高松高等裁判所 昭和36年(ネ)249号 判決 1964年1月31日
控訴人
松下真千子
右訴訟代理人弁護士
宇野秀義
被控訴人
信吉忠義
右訴訟代理人弁護士
細木歳男
主文
原判決を取り消す。
被控訴人の請求をすべて棄却する。
訴訟費用は第一、二審分とも被控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は主文と同旨の判決を求めた。
被控訴代理人は控訴棄却の判決を求め、請求の原因として、「控訴人は自己の夫の母たる松不為井に対し、同人が控訴人の氏名を用いて銀行と当座預金取引をなし、小切手や手形を振り出すことを許諾していたので、松下為井は昭和三四年三月六日頃、金額一五万円、支払期日同年四月二五日、支払場所高知相互銀行東支店、支払地及び振出地高知市、振出日同年三月六日、振出人松下真千子とし、受取人欄を空白にした白地式約束手形一通(以下本件手形という。)を訴外井上道男に交付して振り出した。同人は同年三月下旬頃被控訴人に対し本件手形の割り引きを求めたので、被控訴人はこれを割り引いて譲り受けた。被控訴代理人は本件の訴提起後の昭和三五年七月一三日に本件手形の受取人欄に被控訴人の氏名を記入して補充し、被控訴人は現に本件手形を所持している。
右振り出しの事実は控訴人が松下為井に対し控訴人の署名を代行して手形を振り出す包括的代理権を与え、松下為井がその権限に基づいて本件手形を振り出したものにほかならない。
仮りにそうでないとしても、松下為井は控訴人の許諾に基づき控訴人の氏名を用いて本件手形を振り出したのであるから、商法第二三条の類推解釈、取引の安全を保護すべき法理並びに禁反言の法理に照らし、控訴人は本件手形の振出人たる責任を免かれない。
それ故、被控訴人は控訴人に対し本件手形金並びにこれに対する、右手形完成後請求の趣旨及び原因を手形金請求に変更した準備書面が控訴人に送達せられた日の翌日たる昭和三五年七月一五日以降商法に定められた年六分の割合による遅延損害金の支払いを求める。」と述べた。
控訴代理人は答弁として、「被控訴人の主張事実のうち、松下為井が控訴人の夫の母であること、被控訴人主張のとおりに控訴人が氏名使用を許諾したこと、松下為井が右許諾に基づいて被控訴人主張の日頃本件手形を作成して訴外井上に交付したこと、被控訴人の主張どおりに本件手形の白地が補充されたことはいずれも認めるが、その他の事実は争う。
被控訴人は松下為井が控訴人を代理して本件手形を振り出したと主張するけれども、控訴人には自己のために松下為井を使用して手形を振り出させる意思はなく、本件手形は松下為井が自己のために振り出したものであるから、これを代理による振り出しと解することはできない。松下為井は自己の別名として松下真千子という氏名を本件手形に署名し、自己の印章を押捺したのであるから、本件手形の振出人は松下為井であつて控訴人ではない。
また、松下為井は本件手形を訴外井上に取得させたのではなく、割り引きの仲介を依頼して交付したにすぎない。そして訴外井上は訴外和田繁中に割り引きを求めて本件手形を交付しておいたのである。被控訴人は本件手形を割り引いたことはなく、訴外井上から譲り受けたこともなく、訴外和田から本件手形の取立訴訟を委任せられているにすぎない。」と述べ、
抗弁として、「仮りに、本件手形取得の経路が被控訴人の主張するとおりであるとしても、訴外井上はもとより、被控訴人も本件手形の松下真千子という署名が松下為井の別名であつて、振出人は松下為井であり、控訴人でないことを知つて本件手形を取得したのであるから、控訴人は本件手形の振出人たる責任を負わない。(控訴代理人は訴外井上の悪意については明らかには主張しなかつたけれども、その弁論の全趣旨から右のように解することができる。)
また仮りにそうでないとしても、被控訴人は控訴人には勿論、松下為井または訴外井上に対しても本件手形を割り引いた金員を交付していないから、控訴人は本件手形金の支払義務を負わない。」と述べた。
被控訴代理人は右抗弁に対し、「その事実をすべて否認する。被控訴人は本件手形取得の際、松下為井が本件手形金を支払う意思を有することは知つていたが、控訴人も当然振出人としての責任を負うものと信じていたのである。また被控訴人は訴外井上に対して本件手形の割引金を支払つており、従つて仮りに、同人が松下為井から割り引きの仲介を委任せられた者であり、かつ、控訴人が割引金を受領していないとしても、松下為井が控訴人の代理人であるかぎり、控訴人は本件手形金の支払義務を免かれない。」と述べた。
(証拠省略)
理由
控訴人が松下為井に対し控訴人の氏名を用いて手形を振り出すことを許諾していたこと、その許諾に基づいて松下為井が昭三四年三月六日頃本件手形を作成して訴外井上に交付したことは当事者間に争いがない。
被控訴人は右許諾は控訴人の署名を代行する方法で手形を振り出す包括的代理権を与えたものにほかならない旨主張するけれども、凡そ、他人に対し自己の署名を代行する方法で法律行為をなす権限を与えることは(その他人が代理人であるか機関であるかを問わず)、自己のためにする意思、すなわち自己がその行為の主体であるという意思の存在を要素とするのに対し、他人に対し、単に自己の氏名を用いて法律行為をなすことを許諾することは右の意思を欠いているから、両者は観念的にも異なるといわなければならない。のみならず、控訴人が松下為井に対して控訴人のために手形を振り出す権限を与えたことを認めるべき証拠もなく、かえつて、(証拠)を総合すれば、松下為井は料理店を営んでいるところ、税金などの関係で銀行との取引並びに小切手や手形の振り出しにつき他人名義を使用するのを便宜と考えて控訴人の氏名を借用していたにすぎないこと、松下為井は本件手形の振出人名下には控訴人の印章でなく、自己の印章を押捺したこと、従つて、控訴人が松下為井に対し控訴人の署名を代行する方法で本件手形を振出す権限を与えたことはなかつたことを認めることができ、これに反する証拠はないから、被控訴人の前示主張は採用することができない。
しかしながら、民法第一〇九条及び商法第二三条の各規定の趣旨を類推すれば、他人に対し自己の氏名を用いて法律行為をなすことを許諾した者は、その許諾に基づいてなされた法律行為の相手方が許諾者の法律行為であると過失なくして信じたときにかぎり、相手方に対しその行為の主体としての責任を免かれないものであり、その法律行為が本件のように手形の振り出しであるときは右の相手方は振り出しを受けた者、すなわち振出人から直接手形を取得した者に限定せられると解するのが相当である。
ところで、被控訴人は本件手形は訴外井上に対して振り出され、被控訴人は同年同月下旬頃同訴外人から譲り受けたと主張するのに対し、控訴人はこれを否認するとともに、仮りに被控訴人主張どおりの取得経路であつても、右取得者等はいずれも本件手形の振出人が控訴人でなく、松下為井であることを知つて取得したから控訴人は振出人としての責任を負わない旨抗争しているので、右取得の経路の認定はしばらく措き、被控訴人主張どおりの取得経路であつたことを仮定した上で、右抗弁の当否を考察する。
(証拠)及び口頭弁論の全趣旨によれば、訴外井上は松下為井から本件手形の交付を受けた際、同手形の振出人が控訴人ではなく松下為井であることを知つていたことを認めることができ、これに反する証拠はないから、控訴人はもはや何人に対しても本件手形の振出人としての責任を負わないものであり、控訴人の抗弁は理由があるといわなければならない。
なお仮りに、自己の氏名を使用して手形を振り出すことを許諾した者は振り出しを受けた者、すなわち振出人から直接当該手形を取得した者が善意無過失でないばあいでも、善意無過失の転得者に対して振出人としての責任を免かれないと解すべきであるとしても、本件においては、控訴人は被控訴人に対しても本件手形につき振出人としての責任を負わないというべきである。その理由は次のとおりである。
(証拠)を総合すれば、被控訴人は控訴人の資産等の信用状態は知らなかつたが、松下為井には、かつて、被控訴人経営の会社が金銭を貸し付けて弁済を受けたことがある関係から、松下為井を被控訴人の営む金融業の顧客として信用していたこと、松下為井は本件手形の振り出しに先立ち、昭和三四年二月一六日頃本件手形と同様振出人として控訴人の氏名を記載し、支払期日を同年三月一七日及び同年四月一七日とする約束手形各一通を振出したこと、被控訴人は右各手形の割り引きを求められた際松下為井に対し同人が振出人として責任を負うかどうかを照会したところ、松下為井は控訴人の氏名を借用して自己が振出したものである旨答えたこと、被控訴人は右各手形を割り引き、その後松下為井から右各手形金の支払いを受けたこと、被控訴人が右各手形を割り引いたのは昭和三四年二、三月頃であること、被控訴人は右の支払期日を同年三月一七日とする手形の手形金が完済せられ、右の支払期日を同年四月一七日とする手形の手形金が完済に至らない間である、同年三、四月頃本件手形を入手したことをそれぞれ認めることができ、(証拠)中右認定に反する部分は容易に信用し難く、他に右認定をくつがえすだけの証拠はない。
右認定の事実と前示の仮定した被控訴人主張の本件手形取得経路とを合せて考えると、被控訴人は前認定の手形割引に接近した時期に本件手形を割り引いたこととなり、従つて、被控訴人は前認定の各手形と同様本件手形も専ら松下為井によつて支払われることを期待して、これを割り引いたのであつて、これらの手形はいずれも松下為井が自己のために控訴人の氏名を借用して振り出したものであることを知つていたことを容易に推認することができ、これに反する証拠はないから、控訴人の抗弁はやはり理由があるといわなければならない。
なお、また、仮りに、被控訴人が松下為井から直接本件手形を取得したものであつたとしても、右認定のとおり、被控訴人は、本件手形取得当時、控訴人が本件手形の振出人でないことを知つていたのであるから、前段説示の民法一〇九条等の類推適用に関する法理に照らし、控訴人は被控訴人に対し本件手形の振出人としての責任を負わないことが明らかである。
従つて、右責任の存在を前提とする被控訴人の本件請求はその他の争点を判断するまでもなく、すべて失当である。これを認容した原判決は不当であるから、これを取り消し、本件請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。(裁判長裁判官安芸修 裁判官東民夫 水沢武人)