静岡地方裁判所浜松支部 事件番号不詳 判決
主文
被告人近藤勝太郎、同小島敏雄、同近藤糸平を各死刑に処する。
被告人吉野信尾を懲役壱年及罰金千円に処する。
被告人吉野信尾が右罰金を完納できないときは金貳拾円を壱日に換算した期間同被告人を労役場に留置する。
訴訟費用中被告人近藤勝太郎、同小島敏雄、同近藤糸平の各国選弁護人に支給した分は右被告人の各自負担とし、又鑑定人鉄木一彦、同石原重徳に各支給した分は被告人近藤勝太郎の負担とし、其の他は被告人四名の連帯負担とする。
理由
被告人近藤勝太郎は肩書居村の小学校高等科卒業後約三年間叔父近藤四郎治が東京都江東区深川区で経営して居る鉄工場の工員となり、鼻疾治療の為め一旦肩書居村の実家に戻り家業の農業を手伝をして居る中昭和二十年一月召集を受けて終戦迄軍務に服し、復員後は肩書居宅で農業の手伝をする傍ら、近隣の農家に日傭稼に出て居る者、被告人小島敏雄は肩書居村の小学校高等科卒業後家業の農業の手伝をする傍ら、農業の暇な折は漁業にも携わつて居る者、被告人近藤糸平は肩書居村の小学校卒業後浜松市内等で左官職に従事して居たところ、昭和二十年五月頃戦災に遭つた為め、肩書住居に転住し、爾来肩書居村及び同村に隣接する豊浜村福田町方面で雇われて左官職に従事して居る者、被告人吉野信尾は肩書居村の小学校高等科を卒業してから浜松市磐田市等で店員工員自動車運転手等を為した後昭和二十年五月召集されて終戦迄軍務に服し、復員後は肩書居村等で主食等のブローカーをして居る者であるが、
第一、被告人近藤勝太郎同小島敏雄の両名は常日頃賭博に耽つて其の資金に窮して居り、又被告人近藤糸平は妻子六名を抱えて日頃から生計に窮して居つて、いずれも金銭を欲しく思つて居たところ、右被告人等三名は昭和二十三年十一月二十五日頃から同月二十八日頃迄の間肩書居村湊内で寄々協議を遂げた結果共に同村内で相当現金を蓄えて居るとの噂のあつた同村湊松内に居住し、甘藷飴等の製造販売をして居る萩原幸太郎(当時三十四年)方に入つて金員を強奪しよう、然し近所の事で顔見知りである関係上若し犯行発覚の虞があつたら之を妨止する為めには右幸太郎一家を鏖殺するのも巳むを得ないと相談が纒まり、茲に右幸太郎一家を殺害して金品を強奪しようと共謀の上、同月二十九日午後八時過頃共に右萩原幸太郎方に赴き、表入口の戸を押し開けたところ、折柄就寝中であつた右幸太郎が眼を覚して誰何したので、被告人近藤糸平同近藤勝太郎同小島敏雄の順で相次いで屋内に躍り込み、寝床から起き上ろうとした同人に掴み掛り互に相協力して同人の頭胴足等を押え所携の手拭で同人の頸部を締め付け、更に同家に在つた綿平織黒色たすき様布紐(証第八号)で同人の頸部を緊縛し、次で救を求めて寝床から起き上ろうとした同人の妻ふみ子(当時二十八年)を押し倒し前同様互に相協力して同女の手足胴等を押え所携の手拭で同女の頸部を締め付け、更に同家に在つた綿平織黒色たすき様布紐(証第一九号)で同女の頸部を緊縛し、更に泣き叫ぶ右幸太郎の長男征男(当時五年)及び次男賢二(当時一年)の頸部を順次同家に在つた木綿紫色布紐(証第三四号及第三六号)で緊縛し、因つて同人等をいずれも同所に於て窒息死に至らしめてこれを殺害した上、同家屋内を物色して右幸太郎等所有の現金約七万円、衣類二十数点、中古黒塗男女兼用自転車一台を強奪し、
第二、被告人近藤勝太郎同小島敏雄同近藤糸平は第一記載の如く萩原幸太郎同ふみ子同征男同賢二の四名を殺害した後其犯行の発覚を防止する為めに共謀の上、互に相協力して右四名の死体を右幸太郎方から南方約四百五十米の同村内海岸附近の砂丘迄運搬し、第一記載の犯行前に予め同所に鋤簾シヤベル等を使用して掘つて置いた穴の中に右四名の死体を埋没し以てこれを遺棄し、
第三、被告人吉野信尾は、昭和二十三年十一月二十九日夜肩書居所に於て被告人近藤勝太郎等から同被告人等が第一記載の如く強奪した萩原幸太郎等所有の中古黒塗男女兼用自転車一台衣類二十数点を其の贓物であることの情を知り乍ら合計金二萬七千五百円で買受け、以て贓物の故買を為し、
第四、被告人近藤勝太郎は同年七月頃静岡県磐田郡幸浦村湊二十番地近藤糸平方に於て同人所有の銀側懐中時計一個を窃取し、
第五、被告人小島敏雄は、八木秋太郎と共謀の上、同年八月中旬頃同村湊七百七番地農業太田賢一方から同北方約一町の地点に在る同人所有の新築家屋内で同人所有の西爪保温用硝子約五十枚(時価合計五千円相当)を窃取し
たものである。
判示事実中
判示冒頭の事実は
一、司法警察員の被告人近藤勝太郎に対する昭和二十四年二月十三日附供述調書中同被告人の供述として判示関係部分と同趣旨の記載
一、司法警察員の被告人小島敏雄に対する昭和二十四年二月十八日附供述調書中同被告人の供述として判示関係部分と同趣旨の記載
一、司法警察員の被告人近藤糸平に対する昭和二十四年二月十六日附供述調書中同被告人の供述として判示関係部分と同趣旨の記載
一、司法警察員の被告人吉野信尾に対する昭和二十四年二月二十二日附供述調書中同被告人の供述として判示関係部分と同趣旨の記載
に依りこれを認め、
判示第一、第二、第三の事実は
一、検察官の被告人近藤勝太郎に対する昭和二十四年二月二十三日附供述調書中同被告人の供述として、私は二十三才の年のお盆頃から賭博の味を覚えそれから後は幸浦村の湊の砂糖工場鈴木祐一という煙草屋や夜警小屋等で大体一週間に三回位賭博をやつて居た。私が是迄やつた賭博は株や、どさりと云う賭博で相手は同じ湊の加藤智、前柴愛明、鈴木文男、小島敏雄外十五名位の人達である。私は賭博を始終やつて何時も負けてばかり居る関係で賭博をやる金に困つたのでこれ迄盗みをしたり、或は自分の家から米麥等を持出したりして居つた。私は父や兄と一緒に百姓をやつて居るが、父や兄は盆とか正月でないと殆んど小遣を呉れないので一箇月の中五日位は人から頼まれて日傭取等をして居つたがこれも其の収入が一日百五十円位にしかならないのでそれ丈では賭博の資本にはならなかつた。そこで一週間に、二回位は家族の目を盗んで家から米や麥を二升から四升位盗み出してこれを同じ字の金原国夫及び吉野信尾に売つて居た。被告人小島敏雄は同じ字に住んで居る関係で小さい時から知つて居たが、同被告人と附合う様になつたのは昭和二十三年十一月始め頃からである、附合う様になつたのは同被告人が八木秋太郎と二人で硝子を盗んだという事を私に話し、此の事を皆に云つてはいかん、これからも皆に云わなければお前と一緒に遊んでやると云われた時からで其の後同被告人と二人で賭博場に行つたり、夜遊等をする様になり、親しくなつたのである。被告人小島敏雄は毎晩夜になると私の家の門口に来て、手を叩いて呼ぶので家族には内緒で外へ夜遊に出掛け金がある時は賭博をやり無い時には二人で密柑等を盗んで食べたりして居つた。
被告人近藤糸平は同じ字に住んで居る関係で知つて居り、同被告人の近くの焼場の附近に私の家の畑がある関係で私は其処へ仕事に行つた際には同被告人の所へ寄つて煙草の火を貰つたり或は水等飲んだりして出入りして居つた。萩原幸太郎は名古屋の方から焼け出されて私と同じ字に疎開して来た人で被告人近藤糸平の近くの温室の番小屋を借りて飴や饅頭等を作つて居つた。私は昭和二十三年七月頃から同人の家へ野良仕事に来た際に寄つたり或は飴や饅頭等を買いに行つたりした事もある。同人の一家は同人の外に妻と五才になる男の子と昭和二十三年に生れた男の子の四人暮しであつた。同人の家には始終飴等の買出人が来て居り、昭和二十三年十月頃前柴金六のお母さんから幸太郎の処も大分金が出来たと云う様な事を聞いたことがある。昭和二十三年十一月二十八日の夕方七時頃私は夕食を食べて家に居ると門口で手を叩く者があるので何時もの事で被告人小島敏雄が夜遊に誘いに来たものと思つて外へ出たら、同被告人が待つて居た。それから二人で歩き乍ら上平の煙草屋の東側の掲示板のある処迄来た際に、同被告人が私に対し、萩原幸太郎の処には金もあるぜ、明日やるまいかと云つた。私はこれを聞いて自分も賭博の金がなくて困つて居つた際であつたのでやつても良いと思つて同被告人に対しそれじややらまいかと申して。それから同被告人が活動に行かうと云出したが私は活動には行き度くなかつたので同被告人と別れて寺田という自転車屋で遊んで居つた。すると自転車屋の時計が九時五分過頃になつた頃同被告人が来て、外で手を叩いたので其処を出て二人で火の見の処迄来た時に私が同被告人に対し、本当に萩原幸太郎の処へ金を取りに行くのかと聞いたところ、同被告人は幸太郎を殺して金を取ろう、殺さないと直ぐ判つてしまうから、幸太郎の処には大部金も出来て居るぜ、着物等も取れば大部金になるからなと云つた。私はこれを聞いて明日幸太郎の所にいくのは幸太郎の一家を殺して物を取るのだなと云う事は良く判つたが私としても先程述べた様な事情で賭博をやる金に困つて金が欲しくてむきになつて居つたので、金を取る為には人位殺しても何でもないという気持であつたので同被告人と一緒に此の仕事をやろうという気になつて同被告人に対し、何を持つて行くんだと明日の仕事をやる際の準備の事をたずねたら、同被告人は南京袋と鋤簾を持つて来いと云うので私は何時頃行くのだと云うと、同被告人は、七時頃上平さんの処に来いと云うので私は行くと云つて別れて帰宅した。賭博の資本にはそれ迄は自分の家の米麥等を持出しては居つたけれども自分の家は家族も多い関係でそう簡単にこれを持出す事も出来なかつたのである。二十九日の夕方夕飯を食べてから上平ちえ方に行き十五分位待つて居ると被告人小島敏雄が来た。そこで二人で菓子等を食べて四十五分位過ぎてから其処を出た。私が其の日の晩自宅を出る際の服装は黒い様な青い様なズボンを穿き、紺の胴着を着、戦闘帽を被り、帽子の下に手拭を頬被りにし、藁草履を履いて居つた。携帯品は現金百円の他に、幸太郎の処へ強盗に入る用意として鋤簾一挺、南京袋一枚、ナシヨナルランプの懐中電池角型のもの一箇を持つて居た。鋤簾は自宅の軒にあつたもの、南京袋は自宅の庭の米俵の上にあつたもの、電池は神棚にあつたものをいずれも夕方長屋の稲こきの上にのせて置いた。そして家を出る際これを持つて出たものであり、上平さんの処に行く前に鋤簾は附近の掲示板の柱の処に置き、南京袋と電池は上平さんの東側の籔の所に隠して置いた。被告人小島敏雄と二人で上平さんの所を出てから先づ南京袋と電池を取出し、次に鋤簾を取り出して之等を持つて幸太郎の家の方へ向つた。被告人近藤糸平の家の裏にある杉皮の家の処迄来た際に、被告人小島敏雄が私に対し糸平も来るのだ手を叩けと云つた。私はこれを聞いて被告人近藤糸平も今晩幸太郎の家で一仕事やる仲間であることを初めて知つた。そこで私が手を叩いたところ、三回位叩いた際に被告人近藤糸平が同人の家の前の入口から出て来て、私達に対し、揃つたら幸太郎をやるについては先に穴を掘りに行こう、金が七萬円許りあるぜと云つた。それから被告人近藤糸平はシヤベルを持ち出して来たので三人で真直ぐに海岸の方に向けて行つて海岸の直ぐ近くの防風林のある手前の処を右に曲つて十五米位行つた所で被告人近藤糸平が此処を掘ろうと云い出し私も此処なら良いぜと云つて、三人で穴を掘り始めた。穴は二つ掘る予定で二つ掘つたのであるが、途中で此の二つの穴が崩れて一つになつてしまつた。約三十分位掛つて穴を掘り終つたが、その穴は南北に掘つたもので縦が二尋位横が一尋位深さは自分の胸の近く位であつた。掘り終つてから鋤簾とシヤベルは穴の脇に置いた。三人で穴を掘つてから一先づ幸太郎の家の裏の杉皮の家の処迄引返して来たところ、被告人近藤糸平同小島敏雄の二人が私に対し幸太郎が寝て居るか見て来いと云われたので其処から、幸太郎の家迄行つて、入口の戸に耳を当てて中の様子を窺つたが中は真暗で何も音もしないので、寝て居ると思つて引返して杉皮の家の処まで行き二人に寝て居ると云つたら、被告人近藤糸平はそれでは行こうと云い、三人で幸太郎の家に向つた。其の晩の被告人小島敏雄の服装は黒い様な青い様なズボンを穿き上衣は青年学校で着る国防色のものであり、手拭で頬冠りをして紺の様なスキー帽を被り、駒下駄を穿いて居り、尚服の上には黒い筋と茶色い筋の入つた黒い襟の付いた袢天を着て居た。被告人近藤糸平の服装は白ぽつたい鼠色の様なジヤンバーを着て国防色の濃い黒い様なズボンを穿き、手拭で頬被りをし、毛の出た黒い様な茶色の様な耳迄隠れる帽子を被り、はだし足袋の様なものを穿いて居つた。其の晩は真暗で風も相当強かつた。天候は多少曇つて居つた様で星もあそこここに見えて居つた。三人で幸太郎の家の入口の処迄来たが時間は大体八時半頃ではなかつたかと思う。それから幸太郎の入口の戸が重かつたので三人でこれを開けたところ、ピシヤツという音がして直ぐに開いた。錠等は掛つて居なかつた様である。すると中から誰だと云う声が聞えたがその声で幸太郎だということが判つた。開けた途端に、被告人近藤糸平それから私続いて被告人小島敏雄の順で家の中へ飛込んだ。幸太郎の家の部屋の中は六畳位しかないが、私が持つて来た電池で照らし乍ら中へ入ると入口の手前の方に幸太郎、次が五つ位になる男の子、次は幸太郎の妻、最後に赤坊の順で東の方を枕にして寝て居つた。私達三人が中に跳り込んだ際に幸太郎は目を醒まして上半身を蒲団の上に起こして居た。そして被告人近藤糸平が最初に幸太郎の横の方から掴み掛り、次に私が幸太郎の足の方に掴み掛り、被告人小島敏雄が胴の方を押え、横向きに幸太郎を倒して動けぬ様にしてから被告人近藤糸平が頬冠りをして居つた手拭を取つて幸太郎の首に捲き付けて両手で締めた。首を締める際には私は幸太郎の両脚を手で押えて居つた。首を締めた途端幸太郎はひーひーと云う悲鳴を出して居つたが、三、四分でぐつたりしてしまつた。その間私も脚を押えて居つたが、幸太郎の脚がぴくぴくとけいれんの様に動いて居つた。斯様にして三人で幸太郎をやつて居る間に幸太郎の妻ふみ子が起き上つて助けて呉れと叫んで居つたが、幸太郎が三、四分で動かなくなると直ぐに今度は私と被告人小島敏雄の二人が、ふみ子の所へ跳んで行つて同女を仰向けに押倒し同女の手を押え、被告人近藤糸平が足を押え被告人小島敏雄が被つて居つた手拭で両手で同女の首を締めた。同女はひいひい云つて居り、体をぴくぴく動かして居つたが、三、四分で動かなくなつた。それから私が五つになる男の子を小さな赤坊が寝て居た布団の上の着物の兵児帯をむしり取つてこれを首に捲き付けて両手で締め付け、更に赤坊も同様兵児帯で首を締め付けた。五つになる男の子は首を締める前に起上つて母ちやん母ちやんと云つて泣いて居り、赤坊は布団の中でおぎや〓と泣いて居つた。それから今度は被告人近藤糸平が、幸太郎の両手を後手にして紐で縛つた。その紐というのは被告人近藤糸平がジヤンバーのポケツトから出した様である。両手を縛つてから、更に同被告人は幸太郎の首に捲いて居る手拭を取つて別の紐で更に幸太郎の首を捲き付けて締めた。手を縛つた紐よりも首に捲き付けた紐の方が太かつた様である。それから更にふみ子に捲き付けてある手拭を被告人小島敏雄が解いてその代りに被告人近藤糸平が幸太郎の首を縛つたと同じ様な紐で同女の首を縛つた。幸太郎やその妻の首に被告人近藤糸平が紐を付けて締める当時は持つて来た電池を座敷の棚の上に置いて照らして置いたのでその様子が判つたのである。それが済んでから二人で幸太郎を持つて穴迄運んで其処に埋めた。南向きの様にして埋めた様に記憶して居る。終つて三人で今度はふみ子を背負つて穴へ持つて来て同様の方向に埋めた。幸太郎の右の方に埋めた。それから五才になる子供は被告人近藤糸平と同小島敏雄が担ぎ、赤坊は私が抱いて、穴の所へ持つて来て、幸太郎の上に五つになる子を埋め、ふみ子の上に赤坊を埋めた。それが済んでから三人で上から土を掛けてしまつた。屍体の処分が済んだので引返して幸太郎の家へ行つて箪笥の中、其他を懐中電燈を点けて探して目ぼしい衣類は用意して来た南京袋の中へ入れ、被告人近藤糸平がハンドバツクの中に現金があつたとか云い、これは同被告人が持ち、更に土間にあつた自転車を取出しこれに南京袋を積込んで、幸太郎の家を引揚げ豊浦の方を廻つてから被告人吉野信尾の家へ行つて、同被告人に此の盗つて来た衣類を二万五千円、自転車を二千五百円で売却し、其の内金として同被告人から自転車代二千五百円と衣類の代金の中五千円を貰い、これは途中で三人で二千五百円宛分配し、尚被告人近藤糸平は盗つて来たハンドバツクの中には七萬円許り現金があつたと申して私に分前として二万三千円を呉れた。尚被告人吉野信尾の方からは、其の後四、五回に亘り衣類の残金を貰い三人で分けたとの旨の記載
一、検察官の被告人近藤勝太郎に対する昭和二十四年三月八日附供述調書中同被告人の供述として、昭和二十三年十一月二十八日の晩九時過頃火の見の所で被告人小島敏雄から明日萩原幸太郎をやりに行く、殺して金を盗ろう近藤糸平も一緒に行くと云うことを云われ、被告人近藤糸平も仲間に加はるということを知つたのである。被告人小島敏雄が私に鋤簾と電池を持つて来いと云つたので、二十九日の晩に此の二つの物と夫れから南京袋を持つて行つた。南京袋は物を入れるのに必要だと思つたので持つて行つた。同日の晩八時過頃幸太郎の処に表の入口を開けて入る際には被告人近藤糸平、私、被告人小島敏雄の順序で中に躍り込んだ。先づ三人で幸太郎に掴み掛り、私は幸太郎の足の方を掴み、被告人近藤糸平が頭の方を持ち、同小島敏雄が胴の方を押えた。夫れから、私が持つて来た電池を照らしたら、被告人近藤糸平がタオルか手拭の様な物で幸太郎の首を締めた。四、五分して動かなくなつたので今度は同人の妻に掴み掛り私が胴を持ち、被告人近藤糸平が足の方を持ち、同小島敏雄が手拭で締めた。それが済んでから五つになる男の子を其の子が寝て居る前にあつた着物の兵児帯をちぎつて首を縛めた。赤坊は被告人小島敏雄が同じ様に兵児帯をちぎつて締めた。五つになる子を締める際には兵児帯を後から廻して前で結んで締めた。斯様にして皆を殺してから電池を点けて押入の前の一寸高くなつた処に置いた。それから被告人近藤糸平がポケツトから綱の様なものを出して幸太郎を後手に締つた。そして同被告人は生き返つては困るとか云つて幸太郎の首に捲いて置いた手拭かタオルの様なものを外して紐の様なもので幸太郎の首を縛り直した。又同被告人は同じ様に幸太郎の妻の首に捲いた手拭も取つて紐の様な物で首を縛り直した。そんな事が済んでから幸太郎を見ると幸太郎の顔を白いつぎで全部顔が見えなくなる様に縛つてあつた。四名の死体を埋めた穴は三人で幸太郎の処に行く前に掘つたものである。穴は南北に長く掘つたのではなく、東西に長く掘つた。死体を穴迄運んだ順序は重くて持てないので三人で先ず幸太郎を運び、次に妻、最後に五つになる子を被告人近藤糸平と同小島敏雄が持ち、赤坊を私が持つて運んだ。そして最初に幸太郎を西の方へ頭を向けて穴に入れ、次に妻を入れ、それから子供二人を入れた幸太郎の服装はチヨツキとメリヤスの様な襦袢を着て、夏のズボンを穿いて居た様である。妻は寝巻を着て居り、子供二人は着物を着て居た様であつた。四名の死体を埋めてから三人で再び幸太郎の家に行き、電池を点けて中を物色した。私は自分等のやつた事が直ぐ判らぬ様に幸太郎等が寝て居た蒲団を畳んで居つた際、幸太郎の妻が寝て居た下敷の蒲団が濡れて居り首を締めたので小便が出たと思つた。被告人近藤糸平等は箪笥の一番下の方の抽斗を開けてその中から衣類を取出して居つた。その衣類と云うのは幸太郎の妻の着物や幸太郎の背広、オーバー、袴、紋付の着物、国防色の洋服の様な物であつた。全部之等の物を私が持つて来た南京袋に詰めた。現金は被告人近藤糸平が捜したので何処から取出したか私には判らない。衣類等盗つた物を入れた南京袋を幸太郎の庭の南の方にあつた幸太郎の自転車の荷台に積み込んだ。現金は被告人近藤糸平が持つて居つたが、何処へ蔵つたのか記憶がない。右の自転車は被告人近藤糸平が転ばし、私と被告人小島敏雄とは歩いて幸太郎の家を出た。出る際には蒲団等は畳み、土足で上つた為め、その辺にあつた着物で座敷をはたいて、綺麗にして置いた。出掛ける際に皆で北を廻つて行けば近いが人に会つてはいかんから一寸は遠廻りになるが、西の方を廻つて行こうと云うことになつて、被告人近藤糸平方の北側の道路を西の方へ行つたが、その途中盗つた自転車等を売ることについて私が国夫さは米等持つて行つても安いから、信尾さがいいと申したら二人はそれじや信尾さに持つて行こうと云つた。被告人近藤糸平方の北側の道路を西に向つて行つて西明の浜道を南へ下りてそれから第二の防風林まで行く前の畑道を西の方に曲つて御長屋橋を渡つた。此の畑道を通つて行くと御長屋橋に行く手前三十米位の処から道が無くなつて居るので三人は畑の中を通つて橋を渡つて豊浜へ出た。そして豊浜を廻つて湊へ出て被告人吉野信尾の処迄来た際には被告人近藤糸平がお前等二人で行つて来いと申したので自転車から盗つて来た衣類等の入つて居る荷物を下して自転車は被告人吉野信尾方の脇の自転車屋の羽目に置いた。被告人近藤糸平は此の自転車を置いたところに立つて居り、私と被告人小島敏雄の二人で此の荷物を持つて、被告人吉野信尾方の裏口の戸を開けて入つて行つた。すると被告人吉野信尾は裏口の方の部屋でズボンを縫つて居り、北側の方の座敷にはお神さんが子供を寝かして居つた。私は今晩はと云つて中へ入り、被告人吉野信尾に対し着物や洋服を持つて来たぜ、買つて呉れと云つたら、同被告人はお前等の事だから買つてやるが何処から持つて来たかと云つたので、私は俺あ、おつ母さんの物等を外して来てただから、安くてもいいで買つて呉れと云つたところ、同被告人は安くてよければ買つてもよいと云つた。その時には南京袋から盗つて来た衣類全部を同被告人の居た座敷に出したのである。そして同被告人は此の品物を見ていくら位で良いかと聞いたので私はいくらでも金さえ貰へば良い、二万五千円位でいいと云つたところ、同被告人は今日はそんなに金が無いから五千円丈け持つて行つてくれと申した。それから私は同被告人に対し家から持つて来た自転車もあるんだと云つて外に置いた自転車を持つて来て同被告人に見せたところ同被告人は二千五百円で買つてやると申した。斯様にして其の晩は同被告人から衣類の内金として五千円及び自転車代金二千五百円を貰つて外に出た。
そして、近所の喜八さの裏で三人で二千五百円宛金を分けた。盗つた現金の方は襦袢の中から被告人近藤糸平が取出して百円札の束二束と三千三百円位貰つた。現金は七万円あると云う事は被告人近藤糸平が云つた。一束は百円札を重ねて真中を紙で縛つてあり之が一万円だと私は思つた。其後十二月五日頃私は被告人吉野信尾の処へ行つて残金を五千円位貰つた。次に同月の十一日頃被告人小島敏雄が被告人吉野信尾の処から五千円持つて来たと云つた。又其の次は同月の十三日頃被告人吉野信尾の所で同被告人から五千円貰つた。最後は同月の十七、八日頃被告人小島敏雄が被告人吉野信尾の所から五千円を貰つて来た。第一回に貰つた金五千円は私が取り、二回目の分は被告人小島敏雄が取り、三回目の分は同被告人に被告人近藤糸平に渡して呉れと云つて渡した。四回目の分については、三人で分けたが、其の分前の金千六、七百円は被告人近藤糸平にやつてくれと被告人小島敏雄に頼んだとの旨の記載
一、検察官の被告人近藤勝太郎に対する昭和二十四年三月十二日附供述調書中同被告人の供述として私は昭和二十三年十一月二十九日の夜萩原幸太郎方で五才になる子も赤坊も共に兵児帯を首に捲いてから前の方で駒結びにして締めたのであるとの旨の記載
一、検察官の被告人小島敏雄に対する昭和二十四年二月二十三日附供述調書中同被告人の供述として私の村は昔から皆が賭博をやるところで、私も学校を出てから間もなくこの賭博の味を覚える様になり、昭和二十三年頃は一週間に二、三回位は賭博をやつて居つた。相手は大体同じ村の青年や親爺連中である。賭博は株とどさりであつて、私は余り勝つたことがなく、大低二、三百円位は何時も負けて居た。私の家は百姓をして居るが、父が実権を握つて居るので、余り小遣銭等は呉れない。其の為め遊ぶ金にも困るのでこれ迄も度々家の米や麥等を盗んでこれを同じ字に居るブローカーをして居る被告人吉野信尾の処へ売つて金に代えては賭博に費つて居つた。被告人近藤勝太郎とは同じ字に住んで居る関係で知合であるが、昨年七月頃から特に仲良くなつて遊び友達になつた。それと云うのは其の頃私が八木秋太郎と二人で硝子を盗んだことを私が被告人近藤勝太郎に話した事があつて同被告人の方では自分と仲間にならないと巡査に云うてしまうぞ等と云うので、其の後は二人で遊び友達になつて夜遊びをしたり賭博場等へも一緒に出入りする様になり密柑や葉煙草等を一緒に盗んだりした事もあつた。被告人近藤糸平は同じ字に居る関係で知つて居るが、昭和二十三年十月頃から野良仕事に行つた際等に同被告人の家に煙草の火を借りたりして居つた。萩原幸太郎は被告人近藤糸平の近くに住んで居る関係で顔丈は知つて居り一回位青年の芋掘の際に立寄つた位で言葉をかわしたことはない。同人は飴等を製造して居り、同人の家には同人の外に其の妻と子供二人が居ることは知つて居つた。又同人の処には飴の買出人等が大部出入りする事も聞いて居つた。昭和二十三年十一月の二十六、七日頃のお昼頃被告人近藤糸平の家へ立寄つた際に同被告人から萩原幸太郎の家に金があるから盗りに行こうではないかと云われた。私も当時賭博の金にも困つて居り上平の菓子屋にも五百円許りの借金があり、金が欲しくて堪らなかつた際であるから一緒にやろうと思つてうんと返事をしたところ、同被告人は顔が判つてはいかんから殺して埋めてしまおうかと云つた。私はこれを聞いて嫌な事をやるなとは思つたが近所へ入つて物を盗るには矢張り顔が知られたら危いから同被告人の云う様にする他あるまいと思つてうんと云つて返事をした。これから私は同被告人に二、三日経つたら来るからなと云つて置いた。其の晩被告人近藤勝太郎に会つた際に同じ字の火の見の処で萩原幸太郎の所をやつつけて盗る相談をしたら、同被告人も賛成してくれた。同月二十八日の晩にも同被告人とは打合せを遂げた。そして同月二十九日の晩八時過頃私は被告人近藤勝太郎と二人で被告人近藤糸平の処迄行つて同被告人を呼出して三人で其処から真直ぐに海岸の方へ行き、海岸の脇の処に三人で鋤簾やシヤペルを使つて穴を掘つた。穴を掘り終つてから、三人で萩原幸太郎の家へ行き、先づ被告人近藤糸平が表口を開けたところ、中から誰だと云う声がしたが、構わず三人共中に入り込んで先づ幸太郎を掴えて押し倒して被告人近藤糸平が持つて居た手拭で首を締めた。それが済んでから助けて呉れと叫んで居る幸太郎の妻を私と被告人近藤勝太郎の二人で押倒して私が持つて居た手拭でその首を締めた。それから五つ位になる男の子を私と被告人近藤勝太郎との二人で押し倒し同被告人が首を何かで締めた。と同時に赤坊を被告人近藤糸平が締めた。それから同被告人は幸太郎を後手に縛つたそんな事等をやつてから、此の四名の屍体を次々に運んで掘つた穴に全部埋めてしまつた。埋め終つてから幸太郞の家へ引返し、衣類等を盗りこれは南京袋に入れて土間にあつた自転車に積み、箪笥の抽斗にあつた風呂敷包か何かに入つて居つた現金をとり三人で其処を出て豊浜の方を廻つて被告人吉野信尾の所に行つて同人に対し盗つて来た自転車と衣類を全部売り、同人からは内金として六千円位貰い、これを其晩三人で分け、尚盗つた現金は分け前として被告人近藤糸平から貰つたがその金額は同被告人も云わず、私も調べなかつたので判らないが、一万円位ではないかと思う。其後衣類等の代金の分け前として被告人近藤勝太郞から六千円位貰つた。斯様にして得た金は大部分賭博に使つてしまつたとの旨の記載
一、検察官の被告人小島敏雄に対する昭和二十四年二月二十八日附供述調書中同被告人の供述として本日昼少し前頃私の父親が刑務所に私に面会に来た。其の時父は私に対し毎日の様に悪い事をしてはいかんと云つたのが判らないのかと涙を流して母も体が弱くて寝て居る。本家の兄ちやんも消防団長をして居て村の役をして居るが、今度廃めた。毎日戸を閉めて家の中で泣いて居る。村の衆が畑に出よと云うが出られない。妹も学校へも行けないし、村の衆が行こうと云つて呉れるので、此の頃二、三日は行つて居る。これからどうして行くのだ。これから一家がどうしてやつて行くのだ等と云つた。私は萩原幸太郞一家を殺してしまつた様な悪い事をしたが、此の父親の言葉を聞いて真実に悪いことをしてしまつたと思い、親に心配かけてしまい、私は父親に対し勘忍してくれと泣いて詑びたのである。被告人近藤糸平の家の南の方に私の家の畑がある関係で、昭和二十三年の夏頃から同被告人の家に煙草の火等を借りに立ち寄つたりして居つた。昭和二十三年十一月二十九日より三日位前頃私が被告人近藤糸平の南にある畑に耕作に行き、十一時頃昼食に帰る途中同被告人の処に煙草の火を借りに寄つたところ縁の方に同被告人が居り、私に対し萩原幸太郞の処に銭があるぜ盗りに行こうじやないかと云つた。私はこれを聞いて今迄も盗み等もして居るし、賭博の金に困つて居つたので恰度幸い同被告人から相談を受けたので一緒に盗りに行つてもよいと思い同被告人に対し、行くと返事をしたら、同被告人は顔が判つてはいかんぜ、殺して埋めてしまおいぜと云つた。私もこれを聞いて幸太郞の処へ物を盗りに行く以上近所ではあるし、顔を見られては実際困るので被告人近藤糸平の云う様な方法でやつたら一番良いだろうと思つたので私はうんと云つたところ、同被告人は二、三日経つてやろうかと云うので私は同被告人に対し二、三日経つて来るからなと云つて別れて帰つた。私は昭和二十三年七月頃八木秋太郞と一緒に硝子を盗んだが当時被告人近藤勝太郞と一緒に密柑を盗んで食べた際に、私が硝子を盗んだ事を同被告人に話をしたことがあるが、それからは同被告人は私に対し自分を夜遊びに連れに来ないと硝子を盗つたのを巡査に云いつける等申すので私は毎日の様に夕食を食べてから同被告人を呼びに行つて一緒に夜遊びをして居つた。呼びに行かないときには、上平の菓子屋で落合つて居た。被告人近藤糸平から萩原幸太郞一家を殺して金等を盗る相談を受けた晩に私が上平の菓子屋に行つたら被告人近藤勝太郞は居らなかつたので、それから何時でも立寄る寺田自転車屋へ行つたら、同被告人が居つたので、其処を二人で出て八時三十分頃と思うが、附近の火の見のところで私は同被告人に対し萩原幸太郞の処に銭があるぜ盗りに行かないかと云つたところ、同被告人は行くかと云うので、私は更に、顔が判つてはいかんから、殺して埋めてしまおうと云つたところ、同被告人はうんそうやつてやつちまえば判らんからやつちまおうと云うので、私は近藤糸平と三人でやろう二、三日経つてから行かないかと申したのである。それから同月二十八日の晩八時過頃私は被告人近藤勝太郞を呼びに同被告人の家の前迄行つて手を叩いて同被告人を呼出し、それから二人で何時も行く寺田自転車屋へ行つて十時頃まで遊んで居つた。それから其処を出て二、三十米位離れた火の見の処迄行く途中私は同被告人に対し、幸太郞の処に行くが、明日の晩上平の店に待つて居るから来いよと云うと、同被告人は道具はどうするかと聞くので私は同被告人に対し鋤簾と電燈と南京袋を持つて来い自分は持つて行きにくいから、お前持つて来いと云うと、同被告人はうんと返事をして居つた。私の家には長屋がなく、鋤簾等も家の中にある関係で夜斯様な物を持出すと直ぐ家の者に怪しまれる危険があつたので同被告人に道具を持つて来る様に話した訳である。翌二十九日夕方七時頃夕飯を食べてから上平の店に行くと被告人近藤勝太郞が来て居つた。その時の私の服装は筋の通つた胴着を着、黒いズボンを穿き、手拭で頬冠りをし黒塗りの駒下駄を穿いて居つた。上平の家には余り長くは居らず、二人で其処を出たら、附近から被告人近藤勝太郞は鋤簾や南京袋、電燈等を取出した。此の品物は全部同被告人が持つて大工の家の脇を通つて何時もの浜の方に行く道を通り被告人近藤糸平の家の前へ行き、私が糸ちやあやいと呼び、続いて被告人近藤勝太郎が同じ様なことを云うと、間も無く被告人近藤糸平が前の戸を開けて出て来て、私達に対し、今から行くかと云つた。当時の被告人近藤勝太郎の服装は胴着を着黒いズボンを穿き、頬冠りをし、草履を履いて居り、帽子は被つて居らなかつた様である。被告人近藤糸平の服装は黒つぽい詰襟の様な上着を着、黒つぽいズボンを穿き、靴の様なものを穿き、頬被りをし、帽子は被つて居らなかつた様である。それから被告人近藤糸平は前側にある小屋からシヤベルを取り出した。そして三人で被告人近藤糸平の家から真直に浜の方へ出る道を通つて海岸の直ぐ近くの上り坂になつて居る処から右の方へ二十米位離れた処に行つて三人でシヤベルや鋤簾を使つて穴を掘り始めた。十分位で掘り終り、南北に細長く堀り、横が三尺位、縦が二米位、深さが私の胸位であつた。それから三人で幸太郎の家に行き、幸太郎一家を皆殺にした上衣類や自転車等を盗り、盗つた物は其の晩の中被告人吉野信尾に売つた。盗つた現金や衣類等を売つた金は三人で分けた。その分前は二万円余りであつたと思うが大部分は賭博に使つてしまつたとの旨の記載
一、検察官の被告人近藤糸平に対する昭和二十四年三月七日附供述調書中同被告人の供述として、私は左官をして居るが左官と云つても竈をつける仕事に人に頼まれては彼方に二日、此方に三日と働きに出て居りその外田畑一反歩位を耕作して居る。尚妻は娘と二人で内職で繩ない等をして居る。収入は月平均七、八千円位あるが、子供五人を抱えて居るので生活は苦しく、私が昭和二十四年一月二十五日に病気になつてからは村の補助を受けて居る。私は元は浜松に居つたが、昭和二十年五月戦災を受けてから在所である幸浦村の湊に来て居る。私の家の近所の萩原幸太郎は私より一年位後現在の所に引越して来た。幸太郎の家では妻と子供二人があり、飴や饅頭等を作つて居り、村の人の話では幸太郎の家では金がたまつたと云うことであつた。幸太郎の家の五つになる男の子が私の家へ遊びに来て私の子の豊二と一緒に遊んで居たと云う以外には私は幸太郎の家と別に交際はなかつた。被告人近藤勝太郎は同被告人の家の畑が私の家の近くにある関係で畑に来た際に私の家へ煙草の火を借りに寄つたり、煙草を一服させてくれと云つて寄つたりして居つた。被告人小島敏雄も、同被告人の家の畑が私の家の近くにある関係で煙草の火等を借りに寄つたりして居つた。昭和二十三年十一月二十五日頃の午前十一時頃私は魚でも買おうと思つて私の前を出た処の浜へ行つたところ、砂防を下りた砂浜の処に被告人近藤勝太郎が居つたので、私が同被告人に対して魚があるかと言葉をかけると、同被告人は魚は入らなかつたと云つた。そして今度は同被告人が私に対して糸ちやあやい銭を貸さないかと云うので私は銭は無いなあ、銭を何するのだと聞くと同被告人は銭が欲しいが糸ちやあの処になければ、又米でも売るかなと云うので米を何処へ売るんだと聞くと同被告人は俺は何時も幸太郞の処へ持つて行つて売ると云うので、そうか俺の家へも二升でも三升でもいいから持つて来いよと云うと、同被告人はお前等の家は通り道だから人が来るといかんが幸太郞の家は引込んで居るのでいいぜ、安心して売れると云つた。それから同被告人は米倉へ売つても纒つた金が欲しいなあと云うので、私は幸太郞の家に金があると云う事だから幸太郞の家に行つて借りて来いと云うと、同被告人は借りれば返さなければならぬ、何処か返さんでもいい様に持つて来たいなあと云つた。其処で私はそれぢや掻払つて来るかと聞くと、同被告人は掻つさらつて来ると返さないでもいいなあ、糸ちやあ等も金が困るなら幸太郞の処へ行つて一寸借つて来るかと云うので、私が馬鹿こきやがつて近い所で出来るかと云うと、同被告人は近くても又其の時の方法をすればいいぢやないかと云うので、私はそれもそうだな、近い中に借りに行くかと云つたところ、同被告人は詳しい話は又後にしようと云つたので其の日は別れた。その話の幸太郞の家へ金を借りに行くとか云う事は勿論盗みをしに行くことであるが、私も家族が多いし、生活に困つて居つたので一緒に悪い事をやる気になつたのである。そんな話があつてから二日許り過ぎた頃であるが、私が朝七時頃自宅の井戸端で水を汲んで居つたら、被告人近藤勝太郞が畑へ行くと云つて通り掛り、私に対し、やい糸ちやあやい此の間のことで敏雄も来たぜ話に行くかと小さい声で垣根の外から云つたので、私はああそうか、後から行くからなと云つた。被告人近藤勝太郞の外に被告人小島敏雄も居り二人は浜の方に行つて終つた。それから三十分か四十分経つてから私は二人が居る処に出掛けて行つたが、二人は私の家から浜に行つた砂防の手前の道から東の方へ入つた畑と砂防の間の処にしやがんで居つた。私が二人の処に行つたところ被告人近藤勝太郞が此の間の話は何うだ、愈々
糸ちやあやるかと云つたので、私はやりやあやつてもいいがそんなら何時行くかと云うと、被告人小島敏雄は出来るだけ早い方が良いなと云うので私がそんなら明日は二十八日だぜ、二十九日頃行くかと云つた。すると被告人近藤勝太郞はそんならそうするかと云うので私がどういう方法でやるのかと聞くと、同被告人はどういう方法も何もそんな事はいいや、愈々となればその時はその時でやつてしまえばいいやと云うので、私が若し困つた時には砂の中へでもいけてしまへば判らんでないかと云つた。砂の中へいけるというのは幸太郞等を殺して屍体を埋めることである。すると被告人近藤勝太郞はそりやそうだ、埋けて畑の肥にするか、それにや、敏等の畑に入れるかと云うと、被告人小島敏雄はおお俺等の畑の肥にせまいかと云い出しそれで話が纒つたのである。そこで私は二人に対してそれじやそういう事にするかと云つて二人に別れて帰つた。右の被告人小島敏雄の畑というのは浜辺の西側の方にあるのである。私は生活にも困つて居つたので三人でやる事であるし気も大きくなつて遂人を殺して物まで盗むと云う気になつてしまつたのである。同月二十九日午後六時か六時半頃仕事から帰つて来て夕飯を喰べて一服して居つたら被告人近藤勝太郞が門口で糸ちやあやいと呼んだので外へ出て見た処其処に同被告人と被告人小島敏雄の二人が居つた。二人が来た時は七時半頃ではなかつたかと思う。私は外へ出て二人に対しそれじややるのかと聞くと、被告人近藤勝太郞はやるぞ、此の間約束したではないかと申し、それから被告人小島敏雄が俺が之から様子を見て来るぜと云つて、幸太郞の家の方へ行つた。其処で私と被告人近藤勝太郞とは裏の小屋の処で待つて居ると五、六分して被告人小島敏雄が帰つて来て、私達に対し寝て居ると云うので、私が馬鹿に早いなあ、と云うと、被告人近藤勝太郞が寝て居ればいい行くかと云つたので、私は未だ早いから一寸居まいかと云つて私は巻煙草を一服吸つた。そして吸い終つてから三人で幸ちやの家に出掛けた。その時の私の服装は黒い洋服を着、国防色のズボンを穿き、タイヤ裏の草履を穿き、白い丸い帽子を冠つて居つた。洋服の下には襦袢二枚と毛糸のチヨツキを着て居つた。被告人近藤勝太郞の服装は布子袢纒を着、国防色のズボンを穿き、ズツク靴の様な物を穿き、首に襟巻の様なものを巻き、戦闘帽の様な物を冠つて居つた被告人小島敏雄は布子袢纒の様な物を着、ズボンの方は良く記憶にない。履物も判然しないが、何か黒い様な物で跣足袋ではなかつたかと思う、手拭で頬被りをして居つた。被告人近藤勝太郞同小島敏雄の二人が呼びに来て私が外に出て被告人小島敏雄が幸太郞の様子を見に行つて居た際に裏の物置の処に、鋤簾が一つ立てかけてあつたが、私は被告人小島敏雄が持つて来た物と思つて居た。それから自転車につける四角のナシヨナルランプを一つ被告人小島敏雄が持つて居つた。尚被告人近藤勝太郞は木綿糸で編んだ様な小指より一寸太い紐を輪にして腰に下げて居つた。色は白かつた様である。三人で道を通つて萩原幸太郞の家に行つて硝子の嵌つて居る戸から硝子越しに中を覗いたところ家の中の庭の箱の上に豆ランプがあり、火が点けてあつたので良く見ると幸太郞一家四名は皆寝て居つたので私と被告人近藤勝太郞と二人で此の硝子の嵌つて居た近くの入口の戸を一枚開けたら其の途端に幸太郞の声で誰だと云つたので眼を覚まして終つたと思い、こりや堪らぬと思つて開けたところから私が先頭になり続いて被告人近藤勝太郞同小島敏雄の順序で座敷の中に躍り込んだ。中には入口に近い方から幸太郞、五つになる男の子、赤坊、お内儀さんの順序で庭の方を頭にして寝て居つた。私達が躍り込んだ際庭について居た豆ランプは消えて終つた様である。兎に角私が先頭に立つて躍り込んだが、幸太郞は未だ横になつて居つたので私が幸太郞の頭の方から冠さる様にして飛び掛つて行つて両手で幸太郞の口や首等を押え付けると同時に被告人小島敏雄と思うが幸太郞の足の方を押えた。それから直ぐに私は被告人小島敏雄に、やい敏、手拭を寄越せと云つて同被告人から手拭を取つて横向きになつた幸太郞の首に此の手拭を捲いて両手でぎゆつと締めたところ、幸太郞はううーんと唸り暫くぴくぴく体を動かして居つたが間もなく、ぐつたりして終つた。それから私は内儀さんの方へ行つた。内儀さんは被告人近藤勝太郞が俯伏せにして押え付けて居り、上から蒲団を冠せられて同被告人が馬乗りの様になつて居り、もう大部分参つて声も出ない様であつた。そして私が傍へ行つて冠せてある蒲団の中へ手を差し入れて内儀さんの首を両手で締めつけたら内儀さんはうーんうーんと唸つて居つたが暫くやつてから大部弱つた様であつたので被告人近藤勝太郞に対しやい手拭はないかと云つて同被告人から手拭を取つて再び締めた。内儀さんもぴくぴくやつて居つた様であつたが間もなく、ぐつたりして終つた。それから私は幸太郞の処へ行つて柱の辺りに掛けてあつた編んだ紐の様な物を取出して幸太郞の両手を後手に縛りそれから首に巻いて置いた手拭を外して附近の座敷に在つた兵児帯の様なもので幸ちやの首を二廻り巻いて玉つこに縛りそれが済んでから当時昮奮して居たので判然とはしないが多分巻いた手拭で幸太郞の口から顔の辺りを隠す様にして後で縛つた。
私がその様なことをやつて居る間に被告人近藤勝太郞や同小島敏雄が子供の方も殺して始末をつけた。それから私がやあ、困つちやつたな、どうすると申したところ、被告人近藤勝太郞は此の間云つた様になつてしまつたね、畑へ行くかと云出したので屍体等はそのままにして三人で幸太郞の家を出て、私の家の処迄来て、被告人小島敏雄は持つて来た鋤簾を持ち、私と被告人近藤勝太郞が私の物置からスコツプを一挺宛持出して三人で其処から南の浜の方へ歩いて行つた砂防に上る手前の処を西の方へ曲つて十二、三間行つた松林と畑の間の処へ穴を掘つた。穴は長さ五、六尺、幅四尺位の東西に掘つた物で深さは私の乳位で三十分位掛つて掘つた。それが済んでから鋤簾丈は其処に置いて三人で私の家の処迄来てスコツプは家の小屋の中に入れた。それから三人で幸太郞の家に行つて一番先に被告人近藤勝太郞が内儀さんを背負う様な担ぐ様な恰好で運び出し、次に被告人小島敏雄が五つになる子供を腕に抱え込む様にし、赤ん坊を提げる様にして運び出し、一番後から私が幸太郞を担ぐ様にして運び出した。そして皆で穴の処まで持つて行き一番先に内儀さんを埋めた。頭は西の方に向けた。次に子供二人を入れ、最後に幸太郞をその上に埋めたが、頭は西の方に向けた。幸ちやは白い襦袢の様な物を着て居り、国防色のズボンの様な物を穿いて居りました。内儀さんが、何を着て居たかは判然しない。子供は着物を着て居た様であつた。此の四人を全部埋めてから上から三人で砂をかけて判らぬ様にして再び幸太郞の家に行つた。そして持つて来た電池を点けて家探しを始めたが、私が、ああそうだ、金は何処にあると尋ねたら被告人近藤勝太郞は箱の中にあると云つたので箪笥の上置を見るとメロン箱の様な物があり、その中に風呂敷包があつた。風呂敷は畳んで巻いてあり、その中に新聞紙があり、新聞紙の中に百円札があつたので私は此の風呂敷を巻いて自分の腰に巻き付けた。二人は箪笥の抽斗を開けて見て居つたが上の方にはいいのが無いなと云つて下の二つの抽斗を開けて其処に在つた衣類等を全部取出した。二つの抽斗は中には何も無くなる様に殆んど空にして出して終つた。そうして被告人近藤勝太郞が之も持つて行くかと云つたので私がそうかと云つて蒲団の処にあつた毛布を拡げて之に抽斗から出した衣類を包んだ。その衣類と云うのは男物の羽織や着物、紋付の羽織、袴、洋服、内儀さんの黒の着物、その他、羽織、着物、簡単服等で、勘定はして見なかつたが、二十点以上あつた様に思う。此の毛布に着物を全部包んでから箪笥の横に二尺五寸四方位の箱があり、その中に子供のおしめ等ごたごたした物があつたのでこれを取出して、此の箱の中へ此の衣類を包んだ毛布を入れてそれから私は前の小屋の中に在つた自転車を取出して此の箱を自転車に積込んだ。私がこんなことをして居る間に二人の者は家の中を片附けて蒲団を畳んだりして居つた。それから被告人近藤勝太郞が自転車の荷台に此の箱を縛り私が此の自転車を転がし、被告人近藤勝太郞が車の脇になり、同小島敏雄が後から尾いて来た。三人で幸太郞の家を出る際に私が二人に対し北の方に行つたのでは危くて仕様がないから豊浜へ出てそれから湊へ出まいかと云つた。大体私の腹では被告人近藤勝太郞が同小島敏雄の家へ自転車や衣類を一時置く積りだつたので、幸太郞の処からの帰途に私の家の処から北に曲れば二人の家へ行くのは近いが若しその途中人に見られては後で幸太郞等が殺された事が判つた場合直ぐに自分等がやつた事が判つて終うので、豊浜の方から来た様にすれば、仮に人に判つても怪しまれることもないと思つたからである。そして三人は私の家の北方の道を西の方に行つて約二町余行つた西明の浜道を南の方に下りて約一町程行つた第二防風林まで行かない処を右の方即ち西の方に曲つて行つた。此の道は細道で、この道を二町半位行つて御長屋橋を渡つたが、橋の手前の処の七、八間位は道路が無いので畑を通つて行つた。此の橋を渡ると豊浜であるが、其処から三町位真直に行つて豊浜の浜道へ出て右へ曲り、小島方迄出て大工のなあーちやーの処から公道に出てそれから約一町程行つた温室の釜の潰れたのがある処迄来た際に、もう湊も近くなつたので其処で取つて来た風呂敷包を開けて三人で目分量で分けた、それから歩き乍ら、私がやい此の荷物はどうするのだと聞いたら、被告人近藤勝太郞が吉野の家の処に置いて来ればいいわと云つた。それから湊へ差しかかつて来たので私が人に会つてはいかんから一緒に並んで行つてはいかんと申し、被告人小島敏雄が一番前を歩きそれから七、八間後れて私が自転車を引張つて歩き、一番最後に被告人近藤勝太郞という順序でばらばらに行つた。被告人吉野信尾は顔丈は知つて居るが交際はして居ない。勿論同じ字であるから同被告人の家は知つて居る。同被告人の家の処まで行つたら、被告人小島敏雄は同吉野信尾の家の前の処で立つて居り、私は前の方の小路に自転車をずり込んで被告人小島敏雄の処迄行き二人で五、六間離れた火の見の処まで行つた。暫くすると被告人近藤勝太郞も来て、同被告人と被告人小島敏雄は二人で話をしてから二人は被告人吉野信尾の門口から同被告人の家に行つた。私は火の見の処で約十五分位待つて居つたが、二人共帰つて来ないので近所の妹の家に行つて一服して二、三十分して又火の見の処まで行き、其処から十間位離れた自転車を置いた処迄行くと自転車はなくなつて居り、又被告人吉野信尾の家を覗いて見たところ被告人勝太郞同小島敏雄の声もしないので、もう取引も済んで帰つたのかと思つてそのまま家へ帰つた。家へ帰つたのは午後十一時前頃ではなかつたかと思う。八畳間で寝てから今日の分前の金を勘定してみると百円札で一万五千円ばかりあつた。同年十二月二日朝仕事に出ようとして居ると、被告人近藤勝太郞が来て着物が一部売れたと云つて新聞紙に包んだ物を寄越した。仕事に行く途中勘定してみると百円札で千七百円ばかりあつた。又同月十日頃仕事に行く途中大工の掲示板の所で被告人近藤勝太郞にあつたところ同被告人は一寸ばかり売れたからと云つて新聞紙に包んだ物を寄越した。後で勘定してみると千四百五十円ばかりあつたとの旨の記載
一、司法警察員の被告人近藤糸平に対する昭和二十四年三月二日附供述調書中同被告人の供述として、私は昭和二十三年十一月中に豊浜郵便局に二日、兄の近藤忠一の家へ三日等合計二十二日仕事に行き、兄の忠一の処では米や藁を貰つたが、あとは一日三百二十円の割で金を貰つた。同年十二月中には豊浜伊藤力一の本家に四日、他十五日半仕事に行き豊浜の伊藤力一の本家では四日で千九百円貰い、あとは一日三百五十円の割で金を貰つた。昭和二十四年一月は全部で二十三日働き一日三百五十円の割で金を貰つた。大体月に七、八千円位稼いで居り、生活費も七、八千円位掛つて居たとの旨の記載
一、証人紅林麻雄の当公廷に於ける、私は国家地方警察静岡県本部刑事部捜査課に勤務する警部補で昭和二十三年十一月二十九日発生した磐田郡幸浦村湊萩原幸太郞方に於ける強盗殺人事件、所謂幸浦事件の捜査に従事した。私は昭和二十三年十二月五日から同月二十七日迄現地に於て捜査に当つたが、年末、正月、衆議院議員選挙等の為め、一旦県本部に帰りその後昭和二十四年二月七日に磐田郡豊浜村青年会館に捜査本部が開設されたので再び右捜査本部に来て同年三月十四日迄捜査に従事したのである。右捜査に従事中昭和二十四年二月十三日の午後三時頃福田署に居た松島巡査部長から捜査本部の私の処へ前日十二日に窃盗の容疑で逮捕した被告人近藤勝太郞が、幸浦事件を自供したから取調に立会つて貰い度いと電話を掛けて寄越したので、私は直ぐ福田署へ行き当直室に於て同被告人と二時間か三時間位話をして見たのである。すると同被告人は被告人小島敏雄同近藤糸平と共に萩原幸太郞方一家四名を絞殺し、金品を強奪したことを自供し、四名の死体を舟小屋の西二、三間の処へ埋没したと云つて地図を書いて教えた。然しその夜は遅かつたので其の侭にし、翌十四日午前七時半か八時頃舟小屋の西の処へ被告人近藤勝太郞を連れて行つた。そうして同被告人に其処を掘らせると松の細い根が出て来たので、埋めてあるなら松の根が出る訳はないと思つて居ると、其の内に同被告人が隊長さん一寸待つて呉れと云つたので、私が同被告人の所へ行つてみると、同被告人は実は、埋めた場所が違うと云つたので、私は違つては仕方がないので捜査本部へ帰り、同被告人は福田署へ連れて戻り、北巡査部長と松島巡査部長に取調をさせた。ところが午前十時半頃松島部長から電話が掛り、同被告人が今度は本当に死体を埋めた場所を自供したと云つて来たので私は直ぐ車で同被告人を連れて被害者方から約四百五十米位南方の砂防の中浜道より五十米位西の処へ行つた。そうして其処で同被告人がスコツプで深いと云い掘り出した。見て居ると仲々深く同被告人は汗を出して掘つて居るので松島部長が代つて其処をスコツプで掘つた。そうするとスコツプの先にこちんと云う音がし、尚その附近を掘つて行くと国防色の上衣のポケツトの処が見えて腐敗の臭がしたのでこれ以上掘る必要はないので検事の処へ連絡をとり、同被告人を連れて福田署へ戻つたとの旨の供述
一、証人北徳太郞の当公廷に於ける、私は昭和二十三年八月二十日から南磐田地区警察署に勤務し、刑事係をして居る巡査部長であるが、同年十一月二十九日磐田郡幸浦村湊萩原幸太郞方で発生した強盗殺人等の事件の捜査に従事した。同年十二月三日に萩原幸太郞の兄勘次郞から幸太郞一家四名が行衛不明だという届出があつたので直ぐ右勘次郞に立会つて貰つて幸太郞方の実況見分をした。すると布団は家の西側の箱の上に畳んで積んであり、部屋の中は乱雑になつて居らず勘次郞は不断と何も変つた事はないと云つて居つた。色々家の中を見ると唯箪笥と箱の中が少し乱れて居り幸太郞は当時飴を製造して居て相当小金を蓄えて居たということを勘次郞の云う事では少くとも三、四万円の金はあつたというのであるが、その金も失くなつて居り又衣類も失くなつて居るということであつたので、家出ではなく強盗殺人だと私達は考えて捜査を始めたのである。そして死体が無いので犯人が流し鑑であるか、土地鑑であるかと云う事を先づ考えたが、流し鑑であるという事はあの様な場所の粗末な家へ入るということは今迄の私達の経験上無いと断定し、土地鑑であるという方針をとり、附近五ケ村の外廓から不良者、盗癖者、賭博をやる者等を洗い出してだんだんその範囲を縮少して幸浦村又は豊浜村の内に犯人があると睨み、徹底的に捜査をやつた。そして昭和二十四年の二月十二日に至つて、被告人近藤勝太郞を近藤糸平方で時計を盗んだという嫌疑で、同小島敏雄を硝子を盗んだという嫌疑で夫々逮捕した。私達は被告人近藤勝太郞は近藤糸平の家へ泥棒に入る様な人間であり、又当時被告人小島敏雄等と毎夜の様に博奕をやつて居て金に困つて居ると云う事であつたので或る程度疑を持つて居たのである。そして被告人近藤勝太郞は二月十三日の午後三時頃被告人近藤糸平同小島敏雄と一緒に幸太郞一家を殺害し、金品を強奪し、死体を舟小屋の西に埋めたことを自供した。其処で其の日は遅かつたので翌十四日朝八時頃其の舟小屋の西へ同被告人を連れて行つた。処が其処をいくら掘つても死体は出て来なかつたので福田署へ引返した。そして福田署で又同被告人を調べたところ、嘘を云つて申訳ない、今度は本当の事を云うと云つたので、何処へ埋めたと聞くとおむつの落ちて居た道を南へ砂防にぶつかつたところから、二、三十米西の被告人小島敏雄の畑の尻へ埋めたと云つた。
其処で間違ないかと念を押すと、今度は間違ないと云つたので其の日の昼少し前に私、松島部長、小木巡査とで、被告人近藤勝太郞を連れて其の現場へ行き、同被告人にスコツプで掘らせた。そうして二尺位掘つて行くと軍服の釦が見え、その横に小供の頭の様なものが見えたので松島部長に其処を見張つて貰つて其の他の者は引返し、検察庁へ連絡し、検事の検証を願つたとの旨の供述
一、第三回公判調書中証人北徳太郞の供述として、私は昭和二十三年十一月二十九日夜発生した静岡県磐田郡幸浦村湊萩原幸太郞一家が殺害された事件に付て、同年十二月五日から捜査に従事した。同年十二月三日の午後、萩原幸太郞の兄勘次郞から同年十一月二十九日の夕方迄は幸太郞一家の者は居たが、同月三十日に家人が居らないので、同家の表戸を開けて見たら何処かへ行つたということが判つたが、その後心配になり、親戚を探して見たが判らないと云つて行方不明の届出をして来たので、同年十二月四日に杉山警部補が幸太郞方に実況見分に行つたのである。そしてその結果屋内の衣類現金自転車がない状況から見て又幸太郞方居宅内は整然として居たのであるが、同家より南方約四百五十米の道路上におむつが落ちて居り、又反対の方向の被害者方から西方約四百五十米の麥畑中に自転車の轍がありその轍の附近に被害者方の布団の中にあつた紺絣布切と同一の布切が落ちて居てその轍の附近に足跡が三つあつて西の方向に行き豊浜村に入つた形跡があるので単なる行方不明でなく強盗殺人であるということがはつきり判つたのである。被害者方で失くなつた物の点数の確認については非常に苦心したが、被害者萩原ふみ子の実母の久保田きよがふみ子の次男賢二のお産の時に手伝に行つてふみ子の衣類の点数に付て判つて居るという事であつたので、それを資料にして大体の被害の点数が判つたのである。そして本件犯行は同年十一月二十九日の夜被害者幸太郞一家が寝てから為されたものと推定されたので先づ被害者四人の屍体を発見してからでないと犯人の捜査方針が立たないので被害者四名の屍体発見に全力を注いだ。それで警察官は勿論幸浦村消防団、豊浜村消防団の応援協力を得て、おむつの落ちて居た附近を中心に海岸東西約二里の間を各自発掘屍体を捜査したが、屍体の発見に至らなかつた。その屍体発見に協力した人員は延約二千三百人であつた。ところが屍体が発見されなかつたのでだんだん其の捜査もゆるんで来たのである。然し本件が強盗殺人事件であることは否定は出来ないので県の捜査課からの応援を得て磐田郡豊浜村青年会館を捜査本部として被害者萩原幸太郞は飴製造をして居つたので其の商売関係、親戚、附近の不良、痴情関係等から割出し附近五ケ町村に重点を置き、全県下は勿論他府県に亘つて同年十二月二十七日迄捜査を進めたのである。処が有力な証拠は発見されず、屍体も発見されなかつたので昭和二十四年正月になつて県の本部の人は帰り、その後は南磐田地区警察署の者丈で捜査を進めて居つた。そして同年二月七日又豊浜村青年会館に捜査本部を設け捜査を続行した。ところが同月十二日の夕方に被告人近藤勝太郞を昭和二十三年八月十五日頃幸浦村湊近藤糸平方で時計を盗んだという嫌疑で、又同小島敏雄を同年八月頃八木秋太郞と二人で幸浦村湊太田賢一方で硝子を盗んだという嫌疑で夫々逮捕し、被告人小島敏雄は私が取調べたところ右硝子の窃盗を自供し、被告人近藤勝太郞は昭和二十四年二月十三日私と松島部長とで取調べたところ、右時計の窃盗を自供したのである。そして同日午後三時頃被告人近藤勝太郞は私等に向つて、被告人小島敏雄同近藤糸平の二人と一緒に萩原幸太郞一家四名を殺害した上金品を強奪したことを自供し、四名の屍体を船小屋より二、三間西へ埋めたと云つたのである。翌十四日午前八時頃被告人近藤勝太郞の自供に基いて私と県の紅林警部補、松島部長とが、被告人近藤勝太郞と一緒に舟小屋の二、三間西の処へ行つて其処を一尺位掘つて見たところ同被告人は実は此処に埋めたことは嘘だ、俺は殺して居らないと云つたので、私共は嘘では仕方がないと云つて福田の警察へ引揚げた。そして又福田の警察で取調べると十分も経たない中に、同被告人は今度は本当の事を云うと云つて、被害者四名の屍体を発掘した処へ私、松島部長、紅林警部補を案内したのである。そして同被告人が其の指示した処を二尺位掘り、後を松島部長が掘つて四、五尺掘つたところ小供の頭の様なものが出、又被害者の洋服のズボンがとれて出て来たので同被告人を其の侭福田の警察へ連れて帰り、検事の検証を願う為め、電話で連絡を取つたのである。その屍体が出たのは午前十一時頃であつた。屍体が発見される迄被告人近藤勝太郞が指示したのは右の二箇所丈で五、六回場所を指示した様なことはなかつた。右被告人近藤勝太郞の自供に基き、被告人小島敏雄を強盗殺人の容疑で取調べたところ最初はそんなことは知らないと云つて居たが、同月二十日の午後三時四十頃本件犯行を自供するに至つた。又被告人近藤勝太郞の自供に基いて同近藤糸平を同月十四日の夜緊急逮捕し取調べたところ、同被告人は幸太郞の隣家だし、幸太郞の子供が遊びに来たり、自分の子供が遊びに行つたりして居る間柄であるからそんなことは知らないと云つて居つたが同年三月四日午後七時三十分頃本件犯行を自供したのであるとの旨の記載
一、第三回公判調書中、証人松島順一の供述として、私は昭和二十三年十一月二十九日発生した静岡県磐田郡幸浦村湊萩原幸太郞一家が殺害された事件について、昭和二十四年二月八日から捜査に従事した。そして同年二月十二日午後五時頃被告人近藤勝太郞を窃盗の嫌疑で逮捕し、その日、北部長と一緒に同被告人を調べたところ同被告人は近藤糸平方で時計一個と現金四百円を盗んだことを自供した。翌十三日も同被告人を取調べたところ同被告人は寺田喜八外二、三箇所で博奕をやつて昭和二十四年になつてから二千円許り損をしたと云つて居つたが、その際約七千五百円位収支不明の金があつたので聞いて見ると、同被告人は手数掛けて申訳無い、私も真人間になるといつて昭和二十三年九月頃公会堂で安間正治の時計一個を盗み又同年七月頃畑の西瓜を盗んだと申した。それで外にどうしたと聞くと申訳ない、真人間になる、賭博の資金や小遣銭に困つて近所の近藤糸平、小島敏雄と一緒に萩原幸太郞一家を殺して金品を強奪し、一家四名の屍体は萩原幸太郞方の西南方の船小屋の西へ穴を掘つて埋めたと云つたのである。被告人近藤勝太郞が本件犯行を自供したのは同日午後二時四十分頃であつた。其処で翌十四日午前七時頃に、同被告人を連れて舟小屋の西に行き、同被告人に埋めた処を指示させて其処を掘らせたところ、少し掘ると同被告人は刑事さん嘘を云つて申訳ないと云つたので私共は嘘では仕方がないと云つて福田の警察へ引揚げたそれから福田の警察でなお取調べると午前十一時頃同被告人は嘘を云つて申訳なかつた今度は本当の事を云うと云つて被害者等の屍体を発掘した処へ連れて行つた。其の時一緒に行つたのが、北部長、私、紅林警部補ともう一人運転手であつた。其の地点に行くと同被告人が此処だと云つて二尺位掘り、それから私が二尺位掘つたところ幼児の頭が出て来たので、其処は其の侭にして置いて浜松の検察庁へ電話を掛けて検事の検証を願つたのであるとの旨の記載
一、第四回公判調書中、証人紅林麻雄の供述として、私は昭和二十三年十一月二十九日発生した磐田郡幸浦村湊萩原幸太郞一家が殺害された事件について県本部から来て同年十二月四日から同月二十七日迄捜査に従事したが一時捜査を中止し本部に引揚げた。そして昭和二十四年二月七日に磐田郡豊浜村に捜査本部が出来てから私も其処に行き同年三月十四日迄捜査に従事した。私は昭和二十三年十二月五日に現場を見たが、其の時被害者方では衣類と自転車がなくなつて居つたので、確実に強盗殺人とは断定出来なかつたが、何かそういう犯罪に関係があるものと思つて捜査をした。又被害者萩原幸太郞方居宅から西南方約四百五十米の地点の麥畑の中に自転車の轍があり、それに並んでズツクの足跡があり西の方に向つて居り、その北に草履の足跡があり轍の南二間位の処に並行して駒下駄の足跡があつたが、私は当時それを実際に見て確認した。昭和二十四年二月十二日に被告人近藤勝太郞を昭和二十三年八月頃近藤糸平方で時計一個を盗んだという嫌疑で、又被告人小島敏雄を同年八月頃八木秋太郞と共に硝子を盗んだという嫌疑で夫々逮捕し、私は直接取調べをしなかつたが、県から応援に来た刑事や南磐田地区警察署の者に調べさせた。ところが、昭和二十四年二月十三日の午後三時頃だつたと思うが、福田町警察署に居る松島部長から被告人近藤勝太郞が窃盗の事以外に幸浦事件も素直に自供して居るから来て呉れと云つて来たので私は直ぐ同被告人の処へ行つて二時間位話をした。すると同被告人は近藤糸平、小島敏雄と三人で幸太郞一家四名を殺し、穴は殺しに行く前に掘つて置いて屍体を埋めそれから金や衣類等を奪つたと自供した。そして同被告人は幸太郞等の屍体を幸太郞方の西南方にある舟小屋の西へ埋めたと云つたので私は同被告人に其の地点の地図を書かせ、午後七時頃福田町警察署を引揚げた。其の日は夜になつたので屍体を捜査することはやめて、翌十四日前日の自供に基いて午前六時半か七時頃被告人近藤勝太郞を其の屍体を埋めたという船小屋の西へ連れて行つた。同被告人は其処を二、三回掘つたところ直ぐ此処は嘘だと云つたので私は嘘では仕方がないので午前八時半頃福田町警察署へ帰つた。同被告人はそれ迄に屍体の埋没地点に付て供述を飜えしたことはない。それから私は捜査本部へ帰り松島、北両部長に引続き同被告人を取調べさせたところ、同日午前十一時頃松島部長から、同被告人が今度は屍体を埋めた場所に付て本当のことを云つて居るから現場へ行つて貰い度いという電話があつたので、私はそれから松島、北両部長と共に同被告人を連れて現場へ同被告人の案内で行つた。そして同被告人がスコツプで深く埋めたと云つて冬で寒いのに拘らず、汗を出して掘るので、途中で松島部長が交替し更に深く掘つた。するとゴツンと云う音がしたので、其処をよく見ると子供の頭という事が確認出来たので其の侭其処を保存して置く様に命じて浜松の検察庁へ電話で報告し検事の検証を願つた。それで検事が来て其処の場所を掘ると幸太郞一家四人の屍体が出て来たのである。被告人近藤勝太郞が屍体埋没箇所を五回も六回も案内したことはない。被告人吉野信尾は同近藤勝太郞、同小島敏雄の自供に依つて逮捕したが、被告人吉野信尾は刑事の取調べに際し、否認して居つたので同年三月六日に同被告人の妻吉野千枝子に捜査本部に来て貰つて私が取調べたのである。同人は其の日の午前中は覚えがないと云つて居つたが、昼食時になつたので同人に別室で昼食をとらせ、それから午後一時頃から又同人と話をした。すると同人は隠して居て申訳ない実は近藤勝太郞が十一月二十九日午後十一時頃売りに来たことは知つて居る。其の時私は奥で子供に乳を呉れて居つたが、近藤勝太郞が入つて来て主人と二言三言話をして帰つた。其の時衣類と自転車を持つて来たと述べたのであるとの旨の記載
一、第五回公判調書中、証人前芝愛明の供述として、私は昭和二十三年一月頃賭博を覚え、被告人近藤勝太郞、同小島敏雄、近藤政光等とドサリやカオという賭博を砂糖工場、夜警小屋や煙草屋でちよいちよいやつた。賭金は一度に二、三十円から多くて五十円位であつた。私が被告人近藤勝太郞同小島敏雄等と賭博を頻繁にやる様になつたのは、同年十二月頃からである。被告人近藤勝太郞と同小島敏雄とは同年十二月頃から特別仲が良く何時も一緒に遊んで居り、博奕場へも二人で行つて居たとの旨の記載
一、第五回公判調書中、証人八木秋太郞の供述として、私は十八才位から夜間被告人近藤勝太郞、同小島敏雄、近藤政光等と砂糖工場、私の家、鈴木祐一という煙草屋等でドサリという博奕をやる様になつた。賭金は少くて十円位で多い時は百円位であつた。昭和二十三年十一月と十二月と賭博をやつた回数を比べると十一月の方が余計やつたが十二月も相当やつた。又昭和二十四年一月も相当やつた。被告人近藤勝太郞が逮捕せられる迄に私も同被告人も博奕で一万円以上負けた。私は昭和二十三年十月頃三回位被告人吉野信尾の家で被告人近藤勝太郞、同小島敏雄、近藤政光の三人と博奕をやつたことがある。私、被告人近藤勝太郞、同小島敏雄は家の米を胡麻化して被告人吉野信尾の所へ持つて行つて売つたことがあるとの旨の記載
一、第五回公判調書中、証人近藤政光の供述として、私は昭和二十三年五月頃賭博を覚え、其の頃から八木秋太郞、前芝愛明、兄の被告人近藤勝太郞、同小島敏雄等と幸浦村湊の砂糖工場、公会堂、夜警小屋等で賭博をやつた。私は同年十二月半ば頃一回被告人吉野信尾の家で被告人近藤勝太郞、同小島敏雄、八木秋太郞と一緒に賭博をやつたことがあるとの旨の記載
一、第五回公判調書中、証人鈴木祐一の供述として、私は幸浦湊村で煙草や菓子の販売業を営んで居る者であるが、昭和二十三年十一月頃迄は被告人近藤勝太郞、同小島敏雄は殆ど私の店に来たことはなかつたが同年十二月頃からは頻繁にやつて来る様になつた。同被告人等は大抵夕方にやつて来て二人共一人三十円位宛菓子を買つて喰べた。被告人近藤勝太郞は毎日煙草を一個宛買つて居たが同年十二月頃十本入りの憩を二十個一度に買つたことがあつた。被告人近藤勝太郞と同小島敏雄とは仲が良かつた様である。同被告人等は昭和二十四年の正月元旦二日及び其の後二回程私の家に来てカオとかドサリとか云う博奕をやつたことがあるとの旨の記載
一、第五回公判調書中、証人近藤はるの供述として、私は被告人近藤糸平の妻であるが、夫との間に長女千代子二十三才長男郁雄十七才、次女玉恵十三才、三女とも子九才、次男豊六才の二男三女を儲けて居る。夫は左官で毎日人から頼まれて竈等を造つて居り、私と長女千代子は繩をなう内職をしてその繩を村の農業協同組合に納めて居た。私の家の収入としては夫の左官の収入と私と娘が繩の内職をして得る収入以外にはない。昭和二十三年十一月は生活費として七千円位、十二月は九千九百三十三円、昭和二十四年一月は約一萬円位掛つたと思う。昭和二十三年十二月には夫の豊浜村吉野屋の手間代が三千円、幸浦村農業協同組合の手間代が千五百円、私と長女の繩の手間代が千五百円と云う収入があつた。私と長女の繩の収入は昭和二十三年十月、十一月頃は余りやらなかつたが、同年十二月、昭和二十四年一月には千円位はあつたと思う。繩は農業協同組合以外の所に売つたことはないとの旨の記載
一、第五回公判調書中、証人上平ちゑの供述として、私は幸浦村湊で昭和二十一年十月頃から菓子小売業を営んで居るが、被告人近藤勝太郞、同小島敏雄は其の頃から私の店にちよいちよい来てお菓子を二十円か三十円位買つて行つた。昭和二十三年九月か十月頃から被告人近藤勝太郞と同小島敏雄とは何時も夕方七時頃どちらか一人先に来て相手を待つて居て二人になると一緒にどこかへ出て行つた。そして同年十一月頃からは二人は毎晩の様に私の店へ来て何時もお菓子を五円か十円宛買つたが、被告人近藤勝太郞は多い時には五十円も七十円も買つたことがある。しかしそれは稀であつた。其の頃二人が私の店に来た時の服装は被告人近藤勝太郞の方は黒い胴着に国防色のズボンを履き履物は下駄の時も草履の時もあつたが帽子は被つて居らなかつた。被告人小島敏雄の方は白ぼつたいジャンバーを着茄子紺色のズボンをはき時には縞の半纒を着て居ることもあつた。履物は男物の日和下駄を穿いて来たり、妹の下駄を穿いて来た事もある。帽子は茄子紺色のスキー帽を被つて居つたとの旨の記載
一、第六回公判調書中証人寺田喜八の供述として私は幸浦村湊で自転車の修繕兼物品小売販売業を営んで居る者であるが被告人近藤勝太郞や同小島敏雄はちよいちよい私の店に遊びに来た。そして昭和二十四年一月頃からそれ迄は二人で一緒に来たことはなかつたのが二人で一緒に来る様になつた。私方に来るのに一人が先に来て後からもう一人が来るという事が多かつた。それで私は其の頃二人に対し馬鹿に仲が良いなあと云つてひやかしたことがあつたが、すると被告人近藤勝太郞は訳があるから仲が良いと云つて居つたとの旨の記載
一、第六回公判調書中証人萩原りての供述として、殺された萩原幸太郞は私の甥で三年位前から幸浦村湊に来て其の兄の萩原勘次郞の温室の道具を入れる家を借りて住み其処で藷を煮て飴の製造をやつて居つた。幸太郞一家の生活状態はいいと思つて居つた。飴を製造して小金を蓄めたと云う評判もあつた。昭和二十三年十一月二十九日午後二時頃田からの帰りに幸太郞の家に寄つた処、妻のふみ子が子供の賢二を抱いて藷を煮る釜の火をたいて居つたので私もその釜の前にしやがんで火に当り午後四時頃帰宅した。私が行つた時は幸太郞は居らなかつたが暫く経つてから帰つて来て新聞を見て居つた。私が帰る当時幸太郞一家には何も変つた様子はなく又私が其処に居る間誰も人は来なかつた。翌三十日私は幸太郞方に寄らなかつたが次男の孝が午前九時頃幸太郞の家へ煙草の火を借りに行つたところ孝は何処かへ行つたか、誰も居らないと云つて帰つて来た。其処で私は孝と何処かへ手伝に行つたなと話合つたのである。同年十二月三日の朝萩原勘次郞が私方に来て幸太郞が帰つて来ないで心配だから親類で尋ねてみようと云つて来たので私方では次男の孝をやることにした。其の時孝は浜へ漁に行つて居つたので私は浜へ同人を呼びに行つた処浜の処の道におむつが三枚とおむつカバー一枚が落ちて居たのでそれを拾つた。そしてそのおむつは幸太郞方に乾してあつたものと比べてみると同じものであつたので幸太郞方のものと思つたのであるとの旨の供述
一、第六回公判調書中、証人加藤智の供述として、私は昭和二十三年十月頃から昭和二十四年一月頃迄の間毎月二、三回位宛被告人近藤勝太郞、同小島敏雄と幸浦村湊の公会堂、砂糖工場、煙草屋でドサリやカオという博奕をやつた。賭金は一度に十円から百円位の間であつた。被告人近藤勝太郞と同小島敏雄とは仲が良かつたとの旨の記載
一、第六回公判調書中、証人鈴木文男の供述として私は昭和二十三年十二月三十一日砂糖工場で被告人近藤勝太郞と博奕をやつたことがある、又昭和二十四年一月には被告人近藤勝太郞、同小島敏雄と二回程夜警小屋、煙草屋で博奕をやつたことがある。博奕はドサリやカオで一度の賭金は十円から百円迄の間であつた。被告人近藤勝太郞と同小島敏雄とは何時も一緒に行動して居り仲が良かつた。二人とも金費いが荒かつたとの旨の記載
一、第六回公判調書中、証人小島峻の供述として、私は昭和二十三年十一月二十九日に萩原幸太郞一家四名が行方不明になつたと云う事を同年十二月二日頃知り、当時消防団の役員をして居つた関係もあり同じ部落の出来事であつたので消防団の人達と共に同月四日頃から幸太郞一家の行方を捜したのである。其の際幸太郞方から西方約六、七百米の畑の中に自転車の轍があつて其処に木綿紺絣の布切一枚が落ちて居た。又其の自転車の轍の附近に下駄とズツク靴の足跡がありその下駄の足跡は下駄の歯の幅が狭かつたので女下駄と直感したのであるとの旨の記載
一、第九回公判調書中、証人久保田きよの供述として、私は亡くなつた萩原幸太郞の妻ふみ子の母親であるが、昭和二十三年十二月三日頃掛川の親戚から電話が掛つて来て萩原幸太郞一家が行方不明になつたということを知つたので私は其の日に長男誠策と二人で幸浦村湊の萩原勘次郞の家に行き、それから幸太郞の家に行き更に幸太郞一家の死体でもないかと思つて海岸の方へ捜しに行つた。途中被告人近藤糸平が其の自宅から飛び出て来て私等に会つても何も云わずにこにこして居るので私は娘夫婦や孫が何処かへ行つて仕舞つて気が狂いそうになつて居るのに近所の者としてあんまりであるので私は同被告人に対し貴方も捜しに行つて呉れるのかと云つたところ同被告人はああと一口云つた丈で私等の後を追つて来た。そうして後に屍体が出た附近迄行くと同被告人は俺は池を見に行つて来るからお前等他を捜して呉れと云つて池の方へ行つた侭戻つて来なかつたので私は誠策に対し糸平は何処へ行つたかわえ変だねえと云つたとの旨の記載
一、第九回公判調書中、証人安間丹蔵の供述として、昭和二十三年十二月二日頃私は浜松に行つて帰りがけに自宅の近所で加藤利平に会つたところ同人は私に対し萩原幸太郞一家が二、三日前から何処かへ行方不明になつて困つたと云う事を申したので私は自宅に帰り隣家の衆と寄々話をして隣家の人八人、幸太郞の親戚の人四、五人で海岸の方へ捜しに行く事になつた。その時は家を出る時皆一緒に行つたのではなく先に行つた人も後に行つた人もあつて中浜道の海岸の砂防の処に集つた。そして私共が砂防へ着いた頃被告人近藤糸平が西の方から来て西の方は西浜道迄捜して来たが何もなかつたと申したので私共は中浜道より東の方の砂防を東浜道迄約四、五丁を捜した。そして東浜道で一服して又中浜道に戻つて帰つた。後に屍体は中浜道より西の方から出たのであるとの旨の記載
一、第九回公判調書中、証人鈴木よしの供述として、私は殺された萩原幸太郞の妹であるが、昭和二十三年十二月二日の昼頃私の処へ姉の渥美さとの夫渥美正能が、幸太郞一家が居らなくなつたと云つて呼びに来たので私はすぐ幸浦村湊の幸太郞の家に行きそれから兄萩原勘次郞の家へ行つて昼食をして午後一時頃から姉渥美さと、義兄渥美正能、加藤利平等の親戚や、安間丹蔵、大場東太郞、金原義雄、岩瀬富一、岩瀬茂作、太田賢一等の隣家の人達と一緒に海岸へ幸太郞一家の死体を捜しに行つた。私達は中浜道を海岸の砂防迄行き其処で二手か三手に別れて捜した。私は姉、義兄、被告人近藤糸平の四人で捜したが同被告人は中浜道の西の方から出て来て私達に今迄西の方を捜して来たが西の方にはないと云つたので私達はそれより東の方の北側を捜した。四人で捜して行くとお藷を入れる穴が二つあつたが同被告人は其処で幸太郞一家は先に夫を連れ出して殺し、次に妻を夫が殺されたと云つて連れ出して殺すという様に二段構えで殺されたのだと云つて居つたとの旨の記載
一、第九回公判調書中、証人大場東太郞の供述として、私は昭和二十三年十二月二日の朝萩原幸太郞一家が行方不明になつたことを聞いたが私の家は幸太郞の兄萩原勘次郞の隣家であるのですぐ勘次郞の家へ挨拶に行つた。そしてその日昼食を食べてから私は金原義雄、近藤新作、太田賢一、安間丹蔵、岩瀬富一、岩瀬茂作等の隣家の衆や、幸太郞の親戚の人達と一緒に中浜道を真直ぐに行つた海岸の砂防を捜した。私は海岸の砂防迄行つて安間丹蔵等と頂上で一服して後から来る人を待つていたところ、被告人近藤糸平は砂防の西側の方から出て来て私達に対しどうも此の西の方をよく見て来たが死骸がある様な形勢はないから東の方を捜した方がいいと申したので私達は西の方は全然捜さず東の方を全力を挙げて捜したとの旨の記載
一、第十一回公判調書中、証人紅林麻雄の供述として、私は所謂幸浦事件を捜査するに当り、萩原幸太郞一家の者の死体は海へ投げ棄てたか、土へ埋没したか二つの場合であると想像した。そして昭和二十三年十二月五日に私以下五名位で幸太郞方へ行き、犯行の状況、死体を運搬し得る状況に付て実地に研究して見た。そして土地の漁師の云う事を聞いてみると海へ死体を投げ棄てたものであれば四人の内一人や二人は必ず何処かへ上つて来ると云う事であつたので私は死体は土へ埋めたと思つた。そして斯る推定の下に幸浦村及び其の附近海岸一帯を二千数百人掛つて捜査したが、死体は発見されなかつた。昭和二十三年十二月十八日前後におむつの落ちて居た道路を南へ行つて砂防を西へ二、三百米東へ五、六百米、掘つてみたが、発見出来なかつた。又其の後、後に屍体が出た現場から西へ一里、東へ一里位捜したが、発見出来なかつた。又私は犯人は幸浦村及び其周囲五、六箇町村の内にあると思い捜査を続け其の範囲を縮めて行くと幸浦村湊に三人組の不良があつて硝子泥棒をやり又昭和二十三年七月頃近藤糸平方へ泥棒に入つた者があり、糸平の娘千代子が夜眼を覚まして見るとその者は近藤勝太郞に間違いなかつたので其の後千代子の母親が湊の駄菓子屋上平ちゑ方で勝太郞が居たので私の家に泥棒が入つたと当こすりを云うとそれから二、三日後に糸平方の垣根に盗まれた時計が掛けてあつたから泥棒は勝太郞に間違いないと千代子が云つて居つた。それで私達は糸平の家に泥棒に入る様な男だから幸太郞の家にも入るかも知れないと推定したのである。そこで昭和二十四年二月十二日被告人近藤勝太郞、同小島敏雄、八木秋太郞、近藤政光を窃盗の容疑で逮捕し、幸浦事件の事がこれによつて何か割れて来るのではないかと推量していたのである。四人共南磐田地区警察で逮捕し、被告人近藤勝太郞丈は福田署に連れて行き、松島部長と北部長とが取調べたところ、翌十三日に同被告人が強盗殺人の犯行を自供し死体を舟小屋の西に埋めたと云つたのである。同月十四日に被告人近藤勝太郞が指示して掘り死体が出た場所は掘る迄に捜査官の方では全然判つて居らなかつたのである。若し判つて居るならば最初舟小屋の所へ同被告人の案内で行く訳がないのである。被告人近藤勝太郞の案内で舟小屋の西へ行く前に警察官を立たして置いたこともないし、又現実に死体が発見された場所に本当に同被告人の自供通り死体があるかどうかを確かめる為めに刑事を派遣した様なことはないし、その現場へ行く前に現場保存をやつた様なこともなかつた。私達が被告人近藤勝太郞の案内で現場に行つて四尺位掘ると死体が出たのであるが、その際私達は局部的に掘つたのであり検事の検証の際には死体を損傷しない様に周囲から面積を広く掘つたのであるとの旨の記載
一、第十一回公判調書中、証人佐原敏の供述として、私は南磐田地区警察署勤務の警部補で幸浦事件が発生した当時は警務主任をやつて居り、刑事主任は杉山警部補であつたので直接其の事件の担当はしなかつたが、昭和二十三年十二月十二日に杉山警部補が他に転出したので同人に代つて刑事主任となつた関係で、十二月十三日から右事件の捜査に従事する様になつた。当時警察に於ては現場の模様やその他色々の点から強盗殺人事件であると推定して捜査し、死体は海に棄てたか、砂中に埋めたと考えたが、土地の人達は海へ棄てたものなら、海岸へ一人や二人は揚つて来るものだと云つて居つたので、砂中に埋没したものと推定し、被害者萩原幸太郞方居宅を中心に東西約二里の海岸を延人員二千人以上で捜査をしたが死体を発見出来なかつた。おむつが落ちて居た附近も念入りに捜し後に死体が発見された場所やその附近も捜したが判らなかつたのである。斯様にして十二月一杯捜査しても判らず昭和二十四年一月になつても判らなかつた。それで同年二月になつて、豊浜村の青年会館に幸浦事件の捜査本部を設け、同時に捜査の主体が国家警察静岡県本部に移つたのである。その当時の捜査方針としては強盗殺人とにらみ、被害者方へ出入した者、附近の不良等についてあらゆる角度から見て捜査をしたのである。犯人が同村の者だと云う事は誰も云つて居らなかつたが、近い者がやつたという事は考えて居つた。又地理に余り暗い者ではない、被害者方附近の土地を良く知つて居る者だと考えて居たのである。そして不良仲間の素行を洗つて大きな網を打つてだんだん締めて行く様にして捜査を進めて行つた過程に於て、被告人近藤勝太郞が近藤糸平の家へ入つて現金と時計を盗んだということを近藤千代子から聞き込んだのでそういう処へ入る男なら幸浦事件にも何か関聯が出来て来るのではないかと思つて同年二月十二日の朝南磐田地区警察署に任意出頭を求め、同署に於て令状の執行をしてすぐ福田町警察署へ連れて行つた。又同日硝子の窃盗事件で被告人小島敏雄、八木秋太郞、近藤政光を南磐田地区警察署で逮捕した。此等の連中は幸浦事件の犯人とは予期して居らなかつたが右事件を解決する材料が出て来るのではないかと考へていたのである。被告人近藤勝太郞丈を福田署へ連れて行つたのは同被告人が幸浦村の不良であるのでどういう事をやつて居るかも知れないと考えて居たからである。同被告人は同月十三日午後二時か三時頃窃盗事件の取調中賭博の金づかいが荒く五千七百円の出所不明の金があつたので、それを追及したところ、被告人小島敏雄同近藤糸平と共に幸太郞一家を殺害した犯行を自供したのである。被告人近藤勝太郞が自供する前に死体埋没箇所が判つて居たのならば同被告人の案内で翌十四日舟小屋の処に行く様なことはない。二月十四日に同被告人の指示により死体埋没箇所が判つたので、私は検察庁に連絡して検事の検証を願い、検事と一緒に現場に行つた。現場に行つたのは午後四時頃であつた。現場は直径二尺位に丸く掘つてあつて衣類のボタンの処が見えて居つたが体はかすかに見えて居てそれが何だか判らなかつた位であつた。そして萩原幸太郞の兄勘次郞と加藤利平とが、死体のある場所を中心に死体を損傷しない様に深さ五尺位掘つたとの旨の記載
一、当審に於ける証人萩原勘次郞に対する昭和二十四年六月十三日附尋問調書中、同人の供述として、昭和二十三年十一月二十九日午後五時頃私の長女はる子が温室の天窓を閉めに行つた時は萩原幸太郞一家四名は平素と変つた事なく長女は飴を貰つて帰つて来たのであるから、萩原幸太郞一家が居らなくなつたのは同日の夜からである。私は翌三十日朝朝食を済ませて午前八時頃幸太郞の家へ行つたところ、入口の戸は締つて居つて家の中を覗いて見ると自転車が無いのが認められ、誰も居らなかつた。私が幸太郞一家が居らなくなつたことを警察へ届けたのは同年十二月三日午前八時頃であつた。幸太郞一家が行方不明になつた模様については同月十四日司法警察官に述べた通りである。失くなつた自転車は昭和二十一年五月頃私が幸太郞に呉れたもので其の自転車が幸太郞方にあることは判つて居つた。又衣類は幸太郞が名古屋へ行つた時私の家へ預けて行つたことがあつたが、ないのでとられたと思つた。私は衣類や自転車のなくなつた事を警察へ届けたが、其の届出をするのに私一人の考へでやつたのでない。親類の者と一緒に調べて確かな数を届出したのである。殊に幸太郞の妻ふみ子の母親久保田きよは浜松に居るが、同人はふみ子の衣類をよく知つて居るので同人にも警察へ話して貰つたのである。私は幸太郞と金の話合はした事がないが、同人方に現金は三万円から五万円位はあつたと思う。然し何処に現金が入れてあつたかは知らない。自転車の轍のあつた処に落ちて居た布切と同様の布切が幸太郞の家の布団の中にあつた。被告人近藤勝太郞は幸太郞方には相当行つて居ると思う。私は同被告人が幸太郞の家に居る処を二、三回見た事がある。幸太郞一家の死体を発掘した時は死体を大事にする為め一時間位掛つたとの旨の記載
一、当審に於ける証人萩原孝に対する昭和二十四年九月二十四日附尋問調書中、同人の供述として、私は萩原幸太郞と従兄弟であるが、昭和二十三年十一月三十日母と共に萩原勘次郞方温室の北側の松並木の間に稲こきをやりに行つた時、午前九時半頃私が幸太郞方に煙草の火を借りに行つた処一家全部居らなかつたので兄の処へでも手伝に行つたものと思つて居つた。ところが同年十二月三日私が浜に行つて居ると母が幸太郞一家の者が行方不明だから捜さねばならないと云つて迎えに来たのでその時始めて幸太郞一家が行方不明になつたということを知つたのである。それで私は浜から帰り萩原勘次郞方へ行つたところ、嫁に行つたよしさんともう一人親戚の人と二人来て居つた。それから私は勘次郞の親戚の人や隣の人七、八人と共に浜の砂防の方へ捜しに行つたが、私達が砂防の手前迄行つた時、被告人近藤糸平が砂防の上の西の方から出て来て、私達に西の方は見て来たが、死骸の様なものはないと云つた。それで私達はそれから東の方を砂防の南と北とに別れて捜したのである。萩原幸太郞方で金がどの位とられたかはつきり分らないが、七万円位あつたのではないかと思う。私は昭和二十四年二月十四日幸太郞一家の死体を掘る時勘次郞が親戚の人で掘るから来て貰い度いと云つて呼びに来たので掘りに出た。其の時掘つたのは勘次郞、加藤利平、私、隣の太田善五郞であつた。掘り始めたのが午後三時頃で掘り終つたのが午後四時半頃であつた。私達が現場に掘りに行つた時其の場所は上の方が砂がとれて、一寸被せてある布が見える程度に一尺位掘つてあつた。私が一且戸板を取りに家に帰り、又現場へ行くと幸太郞が既に穴から上つて居り、それから上の子供を上げ、次に赤坊を上げ、最後に妻のふみ子を上げたとの旨の記載
一、当審に於ける証人萩原勘次郞に対する昭和二十四年九月二十四日附尋問調書中、同人の供述として、萩原幸太郞の所でとられた自転車というのはもと私が昭和十四年頃寺田自転車店で買つたもので昭和十五年頃車体を男女兼用のものと交換して引続き使用していたが、終戦後昭和二十一年頃之を幸太郞にやつたのである。昭和二十四年二月十四日の朝私は用事があつて外出し、十二時過ぎに家に帰つたところ、家内から警察から豊浜村の捜査本部に来る様にとの知らせがあつたということを聞いて私は午後一時頃捜査本部に行つた。そうすると捜査本部には警察の人が三、四人居て、私に対し、死骸が上るから準備する様に、そしてもう一時間も経つと浜松から検事が来てそれから掘り始めるからと云われたので、私は直ぐ家に帰り、死体を上げる準備をした。すると午後三時頃検事が来たと云う事であつたので、私は現場へ行つた。私が現場に行くと警察の人が四、五人其処に居てそれから三、四分経つてから検事が来た。私が現場に行つた時其処は深さ三尺位、長方形に掘つてあり、長い方は六尺短い方は三尺位の幅に掘つてあり、幸太郞が着て居た軍服の上衣の右の方が少し見える程度に掘つてあつた。そして午後の三時半頃から私と部落の親戚の萩原孝、加藤利平の三人で掘り、四浅羽村の私の妹の夫である渥美正能も手伝つて呉れた。私連は既に掘つてあつた処から更に又二尺五寸位掘り、午後五時半頃掘り終つて砂の上へ死体を上げた。死体は一番初め幸太郞、次に征男、次に賢二最後にふみ子を出したとの旨の記載
一、当審に於ける証人石原正則に対する昭和二十四年九月二十四日附尋問調書中、同人の供述として、私は幸浦村農業協同組合の職員で販売掛をして居る者であるが、幸浦村農業協同組合では被告人近藤糸平方から、藁工品を買受けたことがある。即ち昭和二十三年三月一日極細二十八束を千百三十六円八十銭、同年十二月二十九日極細三十束を千九百四十五円五十銭、昭和二十四年一月三十一日極細七束を四百五十三円九十五銭合計七十七束を四千三百五十五円で買受け、代金は其の都度支払つたとの旨の記載
一、受命裁判官の証人北徳太郞に対する昭和二十四年十月七日附尋問調書中、同人の供述として、昭和二十四年二月十三日午後遅く被告人近藤勝太郞が自供したので、夜中に死体を掘るのはどうかと思つたので、翌十四日午前七時頃福田署のオート三輪車を借りてそれを小木巡査が運転しそれに同被告人を乗せ、私と松島部長が乗つて出発した。そして途中豊浜村の捜査本部に十分位寄り其処から紅林警部補が乗つて萩原幸太郞方の西南方の舟小屋の二、三間西の処へ行つた。そして同被告人が其処をスコツプで掘つたが出て来ないので、紅林警部補が同被告人に向つてないではないかと云つたところ、同被告人は実は嘘だと申したので、私達は嘘では仕方がないので、同被告人を連れて福田署へ戻つた。そして福田署に於て朝食を済ませ、再び私と松島部長で同被告人を取調べた処、同被告人は嘘を云つて申訳なかつた。実は浜道のおむつの落ちて居た処から南へ砂防の上りにより西へ二、三十米位行つた処の被告人小島敏雄の畑のしりに埋めたと云つた。それで再び午前十時過頃同被告人を福田署のオート三輪車に乗せ小木巡査が運転して私と松島部長が乗り、途中豊浜の捜査本部へ寄つて紅林警部補を乗せて被告人小島敏雄の畑のしりの処へ行つた。其処へ着いたのは午前十時三、四十分頃であつたと思う。そして被告人近藤勝太郞が此処へ埋めたと云つて一尺か二尺掘りそれから松島部長が手伝つて其処を掘ると国防色の上衣と小供の頭とが少し見えた。其の時が午前十一時頃であつた。其処で周囲に繩を張つて松島部長を現場の見張りに残して私達は被告人近藤勝太郞を連れて福田署へ引揚げ浜松の検察庁へ連絡をとつて検事の検証を願つた。そして私達が引揚げてから、塩沢刑事、八木部長も現場の保存に任じたとの旨の記載
一、受命裁判官の証人松島順一に対する昭和二十四年十月七日附尋問調書中、同人の供述として昭和二十四年二月十二日被告人近藤勝太郞を近藤糸平方で時計を窃取したという嫌疑で逮捕し、同被告人を福田警察署で取調べたところ、その窃盗事件は自供したが、更に翌十三日に私は北部長と共に同被告人を取調べた。すると同被告人は昭和二十三年九月初頃公会堂で安間正治の時計一個を盗み、伊藤きくゑに八百円で売つて、博奕につかつてしまつたということを供述し、又昭和二十三年七千円位、昭和二十四年二千円位博奕で損をしたと云つた。又同被告人にはその他に飲食の小遣銭等で一万四千五百円許りの支出があつたので収入の点を追及したところ、家の米や麥を売つたり、籾すりをした収入が四千円、ズボンを吉野信尾に売つた収入が千円、その他農家の手伝の収入等で合計八千八百円ばかりの収入があり、差引五千七百円の収支不明の金があることが判明したので、その金について追及すると、同被告人は同日午後二時三十分頃昭和二十三年七月頃畑の西瓜を盗んだと申し又賭博の金に困つて被告人小島敏雄同近藤糸平と三人で萩原幸太郞一家を殺害し衣類、現金、自転車を奪つて得た金を博奕や小遣につかつた。又屍体を舟小屋の西に埋めたということを自供した。そこで翌十四日朝七時頃私と北部長、紅林警部補の三人で被告人近藤勝太郞を福田署のオート三輪車に乗せ、福田署の小木巡査が運転して舟小屋の西二、三間の処に行つた。そして其処で同被告人はスコツプで二、三回掘つたが実は此処へ埋めたのは嘘だと云つたので私達は嘘では仕方がないので、同被告人を連れて福田署へ戻つた。そして福田署で更に私と北部長と二人で同被告人を調べたところ、今度は同被告人はおむつの落ちて居た道を南へ行き、砂防の手前より二十米位西へ埋めたと自供したので私は今度は間違ないかと云うと、同被告人は間違ないと云つたので、北部長が捜査本部の紅林警部補の処へ連絡を取り、午前十時頃私と北部長は同被告人を福田署のオート三輪車に乗せて福田署を出発した。その時も小木巡査がオート三輪車を運転した。途中捜査本部へ寄つて其処から紅林警部補にオート三輪車に乗つて貰い、午前十時半頃同被告人の指示に従つて現場へ到着した。そして其処で同被告人が此処だと云つて二尺位掘り、次に私が交代して二尺位掘ると、幼児の頭が出て来たので、其処は其の侭にして置き、私が番人に残り、他の者は同被告人を連れて引揚げ、浜松の検察庁へ連絡をとつて検事の検証を願つた。死体が発見されたのは午前十一時頃であつた。私はその現場で十二時頃迄番人をして居たが、昼食時になつたので、塩沢刑事、八木部長と交代して捜査本部に昼食に帰つたとの旨の記載
一、裁判官の証人吉野千枝子に対する尋問調書中、同人の供述として、昭和二十三年十一月二十九日の夜何時頃であつたか判然と覚えて居らないが、私は自宅の六畳間に寝んで上の子を寝かし付けて居り、夫の被告人吉野信尾は裏の勝手場に居つたところ、被告人近藤勝太郞が裏の戸を明けて寒いなあと云つて這入つて来て、暫く夫と世間話をした後夫に対し博奕で負けた人が自転車と何か売り度いと云つて居るから何処か聞いて見てくれと云つた。夫がそれでは聞いてみてやると云つたところ、被告人近藤勝太郞は先づ自転車一台を持つて来て、又直ぐ出て行つて衣類見たいな風呂敷包を持つて来た。自転車は便所の傍に置いた。又風呂敷包は上り端へ置いたのを夫が押入の中か隅かに入れた。そして私はその事で夫に対しそんな若い衆の持つて来た物だから返した方が良いと云つて、夫と喧嘩になり、一口、二口云合つて私も怒つてそのまま寝んで仕舞つたが、翌日朝飯の時私は昨晩の事が気になるので止めた方が良いと又夫に云つたところ、夫は非常に怒り、其処で又一口、二口喧嘩をして、私もそれなり、御飯を食べて洗い物もその侭にして上の子を乳母車に乗せて福田町の実家に帰つた。被告人近藤勝太郞とは私が昭和二十三年七月頃麥刈に本家の西の文一さんという家へ手伝に行つた際同被告人もその家へ日傭取りに来て居つて知り合う様になり、同被告人はそれから姐さんと云つて私の家に遊びに来る様になり、小遣がないと云つて時々米を一升位売りに持つて来る様になつたのである。同被告人からは米の他麥も少し買つたことがある。又昭和二十四年一月の十日か十一日頃、同被告人は国防色のズボンを持つて来て姐さん買つて呉れと云つたので私がどういう物だと聞いたところ、家で買つて貰つたが、色も嫌になつたし、トランクも買い度いし、千円ばかり借金もあるから姐さんがいらないなら何処かへ頼んで貰い度いと云つた。その時夫は頭が痛いと云つて掛布団一枚をかぶつて寝んで居つたが、起きてそのズボンを穿いて見て俺には長い何処かで聞いて見てやると云つた。その時私は更に同被告人に何処で買つたと念を押して聞いたところ同被告人は貴布禰の方からそういう物を売りに来る人があつて買つたもので嘘だと思つたら聞いて見るがよいと云つたので何処かで聞いてやると云つたところ、同被告人は帰つて行つた。家ではそのズボンを二、三日箪笥の上に置いたところ、又同被告人が聞いたかと云つて来たので夫が今夜聞いてみてやると云つて其の夜二、三軒離れた東太郞さんという家へ行つて丁度米の配給がなかつたので米と換えて貰つた。此のズボンを貰つた時には夫婦喧嘩をしなかつた。何故此の時は夫婦喧嘩をせず、昭和二十三年十一月二十九日の晩夫婦喧嘩をしたかと云うと私はその時被告人近藤勝太郞が持つて来た物はどうもおかしいと思つて若い衆の事であるし止めた方が良いと思つてそれで喧嘩になつたのである。何故その時止めた方が良いと夫に云つたかと云うとそれは若い衆の事だし確実にその人が博奕に負けて売つた物だかどうか分らないと思つたからである。博奕で負けた物でないとすると、それこそ他から盗んで来た物ではないかと思つたのである。どうしてそう思つたかというと被告人近藤勝太郞が余り夜もおそく時間は能く判らぬが十一時頃来たからである。私は十一月三十日に実家へ行つて一晩泊つて翌十二月一日の午後二時か三時頃自宅に帰つたがその時夫は不在であつた。夫は其の晩七時頃帰つて来て、私が何処へ行つたと聞いたところ、前に買つてあつた小豆五六升を持つて商いに行つて来たと云つた。それで私はまた十一月二十九日に被告人近藤勝太郞が持つて来た物のことが気に懸るので聞いたところ、夫は昨晩お前が福田に行つて居る時勝太郞が来たので自転車も風呂敷も返したと云つたので私もそうかねと云つて其の事は済んだのである。其の晩夫は自転車に乗つて帰つて来たが、その自転車には白い袋とねじ廻し等の様な自転車の道具見たいな物がボロに包んであつた。それから四、五日経つてから萩原幸太郞さんの家の者が皆何処かへ行つたと謂う事を聞いて私も夫に、勝太郞が持つて来たのを止めて良かつたねと云つたところ、夫も本当に良かつたと云つた。それから一日二日経つて被告人近藤勝太郞が姐さん煙草の火を借せと云つて入つて来たので私が萩原幸太郞さんの事件の事を云つて、家へ持つて来たのは幸太郞さんの物ではないだろうなと云つたら、同被告人は顔色を変えて、何を姐さんは云つて居るあれは博奕で負けた連れの物だ俺は姐さんが福田へ行つて不在の時、兄さんもいけないと云つたのであれを持つて帰つたと申した。何故その様なことを被告人近藤勝太郞に云つたかと云うと、萩原幸太郞さんの者が居なくなつた日と私の所へ同被告人が自転車を持つて来た日と日が一緒だつたからである。
萩原幸太郞方の者が居なくなつた日と被告人近藤勝太郞が自転車を持つて来た日と同一の日であることはどうして判つたかというと同被告人が私の家に来たのは十一月二十九日の夜十一時頃であり、十二月に入つてから、此の近所の者が萩原幸太郞一家の者が殺されて居なくなつた、他に色々盗まれ、金もなくなつた、幸太郞さんの嫁さんが毎日朝新聞をこつちへ取りに来るのが、三十日の朝から取りに来ないので、十一月二十九日の晩に一家の者は殺されたのだという様なことを云つて居り、これを私も聞いて知つて居つたからである。被告人近藤勝太郞は自転車を持つて来た晩から四日か五日位経つた頃、夫が居ない時に私の家にやつて来て、姐さんお金を貰い度いと云つて来たが、夫が居なかつたので、同被告人はでは又出直して兄さんの居る時来ると云つて煙草を吸い乍ら帰つて行つた。その時私は夫が自転車を返したといつて居たので、その金を取りに来たとは思はなかつたので、同被告人に対し何の金だとも聞かなかつたし、又同被告人も何の金とも、又幾何欲しいとも云わなかつた。私は又幾何欲しいとも聞かなかつた。どうせ聞いたところで私は夫から配給の金しか貰つて居らず、同被告人に金をやれないので聞かなかつた。後でその話を夫にしたところ、夫は今銭をやり度いと云つてもないと云つて居た。夫には別に何の金とも聞かなかつた。其の後被告人近藤勝太郞はその金のことを私には何も云わなかつたし、又夫と同被告人とその金の話をしているのも聞かなかつた。其の後同被告人は三度ばかり小遣がないから貸せと云つて来たことがある。最初が一月十四、五日頃で、私が二百円貸してやつた。それから二、三日経つて来て丁度夫が居た時でもう三百円貸して呉れと云つたので私は二百円も返してないからと云つて断つたところ同被告人は何でも貸して呉れと云い、それで夫が怒り怒り、貸してやれと云つたので私はその時三百円貸してやつた。するとその翌日の晩方又同被告人は煙草を買う銭がないから姐さん貸せと云つて来たので、私はもう五百円貸してあるから百円やると六百円になるから返さなければいけないと云つて百円渡したところ、同被告人は二、三日経てば持つて来るからと云つてそれから暫く家へ来なかつた。夫もあの奴は金を貸してやつたら一寸も来なくなつたと云つて居つたが、それから夫は何処からか聞いて来たと云つて勝太郞は来ない筈だ、福田の警察へ引張られて居る、馬鹿見た、六百円も貸してやつて六百円あれば子供の小遣になると云つた。その六百円の金を貸す前には金を貸したことがないが、何故その前に貸さなかつたのが六百円貸したかと云うと、被告人近藤勝太郞は米でも持つて来ると云つたからである。然しその米は持つて来なかつたのであるとの旨の記載
一、検察官の吉野千枝子に対する昭和二十四年三月十三日附供述調書中同人の供述として昭和二十三年十一月二十九日の夜十一時頃私は自宅の奥六畳間で長男を寝かしつけて蒲団に横になつて居り、夫の被告人吉野信尾は次の間の御飯を食べる方の部屋に居つたところ、裏の戸を開ける音がしたと思うと寒いなあとか云つて人が這入つて来た。私は誰だなと思つて頭を一寸擡げて私の寝て居る部屋と御飯を食べる部屋との間にある障子の破れ目を通して見たら、入つて来たのは被告人の近藤勝太郞であつた。夫は同被告人に対し何だ馬鹿に遅いなあ十一時でないかと云うと、同被告人は何処かで遊んでそれから此処へ来たとか云つて居つた。それから夫と同被告人とは初めは世間話をして居つたが、その内同被告人は夫に対しうんと博奕で負けて自転車を売りたいと云う人があるんだが、何処か世話して聞いて貰い度いと云い出した。夫は、その人は誰だと聞いたが、同被告人は誰とも名前は云わなかつた。その中同被告人はそれでは自転車を持つて来るぜと云つて一人で裏口から出て行つたが、間もなく裏口から自転車を一台持つて来た。すると同被告人は又外へ出て行つたと思うと今度は青つぽい様な風呂敷包を持つて来て上りはなに置き、夫に対し之も買つてくれ頼むぜと云つた。その風呂敷包には何か衣類の様な物が十枚位包んであつた様に見えた。夫と同被告人とは二人で小さい声で何か話しをして居つたが、そのくわしいことは分らなかつた。又夫は同被告人に幾らか金を払つた様な様子も見えたが、判然としたことは判らない。それから同被告人は裏口から出て行き、後から夫も出掛けて行つたが、夫は五分位で帰つて来て裏口の戸を閉めた。そうしてから夫は同被告人が持つて来た自転車を便所の脇の乳母車の脇に置き、風呂敷包は御飯を食べる部屋の隅にある押入の中で下の方に入れた。私は夫が此の様な事をやるのを見て、被告人近藤勝太郞は今迄家の米を盗んで私の家へ売りに来た男であり、真面目な若い衆ではないし、又夜遅く自転車や衣類等を持つて来たりした点、或は博奕の事等を云つて居つた点等から考えて、盗み等した様な変な品物では無いかと思い、気掛りになつたので、同被告人が帰つてから夫も間もなく、私が寝て居た部屋に寝たので、其処で夫に対し若い衆が持つて来るのに、何んな物かも判らぬから止めた方がいいやと云つたところ、夫は非常に怒つて余分なことは云わんでいいお前等の知つた事でないと怒鳴られたので、私も癪に障つてそれなり黙つて寝て終つた。翌三十日の朝食の際、又私は夫に対しあの品物を置いても、どんな物かも分らぬからもう一回聞いてから買つた方がいいと云うことを申したら又夫は怒つてくたくたこくなと怒鳴つて私の腰の辺りを立つて足で蹴つた。それで私は其の日午前八時頃長男を乳母車に乗せて夫には黙つて実家へ行き、一晩泊つて同年十二月一日の午後二時か三時頃自宅へ帰つた。その時夫は留守で被告人近藤勝太郞が持つて来た自転車も風呂敷包もなかつた。その日の夕方夫は八百屋が使ふ様な篭を自転車に付けて帰つて来たが、その篭の中には自転車の修繕道具と白木綿の袋が入つて居つた。それから一日か二日過ぎた頃萩原幸太郞一家の者が十一月二十九日頃から居なくなつたと云つて騒ぎ出し、私はその騒ぎを聞いて被告人近藤勝太郞等が十一月二十九日の晩に自転車や衣類等を持つて来たのがおかしいと思つて其の当時、夫に対してそう云えば二十九日だか勝太郞が自転車等持つて来たが、幸太郞の家のではないかと訊ねたところ、夫は絶対に然うでないと云つて居つた。昭和二十三年十一月二十九日以後月日は忘れたが、夫の留守に昼間被告人近藤勝太郞が来て私に銭を欲しいと云つたが、私は同被告人に対し夫から貰つてくれ、私は何も知らん事だからと申したところ、同被告人は又来ると云つて帰つたとの旨の記載
一、司法警察官の久保田きよに対する聴取書中同人の供述として私は萩原ふみ子の母であるが、昭和二十三年十二月三日幸浦村湊の加藤利平から萩原ふみ子が私の家に来ては居ないかとの電話があつたので早速幸浦村湊に行き加藤利平の所に寄つたが、同人は不在なので、私はふみ子の夫幸太郞の兄の萩原勘次郞とその嫁さんと三人で幸太郞の家迄行き、家の外で立話しして居ると其処へ加藤利平も来たので四人で家の中へ入つて見た。箪笥の中にひよつと子供でも入つてはいないかと思つて抽斗を開けて見たところ、中味は全然なかつた。又布団を取り除けて見たが、布団は乱雑にたたんであつた、布団のかすりの小切が出て来た。掛布団が一枚濡れて居り、敷布も毛布も丸めて布団の中にあつた。いくら萩原ふみ子があわてていても濡れて居る布団を其の侭たたみ込んだり、切れ布を散らかしたまま布団をたたむとは考へられないので、私は強盗か何かが布団を敷いた上で箪笥の中のもの等を仕末した上で布団をたたんで逃げたと思つた。又眼鏡は御鉢の上にあつたが、ふみ子は何時も寝る時に眼鏡を御鉢の上に置いて居たから、強盗か何かが入つたのは寝てからの事と思つた。私は昭和二十三年六月にふみ子が次男を生んだ時に行つただけであるから金が何処に蔵つてあるかと云う事は全然知らないし、又金がどの位あるかと云う事も知らなかつた。私が見覚えのある着物でなくなつて居たものはふみ子の着物で銘仙の袷三枚、銘仙の羽織一枚、人絹長襦袢一枚、平巾の帯一本、ホームスパン洋服上下一着、鼠色オーバー一着、夏物着物二枚、合スカート一着、麻夏背廣一着、格子縞モンペ一枚、格子縞上衣一枚、幸太郞の着物で、サージ黒洋服一着、オーバー一枚、中古軍隊用上衣ズボン五着、子供の黒色洋服一着、ベビー服、帽子等であるとの旨の記載
一、司法警察官の萩原勘次郞に対する聴取書中同人の供述として私は萩原幸太郞の兄であるが、昭和二十三年十一月二十九日午後四時半頃幸太郞は何処かへ行つて来た帰りに何時もの様に私の家に新聞をとりに寄り、私の妻と、一寸話をして直ぐ帰つた。同日午後五時頃私の長女はる子を温室の天窓を閉めにやらした時は、幸太郞の家では家族四人とも平素に変つた処なく居つたということであつた。翌三十日夕方五時頃矢張り長女はる子を温室の天窓を閉めにやらしてついでに幸太郞の所に農が忙がしいから天窓の開閉はそちらでやつて貰いたいと伝言をしてやつた処、温室の天窓は開けてなく、幸太郞の家の戸は閉めてあり、家族は一人も居らなかつたということであつた。それで私は家内中で何処かへ行くなら何か私の処へ云つて行くべきだと少しは憤りを感じたのである。私はこんなに急いで行くなら、浜松の妻ふみ子の在所か、掛川町の姉の処へでも行つたものと推測してそう気にも止めなかつた。同年十二月一日の午後二時三十分頃私は温室の草花へ水を掛けるため行つて見たが、その時にも依然として幸太郞一家の姿は見えなかつた。私は水を掛け終つてから、午後四時頃幸太郞の家の表戸の前に下駄や釜や鍋が出してあつたのでこんな処に置いては盗まれると思つたが、その物には手をつけず戸を開けて見たところ、何時も庭(土間)に置いてある自転車が見えないので、自転車がないなあと思つたが、座敷は整然として居るので、まだ帰つて来ないのだと思つて、戸を閉めてその侭帰つて来た。同月二日午前十時頃温室へ行つた際、又幸太郞方へ様子を見に行つたが、未だ帰つて居らず、温室の草花に水をかけて正午少し過ぎた頃再び幸太郞方へ様子を見に行つたところまだ帰つて居らず、別に不幸な事態を想像した訳ではないが、どんな風か家の中の様子を見てみようと思つて戸を開けて中に入り、最初に正面にあつた箪笥の五つあつた抽斗を上から順に引いて中を見たところ、下から二つ目の抽斗にはカラーの様な物が一つと靴下のやぶれたのが片方だけあつて他には何もなかつた。又一番下の抽斗にも何も入つて居らなかつた。それで変だなあと思い乍ら家の西側を見たところ、柱の処に新らしい戦闘帽が掛けてあるので、何時も用があつて行く時にはあの戦斗帽を被つて行くのに掛けてあるのは変だと余計に思う様になり、今度は庭へ降りて履物はどうかと見ると古い軍靴はあるが、赤皮の単靴が見当らなかつた。又子供のズツク靴が置いてあり、何処かに行くなら子供に之を履かして行きそうなものだと思い、尚座敷の隅の方を見たらそこに幸太郞の常に着て居る作業服と一緒に赤児に被せる毛のついた新しい帽子が置いてあつたので、何だ、これも置いて行き、随分あわを喰つて行つたものだと思い乍ら、戸を閉めて午後二時頃自宅に帰つた。そして家内に色々話をしてどうも様子が変だと云つたが、それでもまだ私は今に帰つて来る様な気持で居つたところ、午後四時頃加藤利平の母ぜんが来て、様子はどうだと云うので、種々状況を話したところ、同人はそれなら、家の利平が用があつて行くから、掛川の方へ電話でも掛けて連絡をとらせると云つたのでそのことを依頼したが、其の日は時間が遅かつたのでその返事は聞くことが出来なかつた。翌三日午前七時頃加藤利平の母が来て昨夜掛川の加藤義平の処へ電話を掛けた処、掛川へは来てゐないし、又浜松の在所でも人集めをする様なことは考えられないとの話であつたので、私は家の中をよく見て何か判るかも知れないと思つて、もう一度家の中を見る積りで幸太郞の家に行つたところ、浜松の妻の在所から甥の正一が自転車で走つて来たので一寸話をして早速中をみようと中に入り、前の日に見た私の意見を云い乍ら一通り見たところ正一はすぐ警察へ届けた方がよいと申したので私はそれから幸浦村駐在所へその旨を届けたのである。それから私は兄弟の処へ知らせに行き、浜松から来たふみ子の母や兄と近所の人達四、五名と一緒に又あらためて家の中を見たその時新しく布団の下の衣類箱が空であつたこと、その横の衣類箱はかき乱してあつたこと、甘藷芋が切つて明日の仕度がしてあつたこと、庭の台の上に白い袋に入れて財布の中に金が若干あつただけで他に何も無いこと、敷布団がぬれて居て、それが中程に積んであつたこと等を発見したとの旨の記載
一、司法警察員の萩原勘次郞に対する昭和二十四年二月十五日附供述調書中、同人の供述として、昭和二十四年二月十四日の午後一時三十分頃私の所に警察の方から弟の萩原幸太郞一家の死体らしいものがあり、今日掘り出すから立会つて貰い度いという話があつた。そして其の時には判然りわかる迄は他に通知するなと云う御注意があつたので親類の加藤利平、萩原孝、渥美正能の三人に来て貰つて戸板とか解剖台などの準備や掘る仕度をして待つて居た。すると午後の三時頃に私共が待つて居た殺された萩原幸太郞の住居にあつた私所有の温室がある湊の松野と云う字の所へ警察の方が見えて現場の方へ来いと云うのですぐ湊部落から海岸に通ずる中浜道を南に進み、砂防堤の山になつた北側のところまで行つたところ、警察の人達は先に六、七人居つて私共と殆んど同時頃に浜松から検事も見えて、此処を掘れとの指示があつて私達親類衆四人で掘り始めた。其の場所は砂防堤の北側で小松林が切れて畠との間に少し傾斜面で低くなつた砂地があるが、其の低地のところである。掘り始めたのは午後三時三十分頃であつたと思う。四人で大きく掘り出す様に掘り始めたのであつて私共が行つたときには一番上の幸太郞の胸のあたり迄は掘つてあつた。それから約一時間位掛つて四名とも掘り出したが、一番先に幸太郞の長男征男、次が次男賢二、次が幸太郞、次に幸太郞の妻ふみ子の順であつた。殺された弟一家は萩原幸太郞当三十四年、妻ふみ子当二十八年、長男征男当五年、次男賢二当一年の四名であつて、各人共其の顔容、身体つき、骨格、着衣等から見て掘り出された四名の死体は幸太郞一家四名の死体に絶対間違がない。そして掘り出して直ちに私の温室のある松野まで死体を運んで砂等を取つて解剖に附したが其の時に尚良く見て弟幸太郞一家四名の者の死体に絶対間違がないとの旨の記載
一、当審に於ける昭和二十四年六月十三日附検証調書中、被害者萩原幸太郞方居宅は磐田郡幸浦村湊字松野に所在し、所謂本村(住宅密集地)から幸浦海岸に通ずる幅約二米半の中浜道を約三百五十米南進すると松の防風林が東西に走つて居り其の作道を中浜道から約七十米東へ行つた南側にある。立会人紅林麻雄が本件被害者の屍体が埋没されていた処と指示した場所は被害者方から南方約四百五十米、中浜道を行くと第五防風林があるが、その第五防風林の砂丘に沿うて中浜道から二十九米西進した麥畑から高さが〇、五米砂丘の裾から南方約二米上つた地点であるとの旨の記載
一、検察官の昭和二十四年二月十四日附検証調書中静岡県磐田郡幸浦村湊部落から幸浦海岸に通ずる中浜道を南進して砂丘に突当つた処を砂丘に沿うて約二十米西進して麥畑から高さ約〇、五米、砂丘の裾から南方約二米上つた他所より稍堆高くなつた地点に於て南磐田地区警察署長伊藤寿雄が同所に屍体が埋められて居る旨申したので検事は被害者萩原幸太郞の兄勘次郞、幸太郞の媒酌人加藤利平、渥美正能をして東西の長さ約二米、南北の幅約一、五米の範囲内を発掘した。〇、八米位発掘した時西端部から大人の頭らしいもの、中央部から子供の足らしいものが発見され〇、九米発掘した時砂に泥れて折り重つた屍体らしいものが発見された。茲に於て検事は之を検して屍体であると断定して個々別々に取揚げる様指揮した。第一に取揚げられたのは年令四、五才と思われる男児で両前膊部、頭部及足部は露出して居り着衣の模様は判明しない程度であつた。第二に引揚げられた屍体の頭部は布片で丸めてあつて顔を見ることができず、両手は背部で緊縛されて居り、足と手のみが露出して居り、国防色様上衣を纒つて居り、下半身は乗馬ズボン様の被服を着用して居たが全身砂に泥れて居る。発掘人萩原勘次郞等は最初発掘された屍体が萩原征男(当時五年)で次に掘出されたのが萩原幸太郞(当時三十四年)である居述べた。右萩原幸太郞の屍体の直下より頭部を西にした長い頭髪らしきものが砂に泥れて居る女の如き屍体が埋没されてとり、其の屍体の下半身股部を開いた南側に長さ約六十糎太さ約七十糎の衣類を纒つて居るかの如きものがあるが更に南部には直径約二十糎位の球の如きものが女の如き屍体の南に拡がつた脚部に載せられて附着して居た。そこで右女の屍体の下半身の股の間にある屍体らしいものを取揚げて見ると背部に薄紺色の角形の模様のある綿入様の着物を着た嬰児であることが判明した。そして其の手足等は見えず頭部のみ露出して砂に泥れて居た。嬰児を穴の中より取出し次で女らしい屍体を取揚げたが、此の屍体は浴衣らしい着物を纒つて居たが、着物の模様は変色して居て判明しなかつた。そして此の屍体の腹部には砂は殆んど附着して居なかつた。発掘人萩原勘次郞等は股部の嬰児は萩原賢二(当時一年)であり、女の屍体は萩原ふみ子(当時二十八年)であると供述した。右四屍体を被害者方庭先に運ばせて其の個々の屍体を検したところ、萩原ふみ子の屍体は身長一、四九米で茶褐色に変色した単衣の寝巻様肌着を着け其の下には襦袢を着用して居り、腰部には木綿白パンツを着用して居た。頭部を洗滌して砂を取除き、其の頭髪の長さを計れば約二十糎で脱落し易く頭部は幅二糎の間髪と共に黒色木綿様の細い布片を二重にして緊縛され後頸部に於て所謂女結びに締めてあり、而して右眼中心部前額部等には組織内出血があつたものの如く見えた。萩原征男の屍体は身長〇、九米で股引を穿き、メリヤスのシヤツを着用した上に模様の判明しない黒褐色の着物を着用して居た。頭髪の長さは約二糎で脱落し易くなつて居り頸部は背側の着物の襟の上より前頸部にかけて黒色木棉様の細い布切を以て前頸部中央にて緊縛して女結びに締めてあり、其の幅は約一糎である。眼は閉じて居り口を軽く開いて舌を僅かに出して居た。膝関節部には直径約二、五糎の打撲傷を認めた。更に臀部からは少量の脱糞があつた。萩原賢二の屍体、其の身長が〇、六二米であつて白木棉様の所謂よだれ掛けを掛けて居り、背後より見れば薄紺色の角形模様を判然認め得る着物を着用し中に白襦袢を着て居た。頭髪は約三糎で顔の変形夥しく斜に歪んで居り小さな口が僅かに開いて居た。頸部には太さ約一糎の黒色木棉様の細い布片で緊縛されて居り、右に寄つた前頸部に於て女結びに締められて居た。萩原幸太郞の屍体は身長一、六米で褐色に変色した軍服の上衣及び乗馬ズボンを着用し、其の下には真綿のチヨツキ、メリヤスの襦袢、木綿の白シヤツを着用しパンツを穿いて居た。両手は背部に於て其の手首の処で棕梠製様綱で緊縛されて居り、頭髪の長さ約十糎で脱落し易くなつて居る。顔面の顎から眉毛に至る幅十五糎の間には模様も認められない木綿様の布切で頸より頭部にかけて二巻に顔を縛り、丁度鼻と口との間で結んであり、更に其の下には白タオルで同様に縛り、口を中心とした箇所で締めてあつたタオルを取除けば前額部両頬は恰も血の流れた如く暗赤色になつて居り皮下出血があつたものの如く見えた。頸部は幅三、五糎の間黒色木綿用の細い布片で緊縛してあり、其の縛り方は二巻して前で一つ結び更に其の端で一つ結び、更に其の端で一巻し、前へ持つて来て、前で片方の端の輪へ一方の端を通して更に縛つてあつた。そして頸部の皮下出血は著明であつた。左右前膊部は組織内出血があつたものの如く右胸部腋下には拇指頭大の出血の跡があつた様に見えた。大腿部及び膝関節部には左右共皮下出血の跡を認めたとの旨の記載
一、鑑定人山田迪の萩原幸太郞の屍体に対する鑑定書中本屍体に於て特異な点を列挙すると、第一に頭部顔面の欝血が著明である。第二に眼瞼結膜に溢血点を著明に認める。第三に瞳腔内著明の充血がある。第四に血液は暗赤色で流動性である。第五に頸部に索溝(幅三、五糎、深一糎)がある。以上はいずれも窒息死の場合に認める特異な症状であり、他に何等死因となるべき疾病及び異変を解剖の結果認められなかつた点から、本屍体の死因は窒息死であり、而も頸部に索溝がある点から絞死とみることができるとの旨の記載
一、鑑定人山田迪の萩原ふみ子の屍体に対する鑑定書中本屍体に於ける特異なことは第一に顔面充血及眼瞼結膜に溢血点の存すること、第二に胸腔内臓器の充血、第三に血液の暗赤色で流動性であること、第四に一部屍臘形成を開始せりと思われる点、第五に頸部に索溝(幅二、五糎、深一糎)があり甲状軟骨骨折があることであるが、以上の特徴を有し他に何等の死因となるべき疾病又は畸形外傷等を認めないこと、及び前記第一、第二、第三、第五の症状は窒息死を証明するに十分なる特徴である。依つて本屍体の死因は窒息死であつて又頸部に著明なる索溝を認め。而も甲状軟骨の骨折よりして絞殺による窒息死であることは間違ないとの旨の記載
一、鑑定人山田迪の萩原征男の屍体に対する鑑定書中本屍体解剖の結果特異な点を列挙すれば第一に頸部、顔面の欝血著明なこと、第二に血液は暗赤色で流動性であること、第三に眼瞼結膜に溢血点の存すること、第四に頸部中央を紐で絞められて居ること、第五に頸部に幅一、三糎深一糎の絞痕があり、その皮下に組織内出血を認めること、第六に甲状軟骨に骨折があること、以上の点第一乃至第三は窒息死の症状であつて他に死因となるべき疾病畸形その他の異変のないこと等からして死因は窒息死である。又第四乃至第六は絞死の特徴である。以上の点から本屍体の死因は絞殺による窒息死であるとの旨の記載
一、鑑定人山田迪の萩原賢二の屍体に対する鑑定書中本屍体に於ける主なる特徴を挙げれば次の通りである。第一に頭部に欝血著明であること、第二に眼瞼結膜に溢血点があること、第三に血液は暗赤色流動性であること、第四に頸部全体を囲繞する絞痕(幅一、三糎深〇、二糎)が頸の中央にあること、以上の第一乃至第三はいずれも窒息死の著明な特徴である点、他に何等の死因となるべき疾病其の他の異常がない点等からして本屍体の死因は窒息死以外にはない。又頸部の絞痕からして絞死である。即ち本屍体の死因は絞殺による窒息死であるとの旨の記載
一、押収に係る被告人近藤糸平方の家計収支帳と題する参冊の書面(証第五十四号一)中の同被告人方に於ける昭和二十四年一月の支出が、一万二十九円八十銭であつたとの旨の各記載
一、押収に係る綿平織黒色たすき様布紐二本(証第三号第一九号)、紫色木棉紐二本(証第三四号第三六号)の存在に依つてこれを認め
判示第四の点は
一、司法警察員の被告人近藤勝太郞に対する昭和二十四年二月十二日附弁解録取書中同被告人の供述として、私は昭和二十三年七月頃の夜十二時頃近藤糸平の所へ行つて時計を盗んだとの旨の記載
一、司法警察員の被告人近藤勝太郞に対する昭和二十四年二月十三日附供述調書中同被告人の供述として、私は昭和二十三年八月頃の或日午後二時頃近藤糸平の家に誰も居らなかつたので入口から入つて何時も煙草の火などを借りに寄つて見て知つて居た柱に掛けてある十八型位の白い側の懐中時計を盗んだ。其の時計は十日ばかり経つてから自分が持つて居て何処かへ売つたりすると解ると思つて糸ちやあの家の流しの処の垣根にぶら下げて来て返したとの旨の記載
一、司法警察員の近藤千代子に対する昭和二十四年二月九日附供述調書中同人の供述として、私が昭和二十三年七月半ばの夜十二時頃家の八畳間で家族と共に就寝中、眼を開けると一人の人が六畳間から土間に降りて表口から出て行くのを見た。私の父近藤糸平は左官の傍ら漁師もして居つたので、早い時に時々出て行つたり帰つたりするので其の時にも父でも出て行つたのかと思つて別に気に留めず其の侭寝て了つた。所が翌朝父が仕事に出る時になつて六畳の北側の柱に掛けてあつた時計が無いと云つて騒ぎ出して初めて私が昨晩見たのは盗人だと思つてそのことを家の人に話した。其の時計は大型の古い懐中時計で銀側で紐が付いて居て柱に吊つてあつたのである。後になつて考えて見ると私の家の近所に大分畠があつて平常毎日の様に畠に来て居て時々私の家に遊びに来たり、時々煙草の火などを借りに来る近藤勝太郞という人に似て居ることに気付いた。確に背恰好と云い、背の高さと云ひ、其の人に相違ないと思う。私の母が近所へ盗まれたことをやかましく云い触らしたり又母が一度近藤勝太郞と丁度湊の火の見の所の喜八さと云う菓子屋で遊んで居る時に一緒になつてその時にもあてこする様なことも云つたりしたことがあつて時計が盗まれた時から一箇月位経つた八月頃の或朝家の東側の入口の右側の垣根の竹に紐でぶらさげて其の時計が置いてあつたとの旨の記載
一、司法警察員の上平ちゑに対する昭和二十四年二月十二日附供述調書中、同人の供述として昭和二十三年八月頃と思うが私方より海岸の方へ四町程行つた先の左官の近藤糸平さんのお主婦さんが、買物に来たのか、又何かの用事で来たのか、良く覚えて居らぬが、私方に来てその際私に懐中時計を盗まれたがそれ以来何時も私方に来る人がぴつたり来なくなつたと云う話をしたことがある、その時家に確かとは云えぬが被告人近藤勝太郞が居つた様に思うとの旨の記載
に依りこれを認め
判示第五の点は
一、被告人小島敏雄の当公廷に於ける判示と同趣旨の供述
一、司法警察員の被告人小島敏雄に対する昭和二十四年二月十四日(一月十四日とあるは二月十四日の誤記と認める)附供述調書中同被告人の供述として判示と同趣旨の記載
一、司法警察員の八木秋太郞に対する昭和二十四年二月十四日(一月十四日とあるは二月十四日の誤記と認める)附供述調書中同人の供述として判示と同趣旨の記載
一、太田賢一の提出した被害始末書と題する書面中判示に照応する被害顛末の記載
に依りこれを認め
ることができる。よつて判示事実はすべて其の証明が十分である。
法律に依ると被告人近藤勝太郞同小島敏雄の判示所為中各強盗殺人の点は刑法第二百四十条後段第六十条に、各死体遺棄の点は同法第百九十条第六十条に、窃盗の点は同法第二百三十五条(被告人小島敏雄に付ては尚第六十条)に夫々該当し、右各死体遺棄は一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、同法第五十四条第一項前段第十条に依り最も重い萩原幸太郞に対する死体遺棄罪の刑に従い、尚以上は同法第四十五条前段の併合罪であるが、同法第十条に依つて萩原幸太郞に対する強盗殺人罪を最も重いものと定め同罪に付て所定刑中死刑を選択するので同法第四十六条第一項本文に依つて他の刑を科せず、被告人近藤勝太郞同小島敏雄を各死刑に処し、被告人近藤糸平の判示所為中各強盗殺人の点は刑法第二百四十条後段第六十条に、各死体遺棄の点は同法第百九十条第六十条に、夫々該当し、右各死体遺棄は一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから同法第五十四条第一項前段第十条に依り最も重い萩原幸太郞に対する死体遺棄罪の刑に従い、以上は同法第四十五条前段の併合罪であるが、同法第十条に依つて萩原幸太郞に対する強盗殺人罪を最も重いものと定め、同罪に付て所定刑中死刑を選択するので同法第四十六条第一項本文によつて他の刑を科せず、同被告人を死刑に処し、被告人吉野信尾の判示所為は行為時法に於ては同法第二百五十六条第二項に該当し裁判時法に於ては同法第二百五十六条第二項、罰金等臨時措置法第三条第一項第一号第二条第一項に該当するのであるが、犯罪後法令に因り刑の変更があつたので刑法第六条第十条に依り右行為時裁判時両法の刑の軽重を比照すると行為時法の刑が軽いから同法に従い、其の所定刑期罰金の範囲内で同被告人を懲役壱年及罰金千円に処し同被告人が右罰金を完納できないときは同法第十八条に依り金弐拾円を壱日に換算した期間同被告人を労役場に留置することとし、訴訟費用中、被告人近藤勝太郞同小島敏雄同近藤糸平の各国選弁護人に支給した分は刑事訴訟法第百八十一条第一項に依り右被告人等の各自負担とし、又鑑定人鈴木一彦、同石原重徳に各支給した分は右同法条に依り被告人近藤勝太郞の負担とし其の他は刑事訴訟法第百八十一条第一項、第百八十二条に依り被告人四名をしてこれを連帯して負担させることとする。
よつて主文の通り判決する。(昭和二五年四月二七日静岡地方裁判所浜松支部)