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鹿児島地方裁判所 平成2年(行ウ)2号 判決

原告

山本瑠璃

右訴訟代理人弁護士

増田秀雄

佐伯仁

萬場友章

被告

地方公務員災害補償基金鹿児島県支部長 須賀龍郎

右訴訟代理人弁護士

和田久

事実及び理由

第三 争点に対する判断

一  亡山本の死因等について

1  証拠及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、これらの認定を覆すに足りる証拠はない。

(一)  亡山本の本件研修会前の健康状態

(1) 遺伝的要因(〔証拠略〕)

亡山本の実母は、四三歳時に脳溢血で死亡している。

(2) 亡山本の健康状態(〔証拠略〕)

亡山本は、昭和五一年ころに高血圧症と指摘されたが、その後の診療経過等については、以下のとおりである。

職員健康診断票によれば、昭和五六年六月三〇日から同五九年五月二二日までの間、身長一五八・〇センチメートル、体重六二キログラムに変化はなく、同五六年六月三〇日の血圧は一五六/八四mmHg(以下、数値のみ)、同五八年六月三〇日の血圧は一八四/一一八である。

同五五年一二月五日及び一二日に、大野医院において受診し、初診時の血圧は一八六/一〇〇、総コレステロール値(CHO)は二四五mg/dl(以下、数値のみ。正常値は、一五〇~二五〇。)、中性脂肪値(TG)は一八〇mm/dl(以下、数値のみ。正常値は、四〇~一八〇。)で、高血圧症と高脂血症の合併が認められ、同五六年二月ころまで、降圧剤と動脈硬化用剤を併用し、同年初頭からは、血圧一六〇/九〇台を維持していた。

同五七年七月三日に、政医院において受診し、初診時の血圧は一五〇/八〇で血圧下降剤の投与を受け、同年九月までは上昇下降を繰り返したが、同年一〇月以降は一三〇/八〇ないし一四〇/八〇と正常値であった。同五八年一月七日に血圧は一六〇/一〇〇に上昇し、その後、同年三月ころまでは正常値であったが、同年五月には一七〇/一〇〇に、同年六月には一五〇/一〇〇に上昇した。同年七月から一〇月までは受診せず、同年一二月には一六〇/九〇ないし一六〇/一一〇で降圧剤の投与を受けても治療効果はなく、同五九年一月一九日にも降圧剤の投薬を受けたが、その後受診しなくなった。なお、政医師は、亡山本の血圧の上昇は、体調と飲酒が原因であることが多いと指摘している。

同月二一日、稲医院において受診し、初診時の血圧は一八四/九〇、総コレステロール値(T-CHO)は二三八・六、トリグリロライド(中性脂肪値)は一四二・六で、眼底血管の動脈硬化性変化(眼底所見キース・ワグナー分類二度)及び肥満度(+二九パーセント)も認められ、本態性高血圧症兼高脂血症兼動脈硬化性網膜症と診断されて、メルラクトン錠(降圧剤)、モリステロール(脂質代謝改善剤)、ユベラニコチネート(抹消血管改善剤)の投薬を受けた。その後、血圧は、同月二八日には一七八/九六、同年二月四日には一五四/八八と下降し、受診はせずに、投薬のみ続けられた。同年三月二四日には、血圧が一六〇/九〇、総コレステロール値が一八六・〇、中性脂肪値が一二九・四であったが、その後は受診せず、投薬のみを受け、同年七月三〇日に一四日分の内服薬(右記三種類)の投薬を受けた。

(3) 天保山記念病院での人間ドック検査(〔証拠略〕)

亡山本は、昭和五九年七月一三日から八月二日までの間、天保山記念病院において人間ドック検査を受けたが、その際の健康質問表では、他の人より早く息切れがする、医者に動脈硬化症といわれたことがあるとの項目について、一旦「はい」と記入しながら、これを訂正して「いいえ」と記入している。そして、人間ドック検査においては、血圧は、七月三一日の入院時が一七二/九二、同日夕方が一七〇/八八、八月一日が一六八/九〇であり、コレステロール値(TC)は一九四、中性脂肪値は三三一であった。天保山記念病院の窪薗修(窪薗)医師は、総合判定において、肥満、高血圧症及び中性脂肪が高いことを指摘して、<1>日常生活上の注意として、食事の量及び蛋白質・動物性脂肪・糖質・塩分の摂取を減じ、飲酒を減らし、喫煙を止め、やせる必要があるとするが、仕事については今までどおりでよいとし、<2>健康管理上の注意事項として、食事療法により、肥満・高血圧症・痛風・糖尿病・高脂血症を防止することを促している。

なお、亡山本は、人間ドック検査の際に、いわゆる脳ドックは受けていない。

(4) 高血圧症重症度分類(〔証拠略〕)

東京大学三内科高血圧症重症度分類によれば、重症度を〇ないし四の五段階で、数値が大きいほど重症であると分類されているが、一度ないし三度の脳血管障害・心不全については、以下のとおりである。

一度(収縮期血圧一四〇~一五〇・拡張期血圧九〇~九四・平均血圧一〇七~一一六)では、脳血管障害によると考えられる頭痛、頭重、めまい、手足のしびれ感などの自覚症状を有するが、他覚的所見がない。

二度(収縮期血圧一六〇~一八四・拡張期血圧九五~一〇四・平均血圧一一七~一三一)では、脳出血、脳梗塞などの既往があるが、現在他覚的所見がほとんどないもの、単に片側腱反射の亢進、病的反射のみ持続するもの又は一過性脳虚血発作であり、また、日常生活がわずかに制限される程度で、日常の労作で動悸、息切れなどの心不全症状がある。

三度(収縮期血圧一八五~二一九・拡張期血圧一〇五~一一九・平均血圧一三二~一五二)では、脳出血、脳梗塞などの既往があり、現在他覚的神経所見を残すが、独自で日常生活を営むことができるものであり、日常生活が制限され、普通以下の労作で動悸、息切れなどの心不全症状があるものである。

(5) キース・ワグナーの重症度分類(〔証拠略〕)

キース・ワグナー分類では、重症度を一から四の四段階で、数値が大きいほど重症であると分類されているが、耳側動脈及び鼻側動脈について、二度では、眼底に出血はないが、動脈硬化があり、三度以上では出血があるとされている。

(二)  本件研修会期間中の状況

(1) 頭痛の発症(〔証拠略〕)

亡山本は、研修会の参加者であった川上定夫(川上)・三島正雄(三島)らに対し、昭和五九年八月七ないし九日のいずれの帰路においても、疲れた、頭痛がする旨を話していた。また、川上には、亡山本の顔がだんだん赤みを帯びていき、動作も小さく、緩慢で弱々しく、無理をしているように感じられた。

しかし、亡山本は、三種類位の薬を服用していたが、講義の記録をよくノートにとっており、講義等の際にうつ伏せになるようなこともなく、研修期間中の昼食として購入した弁当は、残さず食べていた。

(2) 原告への連絡(〔証拠略〕)

亡山本は、本件研修会参加のために鹿児島市に来てからは、午後七時ころに原告に連絡するようにしていたが、その際には、暑くて疲れた旨の話はしたが、頭痛がするなどの話はしていない。

(三)  嗜好(〔証拠略〕)

亡山本には、喫煙(一日一箱位)・飲酒の習慣があったが、喫煙については控えようとしており、飲酒については、昭和五五年一一月ころに胃潰瘍で通院治療を受けた後は、出来るだけ控えるようにしており、自宅では、焼酎のお湯割りコップ一杯程度を何日かおきに飲む程度であったし、職場でも、同五六、七年ころまではよく飲んでいたものの、同五八年ころからはかなり控えているようであった。

(四)  亡山本発見に至る状況

(1) 下宿先帰宅後の経過(〔証拠略〕)

亡山本は、昭和五九年八月九日の研修会が午後四時三〇分に終了した後、電車での帰路途中に川上・三島と別れ、その後、同日午後一〇時ころ、原告に対し、天文館通りで外食をして帰ったところである旨を架電した。

(2) 亡山本発見時の状況等(〔証拠略〕)

昭和五九年八月一〇日、亡山本が研修会場に出席しなかったため、主催者関係者らは亡山本の下宿先を訪れ、テレビが付けられたままで、中央付近のマットレス上に亡山本が仰向けに横たわって死亡しているのを確認した。同日午前一一時二〇分ころから午後零時三〇分ころまでの間に福崎三彦(福崎)医師によって死体検案が行われたが、同人の顔近辺には、食後約一時間経過後のものと思われる食物残渣を含む吐物があり、その中にはコーヒー残渣様の茶褐色吐物が混在していた。また、枕元には、稲医院の投薬袋とともに、メルラクトン錠(降圧剤)、モリステロール(脂質代謝改善剤)、ユベラニコチネート(抹消血管改善剤)が散乱していた。顔面はうっ血状であり、多量の尿失禁があったが、全身に顕著な損傷異常は認められなかった。なお、机の上ないし枕元に半分位入った焼酎一升瓶一本が置いてあり、机の上に湯呑みが置いてあったが、福崎医師らは、アルコール臭を確認するには至らなかった。

福崎医師は、亡山本の死体の状況等から、死後約一〇時間を経過した病死体と判断し、死亡時刻を、同日午前二時ころと推定した。

2  以上によれば、亡山本の健康状態は、本件研修会参加前は、肥満傾向に加えて、中等症程度の高血圧症、高脂血症等の基礎疾患があり、眼底血管の動脈硬化性変化(キース・ワグナー分類二度)も認められて降圧剤等三種類の内服液の投薬を受けるなどの通院治療を受け、血圧は上昇下降を繰り返しながら、大凡中等症程度の高血圧のまま推移し、飲酒・喫煙の習慣も、節制しつつあったとはいうものの、止めるまでには至らない状態であったが、特段の他覚的所見等は見られず、日常生活においても支障はなかったにもかかわらず、本件研修会開始後は、頭痛を訴え、顔面が赤みを帯びてくるなどの症状を示し始めたというものである。

3  亡山本の死因及びその発症機序に関する医師の意見

亡山本については、死体の解剖がされていないため、その死因を確定的に判断することはできないが、前記認定事実を前提とする亡山本の死因及びその発症機序に関する医師の意見は、以下のとおりである。

(一)  福崎医師(〔証拠略〕)

(1) 死因について

急激な脳中枢神経系の血管損傷(脳幹部の大出血)を起こして急死したものと推定され、血管損傷ないし障害の具体的原因としては、脳出血ないしくも膜下出血の可能性がある。

(2) 発症機序について

中枢神経系の血管損傷とは、脳溢血、脳出血及び脳梗塞の総称であるが、通常、高血圧(動脈硬化)等がその身体的原因であり、これに環境因子として、食生活、気候、住居、労働条件等の多元的因子が複合的に積み重なって発症に至る病変が起こる。そして、高血圧症、高脂血症が基礎疾患として動脈硬化症を徐々に進行させ、中枢神経系の血管損傷を引き起こす危険性があるが、一方、気象関係、過酷な勤務等によって動脈硬化症が急激に増悪されて、中枢神経系の血管損傷を引き起こす可能性もある。

(二)  野元域弘(野元)医師(〔証拠略〕)

(1) 死因について

亡山本の直接的死因は、脳血管障害死(脳卒中)であると思われる。その死因が高血圧性脳出血であるか動脈瘤破裂であるかについては、症状発現から死亡までの時間は約四時間であると推定されるところ、高血圧性脳出血では特別な部位(橋、小脳)でない限り急死例が少ないから、脳動脈瘤破裂の可能性が高いが、高血圧性脳出血も完全には否定できない。

(2) 発症機序について

脳動脈瘤は、脳動脈の壁(血管平滑筋がある中膜)が膨らんだものであり、その成因については、動脈壁の先天的異常、動脈硬化、高血圧、年齢、血行力学的ストレス等が挙げられている。そして、動脈瘤破裂の原因については、血圧の変化(特に血圧上昇)、動脈瘤部の血流の変化、動脈瘤壁の脆弱性等であるといわれているが、血管壊死(内膜壊死)が最も大きな原因であると思われる。

高血圧性脳出血は、何らかの原因による抹消血管抵抗の上昇によって惹起される。すなわち、高血圧症患者では、脳の細小動脈に種々の変化が起こり、血管の中膜が薄くなり、動脈壁が脆弱化(壊死)し、多少の血圧の変化(特に血圧上昇)等で出血を引き起こし、高血圧性脳出血になる。

亡山本については、高血圧症、高脂血症等複数の動脈硬化促進因子が認められるから、かなりの脳動脈病変があったため、僅かな血圧の変化(特に血圧上昇)でも出血を惹起したものと考えられる。

(三)  恒成茂行(恒成)医師(〔証拠略〕)

(1) 死因について

本件災害は、脳血管障害(脳卒中)に基づくものと推定できる。脳血管障害には、脳動脈瘤破裂、くも膜下出血、高血圧性脳内出血(脳溢血)等があるが、本件については、大脳底面の動脈瘤の破裂により、脳底槽を中心としてくも膜下出血が形成され、急激な脳幹部機能不全並びにくも膜下出血後の脳浮腫及び頭蓋内圧亢進によって急病死した可能性がある。

(2) 発症機序について

動脈瘤形成の身体的要因としてのリスクファクターは、喫煙、高血圧症及び高脂血症が主要なものであり、その破裂の発症は、直接身体的反応として生じる場合と、身体的、精神的ストレスによる心理的反応に引き続く、血圧・血流の変動という身体的反応として生じる場合とがある。後者においては、身体的・精神的ストレスによる血圧の上昇に伴う血流の変化によって破裂することが最も多い。

(四)  森竹浩三(森竹)医師(〔証拠略〕)

(1) 死因について

脳動脈瘤破裂による重度くも膜下出血あるいは高血圧性脳(脳幹部)出血である。

(2) 発症機序について

動脈瘤破裂は、特別なストレスが加わらなくても発症するが、何らかのストレスが加わった状況下で発症した症例が多いと報告されており、また、高血圧もその発症の因子の一つとされ、通常、一過性血圧上昇によって誘発される。

高血圧性脳内出血の原因として最も頻度が高いのは高血圧症であり、持続性高血圧による小動脈障害部からの破綻性出血(脳内小動脈の血管壊死)によって誘発される。

いずれについても、殆どが高血圧を基盤に発症するとされており、血圧、心電図異常、眼底異常(キース・ワグナー分類二度以上)、多量の飲酒の習慣、脳卒中の家族歴等が危険因子として指摘されている。また、喫煙も、脳出血、脳梗塞の有意な因子であり、くも膜下出血の明らかな危険因子であるとされている。

亡山本については、高血圧症等の基礎疾患によって血管脆弱部(微小動脈瘤ないし動脈瘤)が既に形成されており、それが破綻して大量の脳出血、脳幹出血、くも膜下出血のいずれかを発症させたものと思われる。

4  前記1ないし3を総合考慮するならば、亡山本については、高血圧症、高脂血症等の基礎疾患によって、一定程度の動脈硬化症の進行ないし脳動脈病変の形成(動脈瘤、動脈壁の脆弱化等)があったものと推認でき、昭和五九年八月九日午後一〇時ころ、それが原因となって血圧の上昇等により動脈瘤が破裂し、あるいは血管脆弱部が破綻して出血するなどして、脳動脈瘤破裂、くも膜下出血、高血圧性脳出血のいずれかを発症し、ひいては脳血管障害を発症して、翌一〇日午前二時ころに死亡したものと認められる。

二  本件災害の公務起因性について

1  地方公務員災害補償法三一条にいう「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、右負傷又は疾病と公務との間に相当因果関係のあることが必要であり、その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならない(最高裁昭和五一年一一月一二日第二小法廷判決裁判集民事一一九号一八九頁参照)。そして、負傷又は疾病と公務との間の相当因果関係は、経験則、科学的知識に照らし、その傷病が当該公務に内在又は随伴する危険の現実化したものである場合に、はじめて認められるものであるというのが相当である。

右に照らせば、本件災害と公務との間の相当因果関係の有無は、教務主任就任後の亡山本の従事した日常業務及び本件研修会が、教務主任就任前の日常業務ないし本件研修会前の日常業務に比較して、特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせると客観的に認められるものであるかどうか、また、脳血管障害は、教務主任就任後の日常業務及び本件研修会によって受けた精神的、内体的負荷によって血圧が上昇したために、亡山本の基礎疾患が、医学経験則上の自然的経過を超えて急激に増悪されて発症したものであるかどうかなどの観点から判断する必要があるというべきである。

2  本件災害と公務との間の相当因果関係の有無

そこで、さらに亡山本の前記日常業務、本件研修会の内容及び亡山本の行動経過等についてみると、証拠及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、これらの認定を覆すに足りる証拠はない。

(一)  亡出本の業務内容等

(1) 業務内容等(〔証拠略〕)

亡山本は、昭和三五年四月一日に小学校教諭に採用され、以後、奄美大島内において小、中学校教諭の職にあり、同五六年四月から大棚中学校に勤務するようになった。なお、亡山本の自宅から同校までの通勤時間は約四〇分であった。

同校は、大棚小学校との併設校で、同五九年度においては、児童生徒数八七名(内中学校三二名)、職員数一六名(校長、教頭、養護教諭及び事務職員各一名は、いずれも兼務。教諭は小学校五名、中学校七名)という小規模校である。

同校の校務分掌組織(昭和五九年度)は、学年担任・教務・教科・道徳・生徒指導・保健・進路指導・庶務・会計・施設設備に分掌されており再教務に関する校務は、更に教務、研修、教育方法、特殊教育、広報・渉外に細分化され、それぞれが更に細分化されていて、そのそれぞれについて担当職員が決められていた。亡山本は、教科のうち英語(週九時間)及び技術家庭(週四時間)(加えて、クラブ活動週一時間)を、教務のうち校務分掌計画、教育課程編成、学籍管理、抄本・指導要録写、教育設備の改善・研究をそれぞれ担当するなどの業務に従事し、特に、昭和五九年四月からは教務主任として教務に関する業務についての職員との連絡、調整を行う立場にあったが、他面、学年担任は担当しなくなった。また、同人は、これら業務に関連して、月二ないし四回程度の会議(中学校部会・企画委員会・生活指導委員会)に出席するなどし、また、後記認定のとおり出張をするなどしていた。

なお、亡山本は昭和五八年度には、前記教科担任に加えて、中学三年生の学年担任、進路主任等の業務に従事していた。

(2) 本件災害前六か月間の勤務状況(〔証拠略〕)

昭和五九年三月から本件研修会までの亡山本の勤務状況は、超過勤務が二回(各一時間半のPTA関係の会議出席)、出張が七回(六月以外は月一回。内六回は奄美大島内での二時間から終日の出張、内一回は鹿児島市への二日間の出張。)、年次有給休暇が一三回(四及び五月に各四回、六月に三回、七及び八月に各一回。一時間から一日。)、職務専念義務免除(夏期自宅研修)が七月二三日から同月二八日まで、特別休暇(人間ドック検査のため)が同月三〇日から八月三日までであって、それ以外は通常のとおり平常勤務しており、昭和五五年度以降と比較しても、休暇の取得状況に特段の変化は見られない。また、この間、亡山本自身、特に心身の異常等を訴えることもなかった。

(3) 教務主任をめぐる経緯等(〔証拠略〕)

亡山本は、校長から教務主任就任を依頼された後、大棚中学校の同療教諭ら六名に、就任を依頼されたことの報告と、他の者に引き受けてもらえないかとの相談をしたが、同僚教諭らは、亡山本に協力するので頑張ってもらいたいとして同人に就任依頼を引き受けるように勧め、その後も、同人の教務主任としての業務遂行に協力的であった。

また、「夏休みの友」の採否をめぐっては、昭和五二年ころから議論があり、同五八年ころからは、夏休みの約一か月前ころになるとそれに関する教育論議が繰り返されるようになり、同五九年度においても、同僚教諭らは、「夏休みの友」を夏休みの補助教材として採用すべきであるとしてこれを発注し、同年七月二〇日ころにそれを受け取ったが、校長は、その採用に反対しており、教務主任であった亡山本は校長に叱責され、配布された「夏休みの友」を回収することになった。

なお、県教委委員長は、市町村教育委員会教育長に対し、長期休業中の学習課題の在り方をめぐって、学校における教育活動の正常な運営が阻害され、父・母・県民の学校に対する信頼を損なうような事態が生じているとして、長期休業中の学習課題の在り方について、厳正かつ適切な指導を行うべきことを通知している(昭和五九年一一月一七日鹿教学第一〇一三号「長期休業中における学習課題について(通知)」)。

(二)  本件研修会開始前の経過

(1) フェリーによる移動(〔証拠略〕)

亡山本は、昭和五九年七月三〇日午後一〇時五分ころ、「あけぼの丸」(フェリー)に乗船して名瀬港を出港し、同月三一日午前九時三〇分ころに鹿児島港に入港したが、台風の余波により、当初の予定時間よりも出発時間が五分、到着時間が三〇分遅れ、航行中も相当揺れていた。

亡山本は二等船室を利用したが、利用客が多く、混雑していた。

(2) 人間ドック検査(〔証拠略〕)

鹿児島港に到着した亡山本は、一旦長男哲男の下宿先に立ち寄り、テレビを見て過ごした後、昭和五九年七月三一日午後五時前ころ、人間ドック検査のため、同年八月二日までの予定で天保山記念病院に入院した。同病院においては、丸一日間食事をとらないようにした上で、身体の各部位の診断を受けたが、同人は、胃カメラによる検診は受けなかった。

亡山本は、原告に対し、同月一日午後七時ころには、前夜からの断食と検査のために疲れたが、既に食事をとり、元気になった旨、同月二日午後七時ころには、検査日数を延長して検査を続けるように勧められたが、本件研修会の日程との関係で断って退院した旨を架電して伝えた。

(3) 本件研修会までの経過(〔証拠略〕)

昭和五九年八月三日は、鹿児島市に来る二男寛大を迎えに港に赴いた後、親子で一日中休養し、同月四日も、寛大が風邪で発熱したため、下宿先において終日テレビを見て過ごして休養したが、翌五日には、同人の風邪が回復したので、鶴丸高校等同市内を見物にタクシーで出かけた。

(三)  下宿先の住環境(〔証拠略〕)

亡山本は、昭和五九年八月二日に天保山記念病院を退院してからは、前記下宿先に滞在したが、下宿先は、六畳一間の木造住宅で、風呂も冷房設備もないものであった。また、同月七日までは、亡山本ら三人が下宿先に寝泊まりしたが、哲男・寛大は同日名瀬市に帰島したため、その後は、亡山本一人が下宿先を使用することとなった。

(四)  研修会開催をめぐる混乱(〔証拠略〕)

研修会初日の昭和五九年八月六日は、午前九時から一〇時までの間が受付時間であったが、本件研修会開催に反対していた教職員組合の組合員約六〇〇名が西高校正門前において、スクラムを組んでピケを張り、シュプレヒコールを上げて参加者の入場を阻止しようとした。午前一〇時二〇分ころ、警察の警告等によりピケは解かれたが、参加者の入場にあたっては、右組合員らがヤジを飛ばし、怒号していた。こうした混乱の結果、参加者二三三名の入場は、午前一〇時五五分ころになってようやく完了した。しかし、その後は、予定どおり研修会が実施され、二日目以降は教職員組合による阻止行動等もなかった。

(五)  本件研修会の日程等

(1) 開催時期及び会場の選定(〔証拠略〕)

県教委は、文部省からの指導を受けて本件研修会の開催を計画したが、日程の調整に際しては、夏休み期間中が講師の手配等の準備がしやすいこと、鹿児島県内には離島が多く存在するために、学校運営上最も支障が少ない時期であることなどを考慮して、昭和五九年八月六日から同月一一日までの日程で開催することを決定した。また、会場の選定に際しては、当初、鹿児島県立鶴丸高等学校での開催が予定されていたが、工事のために使用できず、他の高校も、補習等のため使用できない状況であったし、教職員組合の本件研修会開催の反対により、鹿児島市中心地域での開催は付近に迷惑をかけるおそれがあることなどが考慮され、西高校で開催されることになった。

(2) 編成(〔証拠略〕)

研修会は、鹿児島県内の公立小、中、高、特殊教育学校の新任教務主任を対象とし、小学校三組(四三名)、中学校二組(三三名・三四名)、高校・特殊教育学校一組(三七名)でそれぞれ編成され、亡山本は、中学校二組(三四名)に配属されて、三階三〇一号室で研修を受けた。

(3) 研修内容(〔証拠略〕)

研修は、午前九時から午後四時三〇分まで、途中休憩(一五分)及び昼休み(一時間)を挟みながら九〇分単位で行われ、内容的には、教務主任の業務及びそれに関連する学校教育の方法等について、講義及び演習を中心に、ビデオ視聴、全体講演等も織りまぜて実施されたが、亡山本が参加した中学校二組の具体的内容は、以下のとおりである。

<1> 八月六日(一日目)

午前一〇時五五分 体育館で受付・会場説明

午前一一時〇五分から午後零時一五分 「学校教育の現状と課題」

(講義)

午後一時一五分から二時四五分 「郷土愛を育む郷土教育の進め方」

(講義・討議)

午後三時から午後四時三〇分 「心身障害児の理解」(講義・ビデオ視聴)

<2> 八月七日(二日目)

午前九時から午後零時一五分 「調和のとれた児童生徒を育てる教育課程の管理」(演習)

午後一時一五分から午後四時三〇分 「教務演習」(演習)

<3> 八月八日(三日目)

午前九時から午前一〇時三〇分 ビデオ視聴(視聴・感想)

午前一〇時四五分から午後零時一五分 「活力ある学校づくりを目指す教務主任の役割について」(講義・協議・演習)

午後一時一五分から午後四時三〇分 「教育活動をめぐる諸問題」(講義)

<4> 八月九日(四日目)

午前九時から午前一〇時三〇分 「生き方を学ぶ道徳教育の内容と方法」(講義・演習)

午前一〇時四五分から午後零時一五分 「自己実現を図る特別活動の内容と方法」(講義・演習)

午後一時一五分から午後三時一五分 「時代を読む」(全体講演)

午後三時三〇分から午後四時三〇分 「人権尊重の精神を育むために―同和教育への道しるべ―」(全体講演)

<5> 八月一〇日(五日目)

午前九時から午後零時一五分 「指導力を伸ばす校内研修のすすめ方」

午後一時一五分から午後三時一五分 「自ら学ぶ力を育てる学習方法の在り方」

午後三時三〇分から午後四時三〇分 「指導に生かす評価の在り方」

<6> 八月一一日(六日目)

午前九時から午後零時一五分 「健全な児童生徒を育てる生徒指導のすすめ方」

午後零時一五分から午後零時三〇分 閉会行事

(4) 研修会場(〔証拠略〕)

西高校の各教室、体育館にはエアコン等の冷房設備はなく、研修期間中、各教室に扇風機が配置されることもなかったが、参加者のために、氷水、冷やし麦茶等が用意された。教室では、火山灰が吹き込むのを防止するために、窓は閉め切られたままであったが、教室と廊下の間の窓ガラスは全部外されていた。体育館における全体講演の際には、出入口及び窓の一部は開け放たれていたが、内部の暑さ等が和らぐこともなく、扇風機六台、氷柱(高さ約四〇ないし五〇センチメートル、厚さ約二〇センチメートル)一〇本程度が設置されても、同様であった。参加者らは、休憩時間になると、氷柱の立っているタライで、ハンカチ・タオルなどを濡らして、汗を拭うなどした。

また、各教室においては、参加者は、生徒用の木製ないしスチール製の机及び椅子を使用し、体育館においては、スチール製のパイプ椅子を使用した。

なお、亡山本が配属された中学校二組を除く参加者らの感想によれば、一一三名中四三名が「もっと良い環境下で実施されたい(暑すぎる。)。」とした。

(5) 研修中の状況(〔証拠略〕)

県教委は、各教室に講師とは別に補助員一名を配置し、出欠の確認、資判の配布、弁当の注文、冷やし麦茶の設置等を行わせた。補助員は、一日目には教室の後方に座っていたが、二日目からは廊下に座っていた。また、体育館での全体講演の際には、参加者らの両側及び後方に県教委職員等一〇数名が着席参加していた。

(6) 研修中の健康・安全管理について(〔証拠路〕)

県教委は、昭和五九年八月六日の開会行事終了時及び同月七日の研修終了時に、途中で気分が悪くなった場合は補助員等へ必ず申し出て欲しい旨を参加者らに伝えて、保健室を開放するなどしており、また、慢性肝炎のために休息を要する参加者に配慮し、ぎっくり腰の治療中である参加者の交通手段にも配慮するなどしていた。しかし、保健室を利用したのは、慢性肝炎のために一日おきに一五ないし二〇分間の休息を要する旨を申し出ていた参加者のみであり、研修による疲労を理由に欠席した者もなかった。

(一)  気象条件

(1) 本件研修会中の鹿児島市内における気象条件(〔証拠略〕)

研修期間中の気象条件は、鹿児島地方気象台(鹿児島市荒田一丁目二四番一三号所在)における昭和五九年八月六日午前一〇時から同月九日午前零時までの気温、湿度及び降灰量の記録によれば、以下のとおりである。すなわち、最高気温は、六日が三二・七度(鹿児島気象旬報では三三・二度。以下、括弧内の数値は鹿児島気象旬報による。)、七日が三二・三度(三二・四度)、八日が三五・五度(三五・九度)、九日が三五・八度(三六・〇度)で、研修会が行われた時間帯については、連日三〇度以上の高温が続き、右期間中の最低気温は、二五・七度(二五・四度)であった。特に、体育館で全体講演が行われた同月九日午後一時から午後五時までについては、気温が三二度から三五・八度で推移し、湿度は四九パーセントから六七パーセントで推移し、その間の不快指数は、大凡八〇から八五で推移した。また、同月六日午前九時から同月七日午前七時までの間に、一平方メートル当たり六グラムの降灰があった。

右のような気象条件は、平年比数では、最高気温が一・三度高く、最低気温が〇・七度高いが、昨年比数では、最高気温が〇・三度低く、最低気温も一・二度低い。

なお、日本人の体感と不快指数との対応は、八〇以上になると「暑くて汗が出る」ようになり、八五以上になると「暑くてたまらない」ほどになるといわれている(気象庁観測技術資料NO.20)。

(2) 名瀬市における気象条件(〔証拠略〕)

本件研修会前後と同時期である七月から八月の名瀬測候所における平均気温は、昭和五七年七月の最高気温が三一・五度、最低気温が二五・三度、同年八月の最高気温が三〇・六度、最低気温が二四・八度、同五八年七月の最高気温が三一・七度、最低気温が二五・七度、同年八月の最高気温が三一・五度、最低気温が二六・一度、同五九年七月の最高気温が三二・二度、最低気温が二五・七度、同年八月の最高気温が三一・四度、最低気温が二五・九度であった。

(七) 本件研修会中の亡山本の状態

(1) 頭痛の発症等(〔証拠略〕)

亡山本は、本件研修会の参加者であった川上定夫(川上)らに対し、前記のとおり、昭和五九年八月七日ないし八日の帰路において、頭痛がする、特に後頭部が痛い旨を話していた。

また、三島らが中心となって、奄美大島出身者等の参加者三〇数名による慰労会を同月一〇日に催すことの発案がされたが、同月九日の休憩時間等に参加者らに声を掛けてみると、疲労等のために消極的な意見が多く、亡山本も顔を出す程度との意見であったことから、小規模の開催が予定される状況となった。

(2) 原告への連絡内容(〔証拠略〕)

亡山本は、下宿先に赴いた後、原告に対して午後七時ころに電話していたが、昭和五九年八月七日までの連絡内容は、以下のとおりであった。

<1> 昭和五九年八月四日午後七時ころ

ゆっくり休養したので、体調もよくなった。心配いらない。

<2> 同月五日午後七時ころ

明日からの研修も元気で受講する。心配はいらない。

<3> 同月六日午後七時ころ

研修第一日目は、会場に入るまでが混雑し、大変だった。とてもいい研修会だから、精一杯勉強して帰る。疲れたが、体調は大丈夫だ。

<4> 同月七日午後七時ころ

今日は疲れたから、早めに寝るようにする。

(3) 研修終了後、発症までの経過等(〔証拠略〕)

昭和五九年八月九日の研修終了後、亡山本、川上及び三島は、電車に同乗し、その際、三人で食事に行く話も出たが、亡山本は、調子が悪いとしてその誘いを断り、高見馬場で下車した。同人は、その後、午後一〇時ころ、下宿先に帰り、原告に次のとおり電話連絡をした。

天文館通りで外食して今帰ったので、連絡が遅くなった。一日中蒸し風呂に入ったみたいに、暑くて疲れた。身体は大丈夫だ。心配はいらない。従兄の家が研修会場に近いので、今夜か明朝、移ろうと考えている。従兄宅に泊まって休んでから帰島する。天保山記念病院での再検査は、研修会が終わってから、ゆっくり考える。

(八) なお、原告は、昭和五九年八月九日の亡山本の行動について、前記のとおり、一旦は下宿先に帰った上で外出したと主張するが、原告への架電内容は、右認定のとおりであって、いつもは午後七時ころに原告に架電していた亡山本が当日に限って遅く電話連絡をしたことからすれば、同人は、午後一〇時ころに帰宅したと認めるべきものであり、原告本人尋問の結果中、右主張に副う部分は、採用することができない。

3  以上の認定事実に基づいて、本件災害と公務との間の相当因果関係の有無について判断する。

(一)  教務主任就任による精神的、身体的負荷の有無

亡山本は、昭和五九年四月に大棚中学校の教務主任に就任したが、教務に関する校務は、更に教務、研修、教育方法、特殊教育、広報・渉外に細分化され、それぞれが更に細分化されていて、それぞれについて担当職員が決められており、亡山本もその複数を分掌していたから、教務主任としての教務内容は、教務に関する業務についての職員との連絡・調整を行うことが中心であった。そして、亡山本は、校長から教務主任就任を依頼されたことを、大棚中学校の同僚教諭六名に相談し、その後押しを受けて依頼を引き受け、その後の業務遂行上も、同僚教諭は協力的であった。また、亡山本の本件災害前六か月の勤務状況によれば、昭和五五年以降と比較して、超過勤務・出張・会議出席等が急激に増加したなどの事情も認められない。したがって、亡山本の教務主任それ自体としての校務は、教務主任就任前と比較して、特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせると客観的に認められるような内容のものではなかったというべきである。

原告は、亡山本が本来控え目な性格で、すすんでリーダーシップをとるようなタイプではなく、同人も所属する教職員組合が教務主任制度に反対していたこともあって、教務主任就任に躊躇していたし、また、「夏休みの友」の採否をめぐる問題等において、同僚職員と校長との板挟みになったために、相当の精神的負荷を受けており、教務主任としての業務が、従前の日常業務と比較して特に過重な精神的負荷を生じさせるものであったと主張し、証人前田及び原告本人はこれらに副う供述をする。しかし、前記のとおり、亡山本は、同僚教諭の後押しを受けて教務主任就任要請を受諾し、その後も同僚教諭は業務遂行に協力的であって、一旦配布した「夏休みの友」を、校長に叱責されて回収したなどの経緯はあったにせよ、それ以外に亡山本が「夏休みの友」の採否をめぐる問題のために奔走せざるを得なかったとか、その他の業務に支障を来したなどの事情は認められないから、亡山本が原告主張のとおりの性格であったとしても教務主任に就任したこと自体及び教務主任としての業務遂行上、特に過重な精神的負荷を受けていたとはいえないというのが相当であって、右認定に反する右各供述は採用することができず、他に、右認定、判断を覆すに足りる証拠はない。

(二)  本件研修会参加による精神的、身体的負荷の程度等について

(1) 本件研修会は、昭和五九年八月六日から同月一一日までの六日間の予定で、教務主任の業務及びそれに関連する学校教育の方法等に関する研修会として計画、実施され、期間中は、ほぼ午前九時から午後四時三〇分まで、途中に休息時間(一五分)及び昼休み(一時間)を挟みながら九〇分単位で行われ、形態は、講義、演習を中心としたが、ビデオ視聴、全体講演も織りまぜた多様な形態のものであった。参加者らにとっては、教える側から教えられる側になり、通常の授業よりも長い時間単位で研修が実施されたという違いはあったものの、研修は、教務主任である亡山本ら参加者が日常従事する業務内容に関連する問題等を扱ったものであり、拘束時間も参加者らの日常業務のそれよりも短く、研修の前後には夏期の休みがあるのであるから、参加者らの日常業務に比較して、本件研修会が質的、量的に特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせるものであったと認めることはできない。

(2) もっとも、亡山本は、研修会に参加した日の翌八月七日ころから川上らに頭痛の発現を訴えていた上、教職員組合は、本件研修会の開催に反対し、実力による入場阻止の抗議行動をとり、研修会参加者らを非難し、加えて期間中は、連日三〇度を超える猛暑が続いたのに、研修会場となった西高校には、冷房設備等はなく、降灰もあって教室の窓を開け放つことができず、体育館における全体講演の際にも扇風機、氷柱が設置されたものの、暑さを和らげるまでには至らず、参加者らの多くは、「もっと良い環境下で実施されたい(暑すぎる。)」として主催者側に改善を求め、研修四日目に離島からの参加者らによる慰労会開催の希望の確認がされた際も、出席希望者は少なく、他の参加者らにも疲労の色が見え始めていたといえるのであるから、本件研修会は、暑さに対する配慮が十分ではなく、快適とは到底言い難い環境で実施され、参加者らに一定の身体的負荷を与えるものであったといわねばならないところである。

(3) しかしながら、教職組合による抗議行動も研修初日のみにとどまった上、特に亡山本が右組合と主催者側との板挟みとなって研修会への参加等に苦慮していたとまで認めるべき証拠はない。また、研修会の内容は、講義、講演のほか講演やビデオ視聴等も加えた多様なものであり、さほど過重であったとはいえないことは前記判示のとおりである。研修は、休息時間、昼休みを挟んで実施され、また、研修期間中は、冷やし麦茶等が用意され、参加者らに供されるとともに、保健室が開放され、途中で気分が悪くなった場合は、補助員らへ必ず申し出て欲しい旨が参加者らに伝えられるなどの配慮がされており、結果的には、保健室を利用した者も殆どなく、研修による疲労を理由に欠席した者もいなかったのであり、加えて各日の研修終了後は、疲労回復のための時間的余裕もあったのであるから、本件研修会開催中の気象条件、研修会場等が右のとおり不快な条件、環境であったとしても、それのみをもっては、本件研修会が、亡山本の日常業務と比較して特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせると客観的に認められる内容のものであったとはいえない。

(4) さらに、原告に前記頭痛の発現があっても、もともと、原告は、キース・ワグナーの高血圧症の重症度分類では二度に該当する基礎疾患があって降圧剤を服用する状況にあり、飲酒、喫煙も節制しつつあったものの、止めるには至らなかったのであって、前記認定のとおりの政医師や天保山記念病院の窪薗医師の指摘等も、亡山本の死因と推認される脳血管障害の、右基礎疾患の自然的経過による発症の可能性を示唆するものであったということができる。また、下宿先の部屋にあった焼酎も亡山本が飲んでいたと認められ、この点は、少なくとも亡山本が医師の指示等を軽視し、節制を怠っていたことの証左というほかはないこと、さらに、亡山本の昭和五九年八月九日の行動を検討しても、同人は、帰りの電車の中で川上らに対し、疲れた旨を述べていたものの、その後下車して長男の下宿先に帰宅したのは午後一〇時過ぎであることなども考え併せると、本件災害は、前記基礎疾患の自然的経過として発生したと認めるのが相当であって、前記亡山本の教務主任就任後の日常業務及び本件研修会参加等を本件災害発生の有力な事情と認めることはできない。

(三)  以上のとおりであって、教務主任就任前の日常業務ないし本件研修会前の日常業務に比較し、客観的にもその後の業務及び本件研修会参加等が質的、量的に特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせ、本件災害を発生させる有力な事情であったとは認められないから、本件災害と原告主張の公務との間には、相当因果関係がないというほかはなく、他にこれを認めるに足りる証拠はないから、原告の本訴請求は、理由がない。

三  よって、原告の本訴請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 牧弘二 裁判官 檜皮高弘 近藤猛司)

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