高知地方裁判所 昭和57年(ワ)484号 判決 1984年6月28日
原告
有限会社三里ハイヤー
被告
新谷恵俊
主文
一 被告は原告に対し金三〇万円及びこれに対する昭和五七年一一月九日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを七分し、その二を被告の、その五を原告の各負担とする。
四 この判決中、原告の勝訴部分は仮に執行することができる。
事実
一 原告の請求の趣旨
1 被告は原告に対し金一〇八万九九〇〇円及びこれに対する昭和五七年一一月九日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
との判決並びに仮執行の宣言を求める。
二 請求の趣旨に対する被告の答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
との判決を求める。
三 原告の請求の原因
1 原告と被告との関係並びに本件交通事故の発生
被告は、原告の従業員であり、昭和五〇年九月六日午後一一時五五分ころ高知市東城山町一〇六番地先路上を原告会社所有の営業用普通乗用自動車(高五五あ四四五八号)に乗車して原告のハイヤー運転業務に従事中、自動車運転者としてなすべき前方注視義務を怠り、脇見をしながら高速運転をしていたため、先行していた有限会社安全タクシーが所有し同社従業員上田南雄が運転していた営業用普通乗用車(高五五あ五〇七一号)に追突し、そのはずみで被追突車の前部左側を道路脇の電柱に衝突させ、これらの衝撃により右の上田南雄に傷害を負わせるに至つた。
2 本件交通事故により原告が受けた損害
右の事故により原告は同年九月一三日に有限会社安全タクシーに対し車両損害等として金八〇万円を支払うことを余儀なくされた。また原告所有の被告が運転していた車両も二八万九九〇〇円相当の修理を要する損傷を受けた。
3 よつて原告は被告に対し、民法七一五条三項所定の求償権及び同法七〇九条所定の損害賠償請求権に基づき、前記原告会社の損害合計一〇八万九九〇〇円及びこれに対する本件訴状送達による請求の翌日である昭和五七年一一月九日から支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
四 請求の原因に対する被告の認否
1 請求の原因1の事実中、高速走行していたとの点は否認し、その余は認める。
2 同2の事実は否認する。
五 被告の抗弁
1 原告と被告との間には、本件交通事故発生当時、被告の過失により交通事故が発生し、原告がその被害者に対し損害を賠償したときにも、原告は被告に対し求償権を行使しないとの合意が存在していた。
2 仮にそうでないとしても、本件交通事故発生当時、右合意と同趣旨の労使慣行が原告会社には存在していた。
3 使用者が、危険性が多く、損害をひき起しやすい労働を被用者に委せておいて、生じた損害をことごとく被用者に転嫁するのは不当である。また被用者は労働の危険性、疲労、仕事の単調さなど事故の原因となる圧力状態を従属労働の故に除去したり回避したりすることができないが、使用者は経営から生じる定型的危険について保険あるいは価格機構を通じて損失を分散できる立場にある。しかるに原告は交通事故に備えた対物及び車両保険に加入していなかつたものである。これらの諸点を併せ考えれば原告の被告に対する請求は負担の公平の見地及び信義則上大幅に制限されてしかるべきである。
しかも、原告は未組織の従業員に対して一日当り三万三〇〇〇円以上の水揚げノルマ、一日当り三〇〇キロメートル以上の走行距離ノルマを課し、右ノルマを達成できないときは呼びつけて注意し、始末書をとつている。そのため、被告は右のノルマを達成するため午前六時ないし七時に自動車に乗務し、翌日の午前五時ころやつと終業するという過酷な労働条件を強いられていた。しかも、被告は、本件事故当日に訴外山本徹から「社長がおまえはもつと走らんと首やと言いよつたぞ」と言われ、水揚げを増し走行距離を延ばすべく、あせつていた際、路傍の客と思われる人影に気をとられて本件交通事故を惹起した。
加えて、被告は、本件交通事故を契機として昭和五七年九月一一日原告から解雇の予告を受けたため、原告を相手方として地位保全の仮処分申請をし、その結果右解雇の予告は徹回されたが、その後原告から出勤停止処分を受けている。被告はこのように本件交通事故に関し相当の代償を支払わされているものである。
なお被告の勤務態度は真面目であり、水揚げ高も原告従業員のうちでは概ね中位にあつた。
従つて、原告が更に被告に対し求償権を行使し、損害賠償の請求をしてくるのは信義則上許されない。
六 抗弁に対する原告の認否
1 被告の抗弁1、2の事実はいずれも否認する。
2 同3の事実中、原告が対物及び車両保険に加入していなかつたこと、原告が被告に対し本件交通事故等を理由に昭和五七年九月一一日解雇予告の意思表示をし、予告期間の満了前である同年一〇月四日自発的にこれを徹回したこと、被告が地位保全の仮処分申請をしたこと、原告が同月九日付で被告に対し一週間の出勤停止を命じたことは認めるが、その余の事実は否認し、主張は争う。
なお、原告が、対物及び車両保険に加入していなかつたのは、原告が営業車八台の零細企業であり、対物及び車両保険は保険料が高額なのに比して効用が極めて低いことによるもので、このことは業界の一般的な実状でもある。
また、原告は従業員に対し一日当り三万三〇〇〇円以上の水揚げ、三〇〇キロメートル以上の走行距離を努力目標として提示しているが、これをノルマとして従業員に課しているものではない。なお、原告従業員の出勤日の勤務時間は午前七時から翌朝午前一時までである。
また、信義則に照らしても、本件交通事故の如く被用者の重大かつ一方的な過失により惹起した事故による損害については被用者の単独負担と解すべきものである。
更に加えて、被告は業務執行中に客引き、ポン引き行為を反復する等勤務態度が不良なため度々原告会社代表者らが注意し、始末書や誓約証を徴したこともあるもので、これらのことからみても、原告の本件求償権等の行使は信義則違反になるとはみられない。
七 証拠関係〔略〕
理由
一 請求の原因1の事実については、被告運転車両の速度の点を除いて当事者間に争いがなく、成立に争いのない乙第三ないし第七号証を総合すれば本件交通事故直前、被告は自動車を運転し時速約五〇キロメートルで走行していたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
次に、右事実並びに原告代表者尋問の結果真正に成立したものと認める甲第二ないし第四号証及び同尋問の結果を総合すれば、本件交通事故により原告は有限会社安全タクシーに対し損害賠償として八〇万円の支払義務を負い、昭和五七年九月一三日その支払をしたこと、また被告が運転していた原告会社所有車両に修理代として二八万九九〇〇円を要する損傷を受けたことがいずれも認められる。右認定に反する証拠はない。
二 被告が抗弁として主張する求償権を行使しない合意の存在または同趣旨の労使の慣行の存在について、右主張に添うところの乙第八号証並びに証人北川長広の証言、被告本人尋問の結果は次の事実に照らし直ちに採用できず、他に右主張事実を認めるに足る証拠はない。
すなわち、北川証人の証言、原告代表者、被告本人の各尋問の結果を総合すると、(1)原告会社で、かつて交通事故により原告所有の自動車が損傷を受けて、事故の相手方から休車損害の賠償金の支払を原告が受けたところ、当該自動車の運転者である原告従業員からその自動車の修理期間中に乗務できなかつたことの補償として右賠償金から支払をしてもらいたい旨の申出があつたが、原告代表者は右休車損害は原告の営業上の損害であることと、原告は原告従業員の過失により原告が損害を受けてもその賠償請求はしないことを理由に右申出を拒絶したこと、(2)原告代表者は原告従業員全員が集合している場所で、原告従業員の過失により原告が損害を受けても、その従業員に対し損害賠償の請求はしないとの趣旨の発言を数回したが、原告代表者としては、いかなる場合にも従業員に対し賠償請求をしないとの趣旨で右の発言をしたのではなく、右発言は、事故における過失態様、事故の程度、日頃の勤務態度によつては賠償請求をする場合もあるとの趣旨のものとして発言したものであること、(3)原告従業員も、前記原告代表者の発言は、従業員に重大な過失がある場合にも賠償請求をしない趣旨であるとは理解していないこと、(4)原告方では今までに三〇件位の交通事故があつたが、原告従業員が申出て自ら損害賠償をした一件を除いて、総て保険金または原告の出捐で損害を填補する等し、原告の方からその従業員に対し、求償権を行使し、または損害賠償を請求したことはないが、今までにあつた事故の大部分は相手方にも過失がある場合であり、原告従業員の一方的な過失による場合でも原告の損害額は三〇万円か四〇万円程度以下であること、(5)原告会社には交通事故について原告と従業員との損害負担の割合を定める具体的な基準はなく、また今までの事故の処理状態から一定の慣行を見出すまでにもなつていないこと、がいずれも認められる。そして、右の認定事実を総合すると、原告と原告従業員との間には、相手方にも相当な過失がある場合や軽微な損害が発生したに過ぎない事故については、原告はその従業員に対し求償権、損害賠償請求権の行使はしないとの了解があつたが、更にどのような交通事故の場合にも原告がその従業員に対し求償権、損害賠償請求権を行使しないとの合意または労使の慣行は存在せず、したがつて、いかなる交通事故の場合に原告とその従業員がいかなる場合でその損失を負担するかは公平、信義則の見地から具体的事情に応じて決すべきほかはないものである。
以上のとおりであり、結局被告の抗弁1、2は理由がないものである。
次に、原告が交通事故に備えての対物及び車両保険に加入していなかつたことについては当事者間に争いがない。そして、このことと、(1)前示のとおり、原告はその従業員に対して今まで交通事故による求償権、損害賠償請求権を行使したことがないこと、(2)また、本件事故は被告の一方的な過失により発生したものであるが、その過失内容は前方注視義務違反というものであつて、極めて危険な行為ではあり、かつ自動車運転者の過失としては、もつとも基本的な注視義務に違反するものであること、(3)前掲乙第三ないし第七号証により認められるところの被告が前方注視を怠つたのは路傍の客らしい人影に気をとられての結果であること、(4)被告本人尋問の結果真正に成立したものと認められる乙第一号証並びに原告代表者、被告本人各尋問の結果により認められるところの、原告会社では一日当り水揚げ三万三〇〇〇円、走行距離三〇〇キロメートルを従業員の努力目標としていること、勤務は隔日勤務で実働一六時間とされていること、被告は水揚げの四五パーセントの歩合給であつたことの諸点を併せ考えれば、原告が本件交通事故によつて蒙つた全損害を被告に請求することは、使用者と被用者の負担の公平の見地や、その関係を規制する信義則に照らし許されないところというべきである。そして、このことは成立に争いのない甲第六号証、第一三ないし第一六号証、第二一ないし第二四号証及び原告代表者、被告本人各尋問の結果により認められるところの、被告は原告から勤務成績や勤務態度が不良であり就業規則に違反する行為があるとして始末書を出されていることなどを考慮しても変らない。
そして、以上の諸事情を考慮し、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められるところの、原告から被告に対する求償及び損害賠償を請求し得る限度は、三〇万円をもつて相当というべきである。
次に訴状送達による請求の翌日が昭和五七年一一月九日であることは本件記録上明らかである。
三 以上の次第で原告の本訴請求は三〇万円及びこれに対する昭和五七年一一月九日以降支払済に至るまで年五分の割合の遅延損害金を求める範囲で正当としてこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 金子與)