高知地方裁判所 平成22年(ワ)219号 判決 2012年8月10日
主文
1 被告は,原告に対し,50万円及びこれに対する平成22年5月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のそのほかの請求を棄却する。
3 訴訟費用は,100分の22を被告の負担として,そのほかを原告の負担とする。
事実及び理由
第1原告の請求
被告は,原告に対し,229万2547円及びこれに対する平成22年5月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要等
1 事案の概要
本件は,原告が,松山刑務所に収容されていたとき,同刑務所の刑務官から右耳付近等を殴られるという暴行を受け(以下「原告の主張する暴行」という。),その結果難聴になったなどと主張して,被告に対し,国家賠償法1条1項に基づき,慰謝料等合計229万2547円及びこれに対する不法行為の後である平成22年5月13日から支払済みまで,民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。
これに対し,被告は,原告の主張する暴行の事実を全面的に否認して,原告の請求を争っている。
なお,原告は,訴訟の提起と追行を弁護士に委任していたが,同弁護士が平成23年3月9日に辞任したために,難聴,知的障害を理由に補佐人の許可申請をした。当裁判所は,同年4月2日,原告に対し,同日以降の口頭弁論等の期日について,補佐人(原告の父親であるD)とともに出頭することを許可した。
2 前提となる事実(証拠等の記載のあるもの以外は争いがない。)
⑴ 当事者等
ア 原告は,軽度の知的障害者であり,平成19年12月から平成22年1月まで,松山刑務所に収容されて刑の執行を受けていた。
原告は,平成20年7月24日ころ,第○内掃工場(作業拒否等の懲罰行為を繰り返した受刑者が集められている。以下「本件工場」という。)の就業者であった。そのころの原告の居室は,○棟○号室であった。
イ 同じく受刑者であったFは,同日ころ,本件工場の就業者であり,その居室は原告と同じであった。
ウ Aは,松山刑務所の副看守長であり,平成20年6月ころから9月ころまで,本件工場を担当していた。なお,原告は,Aに殴られたと主張しているが,上記の期間中,原告の主張する暴行の有無以外に,Aが原告の恨みを買うような出来事はなかった。(証拠<省略>)
Bは,同刑務所の看守であり,そのころ,第○内掃工場を担当していた。
⑵ 本件調査室への連行等
ア Bは,平成20年7月24日,居室棟廊下に設置されたホワイトボードに,わいせつな絵と文字の落書き(以下「本件落書き」という。)が書かれているのを発見した。(証拠<省略>)
なお,松山刑務所の受刑者遵守事項には,わいせつな絵画又は文章を作成してはならないこと,建物,設備,物品等に落書きをしてはならないこと,これらに違反すると懲罰を科されることがあることが定められている。(証拠<省略>)
イ 原告,F,Cの3人は,同日午後5時45分ころ,居室から連行され,それぞれ別の調査室に入室させられた(以下,原告が入れられた調査室を「本件調査室という。)。そのとき,A,Bほかの刑務官も,本調査室に入室した。夜間・免業日等引継簿には,原告ら3人が午後6時45分まで調査室にいたことが記録されている(原告は,本件調査室で,Aから原告の主張する暴行を受けたと主張するのに対し,被告は,Aが本件調査室で,本件落書きのことを今後話題にしないよう指導するなどしたのであり,原告の主張する暴行はなかったと主張している。)。平成20年7月ころに原告が調査室に連行されて,そこにAとBが立ち会ったのは,この1回だけである。(証拠<省略>)
ウ 原告は,7月28日,それ以降の居室を○号室と指定された。(証拠<省略>)
⑶ 原告の仮出所等
ア 原告は,平成22年1月22日,松山刑務所を仮出所した。
原告は,同刑務所に収容されていた間,Aから殴られたこと,耳が痛いこと,耳が聞こえにくくなったことを,他の受刑者や被告の職員に対して話したことがない。
イ 原告は,2月5日,右耳の不調を訴えてa病院を受診し,原因不明の右耳の軽度難聴と診断された。(証拠<省略>)
ウ 原告は,3月19日,原告の主張する暴行について,松山地方検察庁に対し,Aを告訴した(特別公務員暴行陵虐致傷被疑事件)。(証拠<省略>)
また,原告は,4月30日,本件訴えを提起した。
エ 同地検検察官は,6月24日ころ,上記被疑事件について,「嫌疑なし」でAを不起訴処分とした。同検察官がそのようにと判断した理由は,松山刑務所から提出された資料によっては,同刑務所の職員が平成20年7月ないし8月ころに,原告を調査室に連行したという事実が認められなかったからであった。(証拠<省略>)
原告は,7月15日,この不起訴処分を不服として,松山検察審査会に対し,審査申立てをした。(証拠<省略>)
オ しかし,7月26日,本件の書証として前記夜間・免業日等引継簿の写し(証拠<省略>)が提出されて,被告の職員が平成20年7月24日に,原告を本件調査室に連行したことが判明したことから,原告が,松山地検検察官に対し,そのような書証が提出されたと知らせたところ,同検察官は,再捜査をすることを理由に上記審査申立てを取り下げるよう示唆した。そこで,原告はこれを取り下げた。(証拠<省略>)
カ 同検察官は,平成22年12月3日,上記被疑事件について,「嫌疑不十分」でAを再び不起訴処分とした。(証拠<省略>)
原告は,平成23年1月7日,この不起訴処分を不服として,松山検察審査会に対し,審査申立てをしたが,同審査会は,平成24年1月19日,不起訴処分は相当であるとの議決をした。(証拠<省略>)
3 本件の争点
本件の争点は,①原告の主張する暴行の有無,②原告の損害の有無・程度の2点である。
4 当事者の主張の要旨
(原告の主張の要旨)
⑴ 原告の主張する暴行の有無について
ア 原告は,平成20年7月のある日,Fが,居室棟廊下に設置されたホワイトボードに,本件落書きをしたのを目撃したものの,これを黙っていたが,7月7日か14日のどちらかに,本件落書きを発見したBとAから,居室棟の階段付近に呼び出されて追及を受け,最後には本件落書きをしたのはFであることを白状した。このとき,原告は,Aから,その場のやりとりを口外しないよう指導されたが,居室に戻るとFらから問い詰められて,Aの指導に反し,上記やりとりのことをすべて話してしまった。原告とFは,その日の夕食後,居室から連行され,それぞれ別の調査室に入室させられた。
イ 本件調査室に入った原告は,Bほか複数の刑務官の前で,立たされたまま,Aから,指導に反して上記やりとりのことを話したのはなぜかと詰問された後,胸ぐらをつかまれ,壁に押しつけられて,右耳付近や腹を何回か殴られた。
⑵ 原告の損害の有無・程度について
ア 暴行による慰謝料 50万円
原告は,Aから理不尽な暴行を受けたことによって,多大な精神的苦痛を被った。これを慰謝するに足りる額は50万円を下回らない。
イ 後遺障害に伴う損害 139万2547円
原告は,上記暴行の結果,右耳に難聴の症状が残った。その程度は,一耳の聴力が1メートル以上の距離では小声を解することができない程度になったもの(自動車損害賠償保障法施行令別表第2後遺障害等級14級3)に該当する。
後遺障害に伴う原告の損害は,逸失利益が64万2547円であり(平成20年度賃金センサスによる中卒男子労働者の平均賃金296万8300円に,後遺障害等級14級の労働能力喪失率0.05と,労働能力喪失期間5年間に対応するライプニッツ係数4.3294を掛けた額),慰謝料が75万円である。
ウ 弁護士費用 40万円
原告は,訴訟の提起と追行を弁護士に委任して,報酬等40万円の支払を約束した。
(被告の主張の要旨)
⑴ 原告の主張する暴行の有無について
ア Bは,7月24日,居室廊下に設置されたホワイトボードに,本件落書きが書かれているのを発見して,そのとき近くにいた原告を含む本件工場就業者7~8人の中にこれを書いた者(以下「犯人」ということもある。)がいるのではないかと考え,同人らに対し,誰が書いたのかと質問したが,名乗り出た者はいなかった。次いで,本件工場を担当していたAが,同工場就業者全員を園芸室に集めて注意をしたうえで,書いた者は名乗り出るよう求めたが,誰も名乗り出なかった。そこで,Aは,本件落書きについてそれ以上詮索することを止めて,受刑者間で本件落書きのことを今後話題にしないよう指導した。
イ ところが,同日の夕方,○号室の雰囲気が険悪なものになっていたことから,Aらは,夕食後,原告,F,Cの3人を連行し,それぞれ別の調査室に入室させて事情聴取をした。その結果,原告が,誰が本件落書きをしたかというするような話をしていたら雰囲気が険悪になったと述べたため,Aは,口頭で,居室では協調性をもって生活するよう指導し,FとCに対しても同様の指導をして,それぞれ居室に戻した。
ウ このような経緯であったから,本件調査室において,原告の主張する暴行は起こり得ない。
⑵ 原告の損害の有無・程度について
すべて争う。仮に,現在原告に難聴の症状があるとしても,その原因は不明であり,被告はその責任を負わない。
第3争点についての判断
1 争点①(原告の主張する暴行の有無)について
⑴ 争点①の判断枠組み等
ア 本件において,原告の主張する暴行があったこと,あるいはなかったことをただちに認めることのできる客観的証拠はない。そして,原告は,本人尋問において,前記原告の主張の要旨⑴イと同趣旨の供述をしているから,原告の主張する暴行の有無は,この供述部分(原告供述の核心部分)を採用できるか否かによって決まるものということができる。
イ なお,前記前提となる事実⑵イのとおり,原告が本件調査室に連行されたのは,平成20年7月24日である。ところが,原告は,その主張する暴行の日を,7月7日か14日のどちらかと主張しており,客観的事実とのそごが生じている。
しかし,原告の主張によれば,暴行は本件調査室に連行されたときの出来事であること,7月ころに原告が調査室に連行されて,そこにAとBが立ち会ったのは,同月24日の1回だけであること,原告は,証拠調べ期日においては,それまでの主張に固執する様子が見られなかったことなどを考慮すると,原告の主張する暴行の有無を,7月24日の問題として判断しても,原告にも被告にも不意打ち等の不利益が生じる余地はないから,以下そのように判断するものとする。
⑵ 原告供述の概要
ア 原告は,同室のFが清掃作業中,居室棟廊下に設置されたホワイトボードに本件落書きをしたのを目撃した。
その後,本件落書きを発見したBとAから,居室棟の階段付近に呼び出されて,誰が書いたのかと追及を受けた。原告は,当初,Fをかばうつもりで自分が書いたと答えたが,Aが激怒したことに怖くなって,本件落書きをしたのはFであると白状した。
イ 居室に戻ると,呼び出された理由をFらから問い詰められて,Aには口外しないよう指導されていたが,上記アのやりとりのことをすべて話してしまった。これを聞いたFは,居室の報知器を使って職員を呼び,本件落書きのことを説明したいのでAを呼んでほしいと伝えたが,同職員は,夕食後にするように指示した。
ウ 原告とFの2人は,夕食後,居室から連行され,それぞれ隣り合わせの別の調査室に入室させられた。
原告が本件調査室に入ると,A,Bのほかに2人の刑務官が立っていた。原告は,指示されて奥にいたAの近くまで行くと,Aから,指導に反して上記アのやりとりのことを話したのはなぜかと詰問された。即答できずにいると,Aから眼鏡を外せと言われたが,すぐに従わなかったら,Bは,原告の眼鏡を外して机の上に置いた。そして,原告は,立たされたまま,Aから,何かしゃべれと怒鳴られながら,胸ぐらをつかまれ,前後に揺さぶられたり壁に押しつけられたりしたうえ,右耳付近や腹を数回殴られた。
エ その後,Aは本件調査室を出たが,Fが入っている隣の調査室から物音が聞こえてきたことから,原告は,FもAから何かやられているなと感じた。
オ 別の刑務官の指示されて居室に戻ったころ,右耳付近がズキズキと痛んだが,翌朝には痛みは消えていた。このとき以降,人と話をすると右耳が少し聞こえにくいということがあった。
原告は,Aから暴行を受けた日の翌日,○号室から○号室へ転室させられた。
原告は,松山刑務所に収容されていた間,Aから暴行を受けたこと,耳の痛み,耳が聞こえにくくなったことを,他の受刑者や被告の職員に話したことがない。その理由は,もしそのようなことをしたら余計にひどいことをされる,また殴られると思ったからである。
カ 原告は,平成22年1月22日に仮出所したが,その当時,すでに右耳が聞こえにくく,自転車で走っている最中,後方からクラクションを鳴らされたのに,ちょっと聞こえづらかったので,両親にそのことを打ち明けて,2月5日,a病院を受診した。そのとき初めて,母親に話し,本件落書きのことやAから殴られたことを話した。
Aから殴られたことをもっと早く打ち明けなかったのは,もし,一人でどこかへ遊びに行ったときに,Aが高知に来て殴られたりしたらと考えると,怖さのあまりに言い出せなかったからである。しかし,原告は,父親から,Aからまた殴られても守ってあげると言われて,告訴や訴訟の提起に踏み切る決心をした。
⑶ 原告供述の核心部分の信用性について
ア 原告供述の核心部分の迫真性
原告供述のうち,その主張する暴行に至る経緯について,原告が当初Fをかばうつもりで自分が本件落書きをしたと答えたが,Aが激怒したことに怖くなって,これを書いたのはFであると白状したという点,原告が居室に戻ってAとのやりとりのことを話したところ,これを聞いたFが職員を呼び,本件落書きのことを説明したいのでAを呼んでほしいと伝えたという点などは,具体的であり,実際にそのようなことがあったであろうと感じさせるものである。
また,原告供述の核心部分は,前記原告供述の概要ウのとおり,本件調査室でAから詰問されて,即答できずにいると眼鏡を外せと言われたが,すぐに従わなかったら,Bが原告の眼鏡を外して机の上に置いたとか,立たされたままAから何かしゃべれと怒鳴られながら,胸ぐらをつかまれ前後に揺さぶられたり壁に押しつけられたりしたうえ,右耳付近や腹を数回殴られたというものであり,非常に生々しく,自分の体験をありのままに述べたものということができる。知的障害のある原告が,自分の体験によらずに,これほど具体的で真に迫ったストーリーを創作して,法廷等で述べることができるとは考えにくい。
イ 原告供述の核心部分に一貫性
原告は,本件の主張だけでなく,Aを告訴したり検察審査会に審査申立てをしたりする中で,原告供述の核心部分に相当する暴行のことを,繰り返し説明しているが,その内容はほぼ一貫している。また,原告は,当初から記憶だけに基づき,本件調査室に連行されてAから殴られたと主張していたものの(訴状等),前記前提となる事実⑶エ,オのとおり,捜査機関はその連行の事実を認めなかったが,本件の書証として証拠<省略>が提出された結果,被告の職員が平成20年7月24日に,原告を本件調査室に連行したことが判明し,原告の主張事実が裏付けられた経緯がある。この経緯は,原告供述の核心部分の信用性を支える重要な事情ということができる。
この点について,まず,被告は,暴行に至る経緯について,原告の主張等には,原告を居室棟の階段付近に呼び出したのがA1人であったのか,それともAとBであったのかという点,泣いていた原告にハンカチを貸したのがAであったのかBであったのかという点において変遷があるし,Aが原告を呼び出す前にBが単独で原告に接触したという事実が途中で加わっているのは不自然であるなどと指摘している。しかし,これらはいずれも瑣末な事柄であり,時間の経過とともに原告の記憶が変容してこのような主張等の変遷が生じたとしても,そのことによって原告供述の核心部分の一貫性が損なわれるものではない。
次に,被告は,Aが本件調査室で原告に対して発した言葉について,原告の主張等が,「原告が犯人の名を他の受刑者に告白したことについて,その理由を詰問された。」,「落書きの件でA先生から呼ばれたことを舎房の者に話したのは,なぜか」,「部屋の人に階段付近で言ったことをしゃべったのはなぜか」というように変遷していると主張する。しかし,これらは,Aが原告に対し,Aとのやりとりのことを話した理由を詰問している点において,同じ内容であることが明らかであり,これを変遷という被告の主張は失当である。
ウ 虚偽供述の動機の有無
前記前提となる事実⑴ウのとおり,Aは,平成20年6月から9月までの3~4か月間,原告が就業していた本件工場を担当していたにすぎず,しかも,その期間中,原告の主張する暴行の有無以外に,Aが原告の恨みを買うような出来事はなかった。そうすると,原告が,Aに対する恨みを晴らす目的で,同人を陥れようとして,殴られたという噓をついている可能性は認められない。
原告供述の核心部分が虚偽であるとすると,原告はありもしない暴行の事実をねつ造して,これを訴訟等で主張していることになる。しかし,原告が,虚偽告訴罪で刑事処分を受ける危険を冒してまで,刑務官の受刑者に対する暴行という社会的に重大な事実をねつ造し,これに基づき,大変な手間や労力をかけて,Aを告訴したり検察調査会に審査申立てをしたり訴訟を提起したりする理由を見出すことはできない。また,原告は,平成20年ころ,何度も調査や懲罰を受けたことが認められるが(証拠<省略>),このような数ある機会の中から(調査室で事情聴取を受けたことも多かったと考えられる。),なぜ7月24日のことを選んで,原告の恨みを買うような出来事もなかったAから殴られたという事実をねつ造したのかという点を,説得的に説明できるような事情も見当たらない。
したがって,原告において,その主張する暴行がなかったのにこれがあったという虚偽供述をする動機は,認められないというべきである。
エ 以上のとおり,原告供述の核心部分は,迫真性・一貫性があり,また,原告が虚偽供述をする動機は認められないから,相当高い信用性があると認めることができる。
⑷ 被告側証人の証言の信用性について
ア A証言について
原告の主張する暴行をしたと名指しされているAは,その暴行の有無等について,概要,「Aは,本件落書きを発見したBから引継ぎを受けて,本件工場就業者全員を園芸室に集めて注意をしたうえで,書いた者は名乗り出ることを求めたが,誰も名乗り出なかった。そこで,これ以上求めても正直に名乗り出るとは思えず,むしろ,就業者間で犯人探しをして人間関係を悪化させるおそれもあると考えて,本件落書きについてそれ以上詮索することを止めて,受刑者間で本件落書きのことを今後話題にしないよう指導した。なお,原告を居室棟の階段付近に呼び出して,本件落書きについて問い質したことはないし,原告から,本件落書きをしたのはFであると聞いたこともない。また,平成20年7月24日に本件調査室での指導等に立ち会った記憶はない。ただし,後にも先にも原告を殴るなどの暴行をしたことは一切ない。」と証言している。
しかし,本件落書きをめぐる同日中の2つの出来事について,園芸室での注意等のことは具体的に覚えているのに,本件調査室での指導等には立ち会ったことさえ記憶がない(本件の主張や証拠等に目を通しても記憶が喚起されない)というのは,明らかに不自然である。Aは,その理由を,園芸室での注意等は,ホワイトボードに落書きがされたという珍しい事犯であったから覚えているが,本件調査室での指導等は,居室の雰囲気が険悪になったことに対するものであり,日常的によく行っているから印象に残っていないと説明しているが,到底納得のゆくものではない。このような著しく不合理な説明からは,Aについて,本件調査室でのことをことさら隠そうとする態度がうかがわれる。
また,本件落書きは,松山刑務所の受刑者遵守事項に反し,所内の規律を乱すものと考えられるから,Aは,本件工場の担当者として,関係者の事情聴取をするなどし,本件落書きの犯人を特定して,その者に対してしかるべき懲罰等をする(あるいは,上司等に対しその旨の意見具申をする)ことが,当然の成り行きというべきである。ところが,Aは,名乗り出ることを求めたが誰も名乗り出なかっただけで,早々と犯人の特定を断念したというのであり,そのこと自体,不自然かつ不合理なものである。
この点について,Aは,自分の考えでは本件落書きが受刑者遵守事項に反しない,大したことのない事犯と思ったので自分の判断で上司にも報告しなかったなどと証言している。しかし,松山刑務所で30年以上の勤務経験を有するAは(証拠<省略>),このように考えるはずがないのであり,意図的に虚偽の証言をして,本件落書きの問題を矮小化しているものといわざるを得ない。
また,被告は,Aが早々と本件落書きの犯人の特定を断念した理由について,①園芸室で必要な注意を終えていたこと,②本件工場は,作業拒否等の懲罰行為を繰り返した受刑者が集められており,その就業者に対しては,社会復帰を図るために,反則行為等があっても一般的な受刑者に比べて緩やかな指導をしていたこと,③Aが本件落書きの犯人を詮索することによって,受刑者間の人間関係を悪化させ,懲罰の対象となることを防止すべきであったことを挙げている。しかし,①園芸室では本件落書きの犯人の特定に至っておらず,必要な注意を終えたとはいえない。②本件工場の指導が比較的緩やかなものであったとしても,明白な遵守事項違反事由があるのに,その行為者の特定もしないままで済ませるというのは説得的ではないし,犯人を特定したうえで,懲罰等は緩やかなものにすることもあり得るのであるから,上記事情は,犯人の特定を断念する理由にならない。③本件落書きの犯人が自発的に名乗り出ないことは,それ自体問題であるのに,これをやむを得ないものと受け容れて,それ以上詮索することによる弊害を防止すべきであったなどというのは,およそ説得的な説明とはいえず,失当というべきである。
そして,Aは,原告の主張する暴行をしたと名指しされている張本人であるから,自分の責任を免れるために,あったことをなかった(覚えていることを忘れた)と証言する動機がある。
以上によれば,A証言は,全体的に信用性が認められず,したがって,そのうち,「平成20年7月24日に本件調査室での指導等に立ち会った記憶はない。ただし,後にも先にも原告を殴るなどの暴行をしたことは一切ない。」という部分は,そのまま信用することができない。
イ B証言について
Bは,本件落書きの発見の経緯については,前記被告の主張の要旨⑴アのBに関する部分と同趣旨の証言をしたうえ,その後原告を本件調査室に連行した経緯等について,概要,「平成20年7月24日の夕方,見回りをした職員から,○号室の雰囲気が険悪になっているという報告を受けたので,同日午後5時45分ころ,調査目的で原告,F,Cの3人を連行し,それぞれ別の調査室に入室させた。そして,本調査室では,原告を着席させて事情を聴いたところ,誰が本件落書きをしたかというような話をしていたら雰囲気が険悪になったと述べたため,Aは,原告に対し,居室では協調性をもって生活するよう口頭で指導して,居室に戻した(他の2人に対しても同様の対応をした。)。その際,Aは,原告に相対して,机の反対側に着席していたのであり,原告を殴るなど,原告の主張する暴行をしたことはない。」と証言している。
B証言は,本調査室での原告に対する事情聴取の様子を具体的に述べたうえで,原告の主張する暴行の事実を否定している点において,A証言とは異なるが,その暴行がなかったという結論は,結局のところ,著しく不合理であり信用性の認められないA証言と同じなのであって,これをそのまま信用することはできない。
本件落書きの犯人の特定を早々と断念したことが,不自然かつ不合理なものであることは,前記A証言についてにおいて検討したところと同様である。また,B証言は,Bが,本件落書きが書かれているのを発見したとき,近くにいた原告を含む本件工場就業者7~8人の中に犯人がいるのではないかと考えたのであるから,ただちにその者らから事情を聴取するなどして,犯人の特定に努めて当然であるのに,これをしなかった点においても,非常に不自然というべきである。中でも特に,B証言によれば,Aらは,本件調査室で,原告から,誰が本件落書きをしたかというような話をしていたら雰囲気が険悪になったと聞いたのであるから,さらに詳しく事情を聞くなどして,本件落書きの犯人を特定しようとするのが自然である。ところが,Aは生活態度の指導をしただけで,原告を居室に戻したというのであって,この点は明らかに不自然かつ不合理である。
そして,Bは,松山刑務所からは異動したものの,現役の刑務官であるし,原告供述の核心部分である前記原告供述の概要ウによれば,原告の主張する暴行の目撃者であるだけでなく,原告の眼鏡を外すなど一連の経緯に関与して,その責任の一端を担う可能性もあるものであるから,自分の責任回避のために,あったことをなかった(見たことを見なかった)と証言する動機がある。
以上によれば,A証言(編注「A証言」は「B証言」の誤りか)も,全体的に信用性が認められるものではないから,上記証言部分は,そのまま信用することができない。
⑸ 原告供述の問題点について
ア 被告は,原告供述について,調査室に連行されたのが原告とFの2人であるという部分は,3人が連行されたという客観的事実と矛盾すると主張している。
確かにこの部分は,前記前提となる事実⑵イの事実と矛盾しており,その原因は,原告の記憶違いにあると考えられる。しかし,原告がこの場面にしか現れないCの存在を忘れたとしても不思議ではないし,原告の主張する暴行の有無は,原告が本件調査室に入室させられた後の問題であるから,入室前の経緯の一部に記憶違いがあったとしても,そのことが,原告供述の核心部分の信用性評価に,決定的な疑いを生じさせるものとはいえない。
イ 被告は,仮出所までの経緯について,前記原告供述の概要オは,確たる裏付けがないし,内容に説得力がないと主張している。
しかし,仮出所までの経緯について,受刑者であった原告が裏付け資料を提出できないのは当然であり,そのことを原告に不利益に考慮することは許されない。また,耳の痛みは暴行を受けた日の翌朝には消えていたというのであるから,そのことについて治療等を受けなかったことは(証拠<省略>),不自然とはいえない。原告が難聴のことを周囲に話していないことや,周囲からは原告が難聴であった様子が見えなかったことは,事実経過として疑問がないわけではないが,難聴の程度は,人と話をすると右耳が少し聞こえにくいというものであったから(証拠<省略>),暴行によってAに対する恐怖心を植え付けられた原告が,仮出所までの約1年半の間,余計にひどいことをされるのを恐れて,あるいは,治療等を受けたら難聴の原因を追及されるかもしれないと不安を感じるなどして,軽い難聴の状態を我慢しながらすごしたとしても,そのことをただちに不自然ということはできない。
そうすると,この部分の原告供述に強い説得力があるとはいえないとしても,そのことがただちに,原告供述の核心部分の信用性を損なうものではないというべきである。
ウ 被告は,仮出所後の経緯について,原告がすぐに難聴の治療を受けていないことや,原告の主張する暴行の事実を両親に打ち明けなかったことを,不自然であると主張している。
この点について,原告は,前記原告供述の概要カのとおり供述するが,「自転車で走っている最中,後方からクラクションを鳴らされたのに,ちょっと聞こえづらかった」という点などに裏付けがないし,原告が知的障害者であることを考慮しても,Aが高知まで来て,また殴られることを心配したという供述部分が,合理的とはいえない。
しかし,原告は,仮出所の約2週間後には病院を受診しており,また,そのころ,母親に対し,本件落書きのことやAから殴られたことを話したのであって(証拠<省略>),永らく事態を放置していたわけではない。さらに,当時の症状は軽度難聴であったこと(証拠<省略>),暴行を受けてから仮出所までに約1年半が経過しており,原告は,その間に耳が聞こえにくい状態にある程度慣れていたとも考えられることなどを考慮すると,上記供述部分が著しく不合理であり,およそあり得ないものとまではいえないと考えられる。そうすると,この点も,原告供述の核心部分の信用性を損なわない。
エ 原告供述の核心部分には,本件調査室に入った原告は,Aから,指導に反してAとのやりとりのことを(居室でFらに対して)話したのはなぜかと詰問されたという部分がある。被告は,Aがこのように詰問するためには,それ以前に,原告が上記やりとりのことを居室でFらに対して話したという事実を知っていなければならないが,そのようなことはあり得ないから,原告供述は核心部分にも矛盾があると主張している。
しかし,前記原告供述の概要イによれば,それ以前に,Fが職員を呼び,本件落書きのことを説明したいのでAを呼んでほしいと伝えたというのであるから,Aが,その職員を通じて上記事実を知った可能性が認められるから,被告の上記主張は採用できない。
オ 被告は,原告が被告の提出証拠に偽造部分があると主張等をしていることについて,根拠がないと主張している(原告供述の信用性がないことの理由として指摘するものと解される。)。
確かに,被告が証拠の偽造をしたとは認められず,原告の上記主張等は,根拠のない,思い込みの域を出ないものといわざるを得ない。原告は,そのほかにも,暴行の日を客観的事実と異なるという主張に固執するなど,誤った事実を強固に主張しており,このような原告の頑なな態度が,原告供述全体の信用性に疑問を生じさせる面がある。
しかし,原告は,原告供述の核心部分について,被告の提出証拠に偽造部分があるなどと主張しているわけではないから,本件においては,上記のような原告の態度をあえて問題にするほどではないと考えられる。
⑹ 争点①についての判断のまとめ
ア 前記⑶エのとおり,原告供述の核心部分は,相当高い信用性があると認めることができる。
また前記⑷のとおり,被告側証人の証言は,AのものもBのものも全体的に不自然かつ不合理であり,原告の主張する暴行がなかったという部分は,いずれもそのまま信用することができない。特に,Aには,本件調査室でのことをことさら隠そうとする態度がうかがわれるが,ここで隠そうとしている事実が原告の主張する暴行の存在であることは明らかであるから,この点は,原告供述の核心部分の信用性をいっそう高める結果をもたらすということができる。
さらに,前記⑸のとおり,原告供述にはいくつかの矛盾点等があるが,これらは,その核心部分の信用性を損なうものとまではいえない。
イ したがって,原告供述の核心部分は,これを採用することができるのであり,これによれば,前記原告供述の概要⑵ウのとおりの経緯で,原告は,平成20年7月24日午後6時前後ころ,本件調査室で,Aから胸ぐらをつかまれるなどして,右耳付近等を殴られるという暴行を受けたと認めることができる。
なお,原告供述によれば,Fは,本件落書きをした人物であり,原告の次に暴行を受けた可能性があるというのであるから,Fの証言は,本件の重要な証拠であるが,原告が委任した弁護士の辞任により,Fの所在を探し当てることができず,結局,同人の証言を得ることができなかった。
2 争点②(原告の損害の有無・程度)について
⑴ 暴行による慰謝料
原告は,本件の暴行によって,多大な精神的苦痛を被ったと認められる。しかも,この暴行は,密室同然の空間で刑務官が受刑者に対し一方的に加えたものであり,きわめて理不尽というべきである。そのほかに本件の審理に現れた事情を考慮して,上記精神的苦痛に対する慰謝料は,50万円を認める。
⑵ 後遺障害に伴う損害
原告は,本件の暴行によって,右耳が聞こえにくくなったことが認められるが,その症状が,「一耳の聴力が1メートル以上の距離では小声を解することができない程度になったもの」(後遺障害等級14級3)に該当すると認めるに足りる証拠はない。証拠<省略>によれば,平成22年12月末の時点で,原告に原因不明の中等度難聴が認められるが,本件の暴行の約1年半後である平成22年2月の症状(軽度難聴,証拠<省略>)が10か月後に悪化していることに照らして,本件の暴行との相当因果関係を認めることはできない。したがって,本件において,原告の後遺障害に伴う損害は認められない。
⑶ 弁護士費用
原告が訴訟の追行等を委任していた弁護士は,争点整理の比較的早期の段階で辞任したから,本件において,弁護士費用を暴行と相当因果関係のある損害と認めることはできない。
第4本件の結論
以上のとおりであるから,原告の請求のうち,慰謝料50万円(及びこれに対する遅延損害金)の支払を求める部分は理由がある。本件において仮執行宣言の必要性は認められない。したがって,主文のとおり判決する。
(裁判官 松田典浩 裁判官 小畑和彦 裁判官 塩田良介)