静岡家庭裁判所熱海出張所 昭和48年(家)34号 審判 1974年5月29日
本籍・住所 静岡県熱海市
申立人 井野彰子(仮名)
主文
申立人の氏「井野」を「アース」と変更することを許可する。
理由
(申立の要旨)
1 申立人は、昭和三〇年二月頃からアメリカ合衆国国籍で同国オレゴン州に在籍するマイケル・アースと事実上婚姻し、昭和四〇年六月二六日同人との間に女子井野レイを出生し、同年一一月一七日申立人と右マイケル・アースとは婚姻の届出をし、同日マイケル・アースは右レイを認知する旨の届出をしたが、これらの届出により申立人とレイとの氏には変更はなかつた。
2 申立人は、歯科衛生士をしているが、職業上も友人との間でも「アース彰子」という氏名を使用しており、その氏名で通用している。また、前記井野レイは、熱海市立第○小学校に在学しているが、「アース・レイ」という氏名を使用しており、その氏名で通用している。
3 しかしながら、申立人は、戸籍上の氏名と通称とが異り、かつ戸籍上の氏が夫と異るため、公けの手続や海外旅行に際して種々の不便があり、不愉快な思いをすることが多い。ことに、海外旅行の際夫と同室に宿泊するのに支障がある。また、前記井野レイは、戸籍上の氏名と通称とが異るため、公けの手続に際して種々の不便がある。
4 もともと、申立人がマイケル・アースとの婚姻によりどのような氏を称するかは、法例一四条、二七条三項により夫の本国法であるアメリカ合衆国オレゴン州法によつて決すべきところ、同州法においては、婚姻により妻は夫の氏を称するものとされているから、申立人としては、夫の氏である「アース」を称することができたはずであり、また、申立人ら夫婦も、それを切望していたものである。
ところが、日本の戸籍実務は、それを認めず、外国人男子と婚姻した日本人女子は、婚姻前の氏を称するものとしているため、申立人は、夫の氏である「アース」を称する途を閉ざされ、夫と異る氏名を称することをよぎなくされたものである。
5 よつて、申立人の氏「井野」を「アース」に変更するについてやむを得ない事由があるから、その許可を求める。
(当裁判所の判断)
1 当裁判所が審理した結果、ことに本件記録中の家庭裁判所調査官竹口博康の調査報告書、申立人審問(二回)の結果によると、次の事実を認めることができる。
(1) 申立人は、昭和五年五月二二日、父井野啓也、母井野トヨの長女として出生し、本籍北海道○○郡○○町大字○○町○丁目○○番地筆頭者井野啓也の戸籍に在籍していたものであるが、昭和三〇年頃からアメリカ合衆国国籍を有するマイケル・アース(一九二六年二月一四日生)と事実上の夫婦として同棲し、昭和四〇年六月二六日同人との間に女子井野レイを出生し、同年七月六日その旨の届出をし、同月一七日上記本籍と同番地に申立人を筆頭者とし井野レイを同籍とする新戸籍が編製された。
(2) 申立人および前記マイケル・アースは、昭和四〇年一一月一七日婚姻の届出をし、またマイケル・アースは、同日前記井野レイを認知する旨の届出をしたが、右婚姻の届出の際、申立人およびマイケル・アースは、申立人の称すべき氏の届出はせず、右婚姻によつても、申立人の氏には変更はなかつた。
申立人は、昭和四六年四月二二日、熱海市○○町○番地に転籍する旨の届出をした。
(3) 申立人は、昭和三三年日本女子衛生短期大学を卒業し、昭和三五年歯科衛生士の免許を受け、その後日本大学歯学部等において歯科衛生士として勤務し、その間日本歯科衛生士会副会長等を歴任し、現在はフリーの歯科衛生士として歯科衛生士の教育、歯科衛生に関する講演等に従事している者であるが、マイケル・アースと同棲した直後頃から、職業上はもとより、一般私生活においても、「アース彰子」という氏名を用いており、公けの関係においてのみ戸籍上の氏名を用いている。また、前記井野レイは、昭和四七年四月熱海市立第○小学校に入学し、現在同校に在学中であるが、一般私生活においても、学校内においても、通常は、「アース・レイ」という氏名を用いている。
(4) 申立人は、戸籍上の氏名と通称が異り、かつ戸籍上の氏が夫の氏と呼称を異にしているため、公けの手続や海外族行に際して種々の不便があり、不愉快な思いをすることが多い(ことに海外旅行の際夫と同室に宿泊するのに支障がある。)。また、前記井野レイも、戸籍上の氏名と通称が異るため、公けの手続に際して種々の不便がある。
(5) 申立人および夫であるマイケル・アースは、いずれも、婚姻当時から現在まで、申立人がその氏を「アース」と変更することを希望している。
2 そこで、申立人に氏の変更をするについてのやむを得ない事由があるかどうかについて検討する。
(1) まず、申立人は本来マイケル・アースとの婚姻の際夫の氏と呼称を同じくする氏を称することができたのにもかかわらず夫の氏と呼称を異にする氏を称することをよぎなくされたという事情があつたかどうかについて考察する。
一般に日本人女子が外国人男子と婚姻した場合妻がどのような氏を称するかについては、婚姻の効力の問題であるとして法例一四条により夫の本国法(ただし、反致が認められるときは、日本法)によつて決すべきであるとする説が有力であるが、もともと婚姻の効力について夫の本国法を優先させる法例一四条の考え方は現在文明諸国において広く認められ日本国憲法二四条にも定められている両性平等の思想とは親しまないものであるから、その適用を婚姻の本質的効力で夫婦について合一的に決定する必要のある事項に限るのが相当であるところ、妻がどのような氏を称するかは、婚姻の本質的効力でもなく、また夫婦について合一的に決定する必要のある事項でもなく、むしろ妻個人の人格権である氏名権の問題と考えられるから、妻自身の本国法である日本法によつて決すべきものと解するのが相当である。
もつとも、右のような婚姻の場合妻がどのような氏を称するかについての日本法の定めは明確を欠くが、民法七五〇条が夫の氏を称するか妻の氏を称するかを婚姻の際の夫婦の選択に委ねている趣旨から考えると、右のような婚姻の場合においても夫婦は妻が夫の氏と呼称を同じくする氏を称するか従来の氏を称するかを婚姻の際に選択することができるものと解するのが相当である。
そうであるとすれば、申立人の場合においても、申立人ら夫婦において婚姻の際に申立人が夫の氏と呼称を同じくする氏である「アース」を称することを選択することができたものと認められる。
しかしながら、以上のような解釈は、一般的に確立されているものではなく、市町村長の従来の取扱としては日本人女子が外国人男子と婚姻した場合妻の氏は変更されないと解していることは、顕著な事実であるから、申立人ら夫婦において婚姻の際に申立人が夫の氏と呼称を同じくする氏である「アース」を称するための法的手段をとることは事実上困難であつたものと認められる。
すなわち、申立人は本来マイケル・アースとの婚姻の際夫の氏と呼称を同じくする氏を称することができたのにもかかわらず夫の氏と呼称を異にする氏を称することをよぎなくされたものというべきである。
(2) 申立人が夫の氏と呼称を異にする氏を称しているため申立人が種々の不利益を受けていることは、前段認定のとおりである。右(1)(2)を考えあわせると、申立人は、従来の氏「井野」を「アース」に変更するについてやむを得ない事由があるものというべきである。
3 なお、静岡家庭裁判所熱海出張所昭和四四年(家)第六五号氏の変更許可申立事件記録によると、申立人は、昭和四四年五月八日同裁判所に対し、申立人がアメリカ合衆国国籍のマイケル・アースと婚姻したこと、夫と氏を異にするため多くの支障があることなどを理由として申立人の氏を「アース」に変更することについての許可を求める申立をしたが、同裁判所は、昭和四四年一一月一二日、右変更は申立人らが生活している日本国の国情にあわないなどの理由で右申立を却下する旨の審判をし、右審判は、同月二七日確定したことが明らかであるが、氏の変更許可の申立を却下する審判は、いわゆる既判力を有するものではなく、裁判所は、すでに確定した審判が存在する場合であつても、重ねて実体的審判をすることができるものと解せられるから、当裁判所が前記却下された申立と同様の理由による本件申立を認容することはさしつかえないものというべきである。
4 よつて、主文のとおり審判する。
(家事審判官 山本一郎)