鹿児島地方裁判所 平成23年(わ)125号 判決 2012年3月19日
主文
被告人を無期懲役に処する。
未決勾留日数中140日をその刑に算入する。
押収してあるペティナイフ1本(平成24年押第3号符号1)を没収する。
理由
(犯行に至る経緯等)
被告人は,Aが所有する鹿児島県指宿市所在のaアパートb号室を賃借し,妻と二人で居住していたところ,夫婦ともに無職で収入がなかったため,平成23年1月以降,家賃等を滞納し,同年4月末には滞納家賃等の合計額が12万4000円になっていた。A及びAの妻Bは,同月中旬頃から,被告人に対して,度々滞納家賃等の支払を督促するようになり,同月27日及び同年5月1日には,滞納家賃等を支払わないのであれば退去するよう通告したが,被告人は,その都度,平謝りして,その場をやり過ごしていた。なお,同月2日当時,被告人夫婦は,預金を含めて所持金がほとんどなかった。また,被告人夫婦は,以前,経済的に困窮した際,車上生活をしたこともあったが,aアパートに入居するに当たり,車を売却していたため,車上生活をすることもできない状況であった。
そうしたところ,同日午後9時40分頃,被告人は,偶然Aと遭遇し,A方に招き入れられた。そして,Aから滞納家賃等の督促を受けるうち,「払わな,明日出て行け。今日にでも出て行け。」などと退去を求められた。しかし,被告人は,すぐに滞納家賃等を支払うことも妻を連れて退去することもできないことから,これまでと同様,とにかく謝って何とか許してもらおうと考え,平謝りを続けていた。その最中,被告人は,Aから「いつから払っとらんのか。」と言われたため,自宅にある家賃ノート(毎月の家賃等の支払が領収証形式で記載されているもの)を見せて謝れば許してもらえるのではないかと思い,同日午後10時頃,いったんA方を辞してaアパートb号室に戻り,家賃ノートを手に取った。その際,万一,家賃ノートを見せて謝ってもAに許してもらえなければ,ナイフを使ってでもやり過ごそうなどと漠然と考え,ペティナイフ1本と果物ナイフ1本をズボンの後ろポケットに隠し持ち,A方に引き返した。
(犯罪事実)
第1被告人は,平成23年5月2日午後10時10分頃,鹿児島県指宿市A方において,滞納家賃等を支払わなければ退去するよう厳しく追及してきたA(当時74歳)に対し,家賃ノートを見せて謝罪を続けたが,ただ謝るだけの被告人の態度に怒ったAから,より一層強く退去を迫られた。しかし,被告人は,それまでと違って平謝りが通じないことの理由が分からずに混乱し,次第に,逃げ場のない状況に焦りを募らせるとともに,どれだけ謝っても許してくれないAに対する怒りを強めていった。そして,Aが,語気を強めて「分かっちょっどが。ほんのごち,分かっちょっどが。」などと言いながら,被告人の方へ身を乗り出して来たのをきっかけに,いよいよ最後通告されると感じた被告人は,とっさにAを殺害してでもその場の状況から逃げ出したいと考え,隠し持っていたペティナイフ(刃体の長さ約12.2センチメートル。平成24年押第3号符号1)を右手に持ち,殺意をもって,Aの左胸を1回突き刺した。ところが,Aが,なおも被告人の右手首をつかみ,被告人ともみ合って倒れたことから,被告人は,Aの動きを止めるため,殺意をもって,Aの胸部及び背部を上記ペティナイフで更に4回突き刺し,よって,その頃,同所において,Aを胸部刺創に基づく出血性ショックにより死亡させて殺害した。
第2被告人は,上記第1の犯行の直後,自分の背後に立っているB(当時73歳)に気付き,とっさに,Bを殺して口封じするしかないと考え,逃げようとするBに対し,殺意をもって,その背部を上記ペティナイフで1回突き刺し,更に逃げるBを追いかけて,上記A方ベランダで四つん這いになったBの背部を7回突き刺し,よって,その頃,A方において,Bを背部刺創に基づく出血性ショックにより死亡させて殺害した。
第3被告人は,業務その他正当な理由による場合でないのに,その頃,上記A方において,上記ペティナイフ1本を携帯した。
第4被告人は,第1及び第2の犯行後,上記A方において,B管理に係る現金3万5674円及び財布等156点在中のバッグ1個(時価合計5万3970円相当)並びにA所有の上衣2点(時価合計1500円相当)を窃取するとともに,引き続き上記aアパート敷地内の駐車場において,同所に駐車中のA所有の軽四輪乗用自動車1台(時価30万円相当)を窃取した。
(事実認定の補足説明)
1 争点
第1及び第2の各犯行は,被告人が,妻のCと2人で居住していたaアパートb号室(以下,単に「本件アパート」という。)の家賃等(以下,単に「家賃」という。)を4か月分滞納し,大家のAから支払わなければ退去するよう強く迫られている最中にAを殺害し,さらに,口封じのためにAの妻Bを殺害したというものである。
犯行の客観的経過が上記犯行に至る経緯等及び上記犯罪事実第1及び第2記載のとおりであることについては,証拠上優に認められ,当事者間に争いもない。主たる争点は,第1の犯行において,被告人に,滞納家賃を支払わないまま本件アパートに居住し続ける利益を得るという,強盗の目的があったか否かである。
2 A殺害の動機(事実認定)
(1) 当事者の主張等
検察官は,被告人には,退去を迫るAを殺害することにより,その後数日間,Cをそのまま本件アパートに居住させ続けるという目的があったと主張する。これに対し,弁護人は,被告人にそのような目的はなく,Aが被告人の謝罪を受け入れずに,なおも退去を迫ってきたので激高し,とっさに殺意を生じたに過ぎないと主張する。
(2) 自白調書以外の証拠に基づく検討
そこで,まず,当時の被告人とCの置かれた状況や,A及び被告人の行動等の客観的な事実から,検察官主張の目的が認められるか検討する。
ア 被告人の経済状況等
犯行に至る経緯等で認定したとおり,本件犯行当時,被告人夫婦は無職無収入で,所持金も預金を含めてほとんどなく,車上生活をする車もない状態だったのであるから,本件当日,被告人は,何とかしてAからの支払督促と退去要求を免れたいと考える状況にあったといえる。
イ ペティナイフを持ち出した理由
被告人は,当公判廷において,ナイフ2本を手に取ったのは無意識だったと述べるが,家賃ノートと同じ場所に置いてあった果物ナイフに加え,わざわざ流し台の扉を開けてペティナイフまで取り出しているから,これらを無意識に持ち出したとはおよそ認め難い。被告人は,何とかしてAからの支払督促と退去要求を免れたいと考え,家賃ノートを取りに戻っているのであるから,ナイフ2本を持ち出したのも,同様の理由から意識的に持ち出したと認められる。
もっとも,被告人が,自宅に家賃ノートを取りに戻ったのは,「いつから払っとらんのか。」というAの言葉尻を捉えて,とりあえず支払状況が記載された家賃ノートを見せればやり過ごせるのではないかと思ったからであり,A方に戻った後も,まずは持参した家賃ノートを見せて平謝りを続けている。そうすると,A方に戻った時点の被告人は,あくまでも,まずは謝ることで穏便にやり過ごそうと考えており,ナイフは万が一そうならなかった場合に備えて持ち出したにすぎないと認められる。したがって,ナイフを持ち出した段階では,ナイフの具体的な使い方まで想定していたということはできず,これで何とかAを黙らせようといった抽象的な考えを持っていたという限度でしか認定できない。
ウ ペティナイフで刺した理由
犯罪事実第1で認定したとおり,被告人は,謝り続けても許してくれず,家賃を支払えなければ退去せよと厳しく追及してきたAに対し,確定的な殺意をもって複数回刺している。したがって,被告人がAを殺害した動機に,何とかしてAからの支払督促と退去要求を免れたいとの気持ちがあったことは推認できる。しかし,このことから直ちに,退去せずに住み続ける利益を積極的に獲得する目的があったと断定することはできない。
一般的にみても,家賃を滞納して怒られたり退去を迫られるといった不都合な状況から逃げ出したいという衝動,あるいは,どれだけ謝っても許してもらえないことに対する怒りなどから殺意が生じることは,あり得ないことではない。とりわけ,被告人は,これまでも,自分にとって都合の悪い状況や嫌な状況になると,物事を建設的に解決しようとはせずに,その後どうなるのかという思慮を欠いたまま,その時々の職場や住居から逃げ出したり,全く根拠のない希望的観測にすがって現実を直視せず,その場しのぎの嘘を重ね,一時的にでも不都合な状況から逃れようとする場当たり的な行動を取る傾向があったと認められる。本件犯行直前までのAやBからの支払督促に対しても同様で,本件当日までは,その場しのぎの嘘をつくなどしてやり過ごすことができていた。そうすると,本件当日,それまでと同様に謝れば許してもらえると思っていた被告人が,予想外に,一向にAが許してくれないことへの焦り,事態をどう解決して良いのか分からない混乱,思いどおりにならないことへの怒りの感情から,その場のAからの支払督促と退去要求から逃れたいという短絡的な欲求を叶えるため,突発的に殺意を生じさせたということも大いにあり得る。
エ 小活
そうすると,被告人の当時の経済状況や被告人の当日の行動等の客観的事実から,A殺害の動機が,滞納家賃を支払わないまま,Cを数日間本件アパートに住み続けられるようにするという明確な目的であったと認定することは,困難である。
(3) 自白調書について
ア 自白調書の任意性
弁護人は,逮捕直後から微熱があるのに被告人は連日長時間の取調べをされ,警察官や検察官から「カーッとなった」というのでは説明にならないなどと執拗に追及された結果,被告人は精神的に追い詰められて絶望し,投げやりな気持ちで取調官が作文した自白調書に署名等したのであり,自白調書に任意性はないと主張する。しかし,検察官による取調べの様子の一部を録画したDVD(甲64,65)によれば,被告人は,検察官に対し,調書の記載内容が少しでも違っていれば必ず異議を申し立てているはずである,警察官にも検察官にも親切に話を聞いてもらったので本当のことを話そうと思ったなどと,身振り手振りを交えながら自分の言葉で極めて饒舌に語っており,取調官の圧力により,その意に反する自白調書が作成されたとは到底考えられない。
イ 自白調書の信用性
検察官主張の強盗目的を認める自白は,起訴直前に作成された検察官調書にしか記載されていないから,その信用性を検討するに当たっては,慎重な検討を要する。
上記DVDは,被告人がそれまでの供述を一部変更し,強盗目的を認めるに至った,まさにその時の取調状況を録画したものではなく,強盗目的を認めた検察官調書がほぼ完成した頃に録画されたものに過ぎない。そして,上記DVDで被告人が見せる饒舌さからは,むしろ,殊更に取調官の機嫌をとろうとするような様子も窺われること,A殺害の根本的な動機や自白の理由について述べるよう促されると,一転して口が重くなり,専ら検察官の誘導に対して同意するだけであったり,すでに作成された供述調書の内容を気にしつつ発言するような素振りを見せていること,殺害動機と密接に関係する,被告人がナイフを取り出したときの気持ちについては,検察官から2つの案を示され,そこから被告人が二者択一で選んだ内容が調書化された様子が窺えることなどからすると,上記DVDの内容から,自白調書の信用性を認めることはできない。
確かに,上記(1)で認定したような客観的な状況に照らすと,被告人が,Aからの支払督促と退去要求から逃れたいという短絡的な欲求の他,更にこれを具体化させ,何とかして退去を免れてアパートに住み続けようという目的を持っていたとしても,特段不合理ではない。また,被告人とCのこれまでの関係からすれば,被告人がCのことを考えてそのような目的を持つことがあり得ないわけではなく,その点からすれば,自白調書の内容が虚偽であるとまで断定することはできない。
しかしながら,自白調書の内容には,次のようないくつかの疑問点が指摘できる。
そもそも,それまでの被告人は,全く仕事をしていなかったにもかかわらず,周囲には働いているように装い,勤務先から給料を支払ってもらうよう繰り返し頼むCに対しても,滞納家賃の支払を求めるA及びBに対しても,その場しのぎの嘘を重ねて言い逃れ続けていた。そのような被告人の行動からすると,自白調書のとおり被告人が数日間住めればよいと考えていたのであれば,何らかの理由をつけて,例えば退去するのを前提に,せめて2,3日だけでも退去を待ってもらえるよう頼むことは当然に考えられるし,その程度であればAの承諾も十分に期待できたと思われる。被告人自身はともかく,女性であるCだけでも数日間住まわせてほしいと頼むのであれば,なおさらである。それにもかかわらず,被告人が,そのような穏当かつ使い慣れた手段を一切考えることなく,わずか数日間長く住むために,いきなりAを殺害したというのは,あまりに唐突すぎる感を免れない。
また,本件アパートの賃貸人はA名義であったが,被告人はほぼ毎月Bに家賃を手渡しており,B自身が支払督促をすることもあったことからすると,もし被告人が支払督促と退去要求を免れて本件アパートに住み続けるのを目的としたのであれば,当初から,AとB両名の殺害を意図するのが自然である。それにもかかわらず,自白調書では強盗目的の殺害対象がAのみとなっており,かなり不自然な印象をぬぐえない。
加えて,自白調書では,被告人が,Cと2人で本件アパートに住み続けるのではなく,自分は自殺して,Cのみを本件アパートに住まわせようと考えたことになっているが,その理由も不明である。被告人が犯行後に本件アパートに戻ったとしても,被告人が犯人だと発覚せずに数日が経過する可能性は十分にあったのであって(家賃ノートや財布がA方に残ったのは偶然に過ぎない。),それにもかかわらず,被告人が殺害に着手する前からCのことだけを想定し,自分が住むことは全く考えていなかったというのは得心し難い。また,被告人は,本件犯行後,自殺を試みているものの,犯行直後はコンビニエンスストアで食料や着替えを購入するなど,ほとんど逃走することしか考えていなかったのであり,本件犯行前から自殺を考えていたとも考えにくい。自白調書の内容は,取調段階において,犯行当時に被告人が置かれていた状況や本件犯行後に被告人がとった行動等から,犯行当時の気持ちを合理的に説明しようと試みたものに過ぎないとの疑いを払拭できない。
さらに,被告人及びCは,平成22年11月にCの母から,もう援助はできないと言われて以降,その援助を受けることはできないと考えていたのであるから,自白調書にあるように,A殺害後わずか数日のうちに援助が受けられると想定したというのは,不合理である。
以上のとおり,被告人の捜査段階の自白調書には,その内容自体に複数の看過できないような不自然・不合理な点があり,常識的にみてその信用性には疑問が残るといわざるを得ない。
ウ 小活
したがって,自白調書から,A殺害の動機が滞納家賃を支払わないまま,Cを数日間本件アパートに住み続けられるようにするという明確な目的であったと認定することはできない。
(4) A殺害の動機の認定
そうすると,A殺害の動機は,今まさにAから支払を督促され退去を迫られている状況から逃れたいという欲求や,Aに対する怒りであったとは認められるものの,それ以上に,滞納家賃を支払わないまま,Cを数日間本件アパートに住まわせるという明確な目的があったとまでは認められない。
3 強盗目的の有無(法的評価)
上記2で認定したA殺害の動機を前提とした場合,被告人に強盗目的があったといえるかを,念のため検討する。
被告人が,今まさにAから支払を督促され退去を迫られている状況から逃れたいと考えたのは,被告人が本件アパートから退去できないと考えていたからである。そして,客観的には,Aを殺害し,退去を迫られている状況から逃れることができれば,その必然的な結果として,数日間,本件アパートに居住できる状況になることは明らかである。
しかしながら,被告人の動機の中心にあるのは,あくまでも,今まさに「明日にでも退去せよ」と迫られている状況から逃れたいという極めて近視眼的な逃避欲求や,怒りといった感情である。
仮に,そのような種々の感情の中に「今相手を黙らせれば,明日退去せずに済むことになる」という考えが含まれていたとしても,それは,今の追い詰められた状況から逃げ出したい,楽になりたいとの気持ちに通常,付随する程度のものであって,そこに,財産的利益を獲得するという積極的な目的意識を認めることはできない。本件殺害行為が結果的に居住延長可能な状態を生じさせたとしても,それは今まさにAから支払を督促され,退去を迫られている状況から逃れたい等という動機で行われた犯行によってもたらされた結果に過ぎないというべきである。そもそも,「明日退去せずに済むことになる」という程度の考えでは,得られる利益の内容が抽象的にすぎ,刑法236条2項にいう「財産上不法の利益」,すなわち,同条1項における「他人の財物」と同視できる程度に具体的な利益を意識していたともいえない。
したがって,上記のような動機ないし心理状態をもって強盗の目的があったとはいえない。
4 結論
よって,本件では,強盗目的は認められず,被告人がA及びBを殺害し,金品を奪った行為については,殺人罪2罪と窃盗罪が成立するにとどまる。なお,窃盗については,その犯意の同一性,窃取行為の時間的場所的接着性ないし連続性に照らし,包括一罪と認定した。
(法令の適用)
1 罰 条
第1及び第2の各事実 いずれも刑法199条
第3の事実 銃砲刀剣類所持等取締法31条の18第3号,22条
第4の事実 刑法235条
2 刑 種 の 選 択
第1及び第2の各罪 いずれも無期懲役刑を選択
第3及び第4の各罪 いずれも懲役刑を選択
3 併 合 罪 の 処 理 刑法45条前段,46条2項本文,10条(刑及び犯情の最も重い第2の罪の無期懲役刑で処断するので,他の刑を科さない)
4 未決勾留日数の算入 刑法21条
5 没 収 刑法19条1項2号,2項本文
6 訴訟費用の不負担 刑事訴訟法181条1項ただし書
(量刑の理由)
1 本件で量刑判断の中心となるのは,第1及び第2の各殺人である。
2 被告人は,これまでも,何か困難な状況に直面する度に,その時々の仕事や人間関係を捨てて逃げ出すという安易な行動を繰り返してきた。ところが,本件当時は妻の存在や車がないことなどのいくつかの条件が重なって簡単に逃げ出すことができなかったため,場当たり的に言い逃れをし続けているうち,状況的に追い込まれ,最終的には現実逃避という極めて短絡的な衝動等に従って行動し,他人の生命を全く顧みることなく犯行に及んだものである。そのような身勝手な動機で,何の落ち度もなく,むしろ普段から被告人夫婦に恩情をかけてくれていた被害者らを殺害したことについては,酌むべき点は微塵もない。
しかし,被告人がそこまで追い込まれた原因を客観的にみれば,その場しのぎの対応に終始したためで自業自得の面が大きいものの,犯行当時の被告人が,主観的には逃げ場のない特殊な状況に置かれており,一時的に生じた感情に突き動かされて,突発的に殺害行為に及んだことは否定できない。
そうすると,確かに本件は被害者2名の殺人であり,その点で殺人罪の規範に違反した程度は大きく,その動機にも酌むべき点はないといえる。しかし,利欲的な目的を達成するために積極的かつ冷静に殺害の手段方法を計画した上で犯行に及んだ計画的な殺人に比べれば,規範に違反した程度や非難されるべき程度は低いといわざるを得ない。また,Bに対する殺人は,A殺害と同一の機会に,その際の興奮状態に加え,犯行を目撃されたことに対応して行われているから,それぞれ別々の機会に2人を殺害する殺人に比べると,非難の程度は低いというべきである。したがって,本件殺人は,被害者2名の殺人事件で死刑が選択された多くの事案とは,その罪質・動機の点で一線を画している。
3 次に,その犯行態様をみると,Aについては,正面から左胸を深く一突きした後も,更に数回にわたって突き刺しており,その中には心臓にまで達する傷もあったこと,また,Bについては,逃げようとするBの背中に強い一撃を加えた後も,なおも追いかけ,四つん這いになったBの背中を執拗に刺し続けており,その傷の中には,肩胛骨を貫通するほど深いものまであったことなどに照らせば,殺害の手段方法が,客観的に残虐・執拗であることはいうまでもない。
しかしながら,被告人には前科がなく,元来暴力的傾向を有する人物でもなかったのであり,殺害の手段方法がこのように残虐・執拗なものになったのは,被告人が一時的に焦り,混乱,怒り,恐れなどの強い感情に影響され,かなりの興奮状態にあったことが主たる原因だと考えられる。確かに,殺害行為後の被告人は,手洗いや着替えの衣類の持去りなど,犯行発覚を防ぐための合理的な行動をとっているようにも思われるが,他方で家賃ノートや自分の靴などの明白な痕跡を残し,被害者方から左右異なるサンダルを履いたまま逃走しているところからすると,犯行時,かなりの興奮状態にあったことは否定できない。
そうすると,本件犯行における客観的な殺害手段や方法の残虐性・執拗性と被告人の内心との間には,相当の乖離があったというべきであり,本件犯行の規範違反の程度は,被告人が上記のような殺害手段,方法を殊更意図して及んだ場合と比較すれば,その非難の程度は低いといえる。
4 以上のとおり,本件殺人の罪質・動機・態様からすれば,被告人の罪責が重大であることは間違いないものの,被害者が2名で死刑が選択された他の殺人事件と比べると,それらと同程度に極めて重大とまで評価することは困難である。したがって,遺族の被害感情が峻烈で,極刑を望んでいること,犯行動機や自己の問題性についての被告人の内省が甚だ稚拙なものにとどまっていることといった事情はあるものの,罪刑の均衡及び一般予防の双方の見地から死刑がやむを得ないというには,なお躊躇が残る。
よって,被告人に対しては,無期懲役に処するのが相当であると判断した。
(検察官の求刑:死刑 弁護人の量刑意見:無期懲役)
(裁判長裁判官 中牟田博章 裁判官 安永武央 裁判官 田中いゑ奈)