高松高等裁判所 昭和48年(う)160号 判決 1975年2月12日
主文
原判決を破棄する。
被告人を禁錮八月に処する。
但し本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
本件公訴事実中放火の点については、被告人は無罪。
理由
<前略>
所論はいずれも放火罪につき事実誤認を主張し、被告人は原判示第一の放火をしたことはなく、この点につき無罪である、として原判決の被棄を求める外、弁護人市原庄八同木原主計は、仮に右放火が有罪であるとしても原判決の量刑は不当である旨主張し、また弁護人山本将憲は、原判決は、本件放火の手段方法を明確にする適確な証拠がなく、その具体的な内容を明らかにし得ない、としながら、原判決挙示の証拠により認定し得る間接事実の積み重ねにより被告人の放火行為を認定し得ると強弁しているが、右は審理不尽の結果明確な証拠がないのに被告人を放火犯人となし、有罪と断定したものであり、擬律錯誤の重大な違法がある旨主張している。
そこで当裁判所としては、右控訴趣意中弁護人山本将憲の最後の主張は、刑訴法三七八条四号の事由を主張しているものとも解せられるので、まず原判決に理由不備の違法があるかどうかにつき検討する。
原判決は、判示第一において、被告人が、昭和四三年九月九日午後八時すぎころ、愛媛県温泉郡川内町大字松瀬川甲一六四番地一木造スレート瓦葺平屋建(建坪84.05平方メートル)の自家(妻テル子、孫明徳が同居)西側の北六畳間押入部分ないし八畳間仏壇のあいだに火を放ち、もつて同日午後一〇時すぎころ、これを全焼させて焼燬した旨認定判示している。そこで問題は、原判決が本件放火の方法として、単に刑法一〇八条の「火ヲ放チ」という文言をそのままに「火を放ち」と判示するにとどまり、その内容を具体的に認定判示していないことが、果して有罪判決の「罪となるべき事実」の摘示として適法であるかどうかである。
おもうに有罪判決の理由として「罪となるべき事実」の摘示が要求されるのは、それが実体法適用の根拠となり、その適用により主文の刑が導かれるからである。従つてそれは犯罪の特別構成要件に該当する具体的事実を摘示しなければならない。そして犯罪の手段方法は、犯罪の実行そのものであり、その摘示にあたつては、少なくとも判示された行為が、右特別構成要件にいう犯罪の実行行為の概念に該当するところの実質内容を具備した行為であることが認められる程度に判示すべきである。
ところで火を放つて、放火の対象物を全焼させたような場合には、「火を放ち」という単なる判示では、いかにも抽象的で不十分であるとの感はあるが、とにかくその行為により全焼という結果が発生したのであるから、その行為は目的物件につき独立燃焼を生ぜしめるだけの原因力をもつた行為であることが推測され、同時に判決に掲記する証拠によりその手段方法が明らかである限り、放火罪の事実摘示として最少限度の要求をみたしていると考えられる。しかし他方、証拠がないため放火の手段方法が判明しない、ということになると、果してその火災が、当該被告人の放火行為によるものかどうかにつき疑問を生じ、この疑問を解消させ、それが被告人の放火行為によるものであることを納得せしめるに足る他の何らかの判示が必要であることは、判決の理由表示が裁判所及び被告人に保障的機能を持つていることより当然のことである。
さて本件に適切な先例は見当たらないが、検察官がその先例とする高松高等裁判所第三部昭和二八年九月七日言渡の判決は「総べての証拠を以てするも、被告人が右伊藤糸野の住宅のどの部分に如何なる方法で放火したかは判明しないが、証拠によつて認められる当夜の被告人の言動その他によつて、右住家の焼失が被告人の放火に因るものであることは明らかに認められるのである。かかる場合被告人の右放火の事実を判示するに当りその手段方法を判示する術なく、これを判示しないからとて、判決に理由を附せない違法があるとは言いえないのである。」と述べ、理由不備の論旨を排斥しているのである。しかし右判示のいう「当夜の被告人の言動」というのは、同判決によると「被告人は、火災当日の午後一〇時頃、長尾幸次郎方で約一升以上も飲酒し、伊藤糸野(被告人と夫婦仲がまずくなり離別した美恵子の母)方に行つたところ、寝床で新聞を読んでいた同女が被告人を避けるようにして出て行つたので当時心神耗弱状態にあつた被告人は憤慨して、同家三畳間の壺を打ち倒し座布団を台所の方に投げ同家に放火し、その附近を歩き廻りながら、消火に従事している人々に対し俺が建てた家を俺が焼くのだから消すなと騒ぐうち泥谷数男巡査に逮捕せられた。」という事実である。そして「放火の手段方法を判示しなくても判決に理由を附せない違法があるとは言えない」とする前記判示も、右のような同事件の特質から考えればこれを是認できるであろう。
何となれば、同事件においては、当該火災に接着した時点における被告人の具体的行動が明らかとなつており、その事実等により、被告人が、どのような手段方法により放火したかは判明しないものの、とにかく故意に当該家屋を焼燬するに足る危険な行為(放火の実行行為)をなしたことが明らかに認められるからである。
そこでひるがえつて本件につき考えるに、原判決の理由中罪となるべき事実第一の判示は、放火の動機等についてはかなりくわしく述べてあるが、犯罪自体については、前記のとおり極めて簡単であり、実行行為については単に「火を放ち」というだけであり、しかも放火は午後八時過ぎころであるのに家が焼けたのは同日午後一〇時過ぎころ、となつており、この約二時間は長きに過ぎはしないかなど一見疑問の余地のある判示である。そこでさらに原判決が「放火罪につき有罪を認定した理由」として説明している判示部分を検討するに、本件家屋の火災は、当日の午後一〇時ころ、藤岡正らにより発見され、即時同人らにより消火活動がなされたが、まもなくその居宅部分を全焼し鎮火した、と判示されている一方、被告人は同日午後八時半ころ自動車で自家から約三〇八メートル離れた川上保育園へ赴き、運動会準備のための役員会に出席し、本件火災が発見されるまで同所に居た旨判示されている。そうだとすると本件火災は被告人不在中の出来事であり、それが被告人の放火行為によるものであるとするためには、被告人が自家を出発する前に、火災の原因となるような何らかの時限装置を施した事実か、或はある対象物に点火したが何等かの事由により約二時間に亘りその火勢があがらなかつた事実を立証する以外に方法がないように思われるが、原判示でみる限りその時限装置が何であつたかは勿論、それにつき被告人が研究準備したというような、放火行為の実行自体に直接つながる間接事実、或は右火勢のあがらなかつた事実は何ら示されていないのである。
なお本件起訴状記載の公訴事実によると、「被告人は本件火災当日の午後九時三〇分ごろ、ガソリン約四リットルを本件家屋八畳間の洋服箪笥内の衣類及び北六畳間の畳、箪笥、東六畳間押入内等にまきちらしたうえ、右洋服箪笥内のガソリンをかけた衣類に所携のマッチで点火して火を放ち、よつて間もなく自己の妻らが現に住居に使用する右家屋を全焼するに至らせた。」というのが本件放火の訴因であつたが、原判決は、前記のように右訴因主張の午後九時三〇分ごろには、被告人は川上保育園の役員会に出席しており、その途中座をはずして自宅に帰つた事実が認められないこと等を理由に右訴因を排斥しており、その後検察官が追加した予備的訴因(同訴因では、放火の方法として、被告人は自家表八畳の間西側の造りつけの仏壇には、その上段に紙製の敷物が敷いてあり、同敷物が右仏壇の上段から約三糎位中段の上部に突き出しているう、えその先端部が約一五糎中段の上部空間に垂れ下がつているのを奇貨とし、本件当日の午後八時ごろ右仏壇中段のお燈明用の唐津製ローソク台を奥にずらしてこれに立てた直径1.2糎位長さ一五糎位のローソクの下部を前記敷物の先端部に故意に接触させ、右ローソクが敷物との接触部付近まで燃えつきてくれば、ローソクの火が右敷物下端に着火して燃え拡がるようにしたのち、同ローソクに点火して戸締りをしたまま外出し、よつて同日午後九時三〇分ごろ、右ローソクの火を前記敷物に着火させて同仏壇のベニヤ板壁等に燃え移らせて火を放つた旨主張されている。)についても、「被告人が自ら仏壇にローソクをあげた事実は極めて疑わしい。」などと右放火方法については否定的な見解を示しているのである。
以上の事実からも明らかなように、本件の最大の争点は、前記のように被告人不在の間に発生した被告人方居宅の火災が、何故被告人の放火行為によるものとして起訴されたかであり、双方の立証は、主としてこの点の解明に向けられたものであるところ、その結果前記のように、被告人が川上保育園の役員会の途中で自宅に帰り放火した事実が否定せられたのであるから、若し被告人を有罪とするならば、被告人が自宅出発前になした放火の時限装置等放火方法を明らかにし、被告中の納得を得るようその理由を説明しなければならない。しかるに原判決は、仏壇のローソク、敷物等を媒介物とする時限装置により放火したとする予備的訴因を認めるのでもなく、卒然として放火の手段方法を示すことなく、被告人を有罪としているのである。しかしそれでは被告人側の立証活動も徒労に帰し、筋道の立つた理由を示されないまま有罪とされたことになり、刑訴法三三五条が有罪判決については特にていちような理由の説明を要求し、それにより裁判所の恣意独断を防止し、ひいては審理判断の万全を期せしめて被告人の権利を保障しようとした、その立法趣旨にも添わないことになるものと考えられる。
以上の次第で本件は、前記高松高等裁判所の判例の事実とは類を異にし、放火の手段方法についてもその内容を具体的にするか、或はこれに代りこれを十分推認し得る事実を判示しなければ、本件火災が被告人の放火行為によるものであるかどうかを識別し難いような事案であり、この点の判示を欠く原判決には理由不備の違法があるものといわなければならない。
よつて刑訴法三九七条一項三七八条四号により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所において直ちに判決する。
一現住建造物放火の点について。
昭和四四年八月二日付起訴状記載の公訴事実につきその証明がなく、これを認定し得ないことは原判決の説示するとおりであり(原判決書二一枚目表一〇行目から二二枚目裏八行目まで)、当裁判所として格別これに附加することはない。そこで問題は、昭和四七年二月四日付予備的訴因の追加求請書記載の公訴事実、または、これと訴因の同一性をこえない範囲内(訴因変更手続を必要としない範囲内)の放火の事実を認定し得るかどうかである。
そこで考えるに、本件起訴の最大の疑問点は、本件は、被告人の捜査官に対する自白を基礎として起訴せられたものであり、その自白内容は、本件火災の当夜、前記川上保育園の役員会に出席していた被告人が、同夜午後九時二〇分ごろ、便所へ行くふりをして中座し、小走りに自宅へ帰り、車庫のたなに置いてあつた約四リットルのガソリンのはいつたかんを持つて屋内に入り、八畳間の造り付けの洋服タンス内の衣類のうえ等にそのガソリンをふりかけ、同衣類に所携のマッチで点火して放火した、という趣旨のものであつたところ、右自白が全く信用できないものであり、被告人が右役員会を中座した事実は、同役員会に出席していた関係人の証言等によりこれを否定せざるを得なくなつたことである。
そこで検察官は、前記のように予備的訴因を追加したのであるが、その訴因は、被告人が、捜査段階で放火の事実を自白した一時期を除き、終始主張し続けている本件火災の発火原因についての弁解、すなわち「自分が家を出発して川上保育園に行く前に、仏壇のローソク立てにローソクを立ててお燈明をあげ、それを消し忘れて家を出たから、あるいはこのローソクの火が発火原因ではなかろうか」との弁解、をその真意と異なる趣旨にとり、それは消し忘れたものではなく、故意にローソクの火が敷物に着火し、順次家に燃え拡がるよう装置し、これに点火したまま家を立ち去り、放火したものであるとなしたものであり、そこには多分に捜査官の主観的な想像が混入しているのではないかと疑われ、本件火災の原因が、右仏壇のお燈明であるとの可能性は一つの考え方としてあるとしても、それが失火ではなく、被告人が故意に装置した放火行為である、と認むべき直接証拠は何もなく、右事実を推認させるに足る間接証拠も極めて薄弱である。
ところで原判決は、仏壇のお燈明が発火原因であることを否定し、かつ放火の手段方法を明らかにしないまま、本件火災は、保険金詐取を目的とした被告人の放火行為によるものである、と認定し、被告人を有罪としているが、これを有罪とした理由の骨子は、(1)被告人には放火を犯す十分な動機があつたこと、(2)本件火災は家屋内部からの出火であること、(3)右火災は失火によるものとは認め難いこと、(4)被告人は出火より約一時間三〇分前に戸締りをして家を出ているが、その直前に同家屋内における生活を放棄したとみざるをえない行動があること等の事実が認められる。従つて本件火災の原因は、被告人の放火によるものと断定せざるを得ない、というものである。
ところで右のうち疑問の余地のないものは右(2)のみであり、(1)、(3)、(4)については疑問があり、十分の検討を必要とする。まず本件の動機として原判決は「被告人は、昭和四一年秋、愛媛県温泉郡川内町大字松瀬川甲一六四番地一に木造スレート瓦葺平屋建居宅一棟(建坪84.05平方メートル)および附属建物(以下本件家屋と略称する。)を建築し、妻テル子および孫明徳と同居して土建業を営んでいたものであるが、昭和四三年に入つて業績が次第に不振となり、同年八月ごろには負債は六五〇万円を超過し、返済に窮したので、これを清算するため本件家屋を焼燬して火災保険金を詐取しようと企て、同月二八日愛媛県火災共済組合との間に既に同家屋につき締結していた火災保険契約の保険金額一五〇万円を三〇〇万円に増額し、さらに同月三〇日同組合との間で新たに本件家屋内の家財一式につき保険金額一五〇万円の火災保険契約を締結するとともに、妻が債権者の強制執行をおそれてそのころ家財の一部を屋外に搬出していたのを奇貨とし、自らも応接セット、布団など相当数の家財を搬出したうえ、本件放火の犯行に及んだものである。」旨認定している。そして被告人が本件家屋を新築して妻および孫と同居して土建業を営んでいたものであること、昭和四三年に入つて業績は次第に不振となり、同年八月ころには負債は六五〇万円を超過していたこと、本件家屋および同家屋内の家財一式につき、原判示のとおり合計金四五〇万円の火災保険契約を締結していたこと、被告人の妻が債権者の強制執行(ただし正規の強制執行ではなく実力による家財の搬出)をおそれて家財の一部を屋外に搬出してかくしたこと、等は原判決認定のとおりである。
しかし被告人は、これまで種々職業をかえ、またいろいろと破廉恥犯をかさね、波らんと汚辱に満ちた人生を送つて来たものであるが、昭和三八年七月八日最後に刑務所を出て後は、新規まき直しで更生すべく、土方に身を落して奮闘の後、塚本組名義で自ら土木の請負業をはじめ、本件家屋を新築してここを生活の本拠とし、また事業にもこれを使つていたものであり、事業につきものの盛衰により、一時負債が六五〇万円を超過したとしても、これを苦にして保険金目あての放火をするような小心で無策な人物とも思われず、関係記録によつても、強硬な債権者に対しては何とか手をうつて急場をしのぎ、弱気ないしおうような債権者の債権は一応これを無視するとの態度であつたことが認められ、また当審における事実取調の結果によると、被告人は本件の審理中にもかかわらず、保釈により出所を許されるや、土地売買の事業を起し、相当多額の資産を形成したことが認められ、このようにバイタリテイーに富み、才覚のある被告人が、六五〇万円位の負債を苦にして放火というような陰性的な犯罪を犯しただろうか、との疑問がまずわいてくるのである。
次に被告人の負債総額は六五〇万円を超過していたというものの、このうち法律による強制的手段に訴えてまで取立てしようとしていた債権者は、一四万一、六六一円の売掛代金債権により被告人の動産を差押えた愛和石油株式会社と金七七万円の債権に基づき本件家屋およびその敷地につき任意競売の申立をした株式会社山本商会(同会社は右物件につき二番抵当権の設定を受けていた)のみであることろ、前者については順次内金を支払つて競売を延期し、本件当時の債務残額(元本)は二万一、六六一円にすぎなかつたのであり、後者については、昭和四三年二月一九日競売手続開始決定がなされたが、その競売期日は、同年五月二九日から同年七月一二日に、ついで同年一〇月一六日にと、順次競売不能を理由にのびており(本件家屋のような田舎の家で、しかも人が居住しているような家は、これを競売にかけても、容易に競落となるものではない。)、いずれも本件当時、その支払がそれほど急を要するものであつたとは考えられない。また右のような法的手段によらず、実力をもつて被告人方家財を搬出するとおどかし、強く支払を請求していた債権者に米田双成なる人物があるが(同人の債権額は三〇万円)、同人に対し被告人は、栗木久嘉を介して支払期日の延期方を依頼し、その引きのばしを策していたことは原審認定のとおりであり、一方被告人の妻塚本テル子は、米田双成の前記強硬な態度におそれをなし、万一の事態に備えて自家の家財を搬出隠匿したことは関係証拠により明らかである。そして右の者らの外、特に強硬な手段で支払を迫つていた債権者はなかつたものと認められるのである。
以上のようにみてくると六五〇万円を超過する債務は多額ではあるが、これが放火の動機となるものとは必ずしも考えられない。
さてこの点につき被告人は、同年一〇月には早明浦ダムの工事を請け負うことになつていたから、右請負工事の前渡金三八〇万円の入手の暁にはその経営も立ち直ることが確実である旨述べたが、原裁判所に信用されなかつた。そして原審当時この点の裏付け証拠がなく、被告人の供述自体断片的でまとまりのないものであつたから、原裁判所がこれを信用しなかつたのは無理からぬことである。しかし当審における事実取調の結果(当審証人大西弘、同兒玉顕秀の各証言)によると、被告人の右弁解は必ずしも架空のものとして否定することはできず、同年六月ごろ、大林組から早明浦ダム工事の一部を下請していた兒玉組の副社長兒玉顕秀と被告人との間で、右下請工事の一部をさらに被告人が下請する旨の口約束が成立し、被告人において人夫五〇名位を集めて現地に行く段取りさえつけば、仕度金として二回に合計金五〇〇万円位の支払を受けられることになつたが、農繁期その他の事情で人夫募集に困難がありのびのびとなつていた事実、およびその際被告人の方でブルドーザー等の機械を用意する必要がなかつたことがほぼ認められる。そうだとすれば被告人としては、右下請の実現に望みをかけ、人夫募集を第一に念頭においていたものと考えるのが常識的であり、昭和三八年以降努力をかさねた末、昭和四一年に本件家屋を新築してこれを住居および営業所とし、これを看板に附近農家の出稼人等を人夫として雇い土建業を営んで来た被告人が、その家を自ら焼いて宿なしとなるような行為にあえて出るものとは容易に考えられない。
原判決は、罪となるべき事実の摘示の部分で、被告人は六五〇万円を超過する負債の返済に窮し、これを清算するため本件家屋を焼燬し、火災保険金を詐取しようと企てた旨認定している。しかし仮に放火の結果火災保険金合計四五〇万円がまるまる取れたとしても、右負債は清算しきれず、被告人は本件家屋並びに家財の一部を失つて住むに家なく、右保険金からは事業の運転資金に一円も廻らず、かえつて相当額の未払負債が残ることになるので、右認定は首肯し得ないものである。そこで原判決も放火罪につき有罪を認定した理由の結語の部分では、被告人の放火による保険金詐取の意思を括弧内で注釈し、「自己の債権者に先んじ術数を弄してこれを取得した後は言辞をかまえて債務の支払に充当せず、むしろこれを自己の経済的苦境を打開するために活用する意思」としている(この点前記事実摘示と矛盾する)。しかし本件家屋については、愛媛県信用保証協会に対し債権元本極度額一二〇万円の根抵当権が、株式会社山本商会に対し金七七万円の抵当権が、大西俊雄に対し債権元本極度額八〇万円の根抵当権が各設定されているから(関係証拠によると実際の債務額は元本だけで合計約二〇〇万円である。)、いかに術数を弄してもこれらの債務を支払わないで保険金を受取ることができるか疑問であり、また火災による損害額の査定がどのくらいの額になるかも必ずしも明らかでなく、右動機にも疑問がある。むしろ被告人が術数を弄する人物とするならば、その術数により既存債務の支払延期を計るとともに、一方前記人夫募集を成功させ、兒玉組からの仕度金による窮境の打開を計るのではなかろうか。
以上要するに本件の動機については多分に疑問の余地があり、しかく明瞭なものではない。
次に被告人による家財搬出の点について考える。
この点につき原判決は「被告人は妻テル子が伊予郡松前町所在の妹方に赴いた同年九月七日午後から本件火災発生までの間に、同家八畳間にあつた応接四点セット、ジュータン、結納および書籍類を被告人方東側道路を隔てた物置へ搬出し、その上にシートを覆せ、次いで、九月九日午後七時ころから藤山ミツギらに手伝わせて、北六畳間押入天井裏にあつたマットレス一枚、座布団九枚、東六畳間押入にあつた妻テル子がそのころ使用していた布団一流および枕一箇、同室内にあつた鏡台およびその腰掛、台所にあつた二連のガス・テーブルおよび応接台を右藤山方へ運び出し、さらに右ガス・テーブルと緑色ガス管によつて連結していた炊飯器用コンロをガス管の途中で切り離して同家東側にある藤岡武雄方田の中に投げ込んだ事実を認めることができ、右認定に反する被告人の供述は措信しない。」と判示している。しかしここで提起される疑問点は、まず被告人が搬出したものとされている応接四点セットのうちには一人ではあつかいかねる大きなソファーもふくまれており、果して被告人が、一人でこれを運んだものであるかどうかという点であり、仮にこの点を是認するとしても、次に起るのは、このような重い物を他人の手助けも頼まず、ひそかに一人で自家の物置へ搬出していた被告人が、これより軽くあつかいやすい前記マットレス以下の物件を、被告人が放火したとされているその晩に、自家の物置あるいは西本国茂方の物置等へひそかに一人で選ぶことなく、何故に藤山ミツギらに手伝わせ藤山方へ運び出すというような行動に出たのであろうか、しかもその晩藤山方には中本安孝という客もあつたのであるから、もし被告人がその直後に放火の実行に移る決意をしていたものとすれば、わざわざ自己に対する嫌疑を深めるような右行動には、裏の裏をかく程の悪性のない被告人には、出なかつたのではなかろうか、という疑問である。さらに被告人は、わざわざ持ち出した炊飯器用コンロを他人の田の中へ投げ込んだというのであるが、かかる行動も奇怪であり、果してこのようなことを被告人が行つたものかどうかが疑われる。
さて原判決が右事実の認定に使用した証拠中その主要なものは、いずれも本件火災から九箇月以上たつた後に、関係人が司法警察員または検察官の面前で述べた供述を記載した調書、並びにこれらの者の原審公判廷における証言等であり、その供述内容のあいまいさ、右証拠相互間のくいちがい、他の関係証拠との対比、当審における事実取調の結果等から考え、その証明力についてはかなりの疑問がある。すなわち、
警察官が本件火災直後から被告人に放火の嫌疑をかけ、被告人方から搬出された物件の保全に努力したことは、原判決の証拠の標目中番号17に掲記された捜査報告書により明らかであるが、それが何時、誰により持ち出されたかにつき火災当時に取調べた証拠としては、わずかに藤山政敏の司法警察員に対する供述調書(昭和四三年九月一八日付)があるだけである。そして同調書によると、藤山政敏は藤山秋次郎の子で当時中学一年生であり、川内中学校で東富士雄という先生に立会つて貰い取調べを受けているが、右の点に関する供述内容は、同人は、二学期が始つてから本件火災以前に、被告人および被告人の妻テル子(同人は塚本のおいさんとおばさんと言つている。)が荷物を搬出するのを三回見た。最初は塚本のおばさんとその子輝美が何か荷物をさわつているのを見た。次はその日の晩か又二、三日後がよく覚えていないが、午後七時ごろテレビを見に行つた際に、おいさんとおばさんが紙の箱に這入つた茶碗のようなものや毛布等を押入れから出し、前におばさんや輝美さん等が這入つていた物置の中へ運んでいるのを見た。次はそれより後だが晩の六時ごろ、塚本のおいさんが大きな鏡をうずんで前に言いました物置の中へ運んでいるのを自宅の座敷から見た、という趣旨のものである。そして同人は、火災の晩のことについては、「ぼくは毎日夜はおばさん方へテレビを見に行つたり風呂へ行つたりしますので、その晩風呂へ這入ろうと思つておばさん方裏口へ行つたら家の中は電気が消え戸はあきませんでしたので仕方なくうちへ帰り、自分方のテレビを見ていたら外で火事じやという声がするので外に出てみたら塚本のおばさん方が焼けていた。なお塚本のおばさん方の炊事場には、ガスで湯やおかずをたくもので二つ連なつたものがあつたが、火事があつてから後にそれがぼく方の庭においてあるのを見た。」との趣旨を述べているのみで、その晩被告人が、前記藤山ミツギらに手伝わせ、藤山方へ前記のマットレスその他の物件を搬出した事実については何も述べていなのである。そして右供述調書は、藤山政敏の年令から考え、故意にうそを言つているとは考えられず、取調べの時期(本件火災の九日後)環境等から考えても比較的信用度の高いものであると思われる。
そこで次に中本安孝、藤山ミツギ、藤山秋次郎らの捜査官に対する供述調書を検討するに、
まず、藤山秋次郎の分は、昭和四四年七月二一日付の司法警察員に対する供述調書と同月二六日付の検察官に対する供述調書の二通が証拠調べされているが、その供述内容は趣旨において同じであると認められるので、検察官に対する供述調書のみ引用すると、その供述は次のようなものである。すなわち、
昨年九月九日の晩に塚本庄次郎方が火事で全焼したが、この日の夕方六時すぎころ、私が自宅にいると庄次郎が来て、私に、一寸手伝つてくれ、と言い、荷物運びを手伝わされた。このとき私の外に庄次郎や私の子供のみつぎ、政敏も一緒に運んでいる。運んだ物は塚本方の大きな鏡台、座布団四枚、布団一枚か二枚、掃除機等である。そのうち掃除機を私が運んだ。鏡台の鏡の方をみつぎ、台の方は政敏や庄次郎が出していた。布団は政敏が下にひこずりかけて運んでいた。座布団は誰が運んだか見ていない。又塚本方の裏口の上り口のところにガス台の角いのを出して来ており、みつぎがこれを指差して、とうちやんこれもよ、といつてガス台も運ぶようにいつておつたが、私はそれは重そうであつたので、これは重いけんとうちやんはよう持つて行かんかや、といつておいた。このようなわけでガス台は私は運ばなかつたが、火事の後このガス台は、私方玄関の土間にあつたので、これは塚本が火事の前に持つて来ていたものと思う、という趣旨のものである。
次に原判決が証拠として引用する藤山ミツギの司法警察員に対する昭和四四年六月二四日付、および同年八月三〇日付各供述調書によると、同人は司法警察員に対し、本件火災当日の家財搬出状況につき、右六月二四日付の調書では「昨年九月九日の午後七時ごろ塚本の叔父が、座敷の障子戸を開いたところにドレッサの鏡台を持つて来て上り口に置き、手伝つてくれという様なことを言つたので、私は炊事場から出て来て手伝つた。その時父秋次郎がおつたかどうか記憶していないが、弟の政敏と中本さんがおられた。それでその鏡台を塚本の叔父と弟と私の三人でかかえて奥の政敏の勉強部屋に運んだ。その時は外は薄暗くなつていた。ところが塚本の叔父はすぐ引返して自宅に帰り、マットレスと枕二箇を持つて来て前と同様上り口のところに置いた。次に叔父はボール箱に入れた子供の下着の様なものを持つて来た。これらの品も私が勉強部屋に運んだ。次に塚本の叔父が黒つぽい電話機を持つて来たように思う。次はガスレンジの件であるが、午後九時半ごろ寝る前に戸をしめた時か、外の便所へ行つた時かに表出入口からすぐはいつたところの土間に、ガスレンジが置いてあるのに気がついた。」旨を供述したこととなつており、右八月三〇日付の調書では、「叔父は最初にダンボール箱を持つて来たように思う。そのあと叔父は他に何かもつて来たのか一、二回行つたり来たりし、次にドレッサーを持つて来たように思う。ドレッサーを持つて来る前に、鏡台をもつて来るけん手伝つてくれ、と言つて頼まれたので手伝いに行き、私も一緒に叔父方からうずんで運んだように思うがはつきり覚えていない。しかしこれを奥の政敏の勉強部屋まで運んだのは、はつきり覚えている。このドレッサーの鏡台には赤い色のたいこのようになつた腰かけがついておつた。ドレッサーを運んだ後また叔父の家へ行きマットレスを私方まで運んだ。そのマットレスと一緒に座布団、枕二箇を運んだように思う。私の運んだ座布団は全部ではなく、半分位であつたように思う。もちろん叔父もその残りのものをもつて運んだ。そのあと叔父が電話機をもつて来た。それからは何も運んで来なかつた。最初ダンボール箱をもつて来てからそれまで約三〇分かかつたように思う。荷物を運び終つて一寸して(十分以内位に)近所の藤岡広子さんが来た。それは午後八時すぎころである。」というように前の供述を訂正又は補充して述べたことになつている。
次に中本安孝の昭和四四年八月一六日付の司法警察員に対する供述調書の記載は「自分は昨年九月八日藤山みつぎ方を訪問して一泊し、その翌九日の晩に火事があつた。その同じ晩に塚本さんという前の家の人が、私の泊らせて貰つている藤山さん方へ荷物を運び込んで来た。荷物というのは洋式の大きな鏡台と角い応接台の二つのことでこの品物だけは実際に私がこの眼で見ているので間違いない。それと火事の前にはなかつたのに火災後のすぐあと藤山方玄関間にガステーブルが置いてあるのに気づいた。今話した物以外は気づいておらんし解らない。ただ、電話もなおしておいてくれよ、と言つておる塚本さんの話だけは聞いている。そのような荷物運搬の模様は、藤山方のテレビのある部屋の縁側に座つていたので自然に僕の眼についた。そのあともしばらくその部屋の障子はずつと開放していた。」という内容のものである。
ところで右藤山秋次郎、藤山ミツギ(後に渡辺ミツギ)、中本安孝(後に鬼塚安孝)らは原審において証人として尋問され証言しているが、藤山秋次郎藤山ミツギらの証言はいずれも知らぬ、忘れたの一点張りであり、とうてい採証の用に供し得るものでなく、また鬼塚安孝の証言は、同人の司法警察員に対する供述調書の供述内容(前記)とほぼ同旨である。
ところで被告人が本件火災当夜家財を藤山方に搬出したとする時間につき、藤山秋次郎は「夕方六時すぎころ」といい、藤山ミツギは、最初「午後七時ごろ」といい、後に「近所の藤岡広子さんが来たのが午後八時すぎで、荷物運びはその一寸前、十分以内位に終つた。運びはじめてから終るまで約三〇分かかつている。」旨を述べ、それによると午後七時半ごろから八時ごろまでの間ということになる。このように関係人の供述はまちまちであるが、渡部豊、杉原義行の司法警察員に対する各供述調書によると、被告人は、同日午後七時半ごろから八時前ごろまでの間に、人夫賃請求のため順次被告人方を訪問した右渡部豊、杉原義行らと面談し、借金断わりをしていたことがほぼ認められ、これとの対比において藤山ミツギの右供述の信用性が疑がわれる。また午後六時すぎに搬出行為があつたとする藤山秋次郎の供述も、伊原ツヤ子の司法警察員に対する供述調書によると、被告人は同日午後六時三〇分ごろ川内町大字南方の伊原ツヤ子方へ来て市外電話を借りて通話しており、被告人方と伊原ツヤ子方とはそんなに近い距離でないことをも考え合わせ、また前記中本安孝の供述調書中「私自身としてもあのとき何の為に他処の家に鏡台その他の家財道具をしかも暗くなつてから運んで来たりしたのかと一寸変に思つた。」とある「暗く」の供述記載とも矛盾すること等から信用できないものといわなければならない。
以上みて来たように藤山秋次郎、藤山ミツギ、中本安孝の捜査官に対する供述調書は、それが本件火災後九箇月以上も経過した後のものばかりであること、相互に供述内容の相違があること(搬出の時間、搬出した物品、搬出の状況等につき)、本件火災後間もない時期の供述を録取した他の関係人の供述調書(前記藤山政敏、渡部豊、杉原義行、伊原ツヤ子らの司法警察員に対する各供述調書)と対比し、矛盾ないし不自然の感を受けること等からして、いずれもその供述者が、事の真相を正しく記憶し述べたものではないと思われ、十分措信難いものである。
次に塚本テル子の司法警察員に対する供述調書並びに検察官に対する供述調書は、いずれも本件火災当夜における被告人の行動を直接立証するものではない。ただ同人は、当夜被告人が搬出したものとされているマットレス一枚座布団九枚は、自分が押入天井裏へかくしていた物であること、布団一流および枕一箇は、自分が当時使用していたものであること、鏡台およびその腰掛、台所にあつた二連のガス・テーブルは、自分が松前町の妹方へ行く際自家の屋内に置いてあつたこと、これらの品が火災後松前町から帰つてみると、搬出され焼失をまぬがれていたこと、その後炊飯器用コンロが藤岡武雄方田の中から発見されたこと、等を認める供述をしているにすぎない。しかも同人は鏡台についてはまだ搬出していないことを気にし、出発前被告人に対し、これを搬出してくれるように頼んだ旨述べており(原審記録証拠関係の第四冊九八八丁)、もしそうだとすれば仮に被告人が右鏡台を搬出したとしても、それは妻の米田双成に対する恐怖の気持をしずめるためであつたとも解せられ、必ずしも放火の犯意にのみ結びつくものではない。
またマットレス、布団、枕、応接台、座布団等については、当審における事実取調の結果(当審証人渡辺ミツギ、同塚本テル子の各証言、被告人の当審公判廷における供述)によると、これら物件は、当時藤山秋次郎方へその娘ミツギをたずねて来ていた中本安孝を接待するため藤山方へ貸与したものではないかと考えられる節もあり、これら物件が藤山方へ搬出されていたことから、被告人の放火の犯意を推定できるかどうかはかなり疑問であると考えられる。
最後にもつとも問題となるのは二連のガス・テーブル及び炊飯器用コンロであるが、この点については、取調べを受けた関係人の供述があいまいであるとともに、これらの品は容易にもえるものでなく(ゴムホースは別だが)、その置き場所が、発火場所からもつとも遠い炊事場であり、その炊事場はもえ易い構造ではなく、かつ附近にもえ易い物が置いてあるという状態でもなかつたのであるから(昭和四三年九月三〇日付実況見分調書参照)、このガス・テーブル等は、これを焼燬からまぬがれさせるために搬出するという必要性に乏しかつたものと考えられ、被告人がもし放火を決意し、屋内から家財を搬出するとすれば、こんなガス・テーブルよりはもつと発火場所の近くにおいてあつた、より大切なもの、すなわち、一家の信仰の対象である本尊、位牌、母の遺骨、あるいはもつともえ易く又持出し易い衣類等を搬出したものと思われるのに、かような物を被告人が搬出しなかつたことは記録並びに当審における事実取調の結果により明らかである。また被告人がガス・テーブルと一緒に炊飯器用コンロを搬出したのであれば、何故被告人が右コンロのみを切り離して田の中へ投げ込んだのか全く理解に苦しむ。もつとも被告人以外の誰かがこれを搬出したという証拠もないが、これは火災後九箇月以上もたつて本格的捜査をはじめたこと等の不手際による捜査不十分の結果であり、実際には誰かが、火が下火となつた後に持ち出したかもしれないのである。結局被告人が、右ガス・テーブル等を搬出したとの点については、当裁判所としてはその心証を得ることができない。
以上の次第で家財の搬出状況についての原判決の認定は、そのままこれを是認することはできず、特に妻テル子が使用していた布団、枕及びガス・テーブル、炊飯器用コンロ等を被告人自身において疎開の目的で搬出したとする点は証明不十分とすべきである。従つて被告人が本件火災の夜以後本件家屋内において妻テル子と寝食をともにすることを放棄する意思を有していたとみることはできない。なお被告人夫婦は、本件火災後焼け残つた車庫内で生活したのであるが(原審記録手続関係の第二冊三四五丁)、もし被告人が、本件家屋内での生活を放棄し、計画的に放火したものであるならば、事前に行き先ぐらいは用意しておく筈であり、たまたま焼け残つた車庫で生活するようなことにはならなかつたものと思われるのである。
さて最後の問題は、本件火災の原因として、被告人の放火以外の可能性が考えられないかの点である。この点につき原判決は、被告人には多額の負債があり、被告人の事業は瓦解に近い状態にあつたこと、被告人が本件家屋並びに家財につき超過保険と思われる多額の火災保険契約に加入していたこと、被告人の妻および被告人自身による家財の搬出行為があつたこと等を認定し、被告人には放火の動機があり、被告人はもつともあやしい人物である、とみたうえ、他に出火原因は考えられないから、本件の出火は、被告人の放火行為によるものである、との構成をとり、被告人を有罪としているのである。そして原判決が右のような構成をとつたのは、被告人の放火行為を積極的に証明するに足る証拠は十分でないが(従つて放火の方法も全然認定できない。)、放火の嫌疑はあるため、他の出火原因を順次否定してゆくという消極的な証明方法をとり、他のすべての可能性が否定され、被告人の放火の可能性だけが最後に残つたから、被告人による放火行為が証明されたとしたものと考えられる。そうだとすると本件火災に対し、考え得る他のあらゆる可能性が、合理的な疑をさしはさむ余地がないまでに、完ぺきに否定されなければ被告人を有罪となし得ないこととなる。
ところで被告人は、原審以来終始燈明による失火以外に出火原因は考えられない旨主張しており、被告人が燈明をあげたとする仏壇が出火場所であるとしても、司法警察員作成の実状見分調書(昭和四三年九月三〇日付、昭和四四年七月二一日付)により認められる屋内の焼燬状況と矛盾するものではなく(仏壇跡よりは、その横に接する洋服たんす跡の方がよくもえているもののようにも見えるが、仏壇で発火した火がその横の洋服たんすにもえ移り、同所には可燃物がより多く蔵置してあつたため、そこがよりよくもえたもことも考えられ、この考えを否定し、出火場所を洋服たんす内と特定できる程の証拠はない。)、また燈明から仏壇へ引火した経路としては、予備的訴因にあるように、燈明の火が仏壇内の紙製の敷物に引火し、これを媒介物として火は仏壇に、ついでその横の作りつけ洋服たんすに、と順次もえひろがり、ついに本件家屋を全焼させた、とも考え得るし、あるいは仏壇内に立ててあつた鶏の毛で作つたはたきが燈明に倒れかかつてこれに引火し、これを媒介物として右同様に火がもえひろがつたとも考え得る(当審証人塚本テル子の第八回公判における証言参照)。いずれにしても被告人が、その弁解のようにローソクで燈明をあげ、その火を消し忘れて外出したものとすれば、そこに火気があるのであるから、それが何らかの事由により仏壇にもえ移つたとする可能性を否定することはできないのである。さて原判決は、被告人が燈明をあげた事実につき、「被告人が同日夜前記家財道具搬出後の倉皇の間に自ら仏壇にローソクをあげた事実は極めて疑わしい。のみならず被告人には普段仏心なく、学会においても極めて不熱心な信者であつたこと、仏壇内部の物品の配置状況に関する被告人の供述は転々としおり、そのいずれも事実と認め難いことなどを総合勘案すると、右事実は単に被告人の弁解にすぎなかつたと判断するのが相当である。」として被告人が燈明をあげた事実自体を否定している。しかし仏壇内部の物品の配置状況等細部の点につき被告人の供述が転々したかどうかはともかく、燈明をあげ、その火を消し忘れて外出したとする被告人の供述は、真しであり、終始かわらないものである。そして右のような薄弱な理由により、合理的な疑いをさしはさむ余地がないまでに、右供述にかかる事実を否定し去ることはできないのである。なるほど被告人は、妻テル子程熱心な信者でなく、従つて勤行要典を五回もくりかえして読む正規の勤行はしなかつたであろうが、妻の不在中妻にかわつて燈明をあげ、少時お題目を唱える程度の勤行さえしなかつたときめつけることができるものではない。また「家財道具搬出後の倉皇の間にローソクをあげた事実は疑わしい。」というが、その家財道具搬出行為自体が、何時、誰によつて、どれだけの品が搬出されたか、いちいちこれを特定して認定することは前示のとおり困難であるから、それが障害となつて燈明をあげる余裕がなかつたと、言いきることもできないであろう。
そこで最後に、被告人が燈明をあげた時間と本件火災が発見された時間との関係について考察する。
被告人の原審公判廷における供述によると、被告人は本件当日、仏壇に二本のローソクを立てて燈明をあげ、お題目を唱えようとした。するとそのとき来客があつたのでそのまま座を立ち、玄関に出て客の応対をした。その客というのは杉原であり、ついで渡部という高校生が来た。順次応対して客をかえした後パンと牛乳で夕食をすまし、右燈明の火を消し忘れてそのままにし、戸締りして川上保育園へ行つた、ということになつているのである。そして一方渡部豊、杉原義行の司法警察員に対する各供述調書により、同日午後七時半ごろから八時前ごろまでの間に右渡部、杉原の両名が人夫賃請求のため順次被告人方を訪問、被告人と面談している事実を認め得ることは、さきに述べたとおりであるから、被告人がローソクに火をつけ燈明をあげた時間は七時半ごろとせざるを得ない。そして本件火災が近隣の者に発見された時間は、関係証拠によると同日午後一〇時前ごろであつたことが認められる。するとその間に約二時間半という時間のへだたりがあることになるが、それはローソクに点火して後その火が仏壇内の他の可燃物にもえ移るまでの時間と、その可燃物を媒介として火が本件家屋にもえ移り、次第に火勢がひろがつて近隣の者に発見されるに至るまでの時間の合計時間であると解してかくべつ矛盾はなく、右二時間半は、長すぎ、あるいは短かすぎて納得できないとする証拠はなく、右時間関係から燈明による出火の可能性を否定することもできない。
以上の次第で本件火災は、被告人による放火という嫌疑も完全に仏拭しがたく、他面、燈明の消し忘れによる失火の可能性も否定できずなおこれも単なる燈明の消し忘れだけで失火と言えずこれに付加せねばならぬ他の事実が必要で、その解明の証拠もなく、以上いずれであるかを決定するに足る証拠は、ついにこれを得ることができなかつたものというべきである。
結局本件放火については、その動機の点、被告人には出火の前に本件家屋内における生活を放棄したとみざるを得ない行動があつたとする点につきその証明が十分であるとはいえず、また失火の可能性を否定できる程の証拠もないということ等から全体としてその証明が十分でないものというべく、刑訴法四〇四条三三六条により無罪の言渡をなすべきものである。
二業務上過失致死の点について。
原判決が適法に認定した事実に原判決挙示の法条を適用し、所定刑中禁錮刑を選択し、所定刑期の範囲内で被告人を禁錮八月に処することとし、情状に因り刑の執行を猶予するのが相当であると思料し、刑法二五条一項を適用し、本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
よつて、主文のとおり判決する。
(小川豪 宮崎順平 滝口功)