高松高等裁判所 昭和28年(う)470号 判決
論旨は本件は不能犯であるに拘らず原判決が殺人未遂と認定したのは違法であると謂うのである。仍て考察するに本件は原判決認定の如く被告人が原美代子殺害の目的で同女方に置いてあつた約三百二十瓦の白湯在中の真鍮製薬罐に濃度三三%の工業用塩酸十一・一瓦位を、約二百七十瓦の茶湯在中の琺瑯引鉄製薬罐に前記塩酸五、四瓦位を夫々注ぎ込んだ事案であるところ、鑑定人松倉豊治作成の鑑定書並に警察技官鴻海左九三、同松木新一作成に係る鑑定書に徴すれば、普通濃塩酸と称せられるもの(塩化水素三〇%以上)の成人に対する致死量は普通約一〇瓦とされていること従て前記真鍮製薬罐に注入された塩酸はその絶対量において普通一般の致死量に達していること明かである。しかし右鑑定人松倉豊治の鑑定書によれば濃度三三%の塩酸十一・一瓦が三百二十瓦の白湯中に混合せられた場合は濃度約一・一一%の稀薄な液となるためその全量三百二十瓦が飲用せられたとしても直ちに致死的に作用するものとは考えられない旨の記載が存するけれども、原判決も説示する如く凡そ薬品等の致死量は飲用する人の年齢、体質、栄養、その時の身体状況等により個人間に甚しい差異があるものであり(右松倉豊治の鑑定書中にもこのことが例を挙げて説明され、十五歳の娘が約四瓦の飲用により死亡したことがあることも窺はれる)。本件行為が不能犯なりや否やを決するに当つても普通一般の致死量のみを基準として断定を下することは妥当でないと謂はなければならない。而して右松倉豊治の鑑定書の外前掲鴻海左九三外一名の鑑定書及び鈴木義雄の検察官に対する供述調書等をも考慮に容れて判断するに真鍮製薬罐に入つている前記分量の白湯に前記分量の濃塩酸が注入されたものを何人が飲用しても絶対に死の結果発生の危険がないものとは到底考えられない(本件の場合は容器が真鍮製であるため銅と亜鉛の合金である真鍮に塩酸が作用し有毒な塩化銅塩化亜鉛を生ずることも考慮に加えなければならない)。尚右松倉豊治の鑑定書中に本件稀釈せられた塩酸液もその酸味はかなり強く若干の局所刺戟作用も存する濃度であるから通常の味覚嗅覚を有する者では到底何等異常を感ぜずして多量にこれを飲用し得るものではない旨の記載のあること所論の通りであるけれども、右もまた通常の場合を前提とした鑑定であり、本件の如き塩酸入湯茶はこれを多量に飲用するおそれは少いとしても何人も絶対にこれを多量に飲用することはあり得ないと断ずることはできない。これを要するに不能犯とは行為の性質上結果発生の危険性が全然ない場合を謂うものであること原判決説示の通りであり(最高裁判所昭和二五年(れ)第八五八号同年八月三一日判決参照)、被告人の本件行為は敍上説示の如く死の結果発生の危険が絶対にないとは認められないから不能犯を以て論ずることはできない。論旨主張の諸点を十分考慮に容れても原判決がこれを障碍未遂と認定したのは蓋し相当であつて論旨は採用し難い。