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高知地方裁判所 平成15年(ワ)435号 判決 2007年6月15日

平成15年(ワ)第435号国家賠償請求事件(以下「第1事件」という。)

平成16年(ワ)第414号国家賠償請求事件(以下「第2事件」という。)

平成16年(ワ)第431号国家賠償請求事件(以下「第3事件」という。)

平成17年(ワ)第407号国家賠償請求事件(以下「第4事件」という。)

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1請求

被告は,原告らに対し,それぞれ3300万円及びこれに対する第1事件原告らにおいては平成15年12月19日から,第2事件原告においては平成16年11月13日から,第3事件原告らにおいては平成16年12月7日から,第4事件原告においては平成18年1月14日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

本件は,日本が第二次世界大戦に敗戦した前後の混乱の中で,本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の地域に居住することを余儀なくされ,その後帰国した中国残留邦人(以下,第2次世界大戦終戦当時において,13歳未満であった者を「残留孤児」と,13歳以上であった者を「残留婦人」といい,これら残留孤児と残留婦人を総称して「残留邦人」という場合もある。)である原告ら(なお,ここでは,第1事件原告亡A訴訟承継人B1については,亡Aを指す。以下,これと同様に,請求の主体を指す以外の場合には,亡Aを指す。)が,被告において,原告らを早期に帰国させる義務があるのにこれを怠り,日本人である原告らを外国人扱いするなど原告らの帰国を妨害し,帰国した原告らが自立した生活を営むことができるように支援すべき義務があるのにこれを怠ったとして,国家賠償法1条1項に基づき,被告に対し,それぞれ賠償金3300万円及びこれに対する第1事件原告らにおいては不法行為の後である平成15年12月19日から,第2事件原告においては不法行為の後である平成16年11月13日から,第3事件原告らにおいては不法行為の後である平成16年12月7日から,第4事件原告においては不法行為の後である平成18年1月14日から各支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

1  前提事実

以下の事実は,当事者間に争いのない事実並びに証拠(甲13,17の1,25,27の1,36,乙3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,19,20,21,22,23,24,26,33,41,42,43,44,50,51,54,55,57,58,62,64,67,68,70,71,72,73,75,76,85,86,87,88)及び弁論の全趣旨により認めることができる事実である。

・※  満州国の建国と移民の送出

ア  日本は,国土が狭く,農村を中心に人口が過剰であったため,日本人は,明治維新前後から,アジア,オセアニア及びアメリカに移住し始め,19世紀末にはハワイ,アメリカ本土,カナダに相当数の日本人社会が形成された。20世紀に入り,アメリカが日本人の移住を制限し始めると,日本人の移住先は,ブラジルを中核として中南米に転じられた。

イ  被告は,明治38年9月,ロシアとの間で締結したポーツマス条約により,ロシアが保持していた,遼東半島南部の租借権及び長春以南の満州南部の鉄道の経営権等の権益を獲得すると,明治39年8月には,南満州鉄道株式会社(以下「満鉄」という。)及び関東郡都督府を相次いで設置し,その後,第一次世界大戦が勃発するや,大正4年には対華21か条の要求によって更なる権益の獲得や権益の拡張を図るなど,これら地域(以下「関東州」という。)への影響力を次第に強めていった。

関東州と満鉄の守備を任務として関東都督府の下に常設された日本陸軍の派遣部隊であった関東軍は,大正8年,独立した司令部を持つ軍隊となった。

ウ  昭和の初めころ,主な移住先となっていたブラジルが,日本人の移住を制限し始めた。

エ  関東軍は,昭和6年9月18日の満州事変を契機として,同月21日に吉林を占領した後,同月22日には旧清朝の廃帝である愛新覚羅溥儀を頭首とする政権を樹立する方針を掲げ,昭和7年3月までに哈爾浜(ハルピン)等満州の各都市を次々に占領していった。昭和7年3月1日,関東軍は,満州国の建国を宣言した。

オ  満州国の初代執政となった溥儀は,昭和7年3月10日,満州国の安全発展は必ず日本の援助指導に頼るべきことを確認するとともに,関東軍司令官の推薦する日本人を参議及び満州国官吏に任命すること等を誓約する書簡を関東軍司令官に交付し,関東軍は,満州国の官吏人事権を握るとともに,国防と治安維持を担うことになった。

カ  関東軍の統治部は,昭和7年2月,日本人移民案要綱説明書を作成し,その中で,「邦人を満蒙に移植することの必要なる所以は啻に母国に於ける過剰人口を緩和せんとする為のみならず,満蒙に於ける帝国の権益伸張上,満蒙開発上,将来帝国国防第一線確保上絶対に喫緊焦眉の急務に属」し,「一朝有事の際は鋤を棄てて敢然干戈を採って起つべき同胞に俟つの外なしとす」と述べた。

被告は,昭和7年8月,満州へ武装した試験移民を送出する旨の閣議決定を行い,帝国議会は,これを承認した。これを受けて,試験移民は,在郷軍人を対象に募集され,昭和7年から4年間にわたって,4つの開拓団が満州に送出された。

キ  被告は,昭和7年9月15日に満州国を承認すると同時に,満州国との間で,日本の満州国における権益を確認し,日本軍の満州国における無条件駐屯を認める内容の日満議定書を締結した。

ク  被告は,4年にわたる試験移民が一定の実績を上げたことから,昭和11年8月25日,「対満重要策の確立-移民政策及び投資の助長策」等を内容とする七大国策綱領を閣議決定した後,昭和12年1月には,満州へ農業移民を20年間に500万人,100万戸を送出する大綱を閣議決定し,昭和12年から,第1期農業移民5か年計画が実施されることになった。

移民政策は日本国内では拓務省が所管し,具体的な移民の後援,宣伝,募集,斡旋,訓練などは,拓務省の外郭団体であった満洲移住協会が行った。移民政策は農村経済更正政策と結びついていたため農林省が府県に,府県が町村に毎年の送出数を割り当てるなどして,移民団が編成された。

ケ  昭和12年7月7日に発生した廬溝橋事件を発端として,日中戦争が勃発した。

第1期農業移民5か年計画は移民を大量に送り出す内容のものであったが,日中戦争が始まったことから,国内の兵力や労働力の需要が高まり,移民を募集しても計画どおりには集まらなかった。

そのため,被告は,昭和12年11月30日,14歳から20歳の青少年を満蒙開拓青少年義勇軍として編成し満州に送出することを内容とする「満州に対する青少年の移民送出に関する件」を閣議決定し,その後,満蒙開拓青少年義勇軍は,集団教練や軍事訓練を受けた上で満州に送り出された。

昭和16年12月8日,太平洋戦争が始まったが,その後も,農業移民政策は積極的に推し進められ,昭和17年から,5年間で110万人,22万戸の入植を内容とする第2期5か年計画が実施された。

コ  これら移民の送出に伴い,いわゆる「大陸の花嫁」,勤労奉仕隊,軍需工場要員として日本人女性が募集され,多くの日本人女性が渡満した。

・※  残留孤児及び残留婦人の発生

ア  日本は,昭和16年4月,ソヴィエト社会主義共和国連邦との間で,日ソ中立条約を締結した。この条約の内容は,「第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スベキコトヲ約ス 第二条 締約国ノ一方ガ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルベシ 第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルベク且五年ノ期間効力ヲ有スベシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セザルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルベシ」等というもので,この条約と同時に,日ソ間で,「両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本国ガ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ガ満州帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス」と規定された声明書が発出された。

一方で,日本は,昭和16年6月末から独ソ戦が始まったことを受けて,状況次第でこれに便乗して対ソ攻撃を行うべく,対ソ戦に備えて軍備を増強し,昭和18年初めには,満州に駐屯する関東軍の陸軍部隊は,約80万の兵力となっていた。

イ  昭和16年12月8日,日本は太平洋戦争に突入し,南方において戦線を拡大していった。昭和18年後半から,関東軍の兵力が,戦況が急迫する南方戦線へ転用され激減したため,日本は,昭和19年9月18日,対ソ戦略を長期持久作戦へ転換した。

ウ  関東軍は,昭和19年10月にソ連軍が満州北東端の光風島を不法占拠し事実上日本の航行阻止を行ったこと,同年11月7日にスターリンが革命記念日の演説において日本を侵略国と非難したこと,同年12月に東満州国境の虎頭附近において前後5回にわたってソ連軍の射撃があったこと,同年12月4日にソ連軍の沿海州沿岸オリガ警備隊長の発した電文中に「敵日本」という語の使用があったことなどから,このころ,「2月下旬以降東ソ兵備の本格増強を企図しあること確実」,「その対日動向は従来に比し一層積極化の方向を辿りつつあり」,「日ソ中立条約廃棄意志の通告に対するソ側の態度は極めて露骨且積極的」,「その意図する所は戦局の進展に伴い之が介入の為の戦争名目乃至は対日前面政治攻勢の前提たらしめんとするに在り」,「向後一年の中立条約期間の存在は既にその実効を喪失せるもの」との認識を有するに至っていた。

エ  昭和20年2月,ソ連領クリミア半島のヤルタで開催された米・英・ソ連三国のいわゆるヤルタ会談の秘密協定において,ドイツ降伏後二,三か月後に,ソ連が対日参戦すること,その見返りとして,ソ連が日本領である南樺太の返還等を受けることが決定された。

オ  関東軍は,昭和20年2月までに,満州に残置した人員と他の在満部隊から引き抜いた人員とをもって,師団14,独立混成旅団4の新設を行うなど従来の3分の1程度の兵力になる軍備の増強を行ったが,その後,対米本土決戦を予期しなければならない事態となり,同年3月には,師団3,戦車師団1が日本内地に,新設3師団が朝鮮半島南部にそれぞれ転用されることになった。

カ  ソ連は,ヤルタ会談における秘密協定に従い,昭和20年4月5日,日本に対し,日ソ中立条約を期限である昭和21年4月以降は延長しない旨の通告を行った。

ドイツは,昭和20年5月上旬,降伏し,ソ連は,その兵力の東送を活発化した。

大本営は,長期持久戦の場を満州全域から満州南東部及び朝鮮に変更することとし,昭和20年5月30日,関東軍に対し,図們,新京及び大連以東の要域を確保するよう指示するとともに,第3方面軍司令部はチチハルから奉天へ,第4軍司令部は孫呉からチチハルへ移動し,第1方面軍指令部は,戦時においては,牡丹江から敦化へ移動することとし,各司令部も後退させた。

関東軍は,その後退がソ軍に対し防勢転換を予知させるという考え方にとらわれ,日本人移民団を避難させる方策を一切採らなかった。

キ  大本営は,昭和20年6月上旬に関東軍の兵備を緊急に強化する措置を講じ,更に,同年7月10日,在満邦人のうち,行政,治安維持,交通通信,戦時産業等のために絶対に必要な人員15万名を除く,日本人適齢男子約25万名全員の動員,いわゆる根こそぎ動員を行ない,その結果,農業移民団には老人,女性,子供ばかりが残ることとなった。これらの兵力増強によって,関東軍は,約60万の兵力となったが,訓練,装備等は不良で,特に近代戦に欠くことのできない戦車,砲兵,防空部隊等の主力は他の地域に転用され,航空部隊も辛うじてゲリラ的に使用するにすぎない状況であった。

関東軍は,ソ連の進攻に際しては満州国内の地形を利用してその進入を阻止し,やむをえない場合は満州南部,朝鮮半島北部の山岳地帯を確保して抗戦を続けるとの方針に基づき,国境付近の各部隊は一部駐屯地に残して,未教育兵の教育にあたらせ,主力の多くは駐屯地から遠隔した地点における陣地構築に着手し,また,一部の部隊は新駐屯地に移動した。

ク  昭和20年7月26日,米国トルーマン大統領,中華民国政府蒋介石主席及び英国チャーチル首相は,いわゆるポツダム宣言により,被告に対して,直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言するなどの要求をした。

ケ  関東軍は,昭和20年8月2日,「関東軍は盤石の安きにある。邦人,とくに国境開拓団の諸君は安んじて,生業に励むがよろしい。」というラジオ放送を行った。

関東軍の満州東部国境の虎頭南方の国境監視隊は,昭和20年8月5日,ソ連軍の一部から,国境線を越えての攻撃を加えられた。これを受けて,関東軍総司令部は,警戒を厳にするように各部隊に注意を与えた。

ソ連は,昭和20年8月8日,日本に対して,宣戦布告を行うとともに,ポツダム宣言に加わった。

昭和20年8月8日まで,農業移民政策第2期5か年計画は,実施された。

コ  昭和20年8月9日午前零時過ぎ,満州東部国境の虎頭,綏芬河,琿春東南側の国境陣地はソ連軍の砲撃を受け,その他の方面でも国境監視部隊に対して攻撃が開始され,満州国内の各地もソ連軍飛行機による爆撃を受ける状況となった。関東軍は,直ちに各部隊に対して,作戦計画に基づきソ連軍を撃破するように命じ,ここに日ソ間が全面戦闘に突入するに至った。

ソ連軍の主力は満州東部の牡丹江東方地区から,一部は孫呉,ハイラル,阿爾山,琿春等の各方面から,それぞれ強力な戦車部隊の支援のもとに満州及び朝鮮半島北部に進攻した。関東軍の主力部隊は,東正面,北正面,西正面で,それぞれソ連軍を阻止することに努めたが,戦力の差が大きく,かつ関東軍の陣地が未完成であった等のために,大きな損害を受けて後方に撤退した。大本営は,昭和20年8月9日,関東軍に対し,朝鮮領域を保衛すると命じ,満洲領域を放棄することも可とした。

大本営は,昭和20年8月10日,「関東軍総司令官ハ作戦進捗ニ伴ヒ適時其司令部ヲ其作戦地域内ニ於ケル爾他方面ニ転移スルコトヲ得」ものとし,この指令を受けて,関東軍総司令部は,同日,西正面のソ連軍の機甲軍が,同月14,15日ころには関東軍総司令部のある新京付近に到達する勢いであったため,移動の機を失することをおそれ,南方の通化への退却することを決定した。

関東軍総司令部は,昭和20年8月11日,新京から通化へ退却し,軍の主力を南方へ移動させた。昭和20年8月12日,ソ連軍は牡丹江街道地区を突破し,関東軍第4軍司令部は,チチハルからハルピンへ移動した。

昭和20年8月13日,ソ連軍の攻撃により,関東軍第5軍の抵抗線であった穆稜陣地が陥落した。

昭和20年8月14日の時点において,第1方面軍は敦化,第3軍は間島,第5軍は掖河,第4軍はハルピン,第3方面軍は奉天に所在していた。

サ・※  満州辺境地域の在留邦人の行動

関東軍は,ソ連侵攻後,とりあえず国境地域の日本人について居住地から後退するよう通達したものの,指揮系統は壊滅しており,日本人退避についての具体的な方策は居留民に示されることはなかった。居留民らは軍の保護を受けることも避難先についての指示を受けることもなく,混乱の中,無防備なまま自力で逃げるほかなかった。昭和20年8月9日,ソ連軍の攻撃を迎えた満州辺境地域の在留邦人は,混乱の中に避難を開始し,鉄道沿線の都市にいた邦人の一部には,列車によって満州中部,南部まで避難できた者もいたが,大部分の邦人は利用する輸送機関も少なく,多くは徒歩で避難を開始した。しかし,国境に近い地点の邦人は,退避のいとまさえなくソ連軍の攻撃を受け,そのため所在の軍隊と共にその戦闘に参加して多くの死亡者を出した。また,退避を開始した邦人も,ソ連軍の進撃の砲火にあって随所に相当多数の犠牲者を出し,飢餓病苦等による死亡者と相まって,この間に推定3万人以上の犠牲者が出た。

特に,辺境地域に入植していた移民団の多くは,開戦前の根こそぎ動員等により既に相当数の男子を軍隊に徴集又は召集され,日ソ開戦と共に更に残余の男子の召集をも受けて,開拓団はほぼ老幼婦女子だけという状況にあったので,その避難行動は困難を極め,ソ連軍の辱めを受けるのを潔しとしないで自決する者,足手まといの幼児を現地民に託してわずかに身をもって避難する者等悲惨な状況が発生した。

・※  満州中部,南部地域の在留邦人の行動等

浜江省,竜江省においては,ソ連軍や暴徒等のため邦人のうちに多くの死亡者が出た。避難した邦人のうち,満州南部の省においては,開戦直後,一部の者が安東,平城,大連地区へ南下したが,停戦に伴い逐次既住都市へ復帰した者もいた。

シ  日本は,昭和20年8月14日,アメリカ,中華民国,イギリス及びソ連に対し,ポツダム宣言を受諾する意思を通告した。被告は,昭和20年8月14日,日本の在外機関に対し,「ポツダム宣言受諾ニ関スル在外現地機関ニ対スル訓令」を発出し,居留民をできる限り現地に定着させる方針を執り,現地での居留民の生命,財産の保護について万全の措置を講ずるよう命じた。

昭和20年8月15日,終戦となった。被告は,同日,終戦対策処理委員会を設置し,海外に在留している邦人の引揚げについて協議を始めた。

関東軍総司令部は,昭和20年8月17日,隷指揮部隊に対し,「速やかに戦闘行為を停止し,おおむね現在地付近に軍隊を集結。大都市にあってはソ連の進駐以前に郊外の適地に移動。」,「満州側とも連係し極力居留民を保護。」などを命じた。

関東軍は,昭和20年8月19日,ソ連軍との間で,停戦交渉を開始し,停戦,武装解除に関する事項のほか,居留民保護に関し,「赤軍ニ於テ十分留意ス」等を内容とする協定を締結したが,ソ連軍が関東軍による戦場地域の整理を拒んだため,死傷者の収容や加療,行方不明者の捜索等の戦闘後の事後処理ができなかった。

関東軍は,昭和20年8月20日,ソ連軍に対し,停戦全般の状況と居留民の状況について説明するとともに,特に越冬準備ができていない事情を指摘してソ連軍の善処協力を要請した。これに対し,ソ連軍は,応諾の意を示した。

関東軍総参謀長は,昭和20年8月23日,関東軍参謀次長に宛てて,「ソ軍首脳筋は日本軍・邦人に対する無謀行為を戒めあるも,現実には理不尽の発砲・略奪・強姦・使用中の車両奪取等頻々たり……将兵の忍苦真に涙なくして見るを得ず……願わくば将兵今日の忍苦をして水泡に帰せしめざるよう善処を切望してやまず」と打電した。

被告は,昭和20年8月27日,連合国軍総司令部(以下「GHQ」という。)に対し,撤兵輸送の順位は,給養逼迫の地域及び患者を優先とし,一般部隊にあっては満州から始めること,武装解除後においても,無防備の邦人,非武装軍人の保護に必要な武装警察力の存置を必要とすること,軍民の輸送完了まで給養を実施確保し得るごとくソ連側において臨機適切にあっせん保障すること,輸送の実施長期にわたる場合にはその完了まで,邦人・非武装軍人のため安全居住地帯を設定し,殊に冬季に対する食糧・燃料を確保すること,休戦に関する軍事的措置,邦人処理等につきその完了まで軍の組織を保持し,所要の通信・運輸機関を確保することをソ連に対し要請するよう依頼した。

被告は,昭和20年8月28日,翌29日は2度にわたり,GHQに打電し,ソ連政府に善処を要請するよう依頼した。

被告は,昭和20年8月30日,「外地(樺太を含む。)及び外国在留邦人引揚者応急援護措置要綱」を定め,引揚者の上陸地の地方長官をして,その職員を派遣させ,上陸地における引揚者の援護及び連絡指導に当たらせることとした。

駐満州大使は,昭和20年8月30日,外務大臣に対し,「在留邦人ハ此ノ儘放置セド大部分流民化シ冬トモナレバ死者続出スルコト明白ナリ」,「婦女子病人ヲ先ニシ帰国ヲ要スル者(推定八〇万人)ヲ能ウ限リ速カニ内地送還ヲ為シ得ル様至急御補助相煩度右懇願ス」と窮状を訴えた。

内務省は,昭和20年8月31日,「戦争終結ニ伴フ在外邦人ニ関スル善後措置要領」を定め,「戦争終結ニ当リ在外邦人ハ大詔ヲ奉戴シ冷静沈着大国民ノ襟度ヲ以テ事ニ処シ過去統治ノ成果ニ鑑ミ将来ニ備ヘ出来得ル限リ現地ニ於テ共存親和ノ実ヲ挙クへク忍苦努力スルヲ以テ第一義タラシムルモノトシ」,「在外邦人ハ現地ニ於ケル産業経済ノ発展ニ寄与スルコトヲ眼目トシ旁々引揚ニ伴フ船腹職業食糧竝ニ住宅事情ヲ考慮シ出来得ル限リ現地へ踏ミ止マリ共存共栄ノ生活ノ継続ニ邁進スルコト」とした。

被告は,昭和20年9月1日,在東京スウェーデン公使を通じて,在東京のソ連大使に対し,ソ連占領下の邦人保護につきソ連政府に伝達するように申し入れたが,ソ連大使は,その権限がないとしてこれを拒否した。そのため,被告は,更に,在スウェーデン日本公使に,スウェーデン政府に対し,ソ連軍占領下の在留邦人の保護についてソ連政府に伝達するよう要請したが,スウェーデン政府に寄せられたソ連の回答は,「日本の降伏による日本と連合国間の敵対関係の終了は,日本の国際的地位を完全に変更し,相互の利益保護に関し全然新たなる事態を招来せり。日本におけるソ連の利益に関する全ての問題は在日連合軍最高司令部により処理せらるべし。右の理由により,ソ連政府はソ連における(日本の)利益保護に関する問題は根拠を失えるものなりとの見解を有し,従ってソ連に在住する日本人の地位は一方的に処理せらるべし。」というものであった。

被告は,昭和20年9月1日,在スイス公使に,赤十字国際委員会に対して,人道的見地からできる限りの尽力を要請したが,同委員会の見解は,「赤十字国際委員会とソ連とはもともと何の連絡もなく,当方としてはソ連に然るべき影響を与えることはできないから,むしろ日本赤十字社代表をして米英の連合軍当局に接触させる方が得策であろう。」,「そのためには然るべく協力はしよう。」との意見であった。この前後に,在東京赤十字社国際委員会代表が視察のため朝鮮半島北部へ入国しようとしたが,ソ連軍当局によって拒否され,また,朝鮮半島北部の日本人難民救済につきソ連占領軍当局との折衝のため,外務本省から派遣されて京城まで出張した外務省職員も,「その必要を認めず」として,ソ連側に入国を拒否されていた。

昭和20年9月2日,GHQより発せられた「指令第1号(陸海軍一般命令第1号)」により,各地の日本軍部隊は,各々の地区の連合軍司令官の下に降伏することとなり,軍人及び在留邦人を含めたすべての日本人は各外国軍隊の支配下に入り,旧満州地区は,ソ連軍管理地域とされた。

関東軍は,昭和20年9月3日,ソ連軍に対し,「軍隊はソ連側において俘虜として扱っている以上,法規に従って適時送還されるであろうが,一般居留民に対しては国際法規による保護も与えられず,この点いろいろな面における懸念が大である。しかも冬季を間近に控えている。特にソ連側の好意ある取り扱い,措置を切望してやまぬ」旨を説き懇請した。

ソ連軍は,昭和20年9月5日までに,関東軍の首脳らをソ連国内に移送した。

関東軍総参謀長は,昭和20年9月6日,参謀次長に宛てて,「在大陸200万軍隊の処理もさることながら邦人の被害の深刻なること言語に絶す……右に関し関東軍より再三ソ側に申し入れ,ソ軍の上層筋においては改善に努力中のごときも……ソ軍首脳部の意図は容易に末端まで徹底せず……一方ソ軍の特性上現地交渉には限度あり,重大な案件はモスクワを動かさずして解決は到底不可能と考えらる。なおこの種問題処理にあたりては,モスクワ及び東ソ軍最高指揮官の立場をも十分尊重し機微なる感情問題を考慮するにあらざれば逆効果を生ずる虞もあり」と打電した。

被告は,昭和20年9月7日,「外征部隊及居留民機関輸送等に関する実施要領」を定め,「外征部隊及居留民の帰還輸送等に就ては,現地の悲状に鑑み,内地民生上の必要を犠牲にするも,優先的に処置すると共に他の一切の方途を講じ,可及的速かに之が完遂を期するものとす。」とするとともに,GHQに対し輸送について特に協力を要請することとした。

被告は,昭和20年9月9日,同月13日,同月16日,GHQに対し,満州,朝鮮半島北部,樺太,千島等の在留邦人の保護と引揚げについてそれぞれ覚書を提出して申入れを行った。同月13日に提出された覚書は,「終戦による事態の急転換に伴い,従来日本の支配下にありし外地に於ける多数日本人の生命財産の安危は,帝国政府の最も大きな関心を有する所なるが,信ずべき情報によれば,特に満州,朝鮮半島北部,樺太及び千島等における事態,日に窮迫し,極めて憂慮に堪えざるものあるに付いては,今後の更に事態の悪化を防止するため」として,満州及び朝鮮半島北部に関し,東京・新京(長春)間の無電連絡及び空輸連絡を再開すること,在外公館の官吏を釈放して,在留民の保護と引揚げの任に当たらせること,日本居留民の食糧その他生活必需品の購入を可能ならしめるため,その地域の通貨を被告が返済するとの約定の下で供与してほしいこと,引揚げを容易ならしめるため,満州,朝鮮直通列車の運行,38度線において遮断の鉄道打開,列車運行のための石炭補給,羅清,清津,元山,大連及び鎮南浦の港への配船を認めることを要請する内容のものであった。また,同月16日付けの覚書は,在留邦人の窮状を,「飢餓に直面し居る模様なり。……彼ら(在留邦人)の大部分は身にまとう夏衣以外,ほとんど所持品を持たざる婦女子なり。……多数の者は辛うじて持出したる所持品を掠奪され,数日間食事もせざるものもあり。……露天に眠り居るものも多数なり。……すでに迫りつつある厳冬に,寒さ,飢えをしのぎ得ざるに至るべしと憂慮せらる。上記200万日本人の中,約80万の婦女子は直ちに引揚げしむるを要す……」と在留邦人の窮状を訴える内容であった。

被告は,昭和20年9月20日に「引揚民事務所設置に関する件」を,同年10月4日に「海外部隊及び海外邦人に対する食糧,衣料,衛生材料其の他所要物資の補給並に宿営施設に関する件」を決定するなど,引揚者の受入機関,上陸地における収容施設,食糧,医療等の所要物資の調達準備等について施策を定めたが,その後,引揚援護業務もGHQの管理下に行われることとなった。

ス・※  満州における邦人の越冬状況等

満州,朝鮮半島北部地域における戦闘による混乱も,昭和20年10月ころにはようやく収まり,他国軍に収用された軍人及び邦人の一部を除いた残留邦人は,避難行動から逐次越冬の態勢に移るに至った。すなわち,満州においては,大部分は満州中部,南部の都市に集結し,一部は辺境に留まり,朝鮮半島北部においては咸鏡南道の各都市及び平壌付近に集結してそれぞれ冬を迎えることとなった。これらの地点に集結した邦人は,ほとんど大部分が家を捨て職を失ったいわゆる難民であって,半年にわたる冬季間,食糧医薬の不足,狭あいな宿舎等のため,各地に伝染病が発生して,栄養失調症や発疹チフスによる死亡者が極めて多かった。

昭和20年12月末までに約9万名,昭和21年5月までに累計約13万名に及ぶ死亡者が出た。

・※  満州辺境地域における越冬状況

辺境の地にとどまった者は,元の移民団の土地に帰り,あるいは他の移民団の跡に入り,あるいは現地農民の使用人となって冬を迎えたが,衣食住の欠乏による栄養失調及び伝染病のため多くの者が死亡した。

この間,生活のため現地住民の妻等になった婦人,あるいは現地住民に預けられた子供が相当の数に上った。

辺境地区の主要な越冬地点の状況は,次のとおりである。

a 三江省

佳木斯市では国境付近の住民及び移民団から避難してきた邦人約400名が越冬し,越冬間に約260名が発疹チフス及び栄養失調症で死亡した。依蘭においては樺川から避難した移民団員及び県内移民団員の一部約1400名以上が越冬し,約700名以上が死亡した。多くの婦女子が,現地住民の妻等になった。

通河県では約3000名の移民団員が越冬したが匪賊の襲撃,発疹チフス,再帰熱,栄養失調などで極めて多くの者が死亡し,約200名以上の者が現地住民の妻等となった。

方正県においては佳木斯以南の地域にあった移民団員が避難して混雑を極め,6000名から8000名の人員が越冬し,伊漢通収容所,興農合作社,水利組合倉庫等に収容された。この間,伊漢通収容所においては所持品の大部分が掠奪され,飢餓と寒気のうちに,暖房,医療の設備もなく,全員栄養失調と伝染病に悩まされ,伊漢通開拓団本部に収容された約2000名中の半数が死亡した。この様な状況であったので,推定2000名から2500名の婦女子が現地住民の妻等になるとともに,多くの子供が現地住民に託された。

b 牡丹江省

牡丹江市においては,難民等を加えた残留邦人の数は,昭和20年12月において,約450名で,その3分の1が女子であった。その後奥地から避難して来た者及びソ連軍の収容所から解放された者を加えて,昭和21年3月末には邦人の数は約1200名となった。そのうち600名は現地住民宅に寄寓し,他は集団生活を営んだ。

牡丹江においては,牡丹江日本難民救済委員会が組織され,現地住民の協力が得られたため,難民の救済事業が曲がりなりにも遂行され,死亡者の数は約300名前後にとどまった。

東京城付近一帯には,約3000名が越冬したが,その多くは難民で,街公署よりわずかな食料の配給を受け,農家の日傭等をして生計を立てたが,逐次収入の道を失って死亡する者が少くなく,その数は1000名に近かった。また生活手段のない者で現地住民の家庭に入る者も多かった。

c 間島省

延吉市においては,小学校,教会,民家等に分れて約1万7000名の邦人が越冬し,栄養失調,発疹チフス,コレラ等により幼児の大部分を含んで約5000名が死亡した。

竜井街では,約3000名が越冬し,500数十名が死亡した。

図們街では,約2000名が越冬し,約200名が死亡した。

琿春街では,約5800名が越冬し,炭鉱夫や農家の手伝いなどをして生計を立てたが,約1000名が死亡した。

安岡県では,1000名以上が越冬したが,治安が良好なため強制労働や農業に従事して生活することができた。死亡者は約250名であった。

d 北安省

北安街においては,約200余名が越冬した。

嫩江街においては,昭和20年12月末において,約1300名が越冬し,約600名が死亡した。この間,現地住民の妻となる者もあった。

通北においては,約1700名が越冬し,そのうち約300名が死亡し,50名以上の者が現地住民の妻となった。

・※  満州中部,南部地域における越冬状況

満州中部,南部地区,特に大都市においては辺境からの難民と,開戦時にいったん満州南部及び朝鮮半島北部方面に避難し,越冬のため再び居住地に復帰した各都市の居住者は,ソ連軍,中国共産党軍,国民党軍の接収を免れた少数の家屋と公共建物,寺院,病院,工場,学校等を利用して越冬した。難民の救済等のため各都市に結成された日本人会は,衣料,食糧,住宅,医療,生活の世話,死亡者の処理,労務の供出等に努めた。

しかし,住居の不足,狭あい及び食糧の不足は決定的であり,また生活の手段もソ連軍,中国共産党軍,国民党軍の労務に従事するほかには,所持品の売り食い等で糊口をしのいだ状況であった。そのため,特に,多数の難民が死亡した。

満州中部,南部地区の主要な大都市の越冬状況は,次のとおりである。

a 竜江省

チチハル市においては,既住の市民及び周辺からの約2万7000名の難民の合計約5万名が,市中の体育館,官吏会館,映画館,軍倉庫,料亭,学校,会社社宅,官舎,市民住宅等に収容されて越冬した。越冬期間中,栄養失調又は発疹チフスにより約3500名が死亡し,4000名近い行方不明者があった。

甘南県においては,約5000名が現地で越冬したが,約700名が死亡し,100数十名が現地住民の妻となった。

b 浜江省

ハルピン市においては,辺境及び市の周辺から約8万8000人に達する避難民が,市内300個所以上の場所に収容されて,既住者約7万3000名と共に越冬した。これら残留邦人は掠奪暴行の被害及び食糧,燃料の不足等により生活は日と共に悪化した。このような状態において,昭和20年9月上旬,日本人居留民会が組織され,その救済部は,庶務,集貨,糧穀,配給,収容,燃料,輸送,葬儀の各班を設け,既住者の寄付,ソ連軍の払下げ戦利品,紅万字会の寄付物資等により,難民の救済を開始した。当初は無料救済であったが,10月中旬これを停止するのやむなきに至り,邦人は,物売り,下僕,職工,自由労務者,農業労務者等として辛うじて自活の途を求めることに努めた。越冬期間中,ハルピン市において,推定1万2000名の難民,推定3000名の既住者が,凍死,栄養失調,発疹チフス,肺炎等により死亡した。

c 長春(新京)市及び吉林省

長春市においては,日ソ開戦とともに,市民の一部は満州南部及び朝鮮半島北部に避難したが,逐次居住地に帰り,他方面からの難民約12万名と共に,約二十四,五万名が越冬した。市は終戦とともに進駐したソ連軍のほか,中国共産党軍,国民党軍間の争奪の目標となり,邦人の被害も少くなかったが,これらの戦闘は残留邦人の越冬生活を一層困難ならしめた。この間,市に組織された日本人会が食糧の配給等に努めたが,栄養失調による多数の死亡者の発生を防ぐことはできず,また,発疹チフス等伝染病の流行に伴い,ソ連軍の命によって日本人会は防疫本部を設け,11月初めから防疫に努め,指定伝染病院5個所に患者を収容したが,その努力にもかかわらず越冬期間の死亡者は実に3万1000名以上に及んだ。

吉林市においては,約2万4000名の既住者と,市内17個所の収容所に収容された避難民の合計約4万2000名が越冬した。市には日本人会も組織され,邦人の救済に当ったが,特に難民の生活は依然困難であって,食糧の不足,伝染病の発生により,約4000名が死亡した。

敦化街においては,約1万7500名が集結したが,1万6000名以上が吉林方面に送り出され,約1600名が越冬した。

公主嶺市においては,約5000名が越冬したが,医療救護がよく行われたため難民の餓死や凍死はなかった。

d 四平省

四平市においては既住者約9000名と避難民1万7000名とが越冬した。同市においては,数回にわたって中国共産党軍と国民党軍が衝突したため,労務及び従軍要員の差出しが要求された。越冬の初期には,食糧事情は比較的良好であったが,ソ連軍及び中国共産党軍,国民党軍による強制供出により,昭和21年に入り,衣食住は逐次悪化し,そのために餓死者凍死者が出て,越冬期間に約2500名が死亡した。

e 奉天省

瀋陽(奉天)市においては,約7万2000名の避難民及び既住者の合計約28万名以上が越冬した。市民は,暴民の横行掠奪,ソ連軍による家屋の供出要求等により生活に窮し,特に学校,官舎,社宅等約49個所に収容された多数の難民は悲惨な生活を送った。これらの難民の救済のため,昭和20年8月下旬,日本人会が組織され,衣料食糧の配給,生業の指導,医療等に努めた。しかし,栄養失調及び伝染病のため,越冬期間に約2万6000名が死亡した。

セ  日ソ開戦に伴う在留邦人の避難行動の間における混乱及び昭和20年の越冬期間,肉親等と死別又は生別した婦女子のうち約4000名が,自活の手段を失ってやむを得ず現地住民に救いを求め,又はその妻等となった。

また,推定2500名以上の子供が,両親を失って孤児となり,又は養育ができない親によって現地住民に託された。

・※  主権回復に至るまで

ア  GHQは,昭和20年10月18日,引揚げに関する中央責任官庁として厚生省を指定した。

昭和20年10月25日,被告の外交機能が全面的に停止され,外国との交渉はGHQを通じて行うか又はGHQが被告に代わって行うこととされた。

GHQは,昭和21年3月16日,占領下における海外同胞の引揚げに関する基本的大綱である「引揚に関する基本指令」を被告に示した。これは,引揚者の輸送は,GHQの立案する引揚計画に従って実施し,その輸送に当たっては,GHQが各地の連合国軍及び各国政府と連絡を取り,軍人軍属の復員と緊急を要する地域の邦人の引揚げを優先し,一般邦人については各国との協定によって順次帰還させるという方針をとるものであった。

イ  ソ連軍は,満州その他の地域を占領して軍政を布いていたが,満州に在留する日本人の本国への送還については何らの措置をとらず,昭和21年4月ころ,満州から撤退した。

ウ  被告は,昭和21年4月25日,「定着地に於ける海外引揚者援護要綱」を定め,引揚援護については国が,定着自立支援については地方自治体がそれぞれ担当し,地方自治体が帰国者向けの宿泊施設を設置したり,日本語教育を行うなど主体的役割を担い,国が引揚者指導員による支援や語学教材の配布を行うなど補助的な役割を担うものとした。

被告は,昭和21年5月,中国残留邦人の大規模集団引揚げ(以下「前期集団引揚げ」という。)の実施を開始した。

昭和21年5月から10月までに実施された第1期前期集団引揚げにより,国府軍地区から77万3000名,中共軍地区から23万7000名の合計101万名が帰国し,昭和21年11月下旬から12月下旬までに実施された第2期前期集団引揚げにより,4300名が帰国した。

エ  被告及びGHQは,昭和21年11月までに,ソ連に対して,ソ連軍管理地域からの邦人引揚実施について交渉を行っていたが,同月までにソ連から何の回答もなく,外蒙,北朝鮮,関東州,樺太などソ連軍管理地域からの引揚げができない状況であった。

ソ連は,昭和21年11月,GHQとの間で,ソ連軍管理地域から毎月2万5000名の引揚げを行うことを内容とする仮協定を締結し,その後,同年12月19日,毎月5万名の引揚げを行うことを内容とするソ連地区引揚米ソ協定を締結した。

昭和21年末,ソ連軍管理地域からの残留邦人の集団送還が開始され,昭和25年4月まで断続的に行われ,その間に,約63万4000名余りが帰還した。

オ  昭和22年5月3日,日本国憲法が施行された。

カ  昭和22年6月下旬から同年10月下旬までに第3期前期集団引揚げが実施され,2万9000名が帰国した。

キ  昭和22年10月27日,国家賠償法が施行された。

ク  昭和23年1月の時点においてソ連軍管理地域以外の集団引揚は完了し,同年末の時点においてソ連軍管理地域のみ残留者がある状況であった。

昭和23年6月から8月に実施された第4期前期集団引揚げにより,3320名が帰国した。このころ,中国における国民党軍と中国共産党軍との内戦が激化し,その後,昭和24年10月に中国人民共和国が成立するなどしたため,前期集団引揚げは中断された。前期集団引揚げが終了した当時,中国に残留していた日本人は,中国共産党軍等に留用された者推定約3万5000名,戦犯関係者推定約700名,中国人の妻になった日本婦人推定約4000名,及び孤児等で中国人の家庭にあった者推定約2500名であったが,これらの者の安否を気遣う日本国内の留守家族等はその消息を確認してほしいと政府や日本赤十字社にそれぞれ陳情や要望を行った。

ケ  被告は,昭和24年3月,留守家族から未引揚邦人の届を提出させ,また,開拓団,在外商社等にも広く呼びかけて関係資料の提出を求めた。

被告は,昭和25年4月から6月の間,各都道府県を通じて留守宅に対して一斉調査を行った。

日本赤十字社代表は,昭和25年夏ころ,モンテカルロで開催された赤十字社連盟の役員会の席で,中国紅十字会会長と接触した際,中国紅十字会会長に対し,日赤看護婦300余名が帰国していないことを伝えるとともに,在留邦人の実情を知らせてほしいと依頼したところ,中国紅十字会会長は好意的な態度で協力を約束した。

被告は,昭和25年10月,全国国勢調査の際に,調査員に未引揚者の調査を依頼し,また,残留者又は死亡者に関して,上陸地においては引揚者から情報収集し,帰郷後においては通信調査,合同調査などを行った。

コ  被告は,昭和26年9月8日,サンフランシスコ講和会議において,48か国との間で平和条約(以下「サンフランシスコ平和条約」という。)を締結した。

昭和26年11月1日,出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)が施行された。

サ  被告は,昭和27年3月1日,個別に引き揚げる者の帰国に要する費用のうち,留守家族による申請手続に基づいて,出境地から日本までの船運賃を負担することにした。この船運賃の国庫負担は,中国残留邦人本人のみならず,同行する配偶者及び未成年の子についても実施された。

内閣は,昭和27年3月18日,輸送や受入援護等の取扱いについては従前の例によるとの要領を定めた「海外邦人の引揚げに関する件」を閣議決定した。

シ  昭和27年4月28日,サンフランシスコ平和条約が発効し,被告は,主権を回復した。

・※  未帰還者に関する特別措置法施行に至るまで

ア  被告は,昭和27年4月28日,中華民国との間で,平和条約を締結した。

イ  海外同胞引揚特別委員会の委員であった国会議員3名は,民間団体の要望や陳情を受け,昭和27年5月15日,北京を訪問し,日中貿易交渉のほか,中国紅十字会の幹部に,残留日本人の実情調査と帰国の実現について協力を要請したところ,中国紅十字会の幹部は,「ことは人道問題であって解決が急がれ,また信頼する3人の先生たちの要望であるから希望に応えることができるよう努力してみる」との回答をした。

ウ  中国政府は,昭和27年7月,在華邦人帰国支援計画を策定し,これに関係する中国紅十字会,外交部,公安部及び衛生部などにより中央日僑事務委員会を組織した。

中国政府は,昭和27年9月,「在華邦人問題の処理に関する中央中共の決定」及び「在華邦人処理の若干の問題に関する政務院の規定」を採択し,在華邦人一般の帰国希望者に対する帰国支援事業を開始した。

中国政府は,昭和27年12月1日,北京放送において,中国大陸に約3万人の日本人居留民が存在し,これらの者が帰国を望む場合,中国政府としては援助を行う意向であることを表明した。

エ  被告は,昭和28年3月,中国残留邦人を含む引揚者に対して,帰国後の当面の生活資金等に充てるための帰還手当として1万円の支給を開始した。

オ  日本の民間団体である日本赤十字社,日中友好協会及び日本平和連絡委員会(以下,この三団体を総称して「民間三団体」という。)は,昭和28年3月5日,日本側の窓口となり,中国の窓口である中国紅十字会との間で,「邦人居留民の帰国援助問題に関する日本赤十字社等と中国紅十字会との申し合わせ」を締結した。これにより,昭和28年3月23日,中国残留邦人の大規模集団引揚げ(以下「後期集団引揚げ」という。)が開始されることになった。後期集団引揚げは,中国紅十字会が中国公安局と共に中国政府が把握している居留邦人に対して帰国意思の確認を行い,被告が引揚げ輸送船の手配を行い,民間三団体が引揚げ輸送船に乗船し,人員の輸送や中国との交渉を行うという枠組み(以下「三団体方式」という。)で行われた。

カ  昭和28年7月27日,衆議院厚生・中共地域からの帰還者援護に関する特別委員会において,引揚援護庁次長は,法案審議中であった未帰還者留守家族等援護法について,「国は調査究明に努めなければならんという規定がありますが,三年間の間,政府といたしましては,あらゆる機関を動員いたしまして,調査究明に全力を尽くしたいと思うのであります。」と述べた。

昭和28年8月1日,未帰還者留守家族等援護法が成立し,即日,施行された。

キ  中国紅十字会は,昭和28年11月,民間三団体に対し,日本居留民の後期集団引揚げの打切りを通告し,後期集団引揚げは中断された。これまでに,後期集団引揚げは,第7次まで行われ,合計約2万6000名が帰国した。

ク  昭和29年4月,厚生省設置法の一部が改正され,これまで,旧陸軍関係未復員者の調査については厚生省留守業務部が,未引揚邦人の調査については外務省がそれぞれ行っていた未帰還者の状況調査の事務が,厚生省において一元的に実施されることになった。これを受けて,厚生省は,未帰還者調査事務の担任,未帰還者の身分決定,帰還する意思のない者の取扱い,死亡の認定,死亡の報告及び告知,死亡の取消し及び通知,並びに遺骨遺留品の取扱い等について大綱を定めるとともに,未帰還者調査部を設置し,未帰還者等の状況調査を実施することとした。

未帰還者調査部は,旧満州地区の一般邦人及び開拓団員の調査について,日ソ開戦前における職域,隣組及び開拓団等ごとにその人員,人名を把握し,次いで行動群調査によりその足取りを追い,この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし,未引揚邦人の個人ごとの最終消息をもとにして個人究明を行い,生死の判定のよりどころを求めることを重視して調査するという方針で行われ,国内においては,引揚上陸地における帰還者に対する聞取り調査,帰還者に対する通信調査,招致調査及び探訪調査,留守家族等からの資料収集等を実施し,国外においては,留守宅等に通信がある等により現地住所が明らかな者に対して通信調査を実施するなどした。

ケ  昭和29年11月3日,中国紅十字会訪日代表団と民間三団体代表団との間で,①戦犯を除く在留邦人は約8000名であり,その帰国意思について,中国側は,昭和28年の後期集団引揚げ中断後,地方政府を通じて調査をしていることを報告したうえで,帰国希望意思がある場合には,必ず帰国できるよう援助すると約束する,②中国側が交付した戦犯者の名簿に記載された1069名のうち,絶対多数の者は,近く寛大な措置を受ける,③中国側としては,日本人の死亡者についての調査について,全死亡者の調査は困難であり,また,生死不明の日本人については,中国紅十字会は出来る限り調査究明するが,大部分は蒋介石時代の戦争中に関するものなので,不明なものが多かろうと考えていることなどを内容とする「帰国問題に関する懇談の覚書」が確認された。

コ  在ジュネーブ日本総領事は,昭和30年7月15日,閣議了解の下,在ジュネーブ中国総領事に対し,①戦犯1069名の抑留者の釈放を求めること,②約6000名の日本人が中国に残っている中国側の調査と日本側の調査とが一致すること,③帰ることを望む者には帰れるよう援助を与えてほしいこと,④中国大陸にいた4万名がその状況または死亡について未確認なので,状況不明者の調査を求めることを骨子とする書簡を出した。

在ジュネーブ中国総領事は,昭和30年8月17日,在ジュネーブ日本総領事に対し,両国人民の利益に関係のある重大な問題について話合いを行うことが必要と考えるとして,北京で,政府代表者の国交正常化交渉を含めた会談をすることを呼びかける旨の書簡を出した。

中国紅十字会代表は,昭和30年9月,ジュネーブにおいて開催された国際赤十字連盟執行委員会の会合において,約200人の日本人の帰国について準備をしている旨の発言をした。

在ジュネーブ日本総領事は,昭和30年10月20日,在ジュネーブ中国総領事に対し,中国紅十字会代表の発言内容についての事実関係の確認と,事実であればこれらの帰国者を政府又は日本赤十字社で受け入れる用意のあること,戦犯者の送還について両国政府の直接の接触を通じて促進したい旨が記載された書簡を出した。

在ジュネーブ中国総領事は,昭和30年11月5日,在ジュネーブ日本総領事に対し,①日本人居留民の帰国問題については既に三団体方式で,帰国を希望する日本人居留民の帰国の解決ルートができていること,②中国にいる戦争犯罪人を処理することは中国の主権に属する事柄であり,中国政府は近々その処理の結果を公表すること,③日本政府が,再び状況不明の日本人4万名の調査を持ち出してきたことについて,いま中国には6000余名の日本人居留民と1000余名の戦争犯罪人がいるだけであり,状況不明の日本人なるものはおらず,日本政府が持ち出す4万名は全く根拠がないこと,④しかし,人道上の原則にもとづいて,中国紅十字会は,民間三団体が具体的な資料を提供すれば出来る限り調査すること,⑤戦争状態が解除されていない両国関係の正常化を促す問題について政府間で対話することを呼びかける旨が記載された書簡を出した。

中国紅十字会は,昭和30年12月,約200名の日本人居留民を三団体方式により帰国させた。

サ  残留邦人7名は,昭和30年,個別に中国政府の出境許可を得て塘沽,上海又は香港からの便船によって帰国した。

シ  被告は,昭和30年度における未帰還者調査部の定員を502名とした。

ス  厚生大臣は,昭和31年2月15日,衆議院の社会労働委員会において,未帰還者留守家族等援護法に関し,「昭和三十一年八月一日までにその調査を完了し,それに基づいて必要な措置をとることがきわめて困難であると考えられるに至りましたので,留守家族手当の支給打ち切りの期日をおおよそ調査の最終段階に達するに至るであろうと予想される昭和三十四年八月一日まで延長することとした次第であります。」と答弁した。

セ  昭和31年6月28日,中国紅十字会代表と民間三団体代表との間で「天津協定」が締結され,不起訴となり釈放された戦犯者の大半に当たる1017名が三団体方式で帰国し,また,中断されていた後期集団引揚げが再開されることとなった。

ソ  残留邦人9名は,昭和31年,個別に中国政府の出境許可を得て塘沽,上海又は香港からの便船によって帰国した。

タ  岸信介首相は,昭和32年5月,東南アジア諸国を訪問した際,各国で反中国発言をした。

在ジュネーブ日本総領事は,昭和32年5月13日,在ジュネーブ中国総領事に対し,添付した名簿に記載された3万5761名の現在生存している者の現状を明らかにすること,死亡している者についても可能な限りの調査をすることを求める内容の書簡を出した。岸信介首相は,昭和32年6月初め,台湾において,蒋介石が唱えていた大陸反攻を支持することを表明した。

衆議院海外同胞引揚特別委員会の委員長は,昭和32年6月,中国首相及び中国紅十字会会長に対し,残留邦人の帰国の促進,未帰還者の調査等の問題について委員会として中国側に懇請するため,委員長外委員3名及び若干名の政府職員の訪中を申し入れた。

中国紅十字会会長は,昭和32年7月,民間三団体に対し,衆議院海外同胞引揚特別委員会の委員長らの訪中を拒否する書簡を出した。

在ジュネーブ中国総領事は,昭和32年7月25日,在ジュネーブ日本総領事に対し,①約6000名の中国に生存する日本人の帰国の促進については,昭和28年以来,中国紅十字会と民間三団体との間で三団体方式を将来も履行することを確認している,②岸信介首相の東南アジア諸国訪問での反中国発言,蒋介石政府との会談を行ったこと,既に中国政府が見解を出している行方不明の日本人調査を日本政府が執拗に持ち出してくることなど日本政府の態度とやり方に同意できないとする書簡が出された。

昭和32年10月1日当時,集団引揚げ等により逐次減少して,未帰還者数は4万6650名となっていた。

来日した中国紅十字会代表団は,昭和32年12月13日,民間三団体と留守家族団体全国協議会に対し,中国側で調査した消息不明者を一部含む残留日本人の名簿880名分(うち生存者640名)を手渡した。

チ  残留邦人4名は,昭和32年,個別に中国政府の出境許可を得て塘沽,上海又は香港からの便船によって帰国した。

ツ  厚生省は,昭和32年12月17日,引揚同胞対策審議会において,試案として,国が状況について調査究明し,死亡の確認はできないが生存しているものとは思われない未帰還者につき,死亡したものと推定し,厚生大臣の一方的な公告により死亡したものとみなすこと,死亡確認された者の遺族には適切な措置を講じることを内容とする「死亡したものと推定される未帰還者に関する措置(試案)」(以下「厚生省試案」という。)を諮問した。

留守家族団体全国協議会は,昭和33年1月22日,厚生省試案について,未帰還者の死亡推定処理の法案を出し,この問題に事実上の終止符を打とうとしていると批判し,厚生省試案に反対する宣言を採択するとともに,①全地域に特派使節を送り,速やかに帰還促進並びに調査究明を完了すること,②引揚げに関する官公署の人員や予算の削減について絶対に反対し,充実を図ること,③調査の万全を期するための報道機関の活用,④中国に船を出し天津にいる未帰還者を帰国させること,④未帰還者と留守家族への抜本的補償を求める決議を行った。

テ  中国紅十字会会長は,昭和33年3月,永住帰国者800人と発表すると同時に,2306体の日本人遺骨を送還することを発表した。

昭和33年3月,従前から日中間で交渉されていた第四次日中民間貿易協定が調印された。その直後,岸信介首相は,同協定の中に,「『通商代表部が国旗を掲揚する権利を有する』という文句が入っているのは適当でない」と非難した。

ト  留守家族団体は,昭和33年3月20日,①未帰還者の調査に全力を尽くし,引揚げを促進すること,②留守家族の心情に即して,未帰還者の最終処理を急ぐこと,③留守家族の援護をよくし,死亡処理した未帰還者の家族に,特別な弔意と慰霊の措置を講ずることとの決議をした。

未帰還者問題処理閣僚懇談会は,昭和33年5月2日,第2回会合において,未帰還者に関する措置方針を申合せ事項として定めた。これは,①未帰還調査を徹底的に行うこと,②留守家族に対して弔慰の意を表すること,③昭和34年8月以降も留守家族手当の支給を考慮すること,④厚生省試案においては民法の失踪宣告制度とは別の死亡推定措置を考えていたのに対して,民法の失踪宣告制度に乗せて,その手続の大部分を司法機関に委ねようとするものなどの点において厚生省試案と異なるものであった。

ナ  昭和33年5月2日,長崎市内のデパートで開催されていた中国物産展の会場に右翼団体構成員が乱入し,そこに掲げられていた中国国旗を損壊する事件が起こった。

警察は,器物損壊の罪に問うことができるか疑問として右翼団体構成員をすぐ釈放した。

ニ  厚生省は,昭和33年7月,国会特別調査委員会において,残留孤児について,残留孤児は,「中国人にもらわれていった子ども」として「実質的に中国人になった人が大部分でございまして」,「この人たちもさしあたり帰る希望をもっておられる方は非常に少数であろうと考えている」と答弁した。

ヌ  中国紅十字会は,昭和33年7月,民間三団体代表に対し,後期集団引揚げを打ち切る旨を通告した。後期集団引揚げは,昭和28年3月から昭和33年7月までの間に21次にわたって実施され,残留孤児93名を含む3万2506名の残留邦人が帰国した。

ネ  日本赤十字社は,昭和33年10月,中国紅十字会に対し,現地残留者の内地向け通信に,残留邦人の消息資料の収集の協力方を申し入れたが,中国側はこれに回答しなかった。

昭和33年10月11日,北京放送において,中国紅十字会が,日中友好協会訪中代表団に対し,残留邦人の帰国援助の意思を表明したことを報じた。

ノ  被告は,昭和33年11月16日,最後の引揚者受入機関であった舞鶴地方援護局を閉局した。

ハ  被告は,昭和33年12月,昭和33年7月に行われた未帰還者問題処理閣僚懇談会の第3回会合において申し合わせ事項とした「未帰還者の調査究明促進に関する特別措置について」に基づき,都道府県との連携の下,広報機関や関係各種団体の協力も得て,帰還者に対して未帰還者についての各種名簿を送付して消息資料を求める通信調査を実施したほか,外地残留者に対しても通信調査を実施するなどの手段を用いて現に外地に残留している者の把握に努めるとともに,状況が不明の未帰還者について極力その消息資料を収集する目的で,消息資料の収集を行った(以下「一斉特別調査」という。)。

この一斉特別調査により,2万2187名の邦人が中国に残留していることが判明した。

ヒ  被告は,昭和33年,中国地域に残留しその現地住所の明らかな者の名簿を作成し,これを都道府県に配付し,留守家族と協力して現地に対する通信調査を実施した。

フ  被告は,未帰還者調査部の定員を,昭和33年度においては187名とし,昭和34年度においては144名とした。

ヘ  昭和34年3月3日,未帰還者に関する特別措置法が制定された。この法律は,「未帰還者のうち,国がその状況に関し調査究明した結果,なおこれを明らかにすることができない者について,特別の措置を講ずること」(同法1条)を目的とし,未帰還者のうち,国がその状況に関し調査究明した結果,なおこれを明らかにすることができない者について民法上の失踪宣告の請求を厚生大臣が行うことができる旨の特例を設け(以下,かかる特例によって,厚生大臣が請求し,裁判所がした失踪宣告を「戦時死亡宣告」という。),戸籍上死亡処理が行われた遺族に対して被告が3万円の弔慰金を支払うという内容のものであった。

昭和34年4月1日,未帰還者に関する特別措置法が施行された。

被告は,同法の施行に当たって,戦時死亡宣告の請求をする場合には,厚生大臣は,当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行わなければならないとする同法2条の規定を受けて,①戦時死亡宣告の請求の要件に該当する者の決定は,厚生省保有資料によりこれに該当すると認められる未帰還者について,予め「特別措置法該当予定者」として都道府県を通じて留守家族に通知し,当該留守家族が戦時死亡宣告の請求をすることに同意した後,「特別措置法該当者」とすること,②戦時死亡宣告の審判が確定した者の遺族に対しては,政府としては特に弔慰の意を厚くするため,内閣総理大臣の弔詞を交付することとした。厚生省引揚援護局長は,昭和34年4月28日,関係各機関に対し,戦時死亡宣告確定者の生存の事実が判明するなど,戦時死亡宣告の取消しを行うべき事態が生じたとき,利害関係人が存在する場合には,都道府県が利害関係人に対し民法の規定に基づいて戦時死亡宣告の取消審判申立てを行うよう指導し,利害関係人が申立てを行わない場合は,都道府県からの通知を受け,厚生大臣が戦時死亡宣告の取消請求を行い,裁判所による審判確定後においては,本籍地市区町村に戸籍の処理について依頼するとともに,都道府県を通じ利害関係人に戦時死亡宣告取消しについて通知するという運用をとることを通知する「特別措置法の施行に関連する未帰還者の資料通報要領について」(昭和34年4月28日付け援発第10008号)を発した。

未帰還者に関する特別措置法に基づき,昭和51年12月までに,約1万4100名の残留邦人が戦時死亡宣告を受け,戸籍から抹消された。

・※  日中国交正常化に至るまで

ア  被告は,昭和35年,中国地域に残留しその現地住所の明らかな者の名簿を作成し,これを都道府県に配付し,留守家族と協力して現地に対する通信調査を実施した。

イ  これまで,個別に中国政府の出境許可で帰国した者は,塘沽,上海又は香港からの便船によって帰国していたが,昭和36年2月1日以降は,香港からの便船のみとなった(以下「香港ルート」という。)。

この香港ルートでの帰国は,引揚げ希望者は,①その居住地を管轄する公安局に出境証の下付申請をするとともに,②居住地出発前にあらかじめ在香港日本総領事館に香港到着の日程を通知し,香港政府による香港通過の許可を取り付け,国境にある中国旅行社に連絡,通過の手配の依頼を行い,③出境許可を得た後,大陸を南下して広東,そして深川に至り国境駅で出国手続を済ませ,国境の橋を徒歩で渡り,香港側の羅湖において,英国官憲に対し入域手続きを行い,④香港から,船便もしくは飛行機を利用して日本に帰国するという要領で行われた。

ウ  厚生省は,昭和37年,都道府県の担当職員に対し,留守家族による戦時死亡宣告の請求についての同意書の取付けを督励し,厚生省援護局長は,各都道府県知事に対して,留守家族と接触するに当たっては,戦時死亡宣告の請求に同意しない留守家族については,面接のうえ説得することに努めるよう求めた。

厚生省援護局長は,昭和37年5月18日,関係各機関に対し,戦時死亡宣告審判確定者等死亡を確認していない者の諸資料は他の処理済者の諸資料と区分して整理保管し機会あるごとに死亡時期,場所,死因並びに遺骨等について調査するという運用をとることを通知する内容の「昭和37年度における未帰還者等の調査究明業務について」(昭和37年5月18日付け援発第18362号)を発した。また,厚生省援護局長は,その中で,「留守家族手当の問題等に関連して,政府が『特別措置法』による処理を早急に強行せんとしているとの誤解がある」,「留守家族との面接の際,不用意な言動により不測の間に留守家族の心情を害し,まさつを起こした例もある」と指摘した。

エ  被告は,昭和37年6月1日,個別に引き揚げる者に対してこれまで実施してきた出境地から日本までの船運賃の国庫負担に加え,中国国内の居住地から出境地までの中国国内旅費について,留守家族による申請手続に基づいて国庫負担することとしたが,外交ルートによる実施が困難であったため,この取扱いを日本赤十字社に委託して,実施した。

オ  厚生省援護局長は,昭和38年5月2日,関係各機関に対し,国内においては,帰還者全員に対する上陸地における聞取り調査,厚生省や都道府県の職員による,未帰還者の情報を持っていると思われる帰還者に対する通信による未帰還者に関する既得資料の確認及び調査や帰還者の招致若しくは帰還者宅への訪問による未帰還者の消息に関する情報収集等を実施するとともに,国外においては,中華人民共和国政府と当時外交関係を有しておらず,外交ルートによる実施が困難であったため,日本赤十字社ルートや留守家族団体ルートにより安否確認を実施するが,戦時死亡宣告審判確定者の調査については未帰還者調査と区別して,死亡時期・場所・死因ならびに遺骨等の調査に限定するという運用をとることを内容とする「昭和38年度未帰還者等に関する調査等業務実施計画について」(昭和38年5月2日付け援発第10330号)を発した。

カ  米国ニクソン大統領は,昭和45年初頭,中国を訪問した。

昭和47年2月18日,米国と中国との間の国交が回復した。

キ  被告は,米中間の国交正常化を受けて,日中間交渉や交流に取り組み,昭和47年9月29日,日中共同声明により,日中間の国交が正常化した。

・※  公開調査終了に至るまで

ア  被告は,昭和48年3月,未帰還者,戦時死亡宣告により除籍された者及び自己の意思により帰還しないと認められ未帰還者から除かれた者の名簿を,在北京日本大使館に送付し,これに基づく現地調査を行うとともに,調査担当官を同大使館に派遣して,中国における未帰還者の調査を行った。

イ  昭和48年3月3日,衆議院予算委員会において,教育の問題を扱う「引揚者センター構想」を検討すべきであるとの質疑が行なわれ,また,夜間学級に入学してきた中国帰国者たちの日本語の習得状況や年齢の差が大きいために,教育するのが困難であるとの説明がされた。

東京都夜間中学校研究会及び全国夜間中学校研究会は,このころ,厚生大臣に対し,「引揚者センター設立に関する要望書」を提出し,①日本語及び日常生活に必要な学習に専念できるようにすること,②学習と同じ場所に住居を確保し,生活を保障すること,③職業訓練校,就職斡旋も行うこと,④センター内に医療施設をつくることを要望した。

ウ  被告は,昭和48年3月16日,日本赤十字社を通じて負担していた中国国内旅費を厚生省が直接負担することとし,中国の居住地から日本までの帰国旅費を国庫負担とすることとした。

帰国旅費国庫負担の申請は,引揚希望者の留守家族が行うこととされたため,留守家族の存在が分からない身元未判明孤児や,留守家族が残留孤児の帰国に同意して同手続をとってくれない身元判明孤児は,国費による帰国の援護を受けることができないこととなった。

エ  被告は,昭和48年10月,航空機により帰国した場合の運賃についても国庫負担することとした。

オ  厚生省援護局庶務課長は,昭和48年10月6日,各都道府県外国人登録事務主管部長に対し,同日付庶務第533号厚生省援護局庶務課長通知「中国からの引揚手続について」において,引揚者及びこれに同伴する者の引揚手続として,元日本人で中国の国籍を有する者の入国手続は中国旅券に査証を行なうこととし,査証発給申請書類として,留守家族から①本人の除籍の謄本または抄本,②留守家族が身元保証を行なうものであることが確認できる内容の通信文を送付する必要があるという運用をとることを通知した。

この運用により,残留孤児及び残留婦人のうち留守家族の存否が明らかとならない身元未判明者は,永住帰国することが困難な状況に置かれることとなった。孤児を支援するボランティア団体は,中国にいる間に戸籍を得てしまえば,外国人ではなくなるのだから,日本人として自由に帰国できるという発想から,身元未判明孤児の就籍運動を進めたが,就籍した場合にも外国人としての取扱いがされたため,就籍手続に関与したボランティアが身元保証人になるなどの手続を経なければ,身元未判明者は,永住帰国できなかった。

カ  被告は,昭和48年10月31日,終戦後初めて親族訪問,墓参等を目的として中国から日本への一時帰国を希望する者に対し,中国の居住地から日本の落着先までの往復の旅費を1度に限り支給することとした。

キ  昭和49年8月15日,朝日新聞紙上に,残留孤児,残留婦人の情報を顔写真入りで紹介する「生き別れた者の記録」という特集記事が組まれた。

ク  昭和49年9月,日中航空協定により,東京,大阪,北京,上海間に航空機の相互乗り入れが行われるようになった。

ケ  幼いころ肉親と離別した中国残留孤児は,自分や両親の氏名,居住地や離別状況等の手掛かりを覚えていない,又は記憶が曖昧であることなどが多く,養父母が中国残留孤児の身元の状況についての資料を有していない場合も多く,被告の保有資料による調査のみでは身元の解明が困難なケースが生じた。

被告は,昭和49年ころ,前記朝日新聞の特集記事が反響をよんだことを参考に,新たな調査方法として,各報道機関の協力を得て,広く国民一般に対して,孤児から送られた顔写真,特徴,肉親と離別した時の事柄などを新聞,テレビ等で公開し,孤児の情報等を周知することにより,身元調査の促進を図るという方法を採ることとした(以下,かかる方法による身元調査を「公開調査」という。)。

被告は,昭和50年3月から,公開調査を開始した。

コ  法務省入国管理局登録課長は,昭和50年11月22日,各都道府県外国人登録事務主管部長に対し,中国残留邦人のうち,中国旅券又は在中国日本大使館が発給する渡航証明書を所持して本邦に帰国した者については,帰国時に身元が判明していない者については帰国時に戸籍の記載がなくその確認ができないことが通例であり,また,仮に戸籍上,日本国籍の有無が確認できたとしても,旧国籍法下(昭和25年6月30日以前)で,婚姻,認知等により日本国籍を喪失し(旧国籍法18条,23条),又は,現行国籍法においても,自己の志望によって外国の国籍を取得したことにより,日本国籍を喪失した可能性があるため,日本国籍の有無について疑義があるとして,中国旅券又は在中国日本大使館が発給する渡航証明書を所持して本邦に帰国した者に外国人登録申請を行うよう指導した上,その後,法務局等に対して日本国籍有無の照会を実施し,その結果,日本国籍を有する旨の回答を得た場合,登録の無効措置をとるという運用をすることを通知した(昭和50年11月22日付け法務省管登第9660号)。

サ  民間団体の日中友好手をつなぐ会は,昭和51年8月28日,第6回総会において,公開調査には限界があり,身元の分からない日本人孤児は早急に里帰りさせ,日本で肉親を捜している人たちと面接させるしかないとして,中国残留孤児250名を日本に招き,日本で肉親捜しを実施し,そのための旅費や滞在費等の経費として1億8000万円を予算化するよう厚生省に要望した。

シ  被告は,昭和52年7月,長期にわたり海外で生活してきたため,言葉,生活習慣等の相違から,定着先の地域社会で定着し自立していく上で種々の困難に遭遇している中国帰国者の状況に鑑み,引揚者生活指導員を,支援を必要とする中国帰国者の家庭へ派遣することを開始した。

被告は,引揚者生活指導員を,中国語が理解でき,中国帰国者に深い関心と理解を持ち,日本社会への定着及び自立に向けて積極的に協力できる民間の篤志家の中から選任し,①中国帰国者の日常生活等における諸問題に関する相談に応じ,必要な助言及び指導を行うこと,②市区町村,福祉事務所等の公的機関と緊密な連絡を保ち,必要に応じて帰国者等をこれらの窓口に同行して仲介することを引揚者生活指導員の業務内容とした。

被告は,引揚者生活指導員の派遣期間,派遣日数を,帰国後1年間のうちで24日とした。

ス  民間団体の日中孤児問題連合会は,被告に対し,昭和53年,日本語塾を併設する帰国者センターの設置を強く要望した。

セ  厚生省援護局長は,昭和53年10月6日,関係各機関に対して,厚生大臣が裁判所に対して戦時死亡宣告の請求をする際には,一定の期間消息情報がないことを要件として請求することは当然として,戦時死亡宣告の請求前に必ず親族に調査状況を詳細に説明し同意を得てからでないと請求できないとする運用をとることを通知した(昭和53年10月6日付け援発第883号)。

ソ  被告は,昭和54年に,昭和52年度以降の帰国者のうち厚生省援護局庶務課が必要であると認定した中国残留邦人に対し,日本語習得のための語学教材として,カセットレコーダー,カセットテープ及びテキストを帰国直後に支給することを開始した。

タ  被告は,昭和54年4月,残留孤児及び残留婦人が成田空港又は大阪空港に帰国した際,同人らを東京都内又は大阪市内に1泊させて,講師により,帰国後の援護の内容,相談に行くべき行政機関の窓口等帰国後すぐに必要とする事項の説明を行うという帰国時オリエンテーションを実施することを開始した。

チ  日中友好手をつなぐ会の民間人26名は,昭和55年7月,旧満州地区を訪問し,残留孤児の聞き取り調査を実施し,300名の記録を公表した。

昭和55年10月22日の衆議院外務委員会において,委員の「国は中国に対して正式に訪日調査の申入れを行なっているのか,日本政府から正式に申入れは受けていないと中国側から聞いた」との質問に対し,外務大臣は,「12月に日中閣僚会議があるので,それまでに資料を整え中国の外務大臣に正式に出す」と答弁した。

被告は,昭和55年10月28日,中国外交部を訪問し,訪日調査を行うことについて協力要請をした。これに対し,中国は,孤児の帰国に関しては人道上と中日友好の観点から今後も援助するとの対応をとった。

ツ  被告は,昭和55年,職業訓練施設で受講している中国帰国者の相談に応じ,必要な助言・指導を行うとともに,円滑かつ効果的な職業訓練が行われるよう,援護措置を講じ,もって技能習得後の雇用安定が図られるよう配慮することを業務内容とする職業訓練校協力生活指導員を設置した。

テ  被告は,昭和56年1月,公開調査を終了することとした。公開調査は,昭和50年3月から昭和56年1月まで計9回実施され,公開された437名のうち166名の残留孤児の身元が確認された。

・※  身元引受人制度の創設に至るまで

ア  被告は,手掛かり資料の乏しい中国残留孤児については身元の解明が困難であり,また,実際に孤児と対面して顔を見,声を聞き,身体的な特徴,孤児が覚えている手掛かりを確認したいとの在日親族からの要望を踏まえ,昭和56年3月,身元が確認できない中国残留孤児について,一定期間日本に招き,報道機関の協力を得て肉親捜しを行う訪日調査を実施することにした。

訪日調査は,手掛かり資料等に基づき日中両国政府が中国残留孤児と確認した者を対象とし,訪日前においては,被告において訪日期間中の調査効率を高めるため,保有資料の調査により肉親関係者の抽出を行うとともに,報道機関の協力により手掛かり資料を公表して肉親関係者の名乗り出や情報の提供を求める公開調査等を行い,そして,訪日後においては,まず,被告において,手掛かり資料の正確を期するため,本人からの聞取り調査(面接調査)を行い,その結果新たに把握されたり,修正された手掛かり資料については,直ちに報道機関を通じて公開し,また,報道機関の協力により,残留孤児自らがテレビに出演し,全国に身元の手掛かりを訴え,ルーツを求める呼びかけを行い,そして,肉親関係者が名乗り出た場合は,残留孤児と直接対面してもらい,身元の確認を行う(対面調査)という要領で行われた。

被告は,対面調査によって,残留孤児及び肉親の双方が身元確認について明確に判断できない場合や,一人の残留孤児に対して複数の関係者が名乗り出た場合などにおいては,当事者双方の希望により,血液鑑定を実施することもあった。

イ  法務省入国管理局登録課長は,昭和57年1月23日,中国旅券を所持して帰国する中国残留邦人について,最終的に日本国籍を有することが確認される事例が多数にのぼっていることに鑑み,これまでの取扱いを改め,該当する者について,法務局等に対して日本国籍有無の照会を実施し,これに対する回答が得られる見込みがないときは,やむを得ない事由があるとして外国人登録の申請期間を延長して差し支えなく,日本国籍を有する旨の回答を得た場合,その者が既に外国人登録を受けているときは,登録の無効措置をとるという運用にすることを通知した(昭和57年1月23日付け法務省管登第826号)。

ウ  被告は,昭和57年3月,厚生大臣の諮問機関として,中国残留日本人孤児問題懇談会を設置した。

中国残留日本人孤児問題懇談会は,昭和57年8月26日,「中国残留日本人孤児問題の早期解決の方策について」と題する報告書を出し,①既に中年に達している孤児が,言葉や社会習慣の異なる日本で職を得て自立していくことは決して容易なことではないため,政府が帰国した孤児の定着のために根本的な対策を進めることが必要であること,②それはあくまで側面的な援助であって,最終的には,孤児自らが努力して困難を克服していかなければならないこと,③日本に帰国した孤児をあまり長い期間一般社会から遠ざけておくことは好ましくないので,日常生活に必要な基礎的日本語研修と基本的生活習慣等の指導を行う施設への標準的な入所期間は4か月程度にとどめることが適当であることなどの報告や提言等を行った。

厚生省援護局は,帰国した残留孤児及び残留婦人に対して日常生活に必要な基礎的日本語研修と基本的生活習慣等の指導を行う施設の設置を昭和58年度予算要求事項に盛り込んだ。

被告は,昭和57年,永住帰国した残留邦人に対し,職業転換給付金制度を適用することとし,訓練手当,広域求職活動費,移転費,職場適応訓練費などの給付を行うこととした。

エ  被告は,昭和58年3月,中国残留孤児に関する情報収集を促進するため,3分冊からなる「肉親探しの手掛りを求めている中国残留日本人孤児」と題する孤児名鑑を発行して,各都道府県及び市町村等に配付し,広く一般に公開して孤児に関する情報の提供を求めた。

オ  被告は,昭和58年4月,永住帰国した残留孤児が中国に残る養父母を扶養することは極めて困難であることに鑑み,残留孤児の養父母の扶養費として,中国側と取り決めた一定金額を,国民の浄財により設立された財団法人中国残留孤児援護基金と2分の1ずつの負担をすることとした。

カ  残留孤児の支援を行う全国のボランティアで組織する中国残留孤児問題全国協議会は,昭和58年12月3日,被告に対して,訪日調査において,原則として血液検査を実施することを要請した。

キ  被告は,昭和59年2月1日,帰国した残留孤児及び残留婦人に対して帰国後の一定期間,入所形式による日本語教育・生活指導等の援護を行う施設として,「中国帰国孤児定着促進センター」(以下「定着促進センター」という。)を,埼玉県所沢市に開設した。被告は,定着促進センターの入所期間を,中国残留日本人孤児問題懇談会の提言を踏まえて帰国後4か月程度とし,この間,宿泊施設の提供,生活援助費の支給を行いながら,日常生活に必要な基礎的日本語研修と基本的生活習慣等の指導を行った。

基礎的日本語の研修においては,年齢構成や日本語学習歴,学歴等を勘案してされたクラス編成の下,日本社会に定着する上で必要な初歩的な日常会話レベルの日本語研修が行われ,基本的生活習慣の指導においては,日本で生活していく上で必要な知識や守るべき規則等についての指導が,日常生活,対人関係,制度や法律等の分野に分けられ,買物や交通機関の利用等の実習が取り入れられつつ,個別の指導目標が定められ実施された。その他に,定着促進センターでは,個別の就職相談や指導をはじめ,職業についての講話,公共職業安定所や職業訓練校の見学,職場体験実習,地域体験実習等が実施され,また,身元が判明していない残留孤児については,就籍手続の説明や指導が実施された。

定着促進センターは,宿泊棟と研修棟からなり,宿泊棟には30室の居室が設置されたが,昭和59年度の予算上の収容可能世帯数は,年間60世帯に制限されていた。

ク  被告は,昭和59年3月17日,中国政府との間で,「中国残留日本人孤児問題の解決に関する日中間の口上書」を交わし,被告が,残留孤児の希望がある場合には,在日親族の有無にかかわらず,その同伴する中国の家族とともに日本への永住を受け入れることを確認した。

ケ  日本弁護士連合会は,昭和59年10月20日,中国残留邦人の帰還に関する決議を行い,その中で,帰国者たちは4か月程度の日本語教育しか受けられておらず,就職のための技能取得にも支障を生じていることを指摘した。

コ  被告は,昭和59年,帰国した残留邦人が雇用されることを促進させるため,特定求職者雇用開発助成金を適用することとした。

被告は,昭和59年,日本語教師用の指導参考資料の開発及び作成を行うこととした。

被告は,昭和59年,帰国した残留邦人世帯の定着地における生活の実態を把握して今後の自立促進対策の充実を図る基礎資料とするため,帰国した残留邦人の帰国後の生活実態調査を不定期で行うこととした。

サ  厚生大臣は,昭和60年3月1日,訪日調査で実施されることのあった血液鑑定の問題点についてテレビ番組の取材を受けた際,血液鑑定費用のうち6万円が肉親側の負担となっていることについて,「肉親分の費用が,自己負担であることは知らなかった。」,「肉親である以上,負担についてはそれくらいの意気込みでやってもらわないと…。まあ見捨てて帰ってきた訳ですから。」と発言し,中国残留孤児問題全国協議会をはじめ,各方面から批判や抗議を受けた。

被告は,昭和60年度の予算として,血液鑑定料として,20人分に相当する120万円を計上した。

シ  昭和60年度の定着促進センターにおける予算上の収容可能世帯数は,昭和59年度に引き続き,年間60世帯に制限された。

ス  厚生省援護局長は,昭和60年3月29日,身元未判明孤児の日本社会への早期定着,自立促進を図ることを目的として,各都道府県知事に対し,「身元未判明の中国残留日本人孤児の受け入れについて」(援発206号),「本邦に永住帰国する身元未判明の中国残留日本人孤児に対する身元引受人制度の実施について」(援発207号)をそれぞれ通知し,残留邦人のうち訪日調査によっても身元が判明しないまま永住の目的をもって本邦に帰国する身元未判明帰国邦人及び身元未判明帰国邦人が同伴して帰国する配偶者及び20歳未満で未婚の子の身元を引き受けて相談相手となる身元引受人をあらかじめ登録し,身元未判明邦人に対し,定着促進センター入所中に,身元引受人をあっせんすることとする身元引受人制度を導入した。

身元引受人は,残留邦人世帯及びその肉親の置かれている立場に理解を有し,かつ,社会的信望が厚く,残留邦人世帯構成員の日本社会への早期定着自立のための指導に熱意をもって当たることができる者から選定され,その役割は,残留邦人の身元を引き受け,その世帯の身近にあって,一日も早く自立して生活を営めるよう日常生活上の諸問題の相談に応じ,自立に必要な助言や指導を行うこととされ,身元引受期間は,中国残留邦人世帯が定着促進センターを退所した日から3年以内とされた。被告は,身元引受人の選定に当たっては,身元引受人希望者に身元引受人希望申請書を居住地の都道府県援護担当課に提出させ,当該都道府県民生主管部局長が必要に応じて身元引受人希望者と面接し,市区町村長等の意見を聴取するなどの調査を行い,各都道府県知事から身元引受人となるにふさわしい者について推薦を受けることとした。

身元引受人制度の創設及び厚生省援護局長の発した「中国からの帰国者に対する帰国旅費の国庫負担について(通知)」(援発208号)により,身元未判明邦人は,身元保証人がいなくとも,帰国旅費の国庫負担制度を利用して帰国できるようになった。また,身元判明邦人は,これまでの帰国旅費国庫負担制度の運用では留守家族に申請手続を行なってもらわねばならなかったが,申請に至った経緯を明らかにする書面を提出することにより親族以外の者が申請を行ってもらうことができるようになった。

・※  特別身元引受人が創設されるに至るまで

ア  中国残留孤児問題全国協議会は,昭和60年4月15日,厚生大臣に対し,定着促進センターでの研修終了後に引き続いて研修をうけることを可能とする第2次センターの整備を訴える要望書を提出した。

イ  被告は,昭和60年5月11日,「身元未判明の中国残留日本人孤児の査証取扱い」(昭和60年5月11日付け領査合第2134号)を発して,中国残留日本人孤児と厚生省が認定した者で,同省の実施した訪日調査において身元が判明しなかった者及びこれに同伴する被扶養家族の査証申請に当たっては,①婚姻,親子又はその他家族関係を証する公文書,②家族関係一覧表,③帰国旅費国庫負担承認通知書等の該当事実関係を立証する資料を提出させ,確認するという運用をとることとした。これにより,帰国旅費国庫負担が承認された身元未判明孤児及びその被扶養家族等は,身元保証書を提出しなくとも,承認に係る事実関係を立証すれば査証をとることができる取扱いとなった。

ウ  東京都夜間中学校研究会の引揚者教育研究部は,昭和60年6月3日,中国残留日本人孤児問題懇談会に対して,第2段階として都道府県に定着促進センターを設置することを訴える要望書を提出し,中国残留孤児問題全国協議会は,厚生省援護局長に対して,第2次センターの設置を訴える要望書を提出した。

エ  このころ身元引受人の実際の役割は,定着促進センターへの出迎え,転入手続や住宅確保等の住宅手続全般,就職の相談や斡旋,病院の紹介や付添い,在留資格の延長,家族の呼び寄せ等家族の相談,及び買い物の仕方等の日常生活一般の相談など多岐にわたり,その負担が極めて重いため受入体制が十分整わないこととなり,言語や風俗習慣の違いと相俟って,帰国した残留邦人らと身元引受人との間の摩擦は絶えなかった。

中国残留孤児問題全国協議会は,昭和60年7月,中国残留日本人孤児問題懇談会の座長及び厚生省援護局長に対し,身元引受人は,「精神的拠り処,相談相手に止めると共に総合的受入態勢の中の身元引受人とし,個人的責任を負わせることのないようにすること」を求めた。

オ  中国残留日本人孤児問題懇談会は,昭和60年7月22日,「中国残留日本人孤児に対する今後の施策」と題する報告書を厚生大臣に提出し,定着促進センターの収容能力を大幅に増加する必要があるとの提言を行った。

カ  被告は,昭和60年11月,個人のほか,企業等法人についても身元引受人登録の対象とすることとした。

キ  被告は,昭和61年10月2日,「終戦前渡中者(残留孤児を含む。)のうち,現に日本戸籍を有する者及びその家族の査証取扱いについて(通達)」(昭和61年10月2日付け領査合第4219号)を発して,中国残留邦人のうち,査証申請時に日本戸籍の存在が確認され,又は新たに日本戸籍への就籍が許可されている者及びこれらの者と中国において生計を一にし,かつ,同伴して入国する被扶養家族等の査証申請に当たっては,①在日関係者からの招へい理由書のほか,②戸籍謄(抄)本又は就籍許可を証する公的文書の写し,③親族関係を証する公的資料等の該当事実関係を立証する資料を提出させ,確認するという運用をとることとした。

このうち,在日関係者からの招へい理由書は,落着き先未定のまま帰国してトラブルを起こすことのないよう,帰国の際,申請人との連絡,世話をしてくれる人物がいることを確認するために提出を求めるものとされ,身元未判明孤児とその同伴家族が定着促進センターに入所する場合は,本人作成の帰国理由書をもってこれに代えることができるとされた。これにより,終戦前に我が国から中国本土に渡航し,その後も引き続き同地に居住している者(残留孤児を含む。)のうち,査証申請時に日本戸籍の存在が確認され,又は新たに日本戸籍への就籍が許可されている者及びその被扶養家族等は,身元保証書の提出しなくとも,これらの事実関係を立証すれば査証を取得することができる取扱いとなった。

ク  被告は,これまで,残留邦人が帰国を希望する場合,残留邦人から事前に居住地の希望を聞き,当該居住地に登録のある身元引受人と面談をした後に,本人の了解を得た上で身元引受人をあっせんするという運用をしてきたが,昭和61年,本人の希望に応じて定住地訪問も行った上で,本人の承諾を得る運用を始めた。

ケ  財団法人法律扶助協会は,昭和61年,財団法人日本船舶振興会の補助を受け,印紙代,通信費,交通費,中国から持ち帰った資料の翻訳や弁護士への委任のための費用等の就籍のための審判費用を負担することとした。被告は,補助金申請に際して,確実に交付されるよう副申することとした。

コ  被告は,昭和61年12月15日,定着促進センターの宿泊棟の拡張工事を行い,収容能力が,年間90世帯から180世帯に増えた。

サ  被告は,昭和61年,引揚者生活指導員の業務内容に,中国帰国者に対する日本語の指導,日本語教室等,日本語補講についての相談及び手続の介助を行うことを加えた。

シ  被告は,昭和62年,身元未判明邦人の肉親調査を促進するため,3か年計画で全国的規模での情報収集等に取り組む,いわゆるキャラバン調査を実施することとした。

被告は,昭和62年8月24日,元開拓団等の代表者からなる身元未判明孤児肉親調査委員会を開催し,3年計画で各都道府県に「肉親捜し調査班(同調査員及び厚生省職員)」を派遣し,ブロック別単位で肉親関係者や開拓団関係者等の協力を得て,国内における未帰還者及び孤児に関する情報の収集等を行うことにした。

被告は,昭和62年度,北海道,東北ブロック及び長野県を除く関東甲信越ブロックの16都道府県に,8班に構成された144人の肉親探し調査員を10日間にわたって派遣した。この調査は,1434万8000円を要するものであった。

被告は,昭和62年,キャラバン調査を機に,残留邦人に関する情報収集を促進するため,昭和58年3月に発行した孤児名鑑を改めて編纂し直し,「まだ見ぬ肉親を求めて・身元未判明中国残留日本人孤児名鑑」を作成し,一般からの情報の提供を求めた。

ス  被告は,昭和62年,今後,孤児からの調査依頼はさほどの件数はないとの見通しに立って,訪日調査の概了宣言を行った。この時点で,訪日調査に参加した残留邦人は,1488人であった。

被告は,その後,残留邦人からの調査依頼が続々と寄せられたため,昭和62年11月,訪日調査を再開することとした。

セ  被告は,昭和62年,帰還手当の名称を自立支度金に改めるとともに,少人数の世帯について一定の金額を加算して支給することとした。

ソ  被告は,昭和62年,定着促進センターを,北海道,福島県,愛知県,大阪府及び福岡県に新たに開設した。

タ  被告は,昭和62年,引揚者生活指導員を自立指導員と改称した上,自立指導員の業務内容に,職業訓練施設で受講している中国帰国者の相談に応じ,必要な助言・指導を行うとともに,円滑かつ効果的な職業訓練が行われるよう,援護措置を講じ,もって技能習得後の雇用安定が図られるよう配慮することを加えた。

被告は,自立指導員の派遣期間を,昭和62年には定着後2年間に,昭和63年には定着後3年間にそれぞれ拡大した。

チ  被告は,昭和63年度,長野県及び東海,北陸ブロック及び近畿ブロックの14府県に,8班に構成された126名の肉親探し調査員を10日間にわたって派遣し,キャラバン調査を行った。この調査は,1309万9000円を要するものであった。

ツ  被告は,昭和63年,定着促進センター修了後の中国帰国者の地域社会における定着自立を促進するため,中国帰国者自立研修センター(以下「自立研修センター」という。)を全国各地に設置し,中国帰国者に対し,一定期間の通所形式による日本語研修,生活相談・指導,就労相談・指導等を行うこととし,山形県,埼玉県,千葉県,東京都,神奈川県,長野県,愛知県,京都府,大阪府,兵庫県,広島県,高知県,福岡県,長崎県及び鹿児島県の15か所に自立研修センターを設置した。

自立研修センターでは,原則8か月程度(ただし,病気等やむを得ない事情がある場合には,4か月の延長可。また,日本語の再研修については2年以内。)の期間,通所形式により,日本語研修,地域の実情を踏まえた生活相談・指導,就労相談員による就労相談・指導,大学進学準備過程,地域住民との交流事業等が行われた。

・※  日本語研修

入所時の日本語習得の状況に応じて,2ないし4教室にクラス分けを行い,1日2.5時間,1週12.5時間を基準として,8か月412時間のカリキュラムが組まれ,日本語研修が実施された。

・※  生活相談・指導

中国帰国者の地域社会での生活において生じた諸問題について,通所者からの相談に応じ,必要な指導が行われた。

・※  就労相談・指導

中国帰国者の就労を促進するため,専門的な知識を有する就労相談員が配置され,通所者の就労に関する相談に応じ,帰国者の個々の実情を踏まえて就労へ向けた計画的な指導が行われた。

・※  大学進学準備課程

被告は,日本と中国との学制の相違により,日本の大学の入学に必要な12年の就学年限を満たしていない中国帰国者については,定着促進センターにおける4か月の研修及び自立研修センターにおける8か月の研修を修了することで,大学入学に必要な12年の就学年限を満たすものとした。

これを受けて,全国10か所の自立研修センターに専任講師が配置され,該当する通所者に対し,英語,数学,理科及び社会の一般科目について,1時限50分とする合計210時限の講義が行われた。

・※  地域住民との交流

中国帰国者と地域住民との交流を図るため,関係機関と連携をとり,盆踊り,餃子作り,花見,社会見学など地域住民が気軽に参加できる行事が企画,実施されるとともに,地域の諸行事への通所者の積極的な参加を図るほか,中国帰国者に対する地域住民の理解を深めるための啓発広報活動が行われた。

・※  その他

このほか,就籍の相談,子女の就学についての情報の提供等,中国帰国者の定着自立の促進に資する事業が実施された。

テ  被告は,平成元年度,中国・四国ブロック及び九州ブロックの17県に,9班に構成された153名の肉親探し調査員を10日間にわたって派遣し,キャラバン調査を行った。この調査は,1711万2000円を要するものであった。被告は,この調査をもってキャラバン調査を終了した。

キャラバン調査は,延べ25回行われ,15名の残留孤児について有力情報を得ることができ,このうち12名については再度の訪日調査を経た結果,8名の身元が確認されることとなった。

ト  被告は,日本と中国では,医療事情や食生活等に違いがあることから,残留邦人に対して医療・保健衛生面における生活指導を行うことを目的として,平成元年,定着促進センター修了後1年以内の中国帰国者世帯に対し,都道府県知事が選任した医師である健康相談医を派遣し,健康相談を実施するとともに,必要な助言・指導を行うこととした。

ナ  被告は,平成元年,日本語の会話が不自由な中国帰国者について,医療機関における適切な受診を確保するとともに,関係行政機関等での助言,指導及び援助を受けやすくするため,定着促進センター修了後又は定着促進センターに入所しない者については帰国後3年以内の者に対して,日中両国の通訳の能力を有し,中国帰国者の援護に理解と熱意を有する自立支援通訳の派遣を行うこととした。自立支援通訳の派遣は,①巡回健康相談事業により,健康相談医の助言,指導を受ける場合,②医療機関で受診する場合,③福祉事務所等の関係行政機関から助言,指導又は援助を受ける場合,④小中学校,高等学校に通学する子等の学校生活上生じた問題について,又は中学校に通学する子等の進路について相談する場合に認められた。

ニ  被告は,平成元年,ボランティア等任意団体についても身元引受人登録の対象としたほか,新たな行政知識の付与及び資質の向上を図るため,身元引受人を対象として,身元引受人会議を毎年開催することとした。

ヌ  このころ,身元引受人制度により,身元未判明であれば帰国できるのに,身元が判明すれば帰国できないという事態が生じていた。

これを受けて,被告は,平成元年7月,在日親族の死亡や高齢化,肉親との血縁関係が遠い等により親族による受入れが困難となっている身元判明孤児の帰国,日本社会への早期定着,自立促進を図るため,親族に代わって帰国手続や帰国後の定着自立に必要な相談や助言を行う特別身元引受人制度を創設した。

被告は,肉親に対して身元引受することを6か月間説得しても,肉親による身元引受が困難な場合に,特別身元引受人のあっせんを行うこととした。

・※  訪日調査終了に至るまで

ア  被告は,平成2年,元開拓団関係者等当時の事情に精通した者を身元未判明孤児肉親調査員として都道府県に配置し,肉親関係者等からの情報収集などの肉親調査を行うこととした。

イ  被告は,平成2年,対面調査によって,残留孤児及び肉親の双方が身元確認について明確に判断できない場合や,一人の残留孤児に対して複数の関係者が名乗り出た場合などにおいて行われていた血液鑑定に代えて,DNA鑑定を実施することとした。

ウ  被告は,平成3年,北海道,福島県及び愛知県に設置していた定着センターを閉鎖した。

エ  被告は,平成3年,残留婦人についても,親族に代わって帰国手続や帰国後の定着自立に必要な相談や助言を行う特別身元引受人制度を実施することとした。

オ  被告は,平成3年及び4年,本来,訪日調査に参加する孤児であるが,身体等に障害を有するため訪日できない孤児18名について,厚生省の職員を,孤児の住所地に派遣し,中国政府の担当官の立会いの下,当該孤児から,肉親等の離別状況,日本の家族構成等に関して直接聞き取り調査を行い,その様子を日本で報道発表を行うためにビデオ撮影し,報道機関を通じて世間一般に広く情報提供して,肉親に関する情報の収集を実施した。

この調査の結果,3人の身元が判明した。

被告は,平成4年,帰国旅費の国庫負担については,身体等に障害を有する中国残留邦人を扶養するために同行する成年の子1世帯の帰国旅費を国庫負担とすることとした。

カ  被告は,平成4年,中国帰国者の早期離職を防止し,安定した就労を促すことを目的として,自立研修センター通所中及び修了後1年以内に就労した中国帰国者を対象に,就労相談員が一定期間,定期的に中国帰国者の職場を訪問して,事業主に中国帰国者の職業意識や慣習等を説明し,認識を深めてもらうとともに,中国帰国者の勤務状況を把握し,指導を行うことにより,中国帰国者と事業主との相互の調整を行う就労安定化事業を実施することとした。

キ  平成5年9月5日,残留婦人12名が突然,成田空港に帰国し,「わたしたちを祖国で死なせて」との陳情文を携え永住帰国を訴えるという事件が起こった。

ク  被告は,平成5年12月,早期に永住帰国を希望する中国残留邦人については,平成8年までに帰国受入れを図ることを目途に,受け入れる環境整備に努めることとし,特別身元引受人制度のあっせんの迅速化策として,①従来は肉親を6か月間説得して,それでも納得が得られない場合にはじめて,あっせんを開始していたのを,遅くとも2か月以内に変更し,②特別身元引受人をあっせんすることとなる帰国希望者については,帰国旅費の申請は,帰国希望者本人が直接行うものとし,③特別身元引受人のあっせんは帰国前に行うことを原則としつつ,予め把握した本人の帰国希望時期から相当期間(10か月程度)を経過しても何らかの事情により特別身元引受人のあっせんが困難なときは,いったん帰国受入れを行うこととした。

ケ  被告は,平成6年1月,これまで特別身元引受人が行うこととされていた帰国手続を被告において行うこととした。

コ  被告は,平成6年4月,定着促進センターの名称を「中国帰国者定着促進センター」と改めた(以下においても「定着促進センター」という。)。

サ  被告は,平成6年,所沢市の定着促進センターの分室を山形県及び長野県に設置した。

シ  被告は,平成6年,日中両国政府のいずれかが中国残留孤児と確認できない者について,調査担当官を中国へ派遣し,中国政府の協力の下,中国現地での残留孤児等との面接調査や手掛かり資料の収集等を実施することとした。そして,被告は,中国残留孤児である蓋然性が高いと判断した者については,訪日調査に参加させることとした。

ス  被告は,平成6年,身元未判明孤児については,在日親族が明らかでないため,親族訪問,墓参等を目的とすることはできないが,祖国訪問との位置付けにより,一時帰国旅費の援護を実施することとした。

セ  平成6年10月1日,中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(以下「自立支援法」という。)が施行され,これに伴い,被告は,平成7年2月1日,身元未判明孤児に対する身元引受人制度,身元判明孤児に対する特別身元引受人制度を一本化した。

ソ  被告は,平成7年,これまで財団法人法律扶助協会が負担していた就籍のための審判費用について国庫負担にすることとした。

タ  被告は,平成7年,所沢市の定着促進センターの分室を宮城県,岐阜県及び広島県に設置するとともに,北海道,岩手県,福島県,東京都武蔵野市及び静岡県に自立研修センターを設置した。

チ  被告は,平成7年,中国帰国者が,帰国後又は定着促進センター退所後,最初に居住する場合において,公営住宅優先入居の募集選考時期,地域要件又は当該住宅に空きがない等のため,やむを得ず民間住宅に入居する場合,当該中国帰国者に対し,礼金等入居時に要する費用の一部を生活保護の基準に準じて支給することとした。

ツ  中国残留邦人等は,帰国時には高齢を迎えているため年金への加入期間が短く,受給額が低額か又は受給できない事態が生じていた。

被告は,平成8年,国民年金制度が創設された昭和36年4月1日から永住帰国するまでの期間(20歳以上60歳未満に限る。)については保険料免除期間とみなし,この期間については,国庫負担額に相当する保険料を納付した場合のおよそ3分の1の額を年金額に反映させるとともに,通常であれば直近の10年分の保険料についてのみ追納が認められるところ,中国残留邦人等においては,保険料免除期間とみなした期間については,保険料の追納ができ,追納した場合は,この期間について全額を年金額に反映させることとした。

また,被告は,残留邦人が保険料を追納する場合は,償還期限が特別長期となる生活福祉資金の貸付制度が利用できるほか,生活保護受給者については,貸付金を収入認定から除外し,この償還に充てる費用も世帯収入から控除することとした。

テ  被告は,平成8年,帰国後5年以内の者で,日本語の習得が不十分である者,又はより高度な日本語の習得を希望する者を対象に,自立研修センター退所後,1週7時間を基準として,2年以内の日本語の再研修を実施することとした。これらの研修は,就労する通所者の利便等から,平日昼間のみでなく,一部平日夜間や土・日曜日についても実施された。

ト  被告は,平成9年,中国帰国者で就労していない者に対し,日本における就労の意義や実態を紹介し,理解してもらうことにより,就労意欲の向上を図ることを目的として,日本の雇用システム,職業能力の習得方法,職業選択の実態や中国との相違点などに関する講演,既に職業能力開発校を卒業し就労している帰国者による体験発表等の交流会,職業能力開発校等の見学等を行う就職促進オリエンテーション事業を実施することとした。

ナ  被告は,平成11年,高知県に設置された自立研修センターを閉鎖した。

ニ  被告は,平成11年,訪日調査を終了した。訪日調査は,昭和56年3月から平成11年まで計30回実施され,2116名の参加者のうち,670名の身元が確認された。

・※  現在に至るまで

ア  被告は,平成12年5月24日,厚生省の下に,中国帰国者支援に関する検討会を設置し,残留孤児らに対する支援のあり方についての検討を行った。

同検討会は,平成12年12月4日,「中国帰国者支援に関する検討会報告書」の中で,①現在の援護施策は,帰国後当面の支援に重点が置かれ,帰国後3年以内に限定されているが,帰国者の姿が多様化し,日本社会に速やかに適応することが難しくなっていることから,従来の帰国後3年間に限られた施策を転換し,継続的な支援を実施するべきであること,②就労可能な2世,3世については,可能な限り就労が実現できるように施策を講じるべきであること,③帰国者本人の精神的・経済的支えとなる可能性のある2世,3世については,日本入国後の社会的適応自立促進のための支援施策が必要であり,国,地方公共団体において可能な範囲で弾力的対応が望まれること,④現在の日本語研修の期間内では日本語が十分に習得できていない現状及び帰国者の姿が多様化していることに鑑み,進度別,目的別など帰国者のニーズに合わせ,3年間に止まらず継続的に日本語を習得できる体制を確保する必要があること,⑤年齢的に就労が可能な帰国者が安定した職場に就労するためには,職業能力開発施設等における訓練を十分に理解できるような水準の日本語の習得の途を開くべきであること,⑥高齢となった帰国者については,今後,福祉サービスの利用が必要となること等が考えられ,そのためにも,日常生活を営むことのできる程度の日本語を習得できるよう,継続的に研修を受けられる体制が求められることなどを指摘した。

イ  被告は,平成12年,調査担当官を中国に派遣し,孤児等との面接調査を日中政府共同で行い,日中両国政府で中国残留孤児と確認された者について,日本で顔写真,身体的特徴,肉親との離別の状況等の情報を「孤児名簿」として公開し肉親情報を収集した上,肉親情報のあった者について訪日させ,肉親と思われる者との対面調査を行うこととした(以下「訪日対面調査」という。)。

なお,訪日対面調査においては,事前の中国現地における共同調査に基づき日中両国間で中国残留孤児と確認された者については,肉親情報がない等により訪日対面調査に至らない場合でも,中国残留孤児として日本に帰国できることとされた。

ウ  被告は,平成13年11月,中国残留邦人やその家族の地域社会における定着・自立を中長期的,継続的に支援していくため,東京都及び大阪府の2か所に,中国帰国者支援・交流センター(以下「支援・交流センター」という。)を開設した。

支援交流センターにおいては,自立研修センターや自立指導員による援護を終えた者をも対象に,地方公共団体との連携の下,民間ボランティアや地域住民の協力を得ながら,日本語学習支援,相談事業,中国帰国者相互及び地域住民との交流事業,ボランティアの活動情報の収集と提供,中国残留邦人問題の普及啓発事業等が行われた。

・※  日本語学習支援

高齢者や中国残留邦人の子や孫の増加等により多様化した中国帰国者の様々なニーズに対応するため,進度別,目的別の日本語学習コースを開講し,中国残留邦人とその家族に対する通所形式による日本語教育が行われた。

また,通信教育による遠隔学習も実施され,遠隔学習の場合は,補完授業として,各都道府県の協力の下,月1回の対面方式による学習を行うスクーリングが実施された。

・※  相談事業

専門機関,行政機関等との連携の下で,相談窓口における対面による相談のほか,電話や手紙,Eメールによる全国各地の中国帰国者の多種多様な内容の相談に応じた。

・※  交流事業

高齢者を対象とした談話室が設置され,また,日本語学習で利用する教室が中国帰国者・ボランティア団体・サークル等の利用に供され,中国帰国者同士や中国帰国者と地域住民,ボランティアとの交流・コミュニケーションの場が提供された。

また,開設されたホームページにおいて,ボランティア団体や中国帰国者が現に参加しているサークル等の情報提供が行われたほか,情報誌により中国帰国者に必要な生活情報の提供が行われた。

さらに,各地域の支援者やボランティア等を対象に研修会「まなびや」が開催され,交流の場が提供されるとともに,中国帰国者支援に必要な情報提供等が行われ,支援者の拡大,育成が図られた。

・※  普及啓発事業

中国残留邦人問題について,広く国民の関心を促し,その理解を得るため,資料収集検討会が設置され,中国残留邦人に係る各種資料の収集や提供のための方策等について検討が行われた。

エ  平成15年度における自立支度金の額は,大人1人につき16万0400円,小人1人につき8万0200円であった。

オ  首相は,平成15年10月2日,参議院予算委員会において,残留孤児問題に関する質問に対して,「最近になって言語の問題,家族との関係も思ったようにうまくいっていない。温かく迎えるような対策を講じなければならない」と答弁した。

カ  平成15年度における自立指導員の派遣期間,日数については,定着後3年間,1年目については84日以内(同伴帰国した子世帯等と同居している場合等は120日以内),2年目については12日以内(都道府県知事が必要と認める場合は72日以内),3年目については12日以内とされていた。

キ  被告は,平成15年,高齢帰国者の引きこもり防止対策として,日本語会話が不自由な高齢単身者等に対して,支援・交流センターから中国語で電話連絡を行う友愛電話事業とともに,必要に応じてボランティア等が対象者宅を訪問する友愛訪問事業を実施することとした。

ク  被告は,定着促進センターを順次閉所し,現在は,埼玉県,大阪府及び福岡県の3か所において運営している。

・※  承継

第1事件原告亡A訴訟承継人B1は,平成16年7月28日,亡Aが死亡したため,亡Aを相続した。

2  争点

本件の争点は,・※早期帰国実現義務違反の有無,・※被告が原告らを外国人として取り扱い,入管法及び外国人登録法を適用したこと(なお,原告らのうち一部の者については,入管法のみの適用を問題とする。)についての違法の有無,・※自立支援義務違反の有無,・※損害,・※原告らの請求権が除斥期間の経過により消滅したか,・※原告らの請求権が消滅時効により消滅したかであり,これらについての当事者の主張は,別紙2記載のとおりである。

第3争点に対する判断

1  争点・※(早期帰国実現義務違反の有無)について

・※  憲法上,被告が原告らに対し早期帰国実現義務を負っているかについて

原告らは,憲法上,早期に帰国する権利又は帰国の機会を与えられる権利を有し,これに対応して,被告は,早期帰国実現義務を負っている旨主張する。

しかしながら,早期に帰国する権利又は帰国の機会を与えられる権利を有するとの原告らの主張するような権利が,憲法上明文で保障されていないことはもとより,原告らの主張する権利は,その内容からして,当然に被告の行為を要求するものであって,国家の権力的介入を排除し個人の自由な意思決定と活動を保障するいわゆる自由権とは相容れない内容であるから,その余の点について判断するまでもなく,これら原告ら主張の権利が,解釈上も,いわゆる自由権として憲法上保障されているとはいえない。

また,原告らの主張する早期に帰国する権利又は帰国の機会を与えられる権利は,被告の行為を要求する点において,社会的・経済的弱者が人間に値する生活を営むことができるように国家の積極的な配慮を求めることができる権利である,いわゆる社会権と相容れない内容ではないが,憲法上保障されるいわゆる社会権は,直接個々の国民に具体的権利を付与するものではないから,具体的立法を離れて憲法上の権利義務関係の存否を解釈・判断することもできない。この点について,原告らは,具体的立法として,旧外務省設置法,旧厚生省設置法,未帰還者留守家族等援護法及び未帰還者に関する特別措置法を主張するが,後記のとおり,これらの法律によって原告らの主張する早期に帰国する権利又は帰国の機会が与えられる権利が規定され,又は被告に早期帰国実現義務が課されているものとはいえない。

よって,憲法上,原告らの主張する早期に帰国する権利又は帰国する機会を与えられる権利が,具体的な権利として保障されているものとはいえず,したがってまた,被告が原告らに対して早期帰国実現義務を負っているものともいえない。

・※  国際法及び条約上,被告が原告らに対し早期帰国実現義務を負っているかについて原告らは,文民条約,第1追加議定書,世界人権宣言,国際人権B規約及び児童の権利に関する条約上,早期に帰国する権利又は帰国の機会を与えられる権利を有し,これに対応して,被告は,早期帰国実現義務を負っている旨主張する。

ところで,国際法及び条約は,国家間の法律関係を規律するものであるから,国際法及び条約が個人の権利の保護に関して規定していたとしても,それは,国家が他の国家に対し当該権利を個人に認めることを約するものに過ぎず,個人がその個人の名において当該権利を主張できることが,国際法ないし条約上に特に規定されない限り,個人が国家に対し,その権利内容の実現を求める直接の請求の法主体とはならないものと解される。しかるに,原告らが主張する前記国際法及び条約は,個人がその個人の名において当該権利を主張できることを容認する規定を置いていない。

よって,その余の点について判断するまでもなく,国際法及び条約上,原告らの主張する早期に帰国する権利又は帰国する機会を与えられる権利が保障されているものとはいえず,また,被告が原告らに対して早期帰国実現義務を負っているものともいえない。

・※  旧外務省設置法及び旧厚生省設置法上,被告が原告らに対し早期帰国実現義務を負っているかについて

原告らは,旧外務省設置法及び旧厚生省設置法上,被告が早期帰国実現義務を負っている旨主張する。

しかしながら,旧外務省設置法及び旧厚生省設置法は,いわゆる組織法であり,それぞれ外務省及び厚生省の所掌事務,組織等を定めるものであって,被告と国民との間の権利義務関係を規定するものではない。

よって,旧外務省設置法及び旧厚生省設置法上,原告らの主張する早期に帰国する権利又は帰国する機会を与えられる権利が保障されているものとはいえず,また,被告が原告らに対して早期帰国実現義務を負っているものともいえない。

・※  未帰還者留守家族等援護法上,被告が原告らに対し早期帰国実現義務を負っているかについて

原告らは,未帰還者留守家族等援護法29条により,被告が早期帰国実現義務を負っている旨主張する。

しかしながら,未帰還者留守家族等援護法29条は,「国は,未帰還者の状況について調査究明をするとともに,その帰還の促進に努めなければならない。」と規定するところ,一般に努力規定又は訓示規定を定めるときに用いられる「努めなければならない。」の文言が用いられていること,未帰還者留守家族等援護法上,未帰還者の調査究明及び帰還促進について具体的な手段や方策等を定めた規定が他にないことに鑑みれば,未帰還者留守家族等援護法29条は,被告に対して,政治上,道義上の一般的な責務として未帰還者の調査究明及び帰還促進の責務を負わせたにとどまり,原告らが主張する法的義務である早期帰国実現義務を課したものと解することはできないというべきである。

よって,未帰還者留守家族等援護法上,被告が原告らに対して早期帰国実現義務を負っているものとはいえない。

・※  未帰還者に関する特別措置法上,被告が原告らに対し早期帰国実現義務を負っているかについて

原告らは,未帰還者に関する特別措置法1条により,被告が早期帰国実現義務を負っている旨主張する。

しかしながら,未帰還者に関する特別措置法1条は,未帰還者のうち,被告がその状況に関し調査究明した結果,なおこれを明らかにすることができない者について,特別の措置を講ずることが,未帰還者に関する特別措置法の目的である旨,同法立法の目的を定めたものに過ぎず,またこのように,未帰還者に関する特別措置法は,飽くまでも被告が未帰還者の調査究明をしたことを前提として立法されたものであることからしても,未帰還者に関する特別措置法1条が被告に未帰還者の調査究明義務を課したと解することはできない。

よって,未帰還者に関する特別措置法上,被告が原告らに対して早期帰国実現義務を負っているものとはいえない。

・※  条理上,被告が原告らに対し早期帰国実現義務を負っているかについて

ア  召還義務

・※  先行行為

被告は,昭和7年8月に武装した試験移民を満州へ送出することにし,これに従い,その後4年間,4つの開拓団を満州へ送出し,これら開拓団の実績を踏まえ,昭和12年1月,20年間に500万人,100万戸の農業移民を満州へ送出することを決め,これを受けて,第1期農業移民5か年計画として昭和12年から昭和16年まで,また,第2期農業移民5か年計画として昭和17年から昭和20年8月8日までの間に,多数の邦人が農業移民として満州へ渡航することとなった(前記第2の1・※カ,ク,ケ,・※ケ)。

そして,これら満州へ農業移民として渡航した邦人は,拓務省及びその外郭団体である満州移住協会が行った募集に応じる形で満州に渡航していることから(前記第2の1・※ク),被告の先行行為としては,外形的には,自らの意思で農業移民として満州へ渡航することを選択した邦人に対して,その契機となった農業移民の募集をしたということがあるに過ぎないようにも思われる。

しかしながら,日本が日露戦争終了後から関東州に対する実効的な支配を確立せんとする中(前記第2の1・※イ,エ,オ),昭和7年2月に関東軍の統治部が,過剰人口を緩和させるだけではなく,将来,国防の第一線を確保する上で絶対に喫緊焦眉の急務であり,有事の際は鋤を棄てて蜂起する邦人に期待する外ないとして,邦人を満州へ移民させる計画の必要性を説く「日本人移民案要綱説明書」を作成し(前記第2の1・※カ),そのわずか半年後の昭和7年8月に被告が武装した試験移民を満州へ送出することに決め(前記第2の1・※カ),その試験移民が一定の実績を挙げたことから,被告が20年間に500万人,100万戸の農業移民を満州へ送出することを計画し,これを実行することとなった(前記第2の1・※ク)という経緯からすれば,その実質は,邦人が,単なる農業移民として,自ら満州へ渡航したというよりも,被告が,関東軍の統治部の「日本人移民案要綱説明書」による提案を受けて,満州における有事の際の国防の一翼を担わせる目的で,いわば潜在的な軍人ないしそれに準ずる者として,農業移民という名の下に邦人を満州へ送り出したものと認めるのが相当である。このことは,被告が,府県及び町村に対する移民の送出数の割当てを行い(前記第2の1・※ク),また,募集計画に満たない場合には,青少年までをも対象として軍事訓練を施した上で移民団を編成するなど(前記第2の1・※ケ),前記目的に沿った施策を実施していること,さらには,被告が,昭和16年4月にソ連との間で相互不可侵を約する旨の日ソ中立条約を締結した後も,ソ連と国境を接する満州に駐屯する関東軍の軍備を増強して対ソ戦に備え(前記第2の1・※ア),遅くとも昭和19年12月ころまでにソ連が近々対日戦に参戦してくることを認識するや(前記第2の1・※ウ),関東軍の各司令部についてはソ連が侵攻してくると考えられる国境付近から後退させる一方で,満州にいた農業移民については避難させる方策を一切採らなかったばかりか(前記第2の1・※カ),その後も満州へ邦人を農業移民として送出し続け(前記第2の1・※ケ),遂には,昭和20年7月10日に,満州にいる農業移民を対象とするいわゆる根こそぎ動員を行い,従来からの関東軍の主力を国境付近から後退させる一方で,動員した農業移民を国境付近に配置するなど(前記第2の1・※キ),現実にも,満州の農業移民に国防の一翼を担わせていることからも裏付けられ,被告が,当初から,農業移民という名の下に満州へ送り出した邦人に,満州における有事の際の国防の一翼を担わせる目的を有していたことは明らかである。

以上からすれば,被告の先行行為として捉えるべきは,拓務省及びその外郭団体である満州移住協会が行った募集という外形的なものにとどまるべきではなく,その実態に着目して,満州の有事の際に国防の一翼を担う者,いわば潜在的な軍人としての使命を負わせて邦人を満州へ送出したことと捉えるのが相当といわなければならない。

また,被告が直接に満州へ送出した農業移民ではなくとも,満州へ送出した後に出生した農業移民の子や,満州へ送出された農業移民を追って日本から満州へ渡航し,満州の地で共に生活を送ることを余儀なくされた農業移民の家族(以下,このような日本から農業移民を追って満州に渡航した農業移民の家族を「従来家族」といい,これに満州で出生した農業移民の子を併せて「従来家族ら」という。)については,農業移民を外形的には移民として送出していることから,農業移民と生計を一にし,農業移民によって扶養されていた以上,農業移民を送出すれば,必然的にそれに随伴することが当然に予想される者たちである。したがって,これら従来家族らに対しても,被告が,満州の有事の際に国防の一翼を担う者又はそれを支える者として満州へ送出したという先行行為があると認めるのが相当である。

さらに,大陸の花嫁として満州へ渡航した者についても,農業移民と同じく募集に応じるという形で満州に渡航してはいるが,前記判示のとおり,満州の有事の際に国防の一翼を担う者として被告が送出した農業移民の妻となり家庭を支えるとともに,勤労奉仕隊又は軍需工場要員としての役割もまた期待されていたのであるから(前記第2の1・※コ),農業移民又は従来家族らと同様,被告が,満州の有事の際に国防の一翼を担う者又はそれを支える者として満州へ送出したという先行行為があると認めるのが相当である。

・※  農業移民及び従来家族ら並びに大陸の花嫁(以下「農業移民ら」という。)に対する召還義務の有無及びその内容

a 召還義務の有無

前記・※記載のように,被告は,農業移民らを満州の有事の際に国防の一翼を担う者又はそれを支える者として,つまり情勢如何によっては,国防という被告の職務を遂行し,その過程で生命の危険に曝される事態をも甘受すべき者として,敢えて,満州へ送出したのであるところ,その先行行為自体の是非を法的に判断することは,困難であるとしても,少なくとも,被告が,戦後,軍人軍属を日本国外から日本へ帰国させたのと同様に,農業移民らについても,送出行為という先行行為に対応した法的義務として日本へ帰国させる義務(以下「召還義務」という。)が,条理上導かれるというべきである。このことは,被告が,国家の職務を遂行させるためにある者を日本国外の一定の場所に連れて行った場合には,後にその場所から日本国内に連れて帰れということに他ならず,外交官や軍人といった国家公務員を想定すれば,容易に是認される条理を基礎とするものである。とりわけ,本件の農業移民らのように,その遂行が予定される職務や,連れて行った場所が,その者の生命身体の安全に対して危険を伴うものであるのに,その危険について正確な情報も与えずに,民間人でありかつ公務員でもない農業移民らを,危険地域に送出したのであるから,なおさら条理上,召還義務が認められるべきである。なお,この召還義務は,先行行為の目的が消滅した時点,すなわち遅くとも被告がポツダム宣言を受諾して敗戦し,農業移民らを送出した意味を失った時点において,具体的に発生したというべきである。

そして,従来家族ら及び大陸の花嫁のうち,前期集団引揚げ(前記第2の1・※ウ,カ,ク),ソ連軍地域からの集団送還(前記第2の・※エ),後期集団引揚げ(前記第2の1・※オ,キ,セ,ヌ)などにより引き揚げることができなかった者がすなわち残留孤児及び残留婦人である。

よって,被告は,日本が敗戦して以降,残留孤児及び残留婦人に対して召還義務を負っていたものと認められる。

なお,被告は,日本が敗戦して以降,原告らが残留孤児又は残留婦人となった原因は,ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して対日戦争に参戦したことにあり,被告の行為に起因するものではないから,先行行為を理由に条理上,被告が原告らを日本へ帰還させる義務を認める余地はない旨主張するところ,確かに,ソ連軍が対日戦争に参戦し,満州へ侵攻したことが,原告らが残留孤児又は残留婦人となった直接の契機となっていることは否定できない。しかしながら,前記説示のとおり,被告が,残留孤児及び残留婦人に対して負う召還義務は,被告が,農業移民らを国防の一翼を担う者として危険な地域に敢えて送出したという被告の先行行為によって,条理上認められるものであって,農業移民らが,ソ連軍の攻撃を受ける中で離散し,残留孤児又は残留婦人となったために認められる義務ではないから,農業移民らが残留孤児又は残留婦人となった原因を問題視する被告の前記主張は,的を射たものとはいえず,失当である。また,そもそも被告は,そのようなソ連軍が対日戦争に参戦し,満州へ侵攻する事態を慮り,その有事に際して国防の一翼を担わせる目的で,農業移民らを満州へ送出しているのであるから,むしろ先行行為時に被告が想定していた事態が現出したため,当初の目的どおり,農業移民らに国防の一翼を担わせたに過ぎないといえ,その先行行為後に不測の事態が生じたわけではない。してみると,農業移民らを満州へ送出したという被告の先行行為から認められる召還義務は,ソ連軍が対日戦争に参戦し,満州へ侵攻したという事実があるからといって,その帰趨に影響を受けないというべきである。

b 召還義務の具体的内容

前記a記載のように,被告は,残留孤児及び残留婦人に対して召還義務を負っていたが,具体的には,被告は,残留孤児及び残留婦人に対し,現在地から日本までの列車,船舶及び航空機などの輸送手段を提供して日本へ帰国させるか,又は,被告が直接にこれらの輸送手段を提供しなくとも,これに代わるものとして現在地から日本までの旅費を提供して日本へ帰国させなければならなかったといえる。

・※  新家族に対する召還義務

農業移民らの一部は,ソ連軍の侵攻やその後の着の身着のままでの越冬生活を送る中で残留孤児となり,又は残留婦人となった結果,残留孤児については養父母及びその家族等との間で,残留婦人については新たな夫及びその家族等との間で新たな人間関係を形成することとなり,更には,その後も中国での生活を続ける中で,残留孤児については婚姻した妻又は夫やその間に生まれた子やその子の家族等との間で,残留婦人についても夫との間に生まれた子やその子の家族等との間でそれぞれ新たな人間関係を形成するに至った(弁論の全趣旨。以下,これら残留孤児又は残留婦人となった後に生じた家族等を「新家族」という。)。

そして,原告らは,こうした新家族についても,被告が召還義務を負う旨主張する。

しかしながら,前記・※記載のとおり,被告が残留孤児又は残留婦人に対して召還義務を負う所以は,被告が農業移民らを国防の一翼を担う者又はそれを支える者として満州へ送出したと評価できることに基づくものであり,残留孤児又は残留婦人との間で新たに人間関係が形成された新家族については,事実としても被告が送出したものではないし,必ずしも被告が送出したと評価できるものでもない。

したがって,前記・※で認定説示した被告の先行行為から,条理上,被告が,新家族に対してまで法的な召還義務を負ったと解することはできない。

・※  残留孤児及び残留婦人に対する召還義務に付随する義務

a 国籍調査義務

昭和47年9月29日に被告と中華人民共和国との間の国交が正常化したことに伴い(前記第2の1・※キ),中華人民共和国が発行する旅券を所持して入国しようとする残留孤児及び残留婦人が現れる事態が生じたが,原告らは,このような残留孤児及び残留婦人に対し,被告が,入管法に従って,日本人として取り扱うことをせず,身元保証人を要求するなどの措置を採ったことが,早期帰国実現義務に違反する旨主張するので,この点について検討する。

確かに,前記・※で認定説示のとおり,被告は,残留孤児及び残留婦人に対して召還義務を負っているが,他方で,入管法という法律を遵守すべき義務も課せられているのであり,この両者の義務が競合する場合,直ちに召還義務を優先させ,入管法の適用を排斥すべきであるとする根拠はなく,被告としても,残留孤児及び残留婦人が,中華人民共和国が発行する旅券を所持していることから,中華人民共和国の国籍(以下「中国国籍」という。)を保有するかの外観を呈する以上,後記2で判示するとおり,身元保証人を要求するなどの入管法に従った手続を行ったこと自体はやむを得ないといわざるを得ない。したがって,被告が,中国国籍を保有するかの外観を呈する残留孤児及び残留婦人に対し,入管法に従って,日本人として取り扱うことをせず,身元保証人を要求するなどの措置を採ったことだけを取り上げた場合,それ自体は,何らかの法的義務に違反するとは認められない。

しかしながら,被告は,日本の敗戦以降,残留孤児及び残留婦人を日本へ召還すべき義務を負っていたのであるから,できるだけ速やかにその義務を履行できるよう努めるべきであり,その義務履行を妨げる事情がある場合には,その解消に努めるべきは当然であって,その事情如何によっては,召還義務の付随義務として,その事情を解消すべき法的な義務までをも負うことがあり得るというべきである。

そして,被告が,残留孤児及び残留婦人に対して召還義務を負っているにもかかわらず,入管法上要求される身元保証人などが用意できなければ召還義務を履行できないという事態に至っているのであるから,被告としては,できるだけ速やかにその障害を取り除くように努めるべきであった。

ところで,この障害を取り除く方策の一つとして,身元保証人に代わる制度を創設することが考えられる(現に,被告はそのような制度を後に創設するに至っている。)が,この点,創設すべき制度の内容をどのようなものにするかは一義的ではない以上,そのような制度を創設すべき法的義務を召還義務の付随義務として認めることはできない。

しかし,召還義務の履行について,入管法上,前記のような障害が生じたのは,当該残留孤児及び残留婦人が,中国国籍を保有するかの外観を呈し,日本国籍を有するか否かが必ずしも明白ではなかったためであるから,逆に言えば,当該残留孤児及び残留婦人について,日本国籍を有していることが判明しさえすれば,前記障害を解消することが可能であったはずである。そして,その障害事由,すなわち,当該残留孤児及び残留婦人について,日本国籍の有無が明白でないという事情は,①ソ連軍が対日戦争に参戦したことを契機とした混乱のさなか,農業移民らの生死や所在が不分明となり,残留孤児及び残留婦人の中には,身元すら不明となった者が多数存在したことや,②敗戦後長期間が経過した中で,残留孤児及び残留婦人の身上関係にも変動が生じ,日本国籍を喪失した可能性が漸増したことなどに起因していると認められる。このうち前記①の要因に関しては,被告が,遅くとも昭和19年12月ころまでにソ連が近々対日参戦してくることを認識したのに(前記第2の1・※ウ),満州にいた農業移民らについては避難させる方策を一切採らなかったばかりか(前記第2の1・※カ),昭和20年7月10日には,いわゆる根こそぎ動員をした結果,農業移民団には,老人,女性,子供ばかりが残ることとなってしまい(前記第2の1・※キ),同年8月2日には,「関東軍は盤石の安きにある。邦人,特に国境開拓団の諸君は安んじて,生業に励むがよろしい。」などといったラジオ放送まで行うなどして(前記第2の1・※ケ),被告が把握していた情報を正確に伝達せず,農業移民らが避難をする機会を奪ったことによって,ソ連軍が対日戦争に参戦したことを契機とした混乱が助長され,より一層その混乱の度合いを強めたといわざるを得ない。また,前記②の要因である召還義務の履行を提供するまでに敗戦後長期間が経過したことについては,被告において,残留孤児及び残留婦人の所在を把握できなかったからであるところ,後記・※で認定説示のとおり,そのこと自体に被告に帰責性があるとまではいえないが,そもそも所在を把握できなくなった契機は,ソ連軍が対日戦争に参戦したことを契機とした混乱によるものであり,そのことには前記のとおり,被告がその混乱を助長した面が認められる上,戦後,所在不明の残留孤児及び残留婦人の所在調査に困難をきたした重大な要因である中華人民共和国に対する被告の政策選択が,その是非はともかく影響していることも否定できない。さらにまた,日本国籍を有していることが明らかにできない残留孤児及び残留婦人については,入管法上,当然に日本人として扱うことができないため,身元保証人を要求するなどの種々の制約が課されることとなるが,この制約は,とりわけ,身元が判明しない残留孤児及び残留婦人並びに身元が判明しても留守家族が帰国に同意しない残留孤児及び残留婦人にとっては,帰国の途が事実上閉ざされてしまうといった極めて重大なものであって,召還義務の履行の可否が,この日本国籍を有していることを明らかにできるか否かにかかっているといっても過言ではない。

してみると,入管法上は,日本国籍を有していることは,入国しようとする者が証明すべきであるとしても,前記・※のとおり,残留孤児及び残留婦人に対して召還義務を負い,かつその義務を履行するに際して極めて重大な障害となっている,当該残留孤児及び残留婦人の日本国籍の有無が不明であるという事情が生じたことについて,前記のとおり,少なくとも一定の関与が認められる被告としては,単に,当該残留孤児及び残留婦人から,日本国籍を有しているとの証明を待つのではなく,積極的に日本国籍の有無を調査し,入管法上の制約なしに,適正かつ迅速に召還義務を履行できるように努めるべき義務を負っていると認めるのが相当である。そして,この残留孤児及び残留婦人について,日本国籍を有しているか否かを調査すべき義務(以下「国籍調査義務」という。)は,一義的であって,これを履行することが,召還義務を履行するに際し,入管法上の制約が課されるか否かなど,その召還手続内容を確定するためには不可欠の義務であるから,かかる国籍調査義務は,召還義務に付随する法的義務と解すべきである。

なお,かかる国籍調査義務は,前記のとおり,昭和47年9月29日に被告と中華人民共和国との間の国交が正常化したことに伴って,中華人民共和国の旅券を所持して入国する残留孤児及び残留婦人が現れたことから,被告が入管法を適用して身元保証人を要求するようになったことに照応して認められる義務であるから,この義務が問題となるのは,被告が,中国国籍を保有する外観を持った残留孤児及び残留婦人に対して,入管法を適用して身元保証人を要求するようになった昭和48年10月6日以降である。

b 新家族の処遇についての配慮義務

被告が新家族に対して召還義務を負わないことは前記・※記載のとおりである。

しかしながら,残留孤児及び残留婦人が,時の経過とともに,新家族との間で新たな人間関係を形成し,その絆を深めていく中にあって,被告に対し召還義務の履行を求めたとしても,単独での帰国しか許されず,新家族との関係をすべて捨て去ることを余儀なくされるというのでは,道義的にも社会通念に照らしても,酷であり,そのために,残留孤児及び残留婦人が,新家族との関係を維持することを選択し,日本への帰国を断念せざるを得ないというのであれば,もはや召還義務は画餅に等しいとの非難を免れることはできない。そして,残留孤児及び残留婦人が,新家族との関係を断ちきれず帰国が困難となるという切実な事態が生じた原因は,被告が,残留孤児及び残留婦人に対して負っている召還義務を履行しない間に,敗戦後長期間が経過したからに他ならないところ,その召還義務を履行しなかった直接の要因である,被告において残留孤児及び残留婦人の所在を把握できなかったことについては,後記・※のとおり,被告に帰責性があるとまでは認められないものの,前記aで認定説示のとおり,そもそもその所在が不明となった契機であるソ連軍が対日戦争に参戦したことを契機とした混乱を,被告が助長した面が認められる上,戦後,所在不明の残留孤児及び残留婦人の所在調査に困難をきたした重大な要因である中華人民共和国に対する被告の政策選択が,影響していることも否定できないことからすれば,被告には,残留孤児及び残留婦人に対する召還義務を負っている以上,新家族のうち一定の範囲の者については,新家族の処遇について配慮し,残留孤児及び残留婦人が召還義務の履行の提供に応じることができるよう努めるべきであった。

しかしながら,新家族の処遇について配慮すべきであるとしても,そもそも,残留孤児及び残留婦人といかなる関係にある者までを新家族とするのかその範囲が必ずしも明確ではなく,また,採るべき処遇についても,日本までの同伴が望ましいのか,あるいは養父母の養育に対する謝礼金等の給付が好ましいのかなど,その内容も一義的に定まるものではないから,被告が新家族の処遇について配慮すべきことを,法的義務として認めることはできない。

イ  所在調査義務

・※  召還義務との関係

被告が残留孤児及び残留婦人に対して負う召還義務それ自体は,残留孤児及び残留婦人に対して,日本への帰国手段等を提供する義務であるが,こうした召還義務を履行するためには,被告において,その召還義務の履行を提供すべき残留孤児及び残留婦人の所在を認識していることが不可欠である。

そこで,被告が負う召還義務の前提として,被告に残留孤児及び残留婦人の所在を調査する義務があるのか検討する。

・※  先行行為

被告は,前記ア・※記載のように,国防の一翼を担う者として農業移民らを満州へ送出し,ソ連が対日参戦することが窺われるや,関東軍の司令部については危険な地域から後退させる一方,農業移民らについては危険な地域から避難させる方策を採らなかったばかりか,その後も満州へ邦人を農業移民として送出し続け,遂には,根こそぎ動員を行って,従来からの関東軍の主力を国境付近から後退させる一方で,動員した農業移民を国境付近に配置するなどした。

のみならず,被告は,昭和20年8月2日,ソ連の対日参戦が差し迫っていることを知りながら,しかも,関東軍の従来の主力を国境付近から後退させていたのに,敢えて,根こそぎ動員により老人,女性及び子供ばかりとなった農業移民団に対して,「関東軍は盤石の安きにある。邦人,とくに国境開拓団の諸君は安んじて,生業に励むがよろしい。」などと,農業移民らが置かれている情勢について,被告が把握している情報を正確に伝達せず,むしろ,錯誤に陥ることが容易に予想される内容のラジオ放送を行った(前記第2の1・※ケ)。

それからわずか一週間後の昭和20年8月9日には,満州の国境付近からソ連軍が侵攻を開始したため,老人,女性及び子供のみからなる農業移民団は,関東軍の保護を受けることも,避難先について指示を受けることもなく,混乱の中,無防備のまま自力で逃げ惑うこととなったため(前記第2の1・※キ,サ・※),農業移民団にいた残留孤児及び残留婦人の所在も分からなくなった。

・※  所在調査義務の有無及びその内容

前記・※記載の事実からすれば,農業移民団が逃げ惑う中で所在が分からなくなったのは,直接的には,ソ連軍が対日戦争に参戦したことを契機として生じた混乱が原因ではあるが,被告は,根こそぎ動員を行って農業移民団を老人,女性及び子供ばかりに弱体化させていることを認識しているにもかかわらず,ソ連軍が近々侵攻してくることが予想された情勢であり,かつ,そのような情勢であることの情報を獲得していながら,その情報を,農業移民らに正確に伝達することをしないばかりか,敢えて,錯誤に陥ることが容易に予想される内容のラジオ放送を行って,弱体化した農業移民団が避難する機会を奪っているのであって,かかる被告の一連の行為がなければ,残留孤児及び残留婦人の所在が不明となることもなかった可能性も否定できず,少なくとも,被告の前記・※で認定説示した先行行為が,その混乱を助長したことは間違いないといわなければならない。

確かに,被告の前記・※で認定説示した先行行為についても,当時の世界情勢及び日本の置かれた状況からすると,その是非を法的に問うことは困難ではあるが,被告の前記・※で認定説示した先行行為が,残留孤児及び残留婦人の所在を不明にしたか,少なくとも,その所在が不明となることを助長したことは間違いがないのであるから,所在不明という事態を惹起したことに寄与したこれらの先行行為に対応して,被告は,条理上,所在が不明となった残留孤児及び残留婦人の所在を調査し,その所在を明らかにすべき法的義務(以下「所在調査義務」という。)を負ったと認めることができる。

ウ  小括

以上のように,被告に早期帰国実現義務があるとの原告らの主張のうち,条理に基づく作為義務として,残留孤児及び残留婦人に対する関係で,被告に召還義務,国籍調査義務及び所在調査義務があったという限度で原告らの主張は認められるが,新家族との関係では,これらの義務を負っているとは認められず,その点の主張は容れ難い。

そこで,以下,前記各義務の違反があるか否かを検討する。

・※  召還義務違反の有無

ア  被告は,召還義務として,残留孤児及び残留婦人に対し,現在地から日本までの列車,船舶及び航空機などの輸送手段を提供するか,又は直接にこれらの輸送手段を提供しなくとも,これに代わるものとして現在地から日本までの旅費を提供しなければならなかった。

イ  この点,被告は,前期集団引揚げ(前記第2の1・※ウ,カ,ク),ソ連軍地域からの集団送還(前記第2の1・※エ),後期集団引揚げ(前記第2の1・※オ,キ,セ,ヌ)の際に,残留孤児及び残留婦人に対し,終着を日本までとする輸送手段を提供していることは認められるものの,現在地から出境地までについて輸送手段を提供していたかは,本件証拠上,不明である。

また,被告は,昭和27年3月1日,残留孤児及び残留婦人が個別に引き揚げる際に,旅費を国庫負担とすることとしたが,被告が負担する範囲は出境地から日本までに要する船運賃に過ぎず(前記第2の1・※サ),残留孤児及び残留婦人に対し,現在地から日本までの旅費を提供してはいない。その後,被告が現在地から日本までの旅費を提供するようになったのは,昭和37年6月1日のことである(前記第2の1・※エ)。

このように輸送手段の提供又は旅費の提供の観点からすれば,現在地から日本までの旅費が提供されるようになった昭和37年6月1日までの間については,被告が残留孤児及び残留婦人に対して負う召還義務を果たしたとはいえず,違法である。

ウ  また,被告は,召還義務として,残留孤児及び残留婦人に対して旅費の提供をしなければならないにもかかわらず,平成5年12月まで,旅費の申請手続を,残留孤児及び残留婦人ではなく,留守家族が行うものとしていたのであり(前記第2の1・※サ,・※エ,・※ク),提供の方法という観点からも違法であるといわなければならない。

確かに,被告は,この間の昭和60年3月29日に,残留孤児及び残留婦人の帰国に同意しない留守家族が旅費の申請手続を行わないといった事態が生じていることを慮って,身元が判明している残留孤児及び残留婦人について,留守家族による旅費の申請手続に代えて,申請に至った経緯を明らかにした書面を提出すれば,親族以外の者による旅費の申請ができることとしているが(前記第2の1・※ス),これも,残留孤児及び残留婦人が当然に旅費を申請できる途を開いたものではなく,被告が,残留孤児及び残留婦人に対し,召還義務に反して課していた,留守家族による旅費申請を必要とするという制約の一部の緩和を図ったものに過ぎず,召還義務に反する制約そのものを除去したわけではないから,やはり,この点を考慮しても,違法といわざるを得ない。

結局,被告は,召還義務の履行として,残留孤児及び残留婦人に現在地から日本までの旅費を提供したとはいえない。

エ  したがって,被告が,昭和37年6月1日までの間,現在地から出境地までの旅費を提供していなかった点,及び,平成5年12月までの間,留守家族を通じて旅費の申請をさせ,残留孤児及び残留婦人が旅費の申請をできるように講じなかった点において,被告は,残留孤児及び残留婦人に対し,召還義務を果たしておらず,違法である。

・※  国籍調査義務違反の有無

ア  被告は,召還義務に付随する国籍調査義務として,昭和48年10月6日以降,ある者が残留孤児又は残留婦人であると認識したときから,当該残留孤児又は残留婦人が,日本国籍を有するか否かを調査しなければならなかった。

イ  しかるに,被告は,ある者が残留孤児又は残留婦人であると認識したときから,当該残留孤児又は残留婦人が,日本国籍を有するか否かを調査したこともなければ,そのような制度を構想し,構築することは全くなく(弁論の全趣旨),むしろ,昭和48年10月6日には,帰国しようとする残留孤児及び残留婦人について査証を行うこととし,その前提として留守家族が残留孤児及び残留婦人の身元保証人となることを要求し(前記第2の1・※オ),昭和50年11月22日には,残留孤児及び残留婦人に対し,帰国時にいったん外国人登録をさせ,その後の調査により日本国籍を有することが判明した時点で外国人登録の無効措置をとるという運用を行うなど,日本への召還時に,残留孤児及び残留婦人を外国人として取り扱う方針を固めてしまった。

確かに,その後,被告は,昭和57年1月23日には,残留孤児及び残留婦人については,外国人登録の申請期間を延長して差し支えないこととし(前記第2の1・※イ),昭和60年3月29日には,身元が判明してない残留孤児及び残留婦人が身元保証人がなくとも帰国できる手だてとして身元引受人制度を創設し(前記第2の1・※ス),昭和60年5月11日には,訪日調査に参加したものの身元が判明しなかった残留孤児及びこれに同伴する一定の新家族が事実関係を証する資料を提出すれば,身元保証人がなくとも査証を発給する運用に改め(前記第2の1・※イ),昭和61年10月2日には,査証申請時に日本戸籍を有する者らが身元保証人がなくとも所定の条件を満たせば査証を発給する運用を採用し(前記第2の1・※キ),平成元年7月には,身元が判明しているものの留守家族らが身元保証人となってくれないために帰国できない残留孤児及び残留婦人が帰国できる手だてとして特別身元引受人制度を創設する(前記第2の1・※ヌ)など,残留孤児及び残留婦人が外国人として扱われるがために課される種々の制約を徐々に緩和してきていたとはいえる。しかしながら,これらはいずれも被告が召還時に残留孤児及び残留婦人を外国人として取り扱う方針を前提にするものに過ぎず,その範疇を出るものではない。

このように,被告は,昭和48年10月6日以降,ある者が残留孤児又は残留婦人であると認識した時点で,速やかに当該残留孤児又は残留婦人が日本国籍を有するか否かを調査しなかったがために,残留孤児及び残留婦人を入管法上外国人として扱い,その後も,かかる取扱いの不具合に応じて徐々に制約を緩和してきたに過ぎない。

ウ  よって,被告が,昭和48年10月6日以降,ある者が残留孤児又は残留婦人であると認識した時点で,速やかに当該残留孤児又は残留婦人が日本国籍を有するか否かを調査しなかった点において,残留孤児及び残留婦人に対して負う国籍調査義務を果たしたとは到底いえず,違法であるといわねばならない。

・※  所在調査義務違反の有無

ア  被告は,所在調査義務として,所在が不明となった残留孤児及び残留婦人の所在を調査し,その所在を明らかにしなければならなかった。

所在調査の方法として,国内においては,満州からの帰還者や留守家族など所在不明となった残留孤児及び残留婦人の所在について情報を有すると思われる者からその情報を収集し,国外においては,満州地域を実行支配下に置く中華人民共和国の立場を尊重する必要があるから,中華人民共和国内で被告が主体となって残留孤児及び残留婦人の所在調査を行うことは不可能であり,基本的に,外交交渉を通じて,中華人民共和国に対して所在不明となった残留孤児及び残留婦人の所在が明らかになるように調査を依頼すべきであったと解される。

そこで,以下,国内及び国外における被告の各所在調査義務の履行状況について検討する。

イ  国内における所在調査義務の履行状況

・※  被告は,昭和24年3月には留守家族から未引揚邦人についての届出を受けることにしたほか,開拓団及び在外商社等から関係資料を収集し(前記第2の1・※ケ),昭和25年4月から6月にかけては都道府県を通じて留守宅に対して一斉調査を行った(前記第2の1・※ケ)。そして,昭和25年10月には全国国勢調査の際に未引揚者の調査を行うほか,引き揚げて来た者からは引揚上陸地において,既に引き揚げていた者からは通信調査又は合同調査によって,残留者及び死亡者についての情報を収集した(前記第2の1・※ケ)。さらに,昭和29年4月には厚生省に未帰還者の状況調査を専門に行う未帰還者調査部を設置した。同調査部は,日ソ開戦前における職域,隣組及び開拓団等ごとにその人員,人名を把握し,次いで行動群調査によりその足取りを追い,この間に発生した事件及び死亡者の状況を明らかにし,未引揚邦人の個人ごとの最終消息をもとにして個人究明を行い,生死の判定のよりどころを求めることを重視して調査するという方針を採用し,引揚上陸地における帰還者に対する聞き取り調査,帰還者に対する通信調査,招致調査及び探訪調査,留守家族等からの資料収集等を実施し,留守宅等に通信があるなどの事情により現地住所が判明している者に対して通信調査を行うなどした(前記第2の1・※ク)。また,昭和33年12月には都道府県との連携の下,広報機関や関係各種団体の協力を得て,消息資料を収集する目的で,帰還者に対して,未帰還者の各種名簿を送付して消息資料を求める通信調査を実施したほか,外地残留者に対しても通信調査を実施するなどの一斉特別調査を行ない,2万2187人の邦人が中国に残留していることを突き止めた(前記第2の1・※ハ)。

・※  その後,被告は,昭和34年4月1日に戦時死亡宣告制度が実施されて以降は,昭和51年12月までに約1万4100人について戦時死亡宣告の請求を行うとともに(前記第2の1・※ヘ),戦時死亡宣告を受けた者については,調査内容を,所在の調査から,死亡時期,死亡場所,死因及び遺骨等の調査へ転換する一方(前記第2の1・※ウ),昭和38年5月2日には帰還者全員に対する引揚上陸地における聞き取り調査,未帰還者の情報を持っていると思われる帰還者への通信による調査,帰還者の招致又は帰還者宅への訪問による未帰還者の消息に関する情報収集等を実施した(前記第2の1・※オ)。

・※  国内における所在調査義務の履行状況は,前記・※及び・※のとおりであるところ,確かに,被告は,戦時死亡宣告を請求してこれを受けた者については,その宣告以降,所在の調査を所在未判明のままに打ち切っている。しかしながら,そもそも,被告による戦時死亡宣告の請求は,未帰還者に関する特別措置法上,未帰還者の状況につき調査究明をした結果なおこれを明らかにすることができない者について行うとされているところ,仮に,所在が判明しなければ,常に同法にいう「調査究明した」といえないと解するのであれば,戦時死亡宣告制度を定めた同法自らが戦時死亡宣告制度の適用される場合をほとんどすべて否定するという矛盾に陥ることからしても,そのような解釈は採用できない。そして,前記・※のとおり,被告は,戦時死亡宣告制度が実施される以前に,昭和24年3月から昭和33年12月にかけて断続的にではあるが,数度にわたって所在不明の残留孤児及び残留婦人の所在調査を行っているのであるから,結局,被告は,戦時死亡宣告を受けた者について,その要件,すなわち,国内において,その所在につき調査究明をしたという要件を充足しているというべきであり,このように調査究明された上で戦時死亡宣告を受けた者について,戦時死亡宣告後,被告が,死亡時期,死亡場所,死因及び遺骨等の調査を行い,所在の調査をしないからといって,被告が,同人らについて所在調査義務を履行しなかったとはいえない。

また,戦時死亡宣告を受けていない者についてみるに,戦時死亡宣告制度が実施される以前については,被告は,戦時死亡宣告を受けた者と同様に断続的ではあるが数度にわたって所在調査を行っているし,戦時死亡宣告制度実施後については,そのような所在調査を行った以上は戦時死亡宣告の請求を行っても致し方ないと考えられるおそれがあるところであるにもかかわらず,前記のとおり,被告は,なお,消息に関する情報収集等の所在調査を行っている。

・※  以上からすれば,被告は,国内において行うことができる所在調査義務を履行したと認められる。

ウ  国外における所在調査義務の履行状況

・※  国外での所在調査については,被告の主権が及ばないから,国内調査とは異なり,被告独自の立場から自由に調査を行えるわけではなく,実行支配を及ぼしている中華人民共和国と外交交渉を経るなどして,その協力を経ながら調査を進展せざるを得ない。そのため,昭和47年9月29日に被告と中華人民共和国との間の国交が正常化する前は,正式な国家間の交渉ルートがないことから,被告が所在調査義務の履行として調査担当官を現地に派遣し,調査を行うということはまず困難であったと認められる。

もっとも,被告が,中華人民共和国に対して,調査の協力を依頼するには,正式な外交ルート以外にも民間ルートを通じる方法があるから,国交回復を待たずして,中華人民共和国側に所在調査を依頼するなどの方法による所在調査義務を履行することが,困難であったとはいえ,全く不可能であったとまではいえない。ただ,いかに民間ルートがあるとはいえ,実行支配を及ぼしている中華人民共和国の立場を尊重せざるを得ないという点には変わりがないし,現実問題として,自由主義国家ではない中華人民共和国内の協力団体が,同国の意向を無視して行動できるはずもないから,結局のところ,民間ルートを通じての交渉は,正式な外交ルートが確立されていない間の,代替的な中華人民共和国との交渉ルートであったに過ぎないと解され,民間ルートを通じても,所在調査の成否が,中華人民共和国の意向に左右されざるを得ないという点は,変わりがない。

・※  そして,被告は,中華人民共和国との国交が正常化されるまで,同国とは互いに直接交渉を行う代わりに,それぞれ民間団体である民間三団体及び中国紅十字会を介する形をとって交渉を行ってきたものであり(前記第2の1・※イ,オ,キ,ケなど),また,後期集団引揚げが第7次で中断されている状況にあった昭和30年7月15日には,在ジュネーブ中国総領事を通じて中華人民共和国に対し,中国大陸にいた邦人4万人の状況について調査することを求め(前記第2の1・※コ),後期集団引揚げが再開された後である昭和32年5月13日には,在ジュネーブ中国総領事を通じて中華人民共和国に対し,所在が不明である邦人3万5761名の名簿を交付し,これらの者の現状を明らかにするとともに,死亡している者についても可能な限り調査することを求めるなどしている(前記第2の1・※タ)。

・※  さらに,昭和47年9月29日の中華人民共和国との国交正常化後については,その約半年後である昭和48年3月の時点から,戦時死亡宣告により除籍された者や自己の意思に基づいて帰還しないと認められた未帰還者を含む所在が不明の残留孤児及び残留婦人等の邦人名簿を送付して,在北京日本大使館が現地調査を行うとともに,調査担当官を派遣して未帰還者の調査を行っている(前記第2の1・※ア)。

・※  以上のとおり,被告は,中華人民共和国との国交が正常化し,被告の調査担当官を現地に派遣することが可能となって以降は,比較的に速やかに現地調査を実施しているし,それ以前の時期においても,中国に在留する多くの邦人が引揚げを行った後期集団引揚げのころに,中華人民共和国に対し所在が不明の邦人の所在調査を依頼しており,所在が判明しないため後期集団引揚げに応じることができない者がいることを想定して,それに対処していたといえる。

なお,前記・※のとおり,被告が,昭和32年5月に,中華人民共和国に対して所在調査を依頼したものの,被告と中華人民共和国との関係が良好に保てなかった事情もあって,望ましい成果が上がっているわけではないのに,前記・※のとおり,被告は,昭和32年5月の所在調査を依頼して以降,昭和48年3月に被告自らが中華人民共和国内で調査を行うまで,被告自らが所在調査を行ったり,中華人民共和国に対して所在調査をするよう依頼していない。この点,残留孤児及び残留婦人の立場から見れば,被告の所在調査義務の履行状況には,極めて不満が残るのも当然であり,他に手はなかったのかとの疑問も容易に払拭できるものではない。しかしながら,国交正常化をしていない中華人民共和国における所在調査という,外交問題と密接な関係を有する事柄である以上,その適否を法によって判断することは困難であって,むしろ民主政の過程においてその是非が判断されるのが相当といわざるを得ないことに加えて,被告からの昭和32年5月の所在調査依頼に対して,その必要がないとする中華人民共和国の対応や(前記第2の1・※コ,タ),前記イ記載のとおりこの間も被告が国内における所在調査を継続的に行っていたことなどを考慮すれば,昭和32年5月から昭和48年3月の間に被告が中華人民共和国に対して所在調査を依頼していないことが,明らかに不合理であって,所在調査義務に違反していたとまでは認められないのであり,被告は,国外において行うべき所在調査義務を可能な範囲で履行したというべきである。

エ  よって,被告に所在調査義務違反はない。

・※  原告ら各自の帰国の遅延と召還義務違反又は国籍調査義務違反との因果関係

ア  前記・※及び・※記載のとおり,被告には召還義務違反及び国籍調査義務違反があるが,これらの義務違反により帰国が遅延したというためには,これら義務違反と原告らの帰国が遅延したこととの間に相当因果関係が認められなければならない。

まず,国籍調査義務違反と原告ら各自の帰国の遅延との間に相当因果関係があるというには,被告が原告らが残留孤児又は残留婦人であると認識したときに予め国籍を調査していれば,実際に帰国した時期よりも早期に帰国できたといえなければならない。すなわち,原告らが,身元保証人,身元引受人等を探し又はこれらに必要な書類を備えなければならないなど,入管法上外国人として扱われたがために,被告が原告らが残留孤児又は残留婦人であることやその所在などを把握してから実際に帰国するまでの期間が,原告らが実際に帰国してから日本国籍を有することが判明するまでの期間を超えていると認められる場合に,国籍調査義務違反と帰国の遅延との間に相当因果関係があるといえる。

次に,召還義務違反と帰国の遅延との間に相当因果関係があるというには,昭和33年7月から平成5年12月までの間について,残留孤児本人及び残留婦人本人による旅費の申請を被告が認めていれば早期に帰国できた,又は昭和37年6月1日までの間について,現在地から出境地までの旅費を被告が給付していれば早期に帰国できたといえなければならない。すなわち,原告らが昭和33年7月から平成5年12月までの間に自らが旅費の申請ができなかったがために帰国が遅延した,又は昭和37年6月1日までの間に現在地から出境地までの旅費がなかったがために帰国が遅延したと認められる場合に,召還義務違反と帰国の遅延との間に相当因果関係があるといえる。

イ  原告ら各自の帰国の遅延の理由等

・※  第1事件原告ら

① 原告B2

原告B2は,昭和61年1月23日ころに外国人登録をしたが,その後,昭和61年7月21日に日本国籍を有することが判明した(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

このように,外国人登録をしてから日本国籍が判明するまで約6か月を要していることが認められる一方,被告が原告B2が残留孤児であることやその所在などをいつ把握したかについては的確な主張立証がなく,判然としない。

ただ,遅くとも,原告B2が訪日調査に参加した昭和59年11月30日には原告B2の所在などを被告が把握していたものと推認されるが,原告B2が,訪日調査の際に,被告に対し,養父母も健在であり,妻は7人兄弟でもあるから中国で生活したいとして永住帰国する意思がないことを表明し,また,いったん中国へ帰ってからも,養父母が老齢となっていたため,直ちに日本に帰国しないこととしたことからも明らかなように,原告B2の永住帰国が平成元年8月18日となったのは,原告B2が老齢となった養父母を中国に残して日本に帰国できなかったからであり(甲個1①,弁論の全趣旨,個別原告第2準備書面),原告B2が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B2が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B2の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

② 原告B3

被告は,少なくとも昭和57年ころ,原告B3が自己の経歴や家族関係を記した手紙が高知県厚生援護課に回付されたことにより,原告B3が残留孤児であることやその所在などを把握したといえる(甲個2①)。そして,原告B3が永住帰国したのは昭和60年10月11日のことであるから,被告が原告B3の所在などを把握してから,原告B3が帰国するまでに,およそ3年の期間を要したこととなる。

一方,昭和59年7月27日ころに原告B3が外国人登録をしてから,昭和60年5月30日に原告B3が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ7か月程度である(弁論の全趣旨,原告準備書面・※)。

しかし,被告が原告B3の所在などを把握した昭和57年から,原告B3が帰国した昭和60年10月11日までの間には,確かに,原告B3の身元を判明させるための調査,及び身元保証を行うか否かにつき留守家族の意見の集約が行われていたものの(甲個2①),永住帰国が昭和60年10月11日になったのは,原告B3が,永住帰国した場合の将来に対する不安や中国での生活や家庭を一気に捨てることができず,永らく逡巡していたからであって(甲個2①),原告B3が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B3が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B3の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

③ 原告B4

原告B4は,昭和56年7月10日ころに外国人登録をしたが,その後,昭和58年5月27日に日本国籍を有することが判明した(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

このように,外国人登録をしてから日本国籍が判明するまでおよそ1年10か月を要していることが認められる一方,被告がいつ原告B4が残留孤児であることやその所在などを把握したかについて,原告B4は,文化大革命後,被告に対し,身元調査を求める手紙を多数回にわたって送付したと主張するものの,本件証拠上,その時期が判然としない。

また,原告B4が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B4の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があると認めるに足る証拠はなく,また,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

④ 原告B5

被告は,少なくとも,原告B5が在中国日本大使館に連絡をとった昭和58年12月12日には,原告B5が残留孤児であることやその所在などを把握していたといえる(甲個4①・④)。そして,原告B5が永住帰国したのは平成元年4月7日のことであるから,被告が原告B5の所在などを把握してから,原告B5が帰国するまでに,およそ5年4か月の期間を要したこととなる。

一方,原告B5が中華人民共和国の旅券で帰国しているにもかかわらず,外国人登録をしていないことからすると(弁論の全趣旨),原告B5が日本国籍を有することが帰国後極めて短期間のうちに判明したものと推認される。

そして,被告が原告B5の所在などを把握した昭和58年12月12日から,原告B5が帰国した平成元年4月7日までの間には,訪日調査への参加,就籍許可の取得,身元引受の依頼が行われていたのであって(甲個4①),これらは原告B5が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B5が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B5の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑤ 原告B6

被告は,昭和63年4月7日,原告B6から肉親捜しの依頼を受ける手紙を受領したことにより,原告B6が残留孤児であることやその所在などを把握した(乙個5の1)。そして,原告B6が永住帰国したのは平成2年11月7日のことであるから,被告が原告B6の所在などを把握してから,原告B6が帰国するまでに,2年7か月の期間を要したこととなる。

一方,平成2年11月7日ころに原告B6が外国人登録をしてから,平成3年7月12日に原告B6が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ8か月程度である(弁論の全趣旨)。

そして,被告が原告B6の所在などを把握した昭和63年4月7日から,原告B6が永住帰国した平成2年11月7日までの間には,訪日調査への参加,身元引受の依頼が行われていたのであって(甲個5①),これらは原告B6が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B6が,旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。

よって,原告B6の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑥ 原告B7

原告B7は,昭和62年10月20日ころに外国人登録をしたが,その後,昭和63年1月14日に日本国籍を有することが判明した(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

このように,外国人登録をしてから日本国籍が判明するまでおよそ3か月を要していることが認められる一方,被告が原告B7が残留孤児であることやその所在などをいつ把握したかについては的確な主張立証がなく,判然としない。

ただ,遅くとも原告B7が訪日調査に参加した昭和60年9月には被告が原告B7が残留孤児であることやその所在を把握していたと思われるが,原告B7が,訪日調査で身元が判明したにもかかわらず,5人いる子のうち未成年の子しか連れて帰れないことに非常に悩み,一時帰国した後,原告B7の母から,5人の子全員が帰ってくるとお米がないからと言われたことを受けて,成人した3人の子を中国に残して帰国することを決心したことからも明らかなように(甲個6①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),原告B7の永住帰国が昭和62年10月20日となったのは,原告B7が成人した3人の子を中国に残して日本に帰国できなかったからであり,原告B7が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B7が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B7の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑦ 原告B8

原告B8は,昭和19年1月20日に高知県香美郡C村で生まれて間もなく,陸軍の物資を取り扱う御用商人であった父と母と共に上海へ渡航したが,敗戦前に,上海で中国人に預けられた(甲個7①)。

このように,原告B8は,被告により,満州の有事の際に国防の一翼を担う者又はそれを支える者として送出されたものではないから,そもそも被告は,原告B8に対して国籍調査義務及び召還義務を負っていない。

また,原告B8は,他に,被告が原告B8に対して国籍調査義務及び召還義務を負うべき事情について全く主張立証しない。

よって,その余の点について判断するまでもなく,原告B8の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるものとは到底いえない。

⑧ 原告B9

被告がいつ原告B9が残留孤児であることやその所在などを把握したかについて,及び原告B9が日本国籍を有することが判明するまでの事情について,原告B9は的確な主張立証をしない。

ただ,遅くとも被告は,原告B9が最初に一時帰国した昭和51年4月28日ころには原告B9が残留孤児であることやその所在を把握していたものと思われるが,原告B9が永住帰国したのは平成5年5月28日のことであるから,被告が原告B9の所在などを把握してから,原告B9が帰国するまでに,17年もの期間を要したこととなるが,原告B9が,昭和51年及び昭和63年の2度の一時帰国をしたものの,日本に永住帰国する意思はなく,平成四,五年ころに次男が日本で働きたいと言い出し,また,娘が日本人の子であることを理由にいじめられていたことなどから,漸くそのころ,永住帰国する意思を固めたことからも明らかなように(甲個8①),原告B9の永住帰国が平成5年5月28日となったのは,原告B9が平成四,五年ころまで日本に永住帰国する意思が固まっていなかったからであり,原告B9が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B9が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B9の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑨ 原告B10

被告は,昭和57年10月21日に,高知県厚生援護課が原告B10に対して手紙を出していることから,遅くともそのころには,原告B10が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個9⑧の・※)。そして,原告B10が永住帰国したのは昭和58年11月25日のことであるから,被告が原告B10の所在などを把握してから,原告B10が帰国するまでに,およそ1年1か月の期間を要したこととなる。

一方,昭和58年11月25日ころに原告B10が外国人登録をしてから,昭和59年6月1日に原告B10が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ6か月程度である(甲個9①・⑦,弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B10の所在などを把握した昭和57年10月21日から,原告B10が永住帰国した昭和58年11月25日までの間には,異母弟へ身元保証の依頼が行われていたのであって(弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),これは原告B10が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B10が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B10の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑩ 原告B11

被告は,平成元年2月15日ころに,原告B11が大使館宛に出した手紙を受領していることから,遅くともそのころには,原告B11が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個10⑧)。そして,原告B11が永住帰国したのは平成4年2月17日のことであるから,被告が原告B11の所在などを把握してから,原告B11が帰国するまでに,およそ3年の期間を要したこととなる。

一方,平成4年2月17日ころに原告B11が外国人登録をしてから,平成5年1月13日に原告B11が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ11か月程度である(甲個10①・⑦,弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B11の所在などを把握した平成元年2月15日ころから,原告B11が永住帰国した平成4年2月17日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査が行われていたものの(弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),永住帰国が平成4年2月17日となったのは,原告B11が,平成3年10月31日付けの厚生省宛の手紙に,再婚相手の女性が永住帰国することを拒んでおり説得していると記載していることから明らかなように(乙個10の2),原告B11が永住帰国を拒む再婚相手の女性を説得していたからであり,原告B11が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B11が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B11の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑪ 原告B12

被告は,昭和57年3月1日ころに,原告B12が大使宛に出した手紙を受領していることから,遅くともそのころには,原告B12が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個11⑭)。そして,原告B12が永住帰国したのは昭和63年3月22日のことであるから,被告が原告B12の所在などを把握してから,原告B12が帰国するまでに,およそ6年の期間を要したこととなる。

一方,原告B12が日本国籍を有することが判明した時期については判然としないものの,原告B12が昭和63年3月22日に日本旅券で帰国していることから,少なくとも,同日までに原告B12が日本国籍を有することが判明していたものといえるから,原告B12が一時帰国をした昭和62年5月26日ころに外国人登録をしてから,原告B12が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ10か月程度である(弁論の全趣旨,個別原告第2準備書面,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B12の所在などを把握した昭和57年3月1日ころから,原告B12が永住帰国した昭和63年3月22日までの間には,訪日調査による身元調査,身元保証の依頼が行われていたのであって(弁論の全趣旨,個別原告第2準備書面),これは原告B12が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B12が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B12の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑫ 原告B13

被告は,昭和60年10月25日ころに,原告B13に対して孤児認定証を送付していることから,遅くともそのころには,原告B13が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個12①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面)。そして,原告B13が永住帰国したのは平成7年11月15日のことであるから,被告が原告B13の所在などを把握してから,原告B13が帰国するまでに,およそ10年の期間を要したこととなる。

一方,平成7年11月15日ころに原告B13が外国人登録をしてから,平成10年4月9日に原告B13が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ2年5か月程度である(甲個12①,弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B13の所在などを把握した昭和60年10月25日ころから,原告B13が永住帰国した平成7年11月15日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査が行われていたものの,永住帰国が平成7年11月15日となったのは,原告B13が,昭和61年に父が死亡したことを知り,また,日本語が分からなかったため,日本へ永住帰国する意思に乏しかったからであり(甲個12①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),原告B13が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B13が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B13の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑬ 原告B14

被告は,昭和57年ころに,原告B14に対して孤児証明書を送付していることから,遅くともそのころには,原告B14が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個13①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面)。そして,原告B14が永住帰国したのは平成元年8月8日のことであるから,被告が原告B14の所在などを把握してから,原告B14が帰国するまでに,およそ7年8か月の期間を要したこととなる。

一方,平成元年8月8日ころに原告B14が外国人登録をしてから,平成3年4月19日に原告B14が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年8か月程度である(甲個13①,弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B14の所在などを把握した昭和57年7月27日ころから,原告B14が永住帰国した平成元年8月8日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査が行われていたものの,永住帰国が平成元年8月8日となったのは,原告B14が,肉親が判明しなかったため,日本へ永住帰国する意思に乏しかったからであり(甲個13①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),原告B14が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B14が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B14の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑭ 原告B15

被告は,昭和60年11月14日に,原告B15について訪日調査の申出を受け付けていることから(甲個14⑧),遅くともそのころには,原告B15が残留孤児であることやその所在などを把握していた。そして,原告B15が永住帰国したのは平成3年6月6日のことであるから,被告が原告B15の所在などを把握してから,原告B15が帰国するまでに,およそ5年7か月の期間を要したこととなる。

一方,平成3年6月6日ころに原告B15が外国人登録をしてから,平成4年2月17日に原告B15が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ8か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B15の所在などを把握した昭和60年11月14日ころから,原告B15が永住帰国した平成3年6月6日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査が行われていたものの,永住帰国が平成3年6月6日となったのは,原告B15が,養母が帰国に猛反対し,また,妻が重病であったため,永住帰国することを断念していたからであり(甲個14①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),原告B15が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B15が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B15の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑮ 原告B16

被告は,昭和58年8月ころに,原告B16から在日親族所在集団調査の依頼を受けていることから,(甲個15⑰の・※),遅くともそのころには,原告B16が残留孤児であることやその所在などを把握していた。そして,原告B16が永住帰国(当初は一時帰国での入国であるが,後に永住の申請がされた。)したのは昭和62年8月7日のことであるから(甲個15③,乙個15の4),被告が原告B16の所在などを把握してから,原告B16が帰国するまでに,およそ4年の期間を要したこととなる。

一方,一時帰国(後に,これが永住帰国となる。甲個15③,乙個15の4)した昭和62年8月7日ころに原告B16が外国人登録をしてから,昭和63年2月19日に原告B16が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ6か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B16の所在などを把握した昭和58年8月ころから,原告B16が永住帰国した昭和62年8月7日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査,戸籍訂正許可の取得手続が行われていたものの(甲個15①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),原告B16が,訪日調査の際に永住帰国する意思がないと回答していること(乙個15の3),訪日調査で身元が判明したのに永住帰国ではなく一時帰国を選択していること(甲個15①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),平成3年2月7日に至って,成年の子供が来日し,養父母も亡くなり中国に親類がいなくなったことを理由として永住の申請をしていることから明らかなように(乙個15の4),永住帰国が昭和62年8月7日となったのは,原告B16が,成年の子及び養父母が中国にいたため,日本へ永住帰国する意思に乏しかったからであり,原告B16が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B16が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B16の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑯ 原告B17

原告B17は,昭和53年ころ,被告に対し,身元調査の依頼をしたと主張するが,これを認めるに足る証拠はない。もっとも,被告は,少なくとも昭和60年ころに,原告B17が訪日調査に参加していることから,遅くともそのころには,原告B17が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個16⑥,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面)。そして,原告B17が永住帰国したのは平成2年8月7日のことであるから,被告が原告B17の所在などを把握してから,原告B17が帰国するまでに,およそ5年の期間を要したこととなる。

一方,平成2年8月7日ころに原告B17が外国人登録をしてから,平成3年3月1日に原告B17が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ7か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B17の所在などを把握した昭和60年ころから,原告B17が永住帰国した平成2年8月7日までの間には,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたのであって(甲個16⑥,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),これは原告B17が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B17が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B17の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑰ 原告B18

被告は,昭和63年7月ころに,原告B18が肉親探しの依頼を記した手紙を受領していることから,遅くともそのころには,原告B18が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個17①・⑥,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面)。そして,原告B18が永住帰国したのは平成2年9月11日のことであるから,被告が原告B18の所在などを把握してから,原告B18が帰国するまでに,およそ2年1か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成2年9月11日ころに原告B18が外国人登録をしてから,平成2年11月30日に原告B18が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ3か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B18の所在などを把握した昭和63年7月ころから,原告B18が永住帰国した平成2年9月11日までの間には,訪日調査による身元調査が行われていたのであって(甲個17①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),これは原告B18が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B18が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B18の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑱ 原告B19

原告B19は,昭和51年ころ,厚生省宛に手紙を出した旨の主張をするが,これを認めるに足る証拠はない。もっとも,被告は,少なくとも昭和51年4月26日ころに,原告B19が身元調査を高知県幡多郡D村役場に対して依頼していることから,遅くともそのころには,原告B19が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個18⑪,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面)。そして,原告B19が永住帰国したのは平成6年2月25日のことであるから,被告が原告B19の所在などを把握してから,原告B19が帰国するまでに,およそ17年10か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成6年2月25日ころに原告B19が外国人登録をしてから,平成7年2月17日に原告B19が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B19の所在などを把握した昭和51年ころから,原告B19が永住帰国した平成6年2月25日までの間には,確かに,原告B19が,戸籍訂正許可の取得を行ない,また,日本国籍を取得できるように要望し,身元引受の依頼をしていたものの(甲個18①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),原告B19が,昭和53年に一時帰国しておよそ1年ほど日本での生活をしてから,永住帰国するまでにおよそ14年8か月間もの期間がかかっていること,及び夫が永住帰国することに反対していたが,後に子供らが永住帰国に賛成したことを受けて夫が永住帰国することに同意したので永住帰国することを決意したことからすれば(甲個18①),永住帰国が平成6年2月25日となったのは,夫が永住帰国に反対していたため,原告B19が,永住帰国することを断念していたからであるといえ,原告B19が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B19が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B19の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑲ 原告B20

原告B20は,昭和58年ころに中華人民共和国の公安局に身上を申請したところ,後に,厚生省から手紙が来たとの主張をするが,これを認めるに足る証拠はない。もっとも,被告は,少なくとも昭和60年ころに,原告B20が訪日調査に参加していることから,遅くともそのころには,原告B20が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個19①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面)。そして,原告B20が永住帰国したのは平成2年3月7日のことであるから,被告が原告B20の所在などを把握してから,原告B20が帰国するまでに,およそ四,五年ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成2年3月7日ころに原告B20が外国人登録をしてから,平成2年9月5日に原告B20が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ6か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B20の所在などを把握した昭和60年ころから,原告B20が永住帰国した平成2年3月7日までの間には,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼,就籍許可の取得手続が行われていたのであって(甲個19①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),これは原告B20が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B20が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B20の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑳ 原告B21

原告B21は,昭和59年ころ,厚生省に手紙を出したとの主張をするが,これを認めるに足る証拠はない。もっとも,被告は,少なくとも昭和60年3月14日に,原告B21から手紙を受領していることから,遅くともそのころには,原告B21が残留孤児であることやその所在などを把握していた(乙個20の3の1ないし3)。そして,原告B21が永住帰国したのは平成元年11月4日のことであるから,被告が原告B21の所在などを把握してから,原告B21が帰国するまでに,およそ4年8か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成元年11月4日ころに原告B21が外国人登録をしてから,平成2年11月30日に原告B21が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B21の所在などを把握した昭和60年3月14日ころから,原告B21が永住帰国した平成元年11月4日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたものの(甲20①・⑤・⑥,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),原告B21が,昭和62年7月17日付けの被告宛の手紙に,高齢の養父母の健康がすぐれず,世話をする者がいないため,しばらくはとどまり,養父母の晩年の世話をすると記載していることから明らかなように(乙個20の5の1及び2),永住帰国が平成元年11月4日となったのは,原告B21が,養父母の晩年の世話をしていたからであるといえ,原告B21が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B21が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B21の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B22

被告は,少なくとも昭和49年5月21日ころに,被告が原告B22の所在を把握した旨を記載した資料通報名票を作成していることから,遅くともそのころには,原告B22が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個21⑱,弁論の全趣旨,個別原告第4準備書面)。そして,原告B22が永住帰国(当初は一時帰国での入国であるが,後に永住の申請がされた。)したのは昭和55年6月17日のことであるから,被告が原告B22の所在などを把握してから,原告B22が帰国するまでに,およそ6年ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和51年2月1日には既に,原告B22が日本国籍を有することが判明していた(甲個21の⑬)。

しかし,原告B22が,昭和51年2月に日本国籍を有することが判明しているのに永住帰国ではなく一時帰国を選択したこと,一時帰国時に日本の親類等から説得され中国に置いてきた子のために中国に戻っていること,それから4年後に股関節変形症の治療のために一時帰国のつもりで帰国していることからすれば,永住帰国が昭和55年6月17日となったのは,原告B22が永住帰国する意思を固めていなかったからであり,原告B22が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B22は,昭和55年6月17日に永住帰国する際,親族らからのカンパによって帰国できた旨の主張をするが,原告B22は,昭和51年2月に一時帰国した際,被告から現住地から日本までの旅費の給付を受けているのであって(甲個21の⑤),被告は,原告B22に対して,召還義務を既に尽くしており,原告B22が,昭和55年6月17日に帰国する際に,召還義務違反のために旅費がなく帰国が遅れたとは認められない。よって,原告B22の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるとはいえないし,原告B22に対して被告の召還義務違反があったとはいえない。

・※  原告B23

被告がいつ原告B23の所在を把握したかについて,及び原告B23が日本国籍を有することが判明するまでの事情について,原告B23は的確な主張立証をしない。

もっとも,遅くとも,原告B23が訪日調査に参加した昭和61年9月には,被告が原告B23が残留孤児であることやその所在などを把握していたものと認められる。また,原告B23が,訪日調査で身元が判明したのに永住帰国ではなく一時帰国を選択したこと,他方で,親族等が永住帰国に反対した等の特段の事情が認められないことからすれば(乙個22の5),永住帰国(当初は一時帰国の予定であった。)が昭和62年11月27日となったのは,原告B23が,永住帰国する意思を固めていなかったからであり,原告B23が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B23が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B23の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B24

被告は,少なくとも昭和61年3月14日に,原告B24から身元調査依頼の手紙を受領していることから(乙個23の1),遅くともそのころには,原告B24が残留孤児であることやその所在などを把握していた。そして,原告B24が永住帰国したのは平成元年3月4日のことであるから,被告が原告B24の所在などを把握してから,原告B24が帰国するまでに,およそ3年の期間を要したこととなる。

一方,平成元年3月4日ころに原告B24が外国人登録をしてから,平成元年9月26日に原告B24が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ7か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B24の所在などを把握した昭和61年3月14日ころから,原告B24が永住帰国した平成元年3月4日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたものの,原告B24が,訪日調査の際に身元が判明しなかった場合には永住帰国する気はないと考えていたこと,実際に訪日調査で身元が判明しなかったため肉親がいない日本に帰って生活がどうなるかといった不安を抱えていたこと(個別原告第5準備書面),養母が永住帰国に強く反対していたこと(乙個23の2)からすれば,永住帰国が平成元年3月4日となったのは,原告B24が永住帰国する意思を固めていなかったからであり,原告B24が入管法上外国人として扱われたためではない。また,原告B24が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B24の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B25

被告は,昭和63年6月ころに,原告B25が訪日調査に参加していることから,遅くともそのころには,原告B25が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個24①,弁論の全趣旨,個別原告第3準備書面)。そして,原告B25が永住帰国したのは平成2年4月24日のことであるから,被告が原告B25の所在などを把握してから,原告B25が帰国するまでに,およそ1年11か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,原告B25が中華人民共和国の旅券で帰国しているにもかかわらず,外国人登録をしていないことからすると(弁論の全趣旨),原告B25が日本国籍を有することが帰国後極めて短期間のうちに判明したものと推認される。

そして,被告が原告B25の所在などを把握した昭和63年6月ころから,原告B25が永住帰国した平成2年4月24日までの間には,訪日調査による身元調査,身元保証の依頼が行われていたのであって(甲個24①,弁論の全趣旨,個別原告第3準備書面),これは原告B25が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B25が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B25の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B26

被告は,昭和54年11月10日ころに,原告B26からの身元調査依頼を受け付けていることから,遅くともそのころには,原告B26が残留孤児であることやその所在などを把握していた(乙個25の1)。そして,原告B26が永住帰国したのは昭和63年4月12日のことであるから(甲個25⑦,弁論の全趣旨,被告第5準備書面),被告が原告B26の所在などを把握してから,原告B26が帰国するまでに,およそ8年5か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和63年4月12日ころに原告B26が外国人登録をしてから,昭和63年11月22日に原告B26が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ7か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B26の所在などを把握した昭和54年11月10日ころから,原告B26が永住帰国した昭和63年4月12日までの間には,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたのであって(甲個25①),これは原告B26が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B26が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。

よって,原告B26の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B27

被告は,昭和63年1月10日ころに,原告B27からの身元調査依頼を受け付けていることから,遅くともそのころには,原告B27が残留孤児であることやその所在などを把握していた(乙個26の2)。そして,原告B27が永住帰国(当初は一時帰国の予定であった。)したのは平成2年8月24日のことであるから(甲個26①),被告が原告B27の所在などを把握してから,原告B27が帰国するまでに,およそ2年7か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成2年8月24日ころに原告B27が外国人登録をしてから,平成4年2月17日に原告B27が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年6か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B27の所在などを把握した昭和63年1月10日ころから,原告B27が永住帰国した平成2年8月24日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査が行われていたものの(甲個26①),原告B27が,訪日調査で身元が判明したのに永住帰国ではなく一時帰国を選択したこと(甲個26①・⑦,弁論の全趣旨),他方で,親族等が永住帰国に反対した等の特段の事情が認められないことからすれば(弁論の全趣旨),永住帰国が平成2年8月24日となったのは,原告B27が,永住帰国する意思を固めていなかったからであり,原告B27が入管法上外国人として扱われたためではない。また,原告B27が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B27の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B28

被告は,昭和61年ころに,中華人民共和国から原告B28の中国名が登載された名簿の提供を受けていることから,遅くともそのころには,原告B28が残留孤児であることやその所在などを把握していた(乙個27の1)。そして,原告B28が永住帰国したのは平成10年3月10日のことであるから(甲個27①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),被告が原告B28の所在などを把握してから,原告B28が帰国するまでに,およそ12年ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成10年3月10日ころに原告B28が外国人登録をしてから,平成10年9月22日に原告B28が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ6か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B28の所在などを把握した昭和61年ころから,原告B28が永住帰国した平成10年9月22日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたものの(甲個27①),永住帰国が平成2年8月24日となったのは,原告B28が,成人であった長女と一緒に帰ることができなかったので悩み続けていたからであり(甲個27①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),原告B28が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B28が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B28の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B29

被告は,昭和60年ころに,原告B29が訪日調査に参加していることから,遅くともそのころには,原告B29が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個28①,弁論の全趣旨,個別原告第3準備書面)。そして,原告B29が永住帰国したのは昭和63年7月29日のことであるから(甲個28①・③,弁論の全趣旨,個別原告第3準備書面),被告が原告B29の所在などを把握してから,原告B29が帰国するまでに,およそ3年ほどの期間を要したこととなる。

一方,一時帰国した昭和62年3月10日ころに原告B29が外国人登録をしてから,昭和62年12月23日に原告B29が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ9か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B29の所在などを把握した昭和60年ころから,原告B29が永住帰国した昭和63年7月29日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査,戸籍編成の手続が行われていたものの(弁論の全趣旨,個別原告第3準備書面),原告B29が,訪日調査で身元が判明したのに永住帰国ではなく昭和62年に一時帰国することを選択したこと(乙個28の3,弁論の全趣旨),その後の昭和63年7月29日の永住帰国時も当初は一時帰国の予定であったこと(乙個28の2),他方で,親族等が永住帰国に反対した等の特段の事情が認められないことからすれば,永住帰国が昭和63年7月29日となったのは,原告B29が,永住帰国する意思を固めていなかったからであり,原告B29が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B29が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B29の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B30

原告B30は,昭和28年ころ,瀋陽公安局外事課から,日本の肉親と文通もでき,引揚げもできるようになったから,日本の親戚に手紙を出すようにとの話があったことから,高知県吾川郡E村在住の親戚に手紙を出したところ,返事があったので直ちに帰国したかったが,妊娠していたため,帰国できなかった。その後,昭和32年に至り,原告B30は,瀋陽にいた日本人戦犯を迎えに来た船に乗って,日本へ一時帰国した。

このように,被告は,原告B30に対し,日本までの輸送手段を提供し,これにより原告B30を帰国させていることから,召還義務を尽くしたといえ,召還義務違反はない。

また,そもそも,被告は,原告B30が昭和32年に帰国していることから,原告B30に対して国籍調査義務を負っていない。

よって,その余の点について判断するまでもなく,原告B30の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとは到底いえない。

・※  原告B31

被告は,昭和61年ころに,原告B31が訪日調査に参加していることから,遅くともそのころには原告B31が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個30①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面)。そして,原告B31が永住帰国したのは平成3年4月5日のことであるから(弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),被告が原告B31の所在などを把握してから,原告B31が帰国するまでに,およそ5年ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成3年4月5日ころに原告B31が外国人登録をしてから,平成10年3月9日に原告B31が日本国籍を有することが判明するまでにおよそ6年11か月もの期間を要している(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

このように,仮に,被告が原告B31の所在などを把握した後速やかに日本国籍を有するか否か確認していたとしても,原告B31の永住帰国が平成3年4月5日よりも早まっていたものとはいえない。

また,原告B31が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B31の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B32

原告B32は,昭和53年に在中国日本大使館宛に手紙を書いた旨の主張をするが,これを認めるに足る証拠はない。もっとも,被告は,少なくとも昭和55年に,原告B32から通信を受けていることから,遅くともそのころには原告B32が残留孤児であることやその所在などを把握していた(弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-1))。そして,原告B32が永住帰国(当初は一時帰国の予定であった。)したのは昭和57年12月24日のことであるから(甲個31③),被告が原告B32の所在などを把握してから,原告B32が帰国するまでに,およそ3年ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和57年12月24日ころに原告B32が外国人登録をしてから,昭和59年2月24日に原告B32が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年2か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B32の所在などを把握した昭和55年ころから,原告B32が永住帰国した昭和57年12月24日までの間には,身元調査,身元引受の依頼が行われ(弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面,被告第8準備書面(8-1)),原告B32が,身元が判明したのに,身元引受の依頼が難航したため,永住帰国ではなく一時帰国を選択していること(甲個31①・⑦)からすれば,永住帰国が昭和57年12月24日となったのは,原告B32が,入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

また,原告B32が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B32の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B33

被告は,昭和62年ころに,原告B33が訪日調査に参加していることから,遅くともそのころには原告B33が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個32①,弁論の全趣旨)。そして,原告B33が永住帰国したのは昭和63年12月6日のことであるから(甲個32③),被告が原告B33の所在などを把握してから,原告B33が帰国するまでに,およそ2年ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和63年12月6日ころに原告B33が外国人登録をしてから,平成元年11月13日に原告B33が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ11か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B33の所在などを把握した昭和62年ころから,原告B33が永住帰国した昭和63年12月6日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたのであって(甲個32①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),これは原告B33が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B33が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B33の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B34

被告は,昭和49年7月ころ,原告B34が在中国日本大使館宛に出した手紙を受領していることから,遅くともそのころには原告B34が残留孤児であることやその所在などを把握していた(乙個33の3)。そして,原告B34が永住帰国(当初は一時帰国の予定であった。)したのは昭和52年1月25日のことであるから(甲個33①・③,被告第5準備書面),被告が原告B34の所在などを把握してから,原告B34が帰国するまでに,およそ2年7か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和52年1月25日ころに原告B34が外国人登録をしてから,昭和53年1月16日に原告B34が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B34の所在などを把握した昭和49年7月ころから,原告B34が永住帰国した昭和52年1月25日までの間には,身元調査,戸籍訂正許可の手続が行われていたのであって(甲個33①,弁論の全趣旨,個別原告第5準備書面),これは原告B34が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。確かに,原告B34は,当初,一時帰国の予定で帰国しているものの,身元が判明していないこと,帰国後に中華人民共和国に戻っていないこと,新家族が来日するのを待って永住することにしたことからすれば,原告B34が,一時帰国を選択したのは,万が一,新家族が来日できないときに備えての方途であったと考えられ,原告B34が,帰国時に永住帰国する意思に乏しかったために帰国が遅延したとはいえない。

他方,原告B34が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B34の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B35

被告は,昭和50年ころに,原告B35から肉親捜しを依頼されていることから,遅くともそのころには原告B35が残留孤児であることやその所在などを把握していた(弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-1))。そして,原告B35が永住帰国(当初は一時帰国の予定であった。)したのは昭和51年2月24日のことであるから(甲個34③),被告が原告B35の所在などを把握してから,原告B35が帰国するまでに,およそ2年ほどの期間を要したこととなる。

一方,一昭和51年2月24日ころに原告B35が外国人登録をしてから,昭和58年5月19日に原告B35が日本国籍を有することが判明するまでにおよそ7年3か月もの期間を要している(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

このように,仮に,被告が原告B35の所在などを把握した後速やかに日本国籍を有するか否か確認していたとしても,原告B35の永住帰国が昭和51年2月24日よりも早まっていたものとはいえない。

また,原告B35が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B35の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B36

被告は,昭和60年ころ,中国政府から原告B36に関する名簿の送付を受けたことから,遅くともそのころには原告B36が残留孤児であることやその所在などを把握していた(弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-1))。そして,原告B36が永住帰国したのは昭和63年10月13日のことであるから(甲個35③),被告が原告B36の所在などを把握してから,原告B36が帰国するまでに,およそ三,四年ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和63年10月13日ころに原告B36が外国人登録をしてから,平成3年3月1日に原告B36が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ2年5か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B36の所在などを把握した昭和60年ころから,原告B36が永住帰国した昭和63年10月13日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査が行われていたものの(甲個35①弁論の全趣旨),永住帰国が昭和63年10月13日となったのは,原告B36が,言葉の壁や帰国後の生活への不安を抱えていたからであり(甲個35①),原告B36が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B36が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B36の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B37

被告は,昭和55年10月ころに,原告B37から身元調査の依頼を受けたことから,遅くともそのころには原告B37が残留孤児であることやその所在などを把握していた(弁論の全趣旨,個別原告第3準備書面)。そして,原告B37が永住帰国したのは昭和58年10月4日のことであるから(甲個36③),被告が原告B37の所在などを把握してから,原告B37が帰国するまでに,およそ3年ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和58年10月4日ころに原告B37が外国人登録をしてから,昭和58年11月24日に原告B37が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ2か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B37の所在などを把握した昭和55年10月ころから,原告B37が永住帰国した昭和58年10月4日までの間には,訪日調査による身元調査が行われていたのであって(甲個36①,弁論の全趣旨),これは原告B37が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B37が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B37の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B38

被告は,昭和51年ころに,原告B38から肉親捜しの通信を受けたことから,遅くともそのころには原告B38が残留孤児であることやその所在を把握していた(弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-1))。そして,原告B38が永住帰国したのは平成10年11月11日のことであるから(甲個37③),被告が原告B38の所在などを把握してから,原告B38が帰国するまでに,およそ23年ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成10年11月11日ころに原告B38が外国人登録をしてから,平成11年8月2日に原告B38が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ9か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B38の所在などを把握した昭和51年ころから,原告B38が永住帰国した平成10年11月11日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査が行われていたものの(甲個37①弁論の全趣旨),原告B38が,昭和60年前後ころに娘と共に帰国できなかったために帰国を断念していること(甲個37①),平成8年1月ころに厚生省宛に夫が共に帰国することに同意してくれないため暫時帰国しない旨申し出ていること(乙個37の2)からすれば,永住帰国が平成10年11月11日となったのは,原告B38が,新家族と共に帰ることができなかったので悩み続けていたからであり,原告B38が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B38が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B38の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B39

被告は,昭和57年ころに,原告B39の長男から原告B39が在中国日本大使館宛に記した手紙の送付を受けたことから,遅くともそのころには原告B39が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個38①,弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-2))。そして,原告B39が永住帰国したのは昭和62年5月12日のことであるから(甲個38③),被告が原告B39の所在などを把握してから,原告B39が帰国するまでに,およそ四,五年ほどの期間を要したこととなる。

一方,原告B39が昭和62年5月12日に永住帰国した際に中華人民共和国が発行する旅券で帰国しているにもかかわらず原告B39が外国人登録をしていないこと(甲個38⑤,弁論の全趣旨)からすると,原告B39が日本国籍を有することが帰国後極めて短期間のうちに判明したものと推認される。

しかし,被告が原告B39の所在などを把握した昭和57年ころから,原告B39が永住帰国した昭和62年5月12日までの間には,確かに,訪日調査による身元調査が行われていたものの(甲個37①弁論の全趣旨),永住帰国が昭和62年5月12日となったのは,原告B39が,すぐに日本に帰っても言葉もできず,また,夫の健康も心配であったことから,直ちに帰国することに不安を抱いていたからであり(甲個38①),原告B39が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B39が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B39の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B40

被告は,昭和36年6月ころに,原告B40が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個40⑫,弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-2))。そして,原告B40が永住帰国したのは平成2年9月21日のことである(甲個39⑤,弁論の全趣旨)から,被告が原告B40の所在などを把握してから,原告B40が永住帰国するまでに,およそ29年ほどの期間を要したこととなる。もっとも,被告が,原告B40に対し,国籍調査義務を負うのは中華人民共和国が発行する旅券を所持する者に対して身元保証人を要求するようになった昭和48年10月6日以降のことであり,被告が,国籍調査義務を負ってから,原告B40が永住帰国するまでに要した期間は,およそ17年となる。

一方,昭和51年6月22日に原告B40が中華人民共和国が発行する旅券で一時帰国してから,昭和51年9月8日に原告B40が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ二,三か月程度である(弁論の全趣旨,原告準備書面・※)。

この点,確かに,被告が原告B40に対して国籍調査義務を負った昭和48年10月6日ころから,原告B40が永住帰国した平成2年9月21日までの間には,原告B40は身元保証人の依頼に難航しており(甲個39①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),被告が原告B40に対して身元保証を要求したのであれば,原告B40が入管法上外国人として扱われたために永住帰国が遅延したといえる。しかし,この間の昭和51年6月22日には既に原告B40が日本旅券を取得し日本国籍を有することが判明していることから,法令上,原告B40については身元保証人は不要であるにもかかわらず,現に原告B40が被告に対し身元保証書を提出している(乙95)。これについて,原告B40は被告から身元保証書の提出を要求されたと主張し,被告は原告B40及びその姉で原告B40の帰国の世話をした原告B41の誤解であると主張する。

原告B40が被告に対し身元保証書を提出していることからすれば,被告が原告B40に対して身元保証書の書式を交付したことは明らかであるが,後記・※記載のように,原告B40の帰国に向けての世話をした原告B41自身が,同伴する新家族のために交付された身元保証書の書式について自己のためにも必要であると誤解した可能性があることを払拭できないことを考えると,被告が身元保証書をいかなる趣旨で原告B40に対して交付したか明らかでなく,被告が原告B40に対し身元保証書の提出を要求したと認めるに足る的確な証拠はない。そして,このため,原告B40が身元保証の依頼に難航したのが,原告B40本人のための身元保証が得られなかったためなのか,それとも原告B40が同伴しようとしていた新家族のための身元保証が得られなかったためなのかについても本件証拠上明らかでない。後者であれば,原告B40の永住帰国が平成2年9月21日となったのは,原告B40が入管法上外国人として扱われたためではないこととなり,この点は重要である。

以上からすれば,原告B40の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があると認めるに足る証拠はない。

また,原告B40が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B40の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があると認めるに足る証拠はなく,また,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B41

被告は,遅くとも昭和36年6月ころには,原告B41が残留孤児であることやその所在などを把握していた(甲個40⑫,弁論の全趣旨)。そして,原告B41が永住帰国したのは昭和59年12月18日のことである(甲個40③,弁論の全趣旨)から,被告が原告B41の所在などを把握してから,原告B41が永住帰国するまでに,およそ23年6か月ほどの期間を要したこととなる。もっとも,被告が,原告B41に対し,国籍調査義務を負うのは中華人民共和国が発行する旅券を所持する者に対して身元保証人を要求するようになった昭和48年10月6日以降のことであり,被告が,国籍調査義務を負ってから,原告B41が永住帰国するまでに要した期間は,およそ11年2か月となる。

一方,昭和49年8月22日に原告B41が中華人民共和国が発行する旅券で一時帰国してから,昭和55年7月4日に原告B41が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ5年10か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

この点,確かに,被告が原告B41に対して国籍調査義務を負った昭和48年10月6日ころから,原告B41が永住帰国した昭和59年12月18日までの間には,原告B41は身元保証人の依頼に難航しており(甲個40①,弁論の全趣旨,個別原告第2準備書面(追完)),被告が原告B41に対して身元保証を要求したのであれば,原告B41が入管法上外国人として扱われたために永住帰国が遅延したといえる。しかし,この間の昭和55年7月4日には既に原告B41が日本旅券を取得し日本国籍を有することが判明していることから,法令上,原告B41については身元保証人は不要であるにもかかわらず,現に原告B41が被告に対し身元保証書を提出している(乙97)。これについて,原告B41は被告から身元保証書の提出を要求されたと主張し,被告は原告B41の誤解であると主張する。

原告B41が被告に対し身元保証書を提出していることからすれば,被告が原告B41に対して身元保証書の書式を交付したことは明らかであるが,原告B41が被告に提出した身元保証書(乙97)には,身元保証を受ける者として,原告B41の外,同伴する新家族の名が連ねられており,原告B41に交付された身元保証書の書式が,原告B41のためのものであったのか,同伴する新家族のためのものであったのか判然とせず,被告が身元保証書をいかなる趣旨で原告B41に対して交付したか明らかでなく,被告が原告B41に対し身元保証書の提出を要求したと認めるに足る的確な証拠はない。そして,このため,原告B41が身元保証の依頼に難航したのが,原告B41本人のための身元保証が得られなかったためなのか,それとも原告B41が同伴しようとしていた新家族のための身元保証が得られなかったためなのかについても本件証拠上明らかでない。後者であれば,原告B41の永住帰国が昭和59年12月18日となったのは,原告B41が入管法上外国人として扱われたためではないこととなり,この点は重要である。

以上からすれば,原告B41の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があると認めるに足る証拠はない。

また,原告B41が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B41の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があると認めるに足る証拠はなく,また,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B42

被告は,昭和55年5月22日,原告B42について身元調査の依頼を受けたことから,遅くともそのころには原告B42が残留孤児であることやその所在などを把握した(乙個41の1,弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-2))。そして,原告B42が永住帰国したのは平成5年11月10日のことであるから(甲個41③),被告が原告B42の所在などを把握してから,原告B42が帰国するまでに,およそ13年5か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成5年11月10日ころに原告B42が外国人登録をしてから,平成6年9月19日に原告B42が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ10か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B42の所在などを把握した昭和55年5月22日ころから,原告B42が永住帰国した平成5年11月10日までの間には,確かに,昭和60年9月に訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたものの(弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),原告B42が養父母の扶養を行っていたこと(乙個41の3,弁論の全趣旨),訪日調査の際に身元が判明した場合でも永住帰国するかまだ考えていなかったこと(乙個41の3),訪日調査の際にはまだ養父母と永住帰国について話し合っていなかったこと(乙個41の3),永住帰国が訪日調査からおよそ8年が経過していることからすれば,永住帰国が平成5年11月10日となったのは,原告B42が,養父母の扶養のこともあって永住帰国の意思が固まっていなかったからであり,原告B42が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B42が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B42の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B43

原告B43は,昭和58年ころ,被告に対し,肉親探しを依頼する手紙を送付したと主張するが,これを認めるに足る証拠はない。もっとも,被告は,少なくとも昭和60年9月6日,原告B43から身元調査依頼の手紙を受領していることから,遅くともそのころには原告B43が残留孤児であることやその所在などを把握していた(乙個42の2)。そして,原告B43が永住帰国したのは平成5年7月7日のことであるから(甲個42③),被告が原告B43の所在などを把握してから,原告B43が帰国するまでに,およそ7年10か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成5年7月7日ころに原告B43が外国人登録をしてから,平成6年1月4日に原告B43が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ6か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

しかし,被告が原告B43の所在などを把握した昭和60年9月6日ころから,原告B43が永住帰国した平成5年7月7日までの間には,確かに,昭和61年9月に訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたものの(弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),原告B43が養父母の扶養を行っていたこと(乙個42の1,弁論の全趣旨),訪日調査の際に身元が判明した場合でも永住帰国するかまだ考えていなかったこと(乙個42の1),訪日調査の際にはまだ養父母と永住帰国について話し合っていなかったこと(乙個42の1),被告が昭和62年8月に送付した永住帰国希望調査票に回答しなかったこと(乙個42の3),被告が平成元年12月に再度送付した永住帰国希望調査票に対して,原告B43が,平成4年9月17日に至ってようやく,永住帰国について養父母の同意が得られたとの回答をしたこと(乙個42の4の1・2)からすれば,永住帰国が平成5年7月7日となったのは,原告B43が,養父母の扶養のこともあって永住帰国の意思が固まっていなかったからであり,原告B43が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B43が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B43の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B44

被告は,昭和41年ころ,原告B44から通信を受けていることから,遅くともそのころ原告B44が残留孤児であることやその所在などを把握していた(弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-2))。そして,原告B44が永住帰国したのは昭和54年4月22日のことであるから(甲個43④,弁論の全趣旨),被告が原告B44の所在などを把握してから,原告B44が帰国するまでに,およそ13年ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和51年1月20日に原告B44が中華人民共和国が発行した旅券で帰国してから,昭和54年3月23日に原告B44が被告から帰国のための渡航書の発行を得て日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ3年2か月程度である(甲個43③・④,弁論の全趣旨)。

しかし,被告が原告B44の所在などを把握した昭和41年ころから,原告B44が永住帰国した昭和54年4月22日までの間には,確かに,身元調査が行われていたものの(弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),永住帰国が昭和54年4月22日となったのは,原告B44が,昭和51年に一時帰国した際に被告から旅費の支給を得たため(乙個43の4),永住帰国のために,原告B44の外,3人の同伴する新家族の日本までの旅費を貯めなければならなかったからであり(甲個43①),原告B44が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B44は,永住帰国の際に本人の旅費がないために帰国が遅延した旨主張するが,被告は,原告B44が昭和51年に一時帰国した際に現在地から日本までの旅費を支給していることから(乙個43の4),召還義務を尽くしているといえるのであって,原告B44が永住帰国する際には既に被告の原告B44に対する召還義務は消滅していたものである。

よって,原告B44の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるとはいえないし,被告の原告B44に対する召還義務違反もない。

・※  亡A

被告は,平成元年9月22日,亡Aから身元調査依頼の手紙を受領し,遅くともそのころには亡Aが残留孤児であることやその所在などを把握した(弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-2))。そして,亡Aが永住帰国したのは平成4年7月15日のことであるから(甲個44③),被告が亡Aの所在などを把握してから,亡Aが帰国するまでに,およそ2年10か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成4年7月15日ころに亡Aが外国人登録してから,平成5年6月2日に亡Aが日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ11か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が亡Aの所在などを把握した平成元年9月22日から,亡Aが永住帰国した平成4年7月15日までの間には,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたのであって(甲個44①,弁論の全趣旨),これは亡Aが入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,亡Aが,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。

よって,亡Aの帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  原告B45

被告は,昭和59年11月1日,原告B45から身元調査依頼の手紙を受領し,遅くともそのころには原告B45が残留孤児であることやその所在などを把握した(乙個45の1・2)。そして,原告B45が永住帰国したのは昭和63年3月11日のことであるから(甲個45③),被告が原告B45の所在を把握してから,原告B45が帰国するまでに,およそ3年5か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和63年3月11日ころに原告B45が外国人登録してから,平成元年4月19日に原告B45が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年1か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B45の所在を把握した昭和59年10月21日から,原告B45が永住帰国した昭和63年3月11日までの間には,訪日調査による身元調査,身元引受の依頼が行われていたのであって(甲個45①,弁論の全趣旨),これは原告B45が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B45が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B45の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  第2事件原告B46

被告は,少なくとも昭和53年11月17日ころ,高知県から原告B46の所在が判明したとの通報を受けていることから(甲個46⑯の・※・・※・・※),遅くともそのころには原告B46が残留孤児であることやその所在などを把握した。そして,原告B46が永住帰国したのは昭和54年9月11日のことであるから(甲個46④),被告が原告B46の所在などを把握してから,原告B46が帰国するまでに,およそ10か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,昭和54年9月11日ころに原告B46が外国人登録してから,昭和58年6月23日に原告B46が日本国籍を有することが判明するまでにおよそ3年9か月もの期間を要している(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

このように,仮に,被告が原告B46の所在などを把握した後速やかに日本国籍を有するか否か確認していたとしても,原告B46の永住帰国が昭和54年9月11日よりも早まっていたものとはいえない。

また,原告B46が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B46の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  第3事件原告ら

① 原告B47

被告は,昭和37年8月23日ころ,高知県から原告B47の所在が判明したとの通報を受けていることから(甲個47⑫の・※・・※・・※),遅くともそのころには原告B47が残留婦人であることやその所在などを把握した。そして,原告B47が永住帰国したのは昭和58年11月11日のことであるから(甲個47③),被告が原告B47の所在などを把握してから,原告B47が帰国するまでに,およそ21年3か月ほどの期間を要したこととなる。

しかし,原告B47が,昭和40年ころに中華人民共和国政府が日本に帰国したい者を帰還させようとした際に子供を連れて行くことはできないとされたため断念したこと(甲個47①),昭和49年に一時帰国した後に昭和54年に至るまで帰国を考えていなかったこと(甲個47①),昭和54年に帰国を考えた際も永住帰国ではなく一時帰国であったこと(甲個47①),昭和54年に一時帰国しようとした際に被告から一時帰国では旅費が支給されないが永住帰国であれば旅費が支給されるとの説明がされても永住帰国しなかったこと(弁論の全趣旨,被告第8準備書面(8-2)),それから約4年がすぎた昭和58年になって永住帰国することにしたことからすれば,原告B47の永住帰国が昭和58年11月11日となったのは,原告B47に永住帰国するころまで,その意思に乏しかったためであり,原告B47が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B47は,昭和54年に帰国しようとした際旅費の支給を受けることができなかったため帰国を断念した旨の主張をするが,被告は,原告B47が昭和49年に一時帰国した際に現在地から日本までの旅費を支給していることから(甲個47⑦),召還義務を尽くしているといえるのであって,原告B47が昭和54年に一時帰国をしようとした際には既に被告の原告B47に対する召還義務は消滅していたものである。

よって,原告B47の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるとはいえないし,被告の原告B47に対する召還義務違反もない。

② 原告B48

原告B48は,被告がいつ原告B48が残留婦人であることやその所在などを把握したかについて,的確な主張立証をしない。

もっとも,被告は,少なくとも昭和61年4月ころ,原告B48が一時帰国していることから(甲個48⑥,弁論の全趣旨),遅くともそのころには原告B48の所在などを把握していた。そして,原告B48が永住帰国したのは平成4年3月27日のことであるから(甲個48③),被告が原告B48の所在などを把握してから,原告B48が帰国するまでに,およそ5年11か月ほどの期間を要したこととなる。

一方,平成4年3月27日ころに原告B48が外国人登録してから,平成6年1月4日に原告B48が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年9か月程度である(弁論の全趣旨,被告第5準備書面)。

そして,被告が原告B48の所在などを把握した昭和61年4月ころから,原告B48が永住帰国した平成4年3月27日までの間には,残留孤児について特別身元引受人制度が創設された平成元年7月又は残留婦人について特別身元引受人制度が創設された平成3年ころまでは身元保証の依頼が,それ以降は身元引受の依頼が行われていたのであって(甲個48①,弁論の全趣旨),これは原告B48が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。

他方,原告B48が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B48の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

③ 原告B49

被告は,昭和38年10月に,原告B49に対して連絡を取ろうとしていることから,遅くともそのころには原告B49が残留婦人であることやその所在などを把握していた。そして,原告B49が永住帰国したのは昭和49年7月31日のことであるから(甲個49③),被告が原告B49の所在などを把握してから,原告B49が帰国するまでに,およそ10年10か月ほどの期間を要したこととなる。

もっとも,原告B49が,昭和31年8月に留守家族に対して長い年月悩み,帰国する心は山々であるが今は帰国できないとの手紙を送っていること(乙個49の2の1),昭和33年5月に留守家族に対して子供が小さいので帰りたい心は山々であるが帰国できないとの手紙を送っていること(乙個49の2の2・3・4),その後に留守家族及び被告が原告B49に対して帰国する意思があるか確認するため通信を行うがこれに回答しなかったこと(乙個49の2の2・3・4)からすれば,原告B49の永住帰国が昭和49年7月31日となったのは,原告B49が,永住帰国するころまで,その意思に乏しかったためであり,原告B49が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B49が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B49の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

④ 原告B50

被告は,昭和48年3月4日ころ,原告B50から手紙を受けた留守家族からその旨の通信を受けたことから(乙個50の1),遅くともそのころには原告B50が残留婦人であることやその所在などを把握していた。そして,原告B50が永住帰国したのは昭和54年4月24日のことであるから(甲個50③),被告が原告B50の所在などを把握してから,原告B50が帰国するまでに,およそ6年1か月ほどの期間を要したこととなる。もっとも,原告B50が,昭和48年に留守家族宛に一時帰国とするか永住帰国とするか迷っているとの手紙を送っていること(乙個50の1),昭和49年12月11日に一時帰国をしていること(甲個50⑤,弁論の全趣旨),昭和53年ころからようやく永住帰国の手続を行っていること(甲個50⑥・⑦・⑧・⑨・⑩)からすれば,原告B50の永住帰国が昭和54年4月24日となったのは,原告B50が,永住帰国するころまで,その意思に乏しかったためであり,原告B50が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B50は,永住帰国の際に旅費の支給を受けられなかったために永住帰国が遅延した旨の主張をするが,被告は,原告B50が昭和49年12月11日に一時帰国した際に旅費を支給していることから(甲個50⑪),召還義務を尽くしているといえるのであって,原告B50が昭和54年4月24日に永住帰国をしようとした際には既に被告の原告B50に対する召還義務は消滅していたものである。

よって,原告B50の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるとはいえないし,被告の原告B50に対する召還義務違反もない。

⑤ 原告B51

原告B51は,終戦間もなく,被告が原告B51が残留婦人であることやその所在などを把握していた旨主張するが,これを認めるに足る的確な証拠はない。

仮に,被告が,原告B51が留守家族に手紙を送付し,これが高知県に伝わった昭和38年2月1日ころに,原告B51の所在などを把握していたとすれば,B51が永住帰国したのが昭和61年5月16日のことであるから(甲個51③),被告が原告B51の所在などを把握してから,原告B51が帰国するまでに,およそ23年ほどの期間を要したこととなる。もっとも,被告が,原告B51に対し,国籍調査義務を負うのは中華人民共和国が発行する旅券を所持する者に対して身元保証人を要求するようになった昭和48年10月6日以降のことであり,被告が,国籍調査義務を負ってから,原告B51が永住帰国するまでに要した期間は,およそ12年7か月となる。

この点,確かに,被告が原告B51に対して国籍調査義務を負った昭和48年10月6日ころから,原告B51が永住帰国した昭和61年5月16日までの間には,原告B51は身元保証又は身元引受の依頼に難航しており(甲個51①,弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面),被告が原告B51に対して身元保証又は身元引受を要求したのであれば,原告B51が入管法上外国人として扱われたために永住帰国が遅延したといえる。しかし,原告B51は,昭和48年7月19日には被告から国籍証明書の発行を受け,昭和49年5月16日には日本旅券の発行を受けているのであって,原告B51が日本国籍を有することが判明していることから,法令上,原告B51については身元保証人又は身元引受人は不要であるにもかかわらず,現に原告B51が被告に対し身元保証書を提出している(乙109)。これについて,原告B51は被告から身元保証書の提出を要求されたと主張し,被告は原告B51の誤解であり自発的に提出したものと主張する。

原告B51が被告に対し身元保証書を提出していることからすれば,被告が原告B51に対して身元保証書の書式を交付したことは明らかであるが,原告B51が永住帰国した翌年に三女が,その二,三年後に夫,長男及び二女が,その後に二男と長女が立て続けに帰国又は日本に入国していること(甲個51①)からすると,原告B51は新家族とともに日本で暮らすことを予定して先行して永住帰国したものと考えられ,そうだとすると,原告B51に交付された身元保証書の書式が,原告B51のためのものであったのか,後から日本への入国を予定していた新家族のためのものであったのか判然とせず,被告が身元保証書をいかなる趣旨で原告B51に対して交付したか明らかでなく,被告が原告B51に対し身元保証書の提出を要求したと認めるに足る的確な証拠はない。そして,このため,原告B51が身元保証又は身元引受の依頼に難航したのが,原告B51本人のための身元保証が得られなかったためなのか,それとも原告B51が後に日本へ入国させようとしていた新家族のための身元保証又は身元引受が得られなかったためなのかについても本件証拠上明らかでない。後者であれば,原告B51の帰国が昭和61年5月16日となったのは,原告B51が入管法上外国人として扱われたためではないこととなり,この点は重要である。

また,原告B51が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B51の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があると認めるに足る証拠はなく,また,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑥ 原告B52

被告は,昭和32年ころに,原告B52が一時帰国していることから,遅くともそのころには原告B52が残留婦人であることやその所在などを把握していた。そして,原告B52が永住帰国(当初は一時帰国の予定であった。)したのは平成元年1月13日のことであるから(甲個52③),被告が原告B52の所在などを把握してから,原告B52が帰国するまでに,およそ32年ほどの期間を要したこととなる。もっとも,被告が,原告B52に対し,国籍調査義務を負うのは中華人民共和国が発行する旅券を所持する者に対して身元保証人を要求するようになった昭和48年10月6日以降のことであり,被告が,国籍調査義務を負ってから,原告B52が永住帰国するまでに要した期間は,およそ15年3か月となる。

一方,平成元年1月13日ころに原告B52が外国人登録してから,平成元年4月27日に原告B52が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ3か月程度である(弁論の全趣旨,被告第6準備書面)。

そして,被告が原告B52に対して国籍調査義務を負った昭和48年10月6日から,原告B52が永住帰国した平成元年1月13日までの間には,身元保証の依頼が行われていたのであって(甲個36①,弁論の全趣旨),その他原告B52の帰国を遅延させた特段の事情も認められないから,原告B52の帰国が遅延したのは,原告B52が入管法上外国人として扱われたためにほかならない。これに対して,被告は,被告が保有する資料中に原告B52が提出した身元保証書がないし,また,原告B52が昭和32年及び昭和51年にそれぞれ一時帰国し,平成元年1月13日に帰国した際も当初は一時帰国の予定であったが後に永住することに変更していることから,原告B52の帰国が遅延したのは原告B52に永住帰国の意思がなかったからである旨の主張をするが,原告B52が被告に対して身元保証書を提出していることは明らかであるし(甲個52⑨),残留婦人については,特別身元引受人制度が創設された平成3年ころまで,中華人民共和国が発行する旅券で帰国する場合には身元保証書が要求されていたのであるから,身元保証が得られなかった昭和32年,昭和51年及び平成元年1月13日に一時帰国又は一時帰国の予定で帰国しているからといって永住帰国する意思がなかったとはいえない。

他方,原告B52が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B52の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があるといえる一方,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑦ 原告B53

原告B53は,昭和24年ころから,山東省に移住し,新家族らと農業に従事していたところ,当時,中国籍ではなかったため,毎年,公安局に出頭して届け出なければならなかったので,年月日不詳であるが,中国籍を取得した。そして,原告B53は,昭和50年9月23日に中華人民共和国が発行した旅券で永住帰国(当初は一時帰国の予定であった。)した後,昭和56年2月29日,帰化した(弁論の全趣旨,個別原告第6準備書面)。

このように,原告B53は,中国籍を取得していたのであるから,被告が,原告B53の帰国の前に原告B53が日本国籍を有するか否か調査していたとしても,日本国籍を有しないことが判明しただけであり,永住帰国が昭和50年9月23日より早まっていたものとはいえない。

また,原告B53が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B53の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑧ 原告B54

被告は,昭和48年ころ,原告B54が残留婦人であることやその所在などを把握した。そして,被告は,昭和48年12月20日,原告B54に対して,原告B54が日本国籍を有することを前提とする,帰国のための渡航書を発行した(甲個54⑥)。その後,昭和50年1月29日,原告B54は,夫及び長女と共に永住帰国した。

このように,被告は,原告B54が帰国する前に日本国籍を有するか否かの確認を行っており,国籍調査義務を尽くしたものといえる。被告が原告B54に対して帰国のための渡航書を発行してから,およそ1年が経過した昭和50年1月29日に永住帰国となったのは,原告B54と夫との間で永住帰国についてもめ,また,同伴する新家族の手続が複雑困難で中華人民共和国の出国許可及び被告の入国許可が出るまでに時間を要したためであり(甲個54①),原告B54が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B54が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B54の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

⑨ 原告B55

被告は,昭和33年ころ,原告B55から通信があったことから(乙個55の3),遅くともそのころには原告B55が残留婦人であることやその所在などを把握していた。そして,原告B55が永住帰国したのは昭和57年6月18日のことであるから(甲個55④),被告が原告B55の所在などを把握してから,原告B55が帰国するまでに,およそ24年ほどの期間を要したこととなる。もっとも,被告が,原告B55に対し,国籍調査義務を負うのは中華人民共和国が発行する旅券を所持する者に対して身元保証人を要求するようになった昭和48年10月6日以降のことであり,被告が,国籍調査義務を負ってから,原告B55が永住帰国するまでに要した期間は,およそ8年8か月となる。

一方,昭和57年6月18日ころに原告B55が外国人登録してから,昭和58年12月21日に原告B55が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ1年6か月程度である(弁論の全趣旨,被告第6準備書面)。

しかし,原告B55の永住帰国が昭和57年6月18日となったのは,中華人民共和国が昭和54年に至るまで中国籍を取得していた原告B55に対し出国許可を出さなかったこと,原告B55が昭和54年に永住帰国ではなく一時帰国を選択したことによるものであり,原告B55が入管法上外国人として扱われたためではない。

また,原告B55が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情も認められない。よって,原告B55の帰国が遅延したことと被告の国籍調査義務違反及び召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  第4事件原告B56

原告B56は,昭和58年10月4日ころに外国人登録をしてから,昭和62年5月25日に原告B56が日本国籍を有することが判明するまでに要した期間はおよそ3年8か月程度である(弁論の全趣旨,被告第7準備書面)。

一方,原告B56は,原告B37が肉親らとやりとりした手紙に原告B56が残留孤児であったことが記されていることから,そのころには,被告は,原告B56の所在を把握したと主張するが,同手紙の作成年月日が不明であるばかりか(甲個56⑨),肉親に宛てられた手紙の内容を被告が知ったとまでは認めることはできない。そして,原告B56は,他に,被告が原告B56が残留孤児であることやその所在を把握した事情につき的確な主張立証をしない。

また,原告B56が,本人の旅費がないために帰国が遅延したという事情は認められない。よって,原告B56の帰国が遅延したことと,被告の国籍調査義務違反との間に相当因果関係があると認めるに足る証拠はなく,また,被告の召還義務違反との間に相当因果関係があるとはいえない。

・※  結論

以上のように,被告は,原告らが主張する早期帰国実現義務のうち,条理上,召還義務,国籍調査義務,所在調査義務を負っていたところ,所在調査義務についてはその義務を尽くしたといえる一方,召還義務及び国籍調査義務についてその義務を尽くしていたとはいえない。そして,第1事件原告B5,第1事件原告B6,第1事件原告B10,第1事件原告B12,第1事件原告B17,第1事件原告B18,第1事件原告B20,第1事件原告B25,第1事件原告B26,第1事件原告B32,第1事件原告B33,第1事件原告B34,第1事件原告B37,亡A,第1事件原告B45,第3事件原告B48及び第3事件原告B52は,被告の国籍調査義務違反により帰国が遅延したものと認められる一方,その余の第1事件原告ら,第2事件原告B46,その余の第3事件原告ら及び第4事件原告B56は,被告の国籍調査義務違反により帰国が遅延したものとは認められず,また,すべての原告らが被告の召還義務違反により帰国が遅延したものとは認められない。

2  争点・※(被告が原告らを外国人として取り扱い,入管法及び外国人登録法を適用したこと(なお,原告らのうち一部の者については,入管法のみの適用を問題とする。)についての違法の有無)について

・※  原告らは,被告が,残留孤児及び残留婦人に対して,帰国する際には,身元保証を要求するなど入管法上外国人としての取扱いを行い,また,帰国後には,外国人登録法により外国人登録させたことは違法であると主張する。

これに対して,被告は,次のように主張する。すなわち,日本人の帰国に関しては,有効な旅券又は日本国籍を有することを証する文書を所持し,法務省令で定める手続により,入国審査官から帰国の確認を受けなければならないとする入管法61条,同条が規定する帰国の確認は,日本旅券に所定の証印をし,又は所定の帰国証明書を交付して行うとする入管法施行規則54条があるのみで,細部については実務の運用にゆだねられている。そして,実務の運用では,日本人の帰国手続は,入国審査官が帰国する者本人に直接面接してその者が日本国籍を有することを確認することとされ,その者が日本国籍を有することの確認は,通常であれば,日本旅券等日本国籍を有することを証する文書により行われるが,これらの文書を所持しない場合であっても,日本国籍を有することを確実な資料に基づいて確認できれば,日本人の帰国の手続を行っている。それでもなおその者が日本国籍を有することを確認できない場合に,外国人の上陸の手続を行っているのであって,中国旅券を所持して帰国した残留孤児又は残留婦人を,帰国の際及び帰国後日本国籍を有することが確認されるまでの間に外国人として取り扱ったことは違法であるとはいえない。

・※  この点,入管法2条2号が,日本国籍を有しない者を外国人としていることからすれば,入管法上にいう日本人とは日本国籍を有する者と解される。

そうすると,日本国籍を有するか否か不明である者が,入管法上,外国人又は日本人のいずれとして取り扱われるべきかが問題となるところ,外国人が入国の自由を有さず,外国人の入国の拒否が被告の自由裁量にゆだねられていることからすれば(最高裁大法廷昭和32年6月19日判決・刑集11巻6号1663頁),日本国籍を有するか否か不明な者を外国人として取り扱う被告の運用が不合理であるとはいえない。日本国籍を有するか否か不明である者を,日本国籍を有しないことが確認されるまで日本人として扱わなければならないとすると,事実上,外国人が日本人と同様に我が国に自由に入国できることとなり,外国人の入国の拒否が被告の自由裁量にゆだねられていることを没却してしまうからである。

したがって,被告が,後に日本国籍を有することが判明する残留孤児及び残留婦人(弁論の全趣旨)に対して,帰国する際には,身元保証を要求するなど入管法上外国人としての取扱いを行い,また,帰国後には,外国人登録法により外国人登録させたことをもって,直ちに違法であるとはいえない。

・※  しかしながら,他方で,被告に,国籍調査義務を尽くさなかった違法があることは,前記1・※記載のとおりである。そして,被告が国籍調査義務を尽くしておれば残留孤児又は残留婦人が帰国する際において既に日本国籍を有することが判明していたといえる場合,すなわち,被告が原告らの所在を把握してから実際に帰国するまでの期間が,原告らが実際に帰国してから日本国籍を有することが判明するまでの期間を超えている場合においては,残留孤児又は残留婦人は,被告が国籍調査義務を怠ったがために,入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたといえるのであるから,被告が,国籍調査義務を負う残留孤児及び残留婦人に対して,入管法及び外国人登録法を形式的に適用したことは違法であるといわざるを得ない。

・※  原告ら各自についての,被告が所在を把握してから実際に帰国するまでの期間及び実際に帰国してから日本国籍を有することが判明するまでの期間については,前記1・※イ記載のとおりである。なお,原告らの中には,永住帰国時の際を問題とせず,それに先立つ一時帰国時の際を問題とする者もいるが,当該一時帰国が永住帰国に先立つ以上,被告が所在を把握してから実際に帰国するまでの期間が短くなるだけであるので,前記1・※イ記載の被告が所在を把握してから実際に帰国するまでの期間で考慮すれば十分であるから,ここで改めて当該一時帰国を取り上げて検討することはしないものである。

よって,第1事件原告B2,第1事件原告B3,第1事件原告B5,第1事件原告B6,第1事件原告B7,第1事件原告B10,第1事件原告B11,第1事件原告B12,第1事件原告B13,第1事件原告B14,第1事件原告B15,第1事件原告B16,第1事件原告B17,第1事件原告B18,第1事件原告B19,第1事件原告B20,第1事件原告B21,第1事件原告B22,第1事件原告B24,第1事件原告B25,第1事件原告B26,第1事件原告B27,第1事件原告B28,第1事件原告B29,第1事件原告B32,第1事件原告B33,第1事件原告B34,第1事件原告B36,第1事件原告B37,第1事件原告B38,第1事件原告B39,第1事件原告B40,第1事件原告B41,第1事件原告B42,第1事件原告B43,第1事件原告B44,亡A,第1事件原告B45,第3事件原告B48,第3事件原告B52及び第3事件原告B55に対して,その帰国する際又は帰国後に,被告が,入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱ったことは違法である。そして,これらの原告らは,かかる違法により,日本国籍を有していながら外国人として取り扱われ,精神的苦痛を被ったといえる。

他方,被告は,その余の第1事件原告ら,第2事件原告B46,その余の第3事件原告ら及び第4事件原告B56に対して,その帰国時に,違法に,入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱ったとはいえない。

3  争点・※(自立支援義務違反の有無)について

・※  憲法上,被告が原告らに対し自立支援義務を負っているかについて

原告らが主張する自立支援義務は,原告らが有するとする「普通の日本人として生きる権利」に対応するものとして,被告に対し,原告らが帰国後に自立した生活を送ることができるように措置を講ずることを求めるものであり,被告の行為を要求するものであるから,前記1・※記載と同様,当該「普通の日本人として生きる権利」の内実や権利性などその余の点について判断するまでもなく,このような被告の行為を要求することを内容とする「普通の日本人として生きる権利」が自由権として憲法上保障され,又はかかる「普通の日本人として生きる権利」に対応するとする自立支援義務が憲法上被告に対して課されているものとはいえない。

また,原告らが主張する自立支援義務は,被告の行為を要求する点において,前記1・※記載と同様,社会権と相容れない内容ではないが,社会権は直接個々の国民に具体的権利を付与するものではなく,具体的立法を離れて憲法上の権利義務関係の存否を判断することはできない。この点について,原告らは,具体的立法として,自立支援法を主張するが,後記のとおり,この法律によって原告らの主張する「普通の日本人として生きる権利」が規定され,又は被告に自立支援義務が課されているものとはいえない。

よって,憲法上,原告らが主張する「普通の日本人として生きる権利」が保障されているものとはいえず,また,被告が原告らに対して自立支援義務を負っているものとはいえない。

・※  国際法及び条約上,被告が原告らに対し自立支援義務を負っているかについて

国際法及び条約は,前記1・※記載のとおり,国家間の法律関係を規律するもので,国際法及び条約が個人の権利の保護に関して規定していたとしても,国家が他の国家に対し当該権利を個人に認めることを約するものに過ぎず,個人がその個人の名において当該権利を主張できることが特に規定されない限り,個人が国家に対し直接の請求の法主体とはならないところ,原告らが主張する国際法及び条約は,個人がその個人の名において当該権利を主張できることを容認する規定を置いていない。

よって,「普通の日本人として生きる権利」の内実や権利性などその余の点について判断するまでもなく,国際法及び条約上,原告らが主張する「普通の日本人として生きる権利」が保障されているものとはいえず,また,被告が原告らに対して自立支援義務を負っているものとはいえない。

・※  自立支援法上,被告が原告らに対し自立支援義務を負っているかについて

自立支援法は,その4条1項において,「国及び地方公共団体は,永住帰国した中国残留邦人等の地域社会における早期の自立の促進及び生活の安定を図るため,必要な施策を講ずるものとする。」と定め,これを受けて,生活相談等(同法8条),雇用の機会の確保(同法10条),教育の機会の確保(同法11条)及び国民年金の特例(同法13条)等について規定していながら,原告らが自立支援義務により講ずべき措置であると主張するような具体的な施策等を同法が規定していないことからすると,これらの条項が,被告に対して,原告らが主張する自立支援義務を課していると解することはできない。

よって,自立支援法上,被告が,原告らに対して自立支援義務を負っているものとはいえない。

・※  条理上,被告が原告らに対し自立支援義務を負っているかについて

ア  原告らは,「普通の日本人として人間らしく生きる権利」,すなわち,自律した人格を持つ日本人として成長・発達するとともに,自律した人格者として処遇される権利を有する旨の主張をするが,そもそも「普通の日本人」という概念自体が抽象的かつ不明確であるといわざるを得ない以上,原告らのいう「普通の日本人として人間らしく生きる権利」が,一般的な理念,理想としての文脈で語られる場合であったり,政治的責任を追及するという意味合いで用いられるのであればともかく,損害賠償責任という法的責任の存否を論議するに際しては,それがいかなる根拠に基づいて発生する,いかなる権利であり,いかなる内実を持ったもので,いかなる行為により侵害され得るものなのか,甚だ曖昧かつ漠然とした概念であるといわざるを得ず,それ自体を法的権利と把握するのは著しく困難である。

イ  この点をさておいて,仮に,原告らのいう「普通の日本人として人間らしく生きる権利」の内実をより分析して捉え,何らかの法的保護に値する利益があると構成したとしても,原告らが求めているものは,その主張によると,被告の早期帰国実現義務違反により永住帰国が遅延し,これがために,遅くとも永住帰国時には既に,日本語及び日本の風俗や習慣等を習得できず,又はこれらを忘却した状態に置かれたのであるから,被告は,このような状態に置かれた原告らに対し,日本語教育や就労支援を行うなどの自立支援を行うべきであったというのであり,その内容自体から素直に判断すれば,これは争点・※で判断した召還義務違反,国籍調査義務違反によって惹起された損害の回復を求める方途を列挙しているものと解される。

しかしながら,法が,原状回復するための救済手段として,不法行為に基づく損害賠償を認めるに際しては,金銭賠償によることを原則とする旨定め(国家賠償法4条,民法722条1項,417条),かつ,その例外となる場合をもあえて明示していることからすれば(民法723条),何らかの違法行為によって引き起こされた損害の回復は金銭賠償によって図られるべきであって,原状回復の遅滞自体が当然に新たな作為義務違反による別途の不法行為を構成するというものではない。

そして,原状回復義務としての損害賠償の成否については,争点・※において,既に判断したところである。

ウ  もっとも,原告らの主張する「普通の日本人として人間らしく生きる権利」が曖昧かつ漠然とした概念であるため,原告らが求める各施策を行うべき義務が,単なる原状回復義務に限られず,結果回避義務,すなわち,永住帰国時に既に侵害された何らかの法的利益の回復を求めるのではなく,それとは別に,その後現時点で何らかの法的利益が侵害される危険にさらされていて,これを回避すべく,何らかの先行行為に基づいて条理上生じる法的義務としての作為義務を主張する趣旨である可能性も否定できない。しかし,仮にそうであるとしても,原告らのいう自立支援義務の内容は,適切な予算措置を講じて,十分な日本語教育,就業,生活指導,居住確保,家族の帰国・生活支援その他の措置等,総合的な政策を立案し,原告らの自立支援政策を立案実行すべきというものであるところ,原告ら自身においても,支援の内容が非常に広範で多岐にわたるため,「総合的な政策」という文言を用いざるを得なかったことからも明らかなように,その主張する自立支援義務の内容が不明確で一義性を欠くとの指摘を免れないから,原告らがいう自立支援義務が法的義務としての作為義務であると認めることはできない。

エ  以上からすれば,その余の点について判断するまでもなく,条理上,被告が,原告らに対して自立支援義務を負うものと解することはできない。

・※  結論

よって,被告が原告らに対し自立支援義務を負っているものとはいえない。

4  争点・※(原告らの請求権が消滅時効により消滅したか)について

・※  国籍調査義務違反により永住帰国が遅延したことを理由とする国家賠償請求権について

ア  消滅時効の起算点について

・※  損害の認識について

前記1記載のとおり,第1事件原告B5,第1事件原告B6,第1事件原告B10,第1事件原告B12,第1事件原告B17,第1事件原告B18,第1事件原告B20,第1事件原告B25,第1事件原告B26,第1事件原告B32,第1事件原告B33,第1事件原告B34,第1事件原告B37,亡A,第1事件原告B45,第3事件原告B48及び第3事件原告B52については,被告の国籍調査義務違反により,永住帰国が遅延したと認められる。

この点,前記原告17名は,永住帰国が遅延したことにより,日本語及び日本の風俗や習慣等を習得する時機を逸し,又はこれらを忘却するなど,「日本人として人間らしく生きる権利」を侵害されたばかりではなく,日本語及び日本の風俗や習慣等を習得できず,又はこれらを忘却したがため,永住帰国後の今もなお,社会から疎外されるなど,「日本人として人間らしく生きる権利」が侵害され続けており,損害が継続的に発生している旨主張する。

しかしながら,仮に,前記原告17名が主張する「日本人として人間らしく生きる権利」を前記原告17名が有するものとしても,被告の国籍調査義務違反により永住帰国が遅延したため,日本語及び日本の風俗や習慣等を習得する時機を逸し,又はこれらを忘却したことにより,遅くとも永住帰国時には既に,前記原告17名は,日本語及び日本の風俗や習慣等を習得できず,又はこれらを忘却したという,前記原告17名が主張する「日本人として人間らしく生きる権利」が侵害された状態に置かれたのであって,これらが原因となって今もなお社会から疎外されているとする点については,前記原告17名が永住帰国時までに置かれた,日本語及び日本の風俗や習慣等を習得できず,又はこれらを忘却したという侵害結果が原状に回復されることなく,その侵害された状態が継続しているにすぎないのであるから,永住帰国した時点で発生していた損害とは別にそれ以後改めて「日本人として人間らしく生きる権利」が侵害され,新たな損害が継続的に発生し続けているものではない。

そして,前記原告17名は,帰国時には,なぜに自分たちが中国大陸に残らざるを得なかったのか,なぜ自分たちは長期間にわたり帰国できなかったのかなど想像できなかったのであり,帰国後も,なぜ自分たちが苦労をせざるを得ないのかという疑問を持ち得ても,これをどうすべきか,どうすれば困難な状況を改めうるのかを想像することさえできなかった旨主張するも,永住帰国した時点で自らが日本語及び日本の風俗や習慣等を習得できず,又はこれらを忘却した状態に置かれたということ自体は知っていたといわざるを得ないから,損害の認識に欠けるところはない。

よって,前記原告17名は,遅くとも,それぞれ永住帰国したときまでには,被告の国籍調査義務違反により生じた損害を知っていたものといえる。

・※  加害者の認識について

前記原告17名は,前記1・※でそれぞれ認定したように,永住帰国時までに,被告から要求された,訪日調査への参加,身元保証人又は身元引受人の依頼などを行っていることから,遅くとも,それぞれ永住帰国したときまでには,入管法上外国人として扱ったのが被告であると知っていたものと認められ,これを覆すに足る証拠はなく,加害者が被告であることを知っていたといえる。

・※  以上より,被告の国籍調査義務違反により永住帰国が遅延したことを理由とする国家賠償請求権の消滅時効の起算日(国家賠償法4条,民法724条前段)は,遅くとも,前記原告17名がそれぞれ永住帰国した日となる。

そして,前記原告17名の永住帰国日は,第1事件原告B5については平成元年4月7日,第1事件原告B6については平成2年11月7日,第1事件原告B10については昭和58年11月25日,第1事件原告B12については昭和63年3月22日,第1事件原告B17については平成2年8月7日,第1事件原告B18については平成2年9月11日,第1事件原告B20については平成2年3月7日,第1事件原告B25については平成2年4月24日,第1事件原告B26については昭和63年4月12日,第1事件原告B32については昭和57年12月24日,第1事件原告B33については昭和63年12月6日,第1事件原告B34については昭和52年1月25日,第1事件原告B37については昭和58年10月4日,亡Aについては平成4年7月15日,第1事件原告B45については昭和63年3月11日,第3事件原告B48については平成4年3月27日,第3事件原告B52については平成元年1月13日である(前記1・※)。

よって,前記原告17名いずれについても,永住帰国日から3年が経過しており,被告の国籍調査義務違反により永住帰国が遅延したことを理由とする国家賠償請求権につき,消滅時効が完成している。

イ  消滅時効の援用について

・※  被告による消滅時効の援用

被告は,平成18年11月17日の第16回口頭弁論期日において,前記原告17名に対し,被告の国籍調査義務違反により永住帰国が遅延したことを理由とする国家賠償請求権について,消滅時効を援用した(当裁判所に顕著な事実)。

・※  ところで,前記原告17名は,被告が自立支援を怠り,前記原告17名の訴訟提起を困難にしたことからすれば,被告が消滅時効を援用することは,信義則に反し,又は権利の濫用であって許されるものではない旨主張する。

しかしながら,たとえ,前記原告17名が,日本語及び日本の風俗や習慣等を習得する時機を逸し,又はこれらを忘却していたといえども,意思能力や事理弁識能力を欠いていた訳ではないから,時効停止事由に該当するということはできない。また,確かに,前記原告17名が,日本語及び日本の風俗や習慣等に通じず,しかも,これがために経済的に困窮する状態に陥っていたことや,ようやく永住帰国が実現した段階で比較的短い間に祖国を訴えるという行為に出ることに対して心理的に抵抗を抱くか,そもそも思いも寄らなかった状況にあったということも理解できなくはなく,時効完成前の訴訟提起が現実には相当困難であったことは否定できないが,前記原告17名が,日本語の能力や日本の風俗や習慣等を有していなかったとしても,成人としての能力を欠いていたわけではなく,また,自らがおかれた客観的な事実関係自体に錯誤があるともいえない。そして,日本語に通じない点については法廷通訳の制度(旧民事訴訟法134条)が,訴訟費用の点については訴訟上の救助の制度(旧民事訴訟法118条)が存在していて,訴訟制度内での手当も一定程度はある上,永住帰国後の段階で被告が殊更前記原告17名の提訴を妨害する行動に出たり,消極的に前記原告17名の心理状態を利用して提訴を困難にさせたと評価できる事情もないから,なお,提訴が事実上不可能であったとまではいえない。してみると,法が不法行為による損害賠償請求権について消滅時効制度を設けていることからすれば(国家賠償法4条,民法724条前段),法は,当然に,不法行為者が消滅時効を援用することを予定しているものと解され,特段の事情がない限り,たやすく不法行為者が消滅時効を援用することについて信義則に反し,又は権利の濫用に当たるとすることはできないところ,そのような特段の事情は認められないといわざるを得ない。

・※  よって,前記・※の被告の消滅時効の援用が信義則に反し,又は権利の濫用に当たって許されないものとはいえない。

ウ  したがって,前記原告17名の,被告の国籍調査義務違反により永住帰国が遅延したことを理由とする国家賠償請求権は,被告が平成18年11月17日の第16回口頭弁論期日においてした消滅時効の援用により,消滅した(国家賠償法4条,民法724条前段)。

・※  国籍調査義務違反により入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたことを理由とする国家賠償請求権について

ア  消滅時効の起算点について

・※  損害の認識について

前記2記載のとおり,第1事件原告B2,第1事件原告B3,第1事件原告B5,第1事件原告B6,第1事件原告B7,第1事件原告B10,第1事件原告B11,第1事件原告B12,第1事件原告B13,第1事件原告B14,第1事件原告B15,第1事件原告B16,第1事件原告B17,第1事件原告B18,第1事件原告B19,第1事件原告B20,第1事件原告B21,第1事件原告B22,第1事件原告B24,第1事件原告B25,第1事件原告B26,第1事件原告B27,第1事件原告B28,第1事件原告B29,第1事件原告B32,第1事件原告B33,第1事件原告B34,第1事件原告B36,第1事件原告B37,第1事件原告B38,第1事件原告B39,第1事件原告B40,第1事件原告B41,第1事件原告B42,第1事件原告B43,第1事件原告B44,亡A,第1事件原告B45,第3事件原告B48,第3事件原告B52及び第3事件原告B55については,被告の国籍調査義務違反により入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたことが認められる。

そして,前記原告41名のうち,身元保証人や身元引受人を求められるなど身元の判明を要求され,入管法上外国人として取り扱われた者については,遅くとも永住帰国時までに,また,これに加えて外国人登録を要求され外国人登録法上外国人として取り扱われた者については外国人登録の無効措置がとられるなど外国人登録から外れたときに,被告の国籍調査義務違反により入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたことを知っていたものといえ,これを覆すに足る証拠はない。

・※  加害者の認識について

前記原告41名は,遅くとも永住帰国したとき,又は外国人登録を要求された者にあっては外国人登録が外れたときまでには,入管法及び外国人登録法上外国人として扱ったのが被告であると知っていたものと認められ,これを覆すに足る証拠はない。

・※  以上より,国籍調査義務違反により入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたことを理由とする国家賠償請求権の消滅時効の起算日は(国家賠償法4条,民法724条前段),前記原告41名のうち,外国人登録を要求された者については,外国人登録が外れたとき,また,それ以外の者にあっては,遅くともそれぞれ永住帰国した日となる。そして,第1事件原告B2については昭和61年7月21日に外国人登録が外れ,第1事件原告B3については昭和60年10月1日に永住帰国し,第1事件原告B5については平成元年4月7日に永住帰国し,第1事件原告B6については平成3年7月12日に外国人登録が外れ,第1事件原告B7については昭和63年1月14日に外国人登録が外れ,第1事件原告B10については昭和59年6月1日に外国人登録が外れ,第1事件原告B11については平成5年1月13日に外国人登録が外れ,第1事件原告B12については昭和63年3月22日に永住帰国し,第1事件B13については平成10年4月9日に永住帰国し,第1事件原告B14については平成3年4月19日に外国人登録が外れ,第1事件原告B15については平成4年2月17日に外国人登録が外れ,第1事件原告B16については昭和63年2月19日に外国人登録が外れ,第1事件原告B17については平成3年3月1日に外国人登録が外れ,第1事件原告B18については平成2年11月30日に外国人登録が外れ,第1事件原告B19については平成7年2月17日に外国人登録が外れ,第1事件原告B20については平成2年9月5日に外国人登録が外れ,第1事件原告B21については平成2年11月30日に外国人登録が外れ,第1事件原告B22については昭和55年6月17日に永住帰国し,第1事件原告B24については平成元年9月26日に外国人登録が外れ,第1事件原告B25については平成2年4月24日に永住帰国し,第1事件原告B26については昭和63年11月22日に外国人登録が外れ,第1事件原告B27については平成4年2月17日に外国人登録が外れ,第1事件原告B28については平成10年9月22日に外国人登録が外れ,第1事件原告B29については昭和62年12月23日に外国人登録が外れ,第1事件原告B32については昭和59年2月24日に外国人登録が外れ,第1事件原告B33については平成元年11月13日に外国人登録が外れ,第1事件原告B34については昭和53年1月16日に外国人登録が外れ,第1事件原告B36については平成3年3月1日に外人登録が外れ,第1事件原告B37については昭和58年11月24日に外国人登録が外れ,第1事件原告B38については平成11年8月2日に外国人登録が外れ,第1事件原告B39については昭和62年5月12日に永住帰国し,第1事件原告B40については平成2年9月21日に永住帰国し,第1事件原告B41については昭和59年12月18日に永住帰国し,第1事件原告B42については平成6年9月19日に外国人登録が外れ,第1事件原告B43については平成6年1月4日に外国人登録が外れ,第1事件原告B44については昭和54年4月22日に永住帰国し,亡Aについては平成5年6月2日に外国人登録が外れ,第1事件原告B45については平成元年4月19日に外国人登録が外れ,第3事件原告B48については平成6年1月4日に外国人登録が外れ,第3事件原告B52については平成元年4月27日に外国人登録が外れ,第3事件原告B55については昭和58年12月21日に外国人登録が外れている(前記1・※,弁論の全趣旨,被告第5準備書面,被告第6準備書面)。

よって,前記原告41名いずれについても,永住帰国日又は外国人登録が外れた日から3年が経過しており,被告の国籍調査義務違反により入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたことを理由とする国家賠償請求権につき,消滅時効が完成している。

イ  消滅時効の援用について

・※  被告による消滅時効の援用

被告は,被告の国籍調査義務違反により入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたことを理由とする国家賠償請求権について,平成17年10月21日の第9回口頭弁論期日においては第1事件原告B2,第1事件原告B3,第1事件原告B5,第1事件原告B6,第1事件原告B7,第1事件原告B10,第1事件原告B11,第1事件原告B12,第1事件原告B13,第1事件原告B14,第1事件原告B15,第1事件原告B16,第1事件原告B17,第1事件原告B18,第1事件原告B19,第1事件原告B20,第1事件原告B21,第1事件原告B22,第1事件原告B24,第1事件原告B25,第1事件原告B26,第1事件原告B27,第1事件原告B28,第1事件原告B29,第1事件原告B32,第1事件原告B33,第1事件原告B34,第1事件原告B36,第1事件原告B37,第1事件原告B38,第1事件原告B39,第1事件原告B40,第1事件原告B41,第1事件原告B42,第1事件原告B43,第1事件原告B44,亡A及び第1事件原告B45に対し,平成18年2月17日の第11回口頭弁論期日においては第3事件原告B48,第3事件原告B52及び第3事件原告B55に対し,それぞれ消滅時効を援用した(当裁判所に顕著な事実)。

・※  ところで,前記原告41名は,被告が自立支援を怠り,前記原告41名の訴訟提起を困難にしたことからすれば,被告が消滅時効を援用することは,信義則に反し,又は権利の濫用であって許されるものではない旨主張する。

しかしながら,前記・※イ・※で既に説示したとおりであって,不法行為者が消滅時効を援用することについて,たやすく信義則に反し,又は権利の濫用に当たるということはできない。

・※  よって,前記・※の被告の消滅時効の援用が信義則に反し,又は権利の濫用に当たって許されないものとはいえない。

ウ  したがって,前記原告41名の,被告の国籍調査義務違反により入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたことを理由とする国家賠償請求権は,被告が平成17年10月21日の第9回口頭弁論期日及び平成18年2月17日の第11回口頭弁論期日においてした消滅時効の援用により,消滅した(国家賠償法4条,民法724条前段)。

・※  以上より,その余の点について判断するまでもなく,①第1事件原告B5,第1事件原告B6,第1事件原告B10,第1事件原告B12,第1事件原告B17,第1事件原告B18,第1事件原告B20,第1事件原告B25,第1事件原告B26,第1事件原告B32,第1事件原告B33,第1事件原告B34,第1事件原告B37,亡A,第1事件原告B45,第3事件原告B48及び第3事件原告B52の,被告の国籍調査義務違反により永住帰国が遅延したことを理由とする国家賠償請求権,②第1事件原告B2,第1事件原告B3,第1事件原告B5,第1事件原告B6,第1事件原告B7,第1事件原告B10,第1事件原告B11,第1事件原告B12,第1事件原告B13,第1事件原告B14,第1事件原告B15,第1事件原告B16,第1事件原告B17,第1事件原告B18,第1事件原告B19,第1事件原告B20,第1事件原告B21,第1事件原告B22,第1事件原告B24,第1事件原告B25,第1事件原告B26,第1事件原告B27,第1事件原告B28,第1事件原告B29,第1事件原告B32,第1事件原告B33,第1事件原告B34,第1事件原告B36,第1事件原告B37,第1事件原告B38,第1事件原告B39,第1事件原告B40,第1事件原告B41,第1事件原告B42,第1事件原告B43,第1事件原告B44,亡A,第1事件原告B45,第3事件原告B48,第3事件原告B52及び第3事件原告B55の,被告の国籍調査義務違反により入管法及び外国人登録法上外国人として取り扱われたことを理由とする国家賠償請求権はいずれも消滅した。

5  結論

以上より,その余の点について判断するまでもなく,原告らの請求はいずれも理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 新谷晋司 裁判官 西村修 裁判官 内藤大作)

<編注:『※』部分は原文のとおり。>

(別紙2ないし8は掲載省略)

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