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静岡地方裁判所浜松支部 平成12年(ワ)274号 判決 2005年9月05日

当事者の表示

別紙当事者目録記載のとおり

主文

一  第一事件及び第二事件被告は、第一事件原告、第二事件原告X2、同X3、同X4、同X6及び同X7に対し、別紙<10>(略)の請求債権目録記載の各人に対応する「請求額」欄記載の各金員及びこれらに対する別紙<11>ないし<16>(略)の各遅延損害金目録記載の金員を支払え。

二  第一事件原告、第二事件原告X2、同X3、同X4、同X6及び同X7のその余の請求及び第二事件原告X5の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを九分し、その七を第一事件原告及び第二事件原告らの負担とし、その余を第一事件及び第二事件被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

五  第一事件及び第二事件被告が、第一事件原告に対し金九〇〇万円、第二事件原告X2に対し金一七〇万円、同X3に対し金三〇〇万円、同X4に対し金五三〇万円、同X6に対し金二八〇万円及び同X7に対し金二八〇万円の各担保を供するときは、上記各原告に対する前項の仮執行を免れることができる。

事実

第一当事者の求めた裁判(第一、第二事件とも)

1  請求の趣旨

(1)  第一事件及び第二事件被告は、第一事件原告及び第二事件原告らそれぞれに対し、別紙<1>(略)の請求債権目録の各人に対応する「請求額」欄記載の各金員及び別紙<2>ないし<8>(略)の各原告に対応する「遅延損害金」記載の各金員を支払え。

(2)  第一事件及び第二事件被告は、第一事件原告及び第二事件原告らに対し、別紙<9>の1(略)の謝罪文を交付し、かつB0判(縦一〇三センチメートル×横一四五・六センチメートル)の白紙に同謝罪文を紙面いっぱいに墨書の上、これを別紙<9>の2(略)の掲示場所目録記載の各場所及び社内インターネットに判決確定日より三〇日間掲示し、判決確定日の直後に発行される第一事件及び第二事件被告社報「スズキNEWS」に同謝罪文を記載せよ。

(3)  訴訟費用は第一事件及び第二事件被告の負担とする。

(4)  第一項につき仮執行宣言

2  請求の趣旨に対する答弁

(1)  第一事件原告及び第二事件原告らの請求をいずれも棄却する。

(2)  訴訟費用は第一事件原告及び第二事件原告らの負担とする。

(3)  仮執行免脱宣言

(略)

理由

第一事案の概要

1  当事者

原告らは、いずれも被告会社の従業員もしくは元従業員であり、かつ被告会社の従業員で組織されているスズキ労働組合の組合員と元組合員である。

原告らは、被告会社入社後、日本共産党に入党した。

被告会社は、大正九年三月一五日鈴木式織機株式会社として設立され、昭和二九年六月に鈴木自動車工業株式会社へと社名変更し、自動車企業へと踏みだし、さらに平成二年に現在のスズキ株式会社へと社名変更している自動車製造を専らその目的とする株式会社である。現在国内外に多数の工場・製造会社等を有し、国内製造子会社一〇社、非製造子会社九社、海外製造会社は三一か国五七社にのぼり、国内の本社及び工場だけでも一万三七〇〇人の人員を擁する大企業である。

2  事案の概要

(1)  本件は、原告らが、被告会社に対して、被告会社による原告らに対する賃金差別があったことを理由に、不法行為に基づく損害賠償請求として、原告X1については平成九年七月から平成一六年八月まで、原告X3については平成一〇年一〇月から平成一二年一二月まで、原告X2、同X4、同X5及び同X6については平成一〇年一〇月から平成一六年八月まで、原告X7については平成一〇年一〇月から平成一四年四月までの差別がなかったならば得られたであろう賃金、賞与及び退職金(実際に退職しているのは、原告X1、同X2、同X3及び同X7の四名にとどまるが、その余の原告らについては中間利息を控除した上で将来請求をしている)と実際に支給された賃金、賞与及び退職金との差額、賃金差別をされてきたことに対する慰謝料及び弁護士費用並びにこのうち弁護士費用を除くものに対する遅延損害金を請求するとともに、謝罪文の交付・掲示・記載を求めている事案である。

そして、原告らが主張する被告会社による差別の具体的内容は、日本共産党を嫌い、反共労務政策などを行う被告会社が、<1>被告会社労働組合役員選挙への自主立候補、<2>ビラ等による情宜活動、<3>いわゆるサービス残業などに関する労働基準法一〇四条申告活動、<4>被告会社による企業ぐるみ選挙の押しつけとこれに対する原告らの告発運動、<5>労災・職業病の発生とこれに対する被災者等支援活動などといった原告ら日本共産党員の諸活動を嫌悪し、これらに対して、介入、妨害、報復といった行動をしているというものである。

そして、原告らは、これらの活動をしたことを理由に低い査定をされ、賃金上の差別を受けるとともに、様々な差別を受けたとしている。

原告らが主張する各人の簡単な職歴、活動歴と低査定の状況ないしその他の差別の実態は、以下のとおりである。

ア 原告X1について

原告X1は、昭和三七年一〇月一日に被告会社に入社し、本社工場工作課に配属になっている者であるところ、昭和四七年四月に日本共産党に入党する傍ら、<1>労働組合の活動、<2>O君を守る会の活動、<3>小選挙区制反対の署名活動、<4>Rへの不当出向に対する裁判闘争の支援活動、<5>A17労働災害認定闘争、<6>労働組合役員選挙民主化の取り組み、<7>労働組合の支部委員会傍聴活動、<8>組合員有志での宣伝活動、<9>日本共産党員としての活動などをしたことに対して、昭和四七年には最低のC(1)の査定を受け、以後、平成一三年まで、C(1)が二〇回、五段階評価で下から二番目のB下(2)が九回の査定を受けている。

イ 原告X2について

原告X2は、昭和三五年に被告会社に入社し、本社工場工機課(なお、工機課は工機製造グループ、工機開発グループと名称が変わっている)に配属になっている者であるところ、昭和四〇年に日本共産党に入党する傍ら、<1>労働組合の活動、<2>労働組合役員選挙立候補、<3>Rへの不当出向に対する裁判闘争の支援活動、<4>A17、A18、A19の各労働災害認定闘争、<5>いわゆるサービス残業などに関する労働基準法一〇四条申告活動、<6>ビラ等による情宜活動などをしたことに対して、昭和四八年から昭和五〇年までC(1)の査定を受け、昭和四五年から昭和四七年までと昭和五一年から平成一三年までB下(2)の査定を受けている。

その他、原告X2に対して、被告会社は、<1>人間関係における疎外、<2>資格取得の機会の差別、<3>機械の割り当てにおける差別、<4>残業・休日出勤の要請に関する差別などの差別を行った。

ウ 原告X3について

原告X3は、昭和三六年に被告会社に入社し、本社工場二輪完成課に配属になっている者であるところ、昭和四五年に日本共産党に入党する傍ら、<1>労働組合役員選挙立候補、<2>いわゆるサービス残業などに関する労働基準法一〇四条申告活動、<3>ビラ等による情宜活動などをしたことに対して、昭和四七年以降B(3)からB下(2)、C(1)となり、C(1)の査定が一番多くなっている。

エ 原告X4について

原告X4は、昭和四四年に被告会社に入社し、磐田工場車体課に配属になった者であるところ、昭和四六年七月に日本共産党に入党する傍ら、<1>職場改善活動、<2>大企業墨書運動などをしたことに対して、昭和四九年からC(1)と査定され、その後B下(2)が数回あるものの、昭和五五年から平成六年までの一五年間はC(1)と査定されている。

その他、原告X4に対して、被告会社は、<1>交替勤務外し、<2>職場での孤立化、<3>清掃作業の強要などの差別を行った。

オ 原告X5について

原告X5は、昭和四二年に被告会社に入社し、専ら四輪設計部乗用車車体設計課に配属になっている者であるところ、昭和五一年に日本共産党に入党する傍ら、<1>労働組合役員選挙立候補、<2>ビラ等による情宜活動、<3>いわゆるサービス残業などに関する労働基準法一〇四条申告活動などをしたことに対して、昭和六一年以降B下(2)と査定されている。

その他、原告X5に対して、被告会社は、a町議会議員としての活動に当たり差別的取扱をした。

カ 原告X6について

原告X6は、昭和四三年に被告会社に入社し、専ら本社塗装課に配属になっている者であるところ、昭和四七年六月に日本共産党に入党する傍ら、<1>民青の活動、<2>労働組合活動、<3>労働組合役員選挙立候補、<4>いわゆるサービス残業などに関する労働基準法一〇四条申告活動、<5>労働組合役員選挙民主化の取り組み、<6>ビラ等による情宜活動、<7>職場改善活動などをしたことに対して、昭和四七年にC(1)と査定され、以後C(1)ないしB下(2)と査定されている。

その他、原告X6に対して、被告会社は、<1>社内教育等における差別、<2>結婚式など仕事以外の場での差別などを行った。

キ 原告X7について

原告X7は、昭和三三年に被告会社に入社し、工機課に配属になっている者であるところ、昭和四一年一二月に日本共産党に入党する傍ら、<1>労働組合活動、<2>O君を守る会の活動、<3>ビラ等による情宜活動、<4>いわゆるサービス残業などに関する労働基準法一〇四条申告活動、<5>労働組合役員選挙立候補といった活動をしたことに対して、昭和四六年にB下(2)、昭和四七年にC(1)に査定されており、その後、一九七〇年代に六回、一九八〇年代に三回B下(2)の査定を受けた。

そのほか、原告X7に対して、被告会社は、<1>結婚式など仕事以外の場での差別、<2>資格取得の機会の差別などを行った。

(2)  これに対し、被告会社は、そもそも、原告らが主張するような反共労務政策をとったり反共教育を行ったといった事実はないし、被告会社が日本共産党員の状況把握をしていたり、労働組合選挙への介入やビラ配布活動の妨害などといった日本共産党対策を行ったとの主張に対しても、このような事実はないか、あったとしてもその目的とするところは施設管理権に基づくものなど別にあるのであって、日本共産党対策といったものではないし、原告らが主張する原告らの諸活動に対する報復を行ったとの主張についても、そのような報復的な意味での不利益な取り扱いはしておらず、事実を歪曲したものであるとして争っている。

そして、原告らの賃金格差については、被告会社が人事賃金制度に基づいて人事考課をするにあたっては裁量が認められており、被告会社は、その裁量の範囲内で、定められた給与体系に基づき、確定された人事考課制度に基づいて運用されており、人事考課における不当な査定は行われていないとしている。原告らが低い人事考課になっている理由としては、原告ら各人の以下の勤務態度によるものであり、人事考課は相当、妥当なものであるとしている。

ア 原告X1について

原告X1の勤務態度としては、<1>交替勤務・残業・休日出勤への不就労、<2>改善提案の無提出、<3>機械操作能力の不足、<4>仕事の質の悪さなどといった問題があった。

イ 原告X2について

原告X2の勤務態度としては、<1>時間外労働への非協力、<2>学習意欲の欠如、<3>作業中の無駄話などといった問題があった。

なお、原告X2の場合、五五歳以上の従業員に対する考課として、昇給が低く抑えられ、五七歳以降は昇給がなくなるといった特徴があることも考慮するべきである。

ウ 原告X3について

原告X3の勤務態度としては、<1>交替勤務・残業・休日出勤への消極性、<2>機械操作能力の低劣性、<3>操作技術、学習意欲及び業務遂行に対する意欲の欠如、<4>私的活動への著しい優先傾向などといった問題があった。

エ 原告X4について

原告X4の勤務態度としては、<1>技術・知識の不足及び習得への意欲の欠如、<2>交替勤務に関する姿勢に問題があったこと、<3>時間外労働に対する非協力的態度などといった問題があった。

オ 原告X5について

原告X5の勤務態度としては、<1>技術職としての資質や業務への意欲の欠如、<2>評価試験方法に関する改善への姿勢がみられないこと、<3>欠勤が多いことなどといった問題があった。

カ 原告X6について

原告X6の勤務態度としては、<1>ダブルチェックにおいて必要な技量、<2>ライン作業に対する誤った認識、<3>修正作業に対する注視力の欠如、<4>修正作業に対する積極性の欠如、<5>修正作業の虚偽報告、<6>「ブツ」の見逃し・テープ剥がし・品質向上への意欲の欠如、<7>ライン作業に対する責任感の欠如、<8>緊張感を欠く勤務態度、<9>作業安全性への認識の欠如及び上司に対する不服従的態度、<10>残業時間の少なさ、<11>休日出勤に対する消極性、<12>酒気を帯びての出勤などといった問題があった。

キ 原告X7について

原告X7の勤務態度としては、残業・休日出勤等で劣っていたといった問題があった。

もっとも、原告X7にはそもそも、賃金格差は存在しないし、原告X2の場合同様、五五歳以上の従業員に対する考課として、昇給が低く抑えられ、五七歳以降は昇給がなくなるといった特徴があることも考慮するべきである。

その上で、被告会社は、原告らの請求が不法行為に基づく損害賠償請求であることから、本件提訴から三年以上前に発生した損害については、既に消滅時効が成立しているとの抗弁を主張している。

(3)  そこで、以下、まず、被告会社における共産党ないし原告らの活動及びこれに対する被告会社の対応を概観した上で、次に、原告らが主張する賃金差別を検討する前提として被告会社の給与体系及び考課査定の方法がどのようになっているかを検討し、その上で、原告ら各人の勤務態度等を検討し、原告らの請求が認められる場合には損害、消滅時効の抗弁についても検討することとする。

第二被告会社における共産党ないし原告らの活動及びこれに対する被告会社の対応

1  証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

(1)  被告会社における日本共産党支部の結成

被告会社の前身「鈴木式織機株式会社」は、大正九年三月一五日設立され、昭和元年には従業員による初めてのストライキが起こり、これを機に労働組合が結成されたが、太平洋戦争等の勃発によって労働組合は一時解散した。しかし、戦後、昭和二一年一月、労働組合が再結成され、昭和二二年から昭和二三年にかけて戦後第一回目の争議が発生し、その後、昭和二四年六月ころから被告会社で賃金の遅配が始まり、同年一一月には賃金の三五パーセントカットを発表し、翌年四月には二八二名の指名解雇が発表されたことから、このころ一〇〇日に及ぶ大争議となった。そのような中、昭和二五年六月には、組合員の中に幹部の指導方針、闘争の手段について反対の意見を抱く者が次第にあらわれ、組合の中で分裂し、現在の労働組合である第二組合が結成されたところ、当初の組合員の多くが第二組合に加入した。第二組合は第一組合の打倒とともに、労使協調路線をとり、第一組合は崩壊した。

その後、一九六〇年代半ばからの企業の急成長を背景とした労働条件の劣悪化、新工場への強制的な配置転換・応援や営業出向、深夜勤を伴う三交替制勤務の拡大、恒常的な残業・休日出勤による長時間過密労働、そのもとでの労災・職業病の増大と死亡災害の発生などがあったとして、これらに対する労働者の要求を実現する労働組合を求めて活動する労働者が生まれ、昭和四四年、「労音」の活動を通じて日本共産党員になった人たちが中心になって被告会社に日本共産党鈴木自工支部が結成された。

当時、被告会社の職場には、「ABCの会」「さつきの会」「やまびこ」「パンチ」など様々な自主的サークルがあり、「労音」「演劇鑑賞協議会」の会員もいた。これらの自主的サークル活動を行っていた人たちが労働組合活動、特に青年婦人部の活動に積極的に参加して役員になるなどするなかで、社会の仕組みや政治のことなどを学習するようになり、「学習の友」という本をテキストにする学習会も行われるようになった。このようなサークル活動、労働組合活動、理論学習を通じて日本共産党に入党する者が増えた。

(2)  Oへの山口スズキ株式会社への駐在命令

昭和四六年、労働組合中央執行委員二名が勤務時間中に競艇場に行っていたことが発覚し、同年一二月、その二名の中央執行委員の辞任に伴う補充選挙が行われた。Oは、この補充選挙に自薦で立候補し、原告X1らは、Oを「当選させる会」を作り応援した。選挙では、「組合員の声が反映され、要求が実現される組合を」とのスローガンをかかげ、「とれる有休」などの政策を訴えた。しかしながら、Oは、労働組合推薦で立候補した者に僅差で破れ選挙に落選した。

一方、このころ、Oは、被告会社において、ユーザー管理電算化業務を行っていたところ、その関係で山口スズキ株式会社がユーザー管理の効率化のための機械処理の導入を図っていたため、Oは、何度か山口スズキ株式会社への出張による指導を行っていたが、山口スズキ株式会社から被告会社に対して、Oに山口スズキ株式会社に来て腰を落ち着けてやってもらいたいとの要請があった。これを受けて、被告会社は、上記労働組合選挙直後である昭和四七年一月一三日に、Oに対して、山口スズキ株式会社への配転の内示をし、同年二月一日、正式に駐在命令を発表した。

これに対し、原告X1、同X2及び同X7らは、同年三月に「O君を守る会」を結成して、会報「まもる」を発行するなどして、この配転を「<1>Oのような積極的な組合活動家は被告会社にとって邪魔なので追い出そうとしている。<2>Oのように真っ向から被告会社と対決して組合員の権利を守ることを主張する者が再び役員選挙に立候補しないようにしている。<3>被告会社のいいなりになる労働組合を作り上げようとしている。<4>働く者が何も言えない職場を作り出し「人減らし・労働強化」など労働者が犠牲になる合理化を推し進めていこうとしている」と主張して不当配転として争った。「O君を守る会」の活動に当たっては、原告X6も含めて三〇〇名近い従業員が会員になってその活動を支援し、同月五日の結成大会には八〇余名の人が参加した。

これに対し、被告会社は、総会に参加した従業員への執拗な聞き取りを行ったり、今後そういう場所に行かないように言ってくるなどした。

結局、Oへの駐在命令は実質的には取り消すのと同じ形となり、この業務に関しては、Oの代わりに別の従業員が担当して処理することになった。

(3)  R(以下「R」という)への出向命令

被告会社の従業員であったRは、昭和四八年六月二六日、一時金闘争におけるストライキ中の職場集会において、「一時金は五・三か月満額とするまで闘おう」「昼夜二交替制を条件として出してくるのはおかしい。反対だ」との発言を行った。

しかし、Rは、この直後である同年七月三日、A20工機設計課長から日本対向ダイス株式会社への出向の内示を受け、同月一一日、被告会社から日本対向ダイス株式会社に出向するように命じられた。

これに対し、Rは、出向は労働条件の変更を不可避的に伴うものであるから、労働条件につき予め明示されたところと異なる条件に変更することになり、本人の同意ないし承諾が必要であるところ、Rは、被告会社と労働契約を締結する際、他社への出向については被告会社から何らの説明も受けていないしその約定も存しないとして、上記出向命令効力停止仮処分の申請を当庁に対して行い、その申請は認容された。原告X1及び同X2はその支援活動の中心となってビラ配布などの活動をした。

もっとも、被告会社は、日本対向ダイス株式会社から、工機設計課で設計の経験がある人を派遣して欲しいとの要請を受け、同課での経験があり自宅が近く通勤しやすいRを出向要員として選んだにすぎなかった。

(4)  労働基準監督署への申告

ア 労災認定申請

<1> 昭和五二年一二月二四日ころ、工作第二課のA17が、約四キログラムの鉄製のリヤーシャフトの材料を両手に一本ずつ持って、材料台からセンターリングマシンのコンベアーに中腰姿勢で体を捻転しながら上げおろしなどをする作業をした結果、腰椎椎間板ヘルニアと診断されたことに対して、原告X1、同X2、同X5及び同X7を含む「A17君の労災認定を支援する友人一同」ないし「A17君を支援する友人一同」は、浜松労働基準監督署に労災認定申請を行い、翌年二月一八日、労災認定申請が認められた。

<2> 昭和五七年ころ、原告X2を含む共産党員は、被告会社磐田工場エンジン課のA18が職場作業の反復継続の過程で頸肩腕症候群という職業病に罹患したことに対して、労災認定申請を行い、昭和五八年一〇月ころ、磐田労働基準監督署から労災認定を得ている。

<3> 昭和五九年六月六日ころ、原告X2を含む共産党員らは、磐田労働基準監督署に対して、被告会社大須賀工場における被告会社従業員A19の労災・職業病認定申請を行い、労災認定を得た。

<4> なお、原告らは、T(以下「T」という)が湖西工場において、ロータリーエンジンの試作の仕事をしていた際に、右手人差し指を切断する労災事故が起こったにもかかわらず、被告会社がこれを隠蔽しているかの主張をし、それに沿う証拠(証人S)もあるものの、証拠(略)によれば、Tが怪我をしたのは、ロータリーエンジンの試作の仕事をしていた時期ではなく、クランク加工担当の際のことであり、怪我した指も左親指の第一関節を半分ぐらい切断したというものであり、労災認定を受けていることが認められ、事実関係が著しく食い違っており、この点に関する原告ら主張の事実を認めることはできない。

イ 大企業墨書運動

<1> Oをはじめ、原告X1、同X3及び同X2らは、サービス残業の問題、有給休暇を取得させない問題、時間外に行う各種従業員教育の時間外手当の不正支給問題などについて、労働基準監督署に是正・改善の要請活動を積極的に行った。

<2> 原告X1、同X3及びOらは、昭和五五年一月一四日には、有給休暇取得を妨げている問題として、「有給休暇放棄奨励のための表彰制度、有給休暇取得日数が査定基準に含まれている問題、消化不可能な出勤率計画の設定、理由の明記を強制する勤怠届け制度、予備要因がない為に有給休暇が取れない問題」をかかげ、有給休暇が完全に消化されるよう、上記問題の改善とその「改善計画書」を提出させることを要請するべく、浜松労働基準監督署へ申し入れを行った。そして、労働基準監督署における交渉経過を従業員に知らせるべく、被告会社本社正門前でビラを配布した。

<3> 同年四月一二日には、日本共産党静岡県委員会委員長らが浜松労働基準監督署に対して、被告会社を含む静岡県西部地方大企業の労働基準法違反と劣悪な労働条件等に関して申し入れを行い、実態調査の件で浜松労働基準監督署と交渉した。

<4> 昭和五六年一一月三〇日、原告X4、日本共産党鈴木自工委員会委員長のNらは、磐田労働基準監督署に対して、磐田工場における労働基準法違反と劣悪な労働条件の改善要請を行った。その結果、昭和五七年二月一日、磐田労働基準監督署から被告会社に対して、勧告五件、指導一〇件、助言三件の行政指導が行われた。

<5> 昭和六〇年七月二七日、原告X4、X3、同X2、同X5及び同X6らは、浜松労働基準監督署に対して、二〇〇〇名を超す署名を集めて被告会社の労働基準法違反と劣悪な労働条件などに関する調査・監督・指導を求める申し入れを行った。

<6> 昭和六三年六月二七日、日本共産党鈴木自工委員会委員長であるNらは、浜松労働基準監督署に対して、被告会社の海外駐在員の海外給与が一ドル二三〇円で換算され、不当に低く支払われているところ、これは換算レートはIMFの公定レートを用いると労働協定されていることに違反するものであり、賃金一部不払いの労働基準法違反にあたると申し入れた。その結果、浜松労働基準監督署は、被告会社に対して、協定通りの給与支給とこれまでの不払い分の支給を行うよう行政指導した。

<7> 平成九年には、浜松労働基準監督署にサービス残業の是正を申し入れ、その結果、三回にわたり抜き打ちの立ち入り調査を実施し、被告会社に対して改善指導を行った。

<8> 平成一五年には、労働基準監督署に対して、残業代不払いに対する調査及び行政指導を求める申し入れを行っているほか、被告会社四輪車設計グループに勤務していたA21が自殺したことについて、その両親が浜松労働基準監督署に労災認定申請している。

(5)  被告会社本社正門前での宣伝活動

原告らは、昭和四七年以降、春闘、一時金闘争の際、要求が実現するよう労働者を励ますビラやその時々の職場の要求を取り上げた政策ビラ、合理化に反対するビラ、「O君を守る会」の会報「まもる」、Rを支援するビラ、労働基準監督署への申告に関するビラなどを被告会社本社正門前の公道で配布する宣伝活動を行った。これに対し、被告会社は、人事課を中心にPらが門前に出て行って、配布している者の名前を呼ぶなどして、ビラの配布を止めるよう働きかけた。この際、Pは、原告X1らと激しくぶつかり、共産党を批判するような言辞を述べるなどした。また、被告会社の従業員は、正門に来ていた人事課の者や応援に来ていた職制から、受け取ったビラを門のところに置いてあるゴミ箱に捨てるよう指示された。

また、日本共産党の衆議院議員候補者などが、被告会社本社門前の公道で宣伝カーで宣伝活動を始めると、被告会社は、取り付けてあるスピーカーから音楽等を大音量で流し、候補者の声が被告会社の従業員に届かないようにするなどした。

なお、原告らは、本来被告会社のイメージを高める場である東京モーターショーの会場などでもビラ配りをしており、これについても、被告会社は、敵対行動であり営業妨害であると認識している。

(6)  被告会社の管理職研修における反共教育

昭和四六年に被告会社に入社し、人事一課に配属となった元静岡県警警備課に勤務していたPは、昭和五三年ころまでの間、班長・組長・工長等に対する監督者教育や研修の仕事に携わり、春闘の前に役職者を集めて被告会社の現在の経営状況の講義や新任の班長・組長に対する就業規則の解説、安全厚生、上司としての心得といった研修を行っていた。そういった教育研修活動の一つとしてではあるものの、Pは労働情勢の説明といった教育を担当した。そこでは、被告会社の経営実態をふまえた会社方針に対する協力の必要性、重要性について説明し、その折りにはその時々の社会的政治的背景について話をし、日本共産党について話をしたり、共産主義思想についても話をした。

昭和五九年に班長となったU(以下「U」という)は、当時の工長であったA22から共産党員とは断言しないものの、共産党員であった原告X4らの名前を挙げて、「そのような関係の人と付き合うと君の役がなくなる。被告会社のためにもならないし、自分のためにもならない」と言われた。そして、平成八年二月Uが新任工長研修において、日程表にはない講義が突然行われた。講義では、「残業をしない人」や共産党の活動と思われる「活動をしている人」が被告会社に何十人かいて、そのような人たちに対する接し方などが話された。

(7)  被告会社労働組合における支部委員選挙の投票方法

原告X1、同X3及び同X2らは、中央選挙管理委員会高塚支部に対して、昭和五一年七月一二日、組合員名簿の整備と投票用紙の厳密な管理を行い不正投票を防止することなどを求めた申入書を提出し、同月一九日にも「会社の組織の一部を通して“就業時間中に特定候補への投票依頼をしても良い”とか“投票の際は監視をせよ”とか選挙違反を公然と指揮しているようですので厳重なとりしまりと指導及び全組合員にそのようなことをしないよう徹底して欲しい」との申入書を提出している。また、同月二六日には、Oが「職制を含めた多人数のいる場所で投票用紙が配布され、皆が投票の内容が判る状態で記入され、投票されていた」といった投票の公正さについて問題視する申入書を提出している。

その後、昭和五三年七月一七日や同月二七日、同月二九日にも、原告らを中心として、同様の申し入れが行われており、昭和六三年八月四日には、開票結果が異なっていたことなどについての申入書が提出されるなど、選挙の公正が疑われてもやむを得ないような事態に陥っている。最近でも平成六年七月一日、平成八年七月三日、同月二一日、平成一〇年六月二一日、同月二九日に、勤務時間中の職制を通じての露骨な介入・干渉などがなされているなどといった依然選挙の投票方法などについての申入れが行われており、異なるところはない。

(8)  機関紙「わっぱ」の創刊

日本共産党鈴木自工支部は、昭和五〇年九月、職場新聞「わっぱ」を創刊した。原告らは、「わっぱ」を直接被告会社従業員の自宅に配布した。

これに対して、労働組合は、昭和五二年三月一二日開催の春闘臨時大会においては、中央執行委員長は、「わっぱ」の配布活動が「労働組合への介入」「日本共産党鈴木自工支部の行っていることは明らかに労働組合の分派活動であり、組織の主体性を守る上で許されることではありません。皆さんの賛同が得られるならば厳重に忠告します」などと述べ、昭和五五年三月九日開催の賃金闘争臨時大会においては、労働組合の自主決定を守り、民主的な労働運動を守り、発展させていくために、組合員のなかで、共産党のビラ入れ活動がされるならば、労働組合として徹底的に闘うとの見解が全会一致で承認された。さらに、昭和五七年三月一四日開催の春闘臨時大会では、磐田支部の全代議員の連名で「日本共産党から組織を守る三項目の運動の推進」という動議が提出され、「日本共産党・鈴木自工委員会のビラは受け取らない」「家庭に郵送されたビラは支部委員を通じ組合に提出する」「日本共産党・鈴木自工委員会のメンバーの家庭訪問は受け入れない」という三項目が可決された。その後、昭和六〇年一〇月六日開催の労働組合第三七回定期大会においても、「「日本共産党鈴木自工委員会」と名のるビラ配布や外部組織に対し署名活動をするなどの行為は、われわれ組織への挑戦であると受け止めざるを得ない。従って、今後彼等がこのような活動を続けるならば、職場の中でも堂々とその行為を批判し、断固排除していく行動を取っていかなければならない。それでもなお、今回のような行動をするのであれば、労働組合として徹底的に対決し、しかるべき機関にかけて、われわれ組合の立場を貫いて行かなければならないと考える」との回答がなされている。

2(1)  以上の事実関係のうち、Oへの山口スズキ株式会社への駐在命令やRへの出向命令に対しては、原告らが主張するように、OやRの労働組合における職場集会での発言に対する弾圧であるとまではいえず、被告会社としては一応合理的理由に基づいて命じていることからすれば、その命令が認められたか否かはともかくとして、このことから、被告会社が共産党ないし原告らを嫌悪し、その存在を警戒していたということはできない。

(2)  しかしながら、昭和四七年ころから、原告らが、被告会社本社正門前において、春闘、一時金闘争の際、要求が実現するよう労働者を励ますビラやその時々の職場の要求を取り上げた政策ビラ、合理化に反対するビラ、「O君を守る会」の会報「まもる」、Rを支援するビラ、労働基準監督署への申告に関するビラなど、被告会社を批判する内容を含んだビラを配布したことや、同所で行った演説に対して、被告会社は、従業員に与える影響等を考えてと思われる阻止行動を行っていることがうかがえる。この点、被告会社は、本件訴訟において、その施設外であっても、施設付近から施設内に向けられた拡声器による大音量による演説は、施設内で行うのと大差なく、構内に入っていく従業員に正門付近でビラを配ることは、施設内で配るのとほとんど変わらないとして、これらを規制阻止することは被告会社の管理権の行使として許されるとか、退社時間を利用してのビラ撒きについても施設内で配るのと実質的には同視されるとして規制したと主張している。しかしながら、本件全証拠によっても、原告X1らによってビラが実際に配られた昭和四七、八年当時、被告会社がこのような説明をしていた事実はうかがえず、後から考えた理由にすぎないし、その理由としても、少なくとも、ビラの配布については公道で行われている以上、これが就業規則違反になるとは言い難いから、当時、被告会社が原告X1らによるビラ配りや拡声器による演説を阻止した理由は、被告会社としては、このような行為を被告会社に敵対する行動もしくは少なくとも好ましくない行動としてとらえて嫌悪し、阻止したいと考えていたからというほかない。

また、明確な資料等まで存在している訳ではないものの、班長・組長・工長といった監督者教育に際しては、共産党員らに対する接し方などといった反共教育と受け取られるような教育を施すなどしていることがうかがえ、特に、昭和四〇年代後半から昭和五〇年代前半にかけては、被告会社と利害対立するものとして嫌悪、警戒していたことがうかがえる。

さらに、被告会社労働組合における支部委員選挙の投票にあっては、被告会社の職制が相当程度介入しており、このことからも、被告会社として、共産党の労働組合への進出を嫌悪、警戒していたことがうかがえる。そして、このような状況の中で、被告会社労働組合が、日本共産党スズキ自工支部による職場新聞「わっぱ」の配布活動やビラ配布を排除すべきであるとしていることからすれば、直接的には労働組合と共産党との争いであるとはいえ、このことからも被告会社が共産党に対して嫌悪、警戒していたことはうかがえる。

第三給与体系及び考課査定について

1  平成八年までの給与体系及び考課査定について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる(なお、平成八年度改正前の給与体系については、その給与規程が平成二年以降度々改定されているところ、定義等については平成六年四一日改訂給与規程によることとする)。

(1)  平成八年までの給与体系について

ア 当初、被告会社では、給与の内訳は、基本給(諸手当を含む)と付加的給与のみであったが、昭和三四年五月に資格制度を導入し、基本的給与は基本給と資格給からなり、これと付加的給与から構成されるようになった。資格給は、一級から二〇級まであった。その後、資格給間の差が大きくなって不合理であったことから、昭和四二年四月に資格給に号俸を取り入れるようになった。そして、さらに、昭和四四年四月に職務手当を新設し、その結果、基本的給与は基本給、資格給、職務手当からなり、基本給は、年齢給定昇分、年齢給改定分、考課配分、調整配分から構成されることとなった。具体的には以下のとおりである。

<省略>

このうち、基本給は、本人の年齢、勤続年数、能力、経験等の諸要素を総合評価し、月額をもって定めるとされている。年齢給定昇分は、毎年、昇給回答により年齢給表が作成され、各年齢ごとの年齢給が定められる。

資格給は、「資格規程」の定めるところにより資格別に号級をもって定めるものとし、資格段階別に賃金規則に定める資格給表に基づき、資格給を支給することとされ、昇格、昇号に応じて昇給するものとされている。各資格級の定義としては、一・二級職は、「経営上必要な総合的知識・技能・経験を有し業務面又は技術面のいずれかの部門の運営のための企画、立案を自らの判断によって行い、又は指揮をなし得る者にして人格的にも秀れたもの。最も広範かつ高度の知識・技能を必要とする専門・特殊の職務を遂行しうる者にして人格的にも優れたもの」、三・四・五級職は、「業務上必要な高度の知識・技能・経験を有し上級職を補佐し業務面又は技術面のいずれかの部門において重要・困難なる問題について企画立案をし自らの判断によってこれを処理し、又は指揮をなし得るもの。極めて高度なる知識・技能・経験を必要とする専門・特殊の職務を遂行し得るもの」、六・七・八級職は、「職務上必要な相当高度な知識・技能・経験を有し、困難な専門的業務についての企画・立案・調査・研究を行うと共に単独又は所属員を指導監督して職務を完全に遂行し得るもの。現業職にあっては充分な経験的技能をもって一般的指示により完全な段取りをなすと共に、所属員を指揮しその責を果たしうるもの」、九・一〇・一一級職は、「職務上必要な一般的知識・技能・経験を有し、日常の業務を企画・立案し単独又は所属員と共に時宜に応じた判断によって業務を処理しうるもの。事務職にあっては日常の業務の能率向上を期して自ら研究し、業務を円滑に遂行すると共に後進の指揮に任じ得るもの。技術職にあっては専門的知識、経験に基づき日常の業務を処理し、技術水準の向上に不断の努力を払うと共に、後進の指導に任じ得るもの。現業職にあっては上司の一般的指示により所属員を指導監督して日常の業務を充分に遂行し得るもの、又はこれと同等以上の能力に達し、後進の指導に任じ得るもの」、一二・一三・一四・一五級職は「職務上必要な規則・原理・原則を知り、上司の一般的指導を受け限定した分野で適格な処理をなし得るもの。現業職にあっては充分な経験的技能をもって日常の業務を円滑に処理する能力に達したもの」、一六・一七・一八・一九・二〇級職は「日常の担当業務について一般的指導監督を受け業務に従事するもの」とされている。

職務手当の額は、資格給別に定められている。

イ 賞与は、従業員の勤務成績に応じて支給し、会社の業績及び業績見通し等を勘案して、原則として年二回、夏季(七月)と年末(一二月)に支給することとされ、夏季(七月)分は前年度下半期を、年末(一二月)分は当年度上半期をその計算対象期間とする。

ウ 退職金は、退職金規程において退職時の基本給+資格給を退職金基礎額として、正規従業員が退職する場合に支給することとされている。

エ 昇格については、各資格給別に考課の累積点が別表一〇の基準点以上に達した場合、原則として昇格することとされている。人事考課と考課点との関連は、人事考課Aに対して考課点二〇点、B上に対して一五点、Bに対して一〇点、B下に対して五点、Cに対して〇点となっている。昇給時期は原則として毎年四月に行うこととされている。昇給額は、各人の能力、技量、努力による成果、職能、勤務状況、勤務等に関し、人事考課を基礎として決定する。就業規則第九章に定めるところにより表彰された者については昇給について考慮することがあるとされ、同時に、就業規則第一〇章に定めるところにより懲戒を受けた者については、昇給させないことがあるとされている。

(2)  平成八年までの考課査定について

ア 昭和五一年度後期の人事考課表によると、この当時の評定項目は、勤務状況、仕事の質と量、意欲・協調性、指導・統率力からなり、それぞれについて10から1までの評点をつけ、役職や職種に応じてウエイト配分がなされて換算点が算出されるようになっている。現職経験や今後の期待、実績の向上といった評価についての記載項目もある。そのほか、これらとは別に、前期における本人の業務上の実績・具体的成果についてと人物・性格・勤務態度及び適性について具体的に記載する欄があり、これらについて必ず記載するようになっており、要注意者についてはA欄に1と記入するよう定められている。

イ また、昭和五五年度前期の人事考課表によると、この当時の評定項目は、勤務状況、責任感、実行力、仕事の成果、知識・技能、企画力、管理・統率力からなり、それぞれについて5から1までの評点をつけ、職種や役職に応じてウエイト配分がなされて換算点が算出されるようになっている。また、現職経験年数や今後の期待についても記載項目がある。

そのほか、これらとは別に、人物・性格・勤務態度について「要注意者」とされる場合、現職に対する適性能力・配転について「作成的見地から配転可」の場合、「現職不適につき配転可」の場合、「退職見込み予定月日」の場合、資格給について「特に昇格させたい」場合、「昇格不適」の場合については、記号により記入することが求められている。また、本人の能力・年齢・体力面を考慮した場合今後どのように育成していくかについてや、職務と給与の関係について記載することとされている。

そして、被告会社の昭和五四年四月一日から昭和五五年三月三一日までの一年間についての人事考課実施要領には、現業の一次評定者は組長とされ、二次評定者は課長、三次評定者は工場長と記載されている。また、現業の評定では、組長は班長と、課長は工長と協議の上実施するよう記載されている。評定留意点としては、評価は、評定期間中の職務遂行上あらわれた具体的事実に基づくこと、推測や風評又は個人的感情に左右されないで公正な目で評価すること、部下の常日頃の職務遂行状況をよく観察した上で評価すること、全ての評価要素に甘い評価をしたり、また普通としたりしないで各要素ごとに正しい評価を心がけること、一つの非常によい点又は悪い点があっても他の要素まで眩惑されてしまわないこと、考課を通じて部下の能力育成に心がけることなどが記載されている。評点は、五点が「極めて優れている」、四点が「かなり優れている」、三点が「普通である」、二点が「やや劣っている」、一点が「劣っている」とされている。換算点の合計点数に応じて、九五点以上をA、八一点から九〇点をB上、六〇点から八〇点をB、四五点から五九点をB下、四四点以下をCとし、一次評定者は黒字で記入し、二次評定者以降が調整する場合は赤字で記入することとされている。考課分布としては、各部門ごとに資格給、職務内容を考慮した上、相対評価により、A五パーセント、B上一五パーセント、B六〇パーセント、B下一五パーセント、C五パーセントとされている。「人物・性格・勤務態度について」は、「勤怠が著しく不良の者、意欲の欠如している者」「業務施行上及び職場の人間関係上協調性に欠ける者」「言動、身なり、勤務態度が特に不良の者」「その他組織人としての適性が著しく欠ける者」について、要注意者とするよう定めている。また、「昇格は不適当」とは「職務遂行能力が低く他の者との比較において昇格は適当でないと思われる者」と定めている。

ウ 平成四年度下期の人事考課表は、業績考課、能力考課(現在の保有能力)、情意考課に分かれており、業績考課については、担当職務の記載欄、各担当職務ごとにそれが全職務に占める割合の記載欄、担当職務ごとに職務の難易度・評定欄があり、職務の難易度・評定欄には、本人の資格給・役職にふさわしい職務に比べ「a高度なレベル」「b適切なレベル」「c易しいレベル」に分かれ、それぞれについて、A(上司の期待し要求するレベルを上回る優秀な業績を上げた)ないしD(ミスや問題点が多く、業務に支障をきたした)の評価をするように定められている。そしてAないしDにはそれぞれ点数が定められており、この点数に当該職務が全職務に占める割合を乗じて導かれた換算点を合計した点数及び業務の拡大(将来の布石)として、新規業務の取組み・自己研鑽、問題発生の予防措置、業務改善への取り組みといった点について、一〇点(積極的に取り組み、特筆すべき成果を上げた)から〇点(積極的な取り組みがなかった)までの点数をつけたものとを合計したものが下期業績点となる。

その上で、過去一年間の主要担当職務について記載し、それについての職務の難易度・評定として、「a高度なレベル」「b適切なレベル」「c易しいレベル」を選び、AないしDの評価をするように定められている。さらに、業務の拡大について、一〇点から〇点までの点数をつけ、これらの合計点で通期業績点を算出している。

能力考課については、知識・技能、企画判断力、指導統率力、折衝力といった評定項目からなり、それぞれについて5から1までの評価をし、これに役職や職種といった点からウエイト配分して導かれた換算点の合計点が能力点となる。

情意考課については、勤務状況、積極性、協調性、責任感といった評定項目からなり、それぞれについて下期と通期にわけて5から1までの評価をし、これに役職や職種といった点からウエイト配分して導かれた換算点の合計点が下期と通期の情意点となる。

下期業績点、能力点、下期情意点のそれぞれをウエイト配分し、下期総合点を算出し、同様に、通期業績点、能力点、通期情意点から通期総合点も算出する。

また、評価についての特記事項・異動育成計画など、総合的な所見を記入する欄も設けられている。

なお、平成七年度上期の人事考課表では、概ね平成四年度下期の人事考課表と同じであるが、通期業績点、通期情意点、通期総合点といったものはない。

そして、平成四年度ないし平成七年度の人事考課実施要領は書証で提出されていないものの、概ね、その総合点を昭和五四年度の人事考課実施要領で定めている点数に従い、A、B上、B、B下、Cで評価していたものと思われる。

エ なお、昭和四四年以降平成八年以前の給与体系の資格給における初任資格は、大学院卒が一三級一号、大卒が一四級一号、高専・短大卒が一五級一号、高卒が一七級一号、職業訓練卒が一九級一号、中卒が二〇級一号とされており、中卒は、どんな考課であっても、最初の三年間は資格給で差をつけずに昇格させ、人事考課で生じる差は号俸での差にとどめていた。

2  平成八年以降の現在の給与体系及び考課査定について

(1)  平成八年以降の給与体系について

ア 昭和三四年当時、従業員数(四月末)が一四一五人、年間売上高(四月から三月)七三億円、平均給与(組合員基本的給与)一万七〇八二円、昭和四四年では、従業員数七一九四人、年間売上高一一八一億円、平均給与四万一八六二円となっていたのに対し、平成八年には、従業員数一万四五四二人、年間売上高一兆一五〇〇億円(予想)、平均給与二五万〇三七六円となっていることから、会社全体が当時と大きく変わってきた中で給与体系だけ依然として元のままでは矛盾や不合理が生じるようになった。すなわち、給与水準が上がっているのに号間格差が昭和四二年当時のままでは不合理であり、職務手当も資格給間の差が開いてきたために、昇格すれば昇給額が突出し、昇格しないと平均を下回る原因となっていた。また、社会環境面でも、バブル景気といわれた一九八〇年代後半から九〇年代初頭の過熱期をすぎると経済成長が停滞し、成長社会を前提とした年功序列賃金の見直しを求める声が各方面から上がってくるようになった。こうした環境変化に対応し、年功序列的な要素を少なくすることにより、より能力・業績を反映できる制度とするために、平成八年一二月一日から新しい給与体系が導入された。

イ 平成八年一二月一日から導入された新しい給与体系は、本給と職能給から成り立っている。

本給とは、初任給によって決定された金額に、毎年の昇給交渉の結果決定される昇給額(本給配分額)が加算された積み上げ給与となり、退職金は本給を計算の基礎額としている。

職能給とは、これまでの資格給と同様、資格給に相当する職能等級と号によって決定される。職能等級の高さとその等級での習熟度(号で表す)に応じた給与とされている。

ここで、職能等級とは、従来の資格給に代えて従業員の職務遂行能力を表す指標とするもので、管理職をM1級からM4級までの四つの等級に、工長・係長以下をS1級からS4級までとJ1級からJ3級までの七つの等級に分類する。従来の資格給が考課累積点で昇格できるかどうかを判断しており、年功序列的な要素が強かったのに対し、職能等級はその等級としての能力がどうであるかを判断して格付けるため、より能力を反映している。

また、事務職、技術職、営業職、技能職のいずれにも共通した概念で、職能等級と職務遂行能力との関係を明らかにした職能要件(職能等級の定義)を定め、どの職種であっても共通に使える職能等級別の職務遂行能力の基準とし、職能等級の格付けにあたって、部門や職種間の差異が出ないようにするための基準を設けた。すなわち、職能要件とは、それぞれの職能等級に格付けられた従業員に被告会社がどの程度のレベルの能力を身につけてもらうことを期待し、要求しているかを示したもので、被告会社は従業員がこの期待と要求にどれだけ応えてくれたかを評価することになる。具体的には、別表一一(略)記載のとおりである。

なお、給与体系の移行に当たっては、五五歳未満の正規従業員の場合はこれまでの基本給+資格給を本給とし、職務手当を職能給とする。ただし、職能給は、現行の職務手当と差額が生じるのでこの差額は本給に振り替え、給与総額が変わらないようにしている。五五歳以上の正規従業員の場合は五五歳到達時に基本給+資格給+職務手当を基本給に一本化し、この基本給を本給とする。また、職能等級は、原則として、現行の資格給と連動させ、別表一二(略)のとおり設定する。各職能等級における号数は、これまでの考課累積点(その資格になってからの考課点の合計)に応じて設定する。

ウ 平成八年以降の賞与については、それ以前と特段異なるところはなく、従業員の勤務成績に応じて支給し、会社の業績及び業績見通し等を勘案して、原則として年二回、夏季(七月)と年末(一二月)に支給することとされ、夏季(七月)分は前年度下半期を、年末(一二月)分は当年度上半期をその計算対象期間とされているところ、労使間協定により、平成九年一二月の賞与以降平成一六年七月の賞与まで毎回本給、職能給、役職手当、家族手当を加えた二・八か月分で妥結している(当事者間に争いがない)。

エ 平成八年以降の退職金については、退職金の算定基礎額となる本給を従来の算定基礎額である基本給+資格給から求めており、大きな変化はないものの、退職金の算定基礎外である職務手当を職能給に移行する際、職務手当の一部を退職金の算定基礎となる本給に繰り入れており、その分だけ退職金基礎額が増加するなどしている。

オ 昇給の仕組みは、以下のとおりである。まず、本給への配分方法については、年齢反映部分、業績・能力反映部分、調整配分から成り立っており、年齢別加算は、定期昇給にかえて、年齢区分に応じて毎年配分する。配分の考え方は年とともに能力・業績による配分ウエイトを高めるようにするため、若年層に多く配分するように設定している。従来の年齢給表は一歳年齢が上がることによっていくら給与が上がるかという定期昇給に意味があったものの、新しい給与体系では、この考え方を年齢別加算表に取り入れたため、廃止されている。また、新しい給与体系では、経験を積んだことによる能力アップは職能等級の中で評価することとし、従来の年功的な勤続給は廃止されている。職能等級別・考課別配分は、能力・業績配分の主体となるもので、職能等級が高い人、考課がよい人に多く配分する。金額は、その年の昇給回答額によって変動する。調整配分は、初任給調整(初任給を上げた年次と据え置いた年次の調整)、賃金カーブ是正(中堅層の中だるみ是正など)等のため、数百円の配分を行う。次に、職能給への配分方法については、昇格及び昇号分と一律改定分から成り立っており、昇格及び昇号分は、昇格したときは職能給表に基づき昇格前後の職能給の差が昇格分昇給額となる。各等級の一から四号にいた人が昇格せずに考課3以上をとった場合は、一号だけ号数が進み、職能給表に基づき昇号前後の職能給の差が昇号分昇給額となる。考課が2以上あるいは五号に到達し昇格しなかったときは、昇格及び昇号分昇給額はない。一律改訂分は職能給のベースアップとなるもので、全員一律に加算する。

また、昇格の仕組みは以下のとおりである。すなわち、考課基準、職能等級の号の基準、昇格審査の基準を全て満たした場合、職能等級を上位級の一号に昇格させることとされている。考課の基準とは、職能等級によって異なるものの、「当年の考課が昇格基準以上であること。ただし、S4級以上への昇格者については直近二年の考課が基準以上であること」をいう。職能等級の号の基準とは、「原則として、五号に到達していること」をいう。昇格審査とは、「職能等級の定義に照らした適格性判断を行い、それに合格すること」をいう。なお、昇格の節目となるJ1級からS4級への昇格には「昇格審査表」による審査を、S3級からS2級への昇格には「昇格審査表」「レポート」による審査を行うこととしている。昇格の条件は、昇格基準に合格することであり、役職になることは必要条件ではないとされている。なお、各職能等級には五つの号があり、この号は、習熟度を表す指標としてその等級での経験年数(ただし、考課3以上の場合の年数とする)を意味する。したがって、考課が3以上の場合、一年に一号進み、考課が2や1の場合は進まない。また、五号に到達しても昇格できないときは五号にとどまることになる。

(2)  平成八年以降の考課査定について

新しい職能等級規程には、別表一一(略)のとおり職能等級の定義が示され、人事考課は、この職能等級別の職能要件を判断基準として評価し、該当する等級の仕事ができたか、どの程度できたかを、業績については、仕事の質(出来ばえ、正確さ、的確さ)、量、達成率、範囲の拡大などの実績に基づき、能力については、知識、技能、企画・判断力、指導・統率力、折衝力などの能力に基づき、情意については、勤務状況、積極性、協調性、責任感などの勤務態度に基づいて行うこととされ、その評価点をいくつかの職能等級グループ別にまとめて序列化し、昇給、昇格、賞与等の処遇に反映させるものとしている。

従来は、考課累積点を昇格の主要な判断材料としてきたものの、資格での評価が劣る場合でも経過年数の累積で上位の資格に上がるという年功的な要素があるため、従来の考課累積点は廃止している。

考課は、春期(四月)の下期考課と秋期(一〇月)の上期考課の年二回とする。昇給、昇格に反映させる通期考課は、前年の春期と秋期に実施した半期考課の累積を用いることとしている。

なお、移行措置として、平成九年四月の昇給及び昇格に用いる考課は、平成七年一〇月から平成八年三月までの下期考課と平成八年四月から同年九月までの上期考課を累積し、職能等級グループ別に評価点を決定することとしている。

人事考課については、上記平成四年度上期や平成七年度下期の人事考課表と概ね同じであるが、能力考課及び情意考課の役職や職種によるウエイト配分が職能等級別のウエイト配分となっている点が異なっている。

また、人事考課は、昭和五四年度人事考課実施要領では、A、B上、B、B下、Cとされていたが、少なくとも平成八年の給与体系の改定以降は5、4、3、2、1で評価されている(以下、原告各人の事実認定において両者が入り交じるとわかりにくいので全て数字で統一することとする)。

3(1)  上記認定事実によれば、平成八年までの給与体系では、基本給の中に年齢給定昇分や年齢給改定分が含まれており、基本給の定義自体に本人の年齢や勤続年数、経験等が含まれていることからすれば、終身雇用制度を前提としており、年功序列的な要素を多分に含んでいることは明らかである。

しかしながら、平成八年までの給与体系では、「1」と評価された場合、考課点は〇点であるため、原則として各資格給別に考課の累積点が別表一〇(略)の基準点以上に達した場合に昇格することとされている関係上、全く昇格することができないことになってしまう。確かに、「2」と評価された場合でも、「3」と評価された場合と比較すると、その取得する考課点は半分の五点であり、非常に厳しいものであるが、この場合、時間はかかっても昇格する余地はあるものの、「1」の場合は、それを取り続けることになると、全く昇格する可能性すらないことになってしまう。被告会社としては、考課査定を受けた全従業員の中に「1」の占める者の割合を五パーセントにとどまるように配慮しているとはいえ、逆に言えば、必ず五パーセントの従業員がこのような極めて低い考課査定になってしまうとすると、正当な理由なく会社に出社しないなど、「1」の査定をされてもやむを得ないような従業員が一定数いることをふまえたとしても、必ず五パーセントいるとも言い切れず、「1」の査定を受けることが他の従業員との比較においてそれなりの合理性を有しているといえるかははなはだ疑問である。被告会社の就業規則においても、昇給停止は、譴責、減給、出勤停止、降格などと並んで懲戒の一事由とされている。しかも、平成八年までの給与体系は、終身雇用制度を前提として年功序列的な要素を多分に含んでおり、考課点の累積で年功的に昇格させていくシステムであることからすれば、全く考課点がつかない「1」の評価をつけるにあたっては、被告会社に人事考課を行うにあたっての裁量権があることを考慮したとしても、単に、相対的な評価だけで考課点がつかない五パーセントの従業員の位置におくことは許されず、そのような劣位な考課査定をするには、何ら正当な理由なく会社に出勤して来ないなどといった著しく劣悪な勤務態度にあることが必要である。

(2)  もっとも、平成八年の給与体系の改定では、従来の資格給が考課累積点で昇格できるかどうかを判断しており、年功序列的な要素があったのに対し、バブル景気といわれた一九八〇年代後半から九〇年代初頭の過熱期をすぎると経済成長が停滞し、成長社会を前提とした年功序列賃金の見直しが求められた結果、職能等級は、当該等級としての能力があるかを判断して昇格審査などを行った上で格付けるようになり、より能力を反映するようになっており、能力給としての側面が強くなっている。また、この給与体系では、経験を積んだことによる能力アップは職能等級の中で評価することとし、従来の年功的な勤続給は廃止されている。さらに、考課査定が「5」「4」「3」の場合、一号昇号するのに対し、「2」「1」の場合、昇号しなくなった。これは、平成八年の給与体系が能力給としての側面を強化した結果である。このような平成八年の給与体系改定の趣旨からすると、そこでの考課査定の判断は、被告会社の裁量に相当程度委ねられているというべきである。

第四原告ら各人の勤務態度等について

1  原告X1について

(1)  証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

ア 原告X1は、昭和三七年一〇月、被告会社に入社し、被告本社製造部工作課一係研磨組に配属となった。工作課は機械加工職場で主にオートバイや四輪車のエンジン部品を加工していた。翌年一一月には、同じ工作課一係調質組に異動となり、焼入作業を行っていた。

そして、昭和三九年一〇月からは、原告X1は、工作課一係シャフト組に異動となり、シャフト組では、素材の中心に穴をあけるセンターリングという作業を二年半くらい行い、その後、センターリング加工をした材料を機械で削る倣旋盤作業を行った。具体的には、材料を機械に取り付けて機動スイッチを作動させて行う仕事であった。仕上げた製品を計測器でチェックし、規格寸法から外れれば寸法調整まで行った。

その後、原告X1は、昭和四五年一〇月ころから工作課第一課二係ケース組に異動となり、ここでは、加工する材料や大きさが変わり重量が重くなった。その上、七五〇ccの大型オートバイを製造するようになるに伴い、今までの作業と比較にならないくらい重い材料を加工するようになったため、作業は非常に厳しくなった。また、残業や休日出勤が増えてきた。

退職直前の平成一六年ころは、原告X1は、被告会社本社工場機械グループケース組GVライン(現R-2ライン)に所属してオートバイのクランクケースを機械加工している。原告X1の作業は、アッパーケースの前工程と呼ばれる仕事をしており、素材から加工するところを担当している。仕事内容は、各機械に材料を取り付け機動スイッチを押して機械が自動加工するようにし、その自動加工中に次の機械に移動して自動加工を終了した材料を取り外して新しい材料を取り付けて機動スイッチを押すという作業を、受け持っている機械で次々に繰り返していくというものである。そして、機械加工した箇所の寸法を計測器でチェックし、規格から外れた場合には寸法調整することになっている。また、刃物が破損したり切れなくなった場合には取り替える作業も行っている。

イ<1> 原告X1は、昭和四一年一〇月、労働組合の青年婦人部の連絡員を初めて引き受け、以後、青婦委員、常任委員を一年ずつ行い、青年婦人部の活動を積極的に行った。

その後、原告X1は、昭和四三年一〇月、工作課シャフト組の労働組合代議員(現副支部委員)に選出され、工作課第一課、第二課に分かれた際にも、職場委員に選出され、翌年も再選された。

<2> 昭和四五年八月には、被告会社の湖西工場が新設されたことに伴う配転問題が起こり、これに対して、原告X1は、職場の人たちに呼びかけて懇談会を行うなどし、チームヘルパーであったNがその意見を整理して作成したチラシを一緒に活動していた者が職場の掲示板に張り出すなどしたところ、原告X1は、組長から呼び出されて組合活動に熱心にならないよう注意された。

昭和四五年一〇月には、原告X1は、労働組合の副支部委員に当選したが、その直後、シャフト組全体が工作第二課に編成替えとなり、原告X1は、工作第一課二係ケース組に異動となった。その結果、原告X1は、副支部委員でなくなった。しかしながら、原告X1の異動はあくまで会社組織上の編成替えによるものにすぎず、本件全証拠によっても、この原告X1の異動が、同人に副支部委員を辞めさせるために行われたと認めるに足りる証拠はない。

原告X1は、翌昭和四六年一〇月、工作第一課ケース組で支部委員に立候補し当選した。

<3> 昭和四六年、労働組合中央執行委員の補欠選挙にOが立候補した際には、「O君を当選させる会」に参加して活動した。Oは落選したものの、翌二月一日付でOを山口スズキ株式会社に出向させるという配転問題が生じたため、原告X1は、「O君を守る会」の常任幹事になって積極的に労働組合の支部委員会などで発言したり、職場の従業員に対して、「O君を守る会」の会報「まもる」の配布をするなどの活動をした。この結果、Oの配転はなくなった。なお、原告X1の班長代行であったQ(以下「Q」という)は、原告X1らが活動していた「O君を守る会」に一度だけ参加したことがあったが、それについて、班長から呼び出され、どのような集会で、誰が参加し、どのような発言をしていたといった一部始終について尋ねられた上、班長からは共産党が行っている分派活動に参加しないよう注意された。その後、人事課からも電話で、その件について問い合わせがあるなど、被告会社から、共産党の活動に参加したことについて尋ねられた。

被告会社は、原告X1に対して、被告会社内で職場の従業員に対して、「O君を守る会」の会報「まもる」の配布をしたことについて、被告会社の就業規則「第二章服務規律」の第八条第一六項には、「会社内で許可なくビラ散布、貼付、掲示若しくはこれ等に類することをしないこと」との記載があることを理由に、昭和四七年六月六日付けで、譴責書を出し、始末書を提出するよう求めたが、原告X1は、これに応じず、同月二一日、異議申立書を提出して争った。しかし、被告会社は、同年八月、原告X1を譴責処分にし、その旨を従業員食堂に模造紙で大書して貼り出した。

<4> 原告X1は、昭和四七年一〇月、支部委員、中央委員に当選した。ところが、同年九月、原告X1は、組合役員選挙で自薦候補の名前を書いたメモを渡したことが選挙違反行為とされ支部委員を解任された。そして、その直後の選挙では再び選出されたものの、翌年から落選するようになった。

<5> 原告X1は、昭和四八年五月、昼休みに被告会社において小選挙区制導入反対の署名活動をしたところ、同年六月一三日、被告会社は、原告X1に対して譴責書を交付し、譴責処分にした。譴責処分については、従業員食堂の舞台中央に模造紙三枚の大きさで掲示された。これに対して原告X1は、署名活動は、昼休みに行われたものであり、就業規則第八条の服務規律違反に該当しないとして、処分の撤回を求めて争った。その後、この譴責処分については、昭和四九年七月ころまで被告会社から二五回にわたって始末書提出命令書が出され、原告X1もその都度、不当処分撤回要求書を提出して争った。

<6> 同じころ、昭和四八年六月二六日、二時間の時限ストライキを被告会社の職場で実施した際、「昼夜二交替制勤務に反対」「年間一時金については満額回答五・三か月が出るまでストライキをやろう」などと発言していた工機設計課のRが、関連会社日本対向ダイス株式会社への出向を命じられたことから、不当出向であるとした裁判が始まり、原告X1はその支援活動の中心となって活動した。

<7> その後、昭和五二年には、原告X1は、被告会社の従業員であるA17が仕事中に椎間板ヘルニアになったとして、「A17君を支援する会」を結成して責任者となり、労働基準監督署において、その労働災害認定について業務上と認めない被告会社と争った。

<8> そのほか、被告会社の労働組合役員選挙にあたっては、その投票方法などについて、班長や組長らが監視することのない状態での選挙が実施できるよう、労働組合執行部などに要求するなどした。また、春闘、一時金闘争の際には、職場の要求を取り上げたビラを作成して、被告会社の門前で配布したり、従業員の自宅に届けるなどした。

<9> 原告X1は、上記活動をする中で、昭和四七年四月、共産党に入党した。共産党に入党してからは、被告会社の門前で、政策ビラや合理化反対のビラなどを配布した。また、昭和五〇年九月には職場新聞「わっぱ」を創刊し従業員の自宅に配布し、アンケート活動なども行った。さらには、労働基準監督署に対して、サービス残業の問題や有給休暇を取得させない問題、時間外に行う各種従業員教育の時間外手当の不支給の問題などについて、積極的にその是正・改善を申し入れた。これらの活動に対する被告会社ないし労働組合の対応は上記第二のとおりである。

ウ<1> 原告X1は、被告会社に入社後三年あまりは定時制高校に通っていた。昭和四一年三月定時制高校を卒業すると、それまで平常勤務に就いていたのを交替制勤務に就くようになった。

<2> 原告X1の勤務態度については、昭和四六年ころから昭和四九年ころにかけての原告X1の仕事ぶりとしては、特段不良品を多く出すといったこともなかったが、ときおり残業・休日出勤・夜勤を外れるなどしたことがあった。

<3> 昭和五二年六月ころ、原告X1は、当時の組長に対して、胃の調子が悪いことを理由に診断書を示して夜勤を外すよう求め、最終的には平常勤務で勤務するようになったが、この際、平常勤務として出勤してきた原告X1に対し、平常勤務としての仕事はないなどとして、原告X1に仕事をさせず、被告会社から追い返すことが三日間続き、その間の給与が無断欠勤扱いで差し引かれるなどした。これについては、後日、原告X1の求めもあって、届け出欠勤扱いに直され、差額の給与が支払われている。

その後、当時のB組長が原告X1に対し、そろそろ夜勤に戻れるか確認したところ、もう少しとか後一週間といった具合に交替勤務に戻ることを延ばされた。その後、原告X1の方から、交替勤務に戻れると言ってくることはなかった。

その結果、原告X1は、残業・休日出勤といった時間外労働を行うことはなかった。原告X1が勤務するライン業務は、原則として交替制勤務であった。平常勤務の始業は午前八時一〇分、終業は午後四時五五分であるのに対し、交替制勤務は生産状況により、三交替制と二交替制が採られているものの、交替制勤務の場合、いずれにしても始業は午前七時であった。したがって、原告X1が出勤するまでの朝の一時間一〇分は班長なり班長代行が代わりに仕事に就く必要があった。また、終業時間についても三交替制勤務の場合は、一勤(昼勤)の終業が午後三時四五分で、二勤の始業も同時刻なので平常勤務の終業時刻の午後四時五五分までの一時間一〇分を二勤の従業員と重複して働くことになり、残業が見込まれた変則二交替制勤務の場合は、終業が午後五時二〇分になるからその時間差の二五分は班長なり班長代行なりが原告X1の代わりに入るか、一人足りない状態でラインを動かすことになる。三交替制勤務、二交替制勤務の勤務時間帯は、その時々で変化しているため、その時々でずれる時間に多少の違いが生じることがあるものの、いずれにしてもこのようなずれが生じていた。そのため、被告会社としては、原告X1を他の従業員と全く同じ仕事をこなせる一人工として勘定することはできず、他のラインで欠勤者が出た際にはそのラインに行って仕事をしてもらうなどの配慮が必要となった。

その後に原告X1の上司として班長や組長になった者は、原告X1が交代勤務に就くことを拒否し、残業・休日出勤といった時間外労働をすることを拒否しているものと考え、原告X1に、残業・休日出勤をやれるか確認することはせず、平常勤務で出勤してくる原告X1の勤務形態をそのまま受け入れていた。この点、平成二年ころから平成一四年ころまで、原告X1の上司として班長を務めていたA2は、その陳述書において、班長になって最初の面接の際、原告X1に交替勤務をやらない理由を聞いたことがあり、その際、身体が悪いので夜勤ができないとの返答があった旨述べているものの、身体の具合が悪いことについて、それ以上の確認をしている事実もうかがえないし、今もって身体が悪いのが事実であれば、交替制勤務の形態を採っているライン勤務から別の平常勤務に異動することも検討してしかるべきであるのに、特段そのような検討をしたことがうかがえないことからすれば、陳述書に記載してあるような確認が行われたと認めることはできない。したがって、原告X1は、本来、交替制のラインに従事していたものの、原告X1だけ、平常勤務の時間帯で仕事に従事していた。

一方、原告X1も自己申告書の「健康状態」の欄には「健康」の部分に○印を付けていたものの、自ら積極的に、残業・休日出勤といった時間外労働をすることを希望する旨申し述べたことはなく、交替制勤務をすることを求めたこともなかった。

もっとも、原告X1は、平成一五年七月以降、交替勤務に就くようになり、同時に残業・休日出勤もするようになっている。休日出勤については、若干所属平均と比較しても少ない面はあるものの、残業に関して特段所属平均と比較しても少ないということはない。

<4> 原告X1は、その勤務年数からすると、仕事上必要なマシニングセンターやNCといった機械操作能力には劣る面があった。刃物など簡単なツールの取り替えはできたものの、クランクケースに加工したホールの径が企画とずれてきた場合に、その対応ができなかった。もっとも、班長など機械操作を指導できる立場の者が原告X1に対して具体的に機械操作方法を指導するといったことはなかったこともその原因と考えられるが、他の従業員は積極的にメモをもって教えてもらいに行っていたのに対し、原告X1は機械の操作方法について、教えてもらいに行った事実はうかがえない。

なお、この点につき、原告X1は、A1組長がA2班長には、マシニングセンターの操作方法をつきっきりで教えているのに対し、原告X1には全く教えていないかの主張ないし陳述、供述をしているものの、A1組長がA2班長にマシニングセンターの操作方法を詳しく教えていたのは、A2班長がA1組長の交替勤務における反対番であったため、A2班長には詳しく教えておかないと、A1組長が出勤していないときに生じたトラブルに対応できる者がいなくなってしまうからであり、責任者としてA2班長に詳しく機械の操作方法を指導したにすぎず、これをもって、原告X1をことさら差別したということはできない。

<5> 原告X1は、ライン作業を行う中で、一日の生産量を増やすため、機械の機動スイッチを押して自動加工が終了する時間を同タイムになるよう工夫し、自動加工に時間がかかる機械を止めないよう努力するなどしており、目標数量を下回るなどということはなく、数量としてはラインの流れを妨げることなく、行っていたものの、仕事内容については雑な面がうかがえた。具体的には、他の従業員と比べて規格外の加工を多く出しており、班長から注意を受けていた。

<6> 原告X1は、改善提案を出したことはなかった。原告X1が組長であるA1(以下「A1」という)のところへ考課査定が低いことを問いただしに来た際、A1は、改善提案を出していないことを指摘し、まずそれをやるべきである旨伝えているものの、原告X1はこれに対し、アイデアは人に伝えるなどしているものの、改善提案という形ではこれに応じたことはなかった。

エ なお、原告X1の平成一四年度上期の人事考課表には、業績考課について、「担当職務」の「クランクケース加工」が「全担当職務に占める割合」「一〇〇%」となっており、その「職務の難易度・評定」は「b.適切なレベル→C50」で、「合計」「五〇点」とされており、これに「業務の拡大」「三点」を加えた「五三点」が「業績点」とされている。また、能力考課について、「知識・技能」「2」「換算点」「一四」、「企画判断力」「2」「換算点」「一〇」、「指導統率力」「2」「換算点」「一〇」、「折衝力」「2」「換算点」「六」とされており、「能力点」は「四〇点」とされている。さらに、情意考課について、「勤務状況」「2」「換算点」「一二」、「積極性」「2」「換算点」「一〇」、「協調性」「2」「換算点」「八」、「責任感」「2」「換算点」「一〇」とされており、「情意点」は「四〇点」とされている。そして、総合点は、「四五点」とされている。「評価についての特記事項・異動育成計画など、総合的な所見を記入ください」との欄には、「会社方針の理解が不足しています。考え方の変更が必要と思われます」と記載されている。

原告X1は、昭和四六年度までは概ね「3」の考課査定を受けていたものの、昭和四七年度、昭和四八年度、昭和五〇年度及び昭和五二年度以降平成六年度までは「1」で、それ以外も「2」にとどまっている。

(2)ア  上記認定事実によれば、原告X1の考課査定が「1」になった昭和四七年度の考課査定を行った昭和四六年当時、原告X1の勤務態度に特段問題があった事実は認められないし、そのような事実を推認させるような事実もうかがえない。もっとも、原告X1は、昭和四七年、昭和四八年には、譴責処分を受けており、これに関連して昭和四九年七月ころまで始末書を提出するよう度々命令されているのに応じなかったことなどから、昭和四八年度ないし昭和五〇年度に低査定がなされるのはやむを得ないとしても、その後も過去の譴責処分をもっていつまでも低査定にする合理的理由はなく、これ以外に、原告X1の考課査定を最低の「1」にしなければならないほどの著しく劣悪な勤務態度はうかがえない。

イ  この点、上記認定事実によれば、原告X1は、その勤務年数からすると、仕事上必要なマシニングセンターやNCといった機械操作能力には劣る面があったことや仕事内容が雑であったこと、改善提案を提出しなかったことなど、その仕事ぶりに全く問題がないとはいえないものの、これらの仕事ぶりは、考課点を〇点にしなければならないような著しく劣悪な勤務態度ということはできないから、これらの原告X1の勤務態度をとらえて考課査定を「1」とすることはできない。

ウ  また、原告X1は、上記認定事実のとおり、昭和五二年七月ころから、残業・休日出勤といった時間外労働、交替制勤務に従事しなくなっていることがうかがえるところ、時間外労働がその対価として平常勤務に比べて割増賃金になっていることをふまえても、時間外労働や交替制勤務に就いている従業員らについては、被告会社の要請に応じてその生産計画に協力しているとして、就いていない従業員らよりも「情意」などの面において高い考課査定をすることには合理性があるというべきであるから、その結果、時間外労働や交替制勤務に就いていない従業員らが相対的に低い考課査定となることもやむを得ず、原告X1が、残業・休日出勤といった時間外労働や交替制勤務に就いている他の従業員らと比べて、相対的に低い考課査定になることもやむを得ないものの、あまりに低い考課査定をするとなると、実質的に従業員に残業や休日出勤を強制することになりかねないから、ここでいう相対的に低い考課査定というのは、あくまで被告会社の要請に応じてその生産計画に協力していることを勤務態度の一事情としてプラスアルファの評価をしたことと裏表の関係にあるものであることからすれば、このことだけを理由として、考課点が〇点になってしまう「1」にまで劣位にすることはできない。そうだとすると、原告X1が、昭和五二年七月ころから、残業・休日出勤といった時間外労働、交替制勤務に従事しなくなっていることのみをもって、考課査定を「1」とすることはできないから、被告会社に考課査定についての裁量が認められているとしてもその裁量を明らかに逸脱しているといわざるを得ない。そして、原告X1がこのような低査定になった理由は、上記第二及び上記認定事実のとおり、原告X1が、昭和四七年ころ、「O君を守る会」などに積極的に参加し、その後も、被告会社の方針に対して反対する活動を行ったり、被告会社本社正門前でビラ配布を行ったことなどに対して、被告会社が嫌悪していたことによるものとしか考えられない。

エ  もっとも、原告X1は、被告会社の人事課において、Pが日本共産党員ブラックリストなるものを作成し、原告X1などの昇給状況などをチェックしているかの主張ないし陳述、供述をしているものの、証拠(略)によれば、原告X1がその話を聞いたとするVが被告会社の人事課にいた時期とPが被告会社の人事課にいた時期が重ならないことなどからして、その信用性は乏しい上、本件全証拠によっても、被告会社にこのようなリストが存在したと認めるに足りる証拠はない。

また、原告X1は、食堂で一緒に昼食を取っていた者や話をしていた者に対し、被告会社が一緒に食事をしたり話をしないように圧力を掛けるなどした旨主張ないし陳述、供述しているものの、本件全証拠によっても、これらの事実を認めるに足りる証拠はない。

オ  以上によれば、原告X1の上記第二及び上記認定事実に見られる一連の活動に対して嫌悪した被告会社が、そのことをもって、原告X1の考課査定を昭和四七年度及び昭和五二年度から平成六年度まで「1」としたことが認められるから、これは、被告会社の原告X1に対する賃金差別というほかない。これに対し、上記認定事実によれば、原告X1は、被告会社から、昭和四七年及び昭和四八年に譴責処分に処せられており、それに関する始末書の提出命令が昭和四九年七月ころまで出されていたことからすれば、昭和四八年度から昭和五〇年度にかけては、その勤務態度が著しく劣悪なものと評価されてもやむを得ず、この間の「1」ないし「2」の考課査定について、賃金差別ということはできない。また、昭和五一年度及び平成七年度以降の「2」の考課査定については、「2」の考課点は五点であり、「3」の考課点一〇点の半分ではあるものの、全く考課点が累積しないわけではないし、そもそも人事考課については被告会社に裁量が認められていること、そしてその裁量は、平成八年の給与体系の改定に伴い、より拡大していること、原告X1には、上記認定事実のとおり、その仕事ぶりに全く問題がないとはいえないこと、残業・休日出勤といった時間外労働や交替制勤務に就いていないこと、原告X1の平成一四年度上期の人事考課表の考課査定においても明らかに誤った評価がなされた結果本来であればよりよい考課査定となることがうかがえるような事情が本件全証拠によってもうかがえないことなどからすれば、そのような考課査定が賃金差別の結果行われたものとまではいうことができない。なお、原告X1は、上記認定事実のとおり、平成一五年七月から交替勤務に就き、残業・休日出勤といった時間外労働をするようになっており、その評価は、平成一五年度上期以降においてなされることになるものの、平成一五年度上期の評価期間は平成一五年四月から同年九月であるため、同年七月以降だけでは十分反映されていなかったとしてもやむを得ない面がある。

2  原告X2について

(1)  証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

ア 原告X2は、中学校卒業後、昭和三五年三月、被告会社に入社し、被告会社の養成工として約一〇か月間教育を受けた。養成教育は、「中学卒業新入社員の内、特に選抜された者に対し被告会社の生産作業を担う基幹行員としての適格性を訓育し更に進んで将来専門職種の技能者として高度の知識、技能を修得すべき基礎能力を錬成する」ものとして行われた。原告X2は、養成教育終了時には、五名の優秀養成工の一人に選ばれ表彰された。また、原告X2は、昭和三五年から定時制高校に通い、四年後に卒業した。

養成教育終了後、原告X2は、工機課に配属され、フライス盤作業を担当した。原告X2が担当するフライス盤加工の精度としては一〇〇分の二ミリメートル程度の精度が要求され、昭和五六年には機械加工フライス盤作業一級技能検定に合格している。

イ 原告X2は、定時制高校卒業後、労音に入会し、その後、昭和四〇年日本共産党に入党した。

原告X2は、共産党入党後、職場外ではそれまでと同様に労音の活動に参加し、職場では「さつき」というサークルを作り会長に就任した。また、順番で委員を担当したことをきっかけに労働組合青年婦人部の常任委員としても活動するようになった。原告X2は、昭和四〇年から昭和五〇年までの間、青年婦人部常任委員三期と支部委員三期、副支部委員二期を職場の推薦で行った。原告X2は、支部委員を務めていた当時、休日出勤の計画について組合の指示どおりその必要性を吟味していた。昭和四七年には労働組合役員選挙に初めて立候補し、選挙結果は落選したが、同じ年に職場の支部委員に立候補し組合の推薦候補を破って当選した。また、このころ、「O君を守る会」の常任幹事となり、ビラの作成や活動計画の立案を担当した。昭和四八年ころからは、被告会社本社の門前で原告X1に対する譴責処分やRの配転問題、小選挙区制の問題などについて時には日本共産党員としてビラを配布するようになった。さらに、昭和四八年から昭和五九年にかけてRの配転に関する裁判やC17、C18、C19の各労災認定問題に取り組んでいた。ほかにも、「わっぱ」という職場新聞を配布したり、昭和五四年には一般市民に向けて宣伝カーで共産党としての活動を行い、昭和五五年ころからは労働条件の改善のために浜松や磐田の労働基準監督署に申し入れをするとともに、労働組合執行部に対しても同様の申し入れを行い、被告会社本社門前でビラを配布するなどした。このビラ配布に対しては、少しでも被告会社敷地に入ると敷地から出るように言われ、被告会社から門にあるスピーカーで名指しでビラ配布をやめるよう呼びかけられるなどした。平成元年からは、被告会社内に職場の自由と民主主義を守る連絡会を結成し、平成五年にはスズキ革新懇話会結成に参加するなど、被告会社に対する多くの活動に携わってきた。

なお、原告X2は、昭和四七年ころから、それまで昼食を一緒に食べていた仲間に対し、被告会社が一緒に食事をしたり話をしないように圧力を掛けるなどした旨主張ないし陳述、供述しているものの、本件全証拠によっても、これらの事実を認めることはできない。

また、原告X2は、昭和五〇年ころ、W班長が捨てた手帳を拾い、その手帳の中に人事考課の基準として「思想」があげられているように読める部分があることをとらえて、共産党員であることで被告会社から差別されているとの主張ないし供述、陳述している。しかし、拾った手帳の記載内容がどのような趣旨で記載されたものであるかについては、拾った当時、手帳の持ち主とされるW班長に確認したわけではなく、今となってはどのような趣旨で記載されたものであるかその意味するところを明らかにすることはできないし、これをもって、共産党員であることで被告会社から差別されているということはできない。

ウ<1> 原告X2は、昭和四八年に結婚し、翌昭和四九年に第一子が、昭和五一年に第二子が生まれている。原告X2の妻は銀行員であったため、第二子が小学校に入学する昭和五七年までの間は保育園への迎えは専ら原告X2の役割となった。そのため、原告X2は、平日の残業をほとんどすることができなかった。はじめのころは、班長や組長は、原告X2に残業をするよう求めてきたこともあるものの、原告X2は、これに対して、特段理由を述べることなく都合が悪いと断ってしまっていたことから、班長や組長は、原告X2は残業に協力しないものと判断して、次第に、残業をするよう求めること自体なくなっていった。原告X2としても、子供の迎えがなくなった後も、残業ができるようになった旨班長や組長に報告することはなかった。また、自己申告書において、残業や休日出勤をさせるよう求めてきたこともなかった。その結果、昭和五八年以降も原告X2の残業・休日出勤の時間数は、同じ工機課の他の従業員と比較して極めて少ないものとなった。ほかに、磐田工場や湖西工場への応援依頼や本社内の他の部署での応援依頼があったときも、原告X2は断っていた。

この点、原告X2は、昭和五八年以降であれば、育児からも多少解放されて平日の残業をすることもできたのに、その機会を与えなかったかの主張ないし陳述、供述をしているものの、当初、被告会社としては、原告X2に残業をやってもらうよう求めていたのに、原告X2が具体的な理由を示すことなくこれを断ってしまっていたために、次第に求めることがなくなっていったという経緯からすれば、残業ができるようになったのであれば、その旨原告X2の方から申し出ればよかったところ、そのような申し出があった事実もうかがえないから、残業や休日出勤について原告X2についてのみことさらその機会を与えなかったということはできない。

<2> 原告X2は、フライス盤加工についてはほかの従業員に教えることができるほどの技術を有していたものの、他の機械の操作方法を覚えることについては積極的に行わなかった。

<3> 原告X2は、直接班長から注意されることはなかったものの、仕事中私語が目立った。

<4> 原告X2は、平成五年ころ、フライス盤の切削粉飛散防止カバーの改善提案を行い採用された。また、破損カッターの再利用については役員監査の際に写真と説明文が張り出されるなどしており、改善提案は提出していた。

<5> なお、原告X2は、クレーン操作や玉掛けの資格、ガス溶接、アーク溶接、フォークリフトなどの資格取得をする機会を被告会社に求めていたにもかかわらず、ほかの従業員には資格取得の機会を与えるにもかかわらず、原告X2には与えず差別したとの主張ないし供述、陳述をしているものの、原告X2は、フライス盤加工の仕事をしており、直ちに必要な資格ではないことがうかがえ、必ずしも原告X2にその機会が与えられなかったとしても、そのことをもって被告会社が差別したということはできない。

また、原告X2は、昭和五五年ころ、NCフライス盤が工機課に二台入ることになった際、フライス盤技能士一級の資格を持っている原告X2とWがその機械を使用することになり、被告会社からその機械マニュアルまで渡されたにもかかわらず、突然、ほかの者が使用することになり、原告X2は汎用フライス盤を使い続けることになったとして、古いフライス盤をあてがうことで職場の中で見せしめにされたとの主張ないし供述、陳述をしている。しかしながら、原告X2は、NCフライス盤が導入される前に、横フライス盤という比較的新しいフライス盤を担当していたのであり、NCフライス盤を担当すると決まっていたとは認めがたいし、渡されたとされるマニュアルについてもその出所は定かでない。原告X2がフライス盤技能士一級の資格を持っているからといって、横フライス盤を使用させることが職場での見せしめになるとは考えがたく、このことをもって、被告会社が原告X2を差別したということはできない。

エ 原告X2の所属する工機課では、組長が第一次評定者として考課査定が行われていた。組長が考課査定を行うに当たっては、班長が参考意見を述べているところ、原告X2は、入社後昭和四四年ころまでは、「3」から「4」くらいの考課査定を受けていた。昭和三八年に「2」の考課査定となっているが、このときは定時制高校に通っており、また盲腸で病欠していた。なお、被告会社では、中卒者の場合、高卒者を一七級で入社させることとのバランスを考えてどんな考課であっても、最初の三年間は資格給で差をつけずに昇格させていた。しかし、昭和四五年以降は専ら「2」の考課査定で、昭和四八年から昭和五〇年にかけての考課査定は「1」であった。原告X2が上司に低い考課査定にされた理由について説明を求めても明確な回答を得ることはできなかった。原告X2は、上記のとおり、昭和五六年にはフライス盤一級の資格を取得したが、これによって考課査定がよくなった事実はない。

原告X2の平成一四年度の人事考課表によると、「担当職務」は、「専用機・治具部品のフライス作業」が「全担当職務に占める割合」「一〇〇パーセント」とされ、「職務の難易度・評定」については、「b.適切なレベル→C50」とされ、「業務の拡大」については、「三点(積極的に取り組んだが、成果には、結びつかなかった)」とされ、「業績点」は「五三点」とされた。そして、「能力考課」として設定されている項目である「知識・技能」「企画判断力」「指導統率力」「折衝力」いずれも2とされ、「情意考課」として設定されている項目である「勤務状況」「協調性」は1、「積極性」は3、「責任感」は2とされ、それぞれの項目に定められたウエイトを乗じて算出された結果、「能力点」が「四〇点」、「情意点」が「三六点」とされ、「業績点」「能力点」「情意点」にさらに定められたウエイトを乗じた結果導かれる「総合点」は「四五点」であった。また、「評価についての特記事項・異動育成計画など、総合的な所見を記入ください」との欄には、A23組長が「担当業務を遂行する上で積極性が見られず努力を要する」と記載している。この人事考課表はA23組長が一次評定者であり、その後二次評定者三次評定者がいる。

(2)ア  上記認定事実によれば、原告X2の考課査定が「1」になった昭和四八年度から昭和五〇年度において、原告X2の勤務態度に特段問題があった事実は認められないし、そのような事実を推認させるような事実もうかがえない。

イ  この点、原告X2は、上記認定事実のとおり、第一子が生まれた昭和四九年ころから、第二子が小学校に入学する昭和五七年ころまで、平日の残業をほとんどすることができなくなり、その後もほとんど残業・休日出勤といった時間外労働に従事していないことがうかがえるところ、時間外労働がその対価として平常勤務に比べて割増賃金になっていることをふまえても、時間外労働や交替制勤務に就いている従業員らについては、被告会社の要請に応じてその生産計画に協力しているとして、就いていない従業員らよりも「情意」などの面において高い考課査定をすることには合理性があるというべきであるから、その結果、時間外労働や交替制勤務に就いていない従業員らが相対的に低い考課査定となることもやむを得ず、原告X2が、残業・休日出勤といった時間外労働や交替制勤務に就いている他の従業員らと比べて、相対的に低い考課査定になることもやむを得ないものの、あまりに低い考課査定をするとなると、実質的に従業員に残業や休日出勤を強制することになりかねないから、ここでいう相対的に低い考課査定というのは、あくまで被告会社の要請に応じてその生産計画に協力していることを勤務態度の一事情としてプラスアルファの評価をしたことと裏表の関係にあるものであることからすれば、このことだけを理由として、考課点が〇点になってしまう「1」にまで劣位にすることはできない。そうだとすると、原告X2が、残業・休日出勤といった時間外労働、交替制勤務に従事しなくなっていることのみをもって、考課査定を「1」とすることはできないから、被告会社に考課査定についての裁量が認められているとしてもその裁量を明らかに逸脱しているといわざるを得ない。

ウ  もっとも、原告X2は、営業出向の勧奨を受けたことをとらえて、上記以外にも差別があったかの主張ないし供述、陳述をしているが、営業出向の勧奨は原告X2だけが受けたものではなく、ほかの従業員にも同じように勧奨していることがうかがえるから(書証略)、これをもって原告X2を差別しているということはできない。

また、原告X2は、同期同学歴の者と比較して、課長代理三人、係長二人、組長三人、班長三人となっていることをとらえて、昇進に著しい差が生じているとの主張ないし供述、陳述をしている。しかしながら、被告会社が役職者として昇進させるに当たっては、被告会社の生産計画や経営方針をふまえてそれに協調していくことができる者であるか否かとか自ら率先して班員らを引っ張っていくといった姿勢などさまざまな観点から総合的に検討されることからすれば、原告X2が役職者になれなかったとしても、そのことから、直ちに、同人が主張するような共産党対策による差別であるということはできない。したがって、原告X2が役職者になれなかったこと自体で被告会社が原告X2を差別したということはできない。

さらに、原告X2は、チーム・ヘルパー、QCリーダー、提案アドバイザーなどの役割を入社以来したことがないことをとらえて、被告会社が原告X2を仕事の役割上差別しているとの主張ないし供述、陳述しているが、本件全証拠によっても、原告X2が主張するようなそのような役割につかせないことで共産党員は働かないというイメージを周囲の従業員に植え付けようとしているとまで認めることはできず、被告会社がその裁量を逸脱して、ことさら、原告X2に役割を与えなかったということはできない。

エ  以上によれば、原告X2の上記第二及び上記認定事実に見られる一連の活動に対して嫌悪した被告会社が、そのことをもって、原告X2の考課査定を昭和四八年度から昭和五〇年度まで「1」としたことが認められるから、これは、被告会社の原告X2に対する賃金差別というほかない。これに対し、昭和五一年度以降の「2」の考課査定については、「2」の考課点は五点であり、「3」の考課点一〇点の半分ではあるものの、全く考課点が累積しないわけではないし、そもそも人事考課については被告会社に裁量が認められていること、そしてその裁量は、平成八年の給与体系の改定に伴い、より拡大していること、原告X2には、上記認定事実のとおり、フライス盤加工以外の機械の操作方法を覚えることについては積極的に行わなかったことや仕事中の私語が目立ったことなどその仕事ぶりに全く問題がないとはいえないこと、残業・休日出勤といった時間外労働や交替制勤務に就いていないこと、原告X2の平成一四年度上期の人事考課表の記載内容からすると、「積極性」について「3」と評価しておきながら、「評価についての特記事項・異動育成計画など、総合的な所見を記入ください」との欄には、「担当業務を遂行する上で積極性が見られず努力を要する」と記載しており、整合性を欠くかに思われる記載もないではないが、フライス盤加工の機械の操作方法を他の従業員に指導している点については積極性を評価しつつ、それ以外の担当業務を遂行する上ではそのような積極性がうかがえないことを記載してあるものにすぎず、これによって、明らかに誤った評価がなされた結果、本来であればよりよい考課査定となることがうかがえるとまではいえないことなどからすれば、そのような考課査定が賃金差別の結果行われたものとまではいうことができない。

3  原告X3について

(1)  証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

ア 原告X3は、昭和三六年三月に中学校を卒業後、被告会社に入社した。原告X3は、当初、被告会社の本社工場の二輪完成課のエンジン部組に配属され、エンジン部品の組立てを行っていた。入社三、四年後からはプレス機を使って二輪二サイクルエンジンのクランクシャフトの組立てを専ら行うようになった。その後、昭和五四年ころからは、ロータリーフライス盤等を使用し、クランクケースを削る作業をするようになった。

原告X3の仕事内容は、慣れれば早くできるようになるものであったものの、クランクシャフトと呼ばれる二輪のエンジン部分のピストンが付いている下の部分をプレス機で組み立てるにあたっては、左右の心棒がまっすぐになるように組み立てるには相応の技術を要するものであった。精度としても一〇〇分の一ミリメートルの精度を要求されていた。

イ 原告X3は、昭和四四年ころ、原告X3が住んでいた団地近くで廃棄物処分場建設計画に対する反対運動をきっかけにして、反対運動の中心になっていた日本共産党の人から入党を勧められ、被告会社での長時間労働などに疑問を持っていたこともあって昭和四五年一月に入党した。入党後は、被告会社の内外で活動するようになり、門前でのビラ配りなどに参加したり、社内教育とQCサークルに時間外手当の支給を求める申入書をはじめさまざまな申入書をスズキ自動車労働組合執行委員会に提出するなどしている。また、昭和五三年や昭和六〇年には浜松労働基準監督署長宛に、被告会社が労働基準法に違反しているとして是正勧告等を求める申告書を提出するなどした。さらに、被告会社の職場集会では冷房や暖房を付けるように要望するなど職場環境の改善を要求するのとあわせて時間外労働についても押さえるよう要求し、職場で班員に対しても残業に協力しないような発言をするなどした。

このような原告X3の活動に対しては、組長のA24らから発言を慎むように求められるとともに、残業・休日出勤に協力的でないと困るといわれるなどした。これに対して、原告X3は、残業・休日出勤をしなければいけないのは被告会社の管理が悪いせいであるかの発言をし、被告会社の求めに応じなかった。また、原告X3は、昭和四八年以降、労働組合の役員(支部執行委員や支部委員など)選挙に立候補したが、これに対しては、被告会社の班長以上の立場の者が投票行為を監視するかのように見ていたり、組長が投票箱を一時持ち出すなどの行為をされた。これに対して、原告X3は、昭和五一年から平成元年にかけて、中央選挙管理委員会など宛に「申し入れ書」などと題する書面を提出するなどした。

ウ<1> 原告X3は、入社後約一〇年間くらいは順調に昇給・昇号し、二〇級から始まった俸給が昭和四六年には一三級になった。昭和四三年ころ、班長代行となり、チームヘルパーと呼ばれる職場のリーダー役にもなった。

原告X3は、被告会社に入社した年から時間外労働には応じており、上司から残業や休日出勤を求められればこれに応じてきた。

原告X3の被告会社における年間の時間外労働時間は、わかる限りでも入社した昭和三六年が五・五時間、以後、八六・三時間、一二〇時間、一五四時間、一六八時間、二五九時間、二三〇時間と推移し、最も多い昭和四五年には二七二時間に上る時間外労働を行っていた。

原告X3の職場でも昭和四五年ころから交替制勤務制度が導入され、同年五月ころから原告X3も交替制勤務に就くようになった。

<2> しかしながら、原告X3は、昭和四九年ころから空手を習い始め、その後、プレハブの道場を建て、送迎バスを用意するなどして、団地の子供達を中心に週四日教えるようにまでなった。そのため、空手を教える夕方にかかる時間帯の交替制勤務については被告会社からの求めがあっても断ることになった。そのため、昭和六二年ころ以降ほとんど夜の時間帯の交替制勤務には就かなくなった。平成九年以降、休日出勤をした際に交替制勤務の一勤(昼勤)のみをやることはあったものの、二勤(夜勤)をやることはなかった。組長や班長から交替制勤務をやるよう求められたこともあるものの、これに応じることはなかった。交替制勤務は、一つの班が一勤(昼勤)と二勤(夜勤)とに分かれ、一週間ごとに、一勤と二勤の仕事を交互に行うこととし、一勤は、朝七時から昼三時四五分までの勤務に五分の休憩を挟んで一時間半の残業をし、二勤は夕方五時二〇分から翌日の二時五分までの勤務時間に五分の休憩時間を挟んで一時間半の残業がつき三時四〇分まで仕事を行うという勤務態勢である。この場合、一勤二勤とも同じ作業を行い、同じ人数の班員で作業を行うことで、継続的に仕事を引き継ぐことができた。これに対し、平常勤務は朝八時一〇分から夕方四時五五分までの勤務時間であった。原告X3の勤める職場ではX3以外の者が交替制勤務をしていたのに対し、原告X3のみが一人平常勤務で仕事をしており、二勤をしなかったため、班長が自ら作業ラインに立って仕事を行う必要が生じたり、平常勤務と一勤との勤務時間に差があるために、朝七時から八時一〇分までの一時間一〇分についてはやはり班長が自ら作業ラインに立って仕事を行う必要が生じるといった不都合が被告会社には生じた。そのため、班長は、ほかで平常勤務をやっているところがあれば、原告X3をそこに回したり、平常勤務でもあまり支障がない仕事を行わせていた。原告X3の職場では、急に生産量を多くする必要に迫られたり、機械故障のため停止した生産量を挽回しなければならないことがあり、そのために、班長は、残業や休日出勤を原告X3に依頼したものの、原告X3は強制ではないはずであるとして協力しないことがあった。

<3> また、残業については平成二年度以降、休日出勤については昭和六一年度以降、少なくなっており、その結果、昭和五九年度以降の年度ごとの残業時間数は、最も少ない年度(平成五年度)は〇時間、最も多い年度(昭和六一年度)でも八五・九八時間となった。また、休日出勤時間数は、最も少ない年度(平成六年度)は八時間、最も多い年度(平成九年度)でも一二〇時間となった。特に、平成二年度以降の原告X3の残業・休日出勤時間数は極端に少なくなっており、平成二年度から平成一二年度までの原告X3が所属する部署の年間平均残業時間数一三三・一四時間、同休日出勤時間数一三二・七〇時間と比べても少ないものとなっている。

さらに、原告X3は、改善提案を提出することはなかった。

<4> 原告X3の職場は、昭和の終わりころまでは、機械の扱いも手動で扱うものが多かったものの、その後、機械が進歩したことに応じて、コンピュータ制御された機械を扱う必要が出てきたため、対応しきれなくなり、昭和六二年ころから平成六年ころの仕事においては、原告X3は、機械のツールと呼ばれるものの取り替えといった段取りはできたものの、他の人に比べてその仕事は時間を要するようになったり、加工品をゲージや測定具で品質チェックすることは誰でもできるものであったから原告X3も行っていたが、その結果に基づいて微調整をする技術は原告X3にはなかった。

<5> また、原告X3は、平成一〇年にクランクシャフトの組立てラインという意味では変わらないものの、第四ラインから第五ラインという作業ラインに異動したが、第五ラインでは、以前からNC機が導入されていたが、機械の操作方法については誰からも教えてもらうことはなかったため、その操作ができなかった。もっとも、組長や班長からNC機の操作を覚えたらどうかと言われていたものの、積極的に覚えることはしなかった。一方、原告X3以外の従業員は、自ら積極的に班長にその操作方法を尋ねるなどして身につけていった。NC機のプログラム修正は平成一〇年ころには従業員の六〇パーセント程度の者が、プログラムの呼出だけであれば八〇パーセントくらいの者ができたが、原告X3は、そのプログラムの呼出修正ができなかった。そのため、機械に不具合があった際には、班長や班長代行が直していた。自動ラインは全部数値制御装置の加工機であるため、プログラムの修正やツールの呼出といった作業ができない原告X3には、自動ラインを任せることはできなかった。そのため、原告X3にはその前工程か圧漏れ検査だけをやってもらうことになった。ここで、原告X3が担当していた仕事は、三日あれば要領を覚えてしまう程度の内容の仕事であった。

エ その結果、原告X3の考課査定は、昭和四五年度が「5」であったのに対し、昭和四六年度には「4」となり、昭和四七年度には「3」、昭和四八年度には「1」になっていった。その後も原告X3の考課査定は、昭和五〇年度、昭和五四年度及び昭和五九年度以降平成六年度までが「1」、その余が「2」であり、平成一〇年度以降の考課査定は「2」であった。

考課査定については、本社工場においては、各組ごとに組長の下、班長が集まり、考課要領をふまえて、班長が鉛筆で各従業員の「5」から「1」までの点数を記入し、職能級別にしてそれを一覧表にする。その上で、班長全員と組長で調整を行う。その上で、各組の組長は、その結果を持ち寄って、職能級別ごとに一覧表を作り同じような調整を行う。このときには課長も参加する。これにより考課表が確定する。

上記考課査定の結果、原告X3は、昭和四七、八年から平成五、六年にかけて俸給は固定して一二級で止まり、賃金体系が見直された平成九年度以降も職能等級S4級で止まっていた。

原告X3は、自らの考課査定が低くなった理由について上司に尋ねたものの、自分の胸に聞いてみろなどと言われるだけで、はっきりした答えを聞くことはできなかった。むしろ、上司のA25からは、原告X3は仕事はできるとの評価は受けたことがあった。もっとも、平成四年ころから平成九年ころにA32班長からは、交替勤務をやらないことや協調性がないことを理由に考課査定が低いことを説明されたが、原告X3はこれに対して交替勤務に就くことはなかった。

班長代行の地位についても、職場を配転、異動させられるとともになくなってしまった。

オ なお、原告X3は、三〇歳の秋ころに、b町に転居していたことから、平成に入るころからは、被告会社の竜洋工場に勤務先をするよう求めていた。しかしながら、竜洋工場では、車、バイクのテストを行っており、原告X3がこれまで勤めてきた仕事内容と同じ内容の仕事は竜洋工場にはなかった。原告X3は、このような仕事内容などについては特段意識することなく、専ら通勤の都合から異動希望を出していたが、配属されなかった。

(2)ア  上記認定事実によれば、原告X3の考課査定が「1」になった昭和四八年度、昭和五〇年度、昭和五四年度及び昭和五九年度以降平成六年度において、原告X3の勤務態度に特段問題があった事実は認められないし、そのような事実を推認させるような事実もうかがえない。

イ  この点、原告X3は、昭和四九年ころから空手を習い始め、その後、プレハブの道場を建て、送迎バスを用意するなどして、団地の子供達を中心に週四日教えるようにまでなったため、空手を教える夕方にかかる時間帯の交替勤務については被告会社からの求めがあっても断ることになり、昭和六二年ころ以降ほとんど夜の時間帯の交替勤務には就かなくなったこと、残業については平成二年度以降、休日出勤については昭和六一年度以降、少なくなっていることが認められる。時間外労働がその対価として平常勤務に比べて割増賃金になっていることをふまえても、時間外労働や交替制勤務に就いている従業員らについては、被告会社の要請に応じてその生産計画に協力しているとして、就いていない従業員らよりも「情意」などの面において高い考課査定をすることには合理性があるというべきであるから、その結果、時間外労働や交替制勤務に就いていない従業員らが相対的に低い考課査定となることもやむを得ず、原告X3が、残業・休日出勤といった時間外労働や交替制勤務に就いている他の従業員らと比べて、相対的に低い考課査定になることもやむを得ない。もっとも、時間外労働や交替制勤務に就いていない従業員らに対して、あまりに低い考課査定をするとなると、実質的に従業員に残業や休日出勤を強制することになりかねないから、ここでいう相対的に低い考課査定というのは、あくまで被告会社の要請に応じてその生産計画に協力していることを勤務態度の一事情としてプラスアルファの評価をしたことと裏表の関係にあるものであることからすれば、このことだけを理由として、考課点が〇点になってしまう「1」にまで劣位にすることはできない。そうだとすると、原告X3が、昭和六二年ころから夜の時間帯の交替制勤務に、平成二年度以降残業に、昭和六一年度以降休日出勤に従事しなくなっていることのみをもって、考課査定を「1」とすることはできないから、被告会社に考課査定についての裁量が認められているとしてもその裁量を明らかに逸脱しているといわざるを得ない。

ウ  以上によれば、原告X3の上記第二及び上記認定事実に見られる一連の活動に対して嫌悪した被告会社が、そのことをもって、原告X3の考課査定を昭和四八年度、昭和五〇年度、昭和五四年度及び昭和五九年度から平成六年度まで「1」としたことが認められるから、これは、被告会社の原告X3に対する賃金差別というほかない。これに対し、昭和四九年度、昭和五一年度から昭和五三年度まで、昭和五五年度から昭和五八年度まで及び平成七年度以降の「2」の考課査定については、「2」の考課点は五点であり、「3」の考課点一〇点の半分ではあるものの、全く考課点が累積しないわけではないし、そもそも人事考課については被告会社に裁量が認められていること、そしてその裁量は、平成八年の給与体系の改定に伴い、より拡大していること、原告X3には、上記認定事実のとおり、コンピュータ制御された機械に対応しきれなくなり、他の人に比べてその仕事は時間を要するようになったり、加工品をゲージや測定具で品質チェックした結果に基づいて微調整をする技術がないなど、その仕事ぶりに全く問題がないとはいえないこと、残業・休日出勤といった時間外労働や交替制勤務に就いていないこと、原告X3の平成一四年度上期の人事考課表の考課査定においても、明らかに誤った評価がなされた結果、本来であればよりよい考課査定となることがうかがえるような事情が本件全証拠によってもうかがえないことなどからすれば、そのような考課査定が賃金差別の結果行われたものとまではいうことができない。

4  原告X4について

(1)  証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

ア 原告X4は、高校卒業後、昭和四四年四月、被告会社に入社した。入社後、被告会社磐田工場の車体課に配属となり、実習生として、ボデーの部品組み付け作業を行い、入社一〇か月後にはチームヘルパーになった。入社一年半後、作業分析の管理体制が作られ、工務課(現管理課)に配属になった。工務課の主な仕事は、各作業者の作業動作を工程ごとに分析してストップウォッチで時間を計り、標準作業時間を設定するという仕事であった。

イ 原告X4は、入社後、職場のサークル「さつきサークル」に入会し、昭和四六年に日本共産党に入党し、昭和四八年には民青に加盟し、その活動に参加するようになった。

原告X4の被告会社における活動は上記第二のとおりであるが、原告X4は、被告会社本社門前でビラを配布するなどし、昭和五六年一一月三〇日ころには、労働基準監督署に対して、被告会社磐田工場の長時間労働、サービス残業などといった労働基準法違反などに関する調査及び改善の申入れを行った。その結果、昭和五七年二月一日ころ、労働基準監督署から、勧告五件、指導一〇件、助言三件が出されるに至った。

また、原告X4は、昭和五七年以降、落選しているものの、ほぼ毎年労働組合の支部委員に立候補しており、昭和五八、五九年ころには、A18やA19の職業病認定について応援活動をし、平成五年には「賃金の会」を結成し、被告会社における賃金の実態調査のためのアンケート調査などを行っている。

ウ<1> 昭和四五年一二月、同期のA5が湖西工場で労働災害のため亡くなるという事件が起こった。このとき、原告X4は、被告会社の対応に疑問を感じるとともに、合理化を推進する自分の仕事に不安と矛盾を感じるようになった。

原告X4は、工務課での仕事に抵抗を感じていたところ、被告会社では、この当時、軽四輪の販売が不振であったことから各工場から生産に従事している従業員を販売部門に異動させる営業出向を行っていたため、自ら希望して営業出向に応じることにした。その結果、原告X4は、静岡営業所に配属された。

<2> 原告X4は、営業出向したスズキ自販静岡において、島田地区を担当することになった。営業活動としては、新規の販売店の開拓、他メーカー販売店や普通車扱いのモータースでの販売開拓、販売店の見込み客に同行しての売り込みといった活動をすることになった。また、販売店へ部品を届けたり、新車納車や下取車回収といった仕事もあった。これらの仕事をするに当たっては、スズキ自販静岡本社との連絡を緊密にしておく必要があったが、原告X4は、本社に連絡を入れることをせず、営業日報にも記載が不十分であったことから、営業に出てしまうとどこにいるのか連絡がつかない状態になってしまった。そのため、原告X4が担当している販売店から本社へよく苦情が入っていた。本社の販売員の平均販売台数は一人月間七、八台程度であったが、原告X4は報奨金をもらったこともあるものの、平均すると三、四台程度しか販売できなかった。スズキ自販静岡の上司であるJ(以下「J」という)は、原告X4には営業日報を詳しく書くよう指示したり、連絡を密にするよう指示したものの、原告X4は、その指示に従わなかった。また、原告X4は本人が連絡することなく一週間も休みを取ってしまったこともあった。Jは、原告X4に対する考課査定について、本来であれば、当初から、「1」としてよいはずであったが、被告会社から営業出向できているため、仕事に慣れていないことやあまり厳しく査定すると営業出向希望者がいなくなることを危惧して甘い査定をつけざるを得なかった。もっとも、その後も、原告X4の営業成績が伸びないことや指示に従わないこと、出向社員の人数も増えてきたことなどから通常の査定を行った。

<3> 昭和四九年一〇月、原告X4は、被告会社磐田工場に戻された。

その後、原告X4は、昭和五〇年に再度京都への出向を求められたが、これを断っている。

原告X4は、磐田工場では以前と同じ車体課に戻り、昭和五〇年八月から翌年三月ころまでは大須賀工場鋳造課に応援に行っていたものの、いずれにしてもラインの仕事に従事していたが、このころ、班長から残業や休日出勤についての要請に応じないということはなかった。しかしながら、原告X4が残業や休日出勤について、批判的であったことから、被告会社としては、残業や休日出勤をほぼ確実に伴うことになるラインの仕事から平常勤務で行うことができる仕事に原告X4を異動することにし、昭和五七年二月八日ころに二交替制勤務から旧ジムニー工程の平常勤務に移された。なお、この一週間前には、労働基準監督署からは、勧告五件、指導一〇件、助言三件が出されており、労働基準監督署に申し入れを行ったA26、A27、A28も、同月一五日ころ、平常勤務に異動となった。

<4> 原告X4は、昭和五七年一〇月から、一人作業であるパネルバン組み立て作業に移され、以後、平成七年八月に車体課改善グループに配属となるまで一人作業に従事することになった。このパネルバン組み立て作業は、原告X4が従事する以前から一人作業として行われていたものであり、前任者が共産党員であったなどということはなかった。

<5> 昭和六〇年三月二二日ころ、原告X4は、応援で、トラックメインボデーラインのキャブサイドとキャブバック箇所をスポット溶接する仕事をしていた際、右手でスポット溶接機のスイッチを持ち、左腕でスポット溶接機を持ち上げて溶接しようとしたところ、左第一肋骨を骨折した。その結果、直接何かにぶつかったというわけでもなく、その原因は定かでなかったものの、勤務中の怪我ということで労災認定され、同月二六日付で約四週間の通院、加療を要する見込みである旨の医師による診断がなされ、同年四月一日付で約三週間の安静、加療を要する見込みである旨の医師による診断がなされた。

そのため、原告X4は、勤務することができなかったが、昭和六〇年四月一〇日ころから痛みが取れ楽になったため、同月一五日、同月一二日付の「四月一五日より通常勤務されて支障ないものと思われます。ただし、稀な病態のため当分の間週一度通院のうえ経過観察する予定です」と記載された医師による診断書を持参して、平常勤務で出勤した。そして、パネルバン組み立て作業に就いていたところ、同月一七日工長が来て、まだ本当に治った体ではないとして、パネルバンの組み立て作業ではなく、トラックのバンを組み立てるロボットの監視、チェックをする仕事をするよう指示した。この仕事は、ロボットがセット不良を起こしたり、機械がトラブルを起こしたときにすぐ連絡・対応ができるように気を配っておく仕事であるが、通常は班長が他の仕事をしながら監視、チェックしているだけのものであった。

その後、しばらくして、組長から現場に就くにように指示があり、現場の仕事をしていたものの、同年六月一三日には、再び、工長が安全に就労できる体の状態ではない場合には仕事をさせるわけにはいかないとして、自ら作業をするのではなく、作業現場を見ていて、作業者がわからなくて聞いてくることだけを口で教えるよう指示された。これを受けて、原告X4は、同月二五日に「現在骨癒合、ほぼ完成しましたので通常勤務復帰されて支障がないものと考えます。一か月後に再レントゲン撮影を行った後治癒の判定をする予定です」との診断書を被告会社に提出したが、課長のZ6(以下「Z6」という)は、治癒の結論が出るまで、現場の仕事に従事させることはできないとした。そこで、原告X4は、同年七月二三日、「三/二六来院これまで保存的に加療し本日治癒となったため今後通院の必要ありません。通常勤務として支障がないと考えます」との診断書を被告会社に提出し、通常勤務に戻すよう求めた。しかしながら、この診断書を示しても、Z6課長は、原告X4をこれまでの仕事に戻さず、同年九月二六日には、同年一〇月四日に三菱の重役が来るということで通路の清掃作業を命じた。

しかし、三菱の重役が来た後も、清掃作業を命じられ、原告X4がパネルバンの仕事に戻らせて欲しいと求めても、Z6課長は、原告X4の体が心配であるとして戻らせなかった。しかし、原告X4が命じられていた清掃作業は、外注に出している清掃作業と異なり、通路床面の油やゴミ、セメダイン、ビニールテープ、紙テープ、フォークリフトのタイヤ跡などをモップやぞうきんなどでこすり落としたり、鉄板の切れ端で取る作業であり、汚れがひどいときは一日中かがんだまま通路を掃除しなければならず、通常の仕事よりも体に負担がかかるものであった。原告X4は、同年一一月一四日、抗議文書を人事課や労働組合などに提出し、同月二五日ころ、ようやく、原告X4は、パネルバンの仕事に復帰することができた。

<6> その後、パネルバンの仕事をする傍ら、平成三年一〇月ころから平成四年一〇月ころまでは、アンダーボデーフロアーセット作業、同ボルト打ち作業、ドア工程作業、板金修正作業、キャブサイドセット作業、ペンキ塗り作業など多種多様な職場への応援に行っており、平成五年一二月二〇日ころから平成七年七月ころまでは、トラックのダンプデッキ組み立て工程を一人で行っていた。

<7> この間に、原告X4は、平成四年ころ、車体課の保全改善班の配属となっていた。改善は、ラインでの省スペース化、省力化といった作業能率の改善のための部門であり、そのための機械も改善班の方で考えて製造設置していたが、最近はそういった改善要請も少なくなり、単純な作業が大部分となっている。もっとも、改善は、ラインの仕事とは異なり、自分で計画を立てて自分で考えて工夫する仕事であり、指示された仕事だけではなく、積極的に自分で改善案などを提示していく必要があった。原告X4の改善での仕事内容は、ラインで使用する作業台、部品台車、安全柵の溶接組立、照明器具の位置変更、自動搬送機(AGV)の不具合の対応といったものである。以前、被告会社では、工場内での部品などの運搬はフォークリフトで行っていたところ、省人化、省力化のために床に導線を配置し、センサーに感応して部品などを運ぶ自動搬送機を導入した。導入に当たっては、原告X4の上司であるA29班長が自動搬送機のプログラムを組むなどしたが、原告X4には、プログラムを組む能力がなかったため、床下に埋め込んだ自動搬送機用のアドレスと呼ばれる金属片のはがれなどのチェックをするなどといった仕事をしていた。また、自動搬送機の不具合の時にも保全班の従業員であれば処理できることが原告X4にはできなかった。原告X4は、人当たりも良く指示された仕事はこなしており、仕事をさぼるといったことはなく、資格取得についても、ガス溶接、高所作業車、研削砥石取り扱い、ボール盤、クレーン(五t未満)、玉掛け(一t未満)、電気取り扱いといった資格を取得している。また、原告X4は、少なくとも平成一〇年度から平成一二年度にかけて、毎年改善提案に関する努力賞を受賞するなどしている。しかしながら、努力賞については、改善班の他の従業員も同様に受賞しており、原告X4だけが特別秀でていたわけではなかった。むしろ、原告X4は、電気の基礎知識に乏しいにもかかわらず、積極的に自分から電気の基礎知識を勉強して改善にいかすといった努力は特段うかがえず、指示された仕事をこなすにとどまっていた。そのため、上司であるZ30(以下「Z30」という)組長は、原告X4には、単純な仕事しか任せることができず、他の従業員を引っ張っていくことができないと評価されていた。製品や部品を流す台にコロを溶接するに際しても、どの位置に溶接すれば最も加重の負担が軽くなるかといったことを考えて作業するべきところ、原告X4は、そのような考えなく溶接しており、また、溶接技術としても、サンダー仕上げしないで済むほどの技術ではなかった。

<8> 原告X4の勤務する改善班では、残業や休日出勤といった時間外労働をする必要は特になかったため、上司からも残業や休日出勤を求められることはなかった。

原告X4は、昇給に関する話の折りにZ30組長に交替制勤務をしてもいいとの発言をしていたものの、Z30は、交替制勤務に就いた場合には、残業や休日出勤に応じてもらえなければ、そのラインの班長なりがその際の穴埋めをしなければならず、返って迷惑するという趣旨のことを述べて、これに応じてもらえる保証がない限り信用できないとの返答をしている。これに対して、原告X4は、残業や休日出勤も行うので交替制勤務に変えて欲しいとまでは述べなかった。

その後、平成八年以降、原告X4が交替制勤務に就きたいという希望を出したことはなく、平成一三年に改善班の省人化により、ラインなどの他部門への異動希望者を募った際には、原告X4は、血尿が出るということでラインでの仕事はできない旨の返事をしている。なお、原告X4の平成一四年度の自己申告書には、仕事は自分に適しているかとの問いに対して「まあ適している」とされ、現在の仕事にやりがいがあるかとの問いに対しては「それなりにある」とされ、現在担当している仕事に満足しているかとの問いに対しては「まあ満足している」とされている。

エ 磐田工場車体課における考課査定は、職能等級別に評価することになっており、グループの全組長と課長とで全体の職能別、考課別の一覧表を作り、横並びにして比較して調整する。各組長は、だいたい他の組の従業員の働きぶりを把握しており、特に保全改善班の従業員についてはラインの組長は日頃から接点があることもありよく知っている。調整に際しては、各組ごとに考課査定が平等になるように、どうしてその従業員がそのような評価になったかについて評価した組長が他の組長らに説明をすることになっている。

原告X4の平成一四年度上期の人事考課表によると、業績評価については、「グループ内改善業務」が「全担当職務に占める割合」「一〇〇%」で、「職務の難易度・評定」は「a・高度なレベル→C70」とされ、「換算点」「七〇点」「合計」「七〇点」「業務の拡大」「〇点」で「業績点」は「七〇点」とされた。また、能力考課については、「知識・技能」が「2」「換算点」「一四」、「規格判断力」が「2」「換算点」「一〇」、「指導統率力」が「2」「換算点「一〇」、「折衝力」が「5」「換算点」「一五」とされ、「能力点」は「四九点」とされた。さらに、情意考課については、「勤務状況」が「2」「換算点」「一二」、「積極性」が「2」「換算点」「一〇」、「協調性」が「3」「換算点」「一二」、「責任感」が「2」「換算点」「一〇」とされ、「情意点」は「四四点」とされた。その結果、「総合点」は「五五点」とされた。なお、「評価についての特記事項・異動育成計画など、総合的な所見を記入ください」との欄には、「物造りの技術向上を望みます」と記載されている。

原告X4は、保全改善組に配属になってから、毎年のように昇給が低い理由をZ30組長に問いただしにいった。Z30は、これに対し、明確な回答をすることなく、自分でよく考えてみろと言うにとどまった。

原告X4の考課査定は、昭和四八年までは、「3」であったものの、昭和四九年度、昭和五二年度、昭和五三年度、昭和五五年度から平成六年度まで及び平成一三年度には「1」となり、その余が「2」となっている。

(2)ア  上記認定事実によれば、原告X4の勤務状況としては、営業出向するまでは何ら問題はないものの、昭和四六年ころから昭和四九年にかけての営業出向中の勤務態度は、営業に不慣れであったことを考慮しても、上司の指示には従わず、連絡を取ることなく外出した状態が頻繁にあったことからすれば、この間は低い考課査定になったとしてもやむを得ないというほかない(もっとも、原告X4は、昭和四八年までは「3」の考課査定を受けている)。したがって、昭和五〇年までは少なくとも、「1」の考課査定もやむを得ないというべきである。

イ  しかしながら、その後、磐田工場車体課に戻ってからは、その勤務態度に特段問題はうかがえず、少なくとも「1」の考課査定をするまでの劣悪な勤務態度であったということはできない。もちろん、被告会社には、従業員を考課査定するに当たっては裁量が与えられており、その範囲内では自由に査定することができるものであるが、上記第三、3(1)で検討したように、平成八年までの給与体系においては、その裁量は限定されている上、原告X4が昭和六〇年に肋骨を骨折した際に、同人の体をいたわるかに装って、必ずしも負担の軽くない清掃作業を行わせたことなどからすれば、被告会社の原告X4に対する昭和五一年度以降平成六年度までの「1」の考課査定はもはやそのような裁量を逸脱したものというほかない。このような著しく低い考課査定がなされたのは、この間、原告X4が労働基準監督署に申し入れを行ったり、共産党員としての活動を積極的に行うなどしていたこと以外その理由は見あたらない。そうすると、原告X4に対する昭和五一年度以降平成六年度までの「1」の考課査定については違法というほかない。もっとも、上記第三、3(2)で検討したように、平成八年以降の給与体系における平成一三年度の「1」の考課査定については、直ちに違法ということはできないし、原告X4の仕事上の能力については、他の従業員と比べた場合、自動搬送機のプログラムを組む能力がないとか、電気知識に劣り単純な仕事しか任せることができないといった点で被告会社が平均より低く査定することはやむを得ない面があるから、「2」の考課査定については違法ということはできない。

ウ  これに対し、原告X4は、様々な事実をあげ、自身の活動に対する被告会社による差別があったことを主張している。

<1> すなわち、まず、営業出向中の事実関係について、原告X4は、営業出向している際にブレザーの支給について出向先の会社で要求しこれが実現されたため、被告会社が原告X4を監視するようになった旨主張ないし陳述、供述しているものの、一方で、原告X4が営業出向する以前からブレザーと夏の半袖シャツについてはスズキ自販静岡から支給されていたことをうかがわせる証拠(略)もあることからすると、この点に関する原告X4の主張を直ちに認めることはできない。また、原告X4は、営業出向中Jから監視されていたかの主張ないし陳述、供述をしているものの、証拠(略)によれば、営業活動のため外出している原告X4と緊密に連絡を取る必要があったため、勤務時間中の所在の把握などをしていたにすぎないし、本件全証拠によっても、原告X4が主張するような寮内でI課長が原告X4の所持品検査などをしたと認めるに足りる証拠はない。

<2> 次に、原告X4は、昭和五六年一一月三〇日ころ、労働基準監督署に対して、被告会社磐田工場の長時間労働、サービス残業などといった労働基準法違反などに関する調査及び改善の申入れを行った結果、昭和五七年二月一日ころ、労働基準監督署から勧告五件、指導一〇件、助言三件が出されるに至った直後に平常勤務に移されたことをとらえて、見せしめであるかのように主張ないし陳述、供述しているものの、平常勤務に異動することそれ自体が直ちに見せしめになるとはいえないから、この点に関する原告X4の主張は認められない。

<3> 次に、原告X4は、昭和六〇年ころ、肋骨を骨折した際、清掃作業をさせられていたときに、清掃中との看板を掲げさせられていたことをとらえて、他の従業員に対する見せしめであったと主張ないし陳述、供述しているものの、独自の制服を着ている外注の清掃作業員と異なり、被告会社の従業員と同じ制服を着ている原告X4が通路で清掃作業をしているのに気付かず、衝突するなどの事故を起こさないためには、清掃中であることがわかるように看板を掲げることには、理由があるから、このことをもって見せしめであるということはできない。

<4> さらに、原告X4は、自分を一人作業に就かせていたことをとらえて、孤立化させることを目的にしたものであるかの主張ないし陳述、供述をしているものの、当該作業そのものは、原告X4が就く前にもあったものであり、特段嫌がらせのためにわざわざ作ったものでもないのであるから、この点に関する原告X4の主張は認められない。

<5> ほかに、原告X4は、被告会社が昼食時に一緒に食事をしていた者を呼び出しては、一緒に食事をしないように圧力をかけたかの主張ないし陳述、供述をしているものの、本件全証拠によっても、上記事実を認めるに足りる証拠はない。

5  原告X5について

(1)  証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

ア 原告X5は、工業高校電気科を卒業後、昭和四二年三月、被告会社に入社した。高卒では、原告X5を含めて一一名が技術職として採用された。

被告会社に入社してから半年間は、一一名の技術職新入社員は、被告会社内の現場部門を一、二週間単位で回る実習を受けた。原告X5は、実習後、品質保証部テスト課に配属された。昭和四二年一一月には自動二輪免許を取得するよう被告会社から要請され、免許取得後は、試作テスト車の実走テスト計画の立案やテストで発生した問題点の改善のために設計部門との連絡などを担当するテストスタッフになるための養成として、実際に二輪車の試験走行をするテストライダーを経験した。その後は、テストスタッフとしての業務を担当した。その後、昭和五二年ころからは、後述するように、四輪設計部乗用車車体設計部車体設計グループのエアコン部門に異動となった。

イ 原告X5は、二〇歳を過ぎたころから共産主義の思想に共感していたところ、昭和四九年ころ、「合唱団美樹」に入団した。この合唱団の団員の中に日本共産党員もいたことから、その人達とも親しくなっていった。そして、昭和五一年ころ、日本共産党に入党した。しかしながら、原告X5は、昭和五六年ころから労働組合の職場集会で積極的に発言するようになり、このころ、四輪設計部課長であったA10(以下「A10」という)から、原告X5がアメリカに出張する際、共産党員であると入国審査の手続でゴタゴタするとやっかいということで、原告X5に共産党の活動を実際にやっているのか尋ねられるなどしたことがあったものの、昭和五九年ころまでは、被告会社前でビラを配るといった公然とした共産党員としての活動を行わなかった。原告X5は、専ら、党内でA17の労災認定の書類作成にかかわったり、「わっぱ」などのビラを作成したり、友人に日本共産党支持を頼んだり赤旗の購読を勧めるといった活動をしてきた。

しかし、原告X5は、昭和五九年七月からは労働組合の役員選挙に自薦候補として立候補するようになるとともに、労働組合での職場集会では積極的に発言し、被告会社門前でのビラ配布やハンドマイクでの宣伝、労働基準監督署へのサービス残業などの申し入れなどの活動を積極的に行った。しかし、昭和六一年ころ、原告X5は、M(以下「M」という)及び四輪空調設計課長を兼務していたA7との話し合いの席で、Mから、品質保証サービスから市場の問題の対応、クレーム等の会議には原告X5は出させないで欲しいと言われているから主担当はさせられないとか、湖西工場などからも原告X5一人で来てもらっては困ると言われているなどと言われたり、平成四年ころ、「わっぱ」を配布していたところ、配布された被告会社の社員から「わっぱを家に入れるな」などと言われたことがあった。

ウ 原告X5は、平成七年ころ、a町の日本共産党公認の町会議員に当選してからは、議員としての活動も積極的に行っている。原告X5は、議会開催期間中は被告会社を休まざるを得ない状況にあったが、被告会社は、その推薦した候補者が当選した場合、それらの者が議員として活動するに当たっては特別休暇を認めてその給与を保障しているのに対し、原告X5が議会のために休む場合には欠勤扱いとした。なお、被告会社の就業規則ないし労働協約によると、「特別休業」として、「次の各号に該当して休業した場合で、会社が認めた場合は特別休業とし、給与及び賞与の計算に当たっては出勤したものとして扱う」と規定されており、その中には「公務休業」が休業事由として定められており、「選挙権その他公民として権利を行使するとき、又は会社の許可を得て公共団体その他の公職に就いた者が、あらかじめ会社の許可を受けて勤務を離れたとき」には、「公務を遂行するために必要な日数若しくは時間」を特別休業とすることとされている。

エ 被告会社では、昭和五〇年ころまで、スズキ東京研究所において、空調の研究がなされてきたが、同年同研究所が廃止され、昭和五一年ころからは、被告本社の乗用車車体設計部車体設計グループのエアコン部門において、空調の研究が続けられた。

当時の空調部門の担当はMとほか一名だけであったが、その一名が東京へ異動となってからは、Mは、同グループの課長A10と空調関係の手伝いができる人材を探していたところ、品質保証部にいた原告X5を紹介された。原告X5は、昭和五二年五月ころからMと一緒に空調部門を担当するようになった。

昭和五三年ころからA8(以下「A8」という)が配属された。

一九七〇年代当時は車にはヒーターは付いていたもののクーラーは付いておらず、各自動車メーカーも独自のカークーラーの開発には未着手の状態であり、エアコンメーカーが製造したクーラーを自社の車にオプションで取り付けるという時代であった。そのため、当初の原告X5らの仕事は、出来合いのカークーラーを完成車に取り付ける研究というものであった。しかしながら、エアコンメーカーの出来合いのクーラーを購入しているのではコストがかかることから、被告会社としては、独自のカークーラーの開発を進めることになっていった。

昭和五三年一月ころには、Mは、その開発商品化したフロンテ7-S用カークーラーに関して社長賞を受賞しているが、この開発には、原告X5は携わっていない。

昭和五五年に被告会社が開発したクーラーを初めて初代アルトに取り付けることに成功した。完成車にオプションとして取り付けるという旧来と同様の後付商品であったが、コストの低減には寄与した。

空調グループに来た当初の原告X5は、Mの指示に従って仕事をこなしていた。しかし、原告X5は、昭和五五年に結婚をしたころから、勤務態度に変化が見られ、残業をあまりやらなくなり、MやA8が仕事をしていても先に帰ってしまうことが多くなった。そのため、後から入社してきたA8と比べても原告X5の残業・休日出勤といった時間外労働時間数が著しく少なくなった。また、朝も「始業時間までに正門に入っていればよい」などと言うようになった。もっとも、原告X5は、昭和五五年にタイ、昭和五六年にアメリカ、昭和五九年にパキスタンとインドなどに主張し、パキスタンでは車両にエアコンを装着するための技能指導をするなどといった仕事をしている。

空調グループでは、この後も、初めから製造過程で車にクーラーを取り付けるべくクーラーのラインでの装着という方針の下仕事が進められ、昭和五八年ころにはオートエアコンも開発された。これにあわせて空調グループのスタッフの充実が図られ、数年続けて大卒新入社員の配属を受けることになった。

原告X5は、電気回路の基本的知識はあったものの、開発の中心を担うことはできず、電気科卒業ということで空調グループに入ったものの、昭和五六年ころから着手したオートエアコンの開発などには、原告X5の知識ではとても対応しきれなかった。

その後、昭和五九年ころからは、本格的な電気コントロールの専門知識を持った大卒の社員が配属になり、昭和六〇年以降は一〇人を超える構成員となり、その結果、Mとしても、基礎ができている大卒の社員に重要なことを任せるようになり、原告X5には重要な仕事を任せることができなくなった。

被告会社では、昭和五八年ころ、コンプレッサーの製造をしていた三菱電機がコンプレッサーの製造を止めることとなったのを受けて、三菱電機から設備を購入し、そのノウハウを教えてもらい、被告会社独自でコンプレッサーの製造を行うことを計画した。もっとも、昭和六〇年には、独自開発は人的にも物的にも困難ということで、その計画は断念されたものの、三菱電機から購入したコンプレッサーの試験設備一式を被告会社本社に搬入して、各メーカーのコンプレッサーの性能評価を行い、これに基づきその性能と耐久性について改善を行い、エアコンのシステム開発を行うことになった。そして、原告X5の有する電気知識がエアコンの電気関係の技術レベルに追いつかず、エアコン全体を考慮して仕様を考え設計するシステム設計の業務には耐えられなかったことや電気科卒で電気の基礎知識は持ち合わせており、試験装置のメンテナンスなどを行うのに適している上、これまで空調グループにおり空調の経験があったことから、原告X5が、昭和六一年ころからこのコンプレッサーの性能評価試験を担当するようになった。原告X5がこの仕事を担当するようになってからも、被告会社は、二〇〇〇万円以上の費用をかけてカロリーメーターや耐久試験機といった機械を買い換えている。

コンプレッサーの性能評価試験を行う実験室は、被告会社本社の元工場であった実験棟の一角に設置されているものの、十分なスペースが確保されており、また、原告X5の机は、他の従業員と同じ場所にあり、実験室からの出入りも自由にできる状態であった。

原告X5は、指示された性能評価試験を行ってはいたものの、その抽出したデータから改良点を見いだそうとするといった積極的な行動はなかった。また、機械を作動させた後は、することがないとして仕事中に眠ってしまうこともあった。さらには、Mからエアコンのコンプレッサーをティアダウンするようにとの指示にも従わなかった。

オ 原告X5の平成一〇年度上期の目標カードには、「コンプレッサ評価の確実な実施」「効率的な作業環境の整備」「業務遂行の総合的能力の向上」などが掲げられているが、上司所見としては、「目標達成度」欄にはいずれも「×」印がつけられており、「業務日程を計画しても独断で進め、必要機種の評価が時期を外れるため遅れる事と評価ミスが多くやり直し業務大」「見かけ上の整理はしているものの、細かいところほこり、oil、汚れ多く、壁も電灯かさも汚れ、上司の指示はほとんど無視し、5Sの認識欠如」「自己啓発を一つもする事もなく業務とほとんど無関係の「税知識」の通信教育を受け、他の目的に利用する」などと記載されている。また、平成一〇年度下期の目標カードにも、上司所見としては、「目標達成度」欄には「×」印と「△」印がつけられており、「現在の市場不具合の大半の騒音苦情に対しての評価、改善に対して、積極的な取組みがなく、評価の改良、改善もなく、設備の老朽化に原因を言い、計測データも不安定なものが多い」「設備のトラブルが多く、時にメンテナンスの項目を一部実施しているが、不充分なところが多く、業務ストップが相ついでいる」「開発コンプレッサ、参考コンプレッサ、改善、改良コンプレッサが多量あるが、評価計画が乏しく、評価方法の改善と方法を提示しても独断で進める為スムーズに進んでいない」などと記載されている。その後も、平成一一年度上期、下期、平成一二年度上期、下期いずれの目標カードの上司所見には、「目標達成度」欄には「×」印か「△」印がつけられ、目標が達成できていないことについて、具体的に記載されている。

なお、目標カードの記入に当たっては、目標面接をすることになっているところ、Mは、必ずしも、毎回、原告X5と面接を行っていたわけではなかったものの、日頃から目標に対する指示を具体的に出しており、それに対する原告X5の対応をふまえて目標カードに上司所見を記載していた。

カ 考課査定については、係長(主任)が第一次評定をし、グループ長(課長)が第二次評定をしていた。第一次評定はボールペンで記載されており、グループ長の第二次評定が係長の第一次評定と異なる場合には、第一次評定の点数を変更してコメントを記載していた。

原告X5の考課査定は、昭和四四年度から昭和六〇年度までは、昭和四七年度、昭和四八年度は「4」、昭和五一年度、昭和五二年度は「2」であったものの、その他は「3」であったが、昭和六一年度以降は「2」であった。

原告X5の平成一四年度上期の人事考課は、業績考課については、「空調部品(コンプレッサ)の試験」が「全担当職務に占める割合」「五〇%」で、その「職務の難易度・評定」は「C.易しいレベル→B40」であり、「換算点」は「二〇点」となっており、「試験評価の設計へのフィードバック」が「全担当職務に占める割合」「三〇%」で、その「職務の難易度・評定」は「b.適切なレベル→C50」であり、「換算点」は「一五点」となっており、「コストダウン案、パテントの抽出」が「全担当職務に占める割合」「二〇%」で、その「職務の難易度・評定」は「b.適切なレベル→C50」であり、「換算点」は「一〇点」となっており、合計「四五点」と評価された。また、能力考課については、「知識・技能」が「4」換算点「一二」、「企画判断力」が「3」換算点「一五」、「指導統率力」が「3」換算点「一八」、「折衝力」が「3」換算点「一八」とされ、「能力点」が「六三点」とされた。「評価についての特記事項・異動育成計画など、総合的な所見を記入ください」との欄には、「指示された業務については特に問題なく行うが、それ以外の取り組みがない。経験も長いので自ら何に取り組むべきか判断し業務を進めてもらいたい」と記載されている。そして、総合点として四八点とされている。その結果、原告X5の考課査定は「2」となっている。

原告X5は、毎年のように査定が低い理由を上司に問いただしていたが、それに対する回答としては、「本来、年齢や給料に見合うだけの仕事をしていないので、評価が低いのではないか」というものであった。その趣旨は、空調グループの中では経験が長く、その技術を向上させて行けなければならない上、他の社員を引っ張っていかなければならない立場にありながら、そのような行動を取っていなかったということにあった。

(2)ア  上記認定事実によれば、原告X5が昭和五一年度及び昭和五二年度に「2」と評価をされた理由については、必ずしも明らかではないものの、原告X5が公然と共産党員としての活動を行うようになったのは昭和五九年ころ以降であることからすれば、原告X5が共産党員としての活動などを行ったことによるものであるとすることはできない。また、昭和六一年度以降、考課査定において「2」の評価をされるようになった理由については、原告X5が所属の空調グループにおいて、経験を積んでいるにもかかわらず、その経験を生かすことなく、指示されたコンプレッサーの性能評価試験を行ってはいたものの、その抽出したデータから改良点を見いだそうとするといった積極的な行動はなく、機械を作動させた後は、することがないとして仕事中に眠ってしまったり、Mからエアコンのコンプレッサーをティアダウンするようにとの指示に従わないなどといったことによるものであると思われる。そして、「2」の考課査定については、「2」の考課点は五点であり、「3」の考課点一〇点の半分ではあるものの、全く考課点が累積しないわけではないし、そもそも人事考課については被告会社に裁量が認められていること、そしてその裁量は、平成八年の給与体系の改定に伴い、より拡大していること、原告X5の平成一四年度上期の人事考課表の考課査定においても明らかに誤った評価がなされた結果本来であればよりよい考課査定となることがうかがえるような事情が本件全証拠によってもうかがえないことなどからすれば、そのような考課査定が賃金差別の結果行われたものとまではいうことができない。

なお、原告X5は、昭和五二年度の原告X5の考課査定が「2」になっている理由を、前年に竜洋テストコース勤務中に順番で労働組合の支部委員に選出された際、支部委員会で被告会社が提案した給与の銀行振り込みを反対した活動をしたからであるかの主張ないし陳述、供述をしているものの、本件全証拠に照らしても、このような事実を認めるに足りる証拠はなく、このころは、概ね「3」の考課査定を受けていたのであるから、この時期に原告X5が差別されていたということはできない(もっとも、原告X5については、平成一四年度以降において「1」の考課査定がなされているかのようであるが、上記第三、3(2)において検討したとおり、平成八年以降の給与体系においては直ちに違法ということはできない)。

イ  この点、原告X5は、目標カードにおける本人の目標達成度欄に「○」印か「◎」印、「△」印をつけ、「×」印はほとんどつけなかったのに対して、Mは、目標カードの記入に当たっては目標面接をすることになっているにもかかわらず、原告X5と面接を行うことなく、目標達成度欄に「×」印か「△」印をつけていること及びそのような見解の相違をそのまま放置していたことなどをとらえて原告X5を差別していたかの主張ないし陳述、供述をしているが、上記認定事実によれば、Mは、必ずしも、毎回、原告X5と面接を行っていたわけではなかったものの、日頃から目標に対する指示を具体的に出しており、それに対する原告X5の対応をふまえて目標カードに上司所見を記載していたのであるから、その対応が不充分ということもできず、これをもって差別ということはできない。

ウ  また、原告X5は、コンプレッサーの性能評価試験の業務が閑職であり、原告X5を差別するためにこの仕事を担当させているかの主張ないし陳述、供述をしているものの、上記認定事実によれば、コンプレッサーの性能評価試験は、その性能と耐久性について、改善を指示されている部品ごとに自社で採用している部品と他社部品とを比較検討して、より性能と耐久性に優れたコンプレッサーになるようにするという意味において重要な役割を果たしているということができるから、この点に関する原告X5の主張は採用できない。また、原告X5は、コンプレッサーの性能評価試験を行う実験室が窓のない造りで、一七年間ずっと一人だけで外部との接触は全くなかったかの主張ないし陳述、供述をしているものの、上記認定事実のとおり、コンプレッサーの性能評価試験を行う実験室は、被告会社本社の元工場であった実験棟の一角に設置されているものの、十分なスペースが確保されており、また、原告X5の机は、他の従業員と同じ場所にあり、実験室からの出入りも自由にできる状態であったのであるから、この点に関する原告X5の主張も採用できない。さらに、原告X5は、毎年異動希望を出しているのにいっこうに実現しないとして、これをもって差別しているかの主張ないし陳述、供述をしているものの、社員の異動については被告会社の裁量に委ねられているところ、上記認定事実からも、コンプレッサーの性能評価試験の業務に対する原告X5の適正は十分にうかがえるところであり、本件全証拠によっても、原告X5を異動させないことがその裁量を逸脱しているということはできない。

エ  さらに、原告X5は、a町町会議員としての活動に当たって、被告会社が、その推薦した候補者が当選した場合には特別休暇を認めてその給与を保障しているのに、原告X5に対しては欠勤扱いとして差別している旨主張ないし陳述、供述している。しかしながら、上記認定事実のとおり、被告会社の就業規則によると、原告X5が町会議員として活動するために被告会社を休業することが特別休業としての公務休業に該当するためには、「会社の許可を得て公共団体その他の公職に就いた者が、あらかじめ会社の許可を受けて勤務を離れたとき」であることが必要であるところ、原告X5の場合、本件全証拠によっても、被告「会社の許可を得て」町会議員になったと認めるに足りる証拠はなく、その要件に該当しないから、被告会社が推薦した候補者が当選した場合に特別休暇を認めて原告X5に特別休暇を認めなかったとしても、差別しているということはできない。なお、そもそも、特別休業を与えるか否かという判断に関して、被告会社の社員が公共団体その他の公職に就くことにつき許可するか否かは被告会社の裁量に委ねられており、被告会社の利益代表となるわけでもない原告X5が町会議員になることにつき被告会社が許可しなかったとしても、そのことから裁量権の逸脱をしているということもできない。

オ  その他、昭和五六年ころ、課長のA10が、原告X5がアメリカに出張する際、共産党員であると入国審査の手続でゴタゴタするとやっかいということで、原告X5に共産党の活動を実際にやっているのか尋ねたとしても、そのことから、直ちに、被告会社が原告X5を共産党員であることを理由に差別しているということはできない。

また、昭和六一年ころ、Mが、原告X5に対し、品質保証サービスから市場の問題の対応、クレーム等の会議には原告X5は出させないで欲しいと言われているから主担当はさせられないとか、湖西工場などからも原告X5一人で来てもらっては困ると言われているなどと述べたことからすると、被告会社内では、原告X5の共産党員としての活動について批判的な意見を持つ社員が相当数いたことはうかがえるものの、それが被告会社としての言動とまでいえるような状態にまでなっていたとまではいい難く、四輪空調設計課の空調グループ内における原告X5の能力からすると主担当を任せることに疑問があるとMが判断したとしてもやむを得ない面があり、これをもって、原告X5が共産党員であることから被告会社に差別されたとまでいうことはできない。

さらに、原告X5が「わっぱ」を配布したことに対し、被告会社の社員が「わっぱを家に入れるな」と苦情を述べたとしても、個人的に断ったにすぎないし、そのことから被告会社が原告X5を共産党員であるとして差別したということはできない。

ほかに、本件全証拠によっても、被告会社が原告X5を差別していると認めるに足りる証拠はない。

6  原告X6について

(1)  証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

ア 原告X6は、中学校卒業後、職業訓練所塗装課において塗装技術を学び、昭和四三年三月被告会社に入社し、本社の四輪塗装課に配属され、以後、部署の異動はあるものの、塗装の仕事に従事している。

イ 昭和四五年ころ、原告X6が入所していた被告会社の寮において、食堂の値上げ問題が生じ、原告X6は、反対運動に加わっていたが、その際、反対運動の中心となっている人たちから勧められるまま、同年四月、民青に加わった。

被告会社の本社では四輪課がなくなったことから、原告X6は、本社二輪塗装課に配置換えとなり、その後、昭和四五年一〇月に被告会社の湖西工場が新設稼働されたことに伴い、湖西工場の塗装課に配属となった。

その直後の昭和四五年一二月に、湖西工場のプレス機で従業員が死亡するという労災事故が発生したことから、原告X6ら民青のメンバーは被告会社に対する抗議のビラを作成し、職場の従業員に広めることとし、昭和四六年二月、約一〇〇枚のビラを作成し、従業員に直接手渡すなどした。

原告X6は、民青に加盟した後、職場の内外を問わず、積極的に活動するようになり、県知事選挙の選挙母体である「明るい民主県政を作る会」の署名を職場の従業員から集めたり、一斉地方選挙の共産党候補者のための票読み活動をしたり、労働組合の職場集会において積極的に発言をするなどした。

また、このころ、原告X6は、労働組合の青年婦人部の役員にもなり、湖西地区労青婦部委員にもなり、他企業の労組会館で行われた会議に参加したこともあった。

昭和四六年四月ころ、被告会社は、営業出向などの勧奨をしたことがあったが、強制ではなく、あくまで本人の意思を尊重するものであり、原告X6も、一、二度営業出向の話を持ちかけられているものの、これを断ると、以後、営業出向の話を特段持ちかけられておらず、営業出向などの勧奨が民青員を全国へ出向させることを目的として行われたものとはいえない。

昭和四七年には、Oを被告会社から山口スズキ株式会社に配転する旨の内示が出たことから「O君を守る会」が結成されたのに対して、原告X6は、積極的にその活動に参加した。

そして、昭和四七年六月、原告X6は日本共産党に入党した。

原告X6は、以後、積極的に活動するようになり、昭和五二年には、支部役員に立候補し、昭和六二年以降は、二年に一度行われる度に支部執行員に立候補している。また、昭和六〇年には、浜松労働基準監督署に被告会社の年間労働時間の不正についての申し入れを行うなどの活動をしてきた。ほかにも、労働組合の役員選挙の不正についても抗議をしたり、昭和五七年や平成元年に湖西工場で労災事故が発生した時には、ビラを配布して告発するなどの活動をしてきた。

昭和六〇年ころ、このような原告X6の活動に対して、その上司であったA13課長は、「外へ行って会社の悪口を言ってもらっては困る」「子供が外で親の悪口を言っているようなことをしていては給料が上がらないのは当然だ」と述べていた。また、昭和六三年ころには、A14班長から「共産党のことをしていたら絶対給料は上がらない」と言われた。

原告X6は昭和五九年一〇月に結婚しているが、結婚式には職場の同僚はいずれも出席しなかった。

ウ<1> 原告X6は、昭和五九年ころには、金属塗装法を通信教育を受講するなどして独学で学んでいたものの、被告会社はこれに対し特段実技指導などはせず、その二級の資格を取得することはできなかった。もっとも、金属塗装法二級の資格は、原告X6が塗装課において仕事をしていく上で、必ずしも必要な資格というわけではなかった。

<2> 塗装グループは、二勤交替制になっており、従業員はAグループとBグループに別れて夜昼一週間交替で仕事をしている。

塗装グループは塗料を車体に吹き付ける工程と塗装ミスを検査してそれを修正するという修正の工程に分かれる。塗装ミスとは、主に塗装中にゴミが車体について「ブツ」といわれる小さなデコボコができることをいう。塗装ミスについては塗装ラインでチェックして修正することになっているが、それでもチェック漏れがあるため、Wチェックという部門において、再度、「ブツ」の見落としがないかどうかを検査して修正することにしており、このWチェック部門は平成八年に新設された。

Wチェック工程の作業人員は、塗装技術や塗装材料の向上により塗装ミスの発生が抑えられるようになったこともあり、前工程でのチェックの人数を増やす方向で検査修正体制を強化しようという方針になり、Wチェック工程の従業員は途中から二人になったが、その最終チェックの重要性に変わりはない。

そして、原告X6は、平成一三年六月ころから平成一四年五月ころまで、塗装グループにおいて、このWチェックという作業工程を担当している。

Wチェックは左右二人の体制で検査修正を行っている。車の半分を一人の従業員が検査して修正を掛けている。「ブツ」は砂粒のような小さなものであるから車体に反射する光具合で発見するが、一台の検査に掛ける時間は二〇秒ぐらいなので素早く発見しなければならず、担当作業員は気の抜けない状態にあるはずである。もっとも、Wチェックの作業は、塗装の工程での最終チェックであるため、ここで見落としがあってもそれが前工程での見落としなのかWチェックでの見落としなのかはわからないため、考課査定に当たってはその作業態度が重要になってくる。

しかるに、原告X6と同じWチェック工程を担当している従業員は、腰を落として注意深く「ブツ」を探し、修正作業も迅速に行うために、修正作業用具を収納する腰バンドをつけ、修正作業用具を両手に持って作業してるのに対し、原告X6は、腰を落とすことまではせず、腰をかがめる程度で「ブツ」を探しており、腰バンドはつける必要がないとして着用せず、修正作業用具を両手に持って作業することも特段していない。

しかも、原告X6は、「ブツ」を見つけてそれを補修した箇所と数を「マトWチェック工程補正見逃しチェックシート」に記録することになっているが、平成一六年三月一五日の勤務において、実際に修正作業又は磨き作業が行われたのは合計二一箇所であり、このうち、ダブルアクションと呼ばれる車体の塗装のつやの悪い箇所に用具を用いて磨きを掛ける作業やテープ外しを除くと本来の「ブツ」を研磨し修正剤を施し磨きを掛けるという一連の作業を施した修正箇所は一六箇所であるところ、原告X6は「マトWチェック工程補正見逃しチェックシート」には三五箇所の修正箇所を修正した旨記載している。翌日も同様に実際に修正作業又は磨き作業が行われたのは合計二〇箇所で、このうちダブルアクションやテープ外しを除くと一四箇所であるところ、三〇箇所の修正をした旨記載している。このように原告X6は、実際に行った修正作業以上の過大な虚偽報告を行っていた。

<3> また、原告X6は一時的に、Wチェックの前の工程である修正工程の仕事に就いたことがあった。修正工程は検査と修正の作業に分かれるところ、検査担当の従業員が車体を注視して塗装ミスの有無をチェックし、塗装ミスがあるとその箇所にピンクのテープを貼り、修正担当の従業員がこのピンクのテープの貼られた箇所を修正することになる。修正は、主に「ブツ」の修正になるが、インチラッパと呼ばれるオイル差しのようなプラスチック製の容器に入っているホワイトガソリンを「ブツ」に塗り、スキャロップペーパーと呼ばれる非常に目の細かい紙ヤスリで磨き、コンパウンドと呼ばれる磨き粉をつけてバフを掛けて、残ったコンパウンドの粉をクロスで拭き取るという作業をすることになるが、限られた時間内に素早く処理しなければならない作業である。原告X6に検査の作業を任せたところ、「ブツ」を見逃したまま車を流してしまうことがよくあり、組長が注意して見るよう伝えたところ、原告X6は「見えなかった」と答えるだけであった。また修正の仕事を任せたところ、原告X6は、検査担当の従業員が塗装ミスをチェックした箇所に貼ったテープを自分ではがしてしまい、修正をかけないままで車を流してしまうことがよくあり、組長やグループ長から注意されていた。

<4> 原告X6は、以前は改善提案を提出していたものの、ここ何年間かは提出していない。

<5> 原告X6は、平成一五年三月二六日に二勤勤務の出勤前に飲酒をし、通勤車両にて酒気帯び状態で出勤したとして、同年四月二一日、譴責処分とされている。酒気帯び状態で出勤したその日は、安全性から勤務を行うことが不可能と判断され、上司から帰宅を指示されており、原告X6が有給扱いにするよう求めてきたため、有給休暇として処理されている。

<6> 原告X6は、毎日のように、就業時間内に他の従業員より多くトイレに立つことが目立った。ラインでは、車体が工場の中を流れていくため流れが停滞しないように、従業員が持ち場を離れるときや緊急に誰かの手を貸してもらいたいといった時には、行灯と呼ばれるランプをつけることになっているにもかかわらず、原告X6は行灯をつけずにトイレに行ってしまうため、ラインが止められず、チェックされない車が通過していってしまうことがあった。また、昼休み終了後に作業に就くのも他の従業員に比べると遅く、組長などから注意しても別に直そうとはしなかった。

<7> 原告X6は、仕事中に安全靴を履かずに作業を行っており、組長が何度か注意しても安全靴を履こうとしなかった。安全靴は、三〇〇〇円程度で手に入るものであり、そのうち、一〇〇〇円は被告会社の方から支給されていた。原告X6が安全靴を履かなかった理由は定かでないが、グループ長から注意されるとようやく履くようになった。

<8> 原告X6の妻は病気がちであり、そのために時間外労働に応じられないこともあったが、一切応じないということもなく、応じられる範囲では応じており、他の従業員と比べても、極端に時間外労働が少ないということもなかった。

オ 塗装グループでは、考課査定は組長がつけることになっているところ、原告X6の平成一四年度上期の人事考課表には、業績考課については、「Wチェック工程作業」が「全担当職務に占める割合」の「一〇〇%」であり、「職務の難易度・評定」は「b.適切なレベル→A70」とされ、「換算点」「合計」とも「七〇点」され、「業務の拡大」については「三点」とされ、「業績点」は「七三点」となっている。能力考課については、「知識・技能」が「4」「換算点」が「二八」、「企画判断力」が「2」「換算点」が「一〇」、「折衝力」が「1」「換算点」が「五」とされており、「能力点」が「四六点」とされている。情意考課については、「勤務状況」が「2」「換算点」が「一二」、「積極性」が「2」「換算点」が「一〇」、「協調性」が「2」「換算点」が「8」、「責任感」が「2」「換算点」が「一〇」とされており、「情意点」が「四〇点」とされている。その結果、総合点として「五五点」とされている。「評価についての特記事項・異動育成計画など、総合的な所見を記入ください」との欄には、「勤務態度、協調性に欠ける為他に影響を及ぼす」と記載されている。

また、原告X6の考課査定は、昭和四六年ころまでは「3」であったが、その後昭和四七年度から昭和四九年度まで、昭和五九年度から平成七年度まで、平成九年度及び平成一〇年度は「1」となり、その他は「2」であった。

(2)  上記認定事実によれば、原告X6が共産党に入党したのが昭和四七年であり、その前後ころから民青ないし共産党員としての活動が積極的に行われるようになっており、これと時期を同じくして考課査定が急に「3」から「1」へと落ちていることがうかがえる。原告X6は、残業・休日出勤といった時間外労働については、内心快く思っていなかったとしても応じていたし、このころ、特段、仕事上ミスや問題を起こした事実はうかがえない。このような事実からすると、昭和四七年以降、原告X6の考課査定が急に「3」から「1」に下がった理由は、原告X6が共産党員として目立った活動をしていたことに対する差別的な対応と考えるほかない。このことは、原告X6の共産党員としての活動について、その上司が給料と結びつけて話をしていたことにも合致する。

しかしながら、一方で、原告X6の勤務態度には相当問題がうかがえる。すなわち、原告X6は、少なくとも、Wチェック工程の作業については、他の従業員と比べて同じレベルで行っていたということはできないばかりか、積極的に「ブツ」を見つけて修正しようという努力をしているようにはうかがえず、修正箇所を水増しして報告するなどその勤務態度に問題があったことは否定しがたい。また、Wチェックの前工程においても、「ブツ」の見落としや修正すべき箇所のテープを意図的に外してしまうなどの問題行動をしていることがうかがえる。さらには、酒気帯びで出勤し、勤務に就こうとするなど、譴責処分を受けても当然といわざるをえないようなおよそ感心できない勤務態度がうかがえる。ほかにも、年下の組長に安全靴を履くよう注意されても聞き入れず、年上のグループ長に言われて初めて履くようになるなど、その勤務態度は低く評価されてもやむを得ないものである。

そうだとすると、昭和四七年度から昭和四九年度までと昭和五九年度から昭和六三年まで「1」と考課査定されている点については、原告X6が共産党員として目立った活動をしていたことに対する差別のあらわれと考えるほかないが、その後の「1」の考課査定については、原告X6の勤務態度に起因するものとも考えられ、差別のあらわれということはできない。

なお、原告X6は、自分の結婚式に職場の同僚が出席しなかったことをとらえて、被告会社が従業員に出席しないよう働きかけたかの主張ないし陳述、供述をしているものの、本件全証拠によっても、被告会社が組織として働きかけをしたとの事実まで認めることはできない。

7  原告X7について

(1)  証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

ア 原告X7は、昭和三三年三月中学校を卒業後、被告会社に入社し、中堅幹部となるべく五か月間養成教育と技能研修を受けた。養成教育終了後、繊維機械課に配属され、機械加工に従事した。昭和三六年には工機課に配属され、横フライス盤・シェーパー・歯切り盤・堅フライス盤等の機械による加工を経験し、特に、フライス盤による加工作業は定年になるまで三〇年間従事してきた。

原告X7は、昭和三五年定時制高校に入学し、昭和三九年に卒業している。

イ 原告X7は、昭和三九年一〇月、青年婦人部役員をやっていた被告会社の同期で同じ職場にいたA31から、青年婦人部工機課の連絡係を依頼されたのがきっかけで労働組合活動をするようになった。その後、原告X7は、青年婦人部の常任委員・副部長を経て昭和四二年一〇月労働組合の役員選挙で執行員に選出され、青年婦人部長を兼任した。

当時、原告X7は、労働組合において、春闘等に取り組んでいた。また、青年婦人部は春闘の際には青年行動隊を組織し、合唱したり、ピケを張ったり、新入社員に対して組合員教育を行った。

原告X7は、青年婦人部の役員をしていた一方、民青という共産党系の活動家であったこともあり、昭和四一年一二月、日本共産党に入党した。

原告X7は、昭和四五年にN、昭和四六年にOが日本共産党員として労働組合役員選挙に立候補した際、応援のために各職場を回って指示を訴えるなどした。このとき、Oの選挙に関して被告会社は、組合推薦候補に投票するよう求めていた。翌年、Oが山口スズキ株式会社に配転されることをきっかけにして「O君を守る会」が結成され、原告X7もその会員となって活動した。

そして、昭和四八年ころ、被告会社本社前で日本共産党のビラを配布したり、昭和五〇年九月、職場新聞「わっぱ」を直接被告会社従業員の自宅に配布するなどした。

ウ 原告X7は、昭和四六年三月に結婚した際、職場の人たちが結婚を祝う会を催してくれ、班長や組長も含めて四〇名ぐらいが参加したが、その後、妻が妊娠中毒症で母子ともに亡くなってしまい、昭和四八年一一月再婚することになった際には、班長や組長はその結婚式の出席を断るようになった。

エ 原告X7の働いていた工機課は、四輪やオートバイの部品を生産工場で加工、組み立てするための機械・加工治具・組み立て治具・検査治具などを制作する部署であったところ、原告X7は、その部品をフライス盤で加工する仕事をしていた。部品ごとに形状・寸法・加工方法が異なるため、自分の判断で加工する必要があり、その精度も要求された。原告X7は、昭和五五年ころから被告会社から技能検定を取得するように指導され、これを受けて昭和五七年一〇月にフライス盤一級の資格を取得している。一方、原告X7の上司であった組長や班長はほとんどフライス加工のことを知らなかった。そのため、原告X7は、フライス加工のできる班長であったA15と相談しながら、加工治具、検査治具等の生産計画の中のフライス盤作業については、納期に遅れることなく仕上げていった。原告X7は仕事がやりやすく早く安全で精度が出る加工治具を考案している。昭和四七年ころフライス加工の基礎である角だし作業と加工作業で使う位置決め治具を考案し、工機部のQC大会で発表している。また、昭和五〇年ころにはフライス盤にはバイスがついているため、加工製品をバイスにつかんで加工することができない場合に螺子で締めて加工できるための加工取り付け台を考案している。さらに、昭和五七年ころには、早く段取りして加工できる角度ゲージを製作している。原告X7が考案した治具は、他の従業員も使用しており、NCフライス盤が導入された後もその有用性、利便性に異なるところはない。原告X7は、汎用フライス盤を使用していたが、平成四年ころNCフライス盤が導入されると、その操作方法についても身につけて使用している。

オ 原告X7の考課査定は、昭和四五年度までは「3」であったが、昭和四六年度は「2」、昭和四七年度は「1」に下がった。原告X7は、査定が下がった理由を組長や課長に尋ねたが総合的につけたと言うだけで具体的な理由を説明することはなかった。その後、原告X7の考課査定は昭和四八年度、昭和四九年度、昭和五二年度から昭和五四年度、昭和五八年度、昭和六一年度、昭和六三年度、平成一〇年度、平成一一年度と「2」がついたものの、そのほかは「3」であった。

原告X7の残業・休日出勤の状況は、昭和五二年以降しか判明していないものの、残業や休日出勤にも用事がない限り応じており、残業・休日出勤時間数と考課査定とは一致していない。また、有給休暇についても予め休みを取ることがわかっていれば事前に申し出るなど、職場に迷惑がかからないよう協力していた。

(2)  上記認定事実によれば、原告X7は、フライス盤加工の仕事を納期を守って堅実に行っており、さまざまな治具を考察するなど、その仕事に責任感をもって行っていたことが十分窺える上、残業・休日出勤についても他の従業員と遜色なく行っていることが窺える。このような原告X7の勤務状況からすれば、少なくとも平均的な考課査定は与えられてしかるべきである。平均を下回る「2」や「1」の考課査定をされた際にも、その勤務状況において、特段、考課査定を下げなければならないような事情は窺えない。

原告X7の考課査定が「2」や「1」になったのは、専ら昭和四〇年代後半から昭和五〇年代前半と原告X7が五五歳になった平成一〇年度以降ということができる。このうち、平成一〇年度以降の考課査定は年齢により考課査定が厳しくなったという事情も考えられることからすれば、その考課査定が著しく裁量を逸脱しているとは直ちにいえないものの、昭和四〇年代後半から昭和五〇年代前半にかけての考課査定は、そのような事情は特段窺えず、むしろ、このころ、原告X7は、上記のとおり仕事を行っていたのであるから、考課査定が低く抑えられた原因は、被告会社において、共産党員としての活動を行っていたということしか考えられない。したがって、被告会社が原告X7を昭和四六年度から昭和五四年度にかけて「2」ないし「1」の考課査定をしたことは不当な差別によるものといわれても仕方がない。この点、被告会社は、原告X7には、妊娠中毒症により配偶者を亡くしていることや時期は定かでないもののバイク転倒事故により欠勤したことなど低査定となった事情がうかがえる旨主張しているが、これらの事実によりどの程度仕事に支障が生じていたのかおよそ定かでないし、低査定の期間の長さを考えると、これらを理由に低査定となったと考えることができない。なお、その他の時期の「2」の考課査定については、その理由は必ずしも定かでないが、断続的にしかついていない状況を考えると、必ずしも、不当な考課査定であるとまではいえない。

なお、原告X7は、被告会社が原告X7を共産党員であることを理由に差別してフォークリフトやクレーン、溶接などの資格を取らせなかったかの主張ないし供述、陳述をしているが、原告X7は、フライス加工の仕事を専ら担当しており、同人がフォークリフトやクレーン、溶接といった資格を取らなければ仕事ができないといった状況にあったと認めるに足りる証拠はなく、このことをもって被告会社が原告X7を差別していたということはできない。

また、原告X7は、労働組合の執行委員になると多くの役員が被告会社の組織で班長になり班長は組長に昇格していることや養成工として教育を受けた者の半数以上が役職者になっていることなどを理由に、自分も班長・組長になって当然であるにもかかわらず、そのような役職者になれなかったのは昭和四五年ころから始まった共産党対策の結果、原告X7が差別されたからであるとの主張ないし供述、陳述をしている。しかしながら、被告会社がどのような人材を役職者として昇格するかについては、被告会社の裁量にゆだねられており、その裁量を逸脱したと認められるような事情が窺える場合でない限り、被告会社に役職者として昇格させなかったことについて差別があったとして非難することはできない。被告会社においては、原告X7のほかにも、技術・技能を有する従業員が役職者として昇格していない場合もうかがえるところであり、被告会社が役職者として昇格させるに当たっては、技術のみならず、被告会社の生産計画や経営方針をふまえてそれに協調していくことができる者であるか否かとか自ら率先して班員らを引っ張っていくといった姿勢などさまざまな観点から総合的に検討されることが推察されるから、原告X7が役職者になれなかったとしても、そのことから、直ちに、同人が主張するような共産党対策による差別であるということはできない。したがって、原告X7が役職者になれなかったこと自体で被告会社が原告X7を差別したということはできない。

さらに、原告X7の兄が、原告X7が被告会社において共産党員として活動してきたことから、昇進が遅れたかの主張ないし供述、陳述をしているが、原告X7の兄は、再雇用までされていることが認められるところであり(原告X7)、本件全証拠によっても、そのような事実を認めるに足りる証拠はない。

第五損害について

1  差別賃金相当損害金(賃金、賞与及び退職金)の請求について

(1)  はじめに

ア 上記第四認定のとおり、原告X5を除く原告ら(以下、ここでは「原告ら六名」という)には、被告会社による差別の結果と考えられる低い考課査定がなされているがために、昇給に必要となる考課点が与えられずに昇給できなかったり、与えられたとしても低い考課点にとどめられて昇給が著しく遅れてしまっている。その結果、原告ら6名は、本来、被告会社に差別されていなければできたであろう昇給に伴って支給されるべき賃金を受領することができなくなってしまっている。

したがって、原告ら六名には、本来、被告会社に差別されていなければできたであろう昇給に伴って支給されるべき賃金と現実に受領してきた賃金との差額について経済的損失が生じていることになる。

ここで、本来被告会社に差別されていなければできたであろう昇給に伴って支給されるべき原告ら六名の賃金の算出にあたっては、原告ら六名各自の同期・同学歴の標準的な従業員の平均賃金をもってこれにあたると考えることが一つの目安になるものと思われる。

この点、原告らは、その標準的な従業員としては、原告ら各自の同期・同学歴の従業員から、原告ら自身、日本共産党員、女性従業員及び当初被告会社の関連子会社である元日工産業で雇用され、その後、吸収合併されて被告会社の従業員となった従業員を除外するべきであると主張する。確かに、その標準的な従業員の中に原告ら六名を含めることは原告ら六名の賃金の不適正が問題となっている以上、除外すべきは当然である。また、原告ら六名が被告会社に賃金差別された原因が、専ら日本共産党員としての活動を行っていたことにあることからすれば、日本共産党員であることが明らかになっている従業員についても除外しておくのが相当である。そのほか、原告ら六名はいずれも男性従業員であることからすれば、女性従業員を除外することにもそれなりの合理性がうかがえるし、被告会社の関連子会社であった元日工産業で雇用された従業員名についても、当初の雇用条件等が異なることを考えると除外することにも合理性がある。

これに対し、被告会社は、同期同学歴入社者による平均賃金は、単なる結果にすぎないと主張しているが、原告ら六名が本来被告会社に差別されていなければできたであろう昇給に伴って支給されるべき賃金が具体的にいくらであるか算出することが困難であることからすれば、このような平均賃金を基礎に算出することにも合理性があるというべきであるから、被告会社の主張は採用しない。また、被告会社は、平均賃金の算出にあたって、中途退職者が存在することを指摘しているものの、原告ら六名は、このような低い考課査定を受けて低い賃金しか支給されないにもかかわらず、退職することなく被告会社において長年勤務してきたのであるから、中途退職者と同等に扱うことは妥当でなく、標準的な従業員の平均賃金算出にあたり、中途退職者を含めることは妥当でない。

なお、原告ら六名はいずれも何の役職にも就いていないのであるから、標準的な従業員から役職者を除くべきとも思われるが、原告らを役職につけるか否かは被告会社の裁量によるものの、原告ら六名が被告会社から差別されることなく考課査定されていた場合には、原告ら六名のうちから役職につく者が出ることも考えられないではないところであるから、標準的な従業員から役職者を除外すべきではない。

イ また、賞与及び退職金(原告らは、本件において、退職金制度のうち、職能等級別退職一時金及び功労旅行一時金の請求はいずれもしておらず、本件において請求しているのは、平成一〇年改定前の退職金規程における「適格退職年金」及び「加算年金」である)についても、その算出方法は、上記第三、2(1)ウ、エ認定のとおり、本給がその算出の基準になっているから、原告ら六名に本来のあるべき考課査定より低い考課査定がなされている以上、その賞与及び退職金についても経済的損失を蒙っていることになる。

ウ 以上を前提として、以下、原告X5を除く原告ら六名の損害について検討する。

(2)  原告X1について

ア 賃金について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X1が現実に被告会社から受領した賃金のうち本給と職能給の合計は、平成九年度が月額二〇万七四〇〇円、平成一〇年度が月額二一万〇一〇〇円、平成一一年度が月額二一万二一〇〇円であることが認められ、一方、原告X1入社前後二年の同学歴、同卒、同職種の従業員から入社年月日が原告X1と大きく違っている者を除いた上での役職者の役職資格手当も含めた本給、職能給及び役職資格手当の合計の平均は、平成九年度が月額三四万八九六六円、平成一〇年度が月額三五万五三〇〇円、平成一一年度が月額三六万一五〇〇円であることが認められる。

原告X1は、第四、一項において認定したとおり、昭和四七年度及び昭和五二年度から平成六年度まで「1」の考課査定を受けていた点に不当な差別があったのであるから、この間、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、「3」と考課査定された場合の半分程度の考課点ではあるものの、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成九年度から平成一一年度までの間、平均のように月額三四万八九六六円ないし三六万一五〇〇円まで取得することはできないとしても、少なくとも月額約二八万円程度の賃金を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X1が被告会社から差別されていなければ、原告X1の本給及び職能給の合計は、少なくとも月額二八万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X1が請求している平成九年七月から平成一六年八月までの賃金相当損害金としては、平成九年七月から平成一〇年三月までが六五万三四〇〇円、平成一〇年度分が八三万八八〇〇円、平成一一年度から平成一五年度まで毎年八一万四八〇〇円、平成一六年四月から同年八月までが三三万九五〇〇円となり、合計五九〇万五七〇〇円となる。

よって、原告X1の請求はこの限度で認められる。

イ 賞与について

また、証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X1が現実に被告会社から受領した賞与は、平成九年度年末が五七万二七〇〇円、平成一〇年度夏期及び年末が各五五万五一〇〇円、平成一一年度夏期及び年末が各五六万〇一〇〇円、平成一二年度夏期及び年末が五三万四四〇〇円、平成一三年度夏期及び年末が五三万四四〇〇円、平成一四年度夏期が五三万四四〇〇円、平成一四年度年末が五〇万四七〇〇円、平成一五年度夏期が四七万五一〇〇円、平成一五年度年末が五一万〇七〇〇円、平成一六年度夏期及び年末が各五七万〇一〇〇円となっていることが認められる。

一方、上記平均賃金から算出される賞与は、平成九年度年末が九七万七一〇五円、平成一〇年度夏期及び年末が各九九万四八四〇円、平成一一年度夏期及び年末が各一〇一万二二〇〇円、平成一二年度夏期から平成一六年度夏期までが各九八万九八〇〇円となっている。

ここで、原告X1については、平成九年度年末から平成一一年度年末まで賞与の中に家族手当が含まれているところ、家族手当は、人事考課と関わりなく定められていることから、損害となる上記平均賃金から算出される賞与との差額を求めるにあたっては、原告X1の賞与から家族手当の分を除外する必要があるところ、その具体的な数値は明らかになっていないものの、この点、原告X1は、通常の給与の基本給と家族手当を足した数値に、労使間協定によって定められている二・八か月分(この点については当事者間に争いがない)を乗じた金額で、現実に支給された賞与額を除して考課係数なるものを算出した上で、そこから賞与に含まれる家族手当を算出しており、その額は概ね二万六八四五円ないし二万五七〇〇円とされている。このような原告X1の家族手当相当額の算出方法は、賞与支給計算が基本給、職能給、家族手当を足したものに、労使間協定によって定められている二・八か月分を乗じ、さらに、これを何らかの係数を用いて増減していることからすれば、相応の合理性がうかがえるから、賞与相当損害金の算出にあたっては、原告X1が現実に受領した賞与から二万六〇〇〇円を差し引くのが相当である。

そして、賃金において検討したように、昭和四七年度及び昭和五二年度から平成六年度に、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度年末から平成一六年度夏期までの間、平均のように月額九九万四八四〇円ないし一〇一万二二〇〇円まで取得することはできないとしても、少なくとも一回の賞与で約七〇万円程度の賞与を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X1が被告会社から差別されていなければ、原告X1の賞与は、少なくとも七〇万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X1が請求している平成九年度年末から平成一六年度夏期までの賞与相当損害金としては、平成九年度年末が一五万三三〇〇円、平成一〇年度夏期及び年末が各一七万〇九〇〇円、平成一一年度夏期及び年末が各一六万五九〇〇円、平成一二年度夏期から平成一四年度夏期まで各一六万五六〇〇円、平成一四年度年末が一九万五三〇〇円、平成一五年度夏期が二二万四九〇〇円、平成一五年度年末が一八万九三〇〇円、平成一六年度夏期が一二万九九〇〇円となり、合計二三九万四三〇〇円となる。

よって、原告X1のこの点に関する請求はこの限度で認められる。

ウ 退職金について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、被告会社の退職金規程は、平成一五年一〇月一日改定されているものの、昭和二四年三月三一日以前生まれの従業員に対しては、改定前の退職金規程により算出された退職金額を保証しており、これに該当する原告X1は、改定前の退職金規程の方が高くなるため、その保証を受けることができ、実質的には、改定前の退職金規程に基づいて支給されていることが認められる。そして、原告X1は、平成一七年一月三一日被告会社を定年退職し、適格者年金・加算年金のいずれにおいても、年金ではなく、一時金での受給を選択し、適格退職年金四九二万三九〇〇円、加算退職年金一三三万八五〇〇円の合計六二四万二四〇〇円の退職金を受領していることが認められる。

そこで、原告X1の退職金相当損害金について検討するに、証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、平成一五年一〇月一日改定前の退職金規程には、適格退職年金及び加算年金などの「退職金算定基礎額は、退職時の本給とする。但し、満五五歳以降に退職する場合は、満五五歳に達した時の本給とする」とされており、原告X1の退職金算定基礎額は、五五歳に達した時である平成一一年度の本給一三万四九〇〇円であり、また、このときの給与は二一万二一〇〇円であることが認められるところ、この本給一三万四九〇〇円の給与二一万二一〇〇円に占める割合は約六三パーセントであり、上記認定のとおり、原告X1は少なくとも二八万円の給与を取得し得ることからすると、本給としては、その六三パーセントである一七万六四〇〇円は少なくとも取得し得ると考えることができ、これを退職金算定基礎額とされた一三万四九〇〇円で除して求められた約一・三一を原告X1が現実に受領した退職金額に乗じた八一七万七五四四円と現実に受領した退職金額六二四万二四〇〇円との差額一九三万五一四四円が原告X1の退職金相当損害金ということになる。

よって、原告X1のこの点に関する請求はこの限度で認められる。

(3)  原告X2について

ア 賃金について

弁論の全趣旨によれば、原告X2が現実に被告会社から受領した賃金のうち本給と職能給の合計は、平成一〇年度が月額二六万三四〇〇円、平成一一年度が月額二六万六一〇〇円、平成一二年度が月額二六万八八〇〇円であることが認められ、一方、原告X2入社前後二年の同学歴、同卒、同職種の従業員から日本共産党員、女性従業員及び元日工産業従業員を除いた上での役職者の役職資格手当も含めた本給、職能給及び役職資格手当の合計の平均は、平成一〇年度が月額三九万八二〇〇円、平成一一年度が月額四〇万五二一三円、平成一二年度が月額四〇万〇一〇〇円であることが認められる。

原告X2は、第四、二項において認定したとおり、昭和四八年度から昭和五〇年度まで「1」の考課査定を受けていた点に不当な差別があったのであるから、この間、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、「3」と考課査定された場合の半分程度の考課点ではあるものの、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成九年度から平成一一年度までの間、平均のように月額三九万八二〇〇円ないし四〇万五二一三円まで取得することはできないとしても、少なくとも月額約二八万円程度の賃金を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X2が被告会社から差別されていなければ、原告X2の本給及び職能給の合計は、少なくとも月額二八万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X2が請求している平成一〇年一〇月から平成一六年八月までの賃金相当損害金としては、平成一〇年一〇月から平成一一年三月までが九万九六〇〇円、平成一一年度が一六万六八〇〇円、平成一二年度から平成一五年度まで毎年一三万四四〇〇円、平成一六年四月から同年八月までが五万六〇〇〇円となり、合計八六万円となる。

よって、原告X2のこの点に関する請求はこの限度で認められる。

イ 賞与について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X2が現実に被告会社から受領した賞与は、平成一〇年度年末が六六万三七〇〇円、平成一一年度から平成一四年度までの夏期及び年末が各六七万〇五〇〇円、平成一五年度夏期及び年末が各五九万六〇〇〇円、平成一六年度夏期が六三万八九〇〇円であることが認められる。

一方、上記平均賃金から算出される賞与は、平成一〇年度年末が一〇八万三七五九円、平成一一年度夏期及び年末が各一一〇万〇五九八円、平成一二年度夏期から平成一六年度夏期まで各一一〇万九八七八円となっている。

そして、賃金において検討したように、昭和四八年度から昭和五〇年度までの間、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度年末から平成一六年度夏期までの間、平均のように月額一〇八万三七五九円ないし一一〇万九八七八円まで取得することはできないとしても、少なくとも一回の賞与で約七〇万円程度の賞与を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X2が被告会社から差別されていなければ、原告X2の賞与は、少なくとも七〇万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X2が請求している平成一〇年度年末から平成一六年度夏期までの賞与相当損害金としては、平成一〇年度年末が三万六三〇〇円、平成一一年度夏期から平成一四年度年末まで各二万九五〇〇円、平成一五年度夏期及び年末が各一〇万四〇〇〇円、平成一六年度夏期が六万一一〇〇円となり、合計五四万一四〇〇円となる。

よって、原告X2のこの点に関する請求はこの限度で認められる(なお、原告X2は、家族手当を支給されていないので、この点に関する検討は必要ない)。

ウ 退職金について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、被告会社の退職金規程は、平成一五年一〇月一日改定されているものの、昭和二四年三月三一日以前生まれの従業員に対しては、改定前の退職金規程により算出された退職金額を保証しており、これに該当する原告X2は、改定前の退職金規程の方が高くなるため、その保証を受けることができ、実質的には、改定前の退職金規程に基づいて支給されていることが認められる。原告X2は、平成一六年一二月三一日被告会社を定年退職し、適格者年金・加算年金のいずれにおいても、年金ではなく、一時金での受給を選択し、適格退職年金六五〇万〇七〇〇円、加算退職年金一七六万七七〇〇円の合計八二六万八四〇〇円の退職金を受領していることが認められる。

そこで、原告X2の退職金相当損害金について検討するに、証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、平成一五年一〇月一日改定前の退職金規程には、適格退職年金及び加算年金などの「退職金算定基礎額は、退職時の本給とする。但し、満五五歳以降に退職する場合は、満五五歳に達した時の本給とする」とされており、原告X2の退職金算定基礎額は、五五歳に達した時である平成一二年度の本給一七万八一〇〇円であり、また、このときの給与は二六万八八〇〇円であることが認められるところ、この本給一七万八一〇〇円の給与二六万八八〇〇円に占める割合は約六六パーセントであり、上記認定のとおり、原告X2は少なくとも二八万円の給与を取得し得ることからすると、本給としては、その六六パーセントである一八万四八〇〇円は少なくとも取得し得ると考えることができ、これを退職金算定基礎額とされた一七万八一〇〇円で除して求められた数値約一・〇四を原告X2が現実に受領した退職金額に乗じた八五九万九一三六円と現実に受領した退職金額八二六万八四〇〇円との差額三三万〇七三六円が原告X2の退職金相当損害金ということになる。

よって、原告X2のこの点に関する請求はこの限度で認められる。

(4)  原告X3について

ア 賃金について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X3が現実に被告会社から受領した賃金のうち、本給と職能給の合計は、平成一〇年度が月額二三万九五〇〇円、平成一一年度が月額二四万一九〇〇円、平成一二年度が月額二四万四四〇〇円であることが認められ、一方、原告X3入社前後二年の同学歴、同卒、同職種の従業員から女性従業員及び元日工産業従業員を除いた上での役職者の役職資格手当も含めた本給、職能給及び役職資格手当の合計の平均は、平成一〇年度が月額三七万七三九四円、平成一一年度が月額三八万四二八二円、平成一二年度が月額三九万〇二五八円であることが認められる。

原告X3は、第四、三項において認定したとおり、昭和四八年度、昭和五〇年度、昭和五四年度及び昭和五九年度から平成六年度まで「1」の考課査定を受けていた点に不当な差別があったのであるから、この間、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、「3」と考課査定された場合の半分程度の考課点ではあるものの、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度から平成一二年度までの間、平均のように月額三七万七三九四円ないし三九万〇二五八円まで取得することはできないとしても、少なくとも月額約三〇万円程度の賃金を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X3が被告会社から差別されていなければ、原告X3の本給及び職能給の合計は、少なくとも月額三〇万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X3が請求している平成一〇年一〇月から平成一二年一二月までの賃金相当損害金としては、平成一〇年一〇月から平成一一年三月までが三六万三〇〇〇円、平成一一年度が六九万七二〇〇円、平成一二年四月から同年一二月まで五〇万〇四〇〇円となり、合計一五六万〇六〇〇円となる。

よって、原告X3の請求はこの限度で認められる。

イ 賞与について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X3が現実に被告会社から受領した賞与は、平成一〇年度年末が六〇万三五〇〇円、平成一一年度夏期及び年末が各六〇万九五〇〇円、平成一二年度夏期及び年末が各六一万五八〇〇円であることが認められる。

一方、上記平均賃金から算出される賞与は、平成一〇年度年末が一〇五万六七〇三円、平成一一年度夏期及び年末が各一〇七万五九九〇円、平成一二年度夏期及び年末が各一〇九万二七二二円となっている。

そして、賃金において検討したように、昭和四八年度、昭和五〇年度、昭和五四年度及び昭和五九年度から平成六年度までの間、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度年末から平成一二年度年末までの間、平均のように月額一〇五万六七〇三円ないし一〇九万二七二二円まで取得することはできないとしても、少なくとも一回の賞与で約八〇万円程度の賞与を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X3が被告会社から差別されていなければ、原告X3の賞与は、少なくとも八〇万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X3が請求している平成一〇年度年末から平成一二年度年末までの賞与相当損害金としては、平成一〇年度年末が一九万六五〇〇円、平成一一年度夏期及び年末が各一九万〇五〇〇円、平成一二年度夏期及び年末が各一八万四二〇〇円となり、合計九四万五九〇〇円となる。

よって、原告X3のこの点に関する請求はこの限度で認められる(なお、原告X3は、家族手当を支給されていないので、この点に関する検討は必要ない)。

ウ 退職金について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、被告会社の退職金規程は、平成一五年一〇月一日改定されているものの、昭和二四年三月三一日以前生まれの従業員に対しては、改定前の退職金規程により算出された退職金額を保証しており、これに該当する原告X3は、改定前の退職金規程の方が高くなるため、その保証を受けることができ、実質的には、改定前の退職金規程に基づいて支給されることが認められる。

原告X3は、加算年金について年金での受給を選択してるところ、平成一三年に五五歳で退職したため、加算年金の支給は六〇歳に達する平成一七年七月の翌月からであるため、口頭弁論終結時においては、いまだ加算年金の支給を受けることができない状態にあるものの、原告X3が既に退職していることは争いがなく、本件の事案に鑑みれば、あらかじめその請求をする必要があるといえるから、この点に関する将来給付の訴えは認められてしかるべきである。

そこで、原告X3の退職金相当損害金について検討するに、証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、平成一五年一〇月一日改定前の退職金規程には、適格退職年金及び加算年金などの「退職金算定基礎額は、退職時の本給とする。但し、満五五歳以降に退職する場合は、満五五歳に達した時の本給とする」とされており、原告X3の退職金算定基礎額は、五五歳に達した時である平成一二年度の本給一五万八四〇〇円であり、また、このときの給与は二四万四四〇〇円であることが認められるところ、この本給一五万八四〇〇円の給与二四万四四〇〇円に占める割合は約六五パーセントであり、上記認定のとおり、原告X3は少なくとも三〇万円の給与を取得し得ることからすると、本給としては、その六五パーセントである一九万五〇〇〇円は少なくとも取得し得ると考えることができ、これを退職金算定基礎額とされた一五万八四〇〇円で除して求められた数値約一・二三を、原告X3に加算年金として支給されるとされている一六万四〇〇〇円に乗じた二〇万一七二〇円と一六万四〇〇〇円との差額三万七七二〇円に、原告X3が加算年金を受給できる平成一七年八月当時の年齢六〇歳の平均余命から導かれるライプニッツ係数一二・八二一一を乗じた四八万三六一一円が原告X3の退職金相当損害金ということになる。

よって、原告X3のこの点に関する請求はこの限度で認められる(なお、原告X3は、適格者退職年金については損害として請求していない)。

(5)  原告X4について

ア 賃金について

弁論の全趣旨によれば、原告X4が現実に被告会社から受領した賃金のうち本給と職能給の合計は、平成一〇年度が月額二〇万一九〇〇円、平成一一年度が月額二〇万四三〇〇円、平成一二年度が月額二〇万六七〇〇円であることが認められ、一方、原告X4入社前後二年の同学歴、同卒、同職種の従業員から女性従業員を除いた上での役職者の役職資格手当も含めた本給、職能給及び役職資格手当の合計の平均は、平成一〇年度が月額三三万四四二七円、平成一一年度が月額三四万一八七七円、平成一二年度が月額三六万二五五〇円であることが認められる。

原告X4は、第四、四項において認定したとおり、昭和五一年度から平成六年度までに「1」の考課査定を受けていた点に不当な差別があったのであるから、この間、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、「3」と考課査定された場合の半分程度の考課点ではあるものの、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度から平成一二年度までの間、平均のように月額三三万四四二七円ないし三六万二五五〇円まで取得することはできないとしても、少なくとも月額約二六万円程度の賃金を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X4が被告会社から差別されていなければ、原告X4の本給及び職能給の合計は、少なくとも月額二六万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X4が請求している平成一〇年一〇月から平成一六年八月までの賃金相当損害金としては、平成一〇年一〇月から平成一一年三月までが三四万八六〇〇円、平成一一年度が六六万八四〇〇円、平成一二年度から平成一五年度まで毎年六三万九六〇〇円、平成一六年四月から同年八月までが二六万六五〇〇円となり、合計三八四万一九〇〇円となる。

よって、原告X4の請求はこの限度で認められる。

なお、原告X4は、最低協定賃金を下回る賃金であったかの主張ないし陳述、供述をしているものの、証拠(略)によれば、原告X4が比較している最低協定賃金は、同人の扶養状況と扶養状況が異なり、より扶養家族が多い場合の最低協定賃金であって、同人と同じ扶養状況の下での最低協定賃金と比較すると、原告X4の賃金は、少なくとも昭和四五年以降全て最低協定賃金を上回っていることが認められる。したがって、原告X4の賃金が最低賃金を下回っているとの主張は認められない。

イ 賞与について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X4が現実に被告会社から受領した賞与は、平成一〇年度年末が五〇万八七〇〇円、平成一一年度夏期及び年末が各五一万四八〇〇円、平成一二年度夏期が五二万〇八〇〇円、平成一二年度年末が四九万一九〇〇円、平成一三年度夏期及び年末が各五二万五四〇〇円、平成一四年度夏期及び年末が各五二万八六〇〇円、平成一五年度夏期及び年末が各五〇万八三〇〇円、平成一六年度夏期が五〇万九九〇〇円であることが認められる。

一方、上記平均賃金から算出される賞与は、平成一〇年度年末が九三万六三九五円、平成一一年度夏期及び年末が各九五万七二五五円、平成一二年度夏期から平成一六年度夏期まで各一〇一万五一四〇円となっている。

そして、賃金において検討したように、昭和五一年度から平成六年度まで及び平成一三年度に、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度年末から平成一六年度夏期までの間、平均のように月額九三万六三九五円ないし一〇一万五一四〇円まで取得することはできないとしても、少なくとも一回の賞与で約六五万円程度の賞与を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X4が被告会社から差別されていなければ、原告X4の賞与は、少なくとも六五万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X4が請求している平成一〇年度年末から平成一六年度夏期までの賞与相当損害金としては、平成一〇年度年末が一四万一三〇〇円、平成一一年度夏期及び年末が各一三万五二〇〇円、平成一二年度夏期が一二万九二〇〇円、平成一二年度年末が一五万八一〇〇円、平成一三年度夏期及び年末が各一二万四六〇〇円、平成一四年度夏期及び年末が各一二万一四〇〇円、平成一五年度夏期及び年末が各一四万一七〇〇円、平成一六年度夏期が一四万〇一〇〇円となり、合計一六一万四五〇〇円となる。

よって、原告X4のこの点に関する請求はこの限度で認められる(なお、原告X4は、家族手当を支給されていないので、この点に関する検討は必要ない)。

ウ 退職金について

原告X4は、いまだ被告会社を退職しているわけではないことからすれば、そもそもその請求を認めることはできない。

(6)  原告X6について

ア 賃金について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X6が現実に被告会社から受領した賃金のうち本給と職能給の合計は、平成一〇年度が月額二〇万〇六〇〇円、平成一一年度が月額二〇万二七〇〇円、平成一二年度が月額二〇万四九〇〇円であることが認められ、一方、原告X6入社前後二年の同学歴、同卒、同職種の従業員からの役職者の役職資格手当も含めた本給、職能給及び役職資格手当の合計の平均は、平成一〇年度が月額三二万八〇一七円、平成一一年度が月額三三万四九五〇円、平成一二年度が月額三四万〇九六六円であることが認められる。

原告X6は、第四、六項において認定したとおり、昭和四七年度から昭和四九年度まで、昭和五九年度から昭和六三年度まで、「1」の考課査定を受けていた点に不当な差別があったのであるから、この間、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度から平成一二年度までの間、平均のように月額三二万八〇一七円ないし三四万〇九六六円まで取得することはできないとしても、少なくとも月額約二三万円程度の賃金を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X6が被告会社から差別されていなければ、原告X6の本給及び職能給の合計は、少なくとも月額二三万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X6が請求している平成一〇年一〇月から平成一六年八月までの賃金相当損害金としては、平成一〇年一〇月から平成一一年三月までが一七万六四〇〇円、平成一一年度が三二万七六〇〇円、平成一二年度から平成一五年度まで毎年三〇万一二〇〇円、平成一六年四月から同年八月までが一二万五五〇〇円となり、合計一八三万四三〇〇円となる。

よって、原告X6の請求はこの限度で認められる。

イ 賞与について

また、証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X6が現実に被告会社から受領した賞与は、平成一〇年度年末が五五万二八〇〇円、平成一一年度夏期及び年末が各五五万八一〇〇円、平成一二年度夏期及び年末が各五六万三七〇〇円、平成一三年度夏期が五七万四五〇〇円、平成一三年度年末が六二万一〇〇〇円、平成一四年度夏期及び年末が各五七万七三〇〇円、平成一五年度夏期及び年末が各五一万五六〇〇円、平成一六年度夏期が五五万二九〇〇円となっていることが認められる。

一方、上記平均賃金から算出される賞与は、平成一〇年度年末が九一万八四四七円、平成一一年度夏期及び年末が各九三万七八六〇円、平成一二年度夏期から平成一六年度夏期までが各九五万四七〇五円となっている。

ここで、原告X6については、平成一〇年度年末から平成一六年度夏期まで賞与の中に家族手当が含まれているので、上記平均給与から算出される賞与との差額を求めるにあたっては、原告X6の賞与から家族手当の分を除外する必要があるところ、その具体的な金額は明らかになっていないものの、この点、原告X6は、通常の給与の基本給と家族手当を足した金額に、労使間協定によって定められている二・八か月分(この点については当事者間に争いがない)を乗じた金額で、現実に支給された賞与額を除して考課係数なるものを算出した上で、そこから賞与に含まれる家族手当を算出しており、その額は概ね四万七〇三六円ないし五万七一九七円とされている。このような原告X6の家族手当相当額の算出方法は、賞与支給計算が基本給、職能給、家族手当を足したものに、労使間協定によって定められている二・八か月分を乗じ、さらに、これを何らかの係数を用いて増減していることからすれば、相応の合理性がうかがえるから、賞与相当損害金の算出にあたっては、原告X6が現実に受領した賞与から五万円を差し引くのが相当である。

そして、賃金において検討したように、昭和四七年度から昭和四九年度まで、昭和五九年度から昭和六三年度まで、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度年末から平成一六年度夏期までの間、平均のように月額九一万八四四七円ないし九五万四七〇五円まで取得することはできないとしても、少なくとも一回の賞与で約六〇万円程度の賞与を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X6が被告会社から差別されていなければ、原告X6の賞与は、少なくとも六〇万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X6が請求している平成一〇年度年末から平成一六年度夏期までの賞与相当損害金としては、平成一〇年度年末が九万七二〇〇円、平成一一年度夏期及び年末が各九万一九〇〇円、平成一二年度夏期及び年末が各八万六三〇〇円、平成一三年度夏期が七万五五〇〇円、平成一三年度年末が二万九〇〇〇円、平成一四年度夏期及び年末が各七万二七〇〇円、平成一五年度夏期及び年末が各一三万四四〇〇円、平成一六年度夏期が九万七一〇〇円となり、合計一〇六万九四〇〇円となる。

よって、原告X6のこの点に関する請求はこの限度で認められる。

ウ 退職金について

原告X6は、いまだ被告会社を退職しているわけではないことからすれば、そもそもその請求を認めることはできない。

(7)  原告X7について

ア 賃金について

弁論の全趣旨によれば、原告X7が現実に被告会社から受領した賃金のうち本給と職能給の合計は、平成一〇年度が月額三二万二三〇〇円、平成一一年度が月額三二万五〇〇〇円、平成一二年度が月額三二万五〇〇〇円であることが認められ、一方、原告X7入社前後二年の同学歴、同卒、同職種の従業員から女性従業員、元日工産業従業員を除いた上での役職者の役職資格手当も含めた本給、職能給及び役職資格手当の合計の平均は、平成一〇年度が月額三六万二〇一六円、平成一一年度が月額三六万九三八三円、平成一二年度が月額三六万七二一六円であることが認められる。

原告X7は、第四、七項において認定したとおり、昭和四六年度から昭和五四年度にかけて「2」や「1」の考課査定を受けていた点に不当な差別があったのであるから、この間、少なくとも「3」の考課査定を受けていたと考えると、他の期間に「2」の考課査定を受けていることを考慮しても、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度から平成一二年度までの間、平均のように月額三六万二〇一六円ないし三六万九三八三円まで取得することはできないとしても、少なくとも月額約三五万円程度の賃金を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X7が被告会社から差別されていなければ、原告X7の本給及び職能給の合計は、少なくとも月額三五万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X7が請求している平成一〇年一〇月から平成一四年四月までの賃金相当損害金としては、平成一〇年一〇月から平成一一年三月までが一六万六二〇〇円、平成一一年度から平成一三年度まで毎年三〇万円、平成一四年四月分が二万五〇〇〇円となり、合計一〇九万一二〇〇円となる。

よって、原告X7の請求はこの限度で認められる。

イ 賞与について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X7が現実に被告会社から受領した賞与は、平成一〇年度年末から平成一二年度年末まで各八〇万四一〇〇円、平成一三年度夏期から平成一三年度年末まで各七五万九四〇〇円であることが認められる。

一方、上記平均賃金から算出される賞与は、平成一〇年度年末が一〇一万三六四四円、平成一一年度夏期から平成一三年度年末まで各一〇二万二一四〇円となっている。

そして、賃金において検討したように、昭和四六年度から昭和五四年度までの間に、少なくとも「2」の考課査定を受けていたと考えると、ある程度の昇給がなされていったはずであることがうかがえるから、平成一〇年度年末から平成一四年度夏期までの間、平均のように一回の賞与につき一〇一万三六四四円ないし一〇二万二一四〇円まで取得することはできないとしても、少なくとも一回の賞与で約九〇万円程度の賞与を取得し得たと考えるのが相当である。そして、その後も、原告X7が被告会社から差別されていなければ、原告X7の賞与は、少なくとも九〇万円を下回ることはなかったというべきである。

そうすると、原告X7が請求している平成一〇年度年末から平成一四年度夏期までの賞与相当損害金としては、平成一〇年度年末から平成一二年度年末まで各九万五九〇〇円、平成一三年度夏期及び年末が各一四万〇六〇〇円となり、合計七六万〇七〇〇円となる。

よって、原告X7のこの点に関する請求はこの限度で認められる(なお、原告X7は、家族手当を支給されていないので、この点に関する検討は必要ない)。

ウ 退職金について

証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、被告会社の退職金規程は、平成一五年一〇月一日改定されているものの、昭和二四年三月三一日以前生まれの従業員に対しては、改定前の退職金規程により算出された退職金額を保証しており、これに該当する原告X7は、改定前の退職金規程の方が高くなるため、その保証を受けることができ、実質的には、改定前の退職金規程に基づいて支給されていることが認められる。原告X7は、平成一四年四月三〇日被告会社を定年退職し、適格者退職年金については、年金ではなく、一時金での受給を選択し、適格退職年金八一六万八七〇〇円を受領していることが認められる。

そこで、原告X7の適格者退職年金相当損害金について検討するに、証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、平成一五年一〇月一日改定前の退職金規程には、適格退職年金及び加算年金などの「退職金算定基礎額は、退職時の本給とする。但し、満五五歳以降に退職する場合は、満五五歳に達した時の本給とする」とされていることが認められる。この点、原告X7の退職金算定基礎額は、五五歳に達した時である平成九年度の本給及び給与については明らかでないものの、この当時の給与に占める本給の割合が、当事者間に争いのない平成一二年度の給与三二万五〇〇〇円における本給二二万三八〇〇円の割合と同様と考えると、約六九パーセント程度であると考えられ、上記認定のとおり、原告X7は平成一〇年度以降少なくとも三五万円の給与を取得し得るところ、原告X7の年齢を考えれば、平成九年度も大きな相違はないと思われ、その本給としては、その六九パーセントである二四万一五〇〇円は少なくとも取得し得ると考えることができ、これを退職金算定基礎額とされた二二万三八〇〇円で除して求められた数値約一・〇八を原告X7が現実に受領した退職金額に乗じた八八二万二一九六円と現実に受領した退職金額八一六万八七〇〇円との差額六五万三四九六円が原告X7の適格者退職年金相当損害金ということになる。

また、証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、原告X7は、加算年金については、年金での受給を選択し、口頭弁論終結時である平成一七年二月七日より前である平成一四年五月から平成一六年四月までに年間二六万二九〇二円の実支給を受けているところ、これに上記一・〇八を乗じた二八万三九三四円と実支給額との差額二万一〇三二円の二年分である四万二〇六四円が、支給時期の到来した原告X7の加算年金相当損害金ということになる。そして、支給時期の到来した加算年金にとどまらず、将来の分についても請求できることは上記(4)ウにおいて検討したとおりであるので、その請求しうる金額を検討するに、上記二万一〇三二円に、平成一六年当時の原告X7の年齢六二歳の平均余命から導かれるライプニッツ係数一二・四六二二を乗じた二六万二一〇四円が原告X7の支給時期が到来していない加算年金相当損害金ということになる。

以上より、これら支給時期の到来している加算年金相当損害金と到来していない加算年金相当損害金の合計三〇万四一六八円に、上記適格者退職年金相当損害金六五万三四九六円を加えた九五万七六六四円が原告X7の退職金相当損害金ということになる。

よって、原告X7のこの点に関する請求はこの限度で認められる。

(8)  遅延損害金について

原告X5を除く原告ら六名の賃金及び賞与相当損害金に関する遅延損害金の起算日については、原告らは、平成一六年三月までのものについては、各月の不法行為後の各年度末の翌日から、同年四月以降のものについては訴えの変更申立の日の翌日である平成一六年一〇月二日からそれぞれ請求しており、この限度で認められる。

また、退職金相当損害金に関する遅延損害金の起算日については、原告X3及び同X7は、退職した年度末の翌日、すなわち、原告X3は平成一三年四月一日から、原告X7は平成一四年四月一日からそれぞれ請求しており、原告X1及び同X2は、退職後である口頭弁論終結日である平成一七年二月七日からそれぞれ請求しており、いずれもこの限度で認められる。

2  慰謝料請求について

(1)  原告X5については、上記第四、五項認定のとおり、被告会社による賃金差別があったと認めることはできないから、それに伴う慰謝料請求も認められない。

(2)  原告X5を除く原告ら六名は、被告会社の上記不法行為によって、差別賃金相当額の損害を蒙ったほか、年功序列的運用実態の認められる被告会社の人事・賃金制度の下において、著しく低い考課査定が行われるなどの人事上不利益な処遇を受けたことから、人間として有する名誉感情等を著しく傷つけられたことがうかがえる。これら原告ら六名の精神的苦痛は、上記差別賃金相当の損害賠償のみによっては回復し難い損害と認められる。

ア 原告X1については、上記第四、第一項において認定したとおり、賃金差別された時期が一九年と長期にわたり、その金額は一〇二三万五一四四円と大きく、ほかに差別に伴い受けた被告会社からの対応等本件に現れた一切の事情を考慮すると、慰謝料としては一五〇万円をもって相当というべきである。

イ 原告X2については、上記第四、第二項において認定したとおり、賃金差別された時期が三年で、その金額は一七三万二一三六円であり、ほかに差別に伴い受けた被告会社からの対応等本件に現れた一切の事情を考慮すると、慰謝料としては五〇万円をもって相当というべきである。

ウ 原告X3については、上記第四、第三項において認定したとおり、賃金差別された時期が一四年と長期にわたり、その金額は二九九万〇一一一円にのぼり、これに差別に伴い受けた被告会社からの対応等本件に現れた一切の事情を考慮すると、慰謝料としては一〇〇万円をもって相当というべきである。

エ 原告X4については、上記第四、第四項において認定したとおり、賃金差別された時期が一七年と長期にわたり、その金額は五四五万六四〇〇円にのぼり、ほかに差別に伴い受けた被告会社からの対応等本件に現れた一切の事情を考慮すると、慰謝料としては一五〇万円をもって相当というべきである。

オ 原告X6については、上記第四、第六項において認定したとおり、賃金差別された時期が八年にわたり、その金額は二九〇万三七〇〇円にのぼり、ほかに差別に伴い受けた被告会社からの対応等本件に現れた一切の事情を考慮すると、慰謝料としては八〇万円をもって相当というべきである。

カ 原告X7については、上記第四、第七項において認定したとおり、賃金差別された時期が七年にわたり、その金額は二八〇万九五六四円にのぼり、ほかに差別に伴い受けた被告会社からの対応等本件に現れた一切の事情を考慮すると、慰謝料としては八〇万円をもって相当というべきである。

(3)  なお、遅延損害金の起算日については、原告X3及び同X7に関しては、退職した年度末の翌日、すなわち、原告X3は平成一三年四月一日、同X7は平成一五年四月一日とし、その余の原告ら四名に関しては、認容される上記差別賃金相当損害金に対する最終の遅延損害金起算日以降で口頭弁論終結時である平成一七年二月七日と認めるのが相当である。

原告X5を除く原告ら六名のこの点に関する請求は上記限度で認められる。

3  弁護士費用について

原告X5については、上記第四、五項認定のとおり、被告会社による賃金差別があったと認めることはできないから、それに伴う弁護士費用の請求も認められない。

原告X5を除く原告ら六名が、本訴の提起、遂行を原告ら訴訟代理人に委任したことは当裁判所に顕著であるところ、本件の事案の内容、認容額その他一切の事情を考慮すると、本件不法行為と相当因果関係のある弁護士費用としては、原告ら六名の認容額の一割程度と認めるのが相当である。

したがって、原告ら六名の弁護士費用としては、原告X1については一〇〇万円、原告X2については二〇万円、原告X3については四〇万円、原告X4については七〇万円、原告X6については三五万円、原告X7については三五万円をもって相当というべきである。

原告X5を除く原告ら六名のこの点に関する請求は上記限度で認められる。

なお、原告らは、弁護士費用については、遅延損害金を請求していない。

4  謝罪文掲載等の請求について

原告X5については、上記第四、五項認定のとおり、被告会社による賃金差別があったと認めることはできないから、それに伴う謝罪文掲載等の請求も認められないし、原告X5を除く原告ら六名が名誉等を毀損されたことによる損害は、上記差別賃金・賞与・退職金相当損害金及び慰謝料の支払をもって償うことで回復されるものというべきであって、それ以上に謝罪文を掲載する必要性を認めることはできない。

したがって、この点に関する原告らの請求は認められない。

第六消滅時効について

被告会社は、原告らが請求する不法行為に基づく差別賃金相当損害賠償請求に対し、仮に、その請求が認められたとしても、原告らに認められる賃金格差は、本件提訴から三年以上前に発生した損害については三年の時効期間の経過により時効消滅していることになる旨主張している。しかしながら、本件において、被告会社の賃金差別に基づく不法行為が完了するのは、各賃金支払時期ごとに原告ら各自に不当に低額な賃金が支払われた時であるというべきであるから、この点の被告会社の主張は採用できない。

第七まとめ

以上によれば、別紙<10>(略)記載のとおり、原告X1は、賃金として五九〇万五七〇〇円、賞与として二三九万四三〇〇円、退職金として一九三万五一四四円、慰謝料として一五〇万円、弁護士費用として一〇〇万円の合計一二七三万五一四四円の損害を、原告X2は、賃金として八六万円、賞与として五四万一四〇〇円、退職金として三三万〇七三六円、慰謝料として五〇万円、弁護士費用として二〇万円の合計二四三万二一三六円の損害を、原告X3は、賃金として一五六万〇六〇〇円、賞与として九四万五九〇〇円、退職金として四八万三六一一円、慰謝料として一〇〇万円、弁護士費用として四〇万円の合計四三九万〇一一一円の損害を、原告X4は、賃金として三八四万一九〇〇円、賞与として一六一万四五〇〇円、慰謝料として一五〇万円、弁護士費用として七〇万円の合計七六五万六四〇〇円の損害を、原告X6は、賃金として一八三万四三〇〇円、賞与として一〇六万九四〇〇円、慰謝料として八〇万円、弁護士費用として三五万円の合計四〇五万三七〇〇円の損害を、原告X7は、賃金として一〇九万一二〇〇円、賞与として七六万〇七〇〇円、退職金として九五万七六六四円、慰謝料として八〇万円、弁護士費用として三五万円の合計三九五万九五六四円の損害を蒙っていることになり、その遅延損害金についての損害も別紙<11>ないし<16>(略)の遅延損害金目録記載のとおり、あわせて蒙っていることになる。一方、原告X5に対しては、被告会社による賃金差別があったと認めることはできない以上、何ら損害は生じていないというほかない。

よって、原告らの請求は、上記限度で認容することとし、その余の請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用及び仮執行宣言、仮執行免脱宣言については、本件に現れた全ての事情を考慮して主文のとおり判決する。

(裁判官 久保孝二 裁判長裁判官千川原則雄は、退官につき署名押印することができない。裁判官 久保孝二 裁判官島田正人は転補につき署名押印することができない。裁判官 久保孝二)

別紙 当事者目録

第一事件原告 X1

第二事件原告 X2

第二事件原告 X3

第二事件原告 X4

第二事件原告 X5

第二事件原告 X6

第二事件原告 X7

上記七名訴訟代理人弁護士 田代博之

同 渡邊昭

同 塩沢忠和

同 阿部浩基

同 中川真

同 宮崎孝子

同 藤澤智実

同 小笠原里夏

第一事件原告X1訴訟代理人弁護士 清水光康

同 家本誠

同 白井孝一

同 諏訪部史人

同 大橋昭夫

第一事件及び第二事件被告 スズキ株式会社

上記代表者代表取締役 H

上記訴訟代理人弁護士 足立邦夫

同 村松良

同 石塚伸

同 縣郁太郎

同 辻慶典

同 山西克彦

同 伊藤昌毅

同 峰隆之

<以下別紙略>

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