高知地方裁判所 平成24年(わ)139号 判決 2013年2月07日
主文
被告人は無罪。
理由
1 公訴事実について
本件公訴事実は,「被告人は,木材の生産及び売買等を営む有限会社A産業の代表取締役として,伐木造材作業及び作業時における安全管理等を統括管理するとともに,伐木造材機械を操作するなどの業務に従事するものであるが,平成19年5月13日午前9時39分頃,高知県香美市a町b,c国有林d林班e小班において,業務としてドラグ・ショベルのアーム・ブーム先端にグラップルソー(重量約800キログラム,最大開き幅約2.2メートル。以下「グラップルソー」という。)を取り付けた伐木造材機械を操作し,B(当時58歳)ら作業員を用い,同所に散乱した木くずを集めて山林に移動させて投棄するなどの作業を行うに当たり,同作業は,被告人が,グラップルソーで,金属製のもっこ(重量約120キログラム)の端に取り付けられたワイヤーを挟んでもっこを広げ,木くずを挟んでもっこに積み入れるなどする一方,前記Bら作業員をして,前記伐木造材機械の稼働範囲内又はその周辺に立ち入らせ,手作業により,もっこを広げさせ,その周辺に落ちた木くずを拾ってもっこに積み入れさせるほか,グラップルソーでもっこを広げるため前記ワイヤーをグラップルソーに引っかけさせるなどして,作動中のグラップルソー等に接近させるものであり,これを作業員に接触させてその生命身体に著しい危険を及ぼすおそれがある作業であったのであるから,同作業を開始するに当たっては,作業員らとの間で,作業員及び同機械の位置や動作を互いに確認する合図を定めておき,かかる合図により作業員及び同機械の位置や動作を互いに確認してから同機械を操作することとし,その確認を互いに遂げない限り,同機械を操作せず,作業員も同機械の稼働範囲内及びその周辺に立ち入らないとする作業手順をあらかじめ決めておくはもとより,作業中は,同手順に従い,合図により作業員及び同機械の位置や動作を互いに確認して作業員の安全を確認してから同機械を操作するとともに,作業員の動静を注視し,その安全が確認されない限り同機械の操作を差し控えるべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,合図を定めておくことも作業手順を決めておくこともなく前記作業を開始し,作業中も前記B及び同機械の位置や動作を互いに確認することなく,同人の動静を注視せず,その安全を確認しないまま,漫然同機械を操作した過失により,同機械の稼働範囲内又はその周辺で作業していた同人の頭部をグラップソーで挟み込み,よって,そのころ,同所において,同人を頭蓋骨骨折による脳挫傷により死亡させたものである。」というものである。
2 前提となる事実
以下,甲・乙番号は記録中の検察官請求証拠等関係カードに記載されている番号であり,証拠の特定のためにこれを用いる。
本件の前提事実として,甲1ないし4,6ないし9,24,25,26,36,43,Cの公判供述,Dの公判供述,被告人の公判供述により容易に認められる事実は次のとおりである。
(1) 被告人及び有限会社A産業について
被告人は,平成12年から,木材の生産,売買等を目的とする有限会社A産業の代表取締役であり(現在は唯一の取締役。),A産業は,高知県香美市a町b,c国有林f林班g小班にある立木を買い取り,平成18年12月ころから,買い取った立木の伐木,造材作業を行っていた。被告人は,自らも作業を行うほか,同作業における安全管理を統括し,作業現場において作業員ら(D,C及びBの3名。以下,Bを,「被害者」といい,この3名と被告人を併せて「被告人ら」という。)に直接指示するなどして作業を行わせていた。
(2) 前記国有林の伐木,造材作業の概要について
被告人らは人里離れた山の斜面から立木を切り出し(以下「伐木現場」という。),そこから,架線を使って山の斜面の下を流れる浅い川の向こう岸にある造材作業場所(伐木現場から南東方向,前記国有林d林班e小班にある比較的平らな場所。以下,便宜上,川の浅瀬の部分と林道を含めて「土場(どば)」という。)まで木を運び,そこで枝や葉を落とし,適当な長さに切り揃えるなどして木材に加工し,搬出する作業をしていたが,平成19年5月にはこの作業をほぼ終え,平成19年5月9日ころからは,土場で木材を加工する時に出た木くずを土場から伐木現場に運んで捨てる後片付け作業をしていた。
(3) 土場の状況について
土場の真上からの見取り図は別紙1のとおり(伐木現場は図面上方,川の北西にある。),断面図は別紙2のとおりである。土場には,北東から南西方向に流れる浅い川があり,川から南東方向にかけて河原及び歩いて上れる程度の法面がある。川から法面の上部の高さは約5.9メートルであり(別紙2参照),川からみて,法面の奥には林道があり,林道の奥には,まだ木が伐採されていない別の山の斜面がある。
(4) 平成19年5月13日(事故当日)の作業について
ア 被告人らは,平成19年5月13日も,午前8時ころから木くずの後片付け作業を行っていた。その作業の流れは,次のようなものであった。
(ア) 土場に残った木くずを,もっこ(1辺が約3メートルの四角形のネットで,重さは約120キログラムである。別紙3参照)に積み込む。
(イ) もっこに取り付けられた2本のワイヤー(それぞれが鞄の持ち手のようになっており,ワイヤーをフックに引っかけて上方に吊り上げることで,木くずをもっこで包んで持ち上げることができる。)を,架線上の搬器にワイヤーで吊されたローチング(丸太状の重り)からさらにワイヤーで吊されたフックと,その近くについている早掛けという金具に1本ずつ引っかける。
(ウ) 集材機(ドラムで架線の巻取りやフックの上下操作等を行う機械。いわゆるウインチ。)を使って搬器を架線に沿って移動させ,木くずの入ったもっこを伐木現場に運び,フックに吊されたもっこを地面に下ろす。もっこが地面に着くと,早掛けにかかったワイヤーが外れ,もっこが開いて木くずを落とすことができる。
(エ) 木くずを伐木現場に落とした後,再び集材機を使って片方のワイヤーのみがフックにかかった状態のもっこを土場に戻し,木くずをもっこに積み込む((ア)の作業)。土場の木くずが片付くまで同様の作業を繰り返す。
イ 事故当日の作業開始時における作業分担状況について
(ア) 被告人は,土場の川の中(別紙1の「本件伐木造材機械」の位置)に配置されたドラグ・ショベルという重機のアーム・ブーム(バケットやグラップルソーを手のひらの部分と考えると,腕の部分にあたる。)の先端に,グラップルソーという,2つの爪(グラップル)に加えてチェーンソーを備えた装置を取り付けた機械(以下「本件伐木造材機械」という。別紙4参照)を操作して,グラップルソーで木くずをつかんでもっこに積み込む作業(前記ア(ア))や,空になって戻されたもっこが折り重なっている場合にグラップルソーでもっこを広げるなどの作業を行うほか,作業員らに指示を出していた。
本件伐木造材機械のアーム・ブームは,360度旋回することが可能で,最大伸張距離は約8メートルである。アーム・ブームの旋回は一周あたり約6秒ないし8秒で行うことができ,最大幅の伸縮は,伸び縮みをそれぞれ約5秒ないし7秒で行うことができる。グラップルソーは,2つの爪を開閉して木材等をつかむことができるほか,チェーンソーを用いてつかんだ木材を切ることもできる。グラップルソーの重量は約800キログラム,最大開き幅は約2.2メートル,最大許容荷重は約2000キログラムであり,約2000キログラムの物をつかむことができる。開閉は約1秒ないし3秒で行うことができる。
(イ) 被害者及びDは,土場の浅瀬ないしは河原の部分で,グラップルソーではつかめない細かい木くずを手作業でもっこに積み込んだり(前記ア(ア)),木くずを積み終えたもっこを伐木現場に運ぶためにもっこのワイヤーを早掛けに引っかけたり(前記ア(イ)),あるいは,空になって土場に戻されたもっこを手で広げるなどの作業を担当していた。
(ウ) Cは,土場の林道の奥(別紙1の「集材機」の位置)に配置された集材機の操作を担当していた(前記ア(ウ)(エ))。
(5) 本件事故の発生について
平成19年5月13日午前9時39分ころ,被告人がグラップルソーを閉じる操作をした際に,別紙1-1(※)の付近で,グラップルソーの2本の爪が被害者の頭部を挟み,同人が頭蓋骨骨折による脳挫傷により即死する事故(以下「本件事故」という。)が発生した。
3 当裁判所の判断
(1) 事実認定
ア 本件事故発生前の作業状況について
(ア) Dは,「本件事故が起きる前は,一つのもっこ(以下「もっこ1」という。)だけを使用して作業していた。作業中,もっこ1が伐木現場から下りてきたころ,被告人の指示で,作業の効率をあげるために,林道の奥に置かれていたもっこ(以下「もっこ2」という。)を取りに行き,もっこ2を林道の方まで引っ張り出した。Cが,もっこ2を吊すために,集材機を使って,もっこ1の外された何もかかっていないフックを林道近くまで移動させたころ,異常に気付いた。川の方に様子を見に行くと,被害者が,少し横向きのうつ伏せで倒れているのを見つけた。被害者の近くには,もっこ1が畳んだような,ぐちゃぐちゃの状態で落ちていた。」旨証言し,Cも,「本件事故が起きる前は,もっこ1だけを使用して作業していた。林道の奥に置かれたもっこ2を取りに来たDの指示を受けて,もっこ1の外された何もかかっていないフックを林道近くまで移動させたころ,異常に気付いた。川の方に様子を見に行くと,被害者が膝を曲げたような状態で倒れているのを見つけた。」旨証言している。両名の各証言は,事故発生状況そのものではないもののその前後の状況についてのものであって重要である。これらの証言の信用性について争われているので,検討する。
(イ) D及びCに被告人に不利な虚偽の証言をする動機はない。特にCは現在も被告人に雇用されているのでなおさらである。両名の証言は,細部にあいまいな部分やかみ合わない部分はあるものの,本件事故の前にはもっこ1のみを使用していたことや,Dが被告人に指示されてもっこ2を林道の方に取りに行き,Cがもっこ1が外された状態のフックを林道近くに移動させたころに異常に気付いたこと,その後川の方へ様子を見に行った時のことなどについては,具体的で一致しているし,Dは,本件事故の3日後の実況見分においても,本件事故時に,林道の近くで,もっこ2をフックに引っかけるための準備をしていた旨説明している(甲43写真番号55)。さらに,両名の証言は,本件事故当日の実況見分時のフック及びもっこ1の位置や状態といった客観的状況(甲3写真番号6ないし8,14)とも整合する。
問題は,公判における証言が事故発生から5年半も経過した時点でのものであり,記憶の劣化や思いこみの危険性があることだが,これを考慮に入れたとしても,Dが,被告人からもっこ2を準備するように言われたことなどないにもかかわらず,そのように言われたと思い込み,Cが,フックを動かすように指示を受けたことなどないにもかかわらず,そのように指示されたと思い込むとまでは考えにくい。
そうすると,本件事故発生前の作業状況に関する両名の証言は,細部はともかく前記にまとめた程度の限度では信用できる。
イ 本件事故発生時の本件伐木造材機械の状態及び被害者の体勢について
しかし,本件事故発生時の本件伐木造材機械の状態や被害者の体勢については,DやCは見ているわけではない。事故発生時の状況を最後まで見ていたのは被告人しかいない。この点で重要なのは,検察官,弁護人の双方が指摘するとおり,平成19年5月16日,土場において行われた実況見分での,被告人も立ち会った事故態様の再現である(甲43写真番号20ないし22)。
再現写真では,体を前に傾けた姿勢で頭部を突き出している被害者役の頭部を,両側から,アーム・ブームを伸ばして,地面とほぼ水平方向に開いたグラップルソーが挟む様子が示されている。この再現写真は,事故から3日後に作成されたものであり,被告人の記憶は比較的鮮明に保持されていたと考えられるし,被告人が,事故当事者として自己に有利に虚偽の事故状況を作出する動機を有しうるとしても,この再現の時点で,何が自分にとって有利なのか不利なのかを判断し,それに沿って虚偽の事故状況を作出することが可能であったとは考えがたい。一種の動作供述であるからどこまで正確に被告人の当時の認識を再現しているのかは慎重に吟味する必要はあるが,概ねこの程度の位置関係であったであろうという程度では,その信用性は高いといえる。
そうすると,本件事故時の本件伐木造材機械の状態は,この再現写真とほぼ同様であったと認められる。なお,被害者の肉片ようのものの位置(甲3写真番号12及び14,甲37)からすれば,挟み込んだ位置は前記再現よりも本件伐木造材機械寄りだった可能性もあるが,再現写真についてはもっこと仮装被害者の位置関係が分かりにくく,肉片ようのものが付着していたのが再現写真上のどこなのか明確でない上,被害者が挟み込まれた後に倒れた際や,その後の搬送の際についた可能性があることからすれば,肉片ようのものが付着していた場所から挟み込んだ場所を正確に特定することは困難である。
被告人は,本件事故直前の被害者の様子を見ていないから,本件事故時の被害者の姿勢は,この再現写真からは認定できない。しかし,被害者の頭部の傷害箇所が,左右側頭部及び顔面であり,左右側頭部の傷がそれぞれほぼ同様の形であること(甲38)からすれば,被害者は,まず,頭部の両側からグラップルソーで挟まれて左右側頭部に傷害を受け,その後,前のめりに倒れて顔面に傷害を負ったと考えるのが相当であり,本件事故発生時の本件伐木造材機械の状態が上記のとおりのものであったことも併せて考慮すれば,本件事故は,アーム・ブームを伸ばした本件伐木造材機械のグラップルソーが,体を前に傾けた被害者の頭部を,両側から,空中で,ほぼ水平方向に挟んだ結果として発生したものと認められる。
ウ 前記のとおり信用できるD及びCの証言並びに前記認定の事故発生時の本件伐木造材機械及び被害者の状態を踏まえると,本件事故発生に至る経緯及び発生状況は次のとおりと認められる。
被告人らは,本件事故の直前,土場にある浅瀬でもっこ1のみを使って作業をしていたが,被告人は,作業の効率を上げるため,もっこ2も含めた2個のもっこで作業することに決め,Dに対し,もっこ2を林道の奥に取りに行くよう指示した。Dは,林道の方へ向かい,林道の奥からもっこ2を引っ張り出すとともに,Cに対し,もっこ2を運ぶために,フックを林道の近くまで移動させるよう合図をした。他方で,被害者は,フックを移動させる前に,フックからもっこ1を外し,もっこ1は地面に折り重なるように置かれた状態になった。Cは,もっこ1が外されて何もかかっていないフックを,林道近くの,Dがいるところまで移動させた。D及びCは,そのころ,川の方の様子がおかしいことに気付いた。D及びCが,川の方へ様子を見に行くと,もっこ1の付近(別紙1-1(※)の付近)で被害者が倒れていた。
このことから,本件事故は,Dがもっこ2を取りに林道の方に向かってから,D及びCが異変に気付くまでの間に起こったものと認められる。なお,Cは,フックの移動を開始した時点では被害者の異変に気付かなかった旨証言しているが,フックからもっこ1を外したのが誰だったかは分からず,フックの移動を開始した後はフックを注視していたとも述べ,Dがもっこをフックにかけないのでおかしいと思うまで異変に気づいていないことからすると,Cの証言をもっても,本件事故が起きたのがフックを林道に移動させる前か,移動させている最中か,あるいは移動が完了した後かは断定できない。
そして,前記イで認定した本件事故発生時の状況からすれば,被害者は,もっこ1がフックから外された後,もっこ1が置かれた付近において,体を前に傾けた姿勢で,頭部の両側をグラップルソーの2本の爪で挟まれた後,前に倒れこんだものと認められる。
エ 以上を踏まえて,被告人が本件事故の際にグラップルソーを閉じる操作をした目的について検討する。
検察官は,被告人がグラップルソーを閉じた目的については,「作業上何らかの目的」と主張するのみである。もちろん,被告人がグラップルソーを閉じる操作をする以上,何らかの作業上の目的によるものと考えられるが,どのような作業上の目的をもって操作したかによって予見可能性の内実は変わってくる。
第1に,もっこ1が地面に折り重なった状態で置かれていたという状況から推測されるのは,折り重なったもっこを広げる作業(被告人はグラップルソーを操作して,被害者は手作業で同作業を行うことがあった。)である。しかし,仮に被告人がグラップルソーを操作して地面に置かれたもっこを広げようと考えたのであれば,グラップルソーは地面に置かれたもっこの方に向かって操作されるはずであり,前記認定のように空中で,地面と水平方向にグラップルソーを閉じる操作をするとは考えがたい。検察官はD証言をもとに地面にあるもっこを横からつかむことはあると主張するが,仮にそういうことがあったとしても,地面にかなり近いところで横からつかむということであって,前記再現写真のように「空中で」つかむということにはならない。そもそも地面の近くでもっこの横からグラップルソーを閉じれば,そのすぐ前にはもっこがあるはずであるが,ちょうどそのあたりに被害者が地面近くまで倒れてこないと被害者の頭部に前記認定の傷はつかない。そのような可能性はおよそあり得ないとまではいえなくともかなり考えがたい。
第2に,弁護人は,被告人が空中でグラップルソーを閉じた理由として,伐木現場から土場に戻ってきて,まだ吊されている状態のもっこの揺れを止めるためであったと主張しており,被告人もその旨供述しているが,前記認定のとおり,本件事故時には,もっこは地面に置かれていたのであるから,このような供述が事実であるとは認められない。
第3に,以上のほか,被告人が空中でグラップルソーを閉じる操作をした理由をうかがわせるものとして,労働基準監督官が本件事故から5日後の平成19年5月18日に被告人から録取して作成した供述調書(乙11)があげられる。同供述調書には,被告人は,「Dに,もっこ2を取ってくるよう指示した後,やはりもっこ1のみを使って作業を続けようと思いなおし,被害者に,もっこ1を再びフックにかけるよう指示した。ところが,フックが揺れていたので,グラップルソーを使ってフックの揺れを止めるために,フックを吊るしているワイヤーをつかもうとしたところ,誤って被害者の頭部をつかんでしまった。」旨の記載があり,これによるとするならば,もっこ1が地面に置かれた状態であっても被告人が空中でグラップルソーを閉じる操作をしたことが説明できる。しかも,かかる状況下では被害者もフックに近づくことが予想され,閉じるタイミングで被害者もフックの方向に近づいた(仮にそうだとしても,後記のとおり,最後は転ぶか何か故意でない動きがあったと思われるが)と考えれば被害者の動きも説明がつくが,もしこの推認が正しいのであれば被告人にかなり不利な供述である。ただし,この供述調書は,今から5年以上前に作成されたものであり,被告人自身,供述調書が作成された当時の記憶が希薄になっていることは被告人の公判供述から明らかであり,この調書の信用性についてもはや実効的な防御活動をすることは困難であって,この供述が信用できるかを今や検証することは相当でない。その上,検察官は,もっこを外すことができる程度にフックの揺れがおさまった後に,再び大きく揺れたのは不自然であると指摘しており,この供述が真実であるとは考えてない。いずれにせよ,このような調書を実質証拠として採用して犯罪事実の認定に用いるのは,被告人の防御権を保障する観点からは相当でない。したがって,当裁判所は,被告人の公判供述を弾劾するという観点から刑事訴訟法328条のみに基づいて同供述調書を採用した。同供述調書に基づいて本件事故の発生状況を認定することもできない。
そうすると,このほかに,被告人がグラップルソーを閉じる操作をした目的を認定するに足りる証拠はないから,結局,被告人がどのような目的でグラップルソーを閉じる操作をしたのかは,検察官の主張するとおり「作業上何らかの理由で」というほか全く分からないといわざるをえない。
オ 進んで,本件事故直前の被害者の位置,動き等について検討する。
(ア) 被告人が本件事故時どのような作業をしようとしていたのかは上記エで検討したとおり明らかではないが,前記イで認定した事故態様によれば,被害者は,本件事故発生時,本件伐木造材機械のほぼ正面からその可動範囲(アーム・ブームを最大限に伸ばし,360度旋回させた場合にアーム・ブーム及びグラップルソーが描く円状の範囲をいう。)に進入し,頭部をグラップルソーに挟まれたと認められるところ,Dは,重機が作業をしている時は,作業員は重機の届かないところに逃げていた旨証言しているし,被害者は,A産業で作業員として四,五年働いており,本件伐木造材機械を操作したこともあると認められる。そうすると,被害者は,本件伐木造材機械の死角の存在や同機械と接触することの危険性は十分認識し,作業中も気を付けていたと考えられるから,被害者が,故意に,本件伐木造材機械を操作する者にとって死角となるグラップルソーの正面方向から同機械の可動範囲に進入したとは考えられない。
そうすると,被害者は,本件事故発生時,本件伐木造材機械の可動範囲内に進入しないように気をつけていたものの,故意ではない事情,例えば,足下の何かにつまずいて転ぶ,体調不良あるいは立ちくらみやめまい等の理由で倒れるなどして,ほぼ正面から,体を前に傾けて頭部を突き出すような姿勢で同機械の可動範囲内に進入する形になり,被告人が何らかの目的で閉じる操作をしたグラップルソーに頭部を挟まれたものと考えられる。被害者の妻の検察官調書(甲28)などによれば,被害者は健康であったことが窺われるが,それまで健康な人間であっても,体調不良あるいは立ちくらみやめまい等の理由で倒れることはあり得ないことではないから,このような可能性を排除することはできない。そして,本件事故後に被害者が倒れていた周りに急な斜面がないことなどからすれば,被害者が,同機械の可動範囲から数メートル離れた場所から転ぶ等して可動範囲内に移動したとは考えられないから,被害者は,本件事故直前には,同機械のほぼ正面かつその可動範囲のすぐ外側に近付いていたものと認められる。
(イ) 被害者がどの時点から本件伐木造材機械のほぼ正面かつ可動範囲のすぐ外側にいたのかを的確に認定し得る証拠はないが,被告人は,本件事故の発生する前,アーム・ブームを旋回中に,被害者が,本件伐木造材機械の可動範囲から3ないし4メートル離れた位置に,被告人の方を向いて立っているのを見た旨公判廷で供述している。
被告人の供述によれば,アーム・ブームの旋回中に被害者を見てから,本件事故が発生するまでは数秒であったと考えられるところ,数秒間で被害者が同機械の可動範囲から3ないし4メートル離れた位置から,あえて事故の危険性が高い同機械の正面かつその可動範囲のすぐ外側まで移動するということはやや不自然とも思えるが,Dの証言によれば,本件事故当日は,同機械が作業をしている間も,作業員は,被告人の具体的な指示を受けることなく,同機械の可動範囲内の,同機械が作業上アーム・ブームを旋回させることがないと考えられる場所で待機することがあったと認められ,作業員は,同機械に接触しない程度の近距離までは,作動中の同機械に近付くことがあったと認められる。そうすると,被告人が被害者を見てから数秒の間に,次の作業の準備等何らかの理由で,被害者が同機械のほぼ正面かつその可動範囲のすぐ外側まで移動してくるということが全くあり得ないとはいえない。
前記のとおり,揺れているもっこを止めようとした旨の被告人の供述は事実とは異なっており,被告人は被害者を目撃した点についても罪責を免れるために虚偽を述べている可能性も考えられるが,同機械を操作していた被告人としては被害者がどこにいるかを全く気にとめていなかったとは考えにくい上,もし虚偽を述べようとすれば,被告人にもっと有利な状況を供述することは容易である。
以上を踏まえると,被告人の述べる被害者との距離関係はあくまで目測であって正確とはいえないとしても,アーム・ブームの旋回中に,本件伐木造材機械の可動範囲から数メートル離れた場所に被害者がいるのを見た旨の被告人の供述を虚偽であると断定することはできない。
(ウ) 上記のとおり,被告人の前記供述が真実である可能性を排斥できないのであるから,被告人の過失の有無を検討するに当たっては,被害者は,被告人がアーム・ブームを旋回中にその姿を見たときには,同機械の可動範囲から数メートル離れた位置におり,その数秒後被告人がグラップルソーを閉じる操作をするまでに,何らかの理由で,同機械のほぼ正面かつその可動範囲のすぐ外側に移動してきて,足下の何かにつまずいて転ぶ,あるいは体調不良や立ちくらみ,めまい等の理由で倒れた結果,グラップルソーに頭部を挟まれた,という経過を前提に検討する。
(2) 被告人の過失の有無について
ア これまで検討してきたとおり,本件事故発生時に被告人及び被害者がそれぞれ行おうとしていた具体的な作業内容は明らかではない。次に予定されていた作業が,被害者が本件伐木造材機械に近付く必要のあるものであった可能性もあるが,そうではなくて,本件伐木造材機械とは離れたところで何らかの作業をする予定であった可能性や,もっこ2の準備が完了するまでは何も作業をせずに待機するだけであった可能性もある。結局どのような状況であったか分からないのであるから,被告人にとっては,被害者が本件伐木造材機械に近付いてくることは予想外であったということも否定できない。
そうすると,結局のところ,グラップルソーを閉じる数秒前には本件伐木造材機械の可動範囲から数メートル離れた位置にいた被害者が,本件事故発生時に本件伐木造材機械のほぼ正面かつその可動範囲のすぐ外側に移動することを被告人が予見できなかったという合理的な疑いを排除することはできない。したがって,移動後の被害者が足下の何かにつまずいて転ぶ,あるいは体調不良や立ちくらみ,めまい等の理由で同機械の可動範囲内に進入してきて,被告人の操作するグラップルソーに接触する,あるいは頭部を挟まれるといった事故が発生することについても,予見できなかった合理的疑いは残る。
以上のとおりであるから,被告人に予見可能性があったとは認められず,それを前提とする注意義務違反は認められない。
イ なお,検察官は,被告人は,合図を定め,これに従って作業員との間で互いに位置や動作を確認し,安全を確認したうえでグラップルソーを閉じる操作をすべき注意義務を負っていたとも主張する。
確かにグラップルソーは人に接触した場合には重大な傷害を負わせる可能性があり,これを操作する場合には前記の合図をすべきルールを定めてそれに従うのが望ましいし,実際にこのような事故が起きている以上はなおさらである。しかしながら,かかる合図を定めるべき旨を規定する法令は,本件事故当時もないし,それから5年以上が経過した現時点でもない。E証人やF証人の証言等他の証拠によっても,このような合図を行うことが模範的な在り方であるということは理解できるが,本件事故当時,およそグラップルソーを操作する以上は,具体的な場面を離れていかなる場合においても,そのような合図をすべきルールを定めてそれに従うことが,刑法上の注意義務にまでなっていたとはいえない。
ウ 本件はまことに痛ましい事故であって,被告人のグラップルソーの操作によってこのような事故が起きている以上,被告人に何らかの過失があったのではないかとの嫌疑を捜査官が抱き,捜査するのは当然である。過失の有無を明らかにするには,本件事故発生時に被告人及び被害者がそれぞれ行おうとしていた具体的な作業内容を明らかにする必要があり,そのために事故直後の客観的な状況をできる限り保全し,客観証拠をもとに被告人,D及びCの供述の信用性を吟味して事実認定を行うほか,自動車事故などと違って法律家の常識では判断しにくい作業における事故なのであるから,同業者などにおいてどのような作業実態があるのかを調査する必要があることも,捜査のかなり初期の時点で分かっていたはずである。確かに事故そのものを目撃しているのは被告人しかおらず,被告人の供述に変遷もあったようなので,事実認定が難しい事件ではある。しかしながら,機械の製造過程のように多数の人が関与しているわけではなく,事情聴取を行うべき人は限られており,鑑定などの専門的知見が必要な事件でもないのであるから,捜査自体に長期間を要するという事件ではない。被告人が最初から捜査に非協力的だったわけではないであろう。
いつの時点で不起訴処分がなされたのか裁判所には分からないが,不起訴までにもそれなりの期間を要し,検察審査会の不起訴不当の議決後,補充捜査をして起訴するまでに本件事故から5年近くが経過した。公判前整理手続はかなり迅速に行い,裁判所が促して事故現場や機械等の検証を行うなどして真相の解明に努めたつもりではあるが,公判の時点においては,肝心の本件事故発生時の状況がぼやけてしまい,ピースが欠けたパズルを組み立てるように断片的に事実を認定することしかできなくなった。被害者が転んだり,病気のために倒れた可能性を考えても被告人に過失があると検察官が主張するのであれば,もっと早期に起訴できなかったのかという感を禁じ得ない。早期に公判が開かれていれば,結論はともかく,もう少し事故状況に迫ることができたのではないかと考えるからである。検察審査会の不起訴不当の議決後からの起訴検察官の努力は多とするものであるが,起訴の遅れにより,公判における事案の真相の解明は妨げられたというべきであり,これをもって被告人を不利益に扱うことはできない。
4 結論
以上のとおり,本件の証拠関係においては,被告人には注意義務違反(過失)があるとは認められず,業務上過失致死罪は成立しないから,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(検察官の求刑:禁錮1年)
(裁判長裁判官 平出喜一 裁判官 大橋弘治 裁判官 佃良平)
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