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高松高等裁判所 昭和55年(ネ)73号 判決 1983年2月24日

控訴人・付帯被控訴人

日本電信電話公社

右代表者総裁

真藤恒

右指定代理人

岸本隆男

外四名

控訴人・付帯被控訴人

尾﨑浩

被控訴人・付帯控訴人

上原勝直

右法定代理人親権者父

上原茂市

同母

上原喜久子

被控訴人

上原茂市

被控訴人

上原喜久子

右三名訴訟代理人

武田安紀彦

永井弘通

木村一三

主文

一  原判決中控訴人ら敗訴の部分を取り消す。

二  被控訴人らの請求を棄却する。

三  付帯控訴人上原勝直の付帯控訴を棄却する。

四  被控訴人上原勝直は、金七六一万〇七八四円、被控訴人上原茂市、被控訴人上原喜久子は、各金七六万一〇七八円及び右各金員に対する昭和五五年四月四日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を控訴人日本電信電話公社に対して支払え。

五  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人・付帯控訴人上原勝直、被控訴人上原茂市、被控訴人上原喜久子の負担とする。

事実

第一  申立て

一  控訴事件について

(控訴人ら)

1 主文第一、第二、第四、第五項と同旨

2 主文第四項につき仮執行の宣言

(被控訴人ら)

1 本件控訴を棄却する。

2 控訴費用は控訴人らの負担とする。

二  付帯控訴事件について

(付帯控訴人)

1 原判決中付帯控訴人敗訴の部分を取り消す。

2 付帯被控訴人らは、連帯して、付帯控訴人に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和四六年一〇月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3 訴訟費用は第一、二審とも付帯被控訴人らの負担とする。

(付帯被控訴人ら)

1 主文第三項と同旨

2 付帯控訴費用は付帯控訴人の負担とする。

第二  主張及び証拠

当事者双方の主張及び証拠の関係は、次に付加するほか、原判決の事実摘示(ただし、原判決中、「被告尾崎」をいずれも「被告尾崎」に、「天理よろず相談所病院」をいずれも「天理よろづ相談所病院」に改め、原判決一七枚目裏七行目を「同2の(四)、(五)の事実は知らない。同2の(六)のうち、昭和四六年一〇月二五日ころ、控訴人(付帯被控訴人)尾﨑医師が被控訴人(付帯控訴人)勝直を徳島大学医学部眼科教室の三井幸彦教授あてに紹介状を書いて紹介し、同教授が診察した結果前同様の診断であつたことは認めるが、その余の事実は知らない。」と改め、同五一枚目裏五行目のうち「乙第五六号証」を「乙第五六号証の一」と改める。)及び当審記録中の書証目録、証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

(被控訴人・付帯控訴人勝直(以下「被控訴人勝直」という。)、被控訴人茂市、同喜久子の主張)

第一  眼底検査実施義務違反について

一  控訴人・付帯被控訴人(以下「控訴人」という。)尾﨑医師は、昭和三七年に徳島大学医学部を卒業した後、同医学部小児科教室助手となり、その後、国立善通寺病院小児科に勤務中、未熟児一〇数例について眼底検査を受けさせた経験を有し、昭和四〇年から毎年日本新生児学会に参加し、本症(未熟児網膜症)に関する研究論文が発表された「日本新生児学会雑誌」を購読していたものであり、被控訴人勝直が控訴人病院に入院し保育器に入つていた時期に同病院の健康管理科岡耕一医師に依頼して被控訴人勝直の眼底撮影を実施したことは、控訴人尾﨑医師において、少なくとも被控訴人勝直が控訴人病院を退院するまでには、眼科医により本症発生の有無を確認するための眼底検査を実施する必要があることを十分認識していたものである。

二  控訴人尾﨑医師の眼底検査実施義務の有無の判断に際し、特別の事情がない限り、当該診療行為が該医師の勤務する病院の設置された地方における同病院と規模・能力を同じくする他の病院においても一般にこれが実施される程度にまで普及をみている必要があり、本件当時はまだその段階になかつたとして(客観的要件)控訴人尾﨑医師自身の眼底検査の実施義務を認めないのは失当である。

例えば、ある病院に入院中の患者に対しある治療行為を行う必要を認めたが該病院にその設備がない場合には、その設備を有する大学病院ないし総合病院に転医させるか、又は能力を有する医師を派遣してもらうことは医療の世界では常識であり、該治療行為が右病院と規模能力を同じくする他の病院においても一般的にこれが実施される程度にまで客観的に普及をみる必要はない。むしろ、他の病院から医師を派遣してもらうことが困難か否か、又は搬送する場合搬送すること自身が困難か否か、また、受入れ側の病院で容易にこれを受入れてくれるか否かが客観的要件となるものである。

このことを本件に当てはめると、当時、控訴人病院から高松赤十字病院までは車で一五分程度、また、屋島総合病院までは同じく車で一〇分程度の距離であり、少なくとも被控訴人勝直の退院時には容易に搬送は可能であつた。しかも、眼底検査そのものは困難を伴う治療行為でもなく、受入れ側の病院でこれを拒否する理由も存在しないのである。

更に、控訴人尾﨑医師自身、控訴人病院で出生した被控訴人勝直以降の未熟児に対しては、屋島総合病院の眼科医に依頼し、出張検査を実施しているのである。

加えて、控訴人尾﨑医師は、国立善通寺病院に勤務していた当時、右病院で出生した未熟児に対してだけ眼底検査を行つていたわけではなく、近隣の病院ないし授産所で出生した未熟児に対しても搬送を受けて眼底検査を実施していたのであるから、いずれにしても出張検査の場合も、また、搬送による検査の場合も容易に行えたのである。にもかかわらず、控訴人尾﨑医師がこれを放置したことは、小児科医としての義務に違反していることは明らかである。

第二  説明義務違反について

一  医師が自己の診療した患者又はその保護者に対し疾患の原因、症状、施術等の治療行為、及び予見される疾患の危険について指示説明する義務が存することは、医師法第二三条、民法第四一五条又は信義誠実の原則を定めた民法第一条等を根拠に一般に認められている。

説明義務の内容程度は、説明を受ける側の地位、経歴、資格、年齢等を総合的に考慮して決定されるべきであり、具体的事案によりそれが異なることは当然である。

また、説明する側の経歴、経験及び患者の疾患に対する認識の度合、疾患の重大性等によつても説明義務の内容、程度が異なつてくるのもまた当然である。

しかし、医師に説明義務が存する以上、その説明の内容程度に差違があるとしても、その義務を履行したといえるためには、医師がある時点で瞬時的に患者側に対し治療行為及び療養方法を単に指示説明しただけでは足りず、その後の患者の疾患の状態、進行状況等を注視し把握することもその義務の内容に含まれていると解すべきである。また、他の医師の受診を勧告したり、あるいは紹介した場合には、後日、患者に対し直接受診の結果報告を求めるか、あるいはその他の方法により受診の有無、その結果を確認することも具体的事案によつては説明義務の内容に含まれる場合も存すると解すべきである。なぜならば、もし、説明義務の内容を考える場合に時間的な経過ないしは立体的な考察をせず、瞬時的あるいは平面的にこれをとらえるならば、それは単なる医師と患者側との言葉の遊戯に過ぎなくなる場合が多くあり、結果として医師の責任逃れにつながることになるからである。そのことは、緊急な治療を要する患者、あるいは重大な疾患の予見し得る患者を他の医師に受診又は療養のため紹介し、あるいは搬送した場合を考えれば、医師に説明義務を認める前記医師法第二三条等の根拠条文の趣意からしても説明義務の内容に前記のごとき意味を含めなければならない必要性は明白である。

したがつて、医師の説明義務は、患者側に応じた内容程度にする指示説明もさることながら、その義務の内容は瞬時的に、平面的なものではなく、時間的な経緯をも含めて立体的にとらえるべきであり、具体的事案によつては医師が患者側から指示、説明の結果報告を求めることまでが、説明義務の内容に含まれる場合があると解すべきである。

二  被控訴人勝直出生の昭和四六年七月当時は、本症の治療方法として、既に光凝固法が一般に普及していたかあるいはそれに近い状態であつたというべきである。

すなわち、一般的にいつて、新規治療法が一般に普及していたか否かの医療水準の設定に関しては、権威ある学会での発表、討議、専門誌上での研究結果の公表、追試、あるいは一般臨床医学会での紹介、実施が行われていたか否か等を考慮して決定されるべきものであると考える。

ところで、本件について見るに、天理よろづ相談所病院の永田医師は昭和四二年秋の第二一回臨床眼科学会において光凝固法を発表し、右発表内容は昭和四三年四月の「臨床眼科」に掲載された。

その後、同医師は、昭和四四年秋の第二三回臨床眼科学会において光凝固法の実施例を発表し、右発表の内容は昭和四五年五月発行の「臨床眼科」に掲載された。

それを契機として、全国各地のいくつかの病院で一斉に追試が行われた。

他方、日本新生児学会においても、昭和四四年三月ころから被控訴人勝直出生の昭和四六年七月までの間において、数回にわたり本症の発生状況、眼底検査の必要性及びその治療方法が発表され、前記永田医師の開発した光凝固法により早期病変発見により失明を防止し得ることが明らかにされておつた。

三  控訴人尾﨑医師は、昭和四〇年から昭和四四年ころまで国立善通寺病院内の特殊小児診療センターにおいて、本症の患児の臨床例、特にその治療に関与した経験を有している者であり、かつ、日本新生児学会においては、前述したとおり昭和四四年ころから同四六年ころにかけて本症の治療法としての光凝固法に関する幾多の発表があつたのであるから、控訴人尾﨑医師は、少なくとも被控訴人勝直出生の時期においては、本症の有効な治療法として光凝固法が既に追試の段階を終えて一般に普及していたことを知つていたことは明らかである。

四  ところで、控訴人尾﨑医師は、被控訴人喜久子に対し紹介状を交付しているので説明義務を充分尽していると主張する。しかし、該紹介状には、一般的眼科疾患の検査と未熟児である被控訴人勝直の本症罹患の有無を確認するための眼底検査の依頼の趣旨が記載されている。控訴人尾﨑医師は、眼科医に対する紹介状を書いた時点では、被控訴人勝直が本症に罹患しているか否かを調べるために眼底検査の依頼をしているものであるから、少なくともこの時点で被控訴人勝直がそれに罹患する不安あるいは危惧を抱いていたと考えざるを得ない。その意味では、控訴人尾﨑医師の眼科医受診の紹介は被控訴人勝直にとつては本症罹患が発見され、その結果病変の進行が防止されるか、又は失明に至るか重要な別れ目になることであり、その受診の結果は重大な関心事である。また、控訴人尾﨑医師にとつても良心的な医師としては被控訴人勝直同様、その受診には重大な関心を払わなければならないことであつたはずである。

したがつて、控訴人尾﨑医師は、被控訴人喜久子に対し、紹介状を手交する際に、早急な眼科受診の目的とその必要性及び予期される本症の罹患に対する不安ないし危惧を充分に指示説明し、直ちに被控訴人勝直に眼科受診をさせる義務があつたというべきである。

五  しかるに、控訴人尾﨑医師は、被控訴人勝直の退院に際して被控訴人喜久子に対し、被控訴人勝直の眼科受診を指示して紹介状を作成手交したものの、自ら病院又は眼科医を指定することはせず、また、その際、被控訴人喜久子に対し前記紹介状の内容に記載されている未熟児の眼科的検査の依頼内容、入院中の健康管理科部長岡医師による被控訴人勝直の眼底撮影の失敗及び被控訴人勝直の本症罹患の不安ないし危惧等の説明を一切していない。もつとも、その点について、控訴人らは、本件のごとき詳しい紹介状を患者側に対し作成交付したときは、医師としては、それ以上に受診目的まで患者側に説明する必要はないし、患者が医師の指示に従うのは当然であるとして、控訴人尾﨑医師は説明義務を充分尽している旨主張する。

しかしながら、それは論理が逆である。すなわち、本件で控訴人尾﨑医師が紹介状を作成手交したのは前記のごとく被控訴人勝直の本症罹患への不安ないし危惧があつたためであるから、比較的軽微な疾患の場合になされる口頭による眼科受診の勧告の場合より一層その受診目的と必要性を指示説明する義務があつたというべきである。ところで、前記紹介状は封書に入れて封緘されており、被控訴人喜久子の目に触れ得ない状態で手交されたものである。それなのに、控訴人尾﨑医師の被控訴人喜久子に対する右紹介状の作成手交の行為自体が、直ちに同女に対し説明義務を尽したことになぜなるのか。本件のごとき重大な疾患が予想される場合において、それ以上の受診目的までの説明がなぜ不要になるのか、控訴人らの主張は理解しがたい。

六  控訴人尾﨑医師は、被控訴人勝直退院に際して昭和四六年九月二日被控訴人喜久子に対し眼科受診の紹介状を手交した後、同年九月二八日、同喜久子が被控訴人勝直の目に異常を発見するまでの約一か月間、同じ勤務先である控訴人病院で、医師、看護婦として被控訴人喜久子に接しておりながら、一度も被控訴人勝直の眼科受診について報告を求めていない。

控訴人らは、被控訴人喜久子が紹介状をもらいながら被控訴人勝直を早期に眼科受診させなかつたことについて、看護婦である被控訴人喜久子が未熟児の酸素投与と本症罹患との関係につき、標準的看護婦としての知識不足であつたとして被控訴人喜久子を非難する。仮に、被控訴人喜久子にその点についての知識が不足しており、そのために紹介状を手交されながら、直ちに被控訴人勝直を眼科受診させなかつたのであつたとして、この点につき被控訴人喜久子に落度があるとしても、そのことで控訴人尾﨑医師の説明義務が免れることにはならない。

一方、看護婦である被控訴人喜久子にそれを望むならば、医師である控訴人尾﨑医師には、それ以上の注意義務が要求されるものであり、重大な疾患の予見される被控訴人勝直の眼科受診に際して単に紹介状を被控訴人喜久子に作成手交しただけでは足りず、同女に対し容易に可能であつた眼科受診の結果報告を求めるべきであつた。

七  したがつて、以上述べたごとく、被控訴人勝直の出生した昭和四六年七月当時においては、本症の治療方法として光凝固法が一般に普及していたかあるいはそれに近い状況であつた。また、控訴人尾﨑医師もその事実を知つていたか、あるいは仮にしからざるとしても知つておるべきであつたといえる状況であつたから、控訴人尾﨑医師は、被控訴人勝直が眼底検査を受けその結果本症に罹患している場合は、光凝固法の治療を受け得る機会を与えるべく説明する義務があつたというべきであり、同控訴人が前記紹介状を被控訴人喜久子に交付したのみではその点についての控訴人尾﨑医師の説明義務違反の責は免かれ得ないものである。

第三  因果関係について<省略>

第四  控訴人公社の民事訴訟法第一九八条第二項に基づく請求の原因

被控訴人らは、昭和五五年四月三日、原判決に付された仮執行の宣言に基づき強制執行し、被控訴人勝直において金七六一万〇七八四円(元本五五〇万円、利息二一一万〇七八四円)、同茂市、同喜久子において各金七六万一〇七八円(元本五五万円、利息二一万一〇七八円)をそれぞれ控訴人公社から取り立てた。

よつて、控訴人公社は、被控訴人らに対し、右金員の返還とこれに対する右取立の翌日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払を求める。

理由

一本件当事者の地位、被控訴人勝直の失明に至る経過(被控訴人勝直の出生と臨床経過、被控訴人勝直が失明の診断を受けた経過)、被控訴人勝直の失明の原因に関する当裁判所の事実認定及び判断は、次に訂正、付加するほか、原判決の認定判断(原判決五二枚目表二行目冒頭から同六七枚目裏六行目末尾まで)と同一であるから、これを引用する(ただし、原判決中、「被告尾崎」をいずれも「控訴人尾﨑」に改める。)。

1  原判決五四枚目裏九行目の「一三日目」を「一四日目」に、同一一行目の「一九日目」を「二〇日目」に、同一二行目の「二五日目」を「二六日目」に、同五五枚目表一行目の「四〇日目の八月五日」を「四一日目の八月一五日」に、同行目の「五四日目」を「五五日目」に、同二行目の「六〇日目」を「六一日目」にそれぞれ改める。

2  原判決五六枚目表一行目の「預つてもよい。」を「あずかつてもいいし、」と改める。

3  原判決五七枚目表一一行目から同一二行目にかけての「全身状態の悪化により」を削る。

4  原判決五七枚目裏八行目の「同原告」を「被控訴人勝直」に改める。

5  原判決五九枚目表一行目、八行目、一一行目から一二行目にかけての各「天理よろず相談所病院」を各「天理よろづ相談所病院」と改める。

6  原判決六〇枚目裏一行目の「二〇〇〇グラム」を「二五〇〇グラム」に、同一〇行目の「昭和四八年」を「昭和四九年」に、同六一枚目表一行目の「未熟児」を「低出生体重児」にそれぞれ改める。

7  原判決六一枚目裏四行目の「第五一号証」の次に「(原本の存在も争いがない。)」を加える。

8  原判決六四枚目裏一一行目の「ヘイジ・メディア」を「ヘイジイ・メディア」に改め、同六五枚目裏三行目の「耳側周辺部」の次に「に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域」を加え、同六六枚目表一行目の「全局」を「全周」に改める。

9  原判決六七枚目裏四行目の「採用することはできず、」の次に「また、成立に争いのない乙第八三号証、当審証人松尾信彦の証言中には、被控訴人勝直は生後二、三か月以内に両眼とも網膜剥離ことに高度の全剥離を認めているからⅠ型網膜症ではなく、混合型網膜症では最初は限局性剥離であつて全周の高度剥離を短期間におこすことはまれであり、しかも剥離の進行は遅いから、被控訴人勝直の網膜剥離の程度と進行状態は混合型よりもⅡ型網膜症であると考えられ、被控訴人勝直が生下時体重一三四〇グラム、在胎期間三〇週、酸素使用期間二八日、無呼吸発作をひん発し、チアノーゼも高度で生後二七日にも無呼吸発作をおこした点など全身状態が極めて危険な期間が長かつたこともⅡ型網膜症を肯定させる根拠の一つである旨の記載ないしこれにそう供述部分があるが、右証拠によると、岡山大学医学部科学教室教授松尾信彦は、被控訴人勝直を直接診察したことはなく、本訴で証拠として援用されている診療録、病床日誌(看護日誌)、紹介状、返事等を参考にして、その経験に照らし、右のように被控訴人勝直をⅡ型網膜症であると推断しているもので、これらも本症につき症例を識別するための活動期病変の進行過程を観察した結果によるものとは認められないから、直ちに採用することはできないし、本件全証拠を検討しても、」を加える。

二まず、被控訴人らの主張する眼底検査の実施義務違反の存否につき検討する。

1 医師は、人の生命及び身体の健康の管理を目的とする医療行為に従事する者として、その業務の性質に照らし、診療当時のいわゆる臨床医学実践における医療水準に従い、患者の生命及び身体の危険防止のために最善の注意義務を負うものである。

ところで、我が国においては、現在一般的に専門医制度は設けられていないものの、現実の医師の担当範囲は、内科、外科、眼科、小児科、産婦人科等の各専門分野に分かれ、各分野ごとに日進月歩新たな研究が学会、医学雑誌等に発表されているから、臨床医がこれらの研究の結果をすべて的確に修得することは不可能で、一般の臨床医が従うべき医療水準は、自己の専門分野及びこれと密接に関連する分野の水準をもつて足りるものと解するのが相当である。

そして、新たな治療法が開発された場合、それが公表され、医学的実験、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、合併症との関係における治療適応、治療効果の確認、教育、普及という過程を経て新治療法として確定し、これが医療水準となる。しかし、このように新治療法が確定したとしても、それが特殊の技術を要し、あるいは高額の費用を要するなど当該医師のおかれている人的、物的な具体的環境、条件によつては、医師の注意義務の程度にある程度の差異が生ずることは避けられないところである。

また、医師が医療行為を修得していても、これに必要な人的、物的な条件を具備していない場合は、右設備を有する他の専門医の派遣を求めて協力を受けることが可能であればそれにより、あるいは他の専門医を紹介して転医を勧告する注意義務を負うものと解される。

2  被控訴人勝直出生当時の本症に関する医学水準について考察する。<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  本症の研究は、昭和一七年(一九四二年)にアメリカのテリーが未熟児の水晶体後部に灰白色の膜状物を形成する失明例を報告し、Retrolental Fibroplasia(水晶体後部線維増殖症)と名付けたのを先駆とし、その後、オーエンスらによつて本症が未熟児の後天性の眼疾患であることが明らかにされて、名称もRetinopathy of Prematu-rity(未熟児網膜症)と呼ばれるようになつた。

本症は、昭和一五年(一九四〇年)から昭和二五年(一九五〇年)ころまでの間アメリカにおいて多発し、多数の失明児を出して社会問題化したが、昭和二六年(一九五一年)にオーストラリヤのキャンベルが未熟児保育時の酸素過剰投与に原因があると唱え、昭和二九年(一九五四年)、アメリカ眼科学会が未熟児に対する酸素投与の制限的使用を勧告してから、本症の発生頻度が急激に減少した。

(二)  我が国において、保育器の使用による未熟児保育が発達したのは、昭和三〇年ころからで、欧米において酸素制限により本症の激減をみた後であつたため、本症に関する眼科医、小児科医の関心は薄く、一般にはもはや過去の疾患として扱われていた時期があつた。

しかしながら、我が国においても未熟児の医療保育が発達し、多量の酸素投与を余儀なくされる極小未熟児の生存率も高まるにつれて本症の発生が増加し始め、昭和四〇年前後ころから一部の先駆的な眼科医によつて、本症の本格的な臨床的研究が進められるに至つた。

(三)  昭和三〇年代から昭和四〇年代前半ころまでは、医学教育ないし医学文献において、本症の発症予防のため未熟児に対する酸素投与を制限すべきことが強調され、その基準として酸素濃度は四〇パーセント以下とし、減量は徐々に行うのがよいとされていた。そして前記のとおり、欧米において酸素制限の勧告により本症の激減をみた後に我が国の未熟児保育が本格化したこととも関連し、当時我が国の臨床小児科医の間においては、未熟児に投与する酸素の濃度を四〇パーセント以下に制限すれば本症の発生を防止できるとする見解が一般化していた。

しかし、昭和四〇年代後半になると、一部の研究機関を中心とした未熟児に対する定期的眼底検査の実施による本症の臨床的研究の成果が公表され始め、これによれば、本症の発生は投与された酸素の濃度や量と単純な相関関係にあるのではなく、児の動脈血の酸素分圧値と関係するもので、無呼吸発作などの著しい呼吸障害によりチアノーゼを呈している場合は、救命や脳障害防止のため高濃度の酸素投与を行なつてよいが、その状態が改善された場合は直ちに酸素を減量又は中止すべきであるとする見解が有力に提唱され、酸素濃度を四〇パーセント以下に押えた児や、極端な場合は酸素投与を全く行つていない児にも本症の発生をみている例が紹介されて、従来の酸素濃度四〇パーセント以下であれば安心であるとの一般的認識の危険性が指摘され、あわせて未熟児に対する定期的眼底検査の必要性が強調されるに至つた。

(四)  本症の早期発見のために未熟児に対する眼底検査の必要があることを啓蒙的に主張したのは、医師植村恭夫で、同医師は昭和三九年ころから眼科専門誌に本症に関する右主張を重ねて発表するとともに、昭和四〇年一〇月、国立小児病院眼科医長に就任して、奥山和男小児科医長と協議のうえ、未熟児の定期的眼底検査を実施した。

しかし未熟児に対する本症の発見を目的とした眼底検査の実施は、植村医師らの啓蒙的努力にもかかわらず、前記のとおり、我が国においては、本症は過去の疾患と考えられて一般に眼科医、小児科医の関心が薄かつたこと、未熟児に対する眼底検査は高度の技術的能力を要するうえ眼科医と小児科医との異なる専門領域の医師相互間の提携、協力体制を要すること、本症に対する確たる治療法の開発が遅れ、治療と結びついた検査としての眼底検査の実用的意義が認められたのは光凝固法の開発、普及以後であつたことなどの理由から、一般の医療機関への普及は速やかにとはいかず、本症の先駆的な研究者の勤務する病院(その大半は、大学附属病院)、本症に特に関心を有する医師の勤務する一部の病院から徐々に未熟児に対する眼底検査が普及していつたに止まつた。

(五)  四国は、新生児医療、殊に未熟児の眼科管理については、全国的にみて相対的遅れの指摘される地方であり、香川県内には、本件発生当時いわゆる大学附属病院はなく、比較的医療水準の高い国公立の病院のうち、当時、未熟児に対し、全員かつ定期的にとはいかないまでも、退院時までの間に何らかの形で眼底検査を実施していたのは、国立善通寺病院、高松赤十字病院、三豊総合病院及び屋島総合病院の四病院のみで、県立中央病院、県立津田病院、栗林病院では全く眼底検査を実施していなかつた。

そして、眼底検査を実施していた右四病院は、いずれも眼科の併設された総合病院で主としてその病院で出生した未熟児のみを検査の対象としたもので、眼科の併設されていない他の病院と提携、協力して出張検診又は児の搬送により他院の未熟児の眼底検査を実施していたのは国立善通寺病院を除きほとんどなかつた。

(六)  本症に対する治療法については、従前、一部において、ステロイド(副腎皮質)ホルモン、ACTHなどの薬物療法が用いられたことがあつたが、その治療上の効果につき消極的見解が有力で、むしろこれによる全身的な副作用が強調されている。

光凝固法を本症の治療に初めて適用したのは天理よろづ相談所病院の永田医師であり、同医師は、昭和四二年一、二月ころ、オーエンスの臨床分類の活動期3期に入り、なお増殖を停止しない二例に同法を施行して良好な結果を得、これを同年秋の日本臨床眼科学会で発表し、翌四三年四月これを同学会雑誌に発表した。

次いで、永田医師は昭和四三年一月から翌四四年五月までに同法を四例に追加施行し、その結果を昭和四四年秋の右同学会に報告(同学会誌発表は昭和四五年五月)したが、本症のオーエンス3期に入つてなお進行を止めないような重症例でも、光凝固法により治療せしめ得ることが明らかとなつたとして光凝固法の有効性を強調するとともに、同法実施の適期をオーエンス3期となつて網膜剥離を起こす直前とした。

その後、永田医師は、昭和四四年九月から昭和四五年六月までに同法を六例に追加施行し、その結果を昭和四五年一一月発行の同学会誌に発表し、更に昭和四五年七月から昭和四六年四月までに一三例に追加施行した。

(七)  永田医師の光凝固に関する右発表は、他の眼科研究者ないし研究機関の注目を集め、昭和四四、五年ころから全国各地で追試が試みられたが、主なところでは九州大学において昭和四五年一月から同年一二月までに二三例に施行し、うち二一例に著効を認め、関西医科大学において昭和四五年六月から一一月までに五例施行し、うち二例は治癒、二例は失明し(他院よりの転医児)、名古屋鉄道病院において昭和四四年三月から昭和四五年末までに一八例、兵庫県立こども病院において昭和四五年五月から昭和四六年八月までに一〇例、それぞれ施行するなどで、いずれもその結果は施行時期と施行症例に限界があるとしながらも、基本的には光凝固法による本症進行阻止効果を承認するものであつた。

(八)  被控訴人勝直出生当時ころ香川県下の病院で未熟児の本症に対し光凝固法を自ら実施できる眼科医師ないし病院は皆無であつたが、高松赤十字病院眼科部長であつた丸山光一医師は、京都大学医学部付属病院勤務中に永田医師を知り、永田医師の本症に対する光凝固法施行の報告を当初から強い関心をもつて受け止め、右報告の発表された昭和四三年ころから、当時勤務していた高松赤十字病院の小児科医の依頼を受けて眼底検査を実施した未熟児のうち、異常を発見したものを毎年一、二例天理よろづ相談所病院の永田医師のもとへ光凝固法施行のために送り、そのうち適期を逸せず同法の施行を受け得た約半数の者について良好な結果を得た。

また隣県の徳島大学医学部付属病院においては、本格的な医療行為というより研究機関としての臨床的追試の目的を兼ねるものではあつたが、非常勤講師の布村医師が、昭和四五年から光凝固法の実施を始め、昭和四六年七月ころまでに、すでに他院からの紹介患者を含めて一〇例の未熟児(うち香川県の国立善通寺病院からの紹介患者一例がある。)に対し光凝固法を施行し、その大半の者について良好な結果を得た。

なお、岡山大学医学部眼科では、昭和四六年までは本症に対し光凝固法を行つておらず、昭和四七年八月になつてようやくこれを実施した。

(九)  控訴人尾﨑医師が所属していた日本新生児学会関係の記事を掲載している同学会雑誌には、本症に関し次のような報告が掲載されていた。

(1) 昭和四四年三月発行の「日本新生児学会雑誌」第五巻第一号は、新生児呼吸障害について特集し、大阪市立大学小児科未熟児研究グループによる「新生児特発性呼吸障害の治療」と題する報告を掲載したが、右報告中には、新生児特発性呼吸障害の酸素療法に関連して本症についての記述があり、本症は未熟児の中でも生下時体重、在胎週数が少ないほど発生し易いこと、かつて酸素濃度を四〇パーセント以下に制限すれば安全と考えられていたが、同濃度以下を厳格に保持しても本症の発生した例があり、四〇パーセント以下の酸素濃度も長期間投与した場合は必ずしも安全とはいえないことが報告された。

(2) 昭和四四年一二月発行の同学会誌第五巻第四号には、第五回日本新生児学会総会において、関西医科大学小児科の岩瀬帥子らが「未熟児網膜症の発生要因と眼の管理について」と題する報告をした記事が掲載された。これによると、昭和四二年三月から二年間に同大学未熟児センターで扱つた未熟児一八〇例のうち一五例(8.3パーセント)に本症を認めたこと、本症と生下時体重及び在胎週数との関係では、それぞれ二〇〇〇グラム、三五週以下に圧倒的に多く発生しており、酸素投与との関係では、最高酸素濃度が四一ないし四二パーセントの症例に三例、三〇パーセント以下の症例に二例発生し、この二例は酸素投与時間はわずか四八時間以内であつたこと、本症の発生時期は生後一〇日から五〇日で平均二六日であり、進行度合はオーエンスの瘢痕期2度がほとんどで失明例はなく、経過観察中の二例を除いて全例自然治癒したことが報告され、酸素投与が少量であつた児に本症の症例を経験したことから、酸素投与の意義には再考を要するものがあり、酸素投与のいかんにかかわらず本症の発生が予想されるとして、未熟児に対しては入院時からの経時的な眼科管理とその後の追跡調査が絶対に必要であることを強調した。

(3) 昭和四五年一二月発行の同学会誌第六巻第四号は、医師植村恭夫の「未熟児綱膜症」と題する綜説論文を掲載したが、右論文は本症に関する当時までの医学的研究成果を詳細に論述し、本症の予防と治療の項では、本症の発生に酸素が「ひきがね」の役割をしていることは否定できず、酸素濃度の適正な看視はもちろん重要であるが、児の動脈血酸素分圧値の測定により意義があること、しかし右酸素分圧値の測定は技術的困難を伴い、本症の発見には定期的眼底検査の実施以外方法がないこと、本症の治療法として従来ステロイドホルモンの投与など薬物療法が用いられていたが、その効果について確証が得られず、新治療法開発の努力がなされていたところ、昭和四三年に永田医師らが光凝固法の施行による本症治癒例を報告し、最近各地で同法による治験例が出されていることについて述べ、結語として、光凝固法の開発により、本症は早期に発見ずれば失明を防止できることがほぼ確実となつたこと、したがつて、未熟児の眼管理を普及徹底するとともに、光凝固法による治療を可能ならしめるため麻酔医、産科医、小児科医と眼科医の密なる連繋を作るよう努力すべきであることが述べられた。

(4) 昭和四六年六月発行の同学会誌第七巻第二号は、永田医師らの「天理病院における未熟児網膜症の対策と予後」と題する報告を掲載したが、右報告は昭和四一年八月から昭和四五年八月までに同病院未熟児室に収容された未熟児生存例一六五例を対象に、本症の発生率、経過、予後及び本症進行例に施行した光凝固法の治療成績をまとめたもので、本症の発生率は15.2パーセント(二五名)で、そのうち、オーエンス活動期の2ないし3期まで進行した症例が9.1パーセント(一五名)、同4期まで進行した症例が3.0パーセント(五名)であること、生下時体重、在胎週数、酸素使用日数と本症発生との相関関係については、生下体重一六〇〇グラム、在胎週数三三週以上のものに一週間以内の酸素投与を行つた場合はまず危険はないと考えてよいが、生下時体重一六〇〇グラム、在胎週数三二未満のものに二週間以上の酸素投与を行つた場合は全例にオーエンス活動期の2期以上の本症が発生し、大多数は3期に進行したこと、本症に罹患した児のうちオーエンス活動期の3期を越えて増悪のみられる五例に対し光凝固法を施行し、極めて良好な治療成績を得たこと、また他院から送られた未熟児一〇例に対しても同法を施行し、手術時期を失した二例を除き、良好な成績を得たことを報告している。

(一〇)  本症の発見を目的とする眼底検査の実施方法及び条件は、次のとおりである。

(1) 出生した未熟児について、本症罹患の有無及び罹患していた場合の進行状況の把握は、児に対する眼底検査の実施によるほか方法がない。

そして、本症が未熟児の出生後三週間ないし一か月ころから三か月の間に多く発生し、前記臨床経過をたどることから、本症発症の有無及び進行状態を正確に知るには、生後三週間以降において週一回、三か月以降において隔週または一か月一回の頻度で六か月まで、それぞれ定期的に眼底検査を実施する必要があるとされている。

しかし、未熟児に対する定期的眼底検査の必要性は、前記の光凝固法の開発、研究以前から医師植村恭夫らによつて唱えられていたが、本件発生当時に定期的眼底検査を実施している病院は極めて少なかつた。

(2) 未熟児に対する眼底検査は、児にあらかじめミドリンなどの散瞳剤を点眼した後、倒像検眼鏡又は直像検眼鏡を用いて行うが、網膜周辺殊に耳側周辺部を観察するには倒像検眼鏡が適当で、直像検眼鏡では網膜周辺部の初期病変を見のがすことがある。

右眼底検査は、未熟児が保育器内で酸素投与を受けているとき保育器の外部から行うことも不可能ではないが、通常は児を保育器内から出して行い、検査に要する時間は約一〇分間くらいで、児にそれほどの負担をかけるものではないが、児の全身状態の悪い場合はもちろん実施すべきではなく、その判断は児を担当する小児科医ないし産科医に委ねられる。

(3) 未熟児に対する眼底検査自体は、一般の眼科医にとつてさして困難なものではないが、本症の発見、殊にその臨床経過の正確な診断は、俗に眼底検査三年の言葉があるくらいで、多数の症例を観察した臨床経験と熟練した技術を要するとされ、本件発生当時その能力を有する眼科医の数は、非常に少なかつた。

また眼科の併設された総合病院では、眼科医と小児科医ないし産科医の提携によつて、未熟児の眼底検査の実施が可能となるが、そうでない病院においては眼科医の出張診察を要請するか、児を眼科医のいる病院まで搬送するしかなく、前者の方法による場合は、他の病院及びその眼科医との間の協力体制が、後者の方法による場合は右協力体制に加えて未熟児の搬送を可能ならしめる携帯用保育器等の備え付けが前提条件となる。

(一一)  本症の治療を目的とする光凝固法の内容及び実施方法は、次のとおりである。

(1) 光凝固法は、太陽光線を凸レンズで集めて黒い紙の上に焦点を結ばせると燃えだす原理を眼科治療に応用したもので、眼底の疾患部位に光のメスともいえる光線を照射して行う外科的手術であり、元来は成人の網膜剥離の治療に用いられていたのを未熟児の本症治療に適用したものである。

(2) 光凝固法の本症治療上の有効性については、本症が自然治癒傾向の強い疾患である一方、光凝固によつても進行を阻止し得ない症例も稀にみられることから、同法の本症に対する治療効果を疑問視する見解や、発育過程にある未熟な網膜に外科的療法である光凝固法を施行することは、児の網膜に永久的な瘢痕を残すことになり、将来網膜剥離などの後遺症を発生させる虞れがあると指摘する見解など、消極的見解が存在し、一方光凝固法の本症治療への適用が昭和四二年に我が国の永田医師により初めて開発されたものでその歴史が比較的浅く、欧米諸国においてはその実施例が極めて少ないことから、本件発生当時、本症に対する治療法として光凝固法が確立しているとはいえなかつた。

(3) 光凝固法の本症適用は、昭和四二年の永田医師の開発以来、先駆的研究者、研究機関によつて追試、研究、実践が重ねられていたが、本件発生当時、一般的な治療基準はなかつた。

ちなみに、本症の診断及び治療基準について、現在のところ最も信頼できる研究報告である厚生省特別研究班報告(昭和五〇年三月)も、今後の研究の必要と修正の余地があることを前提としながら、光凝固法の本症治療上の効果を一応承認したうえで、その治療時期及び治療方法について、次のとおり述べている。

(イ) 治療時期

Ⅰ型の本症は自然治癒的傾向が強く、2期までの病期中に治癒すると将来の視力に影響を及ぼすと考えられるような瘢痕を残さないので、2期までのものについては治療を行う必要はなく、3期において更に進行の徴候がみられる時に初めて治療が問題となる。ただし3期に入つたものでも自然治癒の可能性が少なくないので進行の徴候が明らかでない時は治療に慎重であるべきである。この時期の進行傾向の確認には同一検者による規則的な経過観察が必要である。

Ⅱ型の本症は、血管新生期から突然網膜剥離を起してくることが多いので、Ⅰ型のように進行段階を確認しようとすると治療時期を失う虞れがあり、治療の決断を早期に下す必要がある。またⅡ型の本症は、極小未熟児で未熟性の強い眼に発生するので、このような条件を備えた例では眼底検査を可及的早期から行うことが望ましい。

(ロ) 治療方法

光凝固法は、Ⅰ型においては無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固し、後極部付近は凝固すべきではない。無血管領域の広い場合には境界領域を凝固し、更にこれより周辺側の無血管領域に散発的に凝固を加えることもある。

Ⅱ型においては無血管領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に十分な注意が必要である。

(4) 未熟児に対し光凝固法を実施するには、相当高価な機械である光凝固機の設置と熟練した高度の技術を有する眼科医の配置が必要である。

また光凝固法の施行には、未熟児を保育器から出したうえ、全身麻酔又は局部麻酔をする必要があり、手術に約一時間を要するから、児の全身状態がこれに耐え得る良好なものでなければならない。

(一二)  名古屋市立大学眼科学教室馬嶋昭生らは、本件発生後の昭和四七年六月以後、他の医療機関からの紹介例一九例を含む二五例に片眼のみを光凝固し、非凝固眼とともに詳細に比較し経過を観察した。そのうち一二例のみが検眼鏡的に網膜症進行に左右差を認めず厳密な検討の対象となり、うち二例は結局両眼とも凝固しなければならなかつたが、残りの一〇例は、凝固眼はすべてgrade Ⅰ(PHO)、非凝固眼はgrade Ⅰで治癒し、眼位、屈折状態、網膜血管蛇行度にも差異は認めなかつたとし、Ⅰ型において光凝固をすれば必ず人工的瘢痕を永久に眼底に残すことにもなるので、光凝固法の実施時期、方法についてはなお今後の研究にまたなければならない旨を昭和五一年一月発行の臨床眼科(三〇巻一号)で報告している。

(一三)  岡山大学医学部では、昭和三七、八年ころから、学生に対し、本症に関する簡単な講義がされるようになり、昭和四九年三月に岐阜地方裁判所によるいわゆる日赤高山病院未熟児網膜症事件の判決を契機として、本症に関する講義を詳しくし、未熟児に対する眼底検査の指導も積極的に行うようになつた。他の大学においてもほぼ右と同様の状況であつた。

以上に認定した事実によれば、被控訴人勝直が出生した昭和四六年七月当時及びこれに続く二、三か月間の本件発生当時ころの本症に関する医学水準は、ステロイドホルモン等による薬物療法は効果が認められず、未熟児に対する光凝固法による本症の治療がようやく追試段階に入つたばかりであり、いまだその治療基準も確立されず、それが一般的に普及していたとか普及に近い状態にあつたとはいえず、かつ、未熟児に対する本症の発見を目的とする定期的ないし個別的眼底検査の実施も一般の医療機関には普及していなかつた段階にあつたものといえる。

もつとも<証拠>によると、永田誠医師は、昭和五七年二月二二日の別件訴訟における証人尋問で、本症のうちⅠ型の場合はほとんど自然治癒するので、失明を防ぐという意味では光凝固法が必要でない場合が多いと思うが、Ⅰ型を放置するとかなりの率で重症の弱視を起すので、重症の弱視を起すような心配がある場合には本症に光凝固法を適用して弱視を完全に防止できると確信しているといい、自然瘢痕を持つた子供は、一〇歳を過ぎると非常に高率に網膜剥離を起こし、その手術をしても治癒はむずかしい例が多いので、軽症の瘢痕といえども予防的に光凝固法により治療し、そういうものを残さないようにすべきであり、混合型、Ⅱ型の大多数の症例にも光凝固法は有効であつて、昭和四二年に最初に光凝固法を適用した子は、視力が1.0、眼底にわずかに乳頭の変形があるが、黄斑部は正常で、周辺部に光凝固の瘢痕があるが網膜剥離を起こすおそれはなく、視野も正常、網膜の機能全体を測る電気的な検査法(ERG(エレクトロ・レチノ・グラム)網膜電図)で検査しても全く正常であり、天理よろづ相談所病院で適切な時期に光凝固法をした子供らの現在の視力は極めて良好であるほか、現時点での経過観察では合併症の起こる危惧もなく、なお、光凝固法について片眼凝固等によるコントロールスタディは、両親が許さないと思うし、人道的にも問題があるからこれらを行わない旨供述していることが認められるが、他方、<証拠>によると、永田医師の本症に対する光凝固法の必要性についての右見解は、昭和五一年ころ以降のものであること、本症に対する光凝固法による治療についての追試的な報告が最初になされたのは、昭和四六年四月刊行の「臨床眼科」二五巻四号の上原雅美、塚原勇らによる「未熟児網膜症の急速な増悪と光凝固」という報告書であること、植村恭夫医師が同年一一月刊行の「現代産科婦人科大系」において、当時は本症の確実な予防あるいは治療法はない旨論述していることを永田医師も肯定していること、自然治癒した子供が一〇歳を過ぎて網膜剥離を起こすことがわかつたのは昭和五〇年以降であること、永田医師自身極めて少ないが片眼凝固を実施したこと、永田医師は光凝固法について追試者が非常にゆつくりと現われて地道に検討してくれることを期待していたのに、小児の失明という劇的かつ深刻な事態と直接関連していたために、これに対する社会的要請が先行し、その結果として試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認、治療法としての確立とその教育普及という医療の常道を踏まず、直接普及段階に入つてしまつた旨考えていることが認められるのであつて、これらの認定事実によると、永田医師の当初の供述があるからといつて、前記の本症に関する医学水準の認定を左右するものとはいえないし、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

3  次に、控訴人尾﨑医師の本症に関する知見について考察する。

控訴人尾﨑医師が昭和四〇年一二月から昭和四四年五月までの間、国立善通寺病院において多数の未熟児の保育に携り、同病院において本症に罹患した未熟児の保育に関与した経験を有すること、同医師が日本新生児学会の結成以来の会員であること及び被控訴人勝直が控訴人病院に入院中、同病院の健康管理科部長岡耕一医師に依頼して、同被控訴人に対し眼底撮影を実施したことは、当事者間に争いがなく、右事実に<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  控訴人尾﨑医師は、昭和三七年三月に徳島大学医学部を卒業し、昭和三八年四月、同大学小児科教室研究副手、同月医師免許取得後、昭和四〇年三月に同小児学科教室助手となり、同年一二月、同大学から国立善通寺病院に派遣され、昭和四三年二月から厚生技官として昭和四四年五月まで同病院で臨床経験を積んだ後、同年六月から控訴人病院に勤務し、昭和四六年三月、同病院小児科開設と同時に同科部長に就任した者で、本症に関し特に専攻したことはないが、昭和四〇年に結成された新生児、未熟児問題を扱う日本新生児学会に結成当時から入会し、また国立善通寺病院に派遣中は、同病院の特殊小児診療センターにおいて多数の未熟児保育に携つた経験を有する。

(二)  控訴人尾﨑医師は、徳島大学の医学教育において、すでに、未熟児に対する酸素過剰投与により本症発生の危険があることを学び、臨床医となつてからは、新生児ないし未熟児の治療に当り、東大小児科治療指針を一つの拠としていたが、これらによつて本件発生当時、本症と酸素投与との関係については、本症発生予防のため酸素濃度は四〇パーセント以下に制限し、できればこれを三〇パーセント以下に抑え、酸素投与停止の際は、これを徐々に減量する必要があると理解し、更に、酸素投与に際し、右の注意を遵守すれば、ほぼ本症の発生は防止できると認識していた(同医師が、右知見に基づき、被控訴人勝直への酸素投与を三〇パーセント以下に制限し、全身状態の改善に照らして、徐々に減量に努めたことは前記被控訴人勝直の臨床経過の項において認定したとおりである。)。

(三)  控訴人尾﨑医師は、国立善通寺病院に派遣されていた昭和四三年ころから同病院の未熟児担当の小児科医師が同病院の眼科医に依頼して未熟児が保育器から出されて退院するまでの間に本症発見を目的に眼底検査を実施していたことから、控訴人尾﨑医師も、同病院において担当した未熟児一〇数例について右同様眼底検査を受けさせたが、右一〇数例の未熟児については、いずれも本症の発生はなかつた。

控訴人尾﨑医師は、本件以前の昭和四四年三月ころ、国立善通寺病院において、他の小児科医師の担当した未熟児で酸素投与を全く行つていない一例に本症が発生したのを見聞しているが、これは、控訴人尾﨑医師が同病院に派遣されていた約四年半の間に同病院で出生した未熟児約二五〇例のうちの一例(ただし、同病院において昭和四二年度に二例、四三年度に五例、四四年度に五例、本症罹患児を出している。)で、担当医師からその病状は比較的緩慢に進行し、ステロイドホルモンを投与しても効果がなかつたことを聞いている。

(四)  控訴人尾﨑医師は、本件発生当時、本症の治療法については、ステロイドホルモンの投与についての知見はあつたが、国立善通寺病院の例からもその効果は疑問視しており、また光凝固法については、その名称を聞いたことがあるが本症の治療法と関連づけての理解はなく、本症に関する有効な治療法は未だ確立していないと理解していた。

(五)  控訴人尾﨑医師は、日本新生児学会のメンバーとして少なくとも昭和四五年から同学会に出席していたし、日本新生児学会雑誌を閲読し得る状況にあつた。

以上に認定した事実によれば、控訴人尾﨑医師は、酸素投与を行つた未熟児に本症が発生し失明に至ることがあり得ることは臨床経験を積む以前から理解しており、ただ酸素濃度を四〇パーセントないし三〇パーセント以下に制限し、酸素量を徐々に減量すれば、ほぼ本症の発生を防止し得ると考えてはいたが、国立善通寺病院における前記臨床経験から、極めて稀有の事例とはいうものの、酸素投与を全く施行していない未熟児にも本症が発生した例を知つており、同医師の本件発生当時における本症に関する右医学的知見は、当時の医療水準にそうものであつたものと認められる。

4  そこで、控訴人尾﨑医師に被控訴人らが主張する眼底検査実施義務違反があつたかどうか考察する。

前項で認定した事実に前記引用に係る原判決認定の被控訴人勝直の失明に至る経過を総合すると、控訴人尾﨑医師は、被控訴人勝直に本症が発生する危険のあることを予見し得たか、少なくともこれを予見すべきであつたというべきである。すなわち、控訴人尾﨑医師は、被控訴人勝直が控訴人病院に入院中、同病院健康管理科部長岡耕一医師に依頼して、同被控訴人に対し眼底撮影を実施したし(ただし、原審における控訴人尾﨑本人尋問の結果によると、右眼底撮影は失敗に帰したことが認められる。)、また、同被控訴人の退院に際し、本症の発見と一般的眼科疾患の検査を兼ねた眼科医に対する紹介状を書いていることは後記のとおりであり、これらの行為は、いずれも控訴人尾﨑医師において被控訴人勝直に本症が発生する危険のあることを認識していたがゆえの行為と理解され、控訴人らが、控訴人尾﨑医師は被控訴人勝直の本症罹患を予想だにしておらず、同医師の右行為は、単に本症発生の知識を有していただけで、同被控訴人の本症発生を予見したうえでの行為ではないと主張している点は首肯できない。

更に、本件発生当時ころには、本症の研究者から臨床小児科医に対し、酸素濃度を四〇パーセント以下に制限しても本症の発生がみられること、殊に極小未熟児には本症の発生率が高いこと、本症の早期発見のためには未熟児に対する定期的眼底検査の必要があること、本症の治療法として光凝固法が開発され、かなりの追試を経てその有効性が確かめられつつあることなどの警告ないし報告がなされており、控訴人尾﨑医師においても、同医師の所属する日本新生児学会ないし同学会誌を通じて、本症に関する右医学的新知見についてこれを知る機会があつたことなどすでに認定した事実関係にかんがみれば、同医師は、新生児の医療に従事する臨床医として、被控訴人勝直の本症罹患を予見していたかこれを予見できたというべきである。

しかしながら、未熟児に対する眼底検査は、本症を発見してその治療時期を判定することに意義を有するもので、本症に対する有効な治療法が前提となるものであるところ、前記のように、本件発生当時においては、未熟児に対する定期的眼底検査の実施は極めて少なかつたし、個別的眼底検査の実施も十分に普及していなかつたうえ、本症に対するステロイドホルモン等による薬物療法は、有効な治療法として確立されていなかつたし、本症に対する光凝固法もいまだ先駆的研究者により追試として実施されていた段階にあつて、一般臨床医の間に治療法として普及していなかつたことは明らかであるから、控訴人尾﨑医師が被控訴人勝直に本症が発生することを予見し得たにもかかわらず、同被控訴人に眼底検査を実施しなかつたとしても、これに過失があつたということはできない。

のみならず、一般的に医師に対しある診療行為の実施義務があるというためには、単に医師が右診療行為の必要性の認識を有し、又はその認識を有すべきであつたとの主観的要件だけでは足りず、特段の事情がない限り、当該診療行為が該医師の勤務する病院の設置された地方における同病院と同規模、能力を同じくする他の病院においても、これが実施される程度にまで客観的に普及をみている必要があることは、前記1の医師の責任と一般的医療水準の説示から推して当然であるといわなければならない。

そして、被控訴人ら主張の眼底検査を実施するには、眼科の併設をみない控訴人病院にあつては、他院の眼科医ないし他院との提携、協力体制を要するところ、未熟児に対する本症発見を目的とした眼底検査は、全国的にみても、昭和四〇年ころから一部の研究機関を中心に徐々に普及をみたもので、昭和四六年の本件発生当時、控訴人病院の置かれた香川県地方においては、国公立の眼科の併設された総合病院のうち、約半数の四病院で実施されていただけで、しかも、国立善通寺病院を除き、その病院で出生した未熟児に対し眼底検査を実施していたに止まり、他院ないし他院の眼科医との提携、協力のもとに、出張検診などの方法により未熟児の恒常的眼底検査を受けるだけの医療体制は敷かれていなかつたこと前記のとおりである。

そのうえ前掲各証拠と当裁判所の引用する被控訴人勝直出生時の臨床経過によると同人は、生後約四週間、全身状態が悪く呼吸停止や四肢のチアノーゼの症状を示し、その後も体温、呼吸数の異常増加や貧血がみられ、控訴人病院は、本件発生当時、未熟児運搬用保育器として極く短時間だけ使用可能なもののみを所有していたので、数十キロメートルも離れた国立善通寺病院へ被控訴人勝直を搬送することはできない状況にあつたことが認められ、また、本件発生当時、一般に眼科医が不足していたことは前掲各証拠により明らかであり、控訴人らにおいて、他から未熟児の眼底検査をする能力のある専門医を容易に派遣してもらうことができたと認めるに足りる証拠はない。

更に、原審証人藤沢洋次の証言によれば、香川県下においては、高松赤十字病院とともに、一流の設備、規模を有する総合病院としての評価を有する県立中央病院(この点は、当裁判所に顕著な事実である)においてさえ、本件当時すでに眼科を併設し、眼底検査の実施能力を有する眼科医を擁していたのに、未熟児に対する眼底検査の実施はいまだ施行されるに至つていなかつたことが明らかである。

控訴人病院は、原則として控訴人公社職員及びその家族を診療対象とし、本件当時、総合病院の形態はとつていたものの、内科、小児科、外科、産婦人科及び健康管理科に各一名の医師を配置していただけの規模も大きくない病院であり、眼科の併設もなく、小児科は昭和四六年三月に設置されたばかりで、被控訴人勝直が、同病院で出生した最初の未熟児であつたことは、いずれも当事者間に争いがないところである。

以上の実情からすれば、本件当時の香川県下における未熟児眼底検査に関する医療水準ないしは、その普及度合に照らし、前記程度の規模・設備を有するに過ぎない控訴人病院に勤務する小児科医たる控訴人尾﨑医師に対し、又は他院の眼科医と提携し、若しくはその協力を得たうえ出張検診を受け、若しくは搬送により未熟児の眼底検査を実施すべき注意義務を課すことは余りにも当時の医療体制の現状、地域的環境による制約を無視するもので相当ではないといわざるを得ない。

被控訴人らは、控訴人尾﨑医師が、国立善通寺病院において未熟児保育に相当期間従事し、自ら未熟児の眼底検査を同病院の眼科医に依頼していた事情をもつて、同医師に被控訴人ら主張の眼底検査実施義務が存在する一事由であると強調するが、<証拠>によれば、同国立病院は昭和三四年ころから特殊小児診療センターを設置して未熟児医療に当たつてきた香川県下でも先駆的病院で、控訴人病院とはその規模、能力を異にし両者を同一には論じ得ない事実が認められるから、右事情をもつて、控訴人尾﨑医師に被控訴人ら主張の眼底検査実施義務を認める特段の事情とみることはできない。

5  以上に認定説示したとおりであるから、控訴人尾﨑医師に眼底検査実施に関する義務違反はなく、したがつて、その余の点について判断するまでもなく、被控訴人らの右義務違反を理由とする本件不法行為ないし債務不履行による損害賠償請求は失当である。

三次に、被控訴人らの主張する説明義務違反の存否につき検討する。

1 医師が、診療をしたときは、本人又はその保護者に対し、療養の方法その他保健の向上に必要な事項の指導をすべき義務を負うことは医師法第二三条に定めるところであるが、同法条は、倫理的な規定であつて、この規定から直接医師の具体的な説明義務が発生すると解するよりむしろ、診療契約が準委任契約であるから、民法第六五六条、第六四五条、第六四四条の規定により、医師は患者又はその保護者に対し診療についての説明義務を負うものと解するのが相当である。

医師の説明義務の基準となるものは、診療当時の臨床医学の実践における医療水準であり、これを越える高度の医療については、当該医師が特別の経験により知得している等特段の事情がない限り、説明義務を負わないものというべきである。そして、説明義務の内容と程度は、当事者の地位、経歴、疾患に対する認識の度合、疾患の軽重等により具体的にその限界が定められるべきものである。また発生が予見される疾患であつても、それが比較的軽微で自然治癒が予測されるもの、当該医師が診療により容易に治療可能なもの、患者に対して説明しても、その疾患に対する治療方法がなく、かえつて患者に無用の不安感ないし苦痛を与えるものについては、医師の説明義務は発生しないし、医師がその専門外の領域における疾患を予見できる場合には、その予見した疾患の専門医に診療を受けるように勧めることをもつて足りるものと解される。更に新たな治療方法が開発され、それが一般臨床医の間に有効なものとして確立されている場合は、これにより医師の責任の有無を決定すべきであるが、新治療法の開発、施行が一部の先駆的医師や大学研究機関によつてのみなされ、いまだ一般臨床医の間に普及していない場合には、当該臨床医が新治療法をたまたま知つていればこれを患者に説明して転医を勧告すべきであるが、新治療法を知らず、しかもそれが自己の専門分野及びこれと密接に関連する分野以外のものであればこれを説明すべき義務は発生しないものというべきである。けだし日進月歩する医学部門における開発途上の新治療法を研究機関でない一般臨床医に対し常に知得のうえ、それを説明しなかつたとして法律上の責任を問うのは酷に失するからである。

2 控訴人尾﨑医師が、被控訴人勝直に本症が発生する危険のあることを予見していたか、少なくともこれを予見できたとはいえるが、本件発生当時、未熟児に対する光凝固法による本症の治療はようやく追試段階に入つていたものの、いまだ一般的には普及せず、それが普及に近い状態にあつたともいえず、また、未熟児に対する本症の発見を目的とする定期的眼底検査の実施も一般の医療機関に普及していなかつたうえ、控訴人尾﨑医師は、光凝固法の名称を聞いたことがあるが本症の治療法と関連づけての理解がなく、本症に関する有効な治療法は未だ確立していないと理解していたことは、前述のとおりであるから、このような事実関係のもとにおいては、控訴人尾﨑医師には、被控訴人らの主張するような被控訴人勝直の退院までの間若しくは遅くとも退院時に同被控訴人の保護者に対し直ちに眼底検査を受けなければ本症に罹患し失明に至る可能性のあることを指示、説明して、眼科医による被控訴人勝直の早急の診察の必要を指導、勧告すべき注意義務があつたということはできない。

控訴人尾﨑医師が、八月二八日、被控訴人勝直の退院許可に際し、被控訴人喜久子に対し、被控訴人勝直の眼科医受診のための紹介状を書く旨申し向けたこと、控訴人尾﨑医師が、九月二日、被控訴人喜久子の申し出により、県立中央病院眼科医あてに紹介状を書き、これを同被控訴人に交付したこと、右紹介状の趣旨は本症の有無と一般的眼科疾患の検診を兼ねるものであり、同紹介状には被控訴人勝直に対する酸素投与の経過が記載され、眼科医がこれを閲読すれば右紹介状は未熟児たる被控訴人勝直の本症罹患の有無を確認するための眼底検査の依頼であると理解できるものであつたことは、前掲乙第四号証と弁論の全趣旨により明らかである。そこで、右紹介状の交付に関する経緯につき考察する。

<証拠>を総合すると、被控訴人喜久子は、昭和二〇年一〇月二七日出生し、笠岡西中学、笠岡高校を経て昭和四二年三月に岡山大学医学部附属高等看護学校(修業年限三年)を卒業し、看護婦国家試験に合格して看護婦免許を取得、同年四月から昭和四五年三月まで岡山大学医学部小坂内科、同年五月から一〇月まで高松市内の栗林病院の勤務を経て同年一一月から控訴人病院に看護婦として勤務していること、同被控訴人が右看護学校に在学中に教科書として用いられていた高等看護学講座二四巻には哺育器内の酸素はつねに三〇パーセント内外に保つように心がける、酸素の量が多すぎると哺育器から出したのちに失明するものがしばしばあるので、長期間哺育器内で育てる場合には注意を要する旨の記載があり、同被控訴人とほぼ同時期に津山高等看護学校を卒業し、本件発生当時控訴人病院小児科に勤務していた同僚看護婦は、教科書及び講義を通じて酸素過剰投与により本症発生の危険があるとの知識を有していたこと、控訴人尾﨑医師は、被控訴人勝直の酸素投与の制限に成功したと判断していたが、念のため同被控訴人の眼底を撮影して後日のために記録にとどめられないものかと考え、同被控訴人の入院中、控訴人病院の健康管理科部長岡医師に依頼して同被控訴人の眼底撮影を試みたがこれは失敗に帰したこと、控訴人尾﨑医師は、八月二八日、念のため、被控訴人勝直の本症罹患の有無及び眼疾患一般について専門医の診察を受けさせようと考え、同被控訴人の退院後に一度眼科の診察を受ける必要があるから希望の病院を申し出るように被控訴人喜久子に述べたこと、同被控訴人は、控訴人尾﨑医師から前記紹介状を受取り、九月四日、被控訴人勝直を退院させたが、退院後、同被控訴人の眼脂が減つたこともあつて同人を眼科医に受診させるのを怠り、同年九月二八日になつてはじめて香川県立中央病院の藤沢医師の診断を受けたことが認められる。

控訴人らは、控訴人尾﨑医師が、被控訴人喜久子に対し、被控訴人勝直の眼科受診を勧告した際、本症罹患の危険を説明したうえ早期受診を指示した旨主張し、控訴人尾﨑医師は、原審及び当審(第一回)における本人尋問において、右主張に副うような供述をしているが、これを裏付けるに足りる的確な証拠がなく、原審当審における被控訴人喜久子本人尋問の結果と比較し、右供述は措信できない。

右認定事実によれば、控訴人尾﨑医師が被控訴人喜久子に紹介状を渡した際、本症について詳細な説明をしなかつたとはいえ、被控訴人喜久子は、正規の看護婦として本件発生当時までに四年間も実務経験を有し本症の知識をもつていたのであるから、控訴人尾﨑医師が患者又はその保護者に対し専門医あての紹介状を交付してその受診を勧告した主たる目的が本症罹患の有無の検査にあることを理解していたか当然理解できたものと推認される。前述のように、被控訴人勝直が入院中に眼脂を出す疾患があつたことは被控訴人喜久子にもわかつていたが、被控訴人勝直は未熟児として出生したのであるから、被控訴人喜久子としては、受診を妨げる特別の事情がない限り控訴人尾﨑医師の勧告に従い直ちに被控訴人勝直を専門の眼科医に受診させるべきであつたのに、同被控訴人は本症についての控訴人尾﨑医師の配慮を無にし被控訴人勝直の眼脂が減つたことを被控訴人喜久子なりに受診の必要性が減じたと速断して紹介状を交付した控訴人尾﨑医師に相談もせず、眼科医の受診を遅延させたものであるから、その間に被控訴人勝直の疾患が悪化し治療の時期を失したとしても、それは被控訴人喜久子自らの責任であつて、医師として為すべき責任である紹介状を交付して眼科医の受診を勧告した控訴人尾﨑医師を非難しその責任を追及することはできない筋合である。被控訴人喜久子は、原審及び当審における本人尋問で、被控訴人勝直を外来の眼科医に連れて行くことにより他の病気の感染を受けることを懸念したので眼科医の受診が遅延した旨供述するが、左様なことは何処の病院でも同じことで問題とできず、小児科医である控訴人尾﨑はそのようなことを考慮したうえで、なお眼科医の受診の必要性を重要とみてこれを勧告したものと推認できるから、右のような理由は遅延の特別の事情に当たらないと認められるし、他に右遅延を正当とする特別の事情を認めるに足りる証拠はない。

そして、本症は、前述のように発見の時期を失すると光凝固法による治療も不能となるのであり、仮に被控訴人喜久子が控訴人尾﨑医師の紹介状により退院後すぐ被控訴人勝直を専門の眼科医に受診させていたならば、外の要素も入つてくるが本件とは別の結果となつたかも知れない可能性を否定することはできないのである。

被控訴人らは、控訴人尾﨑医師こそ前記紹介状を交付し同じ控訴人病院に勤務していたことでもあり、被控訴人喜久子に対して被控訴人勝直の眼科医受診結果の報告を促すべき注意義務があつた旨主張するが、原審当審における控訴人尾﨑浩本人尋問の結果によれば、同人は被控訴人喜久子が紹介状による受診を終え異状がないから何の報告もないものと安心していたことが認められ、この場合控訴人尾﨑医師が左様に理解するのはもつともなことであり、それ以上に医師が報告を求めなかつた点まで患者を他の専門医に紹介した医師の法律上の責任とすることは、広きに失すると考えられ理由がない。むしろ、前述のとおり、被控訴人喜久子において被控訴人勝直の眼脂が減つたことを認めたのであれば、その旨控訴人尾﨑医師に告げて、眼科医の受診を見合わせてもいいか相談すべきものであつたと認めるのを相当とする。

被控訴人勝直の失明という結果は実に重大で気の毒であるが、前述のとおり控訴人尾﨑医師が本症による被控訴人勝直の失明を予知できながらこれを保護者である被控訴人喜久子らに説明しなかつたとしても、本件発生当時、控訴人尾﨑医師は本症に対する確立した治療法はないと理解していたし、いまだ一般的に光凝固法は普及していなかつたのであるから、控訴人尾﨑医師には右の点につき説明義務違反を問うことはできないというべきである。

3  以上に認定説示したとおりであるから、控訴人尾﨑医師に説明義務に関する違反はなく、したがつて、その余の点について判断するまでもなく、被控訴人らの右義務違反を理由とする本件不法行為ないし債務不履行による損害賠償請求は失当である。

四以上説示したところにより、その余の点を判断するまでもなく、被控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却すべきものである。

よつて、控訴人らの控訴に基づき右と異なる原判決中の控訴人ら敗訴部分を取り消し、被控訴人らの請求、したがつて被控訴人勝直の附帯控訴も理由がないからこれらを棄却し、控訴人公社の民事訴訟法第一九八条第二項に基づく請求は理由があるから、主文第四項のとおり被控訴人らに各支払を命じ、訴訟費用の負担につき、同法第九六条、第八九条、第九三条第一項本文を適用し、主文第四項の各金員の支払につき仮執行の宣言を付することは相当でないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(菊地博 滝口功 川波利明)

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