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鹿児島地方裁判所 昭和44年(わ)275号 判決 1976年3月22日

主文

被告人を懲役一二年に処する。

未決勾留日数中二、四〇〇日を右刑に算入する。

理由

(被告人の身上)

被告人は、昭和六年三月一〇日本藉地において父舩迫弥平次・母イロの三男として出生し、昭和二〇年三月本籍地の小学校を卒業後、一時福岡県や長崎県で炭抗夫として働いたりしたこともあつたが、その後は本籍地に戻つて農業に従事し、昭和三一年には吉永ヨシと結婚、昭和三七年頃からは農業のかたわら自動車運転手などにも従事していたものであり、近隣に住む折尾利則(昭和五年一二月二〇日生)とは小学校時代の同級生であることに加え同人の妻キヨ子(昭和四年二月六日生)と自分の妻ヨシとが同郷の出身であるなどのこともあり、日頃から同人ら夫婦と親しく交際する間柄であつた。

(本件犯行に至る経緯)

被告人は、昭和四四年一月一五日午後八時過ぎ頃、鹿児島県鹿屋市下高隈町内の脇かづ子方で籾一俵を買い、これを軽四輪貨物自動車に積み同車を運転して自宅に帰る途中、同町五二五番地の右利則方付近にさしかかつた際、しばらく同人と茶飲み話でもして帰ろうと考えて同人方に立寄つたところ、折しも同人ら夫婦が六畳間に床をとつて就寝しようとしているところであり、日頃から心中ひそかにキヨ子の異性関係を疑わないでもなかつた右利則において、ここにその場の雰囲気からキヨ子が先に被告人と通じたのではないかとの疑いを深め、キヨ子や被告人に種々詰め寄ることとなつた。

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一、やがて同日午後九時頃、同人方居間において、次第に激昂した右利則から手で額を数回殴打され、さらに野菜包丁(昭和四四年押第八六号の10の1.2.3.のうちの一本)で斬りかかられて右手首に傷を受け、一旦六畳間に逃げ込んだが、その頃なおも右包丁を持つてあとを追う利則を制止しようとしたキヨ子において、かえつて同人から「お前も斬り殺すぞ」と言われたりして逆上し、長さ約三〇・三センチメートルの馬鍬の刃(同押号の3と同種のもの)を持ち出していきなり背後から同人の後頭部を殴打し、これに機を得た被告人においても平手で同人の顔面を数回殴打するなどして同人から右包丁を取り上げ、再び居間に逃がれたものの、その後、六畳間において同人の後頭部を右馬鍬の刃で殴りつづけて同人を昏倒させたキヨ子において、この際同人を殺害しようと決意し同人が蘇生しないようにしてほしい旨求めてきたのに応じ、ここに自らもとつさに殺意を生じ、キヨ子と共謀のうえ、被告人において、同間にうつ伏せに倒れていた右利則の頸部を同人が首にかけていたタオル(同押号の2のうちの一枚)で巻いて後頸部よりこれを強く締めつけ、同人をして、間もなく同所において、後頭部挫裂創に由来する頭蓋骨・頭蓋底骨々折・脳挫傷ならびに右絞頸に基づく窒息により死亡させて殺害し、

第二、次いで、右犯行が同女の口より発覚することを恐れ、ここに同女をも殺害すべく決意し、その頃、その場に居た同女の頭部をいきなり前記馬鍬の刃で数回殴打するなどし、その場にうつ伏せに倒れた同女の頸部を付近にあつたタオル(同押号のうちの他の一枚)で巻いて後頸部よりこれを強く締めつけ、同女をして、間もなく同所において、右絞頸に基づく窒息により死亡させて殺害し

たものである。

(証拠の標目)(省略)

(確定裁判)

被告人は、昭和四四年七月四日鹿児島地方裁判所鹿屋支部で銃砲刀剣類所持等取締法違反・詐欺・準詐欺罪により懲役一年(三年間執行猶予)に処せられ、右裁判は同月一九日確定したものであつて、この事実は検察事務官作成の前科調書によつて認める。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法六〇条、一九九条に、判示第二の所為は同法一九九条にそれぞれ該当するので、所定刑中いずれも有期懲役刑を選択するが、同法四五条前段および後段によれば、以上の各罪と前記確定裁判のあつた銃砲刀剣類所持等取締法違反・詐欺・準詐欺罪とは併合罪の関係にあるので、刑法五〇条によりまだ裁判を経ない判示各罪につきさらに処断することとし、同法四七条本文、一〇条により犯情の重い判示第二の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一二年に処し、同法二一条を適用した未決勾留日数のうち二、四〇〇日を右の刑に算入することとし、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととする。

(量刑の事情)

人の生命はなにものにもかえることのできない貴重なものであり、被告人としても本件のような人命を奪う行為がいかに重大なことであるかに思いをいたす必要があるであろう。とくに、本件の発端が、妻子ある身の被告人において幼い頃からの友人である折尾利則の妻キヨ子と本件犯行前より情を通じていたことにあつてみれば、これを察知した右利則において、妻や友人に裏切られて激怒し、被告人に包丁で斬りかかるなどしたことも無理からぬものがあると思われるところ、被告人においては、キヨ子から馬鍬の刃で後頭部を殴られて虫の息となつていた利則を助けるどころか、逆に事件の発覚を恐れ、自己の保身のみを考え、利則の首を締めて同人を殺害し、さらに同様の理由から前記馬鍬の刃でキヨ子の頭部を殴打しその首を締めて同女をも殺害したというのであつて、このような経緯で殺害された利則の悲憤と無念さを思うと、被告人の罪責は極めて重大であると言わなければならない。しかも、被告人は本件公判が終局に至つた現時点においても、自己の立場のみを強調し、被害者両名の冥福を祈るなど本件犯行に対する反省の色が窺えないのであつて、その態度にも厳しく糾弾されなければならないものがあるといえよう。

しかしながら、他面、本件犯行は計画的なものではなく、本件犯行の発端の一つには妻の身にありながら被告人と情を通じていたキヨ子の軽卒かつ不貞な行動があり、被告人においてはキヨ子から求められ、遂に意を決して利則の首を締めるに至つたものであり、被告人においてその実行行為に及んだ当時、利則はすでにキヨ子から後頭部を攻撃されるなどして瀕死の重傷を負つていたこと、被告人は昭和四四年七月本件で逮捕・勾留されて以来、今日に至るまですでに六年余にわたる未決勾留を受け、その間自らも苦しみ、事実上すでにかなりの社会的制裁を受けてきたといえること、別件の詐欺等被告事件で有罪の言渡を受けたことなどを除き、いままでにこれといつた前科前歴がないこと、家庭があり、本件で裁きを受ける身の被告人ではあつても、妻子や年老いた父がその出所を心持ちにしていること、定職を有すること、など被告人のために斟酌すべき事情もみられるので、これら諸般の事情を考慮するとき、被告人に対しては主文のような刑を量定するのが相当であると判断される。

(問題点に対する判断)

第一、犯人と被告人とのむすびつきについて

被告人は、本件の捜査段階において、当初本件犯行を否認していたが、そのうち徐々に本件犯行を自白し、やがて本件公訴事実のような内容の自白をなすに至つたのであつたが、その後の公判段階においては、第一回公判以来終始一貫本件犯行を全面的に否認し、しかも第六回公判(昭和四五年六月四日)以降は積極的に自らのアリバイをも主張するに至つているのである。

ところで、被告人が本件の犯人であるかどうかの点については、被告人の捜査段階における右自白以外には犯行を目撃した者の供述もなく、本件が何者の犯行であるかを明らかにしうる物的証拠としても、わずかに被害者キヨ子の陰部から同女やその夫である利則以外の何者かの陰毛一本が発見されたというのみであつて、犯行現場等に指紋など直ちに犯人とのむすびつきを物語るような物的証拠が残されていてそれらが発見されているというわけではなく、また、被告人が犯人であることを窺わしめる情況証拠としても、直ちに被告人と犯人とのむすびつきを示す確実なものがあるわけでもない実情にあり、本件においてもまた、他のこの種否認事件の場合と同様、被告人の自白の証拠能力や証拠価値がどのように判断されるかが極めて重大な問題となつてこよう。

以下、次の順序で、この点についての当裁判所の判断を示すこととする。

一、本件捜査の経緯

二、被告人の自白について

(一)違法収集証拠か否か

(二)自白の任意性

(三)自白の信用性

三、物的証拠について

四、情況証拠について

五、結論

一、本件捜査の経緯

証人折尾長吉・同折尾辰二・同上之段一雄・同新牛込正夫・同前原寿に対する当裁判所の各尋問調書、証人折尾シヅに対する受命裁判官の尋問調書、第二回公判調書中証人大重五男の供述部分、第三回公判調書中証人矢野勇男の供述部分、第四回公判調書中証人浜ノ上仁之助の供述部分、第六回公判調書中証人福山喜久雄の供述部分、第二八回公判調書中証人大霜兼之の供述部分、証人板東秀治に対する受命裁判官の尋問調書、証人清水幸夫の当公判廷における供述、第七回・第八回・第一〇回・第二六回・第二七回公判調書中被告人の各供述部分、善福時義・久留ウメの検察官および司法警察員に対する各供述調書、折尾長吉(昭和四四年一月一八日付)・折尾シヅ・折尾辰二の司法警察員に対する各供述調書、検察官作成の「報告書」・「捜査報告書」と題する各書面、司法警察員作成の実況見分調書(同年二月二〇日付)・電話受発書(同年一月三〇日付)・領置調書(同年四月一三日付)および「殺人被疑事件捜査報告」(三通)・(殺人事件捜査報告」・「殺人被疑事件に対する捜査報告」・「福元正雄方における船迫清の言動について捜査報告」(二通)・「一月一五日行なわれた上別府部落狩猟会の捜査状況について報告」・「船迫清か本年一月一五日夜脇かづ子方で籾を買つたときの状況について捜査報告」・「一月一五日晩小倉肇が船迫清の運転する軽四貨に同乗した前後の状況捜査報告」・「昭和四四年一月一五日同一六日に、被害者方に立寄り、あるいは訪問を受け、若しくは被害者夫婦に会つた者の有無について捜査報告」・「被害者折尾利則が殺害された昭和四四年一月一五日夜の行動コースの実測および所要時間の確認について」・「被疑者船迫清が折尾利則夫婦を殺害した昭和四四年一月一五日夜の行動のコースの実測および所要時間と同コース範囲の人家につき、一月一五、一六日の夜船迫清の立回りと被害者折尾利則方に出入したものの割出・犯行時間帯の特定について」・「被疑者船迫清が折尾利則夫婦を殺害した凶器(まんがのこ)等に対する捜査について」・「折尾利則夫婦が殺害された事件につき、被疑者が犯行に供した凶器および犯行時着用していて血痕の付着する衣類の捜査について」と題する各書面、鹿屋警察署長作成の鑑定鑑別申請書(同年一月二九日付)とこれに対する鹿児島警察本部長作成の「鑑定鑑別結果について」と題する書面中の矢野勇男・宮山敬博作成の鑑定書部分、鹿屋警察署長作成の鑑定鑑別申請書(同年四月一三日付)とこれに対する鹿児島県警察本部長作成の「鑑定鑑別結果について」と題する書面中の清水幸夫作成の鑑定書部分、城哲男作成の各鑑定書(同年二月五日付・同月六日付)、別件被告事件の一件記録一綴、被告人の検察官および司法警察員に対する各供述調書、被告人の裁判官に対する陳述録取調書など取調済みの本件各証拠を総合すると、次の事実が認められる。

(一)、昭和四四年一月一八日正午頃に至り、鹿児島県鹿屋市下高隈町五二五番地折尾利則方が前日午前一〇時以前より雨戸を全部締め切つたまま家人の姿も見あたらないことに不審を抱いた同所で作業中の大工や訪ずれた電気料金集金人たちが同人方六畳間東側の雨戸を開けて室内を覗いたところ、室内に人間の死体らしきものの一部が見えたためこれに驚愕し、直ちに付近に居住する折尾長吉(利則の実父)に利則方の様子を見に行くように伝えたことから、長吉とその妻シヅの両名が同人方に赴き、六畳間にふとんをかぶせられた利則とその妻キヨ子の死体を発見し、同日午後一時二五分頃、息子の折尾辰二を通じてこれを警察に通報した。

(二)、通報を受けた警察官らが直ちに現場にかけつけ、同日午後四時一〇分頃から実況見分を実施したところ、同人方六畳間にはふとん類が乱雑に掛けられた死体があり、そのうち東側の掛ぶとん二枚とその下の敷ぶとん一枚を除去すると、後頭部に八個以上の複雑な挫裂創を負いタオルで絞頸されている利則の死体がうつ伏せの状態でじかに畳の上に倒れており、また西側の掛ぶとん一枚を除去すると、頭部等に五個の挫裂創を負いタオルで絞頸されているキヨ子の死体がうつ伏せの状態でその上半身を敷ぶとんの上に横たえて倒れているのが発見され、両者の死体、着衣、ふとん類等に血液の付着が認められたほか、畳、床の間、タンス、障子、柱、天井など室内の各所に方向の一定しない飛沫血痕が多数みられ、床の間の飾餅が飛散し湯呑みも転倒して水がこぼれているなど室内での乱斗模様が窺われる状況にあつたが、同室内をはじめ同人方屋内には金品を物色したと目されるような形跡は見あたらない状況にあつたことなどが見分され、さらに翌一九日実施された被害者両名の解剖の結果よりして、両名の頭部等にみられる各創傷を生ぜしめたと推定される成傷器はいずれも「多少とも角稜を有する鈍器ないしは鈍体」、利則の死因は後頭部挫裂創に由来する頭蓋骨・頭蓋底骨々折・脳挫傷ならびに絞頸に基づく窒息、キヨ子の死因は絞頸に基づく窒息、両者の死後解剖着手時(利則―一九日午後四時五分、キヨ子―同日午後一時一五分)までの経過時間は約一日以上三~四日以内であることなどが判明するに至り、本件を痴情ないしは怨恨に基づく凶悪な殺害事件とみた捜査当局においては、地元の上別府公民館に特別捜査本部を設置するなどして強力な捜査活動を展開し、付近一帯の住民に対し聞込み捜査を実施したところ、被害者両名の足取りについて、利則が同月一五日午後八時二〇分頃付近の訪問先を辞している(単車利用)こと、キヨ子についても同日午後六時頃近隣方に出入りしていることなどが判明したが、両者のその後の足取りや右各時刻以降における生存を確認しうる情報はついに得られず、また犯人において本件犯行に用いたと推定される前記のような鈍器ないしは鈍体について付近一帯の捜索を実施するもついにこれを発見することができず、捜査は難航のきざしを見せるに至つた。

(三)、そのうち、同月末頃に至り、本件犯行の際に受けた打撃により停止したと思われる利則の左手首にはめられていたカレンダー付腕時計の停止時刻についての鑑定結果や被害者両名の胃内残渣物の消化程度からする両名の各死亡推定時刻についての所見も得られ、それまでの各捜査状況よりして、被害者両名は同月一五日夜何者かにより殺害されたものであるとの推定のもとに、付近の前科者・挙動不審者・日頃利則方に出入りしていた人物などについて聞込み捜査を実施し、捜査線上に浮かび上がつてきた被告人についてもその動向を内偵するに、被告人は同月一八~九日頃前年末に入手したばかりの軽四輪貨物自動車(ダイハツハイゼツト)を処分し、また同月二一日自宅を訪れた捜査員に対し「今度の事件は身内の者じやないだろうか。」「おかしいと思う身内の人の家の床下に録音機でも入れておいて聞けば良くわかるじやないか」などと話し、同月二七日にも近隣の福元正雄方において、居合わせた捜査員らの面前で「今度の事件はむつかしいぞ。この事件は十が十まで三角関係に間違いない」「証拠は何もながでよ」などと話したり、妻ヨシの出産が間近であるのに周囲の反対を押し切つて同年二月一三日神奈川県下へ出稼に出発するなどその言動に不審な点が見られ、さらには、犯行現場を実況見分した際に被害者方木戸口付近から採取された車轍痕の中に被告人が当時乗用していた右自動車のタイヤ紋様と一致するものや同種同型(同サイズ)のものがあることが判明し、被告人の同年一月一五日夜の行動についても、午後八時頃から午後一〇時三〇分頃までの間のアリバイが認められず、諸々の点から被告人の容疑が深まる状況にあつたので、右捜査途上で判明した別件の詐欺等被疑事件(<イ>昭和三八年九月三〇日頃売買名下に時価約一二、〇〇〇円相当の背広一着を詐欺、<ロ>昭和三九年一〇月頃売買名下に時価約二、〇〇〇円相当の単車用タイヤ一本を準詐欺、<ハ>昭和四三年三月下旬頃売買名下に時価約五、五〇〇円相当のラジオ一台を詐欺、<ニ>昭和四二年一月頃空気銃一挺を不法所持)で被告人が逮捕(昭和四四年四月一二日午前一〇時五分、神奈川県下の出稼先で逮捕)・勾留(同月一五日、鹿屋警察署留置場に勾留)のうえ鹿児島地方裁判所鹿屋支部に起訴(同月二四日前記<ロ>、<ハ>、<ニ>の事実で起訴。同年五月一六日さらに<ホ>昭和三八年一月九日頃売買名下に時価約八、八〇〇円相当のラジオ一台を詐欺、<ヘ>昭和四二年八月下旬頃売買名下に時価約七〇〇円相当の蜂密一瓶を詐欺、<ト>昭和四一年五月頃から昭和四四年四月一二日まで刃渡り約三一・七センチメートルの刀一振を不法所持の事実で追起訴。同年五月二四日第一回公判、六月一三日第二回公判、七月四日第三回公判―懲役一年、三年間執行猶予の有罪判決言渡―一旦釈放後後述のとおり本件で逮捕)されたのを機会に、右別件で逮捕・勾留中の被告人に対し、本件折尾夫婦殺害事件についての取調もなしたところ、当初はこれを否認していた被告人において、同年七月二日まず本件キヨ子殺害の事実を自白するに至つたので、同月四日被告人を本件キヨ子殺害の被疑事実により逮捕(右別件の判決言渡後である同日午前一一時四〇分、鹿屋警察署において逮捕)したのに引続き、同月七日には勾留(鹿児島警察署留置場に勾留、同月二五日まで勾留期間延長)のうえ、本格的に被告人の取調を実施したところ、被告人において本件公訴事実のような内容の折尾夫婦殺害事実を自白するに至つたので、ここに同月二五日本件公訴の提起をみることとなつた。

二、被告人の自白について

(一)、違法収集証拠か否か

被告人・弁護人は、被告人の本件犯行の自白を内容とする捜査官に対する各供述調書は、被告人に対する違法な逮捕・勾留を利用して収集されたものであるから、証拠能力を否定すべきであると主張している。

ところで、鹿児島地方裁判所鹿屋支部昭和四四年(わ)第一九号・第二一号詐欺等被告事件の一件記録など取調済みの各証拠によつて窺われる右被告事件の事件内容、捜査ないしは公判の経過、判決結果等に照らすとき、右被告事件の捜査ないしは公判段階における被告人に対する逮捕・勾留は、その手続が適法であつたばかりか実体的な理由や必要性もあつてなされたもので何ら違法と目すべきような点はなく、加えて、被告人に対しては当時本件折尾夫婦殺害事件の容疑が次第に深まつている状況にあつたのであるから、このような被告人に対し、その別件以外の事実である本件被疑事実についての取調を実施してその供述調書を作成したとしても、その取調が本件の如くいまだ任意捜査の範囲内にとどまつていると認められるかぎりは、それらの取調が直ちに違法になるということがないのはもちろん、それらの取調に基づきその後被告人を本件で新たに逮捕・勾留したとしても、これをもつて逮捕・勾留のむしかえしであるということもできないというべく、果してそうであるとするならば、別件(被告事件)で勾留されあるいは本件(被疑事件)で逮捕・勾留されていた被告人を取調べて作成した被告人の本件犯行についての自白を内容とする各供述調書も、これをもつて直ちにその証拠能力を否定すべき違法収集証拠であるということはできないと思料される。

(二)、自白の任意性

弁護人は、被告人の捜査段階における各自白は、捜査官による拷問、強制、誘導などによるものであり、いずれも任意性がない旨主張している。

しかしながら、第二回公判調書中証人大重五男の供述部分、第四回公判調書中証人岸田武千代・同朝山寿三・国浜ノ上仁之助の各供述部分、第六回公判調書中証人福山喜久雄の供述部分、第一四回公判調書中浜ノ上仁之助の供述部分、第二七回公判調書中証人大霜兼之の供述部分、証人板東秀治に対する受命裁判官の尋問調書、検察官作成の「報告書」・「捜査報告書」と題する各書面、被告人の公判廷における供述(公判調書中の供述部分を含む)などによつて窺われる捜査段階における被告人に対する取調の実情に照らすと、被告人の取調にあたつた捜査官のうちには、本件の捜査が難航し犯人や凶器についての確定的な判断をなしえない状況にあつたこともあつてか、当時別件の詐欺等被疑事件ないしは被告事件で逮捕・勾留されているにすぎなかつた被告人が、疲労等のため健康状態もすぐれない状況にあつたにもかかわらず、連日本件折尾夫婦殺害事件についても長時間にわたるかなり厳しい取調を実施し、その間本件犯行を否認する被告人に対し「あなたは間違いないのか」「嘘を言うと罰金があるんだ」などと強調して本件を公訴事実のような被告人の犯行であると決めつけるかの如きいささか妥当を欠く取調をなしていたのではないかと疑われる一面も認められるのではあるが、被告人に対する各取調に際し、拷問・脅迫・誘導等にわたる振舞によつて取調済みにかかる被告人の司法警察員や検察官に対する各供述調書中の自白を招来せしめるに至つたというまでの事実は認められない。この点に関し、被告人は、公判廷において、連日早朝から深夜まで手錠をかけたまま長時間にわたる取調を受け、睡眠不足や疲労のため三八度の熱が出て心神朦朧状態となつてもなお取調が続けられ、殴られたり拳銃で脅されたり、あるいは反対に「昭和四五年には恩赦がある」などとほのめかしたりして自白を迫られた旨供述しているが、右供述部分は、供述調書の作成にあたり自ら供述の訂正や追加を申立てたりしていた被告人の捜査官に対する供述態度や前掲の各証拠に照らしたやすく信用することができない。本件記録を精査するも、被告人の捜査段階における自白の任意性を疑わせるまでの事情は見あたらず、被告人の捜査段階における自白の任意性はこれを肯定してよいものと判断される。

(三)、自白の信用性

被告人の自白中、本件犯行の直前被告人においてキヨ子と同衾中利則が帰宅してきたとの供述部分には、後に詳述するとおり、信用し難いものがあり、またその凶器についての供述部分にもその凶器たる馬鍬の刃が発見されるに至つていないなどの問題点もあるのではあるが、これらを除くその余の供述部分、ことに本件犯行の日時・順序・方法・態様などについての供述部分は、被告人の自白以外の証拠から認定される客観的事実とも良く符合していて矛盾する点がないばかりか、その供述するところは実際に経験したものでなければ供述することができないような具体的内容を持つていて詳細でもあり、しかも重要な点で一貫していて二転三転するというような供述の変転も認められず、また被疑者両名を殺害した動機につき、まずキヨ子から求められるに及びとつさに自己の保身を考えて利則に対する殺意を生じ、その後キヨ子の口より事件の発覚するのを恐れて同女に対する殺意をも生じたとする点も、その犯行状況等に照らし、いずれも説得力があり、さらには、第四回公判調書中証人浜ノ上仁之助の供述部分、第二八回公判調書中証人大霜兼之の供述部分などによると、被告人は真摯な態度でこれらの自白をなしていたことが窺われ、これら諸般の事情を総合すると、被告人の自白中本件が自らの犯行であるとする供述部分の信用性は極めて高いものであると認められる。

なお、被告人の自白には、利則方六畳間における被害者両名の死体の位置などに関し若干の曖昧な点もみられないわけではないが、これらは捜査官の取調や供述録取の方法如何による影響もあることであり、被告人としても当時思いもよらぬ方向へ発展して人を殺害してしまつたことから自らも相当驚愕していたことでもあろうし、さらには犯行後約六ヵ月を過ぎてこまかい点にわたるまでその全てを正確に記憶しているとはいい難い時点での供述でもあつてみれば、被告人の自白中に右のような曖昧さが認められるとしても、そのゆえをもつて直ちに被告人の自白について認められる前記のような信用性が左右されるものではないと判断される。

三、物的証拠(陰毛)について

(一)、検察官によると、キヨ子の陰部から発見領置された毛三本のうち最も長い毛(以下「甲の毛」という)が被告人の陰毛と認められるので、これによつて本件が被告人の犯行であることを裏付けることができる旨主張する。

よつて、検討するに、まず検察官より「キヨ子の陰部から発見されたもの」として提出され当裁判所が取調のうえ押収した毛三本(昭和四四年押第八六号の5)のうちの最も長い毛(以下「甲の毛」という)が前記「甲の毛」それ自体と同一のものか否かにつき、若干の疑問点が見られないわけではない。なぜなら、第一四回公判調書中証人中屋敷澄香の供述部分、司法警察員(中屋敷澄香)作成の領置調書(昭和四四年一月一九日付)によると、昭和四四年一月一九日、本件犯行現場において、警察技師大迫忠雄らがキヨ子の死体の陰部を見分した結果、そこから毛三本を発見領置したことが認められるところ、第四回・第一四回公判調書中証人浜ノ上仁之助の各供述部分、司法警察員作成の領置調書(同年四月一三日付)によると、捜査当局では、「甲の毛」を含む発見領置に係る三本の毛と比較対照するため、同年四月一三日、被告人から陰毛二三本の提出を得たことが認められるのであるがその二三本のうち一八本(同押号の6)については、検察官から証拠調の請求をなし、取調後当裁判所に提出があつたものの、その余の五本については、検察官がそれであるとして提出したもの(同押号の9)が鑑定の結果いずれも陰毛ではなく頭毛であることが確認され(須藤武雄作成の昭和五〇年一二月二二日付鑑定書、鑑定人兼証人須藤武雄の当公判廷における供述)、結局その余の五本の毛についてはその行方が不明となつている実情にあり、捜査官のこの種物的証拠に対する保管方法が極めて杜撰であることが窺われるので、ひいてはキヨ子の陰部から発見領置されたという「甲の毛」自体についても、その保管方法が適正になされていたかどうか、他の毛(ことに行方不明となつた被告人の陰毛五本中のいずれかの一本)とすれかわるなどのことなく、それ自体が即ち「甲の毛」として当裁判所に提出され押収されることになつたか否かの疑問にまで連なつてくる余地がないとはいいきれないからである。

しかしながら、捜査段階や公判段階において行なわれた鹿児島県警察本部長作成の「鑑定鑑別結果について」(昭和四四年五月三〇日付)と題する書面中矢野勇男・大迫忠雄作成の各鑑定書部分、同警察本部長作成の「鑑定鑑別結果について」(同年七月七日付)と題する書面中大迫忠雄作成の鑑定書部分、須藤武雄・四方一郎作成の各鑑定書などにおいて、甲あるいは甲の毛の特徴として明らかにされている各内容を比較対照し、これに第一八回公判調書中証人須藤武雄の供述部分、証人あるいは鑑定人須藤武雄に対する受命裁判官の各尋問調書、鑑定人兼証人須藤武雄の当公判廷における供述、証人四方一郎に対する受命裁判官の尋問調書などを総合すると、「甲の毛」と「甲の毛」とはその長さ・髄質・光沢・その他の形状等よりして同一の毛であると認めることができるので、右の疑問は解消されているといつてよいと思料される。

(二)、次に、甲の毛が被告人の陰毛と認められるかであるが、この点については、須藤武雄作成の右各鑑定書や第一八回公判調書中証人須藤武雄の供述部分、証人須藤武雄に対する受命裁判官の各尋問調書、鑑定人兼証人須藤武雄の当公判廷における供述などの証拠によると、甲の毛には被告人の陰毛に存すると同様の他にあまり例をみない極めて特異な小皮の亀裂があり、(鑑定人四方一郎においても、甲の毛にこのような亀裂の存することを否定しているわけではなく、同鑑定人に対する受命裁判官の尋問調書や同鑑定人作成の昭和五〇年一一月一七日付鑑定書をあわせ考えると、「甲の毛」に右と同様の亀裂の存する事実はかえつて同鑑定人によつても確認されているということが窺われる)、血液型も被告人のそれと同じB型であり、さらにはX線マイクロアナライザーによる塩素やカルシウムの分析結果(毛髪を構成している元素は酸素・炭素・水素・窒素・硫黄のほか微量の塩素やカルシウムであるが、これまでの研空結果によると、毛髪中の塩素やカルシウムの含有量は各個人により、また性別により差異のあることが明らかにされている)においても被告人の陰毛のそれとほぼ同様であることが認められることなどから、「甲の毛」は被告人に由来する陰毛であると推定するのが相当であると判断される(鑑定人四方一郎作成の同年一〇月三一日付鑑定書は、その鑑定書それ自体における形式的な結論としては「甲の毛」が被告人に由来する陰毛であることを否定していると解されるのではあるが、その内容についてこれをみるに、キヨ子の陰部からの三本の毛や被告人の陰毛などその比較対照資料たる各陰毛の長さ・光沢・形状といつたような客観的状況の認識においては、必ずしも鑑定人須藤武雄の右各鑑定結果と対立するものではないと解されるうえ、同鑑定書中の判断は、もともと資料たるキヨ子の陰部に存在していた三本の毛についてはその消耗滅失を回避しようとの配慮から血液型の検査を省略したことに基づき、各毛の血液型の対比を度外視した限定的判断にすぎないということでもあるし、さらには同鑑定人において各毛が同一人物に由来するかどうかの判断基準として重視している「黄菌毛」についての見解には、その点に関する鑑定人須藤武雄の見解――同年一二月二二日付鑑定書、証人須藤武雄に対する同月一二日付受命裁判官の尋問調書、鑑定人兼証人須藤武雄の当公判廷における供述――に照らして疑問の点があることなどの諸点よりして、必ずしも右のような「須藤鑑定」の結果を左右するほどのものではないと思料される)。

(三)、以上によると、キヨ子の陰部から被告人に由来する陰毛と推定される毛一本が発見されたことになり、これのみにより直ちに犯人と被告人とを結びつけることはできないまでも、これによつて本件犯行が被告人とキヨ子との男女関係に関連する事案ではないかと窺い知ることができるといいうるので、他に右関連を自認する信用するに足る自白がある本件のような場合においては、その自白を裏付ける補強証拠として被告人の本件犯行を証明する証拠価値を有するものと認めることができよう。

四、情況証拠について

検察官によると、被告人が犯人であることを窺わしめる情況証拠として、被告人には先に「本件捜査の経緯」で述べたような不審な言動がみられること、アリバイもなく本件犯行時間帯の頃に利則方へ立寄つた可能性があることなどのほか、その右手首に本件犯行の際に利則から包丁で斬りかかられて受傷したものと思われる傷跡が認められることを挙げているところ、被告人においては、右傷跡は昭和四三年八月三〇日頃単車を運転していて道路脇の土手下に転げ落ちた際竹の切株で受傷したものであると弁解しているので、この点について判断するに、被告人の身体を検分した城哲男作成の鑑定書(昭和四四年七月二二日付)や第一五回公判調書中証人城哲男の供述部分によると、被告人は外傷瘢痕が著しく残遺するケロイド体質者であること、被告人の右前腕伸側手関接に拇指側寄り三分の一の部位に上下方向に長さ約五センチメートルの極めて細い線状の外傷瘢痕があり、その受傷後の経過日数は判然としないが、その性状は鋭利な刃先又は刃尖にて擦過されたもののようであることなどの事実が認められ、さらには被告人が弁解するところに従つて証拠調をなした結果(証人春別府稔に対する受命裁判官の尋問調書など)によるも、被告人が昭和四三年九月三日頃、単車を運転中の自損事故によつて受傷し、同日から同月一〇日まで鹿児島県大崎町野方の医院に入院したことはあるけれども、その際の受傷状況として刃物によると思われる前記のような傷を右手首に受けた事実はないと認められる(春別府稔作成の「国民健康保険診療録」と題する書面には、被告人の受傷内容につき「頭・頸・左腕部打撲症及び顔面・左胸部・右前腕擦過傷」との記載があるのみであるところ、証人春別府稔に対する前記尋問調書によると、そこに記載してある「擦過傷」には「切創」は含まれず、また右書面には被告人の身体に認められたすべての傷を洩らさず記載してあるというのであつて、被告人の供述中これに反する部分はにわかに措信し難い)ので、これらによると、被告人の右手首には刃物によつて受傷したと思われるような傷跡のあつた事実が窺われるので、この点は、本件犯行に至る際利則から包丁で斬りかかられ本件犯行に発展していつたとする被告の自白とあいまち、被告人が本件犯行を敢行した犯人であることを裏付ける一つの情況証拠として評価することができよう。

五、結論

以上のような被告人の自白、物的証拠(陰毛)、情況証拠を総合すると、被告人が本件の犯人であることを肯定するに十分であると判断される。

第二、本件犯行の内容について

一、犯行日時について

本件犯行がいつ行われたのか、その日時については、被告人の自白以外にこの点を明らかにしうる直接証拠は何もない実情にあるのである。

しかしながら、久留ウメの検察官および司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の実況見分調書(昭和四四年二月二〇日付)のほか利則の足どりに関する前掲の各捜査報告書などによると、昭和四四年一月一五日、下高隈町内の久留ウメ方に立寄つた利則は、同所でテレビを見ながら飲食したりして、午後八時一五分~二〇分頃、単車に乗つて同人方を辞しているが、この後の利則の足どりについては、付近の家に立寄つた形跡がなく、またその姿を見かけた者もいないことが認められ、これによると、利則はそのままどこにも立寄らずまつすぐ帰宅したのではないかと考えられ、その場合、久留方から利則方までは一本道の県道を通つて約二、一〇〇メートル余の距離である(司法警察員作成の「被害者折尾利則が殺害された昭和四四年一月一五日夜の行動コースの実測および所要時間の確認について」と題する書面)から、時速約二五キロメートルの単車で走行すると、約六分で帰宅しうることが認められるので、同日午後八時一五分頃に久留方を辞したとすると、午後八時二〇分頃には帰宅しえたことになり、同人はその帰宅時刻以降に殺害されたということができ、さらには右実況見分調書によると、本件発覚当時同人の左手首にはめられていたカレンダー付腕時計(昭和四四年押第八六号の4の12)はそのガラス部分や短針・長針がいずれも破損し、それらは同人の死体のある六畳間内の各所に飛散していたことが認められ、その状況からして、この時計は本件犯行の際に受けた打撃によつて停止したものであると推認され、また右時計のカレンダー表示が一五日から一六日にかかつて停まつていることやその内部構造の破損停止状況から、右打撃が加えられたのは一五日午後八時頃から同日午後一二時頃までであり、この打撃により右時計が停止したものと推定される(上迫和典作成の鑑定書)ので、それが当時利則において現に日常の用に供していた時計でありその日付や時刻がほぼ正確に合わせられていたものと推認されることともあわせ考えるとき、この時計から窺いうる右のような停止日時は、その時計が実際に停止した日時を示しているものと考えるのが合理的であり、以上を総合すれば、利則は一月一五日午後八時二〇分頃から同日午後一二時頃までの間に殺害されたものと判断され、これに反する証拠はないので、利則に対する犯行が行われた日時は、被告人の自白どおり、一月一五日午後九時頃と確定するのが相当であると判断される。

次にキヨ子についても、善福時義の検察官および司法警察員に対する各供述調書や同女の足どりに関する前掲の各捜査報告書などによると、同女は、同日午後六時頃近隣の善福方を訪ね、自宅へ帰る旨告げてすぐ同所を辞去しているが、その後については同女が付近の家に立寄つた形跡もなく、また同女の姿を見かけた者もいないことが認められ、これによると、キヨ子はそのままどこにも立寄らず帰宅したのではないかと考えられ、右善福方は利則方のすぐ近隣にあるので、同女はその頃帰宅し、その帰宅時刻頃以降に殺害されたことということができ、さらには、城哲男作成の解剖鑑定書(昭和四四年二月五日付)、第三回公判調書中証人矢野勇男の供述部分、司法警察員作成の実況見分調書(同年二月二〇日付)などによると、キヨ子の胃内には米飯、うどん、菜葉などの消化程度の著しくない食物残渣等約六五〇ミリリツトルが認められ、他方利則方居間にあつた釜には米飯が、鍋にはうどんや菜葉の煮付けなど右食物残渣と一致する物がそれぞれ残つていたことが認められるので、同女は殺害前自宅でこれを食べたと推認されるが、その食事をした時刻は、利則の殺害された後であつたとは到底考えられない(利則が六畳間で殺害され、その血痕が室内の四周に飛び散り、現に同人の死体がある同家屋内でこれを意に介さず食事を取るなどということは通常考えられないことである)ので、利則の前記殺害推定時刻からして、同女は、遅くとも同月一五日午後一二時頃以前の時点で食事をとつていたと思料され、同女の胃内残存物の消化程度が食後約一~二時間を経過したものであること(第三回公判調書中証人矢野勇男の供述部分)をもあわせ考えると、同女は遅くとも同月一六日午前二時頃までには殺害されたことになり、以上の点を総合するとき、同女は同年一月一五日午後六時頃から翌一六日午前二時頃までの間に殺害されたものと考えられ、これに反する証拠はないので、同女に対する犯行日時についても、結局のところ、被告人の自白どおり、一五日午後九時過ぎ頃であると認定するのが相当であると判断される。

二、凶器(馬鍬の刃)について

被告人の自白によると、利則やキヨ子の頭部を殴打するのに使用したという凶器は、押収してある長さ約三三・七センチメートル、重さ約三〇〇グラムの馬鍬の刃(昭和四四年押第八六号の3)と同種のものということになつており、城哲男作成の右押収物についての鑑定書(同年七月一四日付)や被害者両名の死体についての各解剖鑑定書、第一七回公判調書中証人牧角三郎の供述部分、牧角三郎作成の鑑定書(昭和四八年二月二二日付)、鹿児島県警察本部長作成の「鑑定鑑別結果について」(昭和四四年八月二三日付)と題する書面中矢野勇男作成の鑑定書部分などによると、これによつても被害者両名の頭部などにみられる各挫裂創をいずれも生成可能であると認められるところ、この馬鍬の刃それ自体は、捜査当局が昭和四四年一月一九日から同年七月一八日までの間、前後一八回にわたり、延べ約二〇七名の捜査員を動員して利則方から被告人方に至る道路やその付近一帯などを捜索した結果によつても遂にこれを発見するに至らなかつた(司法警察員作成の「折尾利則夫婦が殺害された事件につき、被疑者が犯行に供した凶器および犯行時着用していて血痕の付着する衣類の捜査について」「被疑者船迫清が折尾利則夫婦を殺害した凶器(まんがの子)等に対する捜査について」と題する各書面など)というような若干の問題点がないわけではないが、その問題点について被告人の述べているところによると、被告人は本件犯行後その馬鍬の刃を利則方付近に駐車してあつた前記自動車の荷台に乗せて帰宅する途中どこかで紛失したということになつているので、走行中の同車荷台から右馬鍬の刃が紛失する可能性の有無についての司法警察員作成の実況見分調書(同年七月一六日付)、「被疑者船迫清が折尾利則夫婦を殺害した凶器(馬鍬の子)が当時被疑者が所有していた軽四輪貨物自動車より走行中地上に落下するか否かの実験について」と題する書面などを検討するに、当時被疑者が乗つていた自動車の左側後部荷台には、後方から約二六センチメートル~約三七センチメートルにわたる部分にほぼ「コ」の字型のような腐蝕穴があり、本件の凶器それ自体と同種と思われる長さ約三三センチメートルの馬鍬の刃を同車の荷台に積み込んで実験した結果によると、その先端部を右腐蝕穴につつかけて同車を走行させた場合その穴から地上に落下することもありうることが認められ、夜間照明設備もない暗い状況下で馬鍬の刃を同車荷台上に置いたというのであつてみれば、気付かずにその先端部を右腐蝕穴につつかけて置いたという可能性も十分にありうることというべく、利則方から付近県道を北上して福岡バス停留所で左折して被告人方へ行くコースがその距離約一・六キロメートル余で、その間に山林・谷・藪等のある山道とも言うべき非舗装道路であつたこと(司法警察員作成の実況見分調書――同年二月二〇日付、当裁判所の検証調書――昭和四八年一二月一三日付など)を考慮すると、右コースを走行する間前記自動車の荷台から地上に落下した馬鍬の刃が道路脇などへ転り込むことも充分にありうることと考えられ、そのような場合、それを発見することはそれほど容易ではないために、右の程度の捜索によつてその凶器たる馬鍬の刃が発見されなかつたとしてもそれをもつて直ちに不自然とか不合理とかまではいいえないと認められ、右のような証拠関係を総合するときは、結局のところ、被告人が被害者両名の頭部などを殴打するのに使用した凶器は、その自供どおりの馬鍬の刃であつたと認定するのが相当であると判断される。

第三、本件犯行に至る経緯について

検察官によると、本件犯行の直前頃、被告人とキヨ子は利則方で同衾していたものであり、その際利則が帰宅したため、本件犯行へと発展した旨主張するので、この点についての当裁判所の判断を示しておくこととする。

(一)、陰毛の存在

まず、被害者キヨ子の陰部から被告人に由来するものと推定される陰毛一本が発見されたという前述の事実をどのように評価するかであるが、この事実から、同女がその殺害される以前左程日時の遡らない頃に被告人と肉体関係を持つべくどこかで同衾したことがあつたとの事実を窺うことはできたとしても、屋外に粗末な入浴施設しか持たない実情(実況見分調書等参照)にあつた被害者方の生活実態等をも考慮するとき、そのような同衾の事実があつた時期につき、右以上に限定された「本件犯行の直前頃」であるということをまでは、必ずしもよく推認しうるものではないと思料されるのである。

(二)、死体の状況および犯行現場の状況

司法警察員作成の実況見分調書(昭和四四年二月二〇日付)、城哲男作成の各解剖鑑定書、鹿児島県警察本部長作成の「鑑定鑑別結果について」(同年六月三日付)と題する書面中の矢野勇男・大迫忠雄作成の鑑定書部分、牧角三郎作成の鑑定書(昭和五〇年一月三〇日付)、久留ウメの司法警察員に対する供述調書などの証拠によると、被害者キヨ子の死体には、膣内やその着衣から精液が検出されず、この点からは右のような同衾の事実をめぐる判断に資するこれといつた資料は得られないが、その発見当時、キヨ子の死体は、自宅六畳間のやや西寄りに比較的整然と敷かれた敷ぶとんの上にその上半身を横たえていたことが認められ、その状況よりして右のふとんは同女が殺害される以前から敷いてあつたもので、それも寝床として敷いてあつたものではないかと窺われること、その死体にみられる着衣――シヤツ・セーター・肌襦袢・一重の寝巻(同号の7)。腹巻など――の様子からして、キヨ子は殺害される際寝姿をしていたと思われること、下半身には下着を何も付けず、同女が殺害される前着用していたと思われる股下やパンツが同女の死体左下肢の下方にそれぞれ裏返しとなつてまるめられていたことが認められ、これらの状況を総合するとき、同女は、殺害される直前頃、誰かと肉体関係を持とうとしていたのではないかと窺われるのではあるが、同人方家屋内の状況からは、その相手たる男性が被告人であることを示すものは何もなく、むしろ六畳間にあつた同女の夫である利則の死体がその上半身にシヤツ二枚、腹巻、カツターシヤツ、チヨツキを、下半身にパンツ・ズボン下二枚・タビツクス(左足)をそれぞれ着用するも、帰宅前久留ウメ方で着用していたと思われる黒色ジヤンバーやベルト付作業ズボンを着用しておらず、これらは同死体の右肩辺りに脱いだ状態で放置してあつたことが認められ、それらの様子よりして、その相手たる男性とは夫利則のことであり、利則においては、キヨ子とともに寝床に就いて肉体関係を持つべく、その着衣を脱ぎつつあつた頃、本件犯行により殺害されるに至つたと推認するのが相当ではないかと思われる節が強いのである(少なくとも、利則がキヨ子とともに寝床に就こうとしていたことは充分推認される)。

(三)、被告人の自白

被告人の自白中キヨ子と同衾しているところへ利則が帰宅して本件犯行に発展したとする部分は、検察官の前記主張に副うものではあるが、その供述内容は利則とキヨ子がともに寝床に就こうとしていた事実を否定しているばかりか、次の諸点において重大な疑問がある。

1.まず、被告人の自白によると、キヨ子から被告人に肉体関係を求めてきたというのであり、女性の方から男性を誘つたという点においてすでにいささか奇異な感じがしないでもないが、その誘つた時刻が午後八時二〇分過ぎ頃、場所が自宅というに至つては、同女としては、夫の帰宅が充分予想される時間帯や場所において間男との同衾を自分の方から求めたということになつて極めて不自然であり、さらにはそのような状況に至るまでの経過としても、しばらく被告人と世間話をしていただけで、これといつたきつかけもないのに突然情交を迫つてきたということになつているのであるが、同女が男狂いでかかる非常識な行動もしかねない女性であるとでもいうのでないかぎり、被告人の自白中右のような内容を述べている部分は、極めて不自然で疑問点が多いと言わざるをえない。

2.次に、被告人の自白によると、午後八時過ぎ頃利則方を訪れた際、自分が運転してきた自動車を同人方木戸口付近に停めておいたというのであるから、その後に帰宅してきた利則としては、当然右自動車に気付くはずであり、仮にそれが被告人の車なることが判らなかつたとしても、その車の停車していることから、誰か男の客が来ていることに思い至つたはずであると思われ、しかも帰宅した利則が入口から家屋内に入つた時には、居間に客やその応待にあたつているべきキヨ子の姿が見えなかつたというのであるから、帰宅後の利則の行動として、不審に思つてともかく家屋内を探すなりのことがあつてもよいはずであると思われるのに、実況見分調書などによつて明らかにされている現場の客観的状況から窺い知るところによると、かえつて、同人は帰宅後、炊事場付近の土間で地下足袋を整然と脱ぎ、続いて居間で帽子・軍手・靴下・ジヤンバー・ズボンなどを脱いだことになつていて、その自白内容には、自白以外の証拠によつて明確にされている客観的事実との間に矛盾ないしは符合を欠く点があり、疑問が多い。

3.さらには、被告人の自白中、キヨ子との同衾に関して述べている部分はその内容に曖昧な点があるだけでなく、当初の「同女から肉体関係を求められ、一旦は断つたものの、なおも強く誘われたため遂に一緒の床に入つた」との供述―→「断つた」との供述―→前同旨の供述―→「ズボンを下げて関係した」との供述―→「一旦断つたが、強く誘われたため、ズボンを下げ陰茎を出して同女の上に乗つた」との供述というように、その都度微妙な変転を示しているほか、これにともなつて、利則が帰宅したときの状況について述べている部分にも微妙な供述の変転がみられるのであるが、そのような供述の変転をみたことの理由につきさしあたつてこれといつた合理的説明もなされていない実情にあるのである。

以上によつてもすでに明らかな如く、被告人の自白中「キヨ子と同衾しているところへ利則が帰宅してきた」として種々供述している部分は、その内容に客観的状況と一致しない点や曖昧な点があるなど疑問の点が多く、加えて微妙な供述の変転もみられ、信用し難いものがあると言わざるをえない。

(四)、このようにみてくると、検察官が被告人の本件犯行に至る経緯として主張するような「被告人とキヨ子が同衾中帰宅してきた利則において右同衾を発見したことから本件犯行に至つた」との事実は、証拠上いまだこれを認めることができず、この点についてはかえつて判示のような経緯であつたと推認するのが相当であると判断される。

第四、被告人のアリバイについて

被告人・弁護人は、先に判示した本件犯行のあつた昭和四四年一月一五日夜の被告人の行動は、脇かづ子方で籾を買うため、午後六時三〇分頃、前記自動車で自宅を出発し、午後六時四〇分頃、町内の同人方に着き、そこでしばらくテレビを見たりしてから籾一俵を同車に積み込み、午後八時一〇分頃、同人方を辞し、その後町内の山下吉次郎方や吉原君子方を訪れ、午後一〇時頃、自宅に戻り、食事をして就寝し、翌朝まで外出しなかつたものであり、被告人には本件犯行につきアリバイがある旨主張している。

そこで、同月一五日夜半の被告人の行動について検討するに、証人船迫ヨシ・同脇かづ子に対する当裁判所の各尋問調書、船迫ヨシ・脇かづ子の検察官および司法警察員に対する各供述調書、第七回・第八回・第二六回公判調書中被告人の各供述部分、被告人の当公判廷における供述、鹿屋市長作成の「捜査関係事項照会書(回答)」と題する書面、輝北町長作成の「捜査関係事項照会書について(回答)」と題する書面、検察事務官作成の電話聴取書(昭和四八年五月一七日付)を総合すると、被告人は、同日、前記脇方で籾を買おうと、午後六時三〇分頃、前記自動車で自宅を出発し、午後七時前頃、同人方に着き、しばらくテレビを見たりして後、午後八時過ぎ頃、そこで買つた籾一俵を同車に積み込み同人方を辞していること、しかるに被告人が自宅に戻つたのはその後約二時間を経た午後一〇時過ぎ頃であり、その後食事をして就寝し、翌朝まで外出しなかつたことがそれぞれ認められるところ、司法警察員作成の「被疑者船迫清が折尾利則夫婦を殺害した昭和四四年一月一五日夜の行動のコースの実測および所要時間と同コース範囲の人家につき一月一五、一六の夜船迫清の立回りと被害者折尾利則方に出入したものの割出・犯行時間帯の特定について」と題する書面によると、被告人がそのまま右脇方から県道を通つて福岡バス停留所を経るコースをとると自宅まで約三、八〇〇メートル余りであり、時速約三〇キロメートルの自動車で走行すれば約一〇分で充分帰宅できる距離であることが認められるので、同日の午後八時過ぎ頃から午後一〇時頃までの間の被告人の行動について、脇方から帰宅する途中どこかに立寄つたのではないかということが問題となるのであるが、右帰宅途上にある利則方以外の各人家につき捜査するも、被告人が立寄つた事実はないことが判明(前掲「本件捜査の経緯」中被告人のアリバイに関する各捜査報告書)しているほか、被告人が同時間帯に前記山下方や〓原方へ立寄つて家人と面談した旨を述べる第七回・第八回・第二六回公判調書中被告人の各供述部分、被告人の当公判廷における供述は、一様に同時間帯に被告人が右山下方や〓原方へ立寄つて家人と面談したとの事実を否定している証人脇別府ツギ・同山下〓次郎・同山下ミカ・同〓田正・同〓原君子に対する当裁判所の各尋問調書、第一三回・第三〇回公判調書中証人〓田正の各供述部分や同夜午後八時過ぎ頃、町内の新原清則方付近県道上で、右脇方より県道に出て、右山下方や右〓原方とは反対方向である折尾利則や被告人方の方向に向かつて走行する被告人運転の前記自動車に遭遇し、同所より利則方方向に向かう県道上を約七〇〇メートルの間同車に同乗させてもらつたという証人小倉肇に対する当裁判所の尋問調書、小倉肇の検察官および司法警察員に対する各供述調書、当裁判所の各検証調書(昭和四八年三月一三日付、昭和五〇年七月五日付)などに照らし、にわかに措信し難く、かえつて、右各証拠を総合すると、被告人・弁護人が前記脇方を出て後帰宅するまでの間の被告人の行動として主張するところは、同月一七日午後五時頃から午後八時頃までの被告人の行動と一致することが認められ、結局被告人・弁護人の右アリバイの主張は被告人の同月一七日夜の行動を同月一五日夜の行動にすりかえたものではないかと思慮され、採用することができない。

よつて主文のとおり判決する。

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