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鹿児島地方裁判所 平成8年(ワ)1397号 判決 2003年1月20日

原告

甲野春男

原告

甲野夏子

原告ら訴訟代理人弁護士

向和典

被告

乙川産婦人科こと

乙川一郎

同訴訟代理人弁護士

和田久

蓑毛長史

主文

1  被告は原告らに対し,各3087万3220円及びこれに対する平成9年1月23日から支払済みまで年5%の割合による各金員を支払え。

2  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用はこれを5分し,その1を原告ら,その4を被告の各負担とする。

4  この判決は第1項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第1  請求

被告は原告らに対し,各4716万3392円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日(平成9年1月23日)から支払済みまで年5%の割合による各金員を支払え。

第2  事案の概要

本件は,原告らが,原告らの子が出産時の低酸素症により脳性麻痺に罹患し,身体障害者等級1級の後遺障害を負い,その後に死亡したことに関して,この障害及び死亡は,医師である被告が胎児の心拍数の監視を怠り,胎児仮死の徴候を見逃したため,帝王切開手術が遅れたことに原因があると主張して,被告に対し,債務不履行に基づく損害賠償を求めた事案である。

1  争いのない事実及び証拠(甲1ないし4,5及び6の各(1)(2),7ないし20,21の(1)(2),28,30,31,32及び33の各(1)(2),乙1の(1)(2),2ないし8,9の(1)ないし(14),10の(1)ないし(5),11ないし17,証人丙田二郎,原告甲野夏子本人,被告本人)によって認められる事実

(1)  甲野花子(以下「花子」という)は父である原告甲野春男(以下「原告春男」という)及び母である甲野夏子(昭和34年6月26日生。以下「原告夏子」という)間の3女として出生した。

被告は鹿児島市内で乙川産婦人科(以下「被告医院」という)を開設していた医師である。

(2)ア  原告夏子は,平成3年3月30日の初診以来,約1か月おきに被告医院において妊娠経過の診察を受けてきた。

イ 平成3年10月19日早朝,原告夏子は,陣痛が始まったため,被告医院に架電し,午前6時50分ころ,被告医院に到着して入院し,内診室に通された。

同日午前6時55分ころ,被告は原告夏子を診察し,子宮口が2指半(2.5cm)ほど開大し,子宮頸管の展退度も90%と進んだ状態であったが,胎児の位置はマイナス3(児頭の下がり具合をプラス3からマイナス3までに区分するもので,マイナス3は児頭の下降がない状態を表わす)であった。

ウ 同日午前7時2分ころ,被告は,原告夏子に分娩監視装置(妊婦の腹部に装着し,胎児の心音及び陣痛の状況等を検知してモニターに表示し,記録する装置。子宮の収縮と胎児の心拍数を同時に,かつ,連続して検知し,記録することができるため,胎児仮死の診断に有効とされている)を装着させ,7時15分ころまで経過を観察したところ(以下,分娩監視装置を使用して胎児の心拍数と子宮の収縮を検査し,記録することを「モニタリング」という),一過性の頻脈は2,3度みられたものの,遅発性一過性除脈や変動性一過性除脈,基線細変動消失等の胎児仮死の徴候はみられなかったため,正常と判断し,一旦モニタリングを中止して,他の患者の手術のため内診室を出た。

一過性頻脈(少なくとも1分当たり15拍の増加が15ないし20秒間持続する)はおおむね胎児が良好な状態にあることを示す。遅発性一過性徐脈(子宮収縮の頂点またはその後に始まる心拍数の減少)は通常は無害であるが,反復発生や胎児心拍の基線(平均毎分120ないし160)細変動の減少,基線心拍数の増加を伴うときは胎児状態が悪化している可能性が高い。変動性一過性徐脈(心拍数の急激な減少)は正常な分娩中にも現われるが,1分当たり70拍以下が60秒間持続し,反復発生する場合には臍帯圧迫等による胎児状態の悪化が懸念される。

エ 当日,被告医院には,○○市立病院(以下「市立病院」という)に所属する丙田二郎医師(以下「丙田医師」という)が,被告の要請により,被告医院において他の患者に対する手術を行なうため,午前6時30分ころから在院していた。丙田医師は,被告とともに,まず他の患者1名に対して帝王切開手術を行ない,次いで別の患者に対し子宮筋腫手術を行なった。

オ 同日午前7時32分ころからモニタリングが再開され,7時40分ころに他の患者の帝王切開手術が終了したことから,8時7分ころ,被告は内診室に戻って原告夏子を診察したところ,子宮口が全開し,子宮頸管の展退度は100%であったが,胎児の位置はなおマイナス2であった(この遷延は回旋異常や児頭骨盤不均衡等の異常があったことを示唆する)。

被告は分娩を進行させるため人工破膜を施行したところ,羊水が流出したが,混濁は見られなかった。その後,被告は別の患者の子宮筋腫手術のため再び内診室を出た。

カ 同日午前9時ころから,モニターに変動性一過性徐脈(これだけでは胎児の切迫仮死兆候とはいえないが,陣痛に関連した臍帯ないしは児頭への圧迫が胎児循環に影響していることを示す)が現れるようになった。9時28分ころ,モニタリングが中断され,手術を終えた被告が内診室を訪れて原告夏子を診察したところ,子宮口は全開大,子宮頸管の展退度は100%,児頭の位置はマイナス2と変わらなかった。そこで,被告は原告夏子に対して歩行等で体を動かすことを勧めた。

キ 同日午前9時58分からモニタリングが再開されたが,被告は,それまでの経過を考慮した結果,分娩のための積極的な処置を行うことにし,10時1分,モニタリングを中止し,10時5分ころ,高圧浣腸(陣痛や児頭下降を促進する効果があることがある)を実施した。

ク 同日午前10時25分ころ,被告は,硬膜外麻酔を施したうえで帝王切開手術を行なう意図のもとに,原告夏子を内診室から分娩室へと移動させた。

乙1の(2)の診療録には,分娩室への移動の記載に続き,10時30分にモニターを開始し,KHT(超音波ドップラー装置。以下「ドップラー」という)による胎児心音検査の結果が良好であった旨の記載がある。

このころ,原告夏子の陣痛周期は2分間隔,血圧は100mm/hgであり,子宮口は全開大であったが,胎児の位置はなおマイナス2であった。被告は,原告夏子から痛みが強く我慢ができないとして帝王切開手術を要請されたため,帝王切開を行うことを決断し,原告春男に連絡して帝王切開を行うことについて承諾を得た。

ケ 同日午前10時33分(乙4の麻酔記録による。乙1の(2)の診療録では10時40分との記載があるが,これは不正確と認められる),被告は麻酔チューブ挿入による硬膜外麻酔を開始した。診療録(乙1の(2))には,麻酔開始の記載に続き,「KHT.12,11,11」の記載がある(これはドップラーで胎児心拍数を5秒間で3回計測した結果,1分当たり144ないし132であったことを示す)が,麻酔記録(乙4)には胎児心拍数の記載はない。

コ 被告は,子宮筋腫手術を終えて朝食を摂っていた前記丙田医師に原告夏子の手術を依頼し,午前11時5分,丙田医師は執刀を開始し,11時9分,花子を取り出した。

通常は娩出後に術者の手による胎盤剥離が行なわれるが,本件では分娩直後に剥離操作なくして胎盤が自然に娩出され,胎盤の剥離面のほとんど全面に粥状ないし泥状の凝血が認められた。被告と丙田医師は,これを見て常位胎盤早期剥離(子宮内の正常位置に付着していた胎盤の早期剥離)が起きたと診断した(なお,被告は,同日,鹿児島市医師会病院に胎盤を病理検査に提出したところ,同月24日,異常は認められないとの報告がなされた。また,約7年後の平成10年10月ころ,同病院に対して,被告が再度検査依頼をした結果,同月23日,胎盤後面に血腫が認められるとの報告がなされた)。

サ 取り出された花子は第1啼泣,筋緊張がなく,皮膚の色も白色(チアノーゼよりも進んだ状態)で反射もみられず,心肺停止の状態でアプガースコア(新生児の生後の状態を表す10点満点の点数法で,点数の悪いものほど予後が悪く,死亡率が高いとされている)は0点であり,仮死状態というよりもむしろ死亡に近い状態であった。

丙田医師は,直ちに花子に対して気管内挿管し,吸引した上で酸素投与を行い,心マッサージを行った。丙田医師は,ボスミン及びメイロンを投与しようと看護婦に指示したが,手に入らなかったことから直ちに市立病院に連絡して,応援の医師を呼び出し,更に蘇生術を続けたところ,午前11時30分ころ,心拍数が90から100台/分に回復し,11時32分には自発呼吸も回復,11時40分にはバビンスキー反射(足の裏をひっかいたときに,足の親指が足の甲に向かって曲がり,残りの指が扇型に広がる反射。乳児に見られる場合は正常とされる。)が再開し,市立病院に転送された。

シ 同日午後0時15分ころ,花子は市立病院へ到着し,新生児センターで集中治療を受けた。0時28分に血液の酸性度を検査したところpH7.195となっていた。また,超音波検査を行ったところ,脳室内出血や脳室周囲白質軟化症はみられないと診断された。

同年11月5日,花子にCT検査を実施したところ,両半球の広範な低吸収領域を認め,急性期(虚血)はすでに過ぎており,不可逆的な変化が懸念されるという診断がなされた。

(3)  花子は平成3年11月27日まで市立病院で入院治療を受けた後,同月28日から平成4年2月28日まで国立療養所南九州病院(以下「南九州病院」という)で入院治療を受け,その後も同病院に通院治療を受けていた。同月4日,南九州病院で診断を受けたところ,脳波は低振巾,頭部CT上は全般性の低吸収域あり,四肢筋緊張亢進気味,との所見が現れており,脳性麻痺による四肢機能障害と診断された。

花子は,同年3月1日,南九州病院を退院し,平成6年8月31日まで自宅で原告らによって介護された。

花子は,平成4年5月1日,鹿児島県から脳性麻痺による両上下肢の機能の著しい障害があるとして,身体障害者等級1級の認定を受けた。

平成6年9月1日,花子は重症心身障害児施設である社会福祉法人向陽会やまびこ医療福祉センター(以下「やまびこ学園」という)に入院し,平成14年7月まで,医療措置や介護を受けてきた。その間,平成12年7月24日から同年8月28日までと平成13年9月5日から同年10月12日までは,熊本県こども総合療育センターで脳性麻痺に起因する両股関節周囲筋解離のための手術や両背部筋解離のための手術等のため入院治療を受けた。

(4)  平成14年6月下旬ころ,花子は呼吸困難に陥り,同年7月13日には今給黎総合病院に入院して,過緊張による気道閉塞からの呼吸抑制に対する処置として気管切開手術を受け,同月18日には一旦やまびこ学園に戻ったが,翌19日,心肺停止の状態に陥ったため,今給黎総合病院に搬送されたものの,気管内壁より動脈性出血が発生し,気管腕頭動脈瘻及び出血性ショックにより,同月26日,死亡した。

(5)  原告らは花子の葬儀費用として97万640円を支出した。やまびこ学園の平成6年9月から平成14年1月までの入所負担金は合計155万4600円であり,このうち平成14年1月分の入所負担金は月額1万8700円であった。

2  争点

(1)  帝王切開決断後の胎児の心拍数検査の不実施と帝王切開時期の遅れ

ア 原告らの主張

平成3年10月19日午前10時1分以降,原告夏子及び胎児は,回旋異常もしくは児頭骨盤不均衡等により遷延分娩の状態にあったのであるから,被告は胎児切迫仮死の出現を想定した頻回のドップラーによる胎児心拍数のチェックをすべきであった。そして,被告が帝王切開決断後も胎児の心拍数を検査していれば,その間に発症した胎児仮死の徴候を捉えることができ,全身麻酔又は腰椎麻酔により薬剤注入とほぼ同時もしくは5ないし10分後に手術が開始できた。

しかし,被告は,過失により,帝王切開決断後の胎児の心拍数の検査を怠り,このため,その間に発症した胎児仮死の徴候を捉えることができず,帝王切開の開始時期を遅延させた。

イ 被告の主張

被告は,午前10時33分ころに硬膜外麻酔を開始し,その後に帝王切開を実施した。分娩監視装置以外にも,適宜ドップラーによる聴取,観察を行った。

ドップラーによる胎児心拍数の検査結果のみにより,他の麻酔方法に変更して緊急の手術を行うことは通常考えられない。また,被告医院で求められる医療水準からすれば,花子の胎児仮死を予測し,これに対応することは困難であった。したがって,被告に過失はない。

(2)  脳性麻痺の原因と結果回避可能性

ア 原告らの主張

被告が帝王切開決断後に胎児心拍数の頻回な検査を怠ったため,漫然と硬膜外麻酔を選択し,その結果帝王切開手術の施行時期が遅れ,このため,花子は低酸素脳症に陥り,脳性麻痺になったのであるから,被告の過失と脳性麻痺との間には因果関係がある。

また,被告が帝王切開決断後に胎児心拍数を頻回に検査していれば,胎児仮死の徴候を見い出し,より早期に帝王切開を実施できたはずであるから,花子が脳性麻痺に陥ることを回避することが可能であった。

イ 被告の主張

花子の脳性麻痺の原因は常位胎盤早期剥離による胎児仮死であったが,常位胎盤早期剥離を発症前に予測することは困難であった。

(3)  脳性麻痺と死亡との因果関係

ア 原告らの主張

花子は,脳性麻痺による四肢不全のため身体が均等な成長発達を遂げることができず,それが原因で過緊張による呼吸不全を繰り返してきた。これを改善するため手術等を行ってきたが,改善がみられず,死亡したのである。直接の死因は出血性ショックであるが,脳性麻痺が原因であることは死亡診断書からも明らかである。

イ 被告の主張

死亡との因果関係については争う。

(4)  損害

ア 原告らの主張

(ア) 花子の逸失利益 3357万2098円

平成12年度賃金センサス男女計産業計学歴計全年齢平均年収額497万7000円,生活費控除率30%,労働能力喪失期間18歳から67歳までの49年間に対応するライプニッツ係数9.635

(イ) 花子の後遺障害慰謝料及び死亡慰謝料

2500万円

(ウ) 近親者の慰謝料 各500万円

(エ) 介護費用 1572万4000円

1日当たり4000円,花子の生存期間3931日

(オ) 医療費 56万0047円

被告 14万9217円

市立病院 22万3640円

南九州病院 18万7190円

(カ) 葬儀費用 97万0640円

(キ) 弁護士費用 850万円

(ク) 原告らの請求額 各4716万3392円

花子の逸失利益,後遺障害慰謝料及び死亡慰謝料につき,原告らは各2分の1ずつの割合で相続し,介護費用,医療費,葬儀費用,弁護士費用については原告らが各2分の1ずつ負担した。

イ 被告の主張

損害については争う。

第3  当裁判所の判断

1  被告の注意義務違反

(1)  前記認定事実,鑑定人神埼秀陽による鑑定及び同人の供述書によれば,花子の脳性麻痺の原因は常位胎盤早期剥離による胎児仮死(低酸素状態)であったと認められる。

(2)  胎盤剥離による胎児仮死が発生した時期については証拠上明らかではない。分娩監視装置による記録が残っている午前10時1分ころまでは,既に午前9時ころに出現していた胎児心拍の変動性一過性徐脈がたびたびみられたものの,これだけでは急速分娩が必要な胎児仮死の徴候に該当するとはいえない。しかし,これから約1時間8分を経た午前11時9分の娩出時において,花子の仮死状態はアプガースコア0の重症であり,ほとんど死亡に近い状態であったことに照らし,胎児仮死の状態はモニタリング中止時である午前10時1分ころから11時9分の娩出までの間の比較的早い時期に発生していたことが推認される。

前記のとおり,診療録には10時30分にモニタリングを開始(再開)した旨の記載があるが,この時点で分娩監視装置が原告夏子に再装着された事実は認められず,被告は午前10時25分ころに原告夏子を分娩室に移動させた後,5ないし10分おきにドップラー検査を実施し,胎児の心音を聞いていた旨供述していることに照らし,これは分娩監視装置によるモニタリングではなく,ドップラーによる胎児心拍数検査のことを指していると推認される。そして,午前10時33分の硬膜外麻酔開始の記載の前後に,それぞれ5秒3回の心拍数の検知結果及び「胎児心拍良」との記載があり,これは被告の上記供述に照らし,ドップラーによる胎児心拍数検知の結果及びこれに基づく診断を記載したものと認められる。

上記各検知結果の記載はいずれも時刻の記載を伴っていないところ,最初の記載については,10時25分ころの分娩室への移動後から10時33分ころの麻酔開始までの間の約8分の間に行なわれた検知結果を記載したことが推認されるものの,後の記載については,これが10時33分ころの麻酔開始から11時5分ころの執刀開始までの約32分間のうちのいつの時点で行なわれた検知の結果であるのかは必ずしも明らかではない。しかし,前記診療録には,この検知結果の記載に続き「収縮輪(+)」の記載があること,硬膜外麻酔の実施により妊婦の陣痛は緩解され,収縮輪は消失することに照らし,後の検知は麻酔開始後間もなく行なわれたものと認められる。

これらの検知結果の記載が正確であるとすると,硬膜外麻酔の開始の前後ころにおける胎児の心拍数は一応正常であったことになり,したがって,胎児仮死はその後に発生したものと推認される。ただ,胎児心拍数の変動によって胎児循環の状況を把握するには子宮収縮との関連で一定時間継続して観察する必要があり,かつ,このような観察によってはじめて胎児心拍の停止ないしは顕著な徐脈発生の以前に胎児仮死の出現を予測することができるのであって,硬膜外麻酔開始の前後ころに行なわれたただ2回の胎児心拍数の検知結果がたまたま正常であったからといって,それ以前から胎児仮死の徴候がなかったとはいえず,分娩監視装置による監視及び記録が10時1分ころ以降も継続されていたとすれば,硬膜外麻酔を開始する以前に異常徴候を察知することができた可能性がある。

(3)  前記のとおり被告は分娩室への移動後5ないし10分おきにドップラー検査を実施し,胎児の心音を聞いていた旨供述しているけれども,少なくとも,硬膜外麻酔の開始以後,このような頻度による検知が行なわれたとすれば,娩出に至るいずれかの段階で胎児仮死の徴候となる心拍の異常もしくは心拍停止が検知されていたであろう可能性が高いことに照らし,被告の上記供述によっては,麻酔開始後に前記の1回のほかに胎児心拍数の検知が継続的に行なわれたと認めることはできない。

午前10時1分ころの分娩監視の中止以後硬膜外麻酔開始までの間,高圧浣腸を行ない,その後の処置が行なわれていた以外の時間に,再度分娩監視装置を装着してモニタリングを継続することが不可能であったことを認めるべき証拠はなく,また,10時33分ころの硬膜外麻酔の開始以後,11時5分ころの帝王切開手術開始までの間,手術準備の剃毛,腹壁消毒等を行なう以外の時間に,分娩監視装置の再装着,もしくは少なくともドップラーによる胎児心拍数検査を上記の1回のほかにも行なうことが不可能であったと認めるに足りる証拠はない。

むしろ,午前8時7分過ぎころには,胎児の下降がはかばかしくない遷延分娩であったため,人工破膜が行なわれ,その結果羊水が失われて,圧迫が生じやすい状態となっていたこと,午前9時ころ以来変動性一過性徐脈が出現し,午前10時1分ころの監視装置によるモニタリング中止の直前ころにもこれが引き続いて現われており,胎児の循環系に負荷がかかっていることが十分うかがえる状況であったことからすれば,被告は,帝王切開のための硬膜外麻酔を開始する以前及び開始後において,胎児仮死の徴候がみられないかどうかについて,分娩監視装置による連続的な監視を行ない,ドップラーによる胎児心拍の監視しかできなかったとすれば,きわめて頻繁にこれを実施すべき注意義務があったと認められる。

(4) 被告が10時1分の分娩監視装置によるモニタリングの中止後,監視装置またはドップラーによる胎児心音の検査を診療録に記載された2回以外に行なったとは認められないことは前記のとおりであるから,被告がこの注意義務を尽くしたと認められない。

2  被告の注意義務違反と脳性麻痺の発生との因果関係

(1)  一般に,帝王切開手術のための麻酔には,被告が行なった硬膜外麻酔のほかに,気管内挿管による全身麻酔,腰椎麻酔,静脈麻酔,局所麻酔等の方法があり,硬膜外麻酔は効果が発生するのに一定の時間(一般的には30分前後)を要するのに対し,気管内挿管による全身麻酔,腰椎麻酔,静脈麻酔等の効果は迅速であり,いったん硬膜外麻酔を施行した後でも,その効果の発生をまたずに,上記の方法による麻酔を追加併用することにより手術開始時刻を早めることができ,気管内挿管による全身麻酔であれば,麻酔施行とほとんど同時に,腰椎麻酔であれば,薬剤注入の5分ないし10分後には手術を開始することが可能と認められる(証人神埼秀陽の供述書)。

平成3年の本件分娩当時,被告医院において硬膜外麻酔以外の麻酔方法を採ることができたかどうかについては,当日の午前中に市立病院の丙田医師の執刀により行なわれた他の患者の手術の際に腰椎麻酔が実際された(被告本人)のであるから,被告は硬膜外麻酔の開始後であっても,少なくとも腰椎麻酔を追加的に実施して帝王切開の執刀を早めることは十分可能であったと認められる。これに対し,気管内挿管による全身麻酔は,被告医院の設備,人員をもってしては,ほぼ不可能であったと認められる。

(2)  前記のとおり,花子の胎盤早期剥離による胎児仮死は硬膜外麻酔開始後に発生した可能性が高いが,麻酔開始前にも胎児仮死の出現を予期させるに十分な徴候があった可能性があり,被告が分娩監視装置による胎児心音のモニタリングを行なっていれば,その徴候を察知し得た可能性がある。その場合,被告は,効果発生に時間がかかる硬膜外麻酔ではなく,腰椎麻酔の方法を選択して早期に帝王切開手術を行ない,娩出時刻を早めることができたと認められる。すなわち,腰椎麻酔の開始を10時33分とし,これから5分ないし10分後に帝王切開手術を開始し,娩出に4分を要したとして,10時42分ないし47分には胎児を娩出することができたこととなり,この場合,胎児仮死は出現前であったか,もしくは出現後であっても,短時間しか経過しておらず,脳性麻痺の発症は回避できたと考えられる。

もっとも,硬膜外麻酔の開始前において,胎児仮死の徴候があったことを確実に認定し得る証拠はないため,この間に被告が監視義務を尽くしていたとしても,胎児仮死の徴候が検知されなかった可能性がないとはいえない。しかし,この間に胎児仮死の出現を予測させるに足りる心拍異常の徴候があったかなかったかを認定し得る証拠がないのは,被告が注意義務に違反して継続的監視を怠ったことによるものであるから,被告において継続的監視を行なっていたとしても発見することが客観的に不可能であったことを立証しない以上,被告の監視義務違反と胎児娩出の遅延との因果関係はこれを肯認すべきである。

(3)  硬膜外麻酔の開始以降娩出までの間,いずれかの時点において胎児心拍の異常が発生したことは明らかであり,被告がドップラーによる胎児心拍の監視を適切に行なっていれば,これを発見し得た蓋然性は極めて高かったと推定される。

診療録に記載された2回のドップラー検査のうち後のものが硬膜外麻酔開始(10時33分)のころに行なわれたとし,かつ,その5分後の10時38分にも検査が行なわれて,このときに心拍停止の異常が検知されたと仮定して,腰椎麻酔の準備及び実施に要する時間を数分とし,麻酔薬剤注入の5分ないし10分後に帝王切開手術が開始されたとすれば,実際に丙田医師の執刀に要した時間である4分後の10時50分前後ころには胎児を娩出し得たこととなり,その場合の母胎内における胎児仮死の継続時間を12分ないし15分程度にとどめることができたと考えられる(異常発生の検知が実際に行なわれた帝王切開手術の執刀開始5分前の午前11時であったとすれば,もはや手術を開始する以外に打つ手はなかったこととなり,この場合の胎児仮死の継続時間は9分であったこととなる。しかし,娩出後の花子の状態からみて,母胎内での低酸素状態がこのように短時間であったとは考えにくい)。

そして,丙田医師が約21分間という時間の後に花子を蘇生させた事実からすると,娩出前の胎児仮死を避けることができなかったとしても,この継続時間を前記のように短縮し得たとすれば,娩出時の花子の状態はこれほど重篤な状態にまで至っていなかった可能性がある。すなわち,被告が硬膜外麻酔を開始した後にも継続的な胎児心拍数のチェックを行ない,異常を検知した後直ちに腰椎麻酔に切り替えて帝王切開手術を開始していたとすれば,麻酔薬剤の注入後短時間で花子を娩出することができ,その後の蘇生術に要する時間を考慮しても,花子の低酸素状態を実際にかかった時間よりも早期に解消し得た確率は高かったと推定される。

(4)  胎児仮死による低酸素状態の継続時間と脳性麻痺に重症度との間の比例関係は一様ではなく,個体差や条件の差異によって変動すると考えられる。しかし,花子の母胎内における低酸素状態の継続時間を前記のように短縮し得たとすれば,脳性麻痺そのものの発生を回避し,もしくは,可能な限り速やかに娩出したにもかかわらず脳性麻痺の発症を回避できない状態であったとしても,少なくとも症状を相当程度軽減することができた蓋然性が高いと認められ,したがって,被告の注意義務違反と重症脳性麻痺の発症との間には因果関係があると認められる。

3  低酸素脳症と死亡との因果関係

前記のとおり,花子の脳症麻痺の原因は胎児仮死による低酸素症によるものと認められ,前認定の花子の治療経過及び乙33の1,2(今給黎病院の診断書)によれば,花子の直接の死因となったのは気管腕頭動脈瘻からの動脈性出血による出血性ショックであるが,これは脳性麻痺に基づく過緊張による気道閉塞に端を発したものであることに照らし,花子の脳性麻痺と死亡との間の因果関係を肯認することができる。

4  損害

証拠(甲20,26,27,32の(1)(2))及び弁論の全趣旨によれば,以下のとおり認められる。

(1)  花子の逸失利益

平成12年度賃金センサスの女性労働者学歴計の年収額は349万8200円であるから,生活費控除を30%,稼働可能期間を18歳から67歳まで49年間とし,死亡時の年齢10歳から67歳までの57年に対応するライプニッツ係数18.7605から稼働開始時の18歳までの8年に対応するライプニッツ係数6.4632を差し引いた12.2973により中間利息を控除すると,逸失利益は3011万2890円となる。

ただし,前記のとおり,花子に一定の脳性麻痺が発症することは不可避であった可能性があることを考慮すると,被告の過失によって生じた損害としては,上記逸失利益の8割にあたる2409万0312円とするのが相当と認められる。

(2)  花子の後遺障害慰謝料及び死亡慰謝料

2500万円

(3)  近親者の慰謝料

花子の父母である原告らについて,花子とは別個に慰謝料を認めなければならない特段の事情は認められない。

(4)  介護費用

市立病院(40日),南九州病院(93日)及び自宅(915日)における介護費用としては1日当たり5000円を,やまびこ学園の介護費用は平成6年9月から平成14年1月までの合計155万4600円と平成14年1月分の月額入所負担金1万8700円が平成14年7月まで同額であったとして6か月分11万2200円を認めるのが相当であり,その合計は690万6800円である。

上記(1)と同様,被告が賠償すべき金額はその8割にあたる552万5440円と認められる。

(5)  医療費 56万0047円

(6)  葬儀費用 97万0640円

(7)  以上小計 5614万6439円

(8)  弁護士費用 560万円

(9)  まとめ

以上(1)から(6)及び(8)の合計額は6174万6439円であり,花子の死亡により,原告らは(1)及び(2)の合計額各2分の1を相続し,(4)ないし(6)及び(8)の各2分の1を負担したと認められるから,原告らは被告に対し,各3087万3220円の賠償請求権を有すると認められる。

5  結論

よって,原告らの本件請求は各3087万3220円及びこれに対する平成9年1月23日(本件訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定の年5%の割合による各金員の支払を求める限度で理由があるが,その余は理由がない。

(裁判長裁判官・池谷泉,裁判官・市原義孝,裁判官・平井健一郎)

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