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静岡家庭裁判所浜松支部 昭和42年(家)353号 審判 1967年11月11日

申立人 高梨洋治(仮名) 外一名

事件本人 高梨明(仮名) 昭和三九年四月五日生

主文

事件本人の親権者を申立人高梨洋治と定める。

理由

一、本件申立の要旨は、

申立人らは、昭和三八年二月一五日婚姻し、その間に昭和三九年四月五日事件本人を出生したが、このたび協議離婚の合意が成立したけれども、双方共に事件本人の親権者となることを主張して協議が調わないので、申立人らのうち何れかを事件本人の親権者に指定されるよう本申立をした。

というのである。

二、当庁昭和四〇年(家イ)第三四号離婚調停事件、同四一年(家イ)第一二六号離婚調停事件、本審判事件の各記録とこれに綴つてある各戸籍謄本、除籍謄本、調停調書、家庭裁判所調査官長井秀夫作成の調査報告書の各記載に、家事審判官の申立人ら両名、高梨義市、高梨まさ子、山本俊一、山本くに、山本明晴、各審問の結果を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  申立人洋治は、農業を営む父山本俊一、母くにの二男(四男一女中第二子)として出生、小中学校を卒業、農業高校へ進学したが腎臓病のため一年で中退し、その後は、家業の手伝い長距離トラック運転手を経て○○保健所自動車運転手となり現在に至つているが、その間、昭和三八年二月一五日申立人恵美子と見合いにより婚姻した。

(二)  申立人恵美子は、当時浜松市内で○○商を営んでいた父高梨義市、母まさ子の長女(一子)として出生したが、戦災により両親が父の郷里である磐田郡○○村へ疎開して農業に従事するのに従い、一六歳頃まで同所で生育し、その間小、中学校を終えて服装学院二年を修業し、その後父が現住所で卵屋を開業と共に父と同居(母は従前の住所に別居)して家事の手伝いをしていたが、昭和三五年三月二五日高梨廉と婚姻、同人との間に昭和三五年七月二七日長女実奈子を出生後、同年一一月二日右廉とは協議離婚をし、その際右実奈子は申立人恵美子が親権者となり養育したが、同三六年三月一五日急性肺炎により死亡し申立人恵美子はその後前記のとおり申立人洋治と婚姻した。

(三)  婚姻後申立人らは、申立人恵美子の父と同居して共同生活を営み、その間に昭和三九年四月五日事件本人を出生し、また、別居中の母まさ子も同居するようになつたが、申立人洋治は帰宅時間も遅くなり、給料等も家計へ全然入れないことから申立人恵美子は申立人洋治の反対を押し切つて、日本楽器工員として働きに出るようになり、それらのことから夫婦間に争いを生じ、ついに申立人恵美子は、昭和四〇年三月一三日離婚の調停申立(当庁昭和四〇年(家イ)第三四号離婚調停事件)をするに至りその結果、両親と別居するということで調停を取り下げ、申立人らは事件本人と共に昭和四〇年六月から○○市○○所在の○○保健所の官舎で生活するようになつた。

しかし、申立人洋治はその後においても申立人恵美子に十分な生活費を渡さなかつたため、申立人恵美子は事件本人を保育園へ預けてまでも再度働きに出ようとしたことから争いとなり、結局、昭和四一年六月一六日申立人恵美子は事件本人を申立人洋治の許へ置いたまま両親のところへ逃げ帰り、その儘別居を続けて現在に至つており、その間昭和四一年八月一五日申立人恵美子から離婚の調停申立(当庁昭和四一年(家イ)第一二六号)がされた。

(四)  右調停においては、申立人らは離婚については合意に達したが事件本人の親権者の指定については昭和四一年九月五日から同四二年二月一三日まで前後六回の調停が試みられたが、双方共に親権者となることを主張して譲らないため、協議が纒まらず結局昭和四二年二月一三日の調停期日において、「事件本人の親権者は審判の定めるところによる。同審判により何れが親権者に指定されても互いに事件本人の扶養料中他方の負担部分につき支払を請求しない。ただし、同審判において申立人恵美子が親権者に指定された場合には申立人恵美子は申立人洋治に対し昭和四一年六月一六日以降事件本人の引渡に至るまでの間一ヵ月金五、〇〇〇円の割合による立替扶養料を事件本人の引渡と引換に支払う。そして同審判確定次第協議離婚の届出をする。」ことを内容とする合意が成立し、これに基いて同日申立人らから本申立がされたものである。

(五)  ところで、申立人洋治は、○○保健所に自動車運転手として勤務し、月収約三万円を得ているが、資産はなく、父が末弟名義で建設した家に居住し、昼間勤務の際には事件本人を両親に託して夜間のみ就寢を共にしているが、事件本人に対する情愛深く今後も親権者となつて事件本人を養育することを切望しており、また、その両親らも申立人洋治の前記勤務中における事件本人の一切の世話をみ、かつ、将来申立人洋治のため一戸を建設して生活の安定を図るべく計画するなどして申立人洋治の事件本人に対する養育に十分な協力を惜まず、万一申立人洋治において事件本人の養育困難の事態に至つた場合には両親らにおいて責任をもつて養育する覚悟でいることを披瀝している。また、申立人恵美子は、○○○○株式会社へ縫製工として勤務し、月収約一八、〇〇〇円を得ているが、二、三年後には退職して家業の手伝いをすることとし、再婚をしないで事件本人の養育に専念し、事件本人を立派な人間に育てることを切望し、その両親らにおいても、右のような申立人恵美子の事件本人の養育に関して十分協力する意思でいることを述べている。

三、以上の認定事実に基いて何れが親権者になることが事件本人の福祉に適合するかを比較考察し、殊に事件本人は昭和四一年六月一六日以降申立人洋治の手許にあつて同人やその父母達の愛情と庇護の下に養育されてきて、よくなついており、相互に愛着の度が強く離れ難いものになつてきているのに反し、申立人恵美子との間には前期の期間中、あまり面接交流がされていないなどの事情の下において、事件本人を申立人洋治から離して申立人恵美子の許に移し、同申立人をして監護養育させることの方がより以上事件本人の福祉となる特段の事情の認められない現段階においては申立人洋治を親権者に指定し同申立人に監護養育させることが事件本人の福祉のために相当であると考える。

よつて、参与員中村清次郎、同林ひでを本件審問に立ち合わせてその意見を聴いたうえ、主文のとおり審判する。

(家事審判官 久利馨)

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