鹿児島地方裁判所 平成8年(ワ)333号 判決 2004年9月13日
原告
あいおい損害保険株式会社
同代表者代表取締役
瀨下明
同訴訟代理人弁護士
江口保夫
同
江口美葆子
同
豊吉彬
同
窪田雅信
同訴訟復代理人弁護士
中村威彦
同
西村徹
被告
鹿児島市
同代表者市長
赤崎義則
同訴訟代理人弁護士
和田久
同
熊本典道
同訴訟復代理人弁護士
新倉哲朗
主文
一 被告は、原告に対し、金一億一三〇四万三五七九円及びこれに対する平成一一年一二月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その二を原告の、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、金二億〇九二〇万五九六五円及びこれに対する平成一〇年一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、交通事故の被害者に対して保険金を支払った原告(加害者と契約の保険会社。変更前の商号「大東京火災海上保険株式会社」)が、被害者が事故後に入院した病院を運営する被告に対し、同病院の医療過誤のために、本来原告が被害者に対して支払うべき金額を超える額の保険金の支払を余儀なくされたと主張して、商法六六二条に基づき、被害者に代位してその過払金相当額の支払を求めた事案である。
第三当事者の主張
一 争いのない事実等
以下の事実は当事者間に争いがないか、《証拠省略》により認めることができる。
(1) 事故(以下「本件交通事故」という。)の発生
ア 発生日時 平成四年一月二日午前〇時五〇分ころ
イ 発生場所 鹿児島県姶良郡隼人町内一三九一番地先路上
ウ 加害車両 普通乗用自動車(《ナンバー省略》)
同運転者 A野太郎(以下「A野」という。)
エ 被害者 B山松夫(以下「B山」という。)
加害車両助手席に同乗
オ 事故態様 B山を乗せ、酒気帯びの状態で加害車両を運転していたA野は、自車前方へ割り込んできた自動二輪車を時速約八〇キロメートルで追跡し、上記発生場所付近の交差点に差し掛かった際、これを右折しようとしたが、速度超過のまま急制動したために、自車を左側へ滑走させ、道路左側民家のコンクリート擁壁に激突させた。
(2) 本件交通事故後のB山の診療経過等
ア 国分温泉病院
(ア) 本件交通事故後、B山は国分温泉病院へ搬送され、平成四年一月二日から同月一六日までの間、同病院に入院した。
(イ) 同日同病院において、B山は、全身打撲(頭部・頸部・胸部・腰部・両下肢他)、脳圧亢進(意識障害)、自覚健忘、硬膜下出血の疑い、前胸部右八、九、一〇、一一肋骨骨折、左側胸部八、九、一〇、一一肋骨骨折、左側大腿骨完全複雑骨折、第Ⅲ楔状骨骨折、左第一〇中足骨骨折、頸椎捻挫、腰椎捻挫、左足関節部捻挫脱臼、失血性ショック、内臓破裂(肝・腎・脾臓の疑い)、下血・腸管膜動脈出血(疑い)、膀胱内出血(血尿)、消化管出血(疑い)、ガラス片迷入(右前胸部、左前胸部及び左側背部)並びに四肢及び躯幹部の筋裂挫傷・挫滅創と診断された。
イ 鹿児島市立病院(被告運営の病院。以下「被告病院」という。)
(ア) 平成四年一月一六日午後三時ころ、B山は、国分温泉病院から被告病院へ転院し、同病院整形外科C川竹夫医師(以下「C川医師」という。)により、左大腿骨頸部骨折(転子間)、左第七、八、九肋骨骨折、左足趾骨骨折と診断されたが、胸部X線写真撮影を受けたところ、同病院外科D原梅夫医師(以下「D原医師」という。)により、左血胸及び外傷性横隔膜ヘルニアであると新たに診断され、胸部CT検査で胸腔内に胃が脱出していることが確認された。
D原医師は、B山の外傷性横隔膜ヘルニアに関し、緊急手術をせずに待期手術でよいと判断し、B山及びC川医師に対し、先に整形外科での治療を行い、その後外科で外傷性横隔膜ヘルニアについての手術をする旨説明した。
B山は、C川医師により、左大腿骨頸部骨折に対する鋼線牽引術(骨に金属を刺入して直接牽引することにより骨折片を整復位に戻し、かつ、その位置を保持する治療法)を受け、同日午後六時三〇分ころ、整形外科へ入院した。
(イ) 同月一八日、C川医師は、外科へB山の診察を依頼し、同科のA田医師がB山を診察したところ、外傷性横隔膜ヘルニア及び左血胸について手術が必要であると診断し、D原医師に伝える旨C川医師に回答した。
(ウ) 同月二〇日午前一一時五〇分ころ、B山は、外傷性横隔膜ヘルニアの手術のため、整形外科から外科へ転科した。
午後二時三〇分ころ、D原医師はB山を診察し、B山の外傷性横隔膜ヘルニアに対する手術(開胸法)を同月二四日に実施することとした。
(エ) ところが、二〇日午後四時三〇分ころ、B山は、看護師へ嘔気や心窩部痛を訴え、午後六時ころには、嘔気が持続し、唾液様のものを嘔吐し、心窩部痛が増強した。また、午後九時ころには、呼吸困難、胸内苦悶感を訴えてややチアノーゼが発現し、翌二一日午前四時二八分、心肺停止状態となった。B山は、被告病院医師らの処置により蘇生したが、意識を喪失し、瞳孔が散大し、対光反応も鈍い状態であった。
D原医師は、外傷性横隔膜ヘルニアの緊急手術が必要であると判断し、午前七時ころ、B山に対し、破裂横隔膜縫合、胃切除及び胃空腸吻合を術式とする緊急手術を行った。
(オ) その後B山は、被告病院で治療を受け、平成四年四月一九日、D原医師は、B山の妻に対し、B山の病状について、肝機能、末梢血、検尿の検査結果は全て正常である旨、胃破裂、横隔膜破裂、血気胸、肋骨骨折等は改善され、治癒している旨、意識がなかった状態から改善し、ほぼ今までのことは分かる程度になった旨、今後の問題点としては、四肢機能のリハビリ(現在は三〇分間座れる程度の状態)、けいれん発作(内服薬で対応している)、視力障害(見えないが眼底は正常である)が挙げられる旨説明した。
(カ) B山は、平成四年八月四日まで被告病院に入院し、同日、国立東京第二病院へ転院した。
ウ たま日吉台病院
平成五年一〇月七日、B山はたま日吉台病院へ入院し、その後平成七年二月一一日に同病院を退院するまでの間のいずれかの時期において、同病院D田春夫医師により、外傷性横隔膜ヘルニア及びそれに伴う低酸素性脳症、両眼失明(四肢の筋力低下・筋萎縮のため、体を動かすことがほとんどできず、両眼の視力もわずかに光に反応するだけで失明している状態。以下、B山のかかる四肢麻痺及び両眼失明を「本件後遺障害」という。)であり、症状は固定していると診断された。
(3) B山の損害
平成九年一一月一二日、A野は、B山との間で、本件交通事故の損害賠償金として、既払金四一九九万五〇二九円のほかに金二億円の支払義務があることを確認し、これをB山の代理人へ支払う旨の裁判上の和解をした。
また、上記和解においてA野は、被告との間で、B山の損害額が金二億四一九九万五〇二九円であることを確認した。
(4) 保険契約及び保険金の支払
ア 平成三年六月一八日ころ、原告は、A野との間で、以下の内容の自動車保険契約(PAP)を締結した。
(ア) 保険期間 同月二一日から平成四年六月二一日まで
(イ) 被保険自動車 加害車両
(ウ) 被保険者 A野
(エ) 搭乗者傷害保険金額 一事故 無制限
イ 平成九年一二月二五日、原告は、上記保険契約に基づき、B山の代理人に対し、上記(3)の賠償金二億円を支払った(前記既払金四一九九万五〇二九円についても、同契約に基づき原告がB山へ支払ったものである点に争いはない。)。
(5) 損害の填補
原告は、加害車両を被保険車上する自動車損害賠償責任保険(以下「自賠責保険」という。)から、平成四年八月六日に金一二〇万円、平成九年一二月二五日に金三〇〇〇万円の填補を受けた。
二 争点
(1) 被告病院医師らの過失の有無
(原告の主張)
ア 手術時期の判断の誤り
(ア) 一般に、外傷性横隔膜ヘルニアにより患者の消化管や脾臓が胸腔内に脱出している場合、手術が絶対に必要である。
しかもこれを放置すると、消化管の穿孔または破裂、脱出臓器の増量、脱出臓器から胸腔及び腹腔内への出血などといった重大な合併症を招く可能性が高く、かかる合併症は、胸腔内圧を著しく上昇させて心臓や肺を圧迫し、または大量出血を招いて患者の生命に危険を及ぼすことがしばしばあるため、外傷性横隔膜ヘルニアについての手術の緊急度は比較的高い。外傷性横隔膜ヘルニアは、患者の呼吸循環動態に当該ヘルニアの影響があれば緊急手術を行い、呼吸循環動態が安定していても準緊急手術を行うことが望ましい外傷病態である。
(イ) しかるに、D原医師は、B山が被告病院へ転院した平成四年一月一六日、その傷病を左外傷性横隔膜ヘルニアであると診断し、これより治療を優先すべき他の傷病がなかったにもかかわらず、その手術を八日後の同月二四日に予定して待期手術を選択し、緊急または準緊急手術を実施しなかった。
その後、被告病院外科の医師も、同月一八日に同病院整形外科から再度の診察依頼を受けた際、B山の手術が必要であると判断したが、緊急または準緊急手術を実施しなかった。
(ウ) また、被告は、B山の症状は慢性期の横隔膜ヘルニアであり、待期手術がなされることが通常である旨主張するが、仮に横隔膜ヘルニアにつき、被告主張のような三期にわたる病期の分類が一般的になされているとしても、かかる分類をD原医師は知らなかったのであるし、そもそも病期の分類は、受傷からの経過時間ではなく臨床症状の特徴によって分けられる。慢性期の患者の特徴は、症状がなくあるいはあったとしてもそれが軽いことであり、ヘルニアの程度が軽く、概ね日常生活を送っている患者がこの病期に該当すると思われるところ、B山は外傷性横隔膜ヘルニアによって日常生活動作が大幅に制限されていたのであるから、B山の病期を慢性期と判断することは誤りである。
(エ) したがって、被告病院医師らには、B山の手術時期の判断を誤り、緊急あるいは準緊急手術を実施しなかった過失がある。
イ 術前の絶飲食及び胃内減圧の不履行
例え外傷性横隔膜ヘルニアの待期手術が許される場合であったとしても、胃の膨張及び緊満を可及的に防止するため、待期中は絶飲食と胃管による胃内容物の排出が必須である。
ところが、D原医師は、待期手術を選択したにもかかわらずB山に絶飲食を指示せず摂食させており、術前の絶飲食及び胃内減圧を怠った過失がある。
ウ 症状急変後の処置の誤り
(ア) B山の心肺停止直前の胸部X線写真からは左胸腔内圧の異常な上昇が認められるため、被告病院の医師らは、平成四年一月二〇日午後九時ころB山の症状が急変し、呼吸困難が増悪してきた時点で早急に胸部X線写真撮影を行い、胃管挿入による胃内減圧を図るべきであった。
また、上記症状急変後、B山の呼吸状態は著しく悪化していたはずであるから、被告病院の医師らは、心肺が停止するまでの間に気管内挿管を行うべきであった。
さらに、被告病院の医師らは、B山が心肺停止状態から蘇生した後、さらなる呼吸の改善と一旦停止した心機能の回復を図るべく、心停止後の次善の策として胸腔ドレナージ(体内に貯留した液体等の外部誘導)を行うべきであったし、また、蘇生のための心臓マッサージにより胃が破裂した可能性が極めて大きいため、蘇生後直ちに胸部X線写真撮影を行い、胃が破裂していないか確認すべきであった。
(イ) ところが、上記B山の症状急変後心肺停止に至るまでの間、被告病院の医師らがB山に対して行った処置は、酸素投与、輸液速度の調節、昇圧剤投与のみであり、行った検査も、二〇日午後九時二八分の血液ガス分析及び二一日午前四時二五分の胸部X線写真撮影のみで、B山の呼吸状態の悪化と血圧低下に対する対症療法を実施したにとどまる。
また、B山が蘇生した後も、午前七時に手術が行われるまで胸腔ドレーンは挿入されず、胃が破裂していないか否かの確認もなされなかった。
被告は医師の裁量の範囲内であった旨主張するが、医師の裁量性は、選択肢としてのそれぞれの医療行為による結果がいずれも等質、等量である場合にのみ許されるのであり、本来ならば何らの後遺傷害も発生しなかったにもかかわらずこれが生じた本件において、医師の裁量性を論じる余地は全くない。
したがって、被告病院の医師らには、B山の症状急変後、上記各点でその処置を誤った過失がある。
(被告の主張)
ア 手術時期の判断
(ア) 外傷性横隔膜ヘルニアは、発症時期から以下の三期に分類される。
a 急性期
受傷直後の時期。重篤な合併症を伴うことが多く、ショック、呼吸困難などの呼吸循環不全が出現する。
b 慢性期(間欠期)
急性期を過ぎ、受傷後一週間以上経過した比較的全身が落ち着いてくる時期。無症状である場合のほか、慢性的な胸腹部痛の不定愁訴が症状として現れる場合もある。自覚症状を欠くものであっても、急激な閉塞期への移行可能性を考慮し、積極的な外科治療が必要である。
c 閉塞絞扼期
慢性期の症状から、便秘、運動、食事等による腹圧上昇をきっかけとして、ヘルニア臓器が横隔膜損傷部から胸腔内に脱出嵌頓し、閉塞や絞扼を起こす時期。嵌頓や絞扼の程度によって急速に血行障害が進む場合があり、緊急手術が必要となる。
(イ) D原医師は、被告病院入院時のB山の傷病を外傷性横隔膜ヘルニア及び左血胸であると診断したが、B山に胸痛、呼吸困難等の胸部症状がなかったこと、腹痛、嘔気等の腹部症状もなかったこと、血圧が九〇/六〇(収縮期血圧/拡張期血圧を示し、単位は水銀柱ミリメートル。以下同様であり、単位を省略する。)、脈拍が毎分六〇回であり、呼吸も毎分一八回、規則的で呼吸苦を訴えることもなく、症状が安定していたこと、受傷後既に一五日が経過し、その間症状が安定しており、国分温泉病院では入院後八日目から五分粥を食べていたこと、被告病院入院時の血液ガスの分析結果が、pH七・四六二、PO2(酸素分圧)八六・二(単位は水銀柱ミリメートル。以下同様であり、単位を省略する。)、PCO2(炭酸ガス分圧)三六・九(単位は水銀柱ミリメートル。以下同様であり、単位を省略する。)と正常範囲内であったことから、緊急手術が必要な急性期の外傷性横隔膜ヘルニアではなく慢性期のものと診断した。B山の日常生活の制限は、外傷性横隔膜ヘルニアのみによるものではなく、むしろ全身の骨折によるものと考えられるから、慢性期としたD原医師の診断に誤りはない。
かかる慢性期の横隔膜ヘルニア患者については、腸閉塞、特に絞扼性イレウス症状を併発している場合であれば格別、通常の場合には待期手術を行うことが一般的であり、平成四年一月二〇日時点でのB山の症状も上記入院時のそれと変わらず安定していたことから、D原医師は、待期手術を計画したのである。
同医師も外傷性横隔膜ヘルニアの増悪を完全に回避するためには、早期の手術が必要であることは十分に認識していたが、平成三年当時、外傷性横隔膜ヘルニアは救急医学会における救急医療の重点疾患として取り上げられていなかったし、外科MOOK・No17においても、「受傷直後から一週間くらいの時期では急性期と考えてよいが、これをすぎるとヘルニアがあっても一応全身状態の落ち着く時期である。数ケ月、数年経って確定診断のつくことも稀ではない。周期的に呼吸困難、胸部圧迫、胸内苦悶感を訴える。(中略)慢性期合併症としてイレウス症状、特に絞扼イレウス症状を呈する際には緊急手術を要するが、通常慢性期の本症に対しては予定手術を行う。」と記述されている。本件B山は、入院時には受傷後二週間以上が経過しており、胸部症状、腹部症状はほとんどなく、全身状態も安定していたため、D原医師は、待期手術でよいと判断したものであり、かかる判断に誤りはない(同医師は、慢性期の患者は必ずしも緊急手術の必要がなく、待期手術でよいとされているといった程度の認識は有していた。)。
(ウ) したがって、被告病院医師らの手術時期の判断に何ら誤りはなく、判断を誤ったとの過失はない。
イ 摂食させた判断
B山は、受傷後七日目(一月八日)の夕食から国分温泉病院において食事を開始しており、被告病院においても、入院時(同月一六日)に五分粥を食べて排便も見られ、食事摂取による嘔吐や腹痛等の腹部症状もなかった。
そのため、D原医師はB山の絶飲食と胃管挿入の必要を認めなかったのであり、B山の摂食を許した同医師に過失はない。
ウ 症状急変後の処置
(ア) 心肺停止前の胃管挿入、気管内挿管等
a 二〇日午後八時四〇分ないし午後一〇時
B山は、被告病院に入院した平成四年一月一六日から外科に転科した同月二〇日までの間、全くその症状に変化はなく、手術予定日である同月二四日まで同様に安定した状態で経過する可能性が極めて高いと予測するのが通常であったし、同月二〇日午後八時四〇分ころの症状急変に対しても、被告病院医師らは、酸素吸入によりB山の呼吸及び循環系が安定したことからこれを継続したものであり、意識もはっきりし、自発呼吸もあったこの時点で気管内挿管を行わず、酸素吸入を続けた被告病院医師らの処置は相当であった。
少なくとも、後の経過を加えずに一月二〇日午後八時四〇分から午後九時過ぎのB山の症状のみから判断すれば、気管内挿管を行わなかった被告病院医師らの処置は医師の裁量の範囲内のものとして許される。
したがって、同日午後八時四〇分ないし午後一〇時の時点で、D原医師らがB山の外傷性横隔膜ヘルニアの増悪を疑わずに胸部X線写真撮影及び胃管挿入を行わず、気管内挿管をして呼吸管理しなかったことに過失はない。
b 二一日午前〇時ころ
このころのB山の症状についても、血圧は一応正常範囲内であり、呼吸困難、胸内苦悶等を訴えた形跡もないため、後の経過を加えずに判断すれば、酸素吸入を継続しただけで気管内挿管をしなかった被告病院医師及び看護師らに過失はない。
c 二一日午前三時ころ
このころB山に現れた呼吸困難等の症状に対して、後の経緯を知り得ないその時点において、医師が、まずアンビューバックによる補助呼吸を選択し、症状が改善されない場合に初めて気管内挿管による陽圧呼吸を試みることは、臨床現場における医師の裁量の問題である。D原医師らは、当時B山に自発呼吸があり、意識もあったため強い喉頭反射による低酸素症を避けるためにアンビューバックによる補助呼吸を選択したという側面もあるのであり、かかる処置は当時の医学的準則を著しく逸脱するものではない。
したがって、D原医師らが一月二一日午前三時の時点でB山に気管内挿管をしなかったことは、医師の裁量の範囲として許され、同医師らに過失はない。
(イ) 蘇生後の胸腔ドレナージ
被告病院医師らは、従前の胸部CT検査によりB山の左胸腔内にその胃が脱出していることを認識していたのであり、B山の蘇生後、同人に対し胸腔ドレーンを挿入することによりその胃を穿刺、破裂させる危険が存したことからこれを実施しなかった。
よって、かかる医師らの行為に過失はない。
(ウ) 蘇生後の胸部X線写真撮影
被告病院の医師らは、B山の蘇生後同人に対する緊急手術を実施することにしたのであるから、蘇生後直ちに胃破裂の有無を確認するための胸部X線写真撮影をする必要はなかった。
なお、被告病院の麻酔医は、一月二一日午前六時、B山に対し胸部X線写真撮影を行った。
したがって、この点についても過失はない。
(エ) 症状急変後、横隔膜ヘルニアの増悪を疑わなかった点
各症例の統計からは、慢性期の横隔膜ヘルニアの場合、胸腔内に脱出した腹腔内臓器が閉塞絞扼する症例はまれであり、しかも多くの症例は受傷後一年以上経過後に閉塞絞扼期に移行するといわれている。本件のB山は受傷後無症状のまま一九日を経過していたのであり、かかる患者が突然急激に閉塞絞扼症状を呈することはあまり考えられない。
したがって、一月二〇日午後四時三〇分ないし午後六時二〇分ころの心窩部痛が自制内のものであり、午後八時四〇分の胸痛も鎮痛剤の投与で消失し、呼吸困難や胸内苦悶の症状も酸素吸入で改善され、腹部は平坦で抵抗感もなく、イレウス症状もなかったことを併せ考慮すると、D原医師らがB山の症状急変後、閉塞絞扼期への移行を疑わなかったことは、当時の臨床現場の一般的認識から考えても相当であり、この点に過失はない。
(2) 被告病院医師らの行為(債務不履行)と本件後遺障害との因果関係の存否
(原告の主張)
ア B山の本件後遺障害は、心肺停止及びこれに引き続く敗血症、ショックに関連すると推測される。
イ(ア) すなわち、まず四肢麻痺については、心肺停止以前、B山には四肢麻痺はもちろん、脳、脊髄の外傷も存しなかったのであり、同人に存した左大腿骨及び左足趾の骨折が四肢麻痺の原因となることはない。心肺停止後意識が回復したにもかかわらず、B山に四肢麻痺が残った原因としては、心停止または術後の敗血症に伴うショック等による高位脊髄の虚血が考えられる。
(イ) また、視覚障害についても、心停止以前にはB山に存しなかった障害であり、意識回復直後にその視覚が正常であったとの記録も存しない以上、心停止またはその後の症状と何らかの関係があるものと考えるのが自然であり、少なくとも本件交通事故との結びつきはない。
ウ したがって、B山の心停止と本件後遺障害とは密接な関係を有しているのであり、被告病院医師らの過失によりB山の症状が急変し、心停止にまで至ったことからすれば、被告病院医師らの行為とB山の本件後遺障害との間には因果関係が存するといえる。
(被告の主張)
ア 本件においてB山は、心肺停止後意識を回復しているところ、低酸素状態が長時間続いたことによる低酸素血症が原因で心肺停止に陥り、その結果低酸素性脳障害となったとすれば、長時間低酸素状態にさらされた時点で不可逆性の脳障害を発症しているはずであり、B山のように意識を回復することは考えられないから、同人に生じた心停止の原因は、肺圧迫による低酸素症ではなく、循環系への圧迫によるものである可能性が高い。
また、平成四年一月二五日及び二七日になされたB山のCT検査の画像につき、異常所見は存しない。
イ 原告は被告病院医師らの行為と本件後遺障害との間に因果関係が存する旨主張するも、高位脊髄に四肢麻痺を惹起するような虚血が生じたとすれば同時に呼吸障害を招来し、胸部、腹部にも何らかの障害が残るはずであり、それが存しない本件において高位脊髄の虚血が生じたとは考えられない。また、視覚障害についても、B山に眼科における客観的な異常所見は存しないのであり、低酸素性脳障害により視覚障害が発生したとする客観的証拠も存しない。
ウ よって、被告病院医師らの行為とB山の本件後遺障害との間に因果関係は存しない。
(3) 原告及び被告の責任範囲
(原告の主張)
ア 本件交通事故の加害者A野との保険契約に基づき被害者B山へ保険金を支払った原告は、被告による医療過誤がなくとも本件交通事故によりB山に生じたであろう損害についてのみ責任を負うべきであり、かかる損害の額は、以下のとおり合計一五八万九〇六四円である。
(内訳)
(ア) 治療費 二一万六二六四円
a 国分温泉病院(一月二日から一月一六日まで) 八万八四四六円
b 鹿児島市立病院(整形外科分一月一六日から一月一九日まで) 三万七六三〇円
c 鹿児島市立病院(外科分一月二〇日から六月三〇日まで。入院料の二分の一) 九万〇一八八円
(イ) 入院雑費 一一万八八〇〇円
a 一月二日から一月一九日までの分
一二〇〇円×一八日=二万一六〇〇円
b 一月二〇日から六月三〇日までの分
一二〇〇円×一六二日×一/二=九万七二〇〇円
(ウ) 慰謝料 一二五万四〇〇〇円
a 一月二日から一月一九日までの分
四八万円×一八/三〇日=二八万八〇〇〇円
b 一月二〇日から六月三〇日までの分
(二二二-二八・八)万円×一/二=九六万六〇〇〇円
イ したがって、原告は、被告に対し、B山に対する支払金額二億四一九九万五〇二九円から本来の損害賠償金額一五八万九〇六四円及び自賠責保険から填補された三一二〇万円を控除した金二億〇九二〇万五九六五円につき、損害賠償請求権を代位取得した。
(被告の主張)
ア 交通事故及びその後の医療過誤が競合する事案においては、交通事故の態様、加害者の過失の態様及び程度と医療関与者の過失の態様、程度、医療水準違反ないしは裁量逸脱の態様、程度を比較考量して、交通事故加害者及び医療関与者間の負担割分を定めるべきであり、交通事故後の医療過誤により被害者の損害が拡大したという場合、当該損害拡大部分について交通事故加害者が免責されるのは、その過失が極めて軽微であり、かつ医療関与者の過失が極めて初歩的で重大な場合に限られるというべきである。
また、加害者が契約する保険会社が被害者に対して損害の賠償をしたことにより同人に代位する場合、当該保険会社と交通事故加害者とを同視して、医療関係者との責任割合を定めるべきである。
イ A野は、本件交通事故の際、呼気一リットルにつき〇・三ミリグラムのアルコールを保有する酒気帯びの状態で自車を運転し、かつ、雨により路面が濡れて滑りやすい状態であったにもかかわらず、B山の制止も聞かずに制限速度を三〇キロメートルも超過する時速八〇キロメートルで暴走族風のバイクを追跡し、そのまま減速することなく交差点へ進入したところ、前方の当該バイクのブレーキランプが点灯したためあわてて急制動し、本件交通事故を発生させたものであり、その過失は重大である。
また、本件におけるB山の外傷性横隔膜ヘルニアは、本件交通事故の衝撃による横隔膜破裂の外傷によるものであり、被告病院の医療行為とは全く関係がないし、平成四年一月二〇日から二一日にかけてヘルニアが増悪したことについても、本件交通事故の延長線上にある自然の経過とでもいうべきものであり、被告病院の医師らは、これを阻止し得なかったにすぎないから、仮に被告病院医師らに過失が存するとしても、極めて初歩的で重大な過失ではない。
さらに、仮に本件後遺障害の原因がB山の心停止に伴う低酸素性脳障害にあり、二一日午前三時ころまでに被告病院医師らがB山に気管内挿管しなかった点に過失が存するとしても、B山の当該心停止は、本件交通事故により発症した横隔膜ヘルニアの増悪または嵌頓により招来されたものであるから、上記過失行為により本件交通事故と本件後遺障害との自然的事実的因果関係が切断されることもない。
ウ したがって、B山の拡大損害部分についてA野は免責されず、しかもA野の過失は被告病院医師らのそれよりはるかに重大であり、本件後遺障害に対する寄与度もはるかに大きいのであるから、被告病院医師らの責任は否定されるべきである。
仮にこれが肯定されるとしても、本件後遺障害に対する被告病院医師らの寄与率は二割を超えず、被告は原告に対し、金四一八四万一一九三円の支払義務を負うにすぎない。
第三判断
一 被告病院医師らの過失の有無(争点(1))について
(1) 《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
ア 国分温泉病院
(ア) 本件交通事故後、救急車で国分温泉病院に搬送されたB山は、平成四年一月二日午前一時二〇分ころ、同病院に入院した。
その際、B山は、呼吸不全で意識障害があり、全身打撲で重篤な状態であったほか、各X線写真撮影の結果、血胸、肋骨骨折、左大腿骨骨折、頸椎捻挫、腰椎捻挫、左足関節捻挫・脱臼等が認められた。
(イ) B山は、同病院入院時から、内臓出血及び腸管膜動脈出血の疑いがあり、絶食とされたが、同月八日の夕食から流動食が開始され、同月一四日の朝食からは三分粥を摂取し始めた。
(ウ) 同月一五日、B山は、同病院の医師により、脳神経系統は正常であり、呼吸時の胸部痛はなく、腹部痛及び腹壁緊張も認められないと診断された。
同医師は、同日付けで、被告病院の医師に対し、B山がようやく搬送できる状況となったためよろしく処置して欲しい旨、現時点の問題点として、骨折、黒色タール様の糞便等が挙げられる旨、入院一週間まで絶食としたが、現在は五分粥食を実施している旨などを紹介状に記載のうえ、B山の診察を依頼し、翌一六日、B山は被告病院へ転院した。
イ 被告病院
(ア)a 同日午後三時ころ、被告病院救命救急センターに搬送されたB山は、血圧九〇/六〇、脈拍毎分六〇回、呼吸苦を訴えることなく規則的に呼吸毎分一八回、体温三五・九度という状態であり、意識レベルは清明で、腹痛もなかった。
C川医師は、B山を診察し、整形外科的症状として、左大腿骨頸部骨折(転子間)、左第七、八、九肋骨骨折、左足趾骨骨折が存すると診断したが、国分温泉病院からの紹介状に血尿の記載があったため、被告病院泌尿器科のD原医師に相談した。
b 同日午後三時一〇分ころ、同医師がB山を診察したところ、検尿検査の結果は異常なし(潜血陰性、pH六・五)、排尿も自力でスムーズにできるとのことであったが、その後、午後三時四五分ころに実施されたB山の胸部X線写真撮影の写真を見た同医師は、その異常に気付き、D原医師にその読影を依頼した。
c 当該X線写真を見た同医師は、左血胸及び外傷性横隔膜ヘルニアと診断し、B山に対して血液ガス検査を実施したところ、その分析結果は、pH七・四六二(正常値は七・三五~七・四五)、PO2八六・二(正常値は八〇~一〇〇)、PCO2三六・九(正常値は三五~四五)といずれも正常範囲の値であった。
また、同医師は、B山に対して胸部のCT検査を実施し、同人の左胸腔内への胃の脱出(横隔膜ヘルニア)、縦隔の右方偏位、左胸上部の血胸の存在を確認したが、緊急に胸腔ドレンを挿入したり、ヘルニアに対する手術をする必要はない(待期手術でよい)と判断し、B山及びC川医師に対し、先に整形外科での治療を行い、その後外科で外傷性横隔膜ヘルニアについての手術をする旨説明した。
B山は、C川医師により、左大腿骨頸部骨折に対する鋼線牽引術を受け、午後六時三〇分ころ、整形外科へ入院した。その際の同人の血圧は一一〇/七〇、疼痛が左大転子のみにあり、呼吸苦やチアノーゼはなかった。
(イ) 同月一七日、B山は、血圧一〇〇~一四〇/五〇~八二、脈拍毎分七二~八〇回、呼吸毎分二〇回、体温三六・二~三六・九度であり、血液ガス分析の結果はpH七・四四二、PO2九二・六、PCO2三九・四であった。左の肺音が弱いものの、呼吸は規則的で息苦しさもなく、五分粥(夕食からは常食)が出され、その二分の一~三分の二くらいを摂取した。
(ウ) 同月一八日、B山は、血圧一〇二~一四〇/八〇、脈拍毎分七二~八四回、呼吸毎分一四~二三回、体温三五・八~三六・六度であり、引き続き左の肺音が弱いものの息苦しさはなかったため、午前一〇時四〇分ころ、入院以来なされていた酸素吸入(毎分二リットル)が中止された。
同日、C川医師は、外科にB山の診察を依頼し、同科のA田医師がB山を診察したところ、外傷性横隔膜ヘルニア及び左血胸について手術の適応はあると診断し、D原医師に伝える旨回答した。
(エ) 同月一九日、B山は、血圧一一二~一四〇/六八~九〇、脈拍毎分六〇~八八回、呼吸毎分二〇回、体温三六・〇~三六・九度であり、左肺の空気の入りが弱かったものの、呼吸苦及び胸痛はなかった。
(オ)a 同月二〇日午前一〇時ころ、B山は、血圧一一〇/六〇、脈拍毎分七二回、体温三五・九度であり、引き続き左肺の空気の入りが弱かったものの、呼吸苦及び胸痛はなく、午前一一時五〇分ころ、横隔膜ヘルニアの手術のため外科へ転科した。
b 同月午後二時三〇分ころ、D原医師はB山を診察し、以下のような状態であると診断した。
栄養:普通
意識:清明
顔貌:正常
皮膚:色正常、出血なし、静脈拡張なし、色素なし、浮腫なし
脈拍:毎分八〇回、整ってはいるが弱い。
呼吸:喘鳴なし
眼瞼:浮腫なし、下垂なし
眼瞼結膜:貧血なし、充血なし
眼球結膜:黄疸なし、充血なし
口唇:貧血なし、チアノーゼなし
舌:苔なし、乾いている
口腔:粘膜異常なし
胸部:形は対称
肺:左の呼吸音が弱いが、呼吸性雑音はなし。右の呼吸音は正常
腹部:形は平坦、グル音なし、腹水なし、軟らかく、抵抗なし、圧痛なし、腸雑音は亢進していない、腸管の蠕動不安なし
四肢:下腿浮腫なし
総括及び印象:左外傷性横隔膜ヘルニア及び血胸の受傷後の経過が長い
c 上記診察後、D原医師は、B山に対し、翌二一日に心電図、胸腹部のX線写真撮影、血液ガス分析等の術前検査を、二二日に超音波検査を行い、二四日に外傷性横隔膜ヘルニアに対する手術(開胸法)を実施する予定とし、これを看護師に指示するとともに、B山の家族にその予定等を説明した。
d ところが、二〇日午後四時三〇分ころ、B山は、嘔気や心窩部痛を訴え(血圧一三〇/七〇、脈拍毎分七二回)、D原医師の指示によりボルタレン座薬(鎮痛剤)が投与されたものの、午後六時ころになっても嘔気が持続し、唾液様のものを嘔吐し、心窩部痛が増強した(血圧一四五/一一〇、脈拍毎分八四回、呼吸毎分一八回、体温三五・五度)。
かかる状況の報告を受けた同医師は、時期的に外傷性のものとは考えにくい、精神的なものでしょうなどと発言し、ボルタレン座薬の投与や嘔気に対するプリンペラン(消化管運動改善剤)の注射等を看護師に指示し、午後六時二〇分ころ、B山にプリンペランが注射された。
e 午後八時ころ、B山は、手背の体色が非常に青黒い状態で、脈拍が上昇したため心電図モニターが装着され、午後八時四〇分ころには、呼吸苦を訴え、毎分三リットルで酸素吸入(経鼻)が開始され、当直医であったB野医師が呼ばれた。
午後九時ころ、同医師がB山を診察したところ、その状態は、呼吸困難で胸内苦悶感があり、ややチアノーゼが認められた(血圧一二四/八〇、脈拍毎分一一八回、呼吸毎分二四回、体温三五・二度)ため、酸素吸入が毎分五リットルに増加され、血液ガスの分析が行われた(その結果は、pH七・四一〇、PO2一六九・六、PCO2四三・八であった。)。また、B山は、腹痛を訴えたが、同医師による腹部の診断では平坦で、抵抗はなく、腹痛に対してソセゴン(鎮痛剤)等の静脈注射がなされた。
B山は、午後一〇時ころには、青黒かった手背色がだいぶ軽減し、酸素吸入が毎分三リットルに戻されたものの、午後一一時過ぎころ、再び前胸部痛を訴えた(血圧一二〇/九〇、脈拍毎分一四〇回)。
(カ)a 二一日午前〇時ころ、B山は、血圧一二二/九〇、脈拍毎分一四九回、呼吸毎分三〇回、体温三五・〇度であり、午前一時二〇分ころ、疼痛があり眠れないと訴えた。
また、午前二時ころには、胸骨下部の痛みを訴え、嘔気や嘔吐はなかったものの四肢冷感があり、冷汗をかきながらも暑い暑いと訴えた(血圧一〇八/八四、脈拍毎分一六〇回、呼吸毎分三六回)。
b 午前三時ころ、B山は、呼吸が努力様、下顎様となってチアノーゼが発現し、縮瞳気味で対光反応が鈍くなり、血圧が急低下した(血圧五六/不明、脈拍毎分一四六回、呼吸毎分三六回)。かかる状況の報告を受けたB野医師及びD原医師は、アンビューバックを用いて補助人工呼吸を開始し、血圧低下によるショック状態改善のための薬剤を投与した。
B山は、午前三時二〇分ころ、血圧五二/不明、同時三〇分ころ、血圧七〇/四六、脈拍毎分一四〇回、同時四五分ころ、血圧七六/四四であり、午前四時ころには、血圧六〇/不明、脈拍毎分一四三回、引き続き呼吸が困難で、心窩部痛に対して投与されていた鎮痛剤の効果は認められなかった。午前四時一〇分ころ、B山の外傷性横隔膜ヘルニアの増悪を疑ったD原医師が、胸部のX線写真撮影を行ったところ、気管と縦隔が右方に偏位し、胃泡の拡張が見られたことから、胃管の挿入を試みたが、挿入できなかった(同時一五分ころの血圧は、六八/不明)。
c その後B山は、下顎呼吸を始め、午前四時二八分ころ、呼吸停止、心停止状態に陥った。D原医師は、B野医師と直ちに気管内挿管を行い、アンビューバックによる補助人工呼吸と用手心臓マッサージを同時に行い、ボスミン(強心剤)を心腔内に注射し、心臓マッサージを続けたところ、ほどなくB山の心拍が再開し(脈拍毎分一三〇回)、午前四時五〇分ころには自発呼吸も現れた。このころB山は、血圧一〇〇/五三、意識不明、瞳孔散大で対光反応は鈍く、血液ガス分析の結果は、pH七・一六四、PO2八五・七、PCO2四三・九であった。
d 午前五時ころ、D原医師は、B山の外傷性横隔膜ヘルニアの緊急手術が必要であると判断し、同人の妻に事情を説明して手術の承諾を得た。このころ、B山は、脈拍毎分一四五回、同時二〇分ころには、血圧九八/五二、脈拍毎分一五四回であり、同時三〇分ころ、呼名には反応しなかったが、疼痛刺激には反応した。
午前五時四〇分ころ、被告病院麻酔科のC山医師が、術前措置として胃管挿入を実施したところ(この際は挿入できた。)、一九〇グラムの暗赤色の凝血塊が吸引された。
B山の血圧は、午前五時四五分ころ八〇/四八、午前六時ころ七四/不明、同時三〇分及び午前七時ころ九八/不明であった。
e 午前七時ころから午前一〇時四〇分ころまでの間、B山に対する上記緊急手術(破裂横隔膜縫合、胃切除及び胃空腸吻合術)が実施された。
B山は、多量の血性腹水があり、左横隔膜が一五センチメートルにわたって破裂し、胃と脾臓が胸腔内に入り、胃前壁大弯側が破裂し、周囲の胃壁は壊死状態、同部より胃の内容物が胸腔、腹腔内に流出し、汎発性腹膜炎と認められた。
(2) 手術時期の判断
ア 外傷性横隔膜ヘルニアは、受傷後の経過時間、合併損傷などにより多彩な病態を示し、症状も異なってくるものとされ、カーターらは、これをその臨床症状や経過により以下の三期に分類している。
(ア) 急性期
受傷直後の時期。内臓破裂や頭蓋内出血といった重篤な合併症を伴うことが多く、ショック、チアノーゼ、呼吸困難、奇異性呼吸などが出現する。
(イ) 慢性期
受傷後無症状のまま経過したものや急性症状を伴わず慢性化した時期。胸腔内に脱出した臓器による間欠的な胸腹部の不定愁訴がほとんどである。
(ウ) 閉塞絞扼期
脱出嵌頓した消化管が閉塞や絞扼をおこす時期。激しい胸腹部痛や急激なイレウス症状を伴い重篤な状態となる。
イ(ア) かかる外傷性横隔膜ヘルニアの治療については、医学文献(症例報告を含む。以下同じ。)上、「手術による破裂部修復しかない。」、「腹腔内臓器の胸腔内脱出によりかなりの症状を伴い、また嵌頓すれば腹腔内臓器のヘルニア門による絞扼や臓器の捻転などにより、出血、穿孔などの危険な合併症を伴うことになるので、手術の絶対的適応と考えられる。」とされており、かつ、その手術の緊急性についても、「緊急手術の適応となる。」、「診断がつき次第手術すべきだといわれる。」、「診断がつけば迅速に手術が施行されるのが通常である。」、「絞扼の危険があるため、発見後は早期手術が望まれる。」などとされている。
(イ) しかしながら他方で、手術の緊急性については、医学文献上、「慢性期合併症としてイレウス症状、特に絞扼イレウス症状を呈する際には緊急手術を要するが、通常、慢性期の本症に対しては予定手術を行う。」、「横隔膜損傷自体は、早期に修復すれば予後は悪くないため、さほど緊急性を要しない。むしろ、合併損傷によって手術の緊急性が左右される。」「大量の臓器脱出による頻脈や呼吸困難などの重篤な症状がみられるとき、腸管の絞扼による胃腸管内出血がみられるときなどは緊急手術の適応となる。」などともされており、慢性期の外傷性横隔膜ヘルニア患者について、受傷後手術までの期間が一年を超える症例が五五・六パーセントにのぼるとの報告例も存することに加え、待期手術を選択したとしても、手術までの間、患者の状態を適切に管理・把握しておれば、急激なヘルニアの増悪による症状に迅速に対応し得るといえる。
したがって、外傷性横隔膜ヘルニア患者の治療にあたる医師は、その治療に際して手術を行うことが必要であり、かつ、同傷病の診断がつき次第手術を行うことが望ましいということができるものの、重篤な合併損傷の存しない患者(慢性期とは限らない。)に対して、同傷病の診断後直ちにこれに対する手術を行うべき法的義務が存するとまではいえないというべきである。
医師長谷部正晴作成の平成一〇年一〇月四日付意見書(甲六六。以下「長谷部意見書」という。)も、呼吸、循環動態が安定している外傷性横隔膜ヘルニア患者であっても準緊急手術を行うことが望ましいとするにとどまるのであり、仮にその真意が準緊急手術を行わなければならないとするものであったとしても、上記判断を覆すには足りない。
ウ 前認定のとおり、被告病院へ転院した際(一月一六日)のB山は、血圧九〇/六〇、脈拍毎分六〇回、呼吸苦を訴えることなく規則的に呼吸毎分一八回、体温三五・九度、意識レベルは清明で、腹痛もなく、血液ガス分析の結果も、pH七・四六二、PO2八六・二、PCO2三六・九と正常値の範囲内であったのであり、絞扼イレウス症状等、緊急手術が要求されるような症状は特に認められない。前日(一月一五日)に国分温泉病院において、B山が、脳神経系統は正常、呼吸時の胸部痛はなく、腹部痛及び腹壁緊張も認められないと診断されたこと、同病院医師の被告病院医師に対する同日付紹介状に、ようやく搬送できる状況となった旨、入院一週間まで絶食としたが、現在は五分粥食を実施している旨が記載されていたことからしても、同月一六日の時点でのB山は、前記三分類の慢性期にあたるかは格別、受傷直後(同月二日)に比し、かなり症状が安定してきていたことが認められる。
したがって、かかる状態のB山につき、D原医師が、外傷性横隔膜ヘルニアの診断後直ちに手術を行わなかったとしても、過失が存するとは認められない(鑑定結果も、同医師の待期手術の選択は無理からぬものとしている)。
エ また、原告は、同月一八日、被告病院A田医師が、B山の手術が必要と診断したにもかかわらず、被告病院の医師らはB山に対する緊急または準緊急手術を実施しなかった点をもって過失が存する旨主張するも、前認定のとおり、同日のB山は、血圧一〇二~一四〇/八〇、脈拍毎分七二~八四回、呼吸毎分一四~二三回、体温三五・八~三六・六度、左の肺音が弱いものの息苦しさはなかったのであり、前認定の前日(一七日)の同人の状態を併せ考えてみても、やはり一八日の時点で緊急手術が要求されるような症状は特に認められず、B山の症状は安定していたと認められる。
よって、かかる状態のB山につき、被告病院の医師らが緊急または準緊急手術を実施しなかったとしても、過失が存するとは認められない。
オ 以上より、一月一六日及び一八日の時点において、被告病院の医師らにB山の手術時期の判断を誤り、緊急あるいは準緊急手術を実施しなかった過失が存するとは認められない。
(3) 術前の摂食等
ア 前認定のとおり、一月一七日、被告病院の医師は、B山に対し、五分粥(夕食からは常食)の摂食を許し、B山は、出された食事の二分の一ないし三分の二くらいを摂取した。また、一八日以降も同人に対しては少なくとも二〇日の朝食まで常食が出され、同人がこれを摂取したことが認められる(ただし、B山は、一九日の昼食及び夕食を食べなかった。)。
同月二〇日の昼食以降二一日午前七時に緊急手術が行われるまでの間、いつまでB山が摂食していたかについては、証拠上必ずしも明らかでないが、この間同人に絶飲食の指示が出ていなかったことに争いはなく、前認定のとおり、上記緊急手術の際、胃の内容物が胸腔、腹腔内に流出していたことに照らすと、少なくとも同人が嘔気を訴えた二〇日午後四時三〇分の前、すなわち、同日の昼食までは同人が常食を摂取していたことが認められる。
さらに、被告病院の医師らが、B山に対し、同病院入院後同月二一日午前四時一〇分ころまでの間、胃管を挿入しようとしなかったことに争いはない。
イ 一般的に、外傷性横隔膜ヘルニアにより胃が胸腔内へ脱出している患者に対して摂食を許すと、胃が膨張・緊満し、閉塞絞扼症状を起こす誘引となる可能性が存することからすれば、当該患者に対して待期手術を予定した医師は、その手術までの間、同患者に対して絶飲食を指示し、胃管挿入をするなどして、可及的に胃の膨張・緊満を防止することが望ましい。
ウ(ア) しかし、本件において、B山は、前認定のとおり、受傷後一週間程度は絶食していたものの、一月八日には流動食の摂取を開始し、一四日朝食からは三分粥を、一五日には五分粥を、一七日夕食からは常食を摂取していたのであり、しかも、その間(一月八日の摂食開始から二〇日午後二時三〇分のD原医師による診断のときまで)、腹痛、嘔気等の腹部の異常所見もなく、前認定の血圧、脈拍、呼吸状態、体温等に照らし、その状態も安定していたと認められる。
また、鑑定結果も、待期手術を予定したとしても、手術までの間絶飲食及び胃内減圧を行う必要はなく、予定手術前夜から絶飲食を指示し、手術直前に胃内減圧を行うのが通常の処置であるとする。
(イ) 長谷部意見書は、絶飲食及び胃管による胃内容物の排出が必須であるとするが、本件においてB山は、国分温泉病院で既に摂食を開始しており、しかもその間特に異常なく推移していたのであるから、絶飲食等が望ましいとはしても、本件のD原医師につき、B山に対して絶飲食を指示し、胃管挿入するなどする法的義務が存したとまでは認められないというべきである。
エ したがって、本件においてD原医師が、B山に対して摂食を許し、その症状が急変した一月二〇日午後九時までに胃管挿入を行わなかった点に過失があるとは認められない。
(4) 症状急変後の処置
ア 心肺停止前の胃管挿入、気管内挿管等及び横隔膜ヘルニアの増悪に対する処置
(ア) 本件において、被告病院の医師らが、B山に対し、一月二〇日午後九時ころからB山が心肺停止状態に陥った翌二一日午前四時二八分ころまでの間、気管内挿管を行っていないこと、また、二〇日午後九時ころから胸部X線写真撮影及び胃管挿入が行われた二一日午前四時一〇分ころの前まで、胸部X線写真撮影、血液ガス分析検査及び胃管挿入等の検査、処置をしていないことに争いはない。
(イ) ところで、前述のとおり、外傷性横隔膜ヘルニアに対する待期手術を予定したとしても直ちに過失が存するとはいえないと判断する根拠の一つとして、手術までの間、患者の状態を適切に管理・把握していれば、急激なヘルニアの増悪による症状に迅速に対応し得ることが挙げられるのであり、同傷病に対する待期手術を選択した医師は、手術までの間、当該患者の状態を適切に管理・把握してヘルニアの増悪・嵌頓の徴候を看過せず、同徴候が発現した際にはこれに迅速に対応する義務が存するといえる。
(ウ)a 前述のとおり、外傷性横隔膜ヘルニアについては、医学文献上、「大量の臓器脱出による頻脈や呼吸困難などの重篤な症状がみられるとき(中略)などは緊急手術の適応となる。」とされているところ、二〇日午後九時ころのB山は、呼吸困難及び胸内苦悶感を訴え、ややチアノーゼが発現しており、また、その脈拍数も、同日午後六時ころの状態(八四回)に比し、午後九時(一一八回)、午後一一時過ぎころ(一四〇回)、二一日午前〇時ころ(一四九回)、午前二時ころ(一六〇回)と時を経るごとに増加した(ただし、同日午前三時ころには毎分一四六回、午前三時二〇分ころには一四〇回と、やや減少した。)。
また、このころのB山の状態についてみると、二〇日午後六時ころには毎分一八回であった呼吸数が、二四回(同日午後九時ころ)、三〇回(二一日午前〇時ころ)、三六回(同日午前二時ころ及び午前三時ころ)と増加しており、脈拍も、上記のとおり時を経るごとに増加し、さらに、二〇日午後六時ころには一四五/一一〇であった血圧も、一二四/八〇(同日午後九時ころ)、一二〇/九〇(同日午後一一時過ぎころ)、一二二/九〇(二一日午前〇時ころ)、一〇八/八四(同日午前二時ころ)と徐々に低下し、同日午前三時ころには五六/不明と急低下しており、いずれの面でも時を経るごとに悪化する傾向がみられる。
よって、待期手術を選択し、上記義務を負っている被告病院医師ら(D原医師のほか、B野医師を含む。)は、呼吸困難等が発現した二〇日午後九時の時点でB山のヘルニアの増悪を疑い、これに対する検査、処置を行うべきであり、遅くともさらに脈拍及び呼吸数が増加した二一日午前〇時ころには、ヘルニアの増悪を疑って胸部X線写真撮影、血液ガス分析検査を行う義務が存したといえる(鑑定結果も、遅くとも二一日午前〇時には、胸部X線写真撮影、血液ガス分析などの検査が行われるべきであったとする。)。
また、前認定のとおり、B山は、二一日午前〇時以降も呼吸、脈拍、血圧の全ての面で時を経るごとに状態が悪化したのであり、同日午前三時ころにはチアノーゼが発現して血圧が急低下し、午前四時二八分ころ、心肺停止状態に陥ったこと、後述のとおり、B山が心停止に至った主因は外傷性横隔膜ヘルニアの増悪の結果惹起された低酸素血症にあり、心肺停止に陥るまでの間、B山の脳は相当な時間にわたり低酸素状態に置かれていたことが推測されること、さらに、二〇日午後九時ころ行われた血液ガス分析の結果も、正常値の範囲内であったとはいえ、PCO2の値が一六日及び一七日のそれに比べ上昇しており、鑑定結果によれば、呼吸数が増加しているにもかかわらず、PCO2の値が上昇している以上、呼吸一回あたりの換気量が著しく減少しているものと推測されるとされることからすれば、二一日午前〇時の時点で被告病院医師らが、B山のヘルニアの増悪を疑い胸部X線写真撮影、血液ガス分析検査を行っていれば、その増悪を診断できたものと認められるから、同医師らは、かかる検査結果及び診断に従い、この時点で直ちに胃管挿入、気管内挿管等の処置を行う義務が存したといえる。
b(a) これに対し、被告は、各症例の統計からは、慢性期の横隔膜ヘルニアの場合、胸腔内に脱出した腹腔内臓器が閉塞絞扼する症例はまれであること、B山の呼吸困難や胸内苦悶の症状も酸素吸入で改善され、腹部は平坦で抵抗感もなく、イレウス症状もなかったことからすると、被告病院医師らがB山の症状急変後、閉塞絞扼期への移行を疑わなかったことは、当時の臨床現場の一般的認識から考えても相当であり、この点に過失はない旨主張し、D原医師もこれに沿う証言をする。
しかし、慢性期の大部分が閉塞絞扼期に移行しないとする医学文献(乙ロ一七)は存するものの、そもそも二〇日ころのB山の状態が前述の分類における慢性期にあたるのかについては疑問の残るところであるし(医師長谷部正晴作成の平成一二年一〇月一〇日付意見書(甲六七)は、B山が急性期であったとする。)、また、閉塞絞扼期への移行がわずかであることは、外傷性横隔膜ヘルニアの患者につき待期手術を選択することが許される根拠とはなり得ても、その増悪・嵌頓の徴候を看過し、これに迅速に対応しなかった医師を免責する根拠とはなり得ない。
また、前認定のとおり、二〇日午後一〇時ころ、青黒かったB山の手背色が酸素吸入等によりだいぶ軽減したことは認められるものの、前述のとおり、二〇日午後九時ころから二一日午前〇時ころの間のB山は、呼吸、脈拍、血圧の全ての面で状態が徐々に悪化していたのであり、また、二〇日午後九時ころ行われた血液ガス分析の結果も、正常値の範囲内であったとはいえ、鑑定結果によれば、B山の呼吸一回あたりの換気量が著しく減少していることが推測されるというのであるから、二〇日午後一〇時ころの一部症状改善も、被告病院医師らが責任を免れる根拠とはなり得ない。
さらに、同日午後九時ころ、B山が、腹部が平坦で抵抗もないと診断された点についても、胃が嵌頓したときは腹部所見が乏しいので注意しなければならないとする医学文献も存するところであり、被告病院医師らを免責する根拠とはなり得ない。
(b) 他方で、被告は、二一日午前〇時ころの気管内挿管の不実施につき、B山の血圧は一応正常範囲であり、呼吸困難、胸内苦悶等を訴えた形跡もないため、後の経過を加えずに判断すれば、被告病院医師らに過失はない旨主張し、医師古川俊治作成の平成一一年五月三一日付意見書(乙ロ七)も、特別問題はなかったとするほか、意識が存する患者に対して気管内挿管を試みると強い咽頭反射を惹起し、逆に低酸素症を助長する可能性があることも認められるところではあるが、前述のとおり、この時点で適切な検査を実施しておればB山のヘルニアの増悪を診断できたのであり、これに基づき直ちに気管内挿管を行うことも可能であった以上、被告病院医師らに過失が存しないとすべきでない。
(エ) 以上より、被告病院医師らは、遅くとも二一日午前〇時ころまでには、B山のヘルニアの増悪を疑って胸部X線写真撮影、血液ガス分析検査を行い、検査結果を受け、直ちに胃管挿入、気管内挿管等の処置を行う義務が存したにもかかわらず、これを怠った過失が認められる。
イ 蘇生後の胸腔ドレナージ
(ア) 本件において、B山が蘇生した後、被告病院医師らが同人に対して胸腔ドレナージを実施しなかったことについては争いがない。
(イ) 原告は、B山の蘇生後、さらなる呼吸の改善及び心機能の回復を図るべく、胸腔ドレナージを行うべきであった旨主張し、長谷部意見書にも同旨の記載が存するが、一般に、横隔膜ヘルニアの患者への胸腔突刺は、胸腔内へ脱出した胃腸管の穿孔の危険があるため禁忌とされている。
また、鑑定結果も、消化管を損傷する危険性が高いと指摘したうえ、突刺して胸腔内圧の軽減を図る方が転帰がよいとする根拠はなく、蘇生後の胸腔ドレナージが実施されなかった本件においても、B山は、気管内挿管等のみにより低酸素血症を回避できたとしている。
(ウ) よって、被告病院医師らがB山の蘇生後、胸腔ドレナージを実施しなかった点につき過失は認められない。
ウ 蘇生後の胸部X線写真撮影
(ア) 本件において、B山の蘇生後、午前六時ころに胸部X線写真撮影が実施される前まで、同人に対する胸部X線写真撮影が実施されていないことに争いはない。
(イ) 原告は、B山の蘇生後直ちに胸部X線写真撮影を行って胃の破裂の有無を確認すべきであった旨主張し、長谷部意見書にも同旨の記載が存するが、この時点では既に胃及び脾臓が胸腔内に脱出し、胸腔内を圧迫していたことに争いはないのであり、この時点での胃破裂の有無によりB山の胸腔内の圧迫度に変化はないと思われるほか、前認定のとおり、D原医師が、蘇生直後の二一日午前五時ころには緊急手術の実施を決断しており、緊急に胃破裂の有無を確認する必要性は乏しいと思われること、同日午前六時ころ胸部X線写真撮影が実施されたものの、これによっても胃破裂の有無は分からなかったことを併せ考えると、D原医師らがB山の蘇生後、胸部X線写真撮影を実施しなかった点につき過失は認められないというべきである。
(5) 以上より、被告病院医師らには、遅くとも二一日午前〇時ころまでには、B山のヘルニアの増悪を疑って胸部X線写真撮影、血液ガス分析検査を行い、検査結果を受け、直ちに胃管挿入、気管内挿管等の処置を行う義務が存したにもかかわらず、これを怠った過失が認められ、その余の原告主張の各過失は認められない。
二 因果関係の存否(争点(2))について
(1) 《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
ア 平成四年一月二一日午前七時から行われた緊急手術の後、B山は、意識レベルがはっきりしない状態(呼名反応なし、対光反応あり)が続き、同月二三日、神経内科のD川医師による診察を受けたところ、同医師は、D原医師に対し、B山が痛覚にも反応せず四肢麻痺に近い状態(体動は少しある。)である旨、脳波はQ波の徐波が一部出ている旨、脳症の状態は低酸素脳症が考えやすく、比較的若年であるため多少でも症状が改善する可能性があると思われる旨、全身状態の管理を行いながら経過を見るよりほかに方法がないと思われる旨回答した。
また、D川医師は、翌二四日にもB山を診察したが、前日と著変はない旨回答し、ニコリン等の意識改善剤の投与を指示し、その後これが投与された。
イ 同月二五日、B山は、脳外科の医師の診察を受け、CT検査では特に異常がないと診断され、同月二七日にD川医師の診察を受けた際にも、CT上異常はないとされたが、その意識レベルは、JCSⅢ―二〇〇~三〇〇(痛み・刺激に反応しないか、少し手足を動かしたり顔をしかめる程度)の状態が続いた。
ウ 同年二月八日、B山は、子供の声の入ったテープを聴くと目を開いて涙を流すなどし、同月二四日ころには発語が可能になり、視覚障害を訴えた。そこで、同月二八日、B山は、被告病院の眼科を受診したところ、前眼部、中間透光体、眼底に異常は見られず、光覚はあるようであるが、視力についてそれ以上は分からないとされ、同年三月一九日及び四月二八日の診察結果も同様であった。
(2) 前認定のとおり、心肺停止状態に陥る直前の同年一月二一日午前四時一〇分ころ、B山は、気管と縦隔が右方に偏位し、胃泡が拡張していたのであるから、外傷性横隔膜ヘルニアの増悪により左胸腔内へ腹部臓器が脱出し、これが左肺を圧迫すると同時に縦隔を右方向へ偏位させ、右側の肺をも圧迫する状態であったと認められる。B山の心拍が再開した際、胸腔内減圧を行うことなく心拍再開が得られたことに争いがないため、循環系への圧迫が主因となって心停止に至ったとは考えにくいことを併せ考慮すると、同人が心停止に至った機序としては、両肺の圧迫により換気障害、静脈血の還流障害を来し、その結果、低酸素血症を主因として、これに心拍出量低下が加わり、両者の競合によって心停止に至ったものであると認められる(鑑定結果も、低酸素血症が主因であるとする。)。
被告は、心停止の原因は循環系への圧迫であると主張し、これが主因であるとする医師の意見書も存するが、前述のとおり、胸腔内減圧を行うことなく心拍再開が得られたことからすれば、循環系への圧迫が主因となって心停止に至ったとは考えにくいし、また、鑑定結果も、心臓が原因で心停止に陥った場合には、自己心拍が回復すれば比較的良好な予後が期待できるのに対し、低酸素血症が原因で心停止に陥った場合には、自己心拍の再開率は高いものの意識回復ははかばかしくないとしており、前認定のとおり、本件においてB山は、蘇生後二週間以上も意識障害がある状態が続いており、意識回復がはかばかしくなかったといえることからすれば、上記認定を覆すに足りないというべきである。
(3)ア 前認定のとおり、B山は、脳のCT検査上異常はないとされ、眼科医からも前眼部、中間透光体、眼底に異常は見られないと診断されたものの、前述のとおり、B山が心停止に至った主因は外傷性横隔膜ヘルニアの増悪の結果惹起された低酸素血症にあり、B山の脳は相当な時間にわたり低酸素状態に置かれたことが推測されること、平成四年一月二三日にB山を診断したD川医師も、脳症の状態は低酸素脳症が考えやすいと回答したこと、B山には、心肺停止状態に陥る前(本件交通事故による受傷後を含めて)、四肢麻痺及び視覚障害が存しなかったからすれば、B山の本件後遺障害は、心停止に伴う低酸素性脳障害によるものと考えるのが合理的である(鑑定結果も、本件後遺障害の発生原因を心停止に伴う低酸素性脳障害であるとする。)。
イ したがって、本件においてB山は、外傷性横隔膜ヘルニアの増悪による低酸素血症を主因として心停止に至り、これに伴う低酸素性脳障害により本件後遺障害を発症するに至ったということができるため、被告病院医師らの行為と本件後遺障害との間には相当因果関係が認められる。
なお、鑑定結果は、B山の視覚障害につき、意識障害とは別に視覚障害が存在するのか、視覚障害が増悪したのか判断することができないとするが、当該視覚障害の具体的症状が不明であるとするにとどまるものであり、被告病院医師らの行為とB山の視覚障害との間の因果関係を否定する趣旨であるとは思われない。
三 責任範囲(争点(3))について
(1) 共同不法行為の成否
本件において原告は、被告による医療過誤がなくとも本件交通事故によりB山に生じたであろう損害についてのみ責任を負うと主張し、その余の外傷性横隔膜ヘルニアの増悪による損害については責任を負わない旨主張する。
しかし、本件におけるB山の外傷性横隔膜ヘルニアは、本件交通事故とは全く別個に被告病院において新たに発症したというものではなく、むしろ、前認定の同傷病が発覚した経緯に照らすと、本件交通事故による挫傷により発症したものと認められるのであり、また、胸腔内で消化管が閉塞し絞扼を起こしたとの症例は、少ないものの一定の割合で存するのであり、本件交通事故の加害者がこれを予測することは可能であると認められるから、同加害者は、被告による医療過誤がなくとも本件交通事故によりB山に生じたであろう損害以外のB山の外傷性横隔膜ヘルニアの増悪によって生じた損害(以下「医療過誤のために増悪した損害部分」という。)についても、本件交通事故と相当因果関係があるものとして、賠償責任を免れないというべきである。
(2) 成立範囲
そこで、加害者であるA野の責任と被告の責任との関係について検討する。
ア 医師による診療過程は、その構造上、患者の負傷を前提としており、この負傷については加害運転者などの有責な加害者が定型的に存し得るし、医学的技術の限界等も存するところ、かかる前提事情が存するにもかかわらず、交通事故と医療過誤が競合した事案において、常に被害者に生じた全損害につき交通事故の加害者と医師との共同不法行為の成立を認め、当該医師に全損害についての賠償責任を負わせるとすることは、負傷の治療にあたる医師に過重な負担を強いるものであり、妥当でない。
したがって、過失によって交通事故を発生させた加害者が被害者に生じた損害の全部について賠償責任を負う場合において、被害者の治療にあたった医師が過失によって当該損害を拡大させたと認められるとき、同医師は、その過失と相当因果関係のない損害については賠償責任を負わないというべきであり、それ以外の損害についてのみ、加害者と共同不法行為関係にあるものとして、加害者とともに連帯して被害者に対する賠償責任を負うと解するのが相当である。
そして、この際の加害者と医師との間の負担部分は、当該損害の発生に寄与した割合によって定まり、自己の負担部分を超えて被害者に損害賠償をした者(被害者への弁済により加害者または医師に代位する者を含む。)は、負担部分を超える部分について、他の者に求償することができるというべきである。
イ 前認定のとおり、本件交通事故直後、B山は、呼吸不全で意識障害があり、全身打撲で重篤な状態であったほか、血胸、肋骨骨折、左大腿骨骨折、頸椎捻挫、腰椎捻挫、左足関節捻挫・脱臼等が認められたのであり、被告病院転院前には、ある程度症状が落ち着いてはきていたものの、同病院へ転院した平成四年一月一六日、B山は、国分温泉病院において、全身打撲(頭部・頸部・胸部・腰部・両下肢他)、脳圧亢進(意識障害)、自覚健忘、硬膜下出血の疑い、前胸部右八、九、一〇、一一肋骨骨折、左側胸部八、九、一〇、一一肋骨骨折、左側大腿骨完全複雑骨折、第Ⅲ楔状骨骨折、左第一〇中足骨骨折、頸椎捻挫、腰椎捻挫、左足関節部捻挫脱臼、失血性ショック、内臓破裂(肝・腎・脾臓の疑い)、下血・腸管膜動脈出血(疑い)、膀胱内出血(血尿)、消化管出血(疑い)、ガラス片迷入(右前胸部、左前胸部及び左側背部)並びに四肢及び躯幹部の筋裂挫傷・挫滅創と診断されたのであるから、被告病院の医師らが治療に取りかかった時点でB山は、本件交通事故に起因する多種の傷病を有していたことが認められる。
また、前述のとおり、本件において被告病院医師らに認められる過失の内容は、遅くとも一月二一日午前〇時ころまでには、B山のヘルニアの増悪を疑って胸部X線写真撮影、血液ガス分析検査を行い、検査結果を受け、直ちに胃管挿入、気管内挿管等の処置を行う義務が存したにもかかわらず、これを怠ったというものであることからすれば、本件交通事故直後にB山が有していた上記傷病と被告病院医師らの当該過失との関連は乏しく、同傷病は、同事故と同過失行為とのいずれもが招来した不可分一個の結果であるという関係にはないといえる(最高裁判所平成一三年三月一三日判決・民集第五五巻二号三二八頁参照。)。
したがって、被告は、被告病院医師らの過失と相当因果関係の存する、医療過誤のために増悪した損害部分についてのみ共同不法行為責任を負うべきであり、その余の損害部分については、賠償責任を負わないというべきである。そして、医療過誤のために増悪した損害部分の金額は、弁論の全趣旨により、金二億四〇四〇万五九六五円(前認定のB山の損害額二億四一九九万五〇二九円から原告主張の医療過誤がなくとも発生した損害額一五八万九〇六四円を控除した額)であると認められる。
(3) 負担部分
ア 本件において共同不法行為の成立が認められる、医療過誤のために増悪した損害部分については、前述のとおり、A野も、本件交通事故と相当因果関係があるものとして賠償責任を負うべきものではあるが、かかる損害は、本来、医療過誤をおかした医師こそが主として責任を負うべき性質のものである。
前述のとおり、D原医師は、一月一六日にB山の外傷性横隔膜ヘルニアを診断し、直ちにこれに対する手術を実施することが望ましかったにもかかわらず待期手術を選択したのであるから、被告病院医師らは、その手術までの間、B山の状態を適切に管理・把握してヘルニアの増悪・嵌頓の徴候を看過せず、同徴候が発現した際にはこれに迅速に対応しなければならなかったところ、二〇日午後九時ころ以降のB山の症状悪化に対してヘルニアの増悪を疑った検査、処置をしなかった責任は決して軽くない。前認定のとおり、二一日午前〇時の時点でB山のヘルニアの増悪を疑い胸部X線写真撮影、血液ガス分析検査を行っていれば、その増悪を診断できたと認められる以上、その過失内容は、単なる検査懈怠にとどまるものではなく、胃管挿入、気管内挿管等の処置を怠り、結果的にB山の低酸素血症による心停止を招き、これに伴う低酸素性脳障害により本件後遺障害を招来したという重大なものである。
イ もっとも他方で、本件においてA野は、本件交通事故の際、呼気一リットルにつき〇・三ミリグラムのアルコールを保有する酒気帯びの状態で自車を運転し、かつ、路面が濡れて滑りやすい状態であったにもかかわらず、制限速度を三〇キロメートル超過する時速八〇キロメートルで暴走族風のバイクを追跡したために同事故を発生させたものであるから、その過失も重大であり、またその結果もB山に外傷性横隔膜ヘルニアを発症させたものであって、被告病院医師らは、上記A野の暴走行為により発症したB山の同傷病につき、その増悪を防ぐことを怠ったという関係にあることを考慮する必要がある。かかる事情のほか、前認定の諸事情を総合考慮すれば、各自の負担部分は、A野が四割、被告が六割であると認めるのが相当である。
ウ よって、結局、本件におけるB山の損害については、A野が金九七七五万一四五〇円(一五八万九〇六四円+二億四〇四〇万五九六五円×〇・四)を、被告が金一億四四二四万三五七九円(二億四〇四〇万五九六五円×〇・六)を負担すべきこととなる。
(4) 弁済及び損害の填補
前認定のとおり、本件において原告は、A野との自動車保険契約(PAP)に基づき、B山またはその代理人に対し、その全損害額(金二億四一九九万五〇二九円)を支払い、他方で、自賠責保険から、合計三一二〇万円の填補を受けた。
したがって、原告は、被告に対し、A野の負担部分を超える部分(金一億四四二四万三五七九円)から上記填補額三一二〇万円を控除した金一億一三〇四万三五七九円につき、同人に代位して求償することができる。
(5) 遅延損害金
なお、上記求償権は、不法行為債権とは別個の債権であるから、原告またはA野が同人らの負担部分を超えてB山に支払った後に被告に対して請求して初めて遅滞に陥るというべきである。
《証拠省略》によれば、平成一一年一一月三〇日の本件口頭弁論期日において、原告が平成九年一二月二五日までに自己の負担部分を超えてB山へ支払った分のうち金二億〇八〇九万一二〇四円の支払を求めたことが認められるから、遅延損害金の起算日は、上記求償金額全額につき、平成一一年一二月一日であるというべきである。
四 結論
よって、原告の本件請求は、被告に対し、金一億一三〇四万三五七九円及びこれに対する平成一一年一二月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があり、その余は失当であるから、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 髙野裕 裁判官 山本善彦 大島広規)