高知地方裁判所 平成14年(ワ)45号 判決 2005年1月18日
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告に対し,500万円を支払え。
第2 事案の概要
本件は,原告(昭和37年*月*日生)が,被告の経営する病院に入院中,褥瘡の予防及び治療について必要とされる適切な措置が講じられなかったことにより,原告の仙骨部等に褥瘡が発生したとして,被告に対し,診療契約上の債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償を求めた事案である。
1 争いのない事実等
(1) 原告は,本件当時38歳の1児を有する女性であり,被告は野市中央病院(以下「被告病院」という。)を経営する医療法人である(弁論の全趣旨)。
(2) 原告は,自分の子供の麻疹に感染し,平成13年3月16日,被告病院に入院したが,入院後高熱が続き,麻疹脳炎(麻疹に伴う髄膜炎)となった。原告は,被告病院に入院中,仙骨部(臀部)及び両踵部の褥瘡を発症した(甲2,乙1)。
(3) 原告は,同年4月12日,高知医科大学附属病院(以下「高知医大病院」という。)に転院し(病名は急性散在性脳脊髄炎,症状は両下肢麻痺・排尿障害・褥瘡である。),同年5月1日に仙骨部の褥瘡の切開手術を受けた(甲3,4)。
(4) 原告は,同月29日,高知記念病院に転院し(病名は麻疹脳炎後遺症・褥瘡・神経因性膀胱,症状は歩行障害・仙骨部左踵潰瘍痴皮・排尿障害である。)との診断を受けて治療が行われ,同年7月17日ころ退院した(甲5,6)。
2 主たる争点
被告病院が,原告に対し,褥瘡の予防及び治療について必要とされる適切な措置を講じたか否か。
(原告の主張)
原告は,麻疹脳炎により約1週間意識がもうろうとし,更に両下肢麻痺により歩行障害が発生していたもので,可動性,活動性,知覚が著しく低下し,褥瘡になりやすい状況にあったもので,入院当初から褥瘡の発生が十分に予見できた。このような患者に対しては,体圧分散マットレスを使い,体位変換にもかなりの注意を要するとされる。しかるに,被告においては,このような危険要因についてまったく斟酌せず,褥瘡が発生する危険性について予見せずに,かつ,何らの予防措置をとらなかった。原告が被告病院に入院してから褥瘡が最初に発見された9日間の間に褥瘡が発生したのは,被告病院が褥瘡に対する十分な予防策を講じなかったからである。特に,完全看護の治療体制となっている被告病院においては,褥瘡の発症はすべて被告の責任である。被告には,褥瘡に対する治療を施さず,褥瘡をより拡大せしめた責任もある。仮に,原告が看護師の言うことを聞かなかったとしても,患者の治療を目的とする医療機関の責任が軽減されることはない。
(被告の主張)
被告は,平成12年夏ころから褥瘡対策に取り組み,高知県立中央病院に派遣した看護師を中心として褥瘡予防のための勉強会を続け,褥瘡の発生しやすい患者については,2時間毎の体位変換の励行,枕・スポンジ・エアーマット等の使用,清拭の励行等を徹底していた。
原告は,入院時には可動性,活動性に欠けることはなく,介助の必要は認められなかった。原告に対し褥瘡予防の措置をとる必要が生じたのは,原告が入院した3日後からである。
被告病院は,褥瘡予防措置を必要とする患者に対しては2時間間隔で看護師と看護助手の2名で体位変換を行い,側臥位にしたときはその体位を維持し仰臥位に戻らないよう背部に枕をあてがったり,圧迫のかかる部分にはスポンジをあてがうなどしており,原告に対してもこれを励行していた。原告は,わがままな患者で,体位変換の際に,看護師が側臥位にしても勝手に仰臥位に戻っていることも度々で,看護師が注意してもなかなか聞き入れなかったもので,このことも褥瘡発生の一因となっている。
また,被告病院の看護師らは,原告を褥瘡の発生しやすい患者として把握し,清拭を励行したほか,原告が発汗の多い体質であったため,シーツや寝間着を度々着替えさせ,その時にも全身を清拭していた。被告病院にはエアーマットも完備されていたが,エアーマットを使用すると電気料が患者負担となり,原告の母親が被告病院の看護師らに経済的な苦境を訴えていたことから,その使用を差し控えた。また,被告病院の看護師らは体位変換の際には全身にタッピングを実行するなどして,褥瘡の予防に努めていた。以上のとおり,被告病院の看護師らは十分な褥瘡予防措置を実行していたものであって,被告病院にはなんら責任はない。
原告が褥瘡を発症してから,被告病院は,褥瘡部についてオルセノン軟膏の塗布,消毒,ガーゼの交換等の治療は行っており,何らの落ち度もない。
第3 争点に対する判断
1 前記争いのない事実等並びに証拠(甲2ないし8,9の1及び2,13の1及び2,乙1,2の1及び2,3,4,5の1ないし13,6の1ないし7,7の1ないし12,証人甲野,証人倉本)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
(1) 原告は,平成13年3月16日に被告病院内科の丙川一郎医師(以下「丙川医師」という。)の診察を受け,麻疹及び重症の肺炎(疑い)と診断された。原告には全身麻疹,呼吸困難の症状があり,約38,39度の熱も出ていたため,そのまま被告病院の個室に入院することになった。
当時,被告病院の病床数(4階)は46で,看護師12名,准看護師4名,看護助手7名の計23名で看護体制をとっており,日勤では看護師6,7名,看護助手2,3名が,夜勤では看護師2,3名,看護助手1名がおり,引継ぎはカーデックス(患者ごとにとるべき看護措置等を記載した文書)により行っていた。被告病院は,平成12年の夏ころから高知県立中央病院に看護師を派遣し,勉強会を開くなど褥瘡対策を始め,平成13年当時には,褥瘡対策として自力で動けない患者に対しての約2時間毎の体位変換,体の清拭,タッピング(マッサージ)等を行っており,エアーマットも保持していた(なお,被告病院は,平成14年9月までに後記褥瘡対策未実施減算に対応する体制を整備した。)。
原告は,被告病院に入院当初,意識はあり,手足も動かせる状態で,安静度については病室内歩行とされ,やせや栄養状態の不良は見られず,体位変換のために体交枕が使用された。
(2) 被告病院入院後,原告の熱はいったん下がったが,同月19日,原告は再び40度近くの高熱を発して意識障害を起こし,同月21日まで40度を超す熱が出て,麻疹の合併症として髄膜炎が疑われた。そして,原告は自力で寝返りができないようになり,発汗も多量で尿失禁もあったため,被告病院の看護師は,髄膜炎の治療と並行して,原告に対し概ね2時間毎の体位変換を複数名で行うとともに,ベッドバス(ベッドの上で患者の体を清拭すること。被告病院の看護記録等ではB・Bと記載されている。)や寝間着の更衣を通常より頻繁に行い,尿路カテーテルの挿入を実施した。また,被告病院の看護師は,原告の母親にエアーマットの使用を勧めたが,原告の母親はエアーマットの使用が有料であったことからこれを断った。原告は,同月25日,26日には,看護師と普通の会話ができる程度に回復し,熱も落ち着いてきたが,麻疹脳炎の後遺症と思われる両下肢の運動障害が生じた。
なお,平成13年3月19日から同月26日までの期間中の原告の体位変換について,被告病院の看護記録には同月21日23時の欄に「側臥位にすると腰部にかけての痛みup」,同月22日6時の欄に「体交にて全身痛訴う」,同月23日23時の欄に「体変時にも痛がるもすくみ痛の訴えである。側臥位とする。」,同月24日23時の欄に「体変時腰痛訴え」,同月25日3時の欄に「体変時腰&両下肢痛あり」,同日21時の欄に「体位変換時腰背部痛あり」,同月26日14時の欄に「左側臥位ですごす」,同日21時の欄に「体変時の痛がり様軽減している」との記載があるのに対し,上記以外には体位変換がなされたことの記載がないが,上記記載の文言からすると,被告病院の看護師らは体位変換の際に患者から痛みの訴えがあったときにのみ体位変換を記載していることが窺われ,証人甲野の証言に照らしても,原告の意識が低下し,自力で動けなかった間は,基本的に約2時間毎の体位変換が行われていたものと認められる。また,当該期間中の原告の体の清拭等について,被告病院の看護記録には同月20日21時の欄に「BB更衣施行す」,同月21日3時の欄に「尿失禁多量 シーツ・病衣交換す」,同日5時の欄に「B・B更衣」,同日6時の欄に「B・B更衣す」,同日19時の欄に「B・B更衣」,同月25日6時の欄に「BB」の記載があり,温度板には同月19日(月)の欄に「清拭」(ゴム印),同月20日(火)の欄に「B・B更衣」,同月23日(金)の欄に「清拭」(ゴム印),同月26日(月)「清拭」(ゴム印)の記載があり,上記以外には清拭等の記載が見当たらないが,これらの記載内容,方法に加え,証人甲野及び証人倉本の各証言に照らすと,被告病院は基本的に月曜日と金曜日に清拭を実施し,それ以外にも原告の発汗が多いときや失禁したとき等必要に応じて清拭を実施していたことが認められる。
(3) 丙川医師は,同月24日,原告の仙骨部に褥瘡(最終的な診断はⅣ度)を見つけ,同月25日,患部にオルセノン軟膏を塗布するよう看護師に指示し,同月27日には原告に被告病院の皮膚科を受診させた。
被告病院の看護師らも,同月25日から26日にかけて仙骨部の褥瘡(発赤と黒色部分であったが,同月29日には黒く表皮壊死した状態になった。)のほか,左踵部の褥瘡(最終的な診断はⅣ度),右踵部の浮腫状の褥瘡(同Ⅱ度)を見つけ,それ以後患部に外皮用剤のモーラスやガーゼを貼り,原告の下肢を動かす等の処置をした。
(4) 丙川医師は,同月29日,原告及び原告の母親に両下肢の運動障害の回復のためにリハビリをする必要があることを説明した。
原告は,個室料を支払い続ける経済的余裕がなかったことから,同月31日に個室から大部屋に移り,両下肢の運動障害のリハビリを始めた。原告は,同年4月1日に退院を希望したが断られ,同月7日には他の病院でリハビリを行いたい旨述べた。そこで,被告病院内科の丁田二郎医師(以下「丁田医師」という。)は,同月8日,原告に高知医大病院の老年病科奥宮清人医師を紹介し,同月9日に同医師の診察を受けた原告は,同病院のベッドが空き次第転院することになった。
丁田医師は,同月10日,原告に被告病院の皮膚科の診断を受けさせた。同科の医師は,原告の臀部の壊死した皮膚を切除し,外用剤であるソアナースパスタを塗布してガーゼを貼り,左踵部を包帯で保護する措置をとった後,原告に高知医大病院の皮膚科を紹介した。
(5) 原告は,同月12日,高知医大病院の老年病科に転院して両下肢の知覚,運動障害のリハビリを続け,同月13日には同病院の総合診療部で褥瘡の診察を受け,同月16日以降同部の倉本秋医師から褥瘡の治療を受けた。
高知医大病院に入院した後,原告の歩行障害はリハビリにより徐々に改善し,右踵部の褥瘡は同月下旬に略治し,仙骨部の褥瘡も同年5月1日の切開手術を経て快方に向かった。原告は,同月29日に高知記念病院に転院し,引き続き歩行障害のリハビリ(歩行訓練),褥瘡の治療(洗浄,薬塗布)を行った。そして,仙骨部の褥瘡は同年7月31日に,左踵部の褥瘡は同年11月6日にそれぞれ略治した。
以上の事実が認められる。
2 これに対し,甲第11号証,同第14号証,同第15号証及び原告本人尋問の結果中には前記原告の主張に沿う供述部分があるが,何ら特段の事情もないのに,原告の意識がある間に被告病院の看護がなされなかったということはありえないし,前記認定のとおり,原告は被告病院入院の3日後から約5日間,高熱を発し意識障害を起こしていたのであって,そのころなされた治療や看護措置について記憶していると考えることは困難であり,上記各供述部分は証人甲野の反対趣旨の証言に照らしても容易に信用することができず,他に原告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。
3 原告の褥瘡の予防及び治療についての被告の債務不履行ないし不法行為を検討するに当たり,前提となる医学的知見について,証拠(甲12,16の1ないし6,17の1ないし8,証人倉本)によれば,次のとおり認められる。
(1) 褥瘡は,床ずれともいわれ,長時間ベッドに臥床し,可動性の減少,活動性の低下,知覚認知の障害が見られる患者等の身体の局所に持続的な圧迫やずれ(摩擦)が加わることにより,局所付近の皮膚や皮下組織が血行障害を起こし,壊死することをいう。褥瘡の直接的な原因は圧迫やずれであるが,褥瘡を生じやすい要因として,加齢,やせ,湿潤(失禁),低栄養状態等が挙げられる。褥瘡の好発部位は,骨の突起部があり体圧が集中する仙骨部(50%以上),大転子部,踵骨部等である。
(2) 褥瘡の予防のためには,ベッド上の患者であれば,圧迫を除去するための2時間毎の体位変換,体圧分散寝具(エアーマット)の使用,清拭等によるスキンケア,栄養状態の管理を行うことが有効とされている。なお,実験データでは,褥瘡は17分程度の圧迫で発生するが,褥瘡発生の減少率と,看護師の負担を考慮して,体位変換は2時間毎にするのが一般的である。
(3) 褥瘡は,深達度によってⅠ度(圧迫を除いても消退しない発赤,紅斑),Ⅱ度(真皮までにとどまる皮膚障害,すなわち水庖やびらん,浅い潰瘍),Ⅲ度(傷害が真皮を越え,皮下脂肪層にまで及ぶ褥瘡),Ⅳ度(傷害が筋肉や腱,関節包,骨にまで及ぶ褥瘡)に分類される。褥瘡の深達度は,発生時に概ね決まっているが,表皮の状態の所見からでは,Ⅰ度やⅡ度の浅い褥瘡でとどまるのか,Ⅲ度やⅣ度の深い褥瘡に進展するのか不明であることが多い。褥瘡が発生した場合,浅い褥瘡に対してはポリウレタンフィルムによる保護や吸水性のあるドレッシング材の塗布,深い褥瘡に対しては,黒色に壊死した組織を外科的に切除し,その後外用剤・ドレッシング材を塗布する等の治療方法が適切である。いったん発生した褥瘡の進行を止めることは困難であるが,患部に更に圧力が加わることを防いだり,他の場所に対する予防措置を講ずることは可能である。
(4) 従来「褥瘡は看護の恥」とされ,その予防,治療は看護師の経験や勘に委ねられ,医師側に余り理解がなかった面があり,円座の使用,皮膚のマッサージ,患部の乾燥等,褥瘡の研究が進む中で適切でないと考えられるようになった措置がある。このように,我が国の病院における褥瘡対策は不十分な面があったことから,厚生労働省は,平成14年10月1日から褥瘡対策未実施減算を始め,病院内における褥瘡対策チームの設置,褥瘡対策に関する計画の作成及び体圧分散マットレス(無料)等に関する体制の整備を保険診療の面から義務付けた。
4 そこで,被告の診療契約上の債務不履行ないし不法行為の成否について,前記争いのない事実等並びに上記1及び3の各認定事実に基づき判断するに,原告は,被告病院に入院した日の3日後に麻疹脳炎の症状を呈して意識が低下し,その後遺症として両下肢麻痺の障害が残ったもので,原告が自力で体を十分に動かすことができない状態が継続していた約5日間のうちに原告の仙骨部及び両踵部に褥瘡が発生したことが推認される。しかし,上記各認定事実により認められる被告病院の原告に対する診療経過等の事実,特に①被告病院は,原告の入院時から体交枕を使用し,原告に高熱による意識障害が見られ,自力で体位変換を行えなかった期間中は,高熱を発した主な原因である麻疹脳炎の治療と並行して,圧迫やずれを避けるための約2時間毎の体位変換を実施するとともに,湿潤を防止するために通常よりも頻繁な清拭,シーツの交換,尿道カテーテルの挿入を実施し,原告の母親にエアーマットの使用を勧めるなどして,褥瘡の発生を予防しようとしていたこと,②仙骨部及び踵部は褥瘡の好発部位であり,2時間毎の体位変換によっても完全に褥瘡の発生を防ぐことは困難であること,③原告は,被告病院に入院した当時老齢とはいえない年齢で,やせや栄養状態の不良は見られず,これらの点で褥瘡が発生しやすい状態にあったとはいえないこと,④被告病院がエアーマットを使用しなかったのは原告側の事情によるものであること,⑤被告病院は,原告の褥瘡を発見してからすぐに,患部に対し,オルセノン軟膏の塗布,モーラスやガーゼの貼付等の治療を実施しており,両下肢の運動等による圧迫の軽減もリハビリと併せ実施していること,⑥被告病院は,原告に自病院の皮膚科の受診,治療を受けさせた後,高知医大病院の総合診療部も紹介して褥瘡の発生から約20日後には同病院に転院させたこと,⑦原告の仙骨部及び左踵部の褥瘡の深達度は,最も重篤なⅣ度であり,その進行を治療により止めるのは困難であったことに加え,⑧本件当時の褥瘡の予防及び治療についての知見,診療体制は,平成14年10月の褥瘡対策未実施減算の前は多くの病院で不十分な面があったことを併せ考慮すると,被告が原告に対して行った褥瘡発生の予防措置や,褥瘡発生後の治療等の対応は当時の褥瘡についての知見,治療体制等に鑑みると特段不適切な点は認められないというべきであり(なお,被告病院がタッピングを行ったことや,エアーマットの使用が有料であったことは,褥瘡対策未実施減算以降の医療水準からすると適切とは言い難い面があるが,体位変換及び清拭等の褥創防止のための重要かつ基本的な措置に欠けるところはないことに照らすと,被告病院の予防措置が十分でなかったとは認められない。),被告に診療契約上の債務不履行ないし不法行為における注意義務違反があったということはできない。
5 よって,その余の点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がないからこれを棄却し,主文のとおり判決する。