与,あるいは過剰投与によって,薬剤ショック症状発症の危険を高める態様で投与することが許されないことはいうまでもない。
(2) ブスコパン,オピスタンに対する過敏症の有無
ア 前認定のとおり,Bは,本件医院における第3回内視鏡検査の直後,軽い気分不快を催し,同医院で約1時間休憩してから帰宅の途につき,その途上,目が窪んで寝起きのような状態になっていたことがある。この症状は,本件内視鏡検査前のブスコパン,オピスタン投与によりBにショック症状が発現したとの結果から遡って見れば,同各薬剤の通常の副作用とは異なる,同各薬剤に対する過敏症の症状であったと考えられなくもない。
しかし,①乙22(前投薬の意義に関する文献)によれば,意識下鎮静法による内視鏡前投薬(本件と同様の投与薬剤を含む。)を実施した場合,検査開始のための至適鎮静度に達したかどうかの目安となる徴候(Verrillの徴候)として,上眼瞼が半分下垂した眠そうな表情になることが挙げられ,Bの帰宅途上の上記表情はこれと同様であると考えられる。また,前認定のとおり,②ブスコパン注射による副作用として,約15%の確率で抗コリン作用による目の調整障害が発症するとの報告があるほか,ベノキシールビスカス投与による副作用として,頻度不明で眠気,嘔吐が現れるとの報告がある上,③ブスコパンに対する過敏症の症状としては,発疹のみが報告され,オピスタンに対しては発疹,?痒感等が報告されており,④胃カメラの挿入自体が患者に気分不快をもたらすことがあり,医師から見ても,薬剤による副作用との判別は困難であること,⑤第3回内視鏡検査は,第2回内視鏡検査から約1年5か月経過して実施されていることといった各事実を総合すれば,Bの第3回内視鏡検査後の気分不快の原因としては,久しぶりに胃カメラを挿入したこと自体によるとも考えられるほか,前投薬の薬理効果が検査後1時間以上も残存していることから,ブスコパンかベノキシールビスカスの通常の副作用として生じたとも考えられる。他方,上記症状は,発疹,?痒感といったブスコパン,オピスタンに対する過敏症の症状とはかけ離れているから,Bに同各薬剤に対する過敏症の症状あるいはその徴候が現れていたと考えることは困難である。
イ 上記各事実に,医師の見解には,通常抗体の量は期間の経過により減少するが,アレルギーの原因となる抗体の量の測定は現実的には困難である上,アレルギー症状の発症には抗体の量の問題以外の要素も影響することがあり,実際に抗原が侵入した場合にどのように反応するかを予測することはかなり困難であるとあることを併せて考慮すれば,本件内視鏡検査当時,被告が,第3回内視鏡検査後にBが気分不快となった事実を認識していたとしても,同人に対し,ブスコパン,オピスタンの過敏症の症状あるいは徴候が現れていたと認識し得たということはできず,その投与によりショック症状が発症する蓋然性が高かった,あるいは,その投与が禁忌であったと知り,または知り得たと認めることはできないというべきである。
ウ したがって,被告に対し,Bにブスコパン,オピスタンに対する過敏症の既往歴があった,あるいはその徴候が現れていたことを前提として,同薬剤の投与中止,減量投与,予備検査実施を行うべき注意義務違反の責任を問うことはできない。
(3) ブスコパン,オピスタンの投与方法の適否
ア 前認定のとおり,ブスコパンの静脈注射を行う際は,患者の状態を観察しながらゆっくり注射しなければならず,また,オピスタンの静脈注射を行う際は,患者を寝かせて極めて緩徐に投与するか,又は希釈して投与するのが望ましいとされているところ,本件内視鏡検査前投薬では,ブスコパン,オピスタン各1Aをグルコース約20mlで希釈した溶液の半量を1分間以上かけて静脈注射した。この投与方法は,個別に同各薬剤を静脈注射する場合に比べ,濃度が20分の1以下になって投与されることになるから,静脈内への侵入も必然的に緩やかな速さで行われるようになり,通常速度の投与でも,上記の注意事項を遵守することができる方法であるということができる。また,前認定の本件内視鏡検査の実施経緯によれば,Bに対し,格別早急に上記静脈注射がなされたと認めることはできないことを勘案すると,上記静脈注射の方法は適切であったというべきである。
イ また,前認定のとおり,オピスタンを抗コリン作用を有する薬剤と併用した場合,相加的に抗コリン作用を増強させるため,麻痺性イレウスに至る重篤な便秘又は尿貯留が起こるおそれがあるから,定期的に臨床症状を観察し,用量に注意する必要があるとされ,ブスコパンは抗コリン作用を有するから,オピスタンとの併用には注意を要するとされている。
しかし,①本件全証拠によっても,上記併用が禁忌であるとか,上記抗コリン作用の増強によりショックの副作用を発症する確率が高くなるといった内容の報告・研究はないこと,②東京慈恵会医科大学内視鏡科の研究によれば,平成12年に至っても,鎮痙剤としてブスコパンの使用を薦め,キシロカインアレルギーの患者や咽頭の反射が極めて強い患者に対しては,オピスタンを併用投与する方法を推奨していること,③同研究では,ブスコパンの代わりに,抗コリン作用を有せず,副作用の少ないグルカゴンの使用をより推奨しているが,その理由は,心疾患,緑内障,前立腺肥大の患者に対しては抗コリン剤が禁忌だからであるところ,Bには上記いずれの既往症もないことといった各事実を考え併せれば,オピスタンとブスコパンとを併用して使用することにより呼吸循環器不全やショックといった副作用の発症する危険性が増強されるものではないことが明らかである。
なお,前示のとおり,意識下鎮静法による内視鏡検査を行う場合,パルスオキシメーターによるモニタリングが有用であるとの報告があるが,これはオピスタンとブスコパンの使用あるいは併用使用が禁忌であることを何ら理由づけるものではない。
よって,被告がブスコパン,オピスタンを併用して投与したこと自体をもって,診療契約上の注意義務違反であると認めることはできない。
ウ 医師の見解には,ある薬剤の投与後,患者が気分不快となった場合,その原因薬剤が特定できれば,爾後同薬剤の使用を控えるか,使用する場合には減量するといった配慮が必要であるとある。しかし,前示のとおり,第3回内視鏡検査後のBの気分不快等の症状については,久しぶりに胃カメラを挿入したこと自体によるとも考えられるほか,ブスコパンかベノキシールビスカスの通常の副作用として生じたとも考えられ,直ちに原因薬剤をブスコパンと特定することは困難な状況にあった。また,被告は,本件内視鏡検査に当たり,Bの胃潰瘍症状に痛みが無かったため,ブスコパンを1/2量に減量して投与した。そうだとすると,被告がブスコパンを投与したことはやむを得ず,むしろ,その投与量を減量するなど適切な指示をしていたというべきである。
なお,原告らは,被告が本件事故後ブスコパンの代わりにセスデンを用いていることから,Bに対してもそうすべきであったと指摘するが,前示のとおり,同剤も重大な副作用として薬剤性ショックを引き起こす一般的な危険があることはブスコパンと同様であるから,ブスコパンを使用したことをもって被告の薬剤選択に過誤があったということはできない。
エ 前認定のとおり,オピスタン,ブスコパンを投与した場合,まれにショック症状を発症する可能性があることは広く医療従事者に知られていたところであるが,本件医院には,ショック症状発症という不測の事態に対処するため,第3の2記載のとおり薬剤及び医療器具を準備していたことが認められる。
また,後記3(2)に認定のとおり,被告のBに対する事後処置には過誤が認められない以上,さらに検討するまでもなく,Bの死亡との関係では,偶発症に対処するために本件医院で事前に準備していた薬剤,救急器具,及び看護婦に対する教育等に欠けるところはなかったことは明らかである。
オ 以上みたとおり,被告は,Bに対するブスコパン,オピスタンの投与に当たり,不測の事態を回避できるような態勢をもって臨むべき注意義務を尽くしていたというべきである。
(4) よって,争点1に関する原告らの主張にはいずれも理由がない。
3 争点2(Bがショック症状を発症した後の被告の対処に過誤があったかどうか。)について
(1) 薬剤アナフィラキシーショックは,即時型のアレルギー反応であり,急速かつ激しい症状をもたらすのが特徴であって,一旦発生すると時に生命に関わることもあるから,医師としては,ある薬剤の投与によりショックが発症する可能性のあることが広く医療関係者に知られていたときは,万一患者がショックを発症した場合に迅速かつ適切な蘇生処置を執るべき注意義務があることは当然である。
そこで,Bのショック症状発症後に被告が執った事後の救急処置について,以下検討する。
(2)ア 被告は,本件内視鏡検査前投薬の静脈注射後,まもなく血圧低下,脈拍微弱,呼吸微弱といった症状を確認し,Bにショックが起きたことを認識した。
すると,被告は,前認定のとおり,検査を直ちに中止し,Bを仰臥位とし,呼吸微弱状態から回復させるためにマスクから酸素を吸入させ,ショック状態にあるほどの血圧低下症状を改善するため,ショック治療に用いる血圧上昇剤ノルアドレナリンを点滴投与及び皮下注射し,脈拍微弱の状態を改善させるため,心不全・喘息治療剤であるテオカルジンMを点滴投与し,また,薬剤性アレルギーによるショック症状に適応がある副腎皮質ホルモンリンデロンを点滴投与し,さらに,虚血性心疾患患者の心電図所見を改善するための心筋代謝障害改善作用をもつ補酵素型ビタミンB1ヌトラーゼを点滴投与したのである。そして,オピスタンは,鎮痛・鎮痙合成麻薬であるから,同剤による副作用として呼吸抑制が現れた場合には,投薬を中止し,麻薬拮抗剤を拮抗させるべきであるところ,被告は,ショック症状に陥ったBに対し,直ちに麻薬拮抗剤ロルファンを皮下注射し,その上,同剤を点滴投与している。
これらの処置は,オピスタン,ブスコパンによる薬剤性ショック状態により生じた症状を改善するために執り得べき適切な応急処置であったということができる。
イ また,被告は,同応急処置によっても,Bの症状に改善の傾向が見られないことから,上記点滴中に,速やかに上級医療機関である三島病院への搬送手続を執り,Bを救急車で同病院へ搬送させ,そのころ三島病院に対し,Bに対する投薬,処置の内容を記載した申送書をファックスで送信したのであり,施設が十分とはいえない個人病院の医師としては,適切な措置を執ったということができる。
ウ さらに,本件内視鏡検査当日午前11時過ぎにベノキシールビスカスの塗布を開始し,午前11時11分には救急車が本件医院に到着したとの時間経過に鑑みれば,上記各処置が,被告のショック状態認識直後に開始され,酸素吸入から注射,点滴開始までわずかな時間で手際よく行われたことが窺われるから,被告だけでなく,本件医院の看護婦の緊急的処置に欠けた点はなかったといわなければならない。
エ 以上によれば,被告がBのショック症状発症後迅速かつ適切な蘇生処置を執るべき注意義務に違反したと認めることはできない。
オ なお,仮に,被告がBに対してステロイド剤リンデロンの投与を行っていなかったとしても,前認定の過去のブスコパン,オピスタンショックによる死亡事例の経過に鑑みれば,適切な蘇生処置を施したとした場合でも,救い得ない重篤なショックが発生することがあることは明らかである上,少なくとも被告は,Bの容態急変後,直ちに同人を仰臥位として,呼吸抑制の発生に対して酸素吸入を行い,血圧低下,脈拍微弱といった症状に対して血圧上昇剤,心不全・喘息治療剤を投与したほか,麻薬拮抗剤も投与するなどの積極的な蘇生処置を講じたにもかかわらず,Bには一向に回復の気配がなく,三島病院に搬送された時点では,血圧,脈拍測定不可,心電図波形平坦となるなどBの症状は急激に悪化の一途を辿ったのである。そうだとすると,Bのショック症状発症後,被告が上記の各処置のほかにステロイド剤であるリンデロンさえ投与すれば,Bの症状が回復したと認めることは甚だ困難である。
また,①本件証拠上,本件内視鏡検査当時,薬剤アナフィラキシーショックが発生した場合,被告のような臨床医がとるべき蘇生処置について,その具体的な治療行為の内容及び投与すべき薬剤等に関し,一般的に異論を見ない程度に明確な一定の治療方針が確立していたものとは認め難く,②ショック症状に対するステロイド剤投与の効果については,現在でも医学上,意見の一致を見ていない状況であることを考慮すれば,仮に被告がステロイド剤を投与しなかったとしても,被告の執った救急処置に過誤がないとの上記判断を覆すものではないというべきである。
(3) よって,争点2に関する原告らの主張にはいずれも理由がないというべきである。
4 争点3(オピスタン,ブスコパン投与に関する被告のBに対する説明は不適切であったか。)について
(1) 一般に,医師の医療行為が医学的侵襲に当たり,それが一定の蓋然性をもって患者の生命,身体,機能等に重大な結果を与える場合には,その患者は当該医療行為を受けるか否かを含めて自分の生命,身体,機能をどのように維持するかについて自ら決定する権能を有するのであるから,医師は,原則として,患者の病状とその程度,医師が必要と考える医療行為とその内容,これによって生ずると期待される効果,これに付随する危険性,当該医療行為をしなかった場合に予想される結果について説明し,承諾を受ける義務があるものと解される。もっとも,説明の範囲・程度は具体的事情によって異なるものであり,侵襲行為の程度が小さい場合,重大な結果発生の可能性が低い場合,緊急事態で説明をしたり承諾を求めたりする余裕がない場合,説明によって患者に治療上の悪影響を及ぼす場合等には,説明を省略し又は可能な限度で説明をすることも許されるものというべきである。
(2) そして,ブスコパン,オピスタンには,前認定のとおり,一定の蓋然性で各種の副作用が生じ得るから,その投与は医学的侵襲に当たるというべきところ,同薬剤の投与に当たっては,患者に対し,その投与の必要性,これにより期待される薬理作用のみならず,副作用を伴うことがあることも説明した上で,患者の同意を得るべき説明義務があると解するのが相当である。
しかしながら,①同薬剤の投与は,過度の緊張,不安からくる気道収縮等の循環系への影響を除去することを目的としているから,副作用の内容としてめまい,口渇,心悸亢進といった通常の副作用よりさらに進んで,ショックといった重大な副作用を発症する危険性があるとまで説明することは,患者の治療上悪影響を及ぼす可能性があること,②同薬剤によりショックが発症する確率はわずか0.1%未満とされていること,③Bは,本件医院ですでに3度胃内視鏡検査を受けており,その都度被告又は同医院看護婦からブスコパン,オピスタンの説明を受けていたことを考慮すれば,同薬剤の副作用に関し,ショックを発症する危険があることまで説明すべき注意義務があったと認めることはできない。
この点,原告らは,被告には,Bに対しては特にショック発症の危険が高かったことを説明すべき義務があったと主張するが,前説示のとおり,本件内視鏡検査当時の状況から,被告が,第3回内視鏡検査の際の気分不快が特定の薬剤によるものか否かを判断し,Bがオピスタン,ブスコパン投与の副作用でショックを起こす危険性が高かったとまで予見することは困難であったから,原告らの上記主張は理由がないというべきである。
(3) そうだとすると,前認定のとおり,被告は,Bに対し,ブスコパン,オピスタンの投与の必要性,これにより期待される薬理作用のみならず,副作用を伴うことがあることも説明し,患者の同意を得た上で同薬剤を静脈注射しているから,上記の説明義務を尽くしていないということはできない。
さらに,被告が,Bに対し,同薬剤の投与により,ショックを発症する危険があることを説明したとしても,その確率が0.1%未満に過ぎないこと,迅速かつ適切な処置により早期に著明に改善する例が多いことまで説明すれば,同人が本件内視鏡検査の受検を拒絶したとは考え難く,被告の説明がショックの危険まで及ばなかったこととBの死亡との間に因果関係を認めることは到底不可能である。
(4) 以上によれば,争点3に関する原告らの主張には理由がない。
第5結論
よって,原告らの請求は,その余の争点について検討するまでもなく,いずれも理由がないからこれを棄却し,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 高橋祥子 裁判官 三木勇次 裁判官 藤澤裕介)