静岡地方裁判所浜松支部 平成21年(わ)451号 判決 2010年10月29日
主文
被告人を懲役13年に処する。
未決勾留日数中260日をその刑に算入する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は,平成20年4月29日午後6時20分ころから同月30日午前9時20分ころまでの間,a市b番地所在のA方において,同人(当時83歳)に対し,殺意をもって,その頸部にホットカーペットのコードを巻き付けて絞め付け,よって,そのころ,同所において,同人を窒息死させて殺害した。
(証拠の標目) 省略
(争点に対する判断)
第1本件の争点
本件の争点は,被告人が犯人であると認められるか(争点1),被害者であるA(以下「被害者」という。)において殺害を依頼又は承諾していないと認められるか(争点2)である。以下,当裁判所が被告人を犯人と認め,また被害者において殺害を依頼したり承諾したりしたこともないと認められると判断した理由について説明する。
第2事件の概要
1 被害者は,平成20年4月30日午前9時20分ころ,同人方居間において,首にホットカーペットコード(以下「本件コード」という。)が巻き付けられ横たわった状態で,訪問介護のヘルパーによって発見された。
本件コードは,一方がホットカーペット本体部分につながったままの状態で,被害者の首に二重に巻き付けられ,二重目は一重結びにされていた。
その後,被害者の死因は,首を絞められたことによる窒息死と判定された。
2(1) 以上のように,本件は,何者かが,被害者方において,殺意をもって,被害者の首に本件コードを巻いて絞め付け,同人を窒息死させた事件である。
(2) そして,被害者が,平成20年4月29日午後6時20分ころ,郵便物の配達に来た郵便局職員に応対していることからすると,被害者が殺害された時間帯は,同時刻から遺体が発見された同月30日午前9時20分ころまでの間と認められる(以下,これを「犯行時間帯」という。)。
第3被告人と犯人との同一性(争点1)
1 検察官は,被告人が犯人であることを基礎付ける事実として,①犯行時間帯ころ,被告人が被害者方に来ていたこと,②凶器の本件コードの結び目両脇に付着していた混合DNAは被害者と被告人の混合DNAであること,③被害者の両手から採取された混合DNAは被害者と被告人の混合DNAであること,④被告人が,被害者の家に行ったこともないなどとうそをついたこと,⑤捜査段階で,被告人自身,自分が犯人であることを認める供述をしたことの各点を主張する。そして,検察官は,上記②,③の点だけでなく,①についても,被害者方に遺留されたたばこの吸い殻の吸い口に付着した唾液のDNA型が被告人のDNA型と合致していることを根拠の一つとして挙げている。
そこで,まず,大前提として本件各DNA型鑑定の信用性について検討する。
2 本件各DNA型鑑定の信用性等
(1) 本件各資料のDNA型鑑定
本件コード,被害者の両手を圧着したリタックシート,被害者方居間に遺留されたたばこ(以下「本件たばこ」という。)の吸い殻2本,被害者の心臓血,及び被告人の口腔内細胞について,STR型検査法によるDNA型鑑定が実施された。
(2) STR型検査法の科学的原理について
STR型検査法は,DNAの塩基配列の繰り返し回数に個人差があることに注目し,その繰り返し回数を型として分類したもので,15か所のDNA型(STR型)と性別にかかる部分1か所のDNA型(アメロゲニン型)の合計16か所(16座位)を調べることにより個人を識別する鑑定方法である。その科学的原理について,専門家から疑問が呈されたというような事情はうかがえず,STR型検査法の科学的原理自体に疑問を差し挟む余地はない。
なお,弁護人は,STR型検査法を用いた場合でも,増幅されたDNA断片の長さが同じであるため,「同じ型」と判定されるが,実は,塩基の並び方が違うという特殊な型(サブタイプ)があるという問題を指摘する。
しかしながら,STR型検査法は,特定のDNAの「長さ」に着目する鑑定手法であり,個々の塩基配列を測定する鑑定方法ではない。本件でDNA型鑑定を実施した甲の証言によれば,現在のSTR型検査法においても,「長さ」に関しては,塩基一つの単位まで識別できる精度を有していると認められることからすると,今後,鑑定技術の進歩により個々の塩基配列まで明らかにすることができるようになったとしても,それは,更に詳細な個人識別が可能となることを意味するにすぎず,現在のSTR型検査法の科学的原理自体が否定されるわけではない。
(3) 本件各DNA型鑑定結果の信用性の判断
ア 以上を前提に,本件において,DNA型鑑定の信用性を疑わせる事情があるかどうかについて,弁護人の指摘する点を踏まえつつ,検討する。
イ まず,c県警察本部刑事部科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)の研究員である甲及び乙は,いずれも,鑑定に必要な知識及び技能を習得したとして「DNA型鑑定員」の資格を取得し,それぞれ相当数のSTR型検査法によるDNA型鑑定の経験を有していると認められる。
ウ また,本件における鑑定資料の採取や保管について,鑑定結果の信用性を疑わせるような不適切な措置が講じられた事情はうかがわれない。
エ 次に,鑑定の過程についてみると,甲及び乙は,通達によって指定された方法に従って鑑定を行っている上,鑑定資料と同時にDNA抽出コントロール,ネガティブコントロール,ポジティブコントロールといった対照検査も実施して,その結果に問題がみられないことからすると,今回用いた検査試薬や機器にも問題はなく,鑑定の過程において,信用性を疑わせるような問題は認められない。
これに対し,弁護人は,乙が流し台のたばこの吸い殻のDNA型鑑定を実施する際,機器の取扱説明書によれば「たばこの吸い殻からDNAを抽出する場合は1平方センチメートルの紙を切り取る」と定められているのに,0.6平方センチメートルの紙しか切り取らないで行っており,科捜研の中で個人的判断によるマニュアルの無視が横行している可能性は否定できないと主張する。
しかしながら,仮に検査部位が小さければ,DNA型が検出されない可能性があるだけであるから,鑑定結果の信用性を左右するものではない。また,弁護人の指摘する点は,重要な手順を履行しなかったものとは評価できず,それ以外には,鑑定経過に信用性を疑わせるような問題はうかがわれず,弁護人の主張は採用の限りではない。
次に,弁護人は,甲らが鑑定ノートを作成していなかったり,鑑定メモを廃棄したりしているため,本件のDNA型鑑定には信頼性の担保がないと主張する。
確かに,日本DNA多型学会の「DNA鑑定についての指針(1997年)」には,「すべての鑑定において,鑑定人は法廷の求めがあれば鑑定経過を詳細に記録した鑑定ノートを開示するべきである」との記載があり,鑑定の信用性の検証のためには,鑑定経過の記録は重要である。
しかしながら,本件当時,科捜研においては,鑑定経過を詳細に記録する鑑定ノートについて,具体的な取決めが存在しておらず,鑑定ノートの作成やその保管は,個人の判断に任されていたこと,STR型鑑定においては,もともと機械的,定型的な作業が多い上,フラグメントアナライザーの解析結果は波形チャートとして残っていること,鑑定書には,使用した試薬,機器等重要な経過についての記載が盛り込まれていることからすると,これらの情報によって事後的な正確性の検証は十分可能である。そうすると,本件で鑑定ノートが作成されなかったり,鑑定メモが廃棄されたりしたことをもって,本件各DNA型鑑定の信用性が失われるとは評価できない。
オ そのほか,関係各証拠を検討しても,本件各鑑定書の鑑定結果自体の信用性に疑問を差し挟む余地はなく,本件各DNA型鑑定は信用できると認められる。
(4) 出現頻度の評価
ア 前記(1)の鑑定結果を踏まえ,甲は,①本件たばこの吸い殻2本から検出されたDNA型は被告人のDNA型と一致した,②本件コード2箇所から検出されたDNA型は,被害者と被告人のDNAが混合したものと考えて矛盾しない,③被害者の両手を圧着したリタックシートから検出されたDNA型は,被害者と被告人のDNAが混合したものと考えて矛盾しない旨証言する。そして,甲は,本件たばこの吸い殻2本について,被告人と同一のDNA型を持つ人物の出現頻度は,いずれも,約4京2737兆7088億人に1人,本件コード及びリタックシートから検出されたDNA型のうち,被害者以外のDNA型の組み合わせを持つ人物の出現頻度は,本件コード(本体側片端)で約14万200人に1人,本件コード(プラグ側片端)で約93人に1人,リタックシート(右手)で約1万5000人に1人,リタックシート(左手)で約2億2698万人に1人であると証言する。
イ この点について,弁護人は,DNA型鑑定は「型」判定であり,同じ「型」を持つ人がいる「確率」を示すだけという限界があると主張する。確かに,弁護人が主張するとおり,DNA型を比較して同じ「型」が検出されたとしても,飽くまで,同じ「型」を持つ人がいる「確率」を示すにすぎないという限界はある。しかしながら,出現頻度が極めて低ければ,個人を識別する有力な手掛かりになるというべきである。
弁護人は,複数の座位の出現頻度を掛け合わせてよいのは,各座位が完全に独立している場合のみであるところ,その証明がなされていないと主張する。しかしながら,「個々の座位において何らか遺伝的に関連するものがないということは,既に証明されており,その旨の論文も出ている」旨の甲証言は,同人の資格,経験に照らしても十分信用することができる一方,各座位に関連性があることをうかがわせるような証拠はないから,複数の座位の出現頻度を掛け合わせるという算出方法に問題はないというべきである。
また,弁護人は,出現頻度算出の基となったデータベースは1350人にすぎず正確性には問題があると主張するが,この点についても,甲は,「2005年にこの分野では世界的に有名な文献に論文として掲載されて以降,その出現頻度表に対して,異議とか不足じゃないかという指摘があるということは聞いていない」旨を述べている上,遺伝学的にもSTR15座位においてその安定性が証明されているとしているのであるから,データベースが1350人であることをもって,出現頻度の正確性が揺らぐものではない。
さらに,弁護人は,本件コードのプラグ側片端の出現頻度については,約93人に1人と算定されたが,実際に本件捜査の過程でDNAを採取された272人を検証すると68人に1人の計算になることを根拠に,確率論の限界を指摘する。しかしながら,出現頻度が確率論である以上,社会内での実数との間で多少の誤差が生じることは当然であり,弁護人の指摘をもって,科捜研の出現頻度の算出方法が否定されるものとはいえない。
また,弁護人は,本件の犯人が日本人とは限らず,日本人を対象としたデータベースに基づく出現頻度だけを適用して評価してよいのかには問題が残るとも主張する。しかしながら,甲の証言によれば,そもそも15座位すべてを掛け合わせた場合には,人種による誤差はさほど大きくないと認められるところ,本件たばこの吸い殻2本に関していえば,15座位すべてから検出されている以上,日本人を対象としたデータベースを用いることに問題があるとはいえない。また,甲による出現頻度の結論は,要するに,被害者以外のSTR型の組合せを持つ日本人の出現頻度を意見として提出しているものにすぎないし,他の証拠からも異なる人種による犯行であることがうかがわれないことからすると,日本人を対象としたデータベースを用いることに問題はない。
(5) 小括
以上のとおり,本件各DNA型鑑定は信用することができ,これを踏まえた出現頻度の算出も正当な根拠があるものと認められる。以下,これを前提に,検察官が論告で指摘する点について順次検討する。
3 犯行時間帯ころ,被告人が被害者方に来ていたかについて(争点1についての検察官の主張①)
(1) まず,ヘルパーのBの証言によれば,同女が被害者方を訪れた平成20年4月29日午前9時ころの時点では,被害者方居間のテーブル上には吸い殻の入った灰皿はなく,また,同日午後4時ころに被害者が帰宅するまで被害者方は戸締まりされていたことが認められる。そして,被害者はたばこを吸わないのであるから,同月30日午前9時20分すぎころ,被害者方居間のテーブル上の灰皿内にあった本件たばこの吸い殻2本は,同月29日午後4時以降に何者かが遺留したものであると推認できる。
これに対し,弁護人は,Bは2階建ての家全体をわずか5分程度で見回るだけだから,灰皿があったのを見落とした可能性もあり得ると主張する。しかしながら,Bは,被害者の送迎を担当するヘルパーとして,戸締まりや火の元の確認等は意識的に行っていたと考えられるし,居間のテーブルの上という目につきやすいところに吸い殻入りの灰皿が置いてあれば,その存在に気付くのが自然であること,Bの供述は捜査公判を通じて一貫しており,Bがうそをつく動機もないことなどに照らすと,Bの証言は十分信用でき,灰皿の見落としはなかったというべきである。
そして,前記2のとおり,本件たばこの吸い殻2本から被告人と同一のDNA型が検出されたところ,その出現頻度は約4京2737兆7088億人に1人であることや,本件たばこの吸い殻2本の入った灰皿から被告人の指紋が検出されたことにも照らせば,本件たばこは被告人が吸ったものと断定して差し支えない。
そうすると,被告人が同月29日午後4時以降同月30日午前9時20分ころまでの間に被害者方を訪れたことが推認できる。
(2) また,被害者方台所のシンクにあった湯飲み(以下「本件湯飲み」という。)からは被告人の指紋が検出されている。平成20年4月28日昼に被害者方に配給された弁当がきれいに洗われており,台所には,同日夕食等の食器の洗い残しもなかったこと,Bが同月29日午前9時ころ,火の元と共に水回りを確認するため台所を見て回った際には,シンクに湯飲みはなかったと供述していること(本件湯飲みが蛇口の近くに置いてあるなどの位置関係や,Bが意識的に水回りを確認していることなどからすると,その証言は信用できる。)からすると,上記湯飲みから被告人の指紋が検出されたことからも,被告人が上記(1)の時間帯に被害者方を訪れたことが裏付けられるというべきである。
(3) 以上のとおり,被告人が本件犯行時間帯を含む平成20年4月29日午後4時以降同月30日午前9時20分ころまでの間に被害者方を訪れたと認められる。
4 上記2,3を踏まえた検討
(1) 本件コードの結び目両脇に付着していた混合DNA及び被害者の両手から採取された混合DNAは,被害者と被告人の混合DNAであるかについて(争点1についての検察官の主張②及び③)
ア まず,本件コードについてみると,前記2で述べたとおり,本件コード結び目両脇から被害者と被告人の混合DNAと考えて矛盾しない型のDNAが検出され,その出現頻度は,本体側片端で約14万200人に1人,プラグ側片端で約93人に1人と算出された。
そして,本件コードから検出されたDNA型は,混合資料であることやDNA型が不詳とされた部位が複数有ったことなどから,出現頻度は本件たばこの吸い殻のそれよりも高いものの,それでも本体側片端で約14万200人に1人で,確率としては比較的低いものである。そして,前記3で述べたとおり,被告人が平成20年4月29日午後4時ころから同月30日午前9時20分ころの間に被害者方を訪問したと認められること,前記2で述べたとおり,被害者の両手のリタックシートからも被害者と被告人の混合DNAと考えて矛盾しない型のDNAが検出され,その出現頻度が被害者の左手で約2億2698万人に1人とされていることからすると,本件コードの本体側片端に付着した混合DNAは,被害者と被告人の混合DNAであることが推認できる。
また,本件コードのプラグ側片端から検出されたDNAについての出現頻度は約93人に1人であるものの,本体側片端の混合DNAが被告人と被害者の混合DNAだとすると,プラグ側片端のDNAも同一人物に由来すると考えるのが自然であるから,これについても被害者と被告人の混合DNAであると推認できる。
イ 次に,リタックシートについてみると,前記2で述べたとおり,被害者の両手を圧着したリタックシートから被害者と被告人の混合DNAと考えて矛盾しない型のDNAが検出され,その出現頻度は,被害者の右手で約1万5000人に1人,左手で約2億2698万人に1人と算定された。
被害者の左手から検出されたDNA型についてみると,混合資料であるため本件たばこの吸い殻と比べると出現頻度は高いが,それでも確率は相当低い上,上記アと同様,本件当日被告人が被害者方を訪れていることからすると,被害者の左手に付着した混合DNAは,被害者と被告人の混合DNAといって差し支えない。
また,被害者の右手から検出されたDNA型についての出現頻度は約1万5000人に1人であるところ,被害者の左手のDNAが被告人と被害者の混合DNAだとすると,右手のDNAも同一人に由来すると考えるのが自然であるから,これについても被害者と被告人の混合DNAであると推認できる。
ウ これに対し,弁護人は,本件コードの結び目両脇及びリタックシートから検出された各DNA型について,被害者と被告人以外の複数名のDNAが組み合わさった可能性があると主張する。
しかしながら,理論上はそのような可能性があるとしても,実際にそのような事態が起きるとは考え難い。すなわち,第三者のDNAが混合しているのであれば,どこかの座位でその第三者特有のDNA型も検出されておかしくないのに,鑑定結果にはそれが全く検出されていない。念のため不詳となった座位についての波形チャートを見ても第三者特有のDNA型が検出されていない。そして,弁護人の主張に対する甲の説明を踏まえると,本件コードの両側及び被告人の両手のすべてにおいて,第三者のDNAが付着したのに,たまたま被告人と同じDNA型だけが都合よく検出され,当該第三者特有のDNA型が全く検出されないという偶然は,やはり相当に不自然というべきである。
なお,弁護人は,波形チャートを見ると,PCR増幅の副産物であるスタターでは説明できない箇所にピークが見られ,第三者複数名のDNAが混合した具体的可能性があると主張する。しかしながら,甲は,スタターは,本来ピークの一つ前の型に出るものの,本来のピークの後ろに出ることもあり得ると聞いている旨説明するところ,その証言内容等に照らして,その説明は信用できるといってよく,弁護人が指摘する箇所がスタターで説明がつかないものとは言い切れない。また,STR型検査法においては,人工的な副産物や電気泳動を行う際のノイズ等によって,DNAではないのに,細かい反応が出てしまうことがあることを前提として,フラグメントアナライザーの数値で150に満たないものは機械的にピークではないと扱うこととなっているところ,弁護人が指摘する箇所は150に達していない。そうすると,1つの座位で150に満たない反応が認められるからといって,これを別人のDNAに反応したものと考えるのは不合理で,弁護人の指摘は上記認定に疑いを差し挟むものとはいえない。
(2) 上記で検討した事情の評価
上記で検討したとおり,被告人が本件犯行当日被害者方を訪問し,かつ,凶器である本件コードの結び目両脇及び被害者の両手に被告人のDNAが付着していたと認められるところ,被告人が犯人でないのに,このような偶然が重なるというのは,検察官が主張するとおり,健全な社会常識に照らして,およそあり得ないというべきである。
そして,被告人においても,本件とは別の機会に本件コードに触れた事実を積極的には供述していない上,凶器となった本件コードの結び目付近は,犯人が首を絞めるときに持つであろう部分と整合していることからすると,本件コードの結び目両脇付近から被告人のDNAが検出されたことは,被告人が犯人であることを強く推認させる事実であると評価してよい。
また,通常手を洗うことで,付着物は洗い流されるから,手から他人のDNAが検出されるということは,近い時期にDNAが付着したと考えるのが自然である。被害者は,ヘルパーに対しても手を洗うように指摘したり,自らも手洗いの習慣があったというのであるから,被害者の両手から検出された被告人のDNAが本件とは別の機会に付着したものであるとは考え難い。そして,絞殺される被害者が,抵抗するため犯人の体に触れる可能性があると認められることに照らすと,被害者の両手から被告人のDNAが検出されたことも,被告人が犯人であることを強く推認させる事実であるというべきである。
なお,弁護人は,真犯人が,他人の犯行に見せかけるため,たばこの吸い殻を,本件コードや被害者の両手にこすりつけた可能性を指摘する。しかしながら,たばこの吸い殻にこすりつけたような痕跡が認められないことや,本件コード及び被害者の両手等から被害者と被告人以外の者のDNA型が検出されていないことからすると,弁護人が指摘するような偽装工作がなされた可能性などないと認められる。
5 被告人の捜査段階の不利益陳述及び公判供述について(争点1についての検察官の主張④及び⑤)
(1) 被告人は,公判廷においては,平成20年4月29日に被害者方に行った記憶はないと述べるものの,捜査段階においては,同日夜被害者方に行ったことを認める旨の供述をしていた。
弁護人は,捜査段階の供述は,被告人が,取調官から「DNAが出ているのだからお前以外に犯人はいない。」と言われるなど,被告人の言い分を聞かない取調べが行われたため録取されたものであるなどと主張し,任意性及び信用性を争い,被告人もこれに沿う供述をしている。
しかしながら,客観的な証拠関係を示して説明を求める取調べ方法自体は何ら不当なものではないし,前記のとおり,DNA型鑑定には十分な信用性が認められるのであるから,DNA型が一致していることを示して取調べを行っても,任意性に影響を与えるものとはいえない。また,被告人は逮捕当時79歳と高齢であるものの,取調べに耐えられないような疾患は認められないばかりか,取調べはさほど長時間にわたるものではなく,取調官が被告人から体調不良の訴えがあれば取調べを取りやめるなどしていることを踏まえると,被告人の捜査段階の供述が「任意にされたものではない疑い」はないというべきである。
また,被告人は,捜査段階において,「平成20年4月29日に日ごろ使用している銀色の自転車に乗って被害者方に赴き,門の前にこれを停めて,被害者方に上がり込んだ。同日,被害者方から帰宅途中,d橋を渡っていたところ,aまつりで揚げる凧の本部役員のCが,その日開かれていた会合を終えて帰ろうとしているところに出くわした。」などと,被害者方を訪れた状況を具体的に供述している。まず,Cに出くわしたとの点については,その後の捜査によって,aまつり本部凧揚部部員のCが平成20年4月29日午後6時から8時までの間,同部事務所での会合に出席した後,午後8時10分ないし15分ころ,d橋付近駐車場に赴き,同所から代行運転で帰宅している事実が判明して,被告人の供述が裏付けられている。また,被告人が同日夜に被害者方を訪問したとの供述部分は,被害者方居間にあったたばこの吸い殻の存在や被害者の両手から被告人のDNAが検出されたことと整合する上,被害者方の向かいに住んでいるDが同日午後7時ころ被害者方の前に銀色の自転車が停めてあったと証言していること(なお,弁護人は,同証言の信用性を争うが,Dは,買い物から帰宅する際,近距離から車のヘッドライトで照らして被害者方前に同自転車が停まっているのを見て,降車後も,普段点いていない被害者方の電灯が点いていたのでおかしいと思ってのぞき込むようにして同自転車の存在を確認したことや,その際,当日買った米が重かったことなどを具体的に述べているところ,同月29日午後6時39分ころ,米を購入していることはレシートという客観的な裏付け証拠があるから,日時の点を含めて,上記証言は信用できる。)とも矛盾しないことにも照らすと,同日,被害者方に行った旨の被告人の上記供述は,十分信用できるといってよい。
(2) また,被告人は,捜査段階において,検察官に対し,「平成20年4月29日夜,被害者方に上がり込み,居間で被害者と話をしていたところ,記憶がはっきりしないが,気が付いたら,被害者は座ったまま,テーブルの上にうつ伏せになっていた。それを見て,『あれっ,殺しちゃったのかなあ。俺が押さえ付けて殺しちゃったのかなあ。』と思った。私が被害者を殺したのは間違いない。」などと供述している。
被告人の上記供述は,断片的で,被害者を殺害した際の暴行態様についてもあいまいなものであって,これを有罪認定の決め手にすることはできない。
しかしながら,被告人自身,当公判廷において,「検察官は話をしやすい人であった」旨述べていることや,訂正箇所を指摘していること,被告人は,警察官による取調べにおいては主張すべきときは主張しており,特に迎合しやすいような性格であるとはうかがえないことなどからすると,被告人が被害者を殺害してもいないのに,殺害したことを認める供述をしたとは考えづらい。
そうすると,被告人の捜査段階の上記供述部分は,一定程度の信用性がある。
他方,「被害者を殺害していない」旨の被告人の公判供述は,質問のされ方によって殺害を認める供述内容と行きつ戻りつしながら,不合理に変わっており,信用できない。
(3) なお,被告人が当初,被害者の家に行ったこともないなどとうそをついていたことは被告人が犯行の発覚を免れようとする気持ちの表れと見ることもできるが,犯人であるかを検討する上で決め手になるような事情とは考えなかった。
6 まとめ
以上のとおり,被告人が犯行時間帯ころに被害者方を訪れていること,本件コード及び被害者の両手から被告人のDNAが検出されたことに加え,被告人の前記のような捜査段階の供述状況も併せ考えると,被告人が,被害者を殺害した犯人であることは常識に照らして間違いないといえる。
7 弁護人の主張を踏まえての検討
弁護人は,本件において,動機がないことを強調し,被告人は被害者を殺害した犯人であるとは考えられないなどと主張する。
確かに,本件現場から現金等が持ち去られた形跡はなく,本件犯行が金銭の取得自体を目的として行われたものであるとは認められない。
しかしながら,本件は,犯人が,被害者方居間の床に敷いてあるホットカーペットにつながっていた電気コードを凶器に用いている点,現場に指紋や自己の吸ったたばこの吸い殻を遺留している点などから,突発的犯行であると考えられる。そうすると,当初から金銭の取得等を目的として計画的に殺害に及んだ事案と比べて,深刻な動機が見当たらないことは,被告人が犯人であることを直ちに否定する事情とまではいえない。本件においては被告人が犯行を否定しているため,動機を断定することができないにすぎず,いずれにしても,動機がはっきりしないことが,被告人が犯人であるとの推認に疑いを入れる事情とはいえないというべきである。
また,弁護人は,被害者方には多くの人物が出入りの者として存在しているにもかかわらず,捜査機関はたばこのDNA型と不一致の人物については,動機やアリバイ等の捜査を十分行っておらず,被告人以外に犯行が可能な第三者が存在すると主張する。
しかしながら,弁護人の主張を踏まえても,前記のとおり,本件コードや被害者の両手に被告人のDNAが付着していると認められることや,被告人の供述内容に照らすと,被告人が本件の犯人であることに合理的な疑いを差し挟む余地はない。
第4被害者において殺害を依頼又は承諾していないと認められるか(争点2)
1 弁護人は,被害者が夫に先立たれひとり暮らしをし,口癖のように死にたいなどと述べていたことや,被害者の首には抵抗した痕跡がなく,本件コードが首に二重に巻き付けられ,二重目が一重結びにされていたこと,皮下出血が生じた時期が数時間の単位では特定できず,殺害の機会に生じたものとはいい切れないことなどの事情を挙げて,被害者が殺害されることを承諾ないし嘱託していた可能性があると主張している。
2 しかしながら,まず被害者の遺体の頭部,顔面,腕,胸,太腿等に多数の皮下出血があるところ,遺体を解剖した丙医師は,各所を切開して確認し,これらの皮下出血は比較的新しいもので,傷の状況から,被害者は殺害される過程でかなり抵抗したものと判断できるから,被害者の同意は全く想定しなかった旨証言している。また,前記Bは,被害者が怪我をしている様子はなかったと証言するところ,人目に付きやすい被害者の顔面の皮下出血にBが気が付かないはずがないこと,これだけ多数の皮下出血が,本件と無関係に各部位に生じたとは考えられないことからすると,少なくとも上記皮下出血の一部は,本件犯行ないしこれに対する被害者の抵抗の際に生じたと認められる。また,本件においては,床に這っていたホットカーペットコードを凶器に使い,服や頭髪まで巻き込んで,首を絞めているのであって,このような乱暴な犯行態様からしても,被害者が殺害されることを依頼,承諾していたとは考え難い。さらに,遺体は,首に本件コードが巻き付けられ,着衣も乱れたまま放置されているなど遺体の取り扱いが粗雑であることも,承諾又は嘱託殺人とはそぐわない。
なお,被告人は,公判廷において,被害者は「殺して」とか,「もうひと思いにやってください」などと言っていた旨供述する。しかしながら,被告人は,捜査段階において,「Aさんは,『Eさん,早く迎えに来てよ。』とは言っていましたが,殺してよとは言っていませんでした。そんなことを言ったとしたら,むしろ,何を馬鹿なことをと言ってやったはずです。」などと殺害を依頼されたことを明確に否定していたことや,上記公判供述は内容自体あいまいなものであることからすると,殺害を依頼されたことがある旨の被告人の公判供述は,到底信用できない。
3 これらの事情に照らすと,被害者において殺害を依頼又は承諾していないことは優に認められる。
第5結論
以上検討したとおり,被告人に対しては,殺人罪が成立する。
(法令の適用)
罰条 刑法199条
刑種の選択 有期懲役刑を選択
未決勾留日数の算入 刑法21条
訴訟費用の不負担 刑事訴訟法181条1項ただし書
(量刑の理由)
1 本件は,被告人が,知人女性をホットカーペットのコードで絞殺したという,殺人の事案である。
2 検察官は,論告において,被告人に不利な事情,すなわち,(1)結果の重大性,(2)犯行の残虐性,(3)犯行の卑劣さ,(4)犯行後の態度の悪質性,(5)反省の欠如,(6)遺族の処罰感情の厳しさといった各事情に照らすと,被告人に有利な2つの事情,すなわち,前科がないことと高齢であることを考慮しても,懲役18年が相当と主張している。
そこで,以下,論告で挙げられた各事情を順次検討し,被告人を主文の刑に処した理由について説明する。
3(1) まず,結果についてみると,人の死亡という結果が極めて重大であることはいうまでもない。
(2) 犯行の残虐性についてみると,被告人は,被害者の首にホットカーペットのコードを二重に巻き付けた上,二重目のコードを一重結びにするなどして強く絞め付けることにより,被害者を窒息死させており,突発的であるが強い殺意に基づく犯行と認められる。また,被害者の遺体には多くの皮下出血があることなどにも照らすと,被告人の手により突然その命を奪われた被害者の肉体的,精神的苦痛は察するに余りあり,残虐な犯行と認められる。
なお,犯行に至った理由について検討すると,既に述べたように,本件証拠上,動機ははっきりしないが,金銭を目的に計画的に殺人に及んだり,わいせつ目的で犯行に及んだりした事案とは認められない。また,犯行のきっかけについて更に検討すると,被害者が亡夫の遺影に向かって「早く迎えに来て」と日ごろ口にしていたのを被告人が聞いていたことは認められる。しかしながら,被告人自身法廷において,「そのような被害者の姿を見ても何とも思わなかった」旨供述している部分があることからすると,被告人が被害者を哀れに思ったことが犯行のきっかけになったとは考え難い。本件は,犯行態様等からみて,被告人が何らかの原因で被害者に立腹したことがきっかけとなったと考えられる。
(3) 犯行の卑劣さについてみると,検察官は,高齢の女性という弱者を犯行の対象としている点が卑劣であると主張するが,本件があえて高齢者を狙った犯行というわけではないこと,被告人も被害者と同様高齢であったこと,被害者も身体が特別不自由であったわけではないことに照らすと,必ずしも検察官の主張するように卑劣な犯行とまでは評価しなかった。
(4) 犯行後の態度の悪質性及び反省の欠如についてみると,被告人は,被害者を殺害したにもかかわらず,法廷において平然と犯行を否認する態度をとり,被害者に謝る気持ちはないとまで述べていることに照らすと,やはり反省心は大きく欠如しているといわざるを得ない。
(5) 遺族の処罰感情の厳しさについてみると,遺族に対する謝罪は何らなされておらず,処罰感情が厳しいのは当然である。
(6) 前科のないことについてみると,それは,一般社会においてはむしろ通常のことであるから,特に有利に考えるべき事情とはとらえなかった。
(7) 高齢であることについてみると,被告人は,現在80歳と高齢であり,再度犯行に至る可能性も大きくないことなどは,有利に考慮することができる。
4 以上検討した諸事情を踏まえると,被告人の刑事責任は重く,同種事案の量刑傾向も考慮すると,主文の刑に処するのが相当である。
(求刑-懲役18年)
(裁判長裁判官 北村和 裁判官 長谷川秀治 裁判官 尾藤正憲)